コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■東京国立博物館:特別展「空也上人と六波羅蜜寺」

50年ぶりに東京で公開される六波羅蜜寺空也上人」 会期も終了間近となってきました。少しずつ混雑も増えているようです。下見と情報収集のつもりでメンバーズカードで入館。急遽、鑑賞モードに突入しました。復習を兼ねてブログに記録。

 

画像の撮影ができないので、特別展「空也上人と六波羅蜜寺」のツイートを画像替わりに利用させていただきました。2章構成で、東博本館の特別第五室で行われています。展示仏の配置は下記の通り。ミニマムな展示ですが内容は充実しています。

 

 

 

■第1章:空也上人と六波羅蜜寺の創建

六波羅蜜寺とは?

・創設:平安時代半ば(1000年前)。
・951年(天歴5年):京都にはやり病が蔓延。
空也上人は疫病が収まるよう十一面観音菩薩立像を造像。
・西光寺を創建したのが起源。
・のちに六波羅蜜寺となる。

 

◆参考(六波羅探題

鎌倉幕府が京都の六波羅に設置した出先機関。1221年(承久3)の承久の乱の際、幕府軍を率いて上洛した北条泰時・時房は、そのまま六波羅の北・南の居館に駐留し、乱後の処理。これが六波羅探題の起源。幕府の執権、連署に次ぐ重職。朝廷との調整、治安維持、裁判を担った。

 

空也上人とは

平安時代中期の僧侶。
・「南無阿弥陀仏」と唱える阿弥陀信仰を広める。
・山林で修行をしながら各地を遍歴。
・橋梁や道路等の整備、行倒れた人を弔う。
・社会事業を行い、庶民から有力者まで信仰を集めた。

・10世紀半ば、京都東山に十一面観音像を本尊とする西光寺を開く
 (六波羅蜜寺の前身972(天禄3年)
・70歳で生涯を閉じる。

疫病退散として…その空也上人の祈りの遊行について、また創建当時の様子を1章で振り返っています。

 

1 空也上人立像

康勝作 鎌倉時代・13世紀 京都・六波羅蜜寺

・作者:康勝(鎌倉時代の代表「運慶」の四男)

・首から鉦を吊るし、たたきながら左手に鹿角杖を持ち歩く遊行僧
・頬がこけた痩身の体つきはリアル。
・念仏を勧めて市中を巡り歩いた上人の姿を彷彿とさせる。


・開いた口から木造の小さな阿弥陀立像が六体現れ出る。
空也上人が「南無阿弥陀仏」を唱えると、阿弥陀如来の姿に変じたとする伝承。

作品リストに全方向からの写真が掲載

右斜側面
・化仏⇒光量が少なく、細かい作りまでは確認ができなかった。
・台座に白い着色 ⇒これは何を意味している?

右側面
・衣紋の繊細さが場所によって違う。
・上部はちょっと粗い感じなのに対し、下部の襞が異様に細やか。
・台座の側面に白い着色⇒何を意味してる?

後ろ
・背後見ごたえあり
・腰を曲げた角度は横からよりも後ろからの方が曲がり具合がわかる
・腰のあたりにボリュームあり⇒鹿の皮
・ひきしまったアキレス腱が非常にリアルで目をひく。⇒*1


・口唇が非常にリアル。とても悩ましい。
・手の血管が浮きあがるリアルさ ⇒*2
・骨の表現は? ⇒*3

正面左前側から
・剃髪の表現は? ⇒*4
・鹿の角の杖… 小さな穴があいています
・袖の中 ⇒*5

正面

・鎖骨のリアルさに違和感⇒*6
・膝の表現  ⇒*7
・ふくらはぎ ⇒*8

リアリティーをどうとらえるか。⇒*9

様々な角度から見ている私の視線と、一瞬だけ、空也上人の視線とあった瞬間がありました。その時の膠着状態。仏としてでなく、人体模型のように観察している自分をじっと見つめられていて、モノを見るような視線で見ていることをとがめられているような気がしました。 

でも、半開の目の奥からこちらをじっと見つめながらも、遠くを見ている透明感ある澄んだ輝き。ドキッとさせられて緊張感が走りました。でも「いいですよ。好きなだけ見たいように見て下さい」と許されたような… これまで見てきた玉眼とは違う光を放っていました。

