Bunkamura ザ・ミュージアムで「ミロ展ー日本を夢見て」が開催されています。ミロと日本の関係は、語られてはいたものの、検証はされていませんでした。お互いが思いリスペクトしあう関係。展示された様々な資料から、強い結びつきが明らかになりました。
写真はブロガー内覧会にて本展主催者の許可を得て撮影しております。
展示の概略、章構成、それらの中から気になった作品やミロと日本との関係性を自分なりに考えてみます。展覧会を見る前に得た情報から抱いた印象。実際に見ての感想など「物質性」というキーワードに着目して考えてみました。
- ■章構成
- ■鑑賞前のミロの認識やイメージ
- ■鑑賞後に見えたミロ像
- ■ミロが見た日本
- ■《ゴシック聖堂でオルガン演奏を聞いている踊り子》
- ■物質性を感じたミロの作品
- ■ミロは物質性を表現した画家だった
- ■感想・雑感
- ■関連
- ■展覧会について
- ■脚注
章構成は6章、そして「ミロのアトリエ」の写真パネルや収集した日本のアイテムが展示されています。
■章構成
1「日本好きのミロ」
日本の浮世絵を張りつけコラジューした作品が出迎えます。学生時代のミロと日本の関係が窺えます。
ジャポニスム旋風が巻き起こったさなかにでスペインに生まれたミロ。周囲の友人たちも日本へ興味を持つ者が多く、日本へのあこがれを深めていきました。
2「画家ミロの歩み」
代表作が並びます。薄い青の背景に細い線などを配した「夢の絵画」と呼ばれる代表作シリーズや、一般的な画材ではない素材を効果的に用いた作品などが紹介されています。
ミロの実験的試みは、世界へ伝えられ日本でも紹介されていました。
3「描くことと書くこと」
「絵画と文字の融合」を追求したミロ。絵を「描くこと」と、文字を「書くこと」を同じようにとらえている様子がわかります。画面に文字を配し、絵画が詩であることを示しています。
4「日本を夢みて」
中央の大きな陶器は、旧友のとの共作。陶器制作にも興味を示しその作品が展示。
1950年代、 日本の評論家たちとの交流もはじまり、 やきもの、 民芸品、 書などさまざまなものを通じて、日本への興味が増していきました。
5「二度の来日」
日本を愛したミロは2度訪れています。日本各地を訪れ、国内に作品を残しました。
6「ミロのなかの日本」
日本での滞在がミロに与えた影響をうかがえるコーナー。墨絵のような絵画が並びます。
補章「ミロのアトリエから」
ミロのアトリエに置かれた様々な日本関連のアイテム。
■鑑賞前のミロの認識やイメージ
この展覧会を見る前、ミロの鑑賞は、横浜美術館で行われたトライアローグで、3館が所蔵するミロ作品を見ていました。(同じ作品も展示されていました)
左:11(1922-23)横浜美術館《花と蝶》テンペラ 板
中:14(1925) 富山県美術館《絵画(パイプを吸う男)》油彩キャンパス
右:15(1925) 愛知県立美術館《絵画》油彩 キャンパス ⇒ *1
内覧会直前には、林家たい平さんによる「新・美の巨人たち」で、ミロの日本好きを知りました。そして内覧会への移動中に、公式サイトの見どころを確認、公式ツイッターを軽く流し見した程度。
それらを見ていて浮かび上がってきたのが「物質性」というキーワードでした。
〇素材との対話
見どころとして4つのポイントが紹介されており、そのうちの1つ「新たな表現をめざして」の中で次のような紹介文がありました。
時に一般的な画材ではない素材を効果的に用いるなど「素材との対話」を深める一方、絵を「描くこと」と文字を「書くこと」を同じようにとらえたミロは、「絵画と文字の融合」を追求するようになります。
出典:見どころ | ミロ展―日本を夢みて | Bunkamura
「素材との対話」から「物質性」という言葉が浮かびました。また「絵画と文字の融合」から日本の「書画一致」が浮かび、西洋と東洋の筆の違いについて思い出されました。それらから「モノ」が持つ「性質」の違いという着眼点が浮かび上がってきたのだと思います。
〇物質性
日本とミロの関係。中でも書による影響が大きかったようです。展覧会でも、日本とミロの関係の裏に、書が果たした役割に着目しているようでした。
これまで見聞きしてきた、日本と西洋の違い。書と絵画の捉え方の違いを考えると、そこには「道具」「顔料」の「性質」の違いが存在していると理解していました。
大きな違いは、顔料の違い。「油絵具」と「墨」の違いは「液性」に現れています。それによって描く「道具」の違いが生まれます。筆の形や構造、毛の材質、太さなどに影響を及ぼします。ミロはそんな、道具や顔料のマテリアルの「物性」の違いを、来日によって肌で感じ取り、表現に生かしていたのでは?と感じました。
