コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■ラスコー展:⑧思ったこと 考えたこと 学んだこと 人の思考について

 ラスコー展もすでに終わってしまいましたが、長々と感想をレビューしてきました。最後に、これらの展示から、そしてその後、周辺の情報を調べたりして、自分が考えたことや思ったこと、学んだことをまとめて終わりにしたいと思います。⇒■ラスコー展:⑦ラスコーのクロマニョン人の位置づけを地球館で調べてみた の続きです。

 

 

■ラスコー展のテーマ

ラスコー展が問いかけていること、それは「芸術のはじまり」についてでした。

人類はいつから絵を描きはじめたのか?

「人類最古の芸術」「クロマニョンの正体」を解き明かしていこうということです。

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ここで思ったのは、ラスコーの壁画が「人類最古芸術であるという誤解が生まれてはいないか・・・ということでした。

 

これと同じようなことを感じている方がいらっしゃいました。

解剖学と芸術: 科博『ラスコー展』感想より

同展の売り文句のひとつ「芸術はいつ始まったか」である。当然ながらこれら洞窟壁画の古さがそう言わせるわけだが、この言葉は見る人たちを誘導してしまう危険性がある。つまり、これら壁画や小品たちが「人類の芸術活動の最初期のもの」であるという錯覚を抱かせるのである。

 

確かに、私も見る前に、そう思ってしまいました。知識がある人は、ラスコーの壁画が最古ではないことは知っているのだと思いますが、ラスコー展の情報を見ると、これが最古の壁画で、それを「芸術のはじまり」と位置付けてスタートしている展示。と理解してしまいました。それゆえに足を運ぶことに躊躇させられていたところがあったわけです。しかし、実際に訪れて展示を見れば、そういうことを言っているわけではないことは、すぐにわかりました。

 

これは、一種の「キャッチ」だったんだ・・・・と。考古学的、科学的なアプローチだけでなく、美術ファンも引き付けるためには、この言葉は訴求しやすく、人も集めやすいということだったのでは?・・・と。

 

人の興味が「何によってもたらされるのか」・・・・ということに興味を持ってきたのですが、その反対に「何によって失わされるか」ということが今回は見えて面白いと思いました。

 

思考の違い・・・ 芸術的側面から物事をとらえるアプローチと、科学的視野から捕らえる習慣の違いといえばいいのでしょうか。着眼する部分の違いを感じさせられました。科学からとらえがちな人(ここでは、科学ということよりも、感覚的な脳の発達段階に着目する人)に対しては、どうも観念的な印象を抱かせ、興味を失わせてしまう(私にとってかもしれませんが・・・?)ように感じていました。

 

 

■人によって違うとらえ方

ラスコー展の感想を友人に話しました。

「ラスコー展、なんだか芸術の始まりみなことを掲げているんですけど、私はそうは思わなかったんですよね。単なる記録伝達だと思うんです。」

 

それに対して、「そんなのあたり前じゃない! いきなり芸術は、始まらないでしょ。最初は記録することからっていうのは、当たり前のことなんじゃない?」 (やっぱり同じことを考える人がいました・・・・・)

 

「ですよね~ ヒトの進化を考えたら、芸術的な脳がいきなりは始まらないですよね」という会話をしていました。友人は理系、文系で言えば文系よりですし、芸術よりの感性の人です。でも、この部分については同じ捉え方をするんだ・・・ というのが私にとっては意外なことでした。美術好きの人は、ラスコー洞窟を芸術としてとらえるところから入っていくものとばかり思っていたので・・・・

 

 

■研究者のジャンルもいろいろ

それと同じように、研究者も、芸術側の人もいれば、考古学の人、科学の人。いろいろなジャンルの人たちがいて、それぞれのベースに持っているものが違うはずです。そのベースを元に研究しているため、捉え方も違う。ということが、調べてみると見えてきました。まだまだ、研究途上でいろいろな言説がある。それらを知ってまた、自分で考えてみるという楽しさがあると思いました。 

 

人の思考を作るベースの傾向があって、「なぜその人がそのように考えるのか、捉えるのか・・・・」簡単に言ってしまうと理系か、文系かといったステレオタイプな分け方をして判断して納得するところがありました。その方がどんなジャンルに帰属してきたかというプロフィールが参考になります。しかし理系、文系というカテゴライズされた領域とは離れてとらえる人たちもいるのです。

