コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■三菱一号館美術館:三菱の至宝展(2)見どころ・おすすめ・過去の展示と比較  

三菱創業の4代にわたる美術品蒐集の展覧会が三菱一号館美術館で行われています。2020年7月~9月に開催予定でしたが、コロナ禍により1年延長されての開催です。この間、ブラッシュアップされての登場。

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↓ 展覧会の章ごとの概要を、下記で紹介しました。

 個々の作品の見どころ、個人的なお勧め作品、過去の展示との比較など紹介いたします。*写真はブロガー内覧にて許可の上撮影

 

 

 

至宝と言われるお宝がこれでもかとばかりに展示されていますが、ただ見ていただけではその価値もわかりません。こんなところを注目してみればいいのかと思った点を紹介します。 

■《龍虎図屏風》橋本雅邦

展示は前期のみ、国宝ではなく重文ですが、個人的な一押しでお勧めの屏風です。見たことがない方は勿論ですが、見たことある方は尚のこと、ご覧になっていただきたいと思った《龍虎図屏風》です。

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橋本雅邦《龍虎図屏風》1896(明治28)年(1895) 静嘉堂 重要文化財

初めてこの屏風を見たのは、静嘉堂の「明治150年記念 明治からの贈り物」の時でした。突如目に飛び込んできた龍と虎。新しい日本が切り開かれ、その時代の熱気が渦巻いているようでした。

斬新、ダイナミック、絵画も新たな世界を切り開こうともがいているエネルギーを感じました。その力に押し戻されそうな強い圧まで伝わってきました。かなりインパクトを受け衝撃だったことが鮮烈に体の感覚として残っています。

 

この波、見て下さい!

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渦巻く波とその奥に表れる龍。からみあうような激しい波と飛び散る飛沫が、目に鮮やかです。静嘉堂で見た時は、落ち着いたすごみでした。その重厚感がこちらに向かってぶつかてくるような力に圧倒されました。

ところが、三菱一号館の展示は、屏風が発光しパワーが放射状に散乱して全方向に広がっていくようでした。溌剌とした解放感が感じられ、全く印象が変わりました。同じ作品なのに、向かってくる力の方向が違うのです。

ところ変われば・・・ と言いますが、ここまで印象が変わることに、驚きを禁じ得ません。おそらく照明や会場の明るさ、そして静嘉堂よりも引いて見ることができるスペースのゆとりが、印象を変えたのではと思います。

 

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この屏風は、京都で行われた第四回内国勧業博覧会の出品作で、岩崎弥之助が資金援助をしました。伝統的な龍虎図とは一線を画す斬新さから、当時は「腰抜けの虎」と酷評されたと言います。 

今見ても、圧倒され鮮烈な印象です。それなのに当時は「腰抜けの虎」に見えたとはこれいかにといった感じです。新しい表現に対する拒絶だったのでしょうか。

 

右隻の龍の目のあたりから、稲光が直線的に貫き右隻を飛び出していきます。f:id:korokoroblog:20210729191414j:plain

 

そして左隻も貫き、雲間から直進して岩にぶつかる激しさ。雷鳴がとどろき、波が激しく砕け散ります。不穏な空気があたりにただよいます。

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しかし金や白を背景とした色彩は華やかさが加わります。 狩野派の伝統をベースにしつつ、新しい表現を模索したチャレンジが伝わってきます。

 

「腰抜けの虎」は左隻の端から、やや角度をつけ右隻に向かってみると、その評価が理解できるような気がしました。f:id:korokoroblog:20210730010048j:plain

龍から発せられた稲光が虎に向かっています。その光に虎の腰が抜けているようにも見えてきます。龍虎の対峙。龍により威厳を持たせるため、虎を腰抜けに描くという新たな試みだったのかもしれません。

正面から見る虎と、左サイドから見る虎、印象が違うのも、意図されていたとか?

 

 

■《裸体婦人像》黒田清輝

腰巻事件で有名な作品。フランスで美術を学び、日本にも裸体表現を根付かせるべく孤軍奮闘した黒田清輝。渡仏時に制作(明治33~34年)帰国後、第六回白馬会で陳列しました。下半身を布で覆って展示されました。

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黒田清輝の腰巻事件の話は有名です。しかしその作品が静嘉堂文庫美術館にあると知ったのつい最近のこと。絵画の蒐集は日本画のイメージが強かったので、まさか油彩まで、しかもあの事件の作品を所蔵しているとは! 