〇見る前に感じた物質性
番組で紹介されていたこの絵が目をひきます。そして墨が持つ物質性を顕著にあらわしていると思いました。
105《絵画》1966年 油彩・アクリル・木炭、キャンバス ピラール&ジュアン・ミロ財団、マジョルカ
いく筋も流れる墨の液だれ。これは明らかに油絵具と墨の性質の違いです。油絵具にはなかった表現方法。
また液だれは筆に含むことができる液量が多いことで可能となります。使われる筆も違います。新たな描く道具や顔料との出会い。日本で目にした「もの」の性質に着目。違いをいかに表現に取り入れるかの模索が始まったのではと思いながら訪れました。
〇液性によって表現される面と線
たっぷりの墨を含ませ、太い「面」で描かれた部分に対し、細く白糸のように流れる「線」が対比的です。たい平さんは、この垂れを、釉と表現されていました。私は釉より粘性の低い水溶液だからこそ表現できる伸びやかさや、スピード感のあるたれ具合だと思いました。
〇書画一致の日本との対比
【書画一致】
また日本では中国の影響を受け「書画一致」というとらえ方をします。漢字の一部は、象形文字として成立したことにも関係しています。そして絵も書も描く道具や顔料は同じ筆や墨を使っています。
つまり絵の延長に書が存在し、描かれた絵には書が加えられてきた文化があります。それは同じ筆で書かれていたことが大きいと考えられます。日本人は書と絵は同列で存在することを、感覚的に身につけてきたと思われます。
【西洋の絵と文字の分離】
一方、西洋では絵を描く時は絵筆を使い油絵具です。文字はペンでインクを使います。そのため絵と書は別ものととらえられていました。そんな習慣の違いを内在しているミロが、日本を訪れ、実際の書を描く光景を目の当たりにしたら… 大きなインスパイア―を受けるのは想像に難くはありません。
【線と面にみる文化の違い】
日本は線の文化、西洋は面の文化。顔の描写で鼻を描く時、日本では線で描きます。西洋は面(色)で描きます。それは筆の構造に影響しているのかもしれない。という話しも思い出されました。
【国による描くことの物質性】
ミロと日本。ミロが日本から受けた影響にフォーカスした展覧会。実物の絵画を目にする前に、これまで書や絵、筆などについて見聞きしてきたことを思いだし、引っ張りだしていました。
それらから、それぞれの国の習慣の裏に存在している「モノ」の「物質性」との関連という視点が見えてきました。ミロもそこに注目していたのでは?という予測を持って訪れました。
■鑑賞後に見えたミロ像
〇実際に見た印象
実際に書画のような絵を目すると、否応なく日本の書をイメージさせる作品です。見る前は、液だれの部分に強く惹かれていました。作品を目の前にすると、太く描かれた円の中に見える、幾重にも重ねられた墨の黒が迫ってきます。
105《絵画》1966年 油彩・アクリル・木炭、キャンバス ピラール&ジュアン・ミロ財団、マジョルカ
日本の書や墨絵は一発勝負。筆を重ねることはしません。しかしミロは黒い面で塗られた丸の中に、たくさんの黒を重ね、様々な黒の痕跡を残していました。そして黒と白だけで描かれた丸の中に遠近感が表されています。太く力強い黒の円の中にも、濃淡による遠近があります。強く日本を感じさせながらも、西洋の絵画的要素も組み込まれています。
墨の飛び散りや跳ね、画面からのはみ出し。墨の液性だからこそ大量に蓄えることができ、描きだされる太い線は面を作ります。作品から描かれる軌跡がイメージされました。飛びや跳ねあとが、作品を立体的に見せてくれます。
(こちらの動画が頭に浮かんでいました⇒*2)
描かれた線だけでなく、液体の墨と筆によって作り出される「軌道」。液性、比重、重力… それらによって作り出されている立体的な造形を感じることができます。これまでの絵具では表現しえなかった新たな手法です。
そこにミロ本来の独自性が加わりました。赤や青が加えられ、新境地へ昇華されたように感じられました。表現の可能性を試す実験をしているようです。
〇究極のシンプルさの中の複雑さ
ミロがたどり着いた境地。それは究極のシンプルさ。禅のような世界観に達したようにも感じられます。あまりにシンプルすぎて、最初は流して見ただけでした。
106《絵画》1973年 アクリル・木炭、キャンバス ピラール&ジュアン・ミロ財団、マジョルカ
ところが、よくよく見ると… 決してシンプルではないのです。黒の中に様々に描かれた黒が存在し、真っ白な背景と思った中に、あえて別の白で何かの形が描かれていました。
