コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■サントリー美術館:大英博物館 北斎―国内の肉筆画の名品とともに―

大英博物館より珠玉の北斎作品が来日しています。会期終了までわずかとなり、待機行列も伸びている様子。版画で有名な北斎ですが、一点物の肉筆画の希少品、そして版画もよりすぐりの優品が来ています。それらをコレクションしたコレクターの目も見どころの一つ。

 

 

大英博物館北斎作品のコレクター

日本の浮世絵がなぜ海外に渡ってしまったのか。しかも優品、とくに肉筆のほとんどが海外の美術館にあるように感じてしまいます。

それらに目をつけたのは、どんな人たちで、浮世絵の何に魅了され、どんな目的で海外に持ち帰ったのか。ずっと気になっていました。

今回の展覧会では、その疑問にフォーカスした紹介もされていました。

私にとっては、この部分が特筆すべき点だったので整理も兼ねてまとめました。気になったコレクターについて、調べたことやこれまでの鑑賞してきたこととからめて紹介します。

 

大英博物館北斎作品は、様々なコレクターの蒐集や研究、そして譲渡によって形成されています。コレクションされた作品は、錦絵や肉筆だけでなく、版本、摺物、版下絵など、北斎の活動を多角的にとらえて集められました。

展示構成は下記のような章立てです。

第1章:画壇への登場から還暦
第2章:富士と大波
第3章:目に見える世界
第4章:想像の世界
第5章:北斎の周辺
第6章:神の領域―肉筆画の名品―

これらのコレクションはコレクターの優れた審美眼あって成り立ちました。コレクターたちが手に入れ、手元に置いて愛で、そして寄贈。そんなお気に入りだった作品とともに、彼らの横顔が紹介されています。

その中で気になったコレクターについて、調べたことなども交えて紹介します。

 

■ウィリアム・アンダーソン(1842-1900):外科医

ウィリアム・アンダーソンの蒐集は、大英博物館における日本絵画コレクション全体の礎となりました。

 

〇略歴 

イギリスの医師。アパディーンで医学を学びました。絵の才能もあり悩んだ末、医師の道を選びます。セント・トーマス病院でジョン・サイモンやクラークのもとで働いていました。

1873年日本海軍の招きで来日。海軍軍医寮で解剖学、外科学の教授に。
海軍軍医教育、軍医を養成。

1880年:帰国。セント・トーマス病院の外科医補になり、解剖学の上級教員に。
1891年:ロイヤル・アカデミーの解剖学教授。
    ロンドン日本協会が設立。初代理事長。
1898年:被角血管腫の患者の報告。この遺伝病のアンダーソン・ファブリー病

この間日本美術の収集を行い、多くの版画や画本を集め、その時代のヨーロッパで最も優れたコレクションをつくりあげます。後にこのコレクションは大英博物館に売却。

日本滞在は7年。その間、日本美術など東洋美術作品、約2000点を購入。(日本だけでなく中国なども含まれています)

 

解剖学を専門とする英国医師が北斎に魅了されたということに魅了されました。北斎は描く上で、骨や筋肉の構造を知ることの重要性に気づき、接骨家に弟子入りしていました。そんな基礎を踏まえた上で描かれるデフォルメされた身体表現。そこにひきつけられていたのでは?と思われます。

解剖学もスケッチすることが基本です。その際の表現力、いかに描くかということを常に考えていたのでしょう。まして美術に興味を持っていたというアンダーソンです。北斎から絶大なインスピレーションを受けたのではないでしょうか?アンダーソンのスケッチが見たくなりました。北斎と出会う前、出会った後、何か変化があるでしょうか?

 

追記

医学か芸術か、迷っただけでなく、医大を中退して美術学校に入学し直していたことがわかりました。人体デッサンをきっかけに解剖学の楽しさを再発見し、再び医学の道に戻ったそうで、医学と美術の世界を行ったり来たりしていました。医学と芸術の二本柱で、日本の美術に夢中になったことがわかりました。

解剖のスケッチから美術ではなく、人体デッサンから医学に戻ったとのこと。

 

〇所有作品

彼の旧贓品の一つ、今回、撮影可となっている《為朝図》です。

 

弓の名手為朝の強い弓をひくモリモリの筋肉。外科医の目にどのように映っていたのでしょうか?