  

こんなことを言われている方がいらっしゃいました。

 

洞窟壁画・ネアンデルタール人論9 -

     ネアンデルタール人は、ほんとうに滅んだのか より

 

たとえば洞窟壁画のこと、多くの人類学者が、それが生まれてきたのは知能が発達したからだとか、アニミズム(呪術)の目的で描かれた、というような安直な思考しかできない。(略)そうして、ただの模様のような絵を呪術師トランス状態に入って描いた絵だとか、じつに幼稚でくだらない解釈をしている。

 つまり彼らはそれを集団運営のためのモニュメントか何かのように考えていて、人間が絵を描くのはどういうことかという本質的な問いがすっぽり抜け落ちている

そんなもの、ただなんとなく描きはじめただけでしょう。人類の壁画の歴史はそこからはじまっているわけで、べつにアニミズムとか狩のための集団運営の目的で描きはじめたわけではない。絵を描くよろこびがあった、それだけのことです。それだけのことだが、それこそが彼らの暮らしや心模様に推参するためのもっとも重要な問題なのです。

 

まさに意を得たり! でした。原始の欲求ってこういうものだと私も思います。まずはそこから始まって発達するのだと思うのです。

 

こちらの方は、美大を1年でやめたという経歴の持ち主で、著書もお持ちの方です。⇒山本博通氏プロフィール

 

 

〇専門家の見解 (地球館ビデオより)

Q 角器が洞窟で発見される理由は?

  ↑ 呪術行為と考えられるってことなのか・・・

 

 

Q クロマニョン人は洞窟の内部に住んでいたのか?

   ↑ 洞窟の奥は、儀礼を行う時に利用していた・・・

    クロマニョン人の住処は、野外にもあったけど、みつかりにくい。

    それはあるかも・・・

 

 

Q どのような目的で壁画を描いたのか?

  ↑ 第三説             ↑ 第四説 ★★★(私の指示マーク)

 

私は4番目の説を支持したいな・・・・(笑) と思いました。

 

というように、ラスコーよりも古い洞窟壁画やその他の地域の壁画の研究者は、宗教的、呪術的な絵と解釈されている傾向が読み取れます。

 

 

■ 私の見解は・・・

やはり私は、宗教儀式や呪術などの前に、前段階があると思うのです。ただなんとなく、描いてみた何かを描きたくなったから描いた。その原始の欲求の段階を必ず経たうえでの「記録であり伝達」、そしてのちに「宗教的儀式、呪術、シャーマン」というステップを踏むのだと思うのでした。⇒【*1
 

ただ、生き物は、突然変異を起こします。そのためある集団においては最初から、芸術的な絵を描けたということは、起こりうると思うので、そこの部分にスポットをあてると、クロマニョン人は、最初から高い芸術性を持っていたという理解になるのではと思うのでした。

 

 

■監修者の言葉から

そして、監修者がTwitter次のように語っています。

「人」「人でない」 その境界は何か?  「芸術」は「人にだけ」に存在する。ならば、進化において「『人』と『人でない』を分けている『芸術』というものをどうとらえたらいいのか」「どういう『行為』を芸術と理解し、人として認めるのか・・・」長い人類の歴史を全体の流れの中で見て「人に変わった時」そこに芸術の「ある・なし」をどう判断したらいいのか・・・・ 新たな問題を感じました。

 

「ラスコーのような洞窟は、ほかにもその一帯にいっぱいある」ということは、展示でもセミナーでも紹介されていました。他の洞窟ではどんな絵が描かれていたのでしょうか? そして、その描かれた洞窟の前後関係、時代性は、ラスコーとどういう関係なのでしょう。地球館の展示で少しだけわかりました。ラスコーは、これらの洞窟群の中ではどのあたりの時代に位置するのでしょうか? まだそれぞれの壁画の時代を具体的に調べていないのでわかりませが、ラスコーよりも古いものはあることから、ラスコーの壁画が世界最古ではないことは確かです。

 

また、ラスコーの展示からは、まだ埋もれていて発見されていない壁画もあるだろうということがわかりました。あるいは、日本のような酸性土壌のような場所では、残っていないため存在がわからなくなっている可能性もあると言います。作品が存在しているかどうか、についてもどうとらえたらいいのでしょうか?

 

 

■世界最古とは?