この絵は決してシンプルな絵ではない。シンプル化された奥に潜む複雑性を表現している?日本の作家と融合し、モノクロの先にある世界を大きく広げている?そのことに気づいたのは、内覧会終了間際でした。
静けさの中に潜む騒がしさ… ミロがここに押し込んだものはなんだったのか? もっと見たかった。もっと時間があったら… と後ろ髪をひかれる思いであとにしました。
〇日本のモノが持つ物質性で実験を繰り返した
ミロが来日して見たもの、手にしたもの、そして体で感じ取った体験の数々。それらを戻ってから、様々な形で実験を試みたのだと思います。「物質」の特性を考慮しながら組み合わせを変えたり、混ぜ合わせたりしながら、実験を繰り返す。そうしたら、こんなものが生まれました。そんなミロの声が聞こえてきたように思います。
ミロは次のように語っていたそうです。「日本の書家たちの仕事に夢中になったし、確実に私の制作方法に影響を与えています」と。
■ミロが見た日本
〇ミロのアトリエから
ミロが日本を訪れ、目にし手にし、持ち帰ったものや、周辺がコレクションしていたものが展示されています。
線の表現を主とする日本の「筆」の中には「刷毛」もあります。油絵の筆に通じる表現を見出したかもしれません。毛のボリュームも興味深かったのではないかと思われます。この毛に墨をたっぷり含ませることによっておきる垂れ。あるいは黒で「面」を作りだせること。さらに様々な黒を重ねる合わせることにつながります。
たわしのシュロも毛と同質に見えたのでしょう。筆の毛の束ね方の違いで、「面」を作る道具として認識されたのかもしれません。また毛の固さの違う道具としても利用できると…
〇日本の「モノ」コレクション
ミロの周辺者がコレクションしていた大津絵。
右は線の太さの違いで表現される大津絵のトラ。
左は日本民芸展目録(1950年)の表紙です。
日本好きなミロの友人たちのコレクション( 大津絵や古陶 磁、こけし、 風呂敷、 こいのぼりなどが一堂に)を集めた日本民芸展開催。誰の目にもこれらの民芸品が「全くミロ 「そのものだ」と語ったと伝えられていると言います。
◆大津絵 ⇒*3
日本の「モノ」から与えられるインスピレーションがさまざまな表現につながっていったのでしょう。
ミロの書に通じる作品を見ていたら、武田双雲さんの作品を思い浮かべていました。⇒*4
■《ゴシック聖堂でオルガン演奏を聞いている踊り子》
3章でひときわ目を引く大型作品2点。そのうちの一作品。
〇描かれた背景
日本の墨と和紙を用いて描線の太さや濃淡の実験を繰り返し行っていたミロ。文字を絵のように扱う描き方は、日本の書への関心を高めました。戦争によってマジョルカ島に逃れた1940年頃からのことになります。
書を思わせる、自由闊達な黒い線と、従来からの丁寧で細い描線による人物たちが共存する作品が《ゴシック聖堂でオルガン演奏を聞いている踊り子》最も美しい例の一つとされています。
41《ゴシック聖堂でオルガン演奏を聞いている踊り子》1945年 油彩 キャンパス 福岡市美術館
〇解説によると
中央の太い墨で文字のように描かれた部分がオルガン。そのまわりにオルガン奏者や踊り子が細い線で取り囲んでいます。太く黒い線で描かれた星、グレーの背景の外側の黒の中には白い細い線で星が描かれています。文字のような太い線と、従来の細い線を使い分けまとめ上げている。
〇私の目には…
上記のような解説がありました。しかし中央の黒いドローイングはどう見てもオルガンには見えません。十字架を指揮棒に見立てた指揮者。猫の耳に見えるのは猫を擬人化して指揮者に。右下の●とL型につながった部分がパイプオルガンのペダル。グルグル回っているのはパイプオルガンがパイプの中を反響する音のイメージ。
周りの赤や緑、白で丸く塗られた部分や、ラッパのような形状は音の描写。それはカンディンスキーが線や色の面で音を表したことに通じるものを感じさせます。ミロは、おならの音を線で表しています(1925年) 作品同フロアに展示されていました。
39《絵画=詩(おお!あの人やっちゃったのね)》1925年 油彩 キャンバス 東京都近代美術館
⇒〇ジョアン・ミロ「絵画詩(おお!あの人やっちゃったのね)」(近代美術館にて)
オルガンと称される黒い筆で描かれた部分は、線の太さを意図的に変化させていることが読み取れます。しかしその線からは、筆が持つ物質性のようなものはあまり伝わってきませんでした。(日本へ初来日するのは1966年。この作品を描いた25年後のこと)
画面の至るところに描かれた目が特徴的。特に赤い大きな目の色調が印象的でした。
〇この絵に関する疑問
Q 黒い部分を「オルガン」と語ったのはだれ?