 

〇著作

『日本の絵画芸術』は世界発の日本美術研究書
   ⇒ウィリアム・アンダーソン『日本絵画芸術』

この著作の中にも《為朝図》が掲載されています。見開きの片側1ページ全体を図版が占めています。掲載ページが展示されていました。非常に細かなきれいな図版でした。

著作の中で北斎を最上級の言葉で評価しています。

彼の芸術的才能の多様性と幅広さを示しているだけでなく…自意識にとらわれない強い個性がはっきり現れており、自己模倣や先行作品からの図様借用による手抜きを決して許さない、芸術を愛する北斎の勤勉さを鮮明に印象づけている

この言葉からは、北斎の描くテーマが多彩であり、次々に新たな画風にチャレンジしていたこと。過去の作品にとらわれず常に変化を求め、新しいことを探していたことを理解されています。医学を教えながら日本に滞在し、日本美術に、北斎に没頭していたことが感じられます。

 

  

■アーサー・モリソン(1863~1945):小説家

もう一人の貢献人は、小説家のアーサー・モリソン。彼の蒐集の影響も大英博物館コレクションに大きな影響を与えています。

 

〇略歴

ロンドンのイースト・エンド周辺に住み、スラムの生活を描く小説を多数書きました。ロンドンの市井の人々を見つめた作家です。

日本を訪れたことはありませんでしたが、江戸に興味を持ち、日本語も堪能でした。

 

〇蒐集作品

日本帰りの船員や、友人、外交官から浮世絵版画を中心に購入。その数は2000ほどに達しコレクションを形成しました。イギリスに滞在していた下村観山、南方熊楠との交流のありました。

展示には南方熊楠の手紙や、下山観山の下絵なども展示されています。下山観山は1903年に文部省留学生として渡英していました。その時に出会い、大変高い評価を得ていたようです。

一方、南方熊楠とも手紙のやり取りがあったことに、感慨深いものがありました。南方はイギリスに留学し大英博物館にいました。当時、東洋人ということで苦労も多かったと漏れ伝わります。しかし語学力があり西洋と東洋をつなぐことができる人材として重用されていたと聞いていました。

それを裏付ける手紙を目にできたことは、大変よろこばしいことでした。絵師の名前の読み方の問い合わせに答えていたようで、頼りにされている様子が伝わる交流でした。

彼が所有していた北斎の作品は約150点。のち大英博物館が購入したり、寄贈したりしました。展覧会で展示されているのは次の作す。

 

 

《流水に鴨図》

モリソンの特にお気に入りの《流水に鴨図》肉筆画を所有していました。この作品は北斎88歳の時、もっとも多く肉筆画手掛けた頃の作品です。

鮮やかな羽の色をした鴨がこちらを向いて水面に浮かんでいます。散りゆく紅葉。水面下に潜るもう一羽の鴨や水草は淡い色彩のグラデーションで描かれています。ゆらめく水の感触を感じさせます。

北斎は鴨の目を藍色を使いました。肉筆画の動物の目によく用いています。これはプルシアンブルー(ベロ藍)と言われる輸入色素です。黒一色よりも表情が豊かになるということで使用していました。目の他に首元にも使われ、こちらは、濡れた質感を出しています。

水流は、書き割りのようにも見えます。同じような弧が重なりデザイン的です。濃淡のグラデーションで水面の高さ、遠近、深さを表し幾何学的な繰り返しを感じます。そんな水流の中に浮かぶ紅葉と沈む紅葉。(この表現、横山大観の《紅葉》でもみられました)水の中の紅葉の葉の色味を変えることで、水の中と表面を伝えています。

西洋の遠近法を学んでいた北斎。西洋の新たな知見も学んでいました。水中のものの見え方が、光の屈折よるという原理を知った上で描いていたのでは?と思わされます。

 