となると世界最古をどうとらえたらいいのでしょうか? 現存するものの中で考えるのか・・・  まだ見つかっていない壁画についても想定するのか。現状、ラスコーの壁画は、保存状態がよく、質もよいため、そしてあまりにも有名になってしまったので、一般の人の間では、それが世界最古と錯覚してしまう面があります。

 

 

■芸術とは何か?

この展示で投げかけられた芸術の始まりは? という問いには、「芸術」とは何かという大命題が裏にあることに気づきました。「何か絵を描いた・・・」 それだけで「芸術」といえるのか。 

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芸術の始まりは? に対して「絵」をいつから描いたのか。と受けています。これは、絵を描くこと=「芸術」を意味しているのか・・・   どこかで絵が描かれていればそれが「芸術」のはじまりと理解していいのか。あるいは、単なる「絵」が「芸術」になるための要素というのは何なのか。「芸術」とは、いったい何を持って「芸術」というのか・・・・ その解釈によっても「芸術」のはじまりが「いつ」「どこで」という議論は違ってくるのではないか? と思ったのです。

 

展示を見ながら成り行きで、自分なりの解釈が出来上がっていました。「芸術のはじまりとは」⇒【*2生活に直接、必要のない絵を描き始めた時。それが私の「芸術のはじまり」の理解でした。

 

しかし、それぞれの「芸術」のとらえ方は違うはずです。語る人たちは、何を持って芸術とと考えているのでしょうか?

 

 

■今につながる手法も見たままにすぎない?

ラスコーの壁画の中に、遠近法のテクニックを見つけました。あるいは、日本画的な遠近法や、描かないことでの広がり、壁面の凹凸に合わせた描写など・・・ これに気づいた時、これこそが芸術のテクニックの発現で『芸術のはじまり』だと私なりに理解しました。ラスコーのクロマニョン人の芸術性をみつけたぞ! という気になっていました。⇒【*3

 

そして、意気揚々と、「ラスコーの壁画に、日本画の技術をみつけたんですよ~」なんて話していました。

 

すると・・・ 

「今の人たちは、壁画を見て遠近法だとか、日本画の手法だとかそういう理屈をつけてしまうのかもしれないけど、ラスコーの時代の人は、単純に見たまま描いただけのことなんじゃない? 空気遠近法だって今は、わかっているから物理的な理由づけをして解釈したりするけど、見たまま描けば、遠くのものは薄ぼんやり見えるでしょ。ただ、それだけのことだと思うわ。牛だって、近くの牛は大きく見えるし・・・・ ラスコーの人たちは、見たまま描写しただけなのに、現代人はそれに理屈づけしてるだけのように思える・・・」

 

なるほど・・・・  原始の欲求ってそういうものなのかもしれません。見たまま描いたら、たまたま、今に通じるテクニックになっていた。それが積み重なって、それらしい表現方法になっていった・・・・ では、どこからが芸術なのでしょう。

 

 

■「芸術」は定義ができる?

そこで、「芸術とは」・・・ということについて調べてみました。やはり、この言葉の定義というものはなさそうです。いろいろな方がいろいろに言われています。そして、今の時代をとらえた芸術論に留まっているだけだったり・・・ 「原始の絵」という視点から言及されている方もいらしたり・・・・

 

目に止まった方のとらえ方をリストアップさせていただくと・・・・

 〇芸術とは何か?

 

「芸術とはなにか?」についての基本的なおはなし -

    アーモステクネドットエックスワイゼット より 

つまり芸術という概念は、食文化でいうところの食欲・料理・和食・寿司という様な階層が整理されずに語られてしまっているのだということ(そこには発見・編集・体系・個体という階層の違いがある)。

このようにどの階層に立脚して捉えるべきか定かでは無い対象(逆に言うとどの階層からも接続できてしまう概念)は、いろいろな意見が階層をまたいで語られてしまうので、基本的によくわからなくなってしまいます。

対象を見る上での価値基準が人によって違うのは当然だとしても、それをそのままに議論していては人類全体の共有知というモノを編集することは出来ません(自分が食べたいモノを主張し合っているだけでは食文化は立ち上がらない)。

それを解決する為には個人の基準よりも高い次元で物事を捉える(「今この場で合理的に調達できる食材及びその調理法とは何か?」)必要があり、それを可能にする為にはまず立脚するべき階層を整理しなければならないのです。