どうしても、オルガンに見えなかったので、それはミロが語ったことなのか、後世、研究者によって語られたことなのか、またその認識は美術の世界では共通認識されているのかという疑問を抱きました。
ミロの研究はまだ多くはされておらず、この黒のドローイングのような線が何を表しているかの議論はされていないとのことでした。研究者の一説のようです。
所蔵する福岡市美術館にこの絵の解説があり、ミロの言葉が示されていました。⇒*5
Q作品タイトルをつけたのは?
《ゴシック聖堂でオルガン演奏を聞いている踊り子》というタイトルをつけたのはミロ本人だということがわかりました。「オルガン」と「踊り子」は描かれているのだろうということは想像されますが、ミロのことですからそれらをどのように表現しているかはわかりません。
Qグレーの部分にはぎ取ったあと、何か意味がある?
単色で塗られることが多いと感じていたミロの作品。ここで気になったのは、グレーの一部をこすってはぎ取っていることです。これは何かを表現しているのか、何かを意味するのでしょうか?
■物質性を感じたミロの作品
〇削り取られたグレー色
日本に初めてやってきた作品の中に、グレーの部分が削り取られていました。
26《焼けた森の中の人物たちによる構成》1931年3月 油彩 キャンパス ジョアン・ミロ財団 バルセロナ
■《ゴシック聖堂でオルガン演奏を聞いている踊り子》 のグレーの部分と同様です。これが何を意味しているのかわかりませんでしたが、もしかしたらキャンパス地を見せようとしているのではないかと思われました?
「モノの性質」ということに着目していたので、素材感を見せてるのでは?という部分につながりました。それは、日本の陶芸に興味を持っていたというところからのつながりもありました。
陶芸では釉をすべてにかけずあえて残して下地を見せるということが行われます。あるいは削りとってあえて見せることも… 絵画でそれと同じようなことを行おうとしたのではないかと思いました。(この絵が描かれたのは1931年。ミロが陶芸制作を始めたのは1940年以降。)制作前から日本の陶芸に関する情報を得ていたのかどうか…
〇キャンパス地の粗い質感
下記の2つの作品を見た瞬間、キャンパス地の違いが目に飛び込んできました。
左:47 《夜の人物と鳥》1944年 グアッシュ、パステル、キャンバス
右:48 《夜の中の女たち》1946年 セゾン現代美術館 油彩、キャンパス セゾン現代美術館
目の粗さの違い。それを「画材」や「色彩」が加わることによってより強調されて強く引き出そうとしているように感じました。どんなキャンパスに描いているのか。それを伝えるための手法であるような…
〇描いたものより気になった描く材質
「何を」描いたのか、ではなく「何に」「何で」描いたか。そのことに興味が向いていました。この2作が並んだからこそより、キャンパスの素材の粗さや色味が明確になっていたように感じました。右側の《夜の中の女たち》のキャンパスの質がなんだか異様・・・・
ここで感じた明らかな違いは、左のグアッシュで下塗り(?)された影響も大きかったように思われます。キャンパスの目が見えにくくなり、右の布地の粗さがより強調され目立っていました。こんなキャンパスは初めで、目もそろっておらず歪んでいます。また茶色の色も目立ちました。繊維の色の違いなのでしょうか?こちらもこんな色はスは初めてです。(グワッシュの白との対比で強調されている可能性も…)
なんでこんな粗いキャンパスなのか。ここでも素材の違いを見せたかったのかな?