見たいだけ見せてもらったら、私は運慶よりも、子供たちの表現に魅力を感じていることがわかりました。その魅力に吸い寄せられ何周もぐるぐる回っていました。リアリティーによって引きつけられ、見続けていたいと思わせてくれる魅力。またここはどうなってる?と次々に押し寄せてその場所から離れられなくする力がありました。

運慶には、仏師となった6人の子がいるそう。他の子どもたちの造形も気になってきました。運慶を引き継いでそれを昇華した表現。その部分を明確に意識される芽を感じました。が… 空也上人は、康勝、20そこそこの作品らしく、運慶の指導の元に制作されたらしいとのこと。

このような発想や、運慶よりもリアリティーの技術が増していると感じられたので、てっきり運慶の元を離れある程度、熟達した時期の制作だと思っていました。謎多き運慶一門…、

 

制作背景について

参考:東京国立博物館 - 1089ブログ    空也上人立像はなぜつくられた?

制作の背景はよくわらないそうですが、空也上人像は康勝が20歳そこそこの作品で、運慶の指導のもと制作されたのではとのこと。

 

〇いろいろなアングルからの様子が図録に掲載。(足元、衣の折皺など注目)

 

〇6体の化仏のアップ

空也上人を印象付けるフォルム。口から出てくる小さな仏像。唱えた言葉が仏に変わるという伝承を視覚的に表した唯一無二ともいえる形態です。この着想はどうやって生まれたのだろうと考えていました。運慶の四男、康勝。運慶とは全く違う方向の写実を極めたように感じられます。

この口から出てきた仏がどれくらい緻密に彫られているのか興味がありました。ぶらぶら美術館で表と裏では表現が違うと紹介されていたので、ぜひ確認したいと思っていました。

しかし光が全くあたっておらず確認ができない状態。スコープを取り出し覗き込んでみましたが、光量が全く足りません。この距離で見ることができることそのものが軌跡なんです。それを化仏まで詳細に見ようだなんて、そんな簡単にはお目にかかれると思わないでくださいと、ガツンと殴られたようでした(笑)

翌日放送された「じゅん散歩」や「ぶらぶら美術館」の方がよくわかりました。実物よりもテレビの映像が勝るのはこのような時です。

 

口から出てくる「南無阿弥陀仏」が大判のはがきになっています。

 

 

2   空也

空也上人の1周忌、源為憲によって書かれた伝記。重要文化財空也誄(くうやるい)》

 

 

 

■第2章:六波羅蜜寺とゆかりの人々

六波羅蜜寺の近くに鳥辺野という埋葬地があります。ここを死後の世界とみなし「あの世」と「この世」の境界に位置するお寺が六波羅蜜寺、この一帯を冥界に通じる道とされていた場所に建っています。

冥界で死者は裁判を受け、生前の行ないに応じて、六つの世界のどれかに生まれ変わりますが、この六つの世界いずれにも現れて救いの手を差し伸べる仏が地蔵菩薩です。そのため、この地域では地蔵菩薩が厚く信仰されてきました。

 

六波羅蜜寺周辺の様子

六波羅といえば、鎌倉幕府が設置した六波羅探題が浮かびます。六波羅蜜寺と同じ場所に設置されていました。埋葬地の鳥辺野(茶)の付近は、今も周辺に墓地が存在しています。六波羅蜜寺は山の中にあると思っていましたが、近くには建仁寺清水寺もある立地でした。

兵火をまぬかれ伝わってきたゆかりの品々が今に伝えられるお寺。このお寺が持つ独特の立地が生み出した信仰の蓄積とともに、六波羅蜜寺が受け継ぐを紹介した展示です。

 

9 地蔵菩薩立像

平安時代・11世紀 京都・六波羅蜜寺

会場に入ってまず最初に目に入る地蔵菩薩立像。優美でやわらかなたたずまいに釘付けにさせられました。どんな像かもわかっていませんでしたが、穏やかで包み込まれるような雰囲気は、誰でも迎え入れてくれるような懐の深さを感じさせられます。