 

▲ 物事には階層があると言われており、どこから「芸術とよぶのか」という問題は、この階層を整理して把握した上で語らないから、かみ合わない議論になってしまうというのは、納得です。

 

 

まずは階層を整理し、進化生物学的視点から芸術という概念をとらえ直せば、芸術関係者はもちろんのこと、自分には関係ないと思っているような外部の人々にも芸術という概念を開くことができるのではないかと、そう考えています。 

 

▲芸術領域からアプローチする研究者は、進化生物学的視点に欠けているのでは? と感じていたところでした。 そして私の場合は、ここで言われているように、進化生物学的に語られることによって、興味を抱き、芸術という概念を考えだした一人です。

 

 

ちなみに芸術の階層を先出ししておくと

* 好奇心
* 教養(一次創作・個人のデータベース)
* 文化(二次創作・集団のデータベース)
* 芸術(n次創作・人類のデータベース)

 

▲芸術を具体的な「階層」に分けて捉えています。これだ! と思いました。「なんとなく描いていた。描きたい欲求から描いた。」この段階は果たして芸術と捉えることができるのか? そのあたりがわからずにいたのですが、「芸術」の階層段階の初期ととらえればすっきり整理ができます。

 

ただ自分の中で矛盾がありました。実際にラスコーの展示を見た限りでは、呪術や宗教的儀式のようなものは感じていませんでした。でもそういう側面はあってもおかしくないですし、時代が遡ってくれば、精神の進化もあると思うので、後期にはありえます。

 

実際にトリ人間の壁画が、洞窟のどんな場所に描かれたか。なかなか行けないような場所。一握りの人しかその場所には行っていないだろうこと。またその場所では、高度な技術で研ぎ澄まされたランプをわざわざ作り、さらに持ち手に文様を施す。そして、ストリー性のありそうな絵。そんな状況を総合すると、儀式的な絵であるだろうということは、納得ができます。

 

一方、矢が何本もささった牛は儀式というとらえ方がありますが、私は情報の伝達だと感じています。この受け止め方の違いの説明が、自分自身にできませんでした。が、上記の芸術における階層というとらえ方を見て納得しました。

 

 

間違っているかもしれない仮説の一つでしかないけれど、そんなこと言ってても何も始まらないのでひとまずそう「設定」した上で色々考えてみましょうか、というのが学問(このよく分らない世界で生きて行く為の方法やパターンを検証したモノ)の基本

 

ここまで書いてきたような事を土台にするので、基本的にここでは曖昧で未検証な内容であったとしても、説得力が積み上がりそうであれば積極的に採用します。つまりそれなりにフィクションを含む内容であったとしても、それをフィクションとしては扱わないかもしれませんので、予めご了承ください。 

 

▲展示からは、宗教的な儀式を感じなかったのですが、場面によってそれを受け入れてしまうことをどうとらえたらいいのか・・・ と思っているところに、説得力が積みあがりそうであれば、フィクションでもフィクションとしては扱わない。そういうことなんだなと理解しました。理解をするのに、根拠や理由を求めてしまいます。しかし、実証できる根拠でなくても、納得に値すると思える理由だったら、受け入れられるということなのでした。

 

 

実際に、漫画家、コラムニストの方の話には、共感しました。ラスコー展:夏目房之介の「で?」:オルタナティブ・ブログ

アニメーションの元祖でもある、という話があって、ホントカナー的な眉唾気分で聞いてたんですが、この展示をみて納得しました。絵はいずれもけっこう高い場所に描かれ、線刻され彩色されています。当たり前だけど洞窟だからいつも完全な暗黒。絵を描くだけじゃなく、見るためにも獣脂によるランプで照らさないと見えない。すると、あの凹凸のある洞窟のキャンバスは、炎の揺れ、光源の位置変化によって、線刻の影も変化し、複数の線刻は動いてみえる、ということなんですね。なるほど、古代人にとってこの視覚経験はほとんど幻覚的な呪術的なものだったろうと容易に推測。

 

▲漫画家という視点から、炎にゆらゆら揺れる絵を見る。というシチュエーションが提示されました。それは、幻覚的な状況がおこり、呪術的なことが行われていいるというのは、想像を容易にします。確証はできませんが十分、ありえるとことだと思います。そんなわけで、研究者が語る宗教的儀式だという解説に対しては、共感できませんでしたが、漫画家さんが示した理由によって宗教儀式には共感できる・・・・・ というのも、面白いことでした。違うフィールドからの視点というのが、理解の幅を広げさせてくれて、とても重要なのではないかと思うのでした。