《漁師図》

モリソンの旧蔵品で、文人たちが世間の荒波から逃れたいと憧れた存在を描いたもの。賛が自筆のため、顔も北斎の自画像でないかといわれていると言います。

キセルをくわえて一服する漁師。賛には「はま砂に面めつらしき嫁菜かな 万字」と書かれています。万字は北斎のこと。「此春は月のかつらをおるはかり 酔」酔はエイとも読め、北斎の娘、お栄の賛と考えられています。

 

 

《若衆図》

男性?女性? 女性にも見えますが、刀や頭髪は男性のような。でも女性のような… 男性のいでたちをした女性です。桜が全体に舞う着物に袴。足を組んでいますが、組んだ足の指は手のようでもあり・・・・

 

〇著作

『日本の画家』で北斎について言及しています。描くテーマが多岐(人物・風景・動物・花鳥…)で専門的。その画力に舌をまいたと言います。

 

「これが一人の画家の作品だとは、信じがたい!」

「これまで画家が試みたあらゆる題材を自分のものにした」

日本美術に対する研究の高さも加わり観山も、熊楠も感心させられたおり、その幅広い画域を称賛しています。

 

 

 

■チャールズ・ヘーゼルウッド・シャノン(1863-1937):肖像画

肖像画家で大学在学中に日本の版画に興味を持ったことがコレクションの始まり。

 

〇略歴

1880年代初 頭:大学在学中に日本の版画に興味を持ち始めた。
1898年:北斎のも のとされる素描集を数冊購入。

大学在学中、生涯をともにすることになったチャールズ・リケッツ (1866~1931)と出会い、ともに日本版画、300点以上、日本絵画を30点以上収集。
リケッツの死後、シャノンは大英 博物館に遺贈。

今回の展覧会では、彼らの旧蔵品の版画も多く展示されています。
《嶋廻月弓張》 (No.36)⇒個人が制作を依頼し た非売品の摺物。

 

〇展示作品

読本『椿説弓張月』(曲亭馬琴 (1767~1848)執筆、北斎が挿絵を描き人気を博す)を歌舞伎にした「嶋廻月弓張」の公演に あたり宣伝用に制作されたもの。

読本の第一巻 (No.7)、 同じ題材の北斎の絵を展示(第1章 「画壇への登場から還暦」にて)

 

〇残した言葉

ターナーは卓越した創作能力の持ち主だったが、 風景のデザイナーとしては、 同時代の北斎には及ばない。北斎はまた偉大な人物画家でもあった。」

チャールズ・リケッツ 「芸術の世紀 1810-19102 (1911年)

 

イギリスの代表的な風景画家、印象派の先駆けともいわれるターナーを引き合いにしています。風景をデザインとしてとらえた時、北斎の優位性を語っています。実際にはありえないような景色や構図。北斎の中にはデザインという意識があったのでしょうか…

日本ではデザインという概念が西洋から入ってくる以前から、琳派などでデザイン的に描くということが無意識に(?)行われていました。琳派も学んだ北斎、デザイン感覚を身につけていたのでしょう。

 

 

■ローレンス・ビニョン(1869~1943):研究家

コレクターというより研究家で、大英博物館の版画部の部長で研究に人生を捧げた人物。研究面で北斎コレクションを支えたのが、詩人であり大英博物館のキュレーターの

ローレンス・ビニョンでした。

〇略歴

セント・ポールズ・スクールに学ぶ。

1891年:トチニティ・カレッジ(オックスフォード大学)
 在学時、詩作によりニューディゲット賞を獲得。

1893年~1933年:大英博物館に勤める(退職まで)

1904年:歴史学者シシリー・マーガレット・パウエル と結婚。
 芸術家ニコレテ・グレイを含む三女を設けた。

1915年:フランスの病院の看護人に志願。後にはイギリスで勤務。
 ヴェルダンの戦いににおける戦傷者の介護に携わる。
 この経験をFor Dauntless Franceに記す。