光背の繊細さも像とあいまって美しさが際立ち、繊細、可憐、しなやか、気品… 定朝作と伝わります。のちにこの形式は定朝様と呼ばれるようになりました。

日本屈指の美仏として定評のある「菩薩立像」が同時に浮かびました。おそらく、身に着けている装飾品や衣の截金文様、菊花紋などが、想起させたのではと思われます。放つ印象に同じものを感じました。⇒*10

右手に頭髪を持っているのですが、それには全く気付きませんでした。衣紋の流れに同化していたような気がします。

・仏教説話集の『今昔物語集』に収録された話に基づき制作。
・地獄に落ちた源国挙が地蔵菩薩の助けにより蘇生した話から
 ⇒定朝に地蔵菩薩像をつくらせ六波羅蜜寺に安置した像と考えられる。

 

 

11 閻魔王坐像

重文 鎌倉時代・13世紀 京都・六波羅蜜寺

閻魔王
十王のうちの一人。死者の生前の行ないを裁いて次に生まれ変わる世界(六道)を決めます。

六波羅蜜寺一は冥界の入口と言われ、亡くなった人を送る葬送の場所(鳥辺野)が近くという立地です。

死者は冥界で閻魔王をはじめとする十王の裁きを受け、次に生まれ変わる世界(6つの中から)決まります。その際に亡者に手をさしのべて救ってくれるのが地蔵菩薩。⇒*11

 

そのため閻魔王地蔵菩薩がお寺に安置されました。

「十王」は像となることは少なく、閻魔王に代表させることが多い。こちらの閻魔王は青い目に注目!

昨年、神奈川県立博物館で「十王図」展が開催されました。以前なら「十王」? なんだそれは…でしたが、閻魔大王のポジションや役割、その他との関係などが理解できるようになりました。

 

 

  

 

13 十王図

「十王図」とは、冥会の 10人の王を描いた図像のこと。

昨年の「十王図」展で見た十王図は、経年変化もあり全体に黒っぽかったのですが、こちらはともてあざやか。全十図すべてを展示替えで見ることができたようです。何が描かれているのかがも、なんとなくではありますが、わかるようになってきてます。

 

 

 

5    四天王立像

平安時代・10世紀 京都・六波羅蜜寺

広目天立像 平安時代・10世紀 京都・六波羅蜜寺
増長天立像 鎌倉時代・13世紀 京都・六波羅蜜寺
持国天立像 平安時代・10世紀 京都・六波羅蜜寺
多聞天立像 平安時代・10世紀 京都・六波羅蜜寺

 

西光寺: ←六波羅蜜寺の前身
・本尊⇒十一面観音菩薩立像(現在、六波羅蜜寺秘仏本尊として現存)を制作。
・同時に、四天王立像も制作されたと伝わる。(増長天鎌倉時代
薬師如来坐像空也上人の弟子、中信(ちゅうしん)が創造したと伝わる。

・西光寺の本尊十一面観音菩薩立像(六波羅蜜寺秘仏本尊として現存)を造立
・同時に梵天帝釈天、及び四天王像を造像したと伝えられる。
・現在、宝物館に安置される四天王像がこれに相当する
増長天のみ鎌倉時代の補 䇜)。
・像高180センチメートル弱の大きさ
・一木造りならではの重量感をもつが、彫り口は浅い
平安時代前期から後期への作風の変化が見て取れる。

4体のうち1体だけ、時代が違うという話しは「ぶら美」で見ていました。足、顔などが見分けるポイントだったと記憶しているのですが、どれなのかすっかり忘れてわかりませんでした。

*12

 

増長天立像鎌倉時代の制作。見分けるポイントは…

〇顔の表情…
増長天:眉や頬の膨らみがやわらかく、表情が豊か。
他3体:しわがくっきり。文様のようにくっきりと刻まれている。

〇髪の毛
増長天:一本ずつ髪を丁寧に彫る。
持国天:一本ずつ彫らず彩色で

〇足の衣
増長天:衣のひだをより自然に魅せる表わそうとしていますが、
他の3体:デザインや意匠として表現。

増長天が失われ、鎌倉時代に制作されましたが、各時代の特徴があるものの、鎌倉時代に制作されたものは、平安時代に近づけようとしていますが、鎌倉時代の特徴が漏れ出てしまっているようです。