その理由らしき解説を左の作品を所蔵する、ポーラ美術館の解説で、自分なりに読み解くことができました。 ⇒*6
〇制作背景をキャンパスの物質性で伝える
戦禍に巻き込まれ、キャンパス入手もままならないこと。粗いキャンパスしか手に入らない窮状を訴えていたのでした。それと同時に、その質感の中に素朴で自然なカタルーニャの大地も見ていたこともわかりました。
■ミロは物質性を表現した画家だった
以上のことから、《ゴシック聖堂でオルガン演奏を聞いている踊り子》のかすれも、何かを表しているというよりは、素材感を見せているのでは?と感じていました。
内覧会で解説をされた学芸員さんによると、それぞれのモチーフによって何を表したかが明確なものもあれば(星など)わかっていないものもあると言います。
「かすれは他の作品でも見られますが、これは何かを表しているというよりは、キャンパスなどの質感を見せるためと考えられます。」
「ミロは物質性にこだわって制作していたので、描いた絵具を削って下地を見せたりするという手法を用いていました。」
「また、物質性から、描いている状況をイメージさせるということもしていました」
それらの言葉で、全てがつながりました。今回の鑑賞は、最初に「物質性」というキーワードを中心に鑑賞していました。一貫して「物質の特性」に着目していたため、途中、それにとらわれすぎてしまっているかな?と思う場面もありました。
しかしミロが「物質性」に着目していたことがわかり、ミロの精神に少し近づけた気がしました。それぞれの作品で感じたことは、一連の流れでつながっていました。
■感想・雑感
今回のミロ展の一押しは、墨で描かれた3連作(⇒)と思っていました。
〇ダークホース? 《夜の人物と鳥》《夜の中の女たち》
ところが下記2点、《夜の人物と鳥》と《夜の中の女たち》の絵が妙に気になりました。キャンパス地の目の粗さが際立ってみえたのです。
左:47 《夜の人物と鳥》1944年 グアッシュ・パステル、キャンバス ポーラ美術館 *7
右:48 《夜の中の女たち》 1946年11月2日 油彩 キャンバス セゾン現代美術館*8
〇描いたモチーフでなく素材に着目
ミロはアトリエでさまざまな絵具と 紙やキャンバスとの相性を探るような実験を 行なっていました。そこに日本の墨や和紙も含まれていました。
この作品では、墨や和紙ではなく、 ジュートのようなキャンバスを使っています。これまで見てきたキャンパス地とは明らかに違いました。
あとで解説を見ると、木枠に貼らない キャンバスに、乾いた絵筆で布目を強調 するように擦り付けたり、 パステルを用 いてみたりと、複数の技法で人物たちを描き分けているとのこと。それによって、一見記 号のような人物のそれぞれに異なる奥行き が生まれたと言います。しかし人の部分は全く見ていませんでした。
解説の「ユーア」「ユーモア」と直したが跡、ところどころに(」)の鉛筆の印。墨のあとを追っていたけど、目を引いたのはこのキャンパスの質感。《森の中の人物と鳥たち》1939 麻袋地に油彩 この気になった粗さは麻袋でした。 pic.twitter.com/r7eQORk7A9
— コロコロ (@korokoro_art) 2022年4月7日
〇素材へ誘導されていた?