常に新たな表現にアンテナをはり、それを受け入れ、作家のバックアップに尽力されていたことがわかります。歴史に名を残す作品を所蔵。コレクションの幅広さを物語っています。

いつお目にかかれるだろうと、気長に待っていたのですが、思いもよらず、この展覧会で遭遇ができました。

 

 

■《木造十二神将立像》 

十二神将立像とは、仏教における天部です。十二支と結びついており、頭の上には十二支の動物を掲げ、薬師如来を守ります。

3躯それぞれがガラスケースの中に入り、紫のサークルの中から、3方に睨みをきかせているようです。前期後期で3躯ずつ展示されます。

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慶派 《木造十二神将立像》鎌倉時代・1228(安貞 2)年頃 静嘉堂 重要文化財

運慶流の正統な作風が見られ、同一工房の作と考えられるとのこと。鎌倉時代前半の代表的な十二神将像の一つです。

 
第一印象「小っちゃい!」でした。こんな小さかったけ? 静嘉堂のロビーで流さている映像ではもっと大きいと感じられました。

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2017年、東京国立博物館で行われた「運慶」では、42年ぶりに12躯すべて展示というめったにない機会に実物を見ています。
 
ただ最後の展示室だったため、満腹状態となり、これ以上、消化できませんでした。1躯1躯を見る余裕はなく、十二の神将像を一つのまとまりとしてざっと見ていただけでした。
 
静嘉堂では、仏像も蒐集されているという認識を新たにした運慶展。そして今回、またもや見る場所で、こんなにも印象が変わるという実感をさせられています。(どうやら運慶展では高い位置に展示されていたらしい)
 

静嘉堂十二神将立像は、京都・浄瑠璃寺旧蔵と伝えられ、明治初期に寺を離れました。静嘉堂東博で所蔵しており、12躯全てがそろう神将像は大変貴重です。

 ・静嘉堂文庫美術館    (7躯):子神、丑神、寅神、卯神、午神、酉神、亥神
 ・東京国立博物館所蔵(5躯):辰神、巳神、未神、申神、戌神

静嘉堂7躯のうち6躯が前期、後期に分けて展示されます。

 ・前期:寅神 午神 亥神(7/8~8/9)
 ・後期:丑神 卯神 酉神(8/11~9/12)
 
いずれも表情やしぐさがユーモラスで特徴的、思わず吹き出してしまいそうになります。仏というより馴染みやすく人懐っこさを感じます。玉眼を備え、仏像がまるで生きているような生き生きとした造形です。運慶周辺の仏師と考えられるというのも理解ができます。

 

〇亥神像

お顔と兜の間に隙間があるように見えます。

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冑を本体とは別に造り、円頂の頭に被せてあるとのこと。写実をもとにした説明的な着想がみられると言います。近年、修復により頭部から、1228年の墨書がみつかりました。運慶派仏師の作と推定されているそう。

 

〇午神像

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「困ったなぁ・・・」「どうしよう・・・」「やってられないわ・・・」そんな声が聞こえてきそう。実にユーモラスな表情とポーズ。腕のあたりの色彩の残存状態から、鮮やかな姿が思い浮かびます。

 

〇虎神像

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こちらは凛々しい姿。躯の色や模様が残っています。黄色く見えるのは虎だからでしょうか?

 

後期にお目見えする十二神将立像は、どんな表情やポーズを見せてくれるのでしょうか?楽しみです。ところで静嘉堂には7躯の神将立像がありますが、1躯だけ、登場しません。それは子神像です。ちょっと気になります。また今度、十二神将像が全て再会する機会はあるのでしょうか?