 

持国天立像

 

参考:東京国立博物館 - 1089ブログ 
  ⇒ 京都の平安時代彫刻を代表する名品―四天王立像と薬師如来坐像

 

6     薬師如来坐像

平安時代・10世紀 京都・六波羅蜜寺

四天王像の中央に配されているのが、重要文化財薬師如来坐像》。この時代になると、寄木造りで大型の像が制作されるようになりました。

頭体部の中央で左右を接合しています。つなぎ目が非常にわかりにくくなっており、高い技術が窺えます。

・10世紀後期 天台僧中信(空也上人の弟子)が造像したと伝わる。
・その後、中信が西光寺から六波羅蜜寺に改名、本像を本尊に。

・円弧を描くような伏し目がちの目や頭部(肉髻)の隆起がなだらか
天台宗で流行していた薬師如来像の特徴がみとめられる。
・寄木造り(次代に定朝が完成)の現存最古のもの。
・時代の過渡期に位置付けられる。

 

 

10   地蔵菩薩坐像 運慶作

地蔵菩薩坐像 運慶作 鎌倉時代・12世紀 京都・六波羅蜜寺

運慶作とされる地蔵菩薩坐像。運慶作と認められる数少ない仏像のうちの一体。運慶仏は写実的で力強いイメージがあります。衣紋の襞も深く立体的です。

地蔵菩薩の衣の襞はより深い彫で、写実的でリアルです。一方、細やかな襞は、躍動感もあるのですが、逆に繊細で流麗な印象を持ちました。みぞおちあたりに挟んだ衣の裾や、左脇から流れるラインなど可憐にも感じられました。

衣紋の襞の柔らかさは、薄い別材を矧いで、衣の重なる様子を写実的に表現しているのだそう。

運慶と聞かずに見ていたら、運慶と認識はできなかったと思いました。

⇒■数少ない運慶仏 *13

 

 

15   伝運慶坐像

仏像彫刻と言えば、誰もが知る運慶。彫刻界の黄金期を築きました。世界のミケランジェロとも並ぶ彫刻家です。そんな運慶の像。

当初、勘違いをしていました。運慶像を、運慶自身が制作したと思っていました。私がイメージしている運慶とはほど遠く、これを運慶像と認識できず混乱していました。

運慶が作った像…それにしては、運慶の写実的な彫刻とはどうも違う気がする。そうか… 運慶が作った像ではないんだ… 

そんな勘違いの往復を何度かしてやっと、これが運慶の像であることを受け入れることができました。では制作したのは? 記載はなく調べてみてもよくわかりません。どうも腑に落ちない感覚につつまれています。 

 ■運慶ぽくない⇒*14
 ■鎖骨の見え方⇒*15 追記(2022.05.09)

 

 

・湛慶(運慶の長男)の父子の像。当時十輪院は運慶一族の菩提寺であったことから、本尊の脇侍のように祀られていたそう。

 

17 伝平清盛坐像

重文 鎌倉時代・13世紀  京都・六波羅蜜寺

教科書でも平清盛像として紹介される有名な像です。慶派の仏師の手によるものと考えられています。経巻を手にした僧侶の姿で描かれています。同時代の像では見られない特融のポーズ。出家した姿で、清盛を鎮めるために制作されたと考えられています。

12Ç後半、六波羅界隈は、平氏の邸宅が5000以上立ち並んでいましたが、源氏に圧され六波羅に火を放って都落ちしました。平氏の滅亡からそれほど時を隔てない時期の像。

教科書でよく見る写真⇒*16

写真は右からのアングルしか見ることがありませんでしたが、私は左からのアングルにドキッとしました。全く見え方が違います。

 

 

 

12 夜叉神

 

 

 

  ■本館11室 

本館11室は、特別展に関連した展示が行われています。こちらの展示まで見る余裕がありませんでした。次の訪問際は要チェック。

2022.05.02 訪問。すべて六波羅蜜寺からお出ましの仏像でした。

11室の配置図

 

 

弘法大師坐像

 

② 吉祥天立像

 