この作品に限らず、ミロの作品は全体を通して、最初に目が向かうのは「背景」でした。
ただ、これは、自身が絵を見る時の癖のようなものだと認識しているので、ミロに限ったことではないと思っていました。何もない背景をどう描くのか。何もないところに何を描いているのか、まず着目する傾向があります。今回はその傾向が特に強く出ていました。
画家は構図で視線誘導し見る対称に向かわせます。しかしそれには乗せられないように、私は私が見たいところから見る!と思ってきました。今回もそう思って、背景に着目していたのです。
しかし、今回はいつもより増して背景に目が向くのを感じていました。ミロは「素材」「材質」「質感」などに目が向くような仕掛けていたのではと感じました。それに乗せられてしまったような…
〇描かれた時代背景を知る
同じ展覧会も、何を見るか。どこから見るか、どんな順番で見るか… それぞれの見方があります。
その上で、画家が描いた状況や時代背景を知る前と知ったあとの変化・・・・ 今回はこの作品が「戦争」の渦中に書かれたことがわかりました。その苦境を表現する手段として、素材感で伝えようとした表現方法に驚きました。
キャンパスが手に入らないという状況。苦慮の末、コーヒー袋のジュートをキャンパスに使わざるをえなかった。しかもその袋は非常に粗雑なものです。
たとえ時代背景や描いた状況がを理解していなくても、作品の素材感からなんらかのひっかかりを感じとることができた、初めての鑑賞体験でした。
そして悲惨な状況を伝えつつも、素材が持つぬくもりの質感から、故郷の大地を想起させようとしていたことにも心打たれます。(⇒*9)
〇色からの解放、そして…
さらに、晩年は色から解放され、その限られた条件の中で表現の世界をより複雑に深淵なものに作り上げていった様子が伝わってきました。
その先には宇宙の存在も描かれているのでしょうか?
■関連
■ミロ展 ―日本を夢見てー Bunkamuraザ・ミュージアム ←ここ
■ミロ展 ―日本を夢見てー(2) Bunkamuraザ・ミュージアム ←次
■展覧会について
会 場 Bunkamura ザ・ミュージアム
会 期 2022/2/11(金・祝)~4/17(日)
■脚注
*1:■トライアローグ展のミロ
「FLOW」人間にはコントロールできない自然界のエネルギーやパワーに触れて可視化。重力と動力だけで描く筆跡のないドローイング。美とは?強い、惹きつける。美という概念を持てること。私の概念は、自然の見えない力、造形を表現することに美を感じるのだと思った。
*3:■大津絵
大津絵に興味を持ってから、これまでいろいろ調べてきました。
■大津絵からの繋がりや広がり - コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記
そこでわかったことは、目の肥えた人たち、美に一過言のある人たちが、国内外問わず大津絵に着目し、コレクションしてきたという歴史があったことです。ミロやミロの周辺の人たちも大津絵をコレクションしていたというのは、びっくりしたとともに、納得でもありました。
近代のジャポニズムブームによって浮世絵に注目した西洋の画家は多いです。浮世絵だけでなく大津絵に注目した欧米の文化人や芸術家も多くいました。そんな展覧会も過去には開かれていました。
成田祐輔さんの動画で対談されており、そこで語られていた言葉を思い出しました。
〇筆や半紙を眺める =物質性を見ている
武田双雲さんの専門、量子論の話から、今をどういう意識や感情で受け取り、未来に投げるかが大事と。周りの人にどういう波動や影響を与え変化させるか。その瞬間のワクワクをどれだけ伝えらえるかを考えながら、筆や半紙を見ている。
という言葉。双雲さんが見つめている筆や半紙。そのまなざしの奥には、きっとモノが持つ「物質性」を見ているのだろうと思いました。
〇「差分」 乖離の豊かさ
また「差分」という言葉も自分の鑑賞や学びと共感する部分を感じました。2次元、3次元、4次元の時間軸があって、4次元の時間軸は過去から未来の一方だけという弁には騙されない。それを破って量子の電子雲のように重ね合わせる… そこから、心理的時間と物理的時間の差分を研究していると。乖離の豊かさに面白さがある。
今ここにしかないというものの複雑さを、日常生活の中で作り出すか。過去から受け取ったものを未来に投げる時、受け取った時点の波動。量子力学の観測問題。どういう意識や感情で過去のものを受け取って投げかけるか。
という話し。既存の評価や言説にはとらわれない。疑問を持つ。また「見る前、見たあと」「知る前、知ったあと」におこる自分の中の変化。それが「差分」でそこを重視ししてきたように思います。
〇物質性の観察
そのよりどころとなっているのが、私の場合は「物質性」から紐解いてきました。また同じものを時間や場所を変え、時を経て何度も見ることによる「観察」なのではないか。最初は素通りしてしまったけど、何か気にかかってもう一度みてみる。近づいて見る。するとモノトーンの中に何かが潜んでいたことがみつかる…
〇差分=爆発前とあとの宇宙のエネルギー
そこでおきる乖離=差分 それが大きければ大きいほど自分の中で反響して跳ね返ってきます。それが、作品から感じる「宇宙観」なのかも。インフレーションといわれるエネルギーに通じるのでもしれません。
2017美術展ランキングを選んだ時の基準。見る前と見た後、自分の中の変化が大きかったこと。その後の鑑賞に大きな影響をもたらしてくれたということをポイントに選んでいました。⇒ ■2017 展覧会 ベスト10 - コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記
武田双雲さんならミロをどのようにご覧になるのだろうと思っていたら、インタビュー記事がありました。
〇参考:アートとは? ⇒ 新しいかどうか…
成田悠輔は現代アートだ!by武田双雲【成田悠輔/切り抜き/武田双雲】 - YouTube
0:00 成田悠輔はアートだ!