 

 

そして千住博さんの芸術論 

芸術とは、常に枠を広げ変革していくこと。そして、時代に提言しつつ、革新的に創造していくこと。 | Mugendai(無限大)

少し歴史的に考えてみましょう。人類が地球に初めて登場したころ、言葉はしゃべれませんでした。偶然、鳥の骨を口にくわえて吹いてみたら、呼吸に合わせて悲しみや喜び、切なさ、孤独感などを表せることに気が付いた。そうした感情を何とか伝える術を手に入れた時が芸術誕生の瞬間でした。
その音を聞いた他の人たちが「私もそうだ」と思ったら、それが芸術的感動の始まりです。つまり芸術とは、表現することが難しい感情や気持ちを、人間の五感を通して何とかして伝達しようとする全体表現なのです。のちに絵画、音楽、文学などに細分化しましたが、人類の長い歴史の中ではすべてが一体になった総合的な表現であり、目指すところは1つでした。

 

▲これをラスコーの絵にあてはめると、どこからが芸術と言えるのかが、難しいですが、感情を何とか伝える術を手に入れた時」が芸術の誕生の瞬間。というのはなんとなく理解ができる気がしました。

  

 

 〇美の階層構造(美の感情の進化覚え1) ( アート ) - 目よ見るがいい - Yahoo!ブログ

 美の階層構造、そして感情の進化ということを言われている方がここにもいらっしゃいました。

要約:自然の中にみる階層。パターンの繰り返し。フラクタル図形。フラクタルは美しい。分岐の規則性はフラクタルだが変異あり。美しいと感じる対象物には階層性が見られる。これは物理的基準でなく心理的基準? 美は微細なものの集合。自然界の視覚対象物にはパターンを繰り返す階層性があり、変化の多様性が美を生み出す。⇒【*4】 ⇒【*5

 

 
 

 

■ラスコーの芸術について図解(私見)

以上のように主催者や研究者、美術家、漫画家、文筆家・・・・ さらに一般のブロガーなどさまざまな人の考えや意見などを参考にしながら、自分の考えをまとめてみると、こんな感じになります。 

  

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【A】グループは、我々の祖先、ホモサピエンスは、「できること」を「しない」という選択もあったということでした。そこで見たものをそのままずっと描き続けた人たち。そんなグループもあったのではと考えました。

 

【B】グループは、そこから分かれるように登場。【A】が描いたものを参考にしたり、(上書きしたり)あるいは、自ら試行錯誤しながら、絵に芸術性を次第に加わえていったグループ。時に突然変異がおこって飛躍的な進歩があったかもしれません。

 

【C】グループは、高度な芸術性を持っていて、生活に必要のない、なくてもいいような装飾品や、道具にも装飾を施しました。高度な機能を持つ道具にさらに、芸術性を加えていました。これは、突発的な突然変異によって、段階をふまない高度な芸術性を獲得していたのではないかと推察しました。

 

以上のように2万年前のラスコーのクロマニョン人にも歴史の幅があって(それがどれくらいかわかりませんでしたが)、その期間の進化と突然変異によってラスコーの芸術は成り立っていると考えました。(図では、ラスコーのクロマニョン人の年代を3万年前から2万年前と想定し、その期間の変化としてとらえました。突然変異が1万年というスパンでおこるのかは、確認しないといけないですが・・・)

 

このように考えると「どこの時点を芸術活動の始まりと考えるか?」ということになります。それが、研究者や人によって異なっているのではないかと感じています。

私は、生活に必要のない造作物を作ったり施したりした時点を、芸術のはじまりと考えました。

 

■ラスコー以前の洞窟

クロマニョン人:  4万数千〜1.45万年前(ヨーロッパにむ)
   フランスやスペインに、300以上の洞窟

 

4万年前    フマーネ洞窟(イタリア北部) (←最古?)