③奪衣婆坐像

 

④ 司録(しろく)坐像

 

⑤ 司命(しみょう)坐像

 

参考画像:空也上人立像 東京で半世紀ぶりに公開【内覧会レポート】
 特別展「空也上人と六波羅蜜寺」 東京国立博物館:美術散歩

 

■感想・雑感

一度、目にしたら誰もが忘れられないインパクトを持つ空也上人像。50年ぶりの東京公開は、空也上人の意思を、今によみがえらせるという意味もありました。

念が言葉になり形になること。歴史はいつも繰り返されます。空也上人が念仏をとなえ遊行した1000年以上前の平安時代。疫病が蔓延し、戦乱の世の中でした。今も全く同じ状況にさらされています。

そんな状況の中、東京にお出ましになったことの意味。この像の見方もいろいろです。でも「今、ここに、目の前に存在している。その意味をそれぞれに考えたり感じたりする」それがいろいろな人たちの手を経て「ここにある」ことの意味だったのかなと思いました。

空也上人が生きた時代と今がつながっています。世の中におこる混乱をくぐりぬけて今に至ることができました。だからこそ見に行くこともできるし、こうして空也上人自らお寺の宝物すべてをひきつれてお出ましになるという千載一遇のチャンスにめぐり会うことができました。これも宝物館のリニューアルというタイミングがもたらしてくれました。

空也上人が願った平和な世界。その祈りの様々な形に触れることができました。それを伝えるために尽力されてきた六波羅蜜寺。今回の東京での公開という英断も、空也上人が願った世界を今に届けるという思いあってのこと。引き継がれてきた空也上人の思いを目の前でリアルに感じ取ることができる展覧会です。

 

■脚注 補足

*1:■リアルなアキレス腱

子供の頃、足が速いかどうかは「アキレス腱を見るとわかる」と言われていました。それを思いださせるような足首の表現です。歩き続けた結果、発達したアキレス腱。
康勝は当時の人間観察によって、アキレス腱の状態の違いを把握していたのだと思いました。この時代、競技や生活の中で走ることに特化した人はいなかったと思います。脚力のある人の足首の観察。それを見えない像の背後で表現していたことに参りましたという感じ。

 

 

*2:空也上人の写実性

手の血管まで繊細に表現されており、細密なリアル描写がされていると感じられます。この人体表現を解剖学者が見たらどのように見るのかな?と思いながら見ていました。

血管はまるで本物のように見えます。が、角度を変えて下方向から見ると明らかな丸ノミのあとがくっきりと確認できました。このノミあとのライン。それによって浮かびあがった血管。そうみると捉え方が変わってきました。リアルに見えるけどリアルではない…この浮かびあがり具合の絶妙さがリアリティーを感じさせているのでは?ノミあとで追うと血管の走行とは違うような気がしてきました。
 ⇒腕のアップ写真(https://intojapanwaraku.com/art/195795/

 

*3:■骨の表現

空也上人の痩身体形からすると、血管が浮かび上がっているなら骨も表現されてもよさそうだと感じました。自分の手と比べながら、血管の走り方、骨の状態をチェック。「解剖学的にみたら」この表現はどう見えるのか知りたくなってきました。

改めて自分の手を「握った」状態と「広げた」状態で、骨の見え方を確認。握った時は骨は見えにくくなることに気づきました。杖を握った手の骨は見えなにくいのかも…

 

 

*4:剃髪のあと

浮き上がる血管、アキレス腱といった写実表現を見ると、他の部分も緻密に表現がされているのだろうという期待が膨らんできました。もしかして剃髪の状態も表しているかもと思い念入りに観察してみたのですが、そこまでは表現されていませんでした。

 

*5:■袖の中は?
袖の中はどこまで彫られていてどのような構造になっているのか。袖の中を下から覗き込み確認しようとしましたが、暗くて全くわかりませんでした。

 

*6:■鎖骨じゃないのでは?