1:36 成田悠輔の発言はイタズラが入ってる?
2:50 アートは新しいかどうか
4:43 武田双雲がやってるルーティン
*5:■《ゴシック聖堂でオルガン演奏を聞いている踊り子》www.fukuoka-art-museum.jp
要約すると、ミロは静まり返った聖堂に入ると、身の毛のよだつ雰囲気を感じた。そこにはオルガンを練習する音だけが響いており、心がおちついた。これを絵にしようと思ったと
*6:■《夜の人物と鳥》ポーラ美術館解説
1940年代初頭に星を画面全体に配した連作〈星座〉を制作した後、ミロのデッサンは単純化するにつれ、カンヴァスの地の果たす役割がしだいに大きくなっていく。 本作品は、第二次大戦が終結する前年に制作された。大戦中のミロは、戦禍を避けて各地を転々としながら制作を続けていた。画材の入手もままならない状況に置かれたが、ミロは1944年に陶芸と彫刻の制作をはじめ、素朴な自然の素材に触れることで活力を得た。本作品でも、ミロは温かみをもつカタルーニャの大地のような粗いカンヴァス地を用い、この困難な状況を絵画表現に生かしている。 ミロは晩年マジョルカ島パルマにアトリエを構え、彫刻、陶芸、壁画、版画、詩と多彩な芸術活動を行ない、90歳で歿した。
こちらの作品の目は細かいと思ったのですが、粗い素材だったようです。それをグアッシュで処理してカモフラージュしていたように思いました。
*7:■47 《夜の人物と鳥》1944年 グアッシュ・パステル、キャンバス
ポーラ美術館
*8:■48 《夜の中の女たち》 1946年11月2日 油彩 キャンバス セゾン現代美術館
1946年夏~年末、ミロは夜の中 の女性や太陽の前の女性というテーマで何枚も描きました。そのシリーズの中の一作です。モチーフの人物は、目玉がぎょろりとし怪物のよう。
そのモチーフは、バルセロナが独裁者やその圧政によって苦しむ人々の表情として描かれたもの。そんな人々をすくい出すように、月や星がほのかに光る静かな 情景へと連れ出していたことがわかりました。登場人物は、置かれる場面によってその性格が変わると言います。
*9:■グアッシュと陶芸、民藝とのつながり(2022.03.22)
ミロが描いた技法がグアッシュ
◆グアッシュとは コトバンクより
水彩絵具の一種で,とくに厚塗りや不透明な彩色に適したもの,またこれを用いて描いた絵をいう。 不透明水彩ともいう。 ただし,日本では学童用の廉価品を〈不透明水彩〉,専門家用高級品を〈グアッシュ〉と区別することがある。
グアッシュの技法によって白く塗られたキャンパス地は、その質感が隠れています。一方、荒々しい茶色の粗いキャンパスの目地は際立ち対比的に協調されます。
この作品の展示の周りには陶芸作品が展示されていました。画材の処理は、陶芸における化粧土や下地処理などに通じるものを感じまそした。素焼きにそのまま釉をかた状態は、キャンパスの目の粗さをそのまま生かしてるのと同じでは?
また、大津絵も展示され民藝に興味があったことも伝わってきます。「民藝運動」を先駆した柳宗理は「大津絵」と「泥絵」を日本の民画と語っていました。
グアッシュと泥絵。泥絵は胡粉を混ぜることで、絵具を泥状にした粗悪だが廉価な絵。不透明感が加わります。グアッシュも、不透明感を出すための媒材を加えています。白色の地塗りによる不透明さは、何か共通するものを感じます。
■グアッシュの作品と陶芸作品の関連(2022.03.23)
ミロが陶芸に興味を持ち始め、制作を始めた時期と、この作品の制作時期がほぼ一致していました。ミロの年譜 ⇒