1929年:来日し、東京帝国大学にて『イギリスの美術と詩における風景 』の講演

・戦後は大英図書館に復帰し多くの美術書を執筆
・イギリス美術、日本美術、ペルシャ美術の執筆
・アンダーソン・コレクションを整理
・数多くの日本美術関連の著作を執筆
・イギリスにおける日本美術研究に多大なる功績を残す

 

〇蒐集品

百人一首姥がゑとき》や《詩哥冩真鏡》など代表的な版画の揃物を購入。
博物館のコレクションをより成長。

↓ 大英博物館所蔵画像をweb掲載されています。

北斎「百人一首姥がえとき」 - WEB錦絵美術館

 

こちらの作品については、北斎展を先に訪れていた友人の一押し作品として聞いていました。和歌の解釈が斬新とのこと。しかし和歌を知らない者に果たしてその魅力はれは伝わるものなのだろうかと思いながら訪れると…

ガラスケースを前に、ギュウギュウ詰めの人・人・人。物理的な壁が見る意欲が失せさせました。後回しにして閉館間際、空いてきたところで鑑賞してみました。思ったとおり、和歌を読むことすらできませんでした。

和歌の意味も、絵が何を表現しているかも全くわかりません。さっと見るだけで通りすぎました。ここで何か、一つでもいいので、記憶や印象に残しておくと次につながるとは思うのですが、キャパを超えているものについては無理をしないことも大事と思っています。

そのうち、わかる時期が訪れると期待して見送ることに。いつか、あの時は、全くわからずお手上げだったなぁ…と懐かしむのも楽しみのうちです。また作品は、大英博物館の1点ものではなく、他でも所蔵していることもわかりました。次にお目にかかった時は、「大英博物館の・・・・」と思い出せるでしょう。

作品のプロフィールも、いろいろあって面白そうです。

次のツイートも気になりました。

タイトル 「百人一首姥がゑとき」を見て、「百人」ー「首姥」と読んでました。妖怪のような「首姥」が「なんたらかんたら」という、魑魅魍魎とした怖い話かと思ってました。が、絵はそんな様子はなく・・・・ 「百人一首」だったことがわかりました。

百人一首姥かゑとき」は、百人一首の和歌の意味を絵で説明したもの。「和歌の内容を乳母(うば)が子供に絵で説明する」という意味でした。和歌に詠まれた情景が、歌人たちと同時代の風俗として描かれたり、江戸時代の風俗に見立てられています。北斎独自の解釈がされ、ユニークらしいのですが、あまりに理解がされにくかったようで、100枚組が、27枚で終了。出版されなかったものを、全てを持っているというのは、非常に希少だそう。

 

〇残した言葉

「美と驚きとがひとつになった衝撃を与える」

 

 

■ジャック・ヒリヤー(1912-1995)



オーガスタス・ウォラストン・フランクス 大英博物館学芸員

 

 

 

 

■撮影可の2作品

■《為朝図》について

チラシやポスターのメインビジュアルに使われている大英博物館を代表する作品です。

 

〇解説より

曲亭馬琴の読本『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)の完成を祝って版元が北斎に依頼。濃密な彩色、金の切箔が施され北斎の最も手の込んだ作品。源為朝の髪の毛や着衣が細やかに表現されています。

 

 

源為朝は幼少より弓の名手でした。そんな名手の弓を3人で引こうとしますがびくともしないという北斎の肉筆画。(弦をひく人2、木部を押さえる人1)為朝が訪れた島の住人と力比べをしているところ。

 

〇『椿説弓張月』とは

江戸後期の曲亭馬琴作の読本葛飾北斎が挿絵を描き人気を博す。源為朝を主人公として、為朝伝説を縦横に利用。「保元物語」「太平記」などの古典、中国の「水滸後伝」などを伝奇小説。九州、京都、伊豆七島琉球を舞台に、雄大な構成で波乱に富む筋を展開。⇒ pic.twitter.com/R9uNffv6Re

完成記念に版元が、馬琴と北斎に肉筆画を依頼し描かれたのが『為朝図』。北斎52歳。

 

〇為朝伝説

不遇の為朝を琉球に延命、その子が琉球王になると設定し、人々の歴史に対する憤懣を解消することを意図(コトバンクより)

終焉の地とされる伊豆七島大島には伝説が多い。その後鬼ヶ島に渡った伝説など様々なところに渡り生き延びさせている。馬琴の『椿説弓張月』は為朝の琉球入り伝説の集大成となりました。

 

〇傍らに立つ人は?