鎖骨の角度がおかしい。妙な窪みもある。これまで絵画を見ても感じさせられてきた鎖骨の表現に対する違和感。かのレオナルド・ダ・ヴィンチも、解剖経験前は妙な表現の絵を描いています。鎖骨から肩の表現は非常に難しいことがわかります。人体の構造に触れていない時代はなおさらのこと。リアルと言われる空也上人の鎖骨にも違和感が…

ただこの像は下から見ているため違ってみえているのだと理解。またこの時代、解剖学の知識はないと思われるのでこのような表現になったのか…

しかし像全体から伝わるリアリティーを思うと、鎖骨ももっと追求できたのではと思っていました。

ところが、同じアイレベルで撮影された写真を見て理解しました。(https://intojapanwaraku.com/art/195795/
https://uenogasuki.tokyo/2022/03/post-973.html
これは鎖骨に見えるけども、鎖骨ではないのだと。下に身に着けている着衣のラインの形だった!それで納得できました。ところが、やはりこれは鎖骨とのこと。

う~ん… 鎖骨にしては左右の骨が逆ハの字に開いており、喉と鎖骨のつながりも妙。自分の鎖骨を触ってみれば、このような角度でつながっていないことはわかりそうだと思ってしまいます。なんか変と感じた窪みは、これらの連結がうまくいっていないからだとわかりました。

参考:東京国立博物館 - 1089ブログ 空也上人像をじっくり見る

 

 

*7:■膝の表現は緩い

これだけのリアルな表現をしていると、全体のリアルさをより求めてしまいます。膝ももう少しリアリティーを持たせることができたのでは?などと勝手なこと思い始めました。

 

*8:■ふくらはぎの筋肉表現への期待

ふくらはぎもリアルに表現されていると言われているようですが、個人的にはもっと、歩いた人の筋張ったふくらはぎが表現されていてもよさそうと思ってしまいました。歩き続ける人の筋肉。痩身だけど鍛え上げられた筋肉が見たい…

 

*9:■リアリティーの先にあるもの

見たままに感じてほしいと言われています。正直な感想は… 

緻密な観察によって作られた像、実際に空也上人を見て制作したかに思ってしまいますが、空也上人は200年前の僧なので、実際には見ておらず想像で制作されています。本人を見てはいないけども、その時代の人間観察や空也上人にまつわる資料をもとに、康勝がつくり上げた世界。その描写に息を飲みました。

造形表現はリアルに制作することではないということをふまえた上で、その先に何を求めるのか。

手の血管や唇、アキレス腱など緻密に表現されているのを目の当たりにすると、自分の中のリアル追求がより強まっていくのを感じました。これだけの表現をしているのだから、他の部分もより写実を求めてしまいます。

次第に精密な人体模型を見るような視線に変化していることに気づきました。別のスイッチが入ってしまったような… 美術作品をじっと見つめだすと、私の場合は対象が物質化していく傾向があります。

仏様は仏様ではなくなり、「仏」として見続けることが困難になってしまうのです。本来、安置される場所で、スコープを取り出して拝観することなどできません。博物館だから許されることとして観察をしてしまいます。

しかし、康勝は人体模型を作っているわけではない、というところを行ったり来たりしながら見ていました。

 

リアルの先に求めるもの

ミケランジェロと並び称される運慶。写実の先に何を表現するのか。ミケランジェロの写実が表現するその先の世界は、個人的には受け入れることができませんでした。今でもです。

一方、運慶の写実の先のデフォルメは許容できます。同じように写実を求めながら、その先にアウトプットされたものの違いによって受け止め方が変わる。その違いが、今も理由がわかりません。

そして今回、康勝(運慶の四男)の造形をみて、運慶展で見た康弁(三男)の餓鬼が思い出されました。私は康弁の餓鬼に強く惹かれていました。ミケランジェロよりも運慶、そして運慶よりも康弁の身体表現に魅力を感じていたことを思い出しました。

空也上人像を見て、もう一人の運慶の子、康勝の作品だったことを知りました。そのリアル表現に、康弁に通じるものを感じました。運慶の技術や表現を引き継ぎながら、その上で作り上げた形。運慶の子供たちが生み出した表現に強く心惹かれていくのを感じています。

参考:【院長コラム】 藤田内科消化器科医院|新潟市 内科 消化器科

      医師が見た運慶とその子たちの作品

 

*10:■想起された仏像

地蔵菩薩を見て頭に浮かんだのが、こちらの菩薩立像。比べると違うのですが、装飾品や截金文様の印象から共通性を感じたようです。

 

*11:地蔵菩薩

地獄に落ちた者でも救ってくれると信じられており、末法の世になると地蔵信仰がさかんに。釈迦がなくなり如来が現れるまで、この世に留まり人を救うとされました。菩薩の中では珍しい頭を丸めた姿が特徴的。お坊さんと同様、修行の身であることを表しています。

 

*12:鎌倉時代の四天王は?