3万6000年前  ショーヴェ洞窟(フランス)1994年発見

2万年前    ラスコー洞窟(フランス) 1940年発見

1.8~1万年前  アルタミラ洞窟(スペイン)1879年発見

 

ラスコー洞窟は、クロマニョン人の歴史(2.5万年)からすると終盤であることがわかります。となると、クロマニョン人もこの間に進化していると考えたら、終盤のラスコ-のクロマニョン人は、もともと芸術性が比較的高いところから始まったグループだったと推察することもできます。

とすると、ラスコー以前の洞窟の絵は、芸術性を感じられる作品なのか・・・・ 実際にそれを見てみないとわからないと思ったのでした。

 

 

■「芸術はいつ、どこで誕生したか」(科博の答え)

「芸術のはじまり」に対する科博の答えです。

 

〇10万年前のアフリカのホモサピエンス

「芸術はのはじまりは?」という問いに対しての答えは、10万年前のアフリカで最初に出現したホモサピエンス。それは、世界を見渡した時、芸術的創造の能力が全世界に広がっていることから、アフリカから発祥した祖先に芸術的な創造の芽を持っていたから・・・・

 

〇一気にワープ?

クロマニョン人が生きた2万年、4万年という話から一気に、10万年前にワープしました。しかし、10万年前のアフリカの祖先の芸術は出土していません。芸術創造の芽を持っていたかもしれませんが、その作品を目にできていません。あるいは、芸術の創造の芽を持っていただけで、制作はされていない可能性の方が高いような気がします。作品を描いていないのに、その能力があるというのはどういうことなのでしょうか?

 

〇遺伝子の発見による変化

それは、遺伝子というタネに描かれていたということなのです。作品が「あるか・ないか」を問題としていないのでした。そこにずっと戸惑いを感じていたことがやっとわかりました。

 

いきなり10万年前のアフリカの祖先が芸術の始まり・・・・ と言われても、どうも飛躍しているようで、そこに連続性が感じられず、何か違和感を持っていました。それはその時代の「芸術の始まり」として確認できる作品がないからだったのです。

 

「芸術の始まりはいつ?」 ・・・・・10万年前のアフリカの祖先

 

その埋めようのない時間の違和感の原因がやっと理解できたように思います。

 

〇何を持って芸術? 新たな指標

何を持って芸術ととらえるのか・・・・ 遺伝子の解析によるプログラムという新しいとらえ方が加わりました。遺伝子という新しい判断基準ができたことによって、芸術の階層もまた、捉え方を変えないといけないのかもしれません。

 

私は、生活には必要のない意味のない飾りや道具。それを制作しようとする意欲を「芸術」ととらえ、その芽が見えた瞬間を「芸術のはじまり」ととらえたいと思いました。

 

 

■関連

*1:■ 研究者のいでたち
↑ このビデオを見て、最初どこからきた「おっちゃん」に見えてしまいました(笑)。現地の発掘を手伝っている人? スーツをビシッと決めて、学会か何かで発表している姿と、現場で発掘して泥まみれになりながら語る。ぱっと見の印象、一般的な説得力を感じさせられるのはどちらか・・・と言った時に、どんな情報を信じるか。それを発する人のいでたちや雰囲気によっても左右されてしまうこともありそうな気がしたのでメモ。
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*2:ラスコー展:芸術のはじまりとは
↑ それは、2万5千年という時の流れを生きたクロマニョン人。その時の流れのどこかのポイントにその芽があって、それは地域でも違うし、ラスコーだったのかもしれませんし、他の洞窟かもしれません。ただ、生きるためだけの生活に、意味のないことが加わるその瞬間が芸術の始まりなのだと思いました。

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*3:■ ラスコ―の壁画にみるテクニック
↑ 輪郭線を描かない 牛を手前に大きく描く 遠くを薄く はみだし手法 
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*4:■ 鈴木其一の朝顔図屏風のツルの規則性にみるフラクタル構造 ■ツルの規則性

 若冲のツルを見た時にも触れているのですが、生命の螺旋というのは、数学的な法則があると言われています。植物の葉の付き方や、音楽、自然界の音などにも存在し、それらは数式で表せるという話を、神津カンナさんだったか、神津善行さん主宰の音楽会で聞いたことがあります。


それと同じようなものなのでしょうか? 自然界にフラクタル構造 (⇒イメ―ジ画像)と言われるものがあります。図形の部分と全体が自己相似になっているものとされていますが・・・

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*5:■ 《夏秋渓流図屏風》もフラクタル構造を感じさせられました。