 

 

以下は、なかなか興味を持ちにくい文字作品。 しかし作品を見るポイントが見えてくると捉え方も変わります。

 

■《和漢朗詠抄 大田切》 

〇料紙に注目

藤原公任撰による588の漢詩と216の和歌から成る『和漢朗詠集』を、華麗な唐紙に写し取ったものです。唐紙は舶載(中国)の料紙が用いられており、藍・薄藍・薄黄などに具引きされて、組み合わされています。

◆具引きとは
膠に胡粉をまぜた白い絵の具のようなものをハケで塗りつけることですが、この時、顔料を膠にまぜて色絵具のようにして色をつけた料紙を組み合わせています。

さらに、日本で金銀泥により花鳥草木、蝶や野馬などを描き加えたとても手の込んだ料紙が用いられています。唐紙の装飾が見どころ。

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紙に注目すると、ブルーのトーンが違う紙が張り合わされています。さらに金や銀で、絵が描かれています。漢詩や和歌をどのような紙に書くかにこだわっていたことがわかります。

 

〇文字に注目

書体やそこから醸し出す雰囲気を感じてみる。

書は誰が書いたのは不詳とされています。漢詩と和歌が書かれていますが、それぞれ特徴的で対称的な書風です。漢字は端正優雅な行書体、仮名は大胆で軽快、変化に富みます。

 

〇料紙と文字で作り出す世界観

和漢朗詠集』は、中国と日本の相対立した世界の響き合いをねらった文学。その世界観を料紙と文字の表現から、美的に「和漢」を表現しようとしたのではないかと考えられます。詩歌・書体・料紙の各々において和漢が競われています。

文字の内容がわからなくても、料紙や文字の雰囲気を見るだけでも伝わってくるものがあります。《旅立ちの美術》凝った紙、使ってるなぁ・・・ こんなところにも気を使って残したから国宝のなか・・・ と思いながら見ていました。あまり展示される機会がない国宝のようです。 

 

 

■その他要チェック

〇《与中峰明本尺牘》

中国の元時代を代表する文人、趙孟額が、 臨済宗の傑僧・中峰明本に宛てた書簡。

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◆趙孟頫(1254~1322)
元初の代表的な官僚、文人画家、能書家。南宋の皇族。三十三歳のとき元の世祖クビライに抜擢され、以来五朝三十五年を高官として過ごします。

 

書:書聖王羲之の書風に習熟、鋭さと伸 びやかさを持ち合わせた超孟頼独自の筆跡。 尊敬する師・中峰に対する思いが詰まった書簡六通送りました。長男や幼女、旅立つ肉親への悲痛をしたためるなど、私人としての率直なる心情の吐露もみられます。

 

◆中峰明本

終生官寺に住まわず、遊歴と隠遁の生活を送った禅僧で、自ら「幻住」と称していました。

 

「趙孟額」「中峰明本」 いずれも中国、元時代の高官と禅僧です。その2人の書簡が国宝?というわけわからなさ・・・ 中峰明本は、来日もしていません。大田切みたいに料紙に何か特徴があるわけでもなく・・・

でも、日本からは慕って多くの僧が参禅しました。日本に戻ってから「幻往派」を名乗ります。中峰明本は南宋から元にかけて「幻住派」を起こしその徳を讃えられていました。

日本の文化が形になる前のお手本は「中国」でした。日本から僧が中国へ渡り中峰明本に学び、持ち帰って広めていたのでした。鎌倉の建長寺円覚寺を開いた古先印元を筆頭につづきます。

日本の僧が師と仰いだ中峰明本。同様に中峰明本を師と仰いでいた中国の官僚で文化人、趙孟頫との手紙。そこから学ぼうとした。それが国宝となったのだと思われます。

 

〇《源氏物語関屋澪標図屛風》 

源氏物語』を題材に俵屋宗達が描いた屏風。
 ・左隻:第十四帖「澪標」(前期展示)
 ・右隻:第十六帖「関屋」(後期展示)

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俵屋宗達 《源氏物語関屋澪標図屏風》江戸時代 寛永8年(1631) 静嘉堂

前期に展示される「澪標」は、源氏が住吉へ盛大に参詣する様子が描かれています。(太鼓橋が住吉を意味)偶然同じ日に来合わせた明石の君は、源氏のきらびやかな様子を船の中から見て、身分の差を思い知らされ静かに帰るせつない心情が描かれています。

牛車は、明石の君の舟に背を向け、光源氏の姿を描かず裾を垂らして気配を感じさせます。船に乗っている明石君の姿も描かれていません。姿なき2人の間には、白浜の曲線が浜と海を分けています。すれ違う2人の心の機微を表現しています。