為朝の横に立つ角のある人物は、最初、般若かと思いましたが、鬼ヶ島の鬼ということでしょうか。馬琴が漢詩を寄せています。波は胡粉で描かれ、波しぶきと立ち上がる波が細かに描き込まれています。金は光に照らされる飛沫の輝きでしょうか?

英雄の伝承には、義経が生き延びてチンギスハーンになったという話しもあります。不遇の人物にシンパシーを感じ、英雄化して生き延びさせ後世に伝える。日本人の判官贔屓はこのあたりから伝承されてきたのだろうか?北斎画の優品です。

 

源為朝について 源氏の略系図 

「為義」の八男。頼朝の父「義明」とは兄弟。頼朝から見れば叔父。 平安末の保元の乱(1156)で父の「為義」に従い奮戦するるが、13歳のとき,父の不興を買い、鎮西(九州)に追放され,「鎮西八郎」と称す。保元の乱後、大島に流されたあと自害。

 

〇弓の張の対比

為朝は弓の名手で、強い弓張が画の主題に。一方、義経は戦略家ではあったけども、弓は弱く「弓流し」が描かれ対比的。強すぎるあまり弱みを描こうとしたということでしょうか?

twitter.com/korokoro_art/s

歴史の英雄がいかに伝承され描かれたのか。江戸時代になるとストリー展開のバリエーションも富みユニーク。

 

■神奈川沖浪裏

言わずと知れた大波。これまで何度となく見てきました。8000枚ほど摺られたことが板の減りからわかっています。現存するのは約100枚。初刷りでは200枚ほど摺っていたていたそうです。

大英博物館では初摺りを3点所有しているとのこと。そのうちの1点が展示されています。どの1点なのか気になります。さらには比較して見たいです。

参考:

北斎と英国の知られざる5つの物語 - 大英博物館の北斎展「Hokusai: beyond the Great Wave」 - 英国ニュース、求人、イベント、コラム、レストラン、ロンドン・イギリス情報誌 - 英国ニュースダイジェスト

 

これまで見てきた神奈川沖浪裏、よい状態の良品と言われるものをばかりを見てきました。しかしその記憶はあいまい。比べてみないことにはわかりません。良品ばかりを見ていると、一般の作品がどんなものなのかわかりません。

現代も技術を引き継いで摺られた神奈川沖浪裏があります。そうしたいろいろな浪裏を並べて見てみたいなぁ…という思いがつのってきています。後半に摺られた摺はどのくらい輪郭があいまいになるのか、摺師によるぼかしの違いは? 背景の空の色の違いとか…

今回《凱風快晴》の初摺はピンクのタイプがあることがわかりました。そのような存在を知ると、そちらも見てみたくなります。

 

背景の空… そして波に翻弄される舟

 

富士山に覆いかぶさるように手を広げて何かをつかもうとしているような波。この波は高速度カメラで撮影したのと同じだと言います。北斎は高速度カメラのような動体視力を持っていた!?と言われたりもしますが……

 

この形の波を描いていたのは北斎だけではありません。時代を遡ると他の絵師も描いています。⇒■既視感のある波

鈴木其一、酒井抱一尾形光琳俵屋宗達、さらに遡ります。

 

北斎の大波も、そろそろ新しい見せ方を模索してほしいと感じるようになりました。背景のパターンの違うものや、現代の浮世絵と並べたり。所蔵を隠して並べたり…

大英博物館のようなビックネームから借りた時は難しいと思いますが、一般的な摺というのもがどのような状態なのかも知りたいです。(比較展示というのはやりむずかしいのかなぁ…)

同時期に見た《神奈川沖浪裏》

さてどちらが大英博物館