見分けるポイントは足と顔という記憶からとりあえず想像したのは… 

足は、鎧の襞の部分のことを言っていたような記憶はありますが見てもよくわかりません。4体で大きな違いといえば足の太さ。多聞天の足がほっそりしているのに対し、他はどっしり。顔の違いでいうと…持国天は口をあけているけど他はつぐんでいる。

などと考えてはみたものの、それぞれ違う四天王に… 

 

*13:■数少ない運慶仏

運慶作の「地蔵菩薩坐像」の展示。それを聞き、この展覧会に訪れるもう一つの目的となりました。運慶仏を総覧して運慶の作風をとらえたいと思い、2016年の運慶展で見た仏像を再チェックしていたところでした。この時に運慶の《地蔵菩薩坐像》展示されていたことを確認していたのですが、記憶に残っていませんでした。ぜひ今回は記憶に留めたいと思いました。

 

*14:■運慶ぽくない

まずビジュアルイメージの齟齬。運慶がどんな容貌でどんな人物かはわかりません。それでもイメージと違いすぎて、運慶と同一視ができませんでした。制作者も、運慶を制作するとなれば、運慶に匹敵する写実性が求められるはず。しかし私には、写実性を感じることができませんでした。

その最たる部分が鎖骨。ヘッドホンでも下げているのかのような… さすがに観察に基づいて制作したら、こうはならないはず。制作はそのまま表現することだけではないと理解したうえでも、リアリティーを重視する運慶の鎖骨として認めがたいと思ってしまいました。

また彫刻師らしい力強い手と言われますが、あの大胆でいて繊細な彫刻を作り出す手には、繊細さも兼ね備えていたと思うのです。それが全く感じられません。無骨なだけの手に思えてしまいます。

「運慶」… ということをこの像から受け止めるのにしばらく時間を要しました。そのために立ち止まらされました。空也上人に足を止めるのとは違う足止めでした。

 

*15:■ 鎖骨の見え方 2022.05.09

リアリズムを追求する運慶に連なる仏師の制作。と考えたら(解剖をしていないとしても)緻密な人体の観察に基づき制作をしていたと考えられます。体の表面から見える鎖骨を鏡で見たら水平方向です。(当時、鏡を見ることができるのは一部の限られた人だだろうし、デコルテまで映せる鏡がなかったのかもしれません) しかし自分の鎖骨や人の鎖骨を見て制作すれば、この像のような鎖骨にはならないはずだと思うのです。

ところが、見る角度によって鎖骨はV字のように見えることに気づかされました。また鏡に映した鎖骨もV字の角度を持って見えるのでした。

これまで一般的な正面から見た解剖図の鎖骨の状態を基本形と思っていました。鎖骨はV字にはなっておらず、それは手でなぞってもわかること。観察をすれば、あのような表現にはならないと思っていたのです。

鎖骨

 

manga-materials.net

ところが、鎖骨の見る角度を変えると…  このように斜めに見えることがわかりました。

 

こちらは回転してみた様子。

commons.wikimedia.org

 

長い間、鎖骨は水平に近いと思いこんでいたことに気づきました。絵や彫刻の鎖骨を見ていると、なんでこんなふうに表現されるのか… 観察をきちんとすれば、こうはならないはずなのに…とずっと思ってきたのです。そのなぞがやっと解けました。

 

*16:■教科書でよく見る写真

「教科書でよく見る」と様々な像が紹介されますが、私は見た記憶がありません。中学以来のうろ覚えの歴史認識と、平家や清盛のイメージ。まるっきり違っており戸惑っています。歴史に残る事物というおは、勝者の論理。清盛をこんなイメージにしたかったのだなと理解しました。