直線と曲線を使いわける大胆な画面構成と、緑と白を主調とした巧みな色づかいなど、宗達らしく国宝として評価される点とのこと。

 

「旅立ちの日本美術」にて

静嘉堂「旅立ちの美術」では一双で展示されていました。やはり左隻右隻そろって見たいです。しかし、左隻だけだと集中してみると散漫にならず、細部まで目が行き届きます。

岡本静嘉堂で見た時には、ちらっと気づいたものの、他に意識がいきあまり注目していなかったこと。曲線の白砂の中に、本当の砂のような粒々が施されています。光源氏と明石君を分かつ部分に繊細な表現が加えられており、じっくり観察ができました。

 

宗達屏風は、第4回内国勧業博覧会の時、岩崎彌之助が醍醐寺を訪れ、復興寄進をしたお礼として送られました。彌之助自身が、選んだのだそう。第4回内国勧業博覧会(1895年)と言えば、橋本雅邦の屏風で支援をしていました。

その傍ら周辺の寺院に立ち寄り、美術品や寺院を守っていく活動もしていたことがわかります。そんな姿勢が、結果、優良美術品をもたらす結果を呼び込んでいます。そして自身が選んだ屏風は、1951年に国宝となりました。見識眼の高さも伺えます。

 

 

〇《唐物茄子茶入》茄子

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「旅立ちの美術」でも見ていましたが、あまりよく理解をしていませんでした。

大坂夏の陣で罹災。家康の命で、塗師親子が焼け跡から拾い出し、漆継の技で修復。その見事な修復に褒美として茶入れを下賜されたと解説されていました。

 

ここでいう修復は、欠けた部分を補う程度の修復を想像していました。ところが大破し割れた状態のかけらを拾い集めて漆で継いだ様子を映し出したX線写真を目にしました。その様子から修復の意味するところを理解しました。

かけらを探し出し拾い集める執念。それを漆でつなげて成型。表面をまるで陶器のように作り上げる技術。壊れてもそれを元の形に戻し、愛でようとする権力者の美意識。そのつながりが、岩崎彌之助の手に伝わったという歴史の裏舞台が隠されていたのでした。

 

 

フィランソロフィー

三菱創業4代の社長によるコレクション。4人、それぞれの個性からなる蒐集ジャンルの違いは、幅広い至宝を集めることに成功しました。

彼らの興味の芽はどのような教育や環境によって形成されたのでしょうか?初代岩崎彌太郎は、下級武士の生まれ。武士のたしなみとして漢学を学ぶことが、必須の環境にあったと言います。それはのちの一族の教養のベースとなり、様々な方向に蒐集は広がっていきました。また当時の知識階級に求められる素養として漢学が位置付けられている社会背景もありました。

さらには 海外留学を経験し、欧米の実業家たちのフィランソロフィー (社会貢献) を学び、文化財保護、芸術家支援、 学術振興といった文化貢献に力を入れることに目覚めたことも・・・

常に新たな表現にアンテナをはり、それを受け入れ、作家のバックアップに尽力してきたことがコレクションに幅を加えています。単に金銭的な援助でなく新たな試みを認め受け入れる度量も備えていたことは、先鋭的な作家にとっては心強かったと想像されます。

今、私たちがこうして素晴らしい至宝を目にできることの裏で続けられてきたことにも思いを馳せながら、静嘉堂東洋文庫の珠玉の品を堪能できる機会にぜひ。 

 

 

■展覧会の予約について 

美術展はぶらっと立ち寄ったり、見たい時に見に行きたい。事前に予約するのが煩わしいと思ってしまいます。三菱一号館美術館「三菱の至宝展」では、「キャンセル期限:ご利用日当日まで」。当日、行けなくなっても、23:59までにキャンセルすればキャンセル料は発生しません。

また、時間に間に合わなかった場合も、当日中であれば入館可能です。かなり融通がきく予約システムになっています。事前予約は万一、行けなかった場合を心配してしまいますが、予約時間を過ぎてもその日のうちにキャンセルをすればOKです。 

webket.jp

前期、後期の国宝展示 前期は10点、後期は7点が登場。 

 

 ■展覧会概要 

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会 期:2021年6月30日~9月12日
休館日:月曜休館
開館時間:10:00~18:00

会場:三菱一号館美術館