コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■「イスラエル博物館所蔵 印象派・光の系譜」 特別展示「睡蓮:水の風景連作」

イスラエル博物館所蔵 印象派・光の系譜」が1月16日まで三菱一号館で行われていました。その際、国内で所蔵される睡蓮が3点が同時に展示されるという特別展示がありました。すでに終了しておりますが貴重な展示。メモを元に思い出し記録です。

会期末の夜間オープンを利用しました。現在、あべのはるかす美術館を巡回していますが、そちらでは展示されていません。次のモネとの再会の時に、鑑賞の手がかりになれば…

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写真は、イスラエル博物館所蔵の《睡蓮の池》 ライトアップされた木の光の粒がの光の粒が水面をきらきら輝かせています。三菱一号館美術館では、独自企画として、この作品と同年代に描かれた「睡蓮:水の風景連作」を展示する特別な一室が設けられました。

 

 

イスラエル美術館蔵 睡蓮

今回、初来日した目玉でもあるイスラエル美術館所蔵のモネ《睡蓮の池》です。

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クロード・モネ《睡蓮の池》(1907年)

 

イスラエル博物館 珠玉の印象派コレクション

イスラエル博物館には、約50万点の文化財を所蔵しています。その中には印象派の珠玉なコレクションも含まれます。名だたる印象派の画家の中でも代表格のモネ。印象派の光と色彩表現の新たな系譜を見せてくれています。

なかでも、睡蓮の連作で有名なモネの《睡蓮の池》は、特に「当たり年」と評される1907年に描かれたものです。

 

〇「睡蓮:水の風景連作」展

1905年に、モネはパリのデュラン=リュエル画廊で「睡蓮:水の風景連作」展を開催しました。1903年~08年のあいだに48点の睡蓮を描きました。

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これらの連作を1室にまとめた展覧会を開催しています。この作品はそのうちの1点です。穏やかな水面に睡蓮が浮かぶ光景。雲や空、木々など池の外の情景が水面に映し出されています。

 

関連:《睡蓮の池》について 

 

■国内のモネ睡蓮が一部屋に

三菱一号館美術館の1室が、3方向、モネの睡蓮で囲まれました。

 

その部屋は2階の特別展示室です。

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展示された作品は次のとおりです。(左から)

和泉市久保惣記念美術館大阪府和泉市)の《睡蓮》(1907年)
・DIC川村記念美術館(千葉県佐倉市)《睡蓮》(1907年)
東京富士美術館(八王子市)の《睡蓮》(1908年)(11/30~)

この展覧会には12月と1月に2度、訪れました。

 

 

■TAKE1

〇12月に初めて見る

最初にこちらを見たのは昨年(2021)の12月。その時の印象はほとんど記憶に残っていない状態。数々の印象派作品が押し寄せてきたようで圧倒されていました。この空間も押し寄せる波に飲み込まれてしまった感じで時間をかけて見る余裕はありませんでした。

またこれらの睡蓮が、モネの画業のいつ頃に描かれ、どんな状態の時の作品か、把握しておらず、なんとなく眺めてきたという感じで終わりました。

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〇貴重な展示をかみしめながらも

ただ、このミニマムな一室の中央に立ってば、動くことなく3つの睡蓮を見比べることができる。そんな貴重なシュチュエーションは、今だけのとてもありがたい展示というという感覚にひたっていました。

「連作を並べて見る」のは大好きなテーマです。しかし関連する作品を並列で鑑賞できる機会は多くはありません。会場内を行ったり来たりさせられることが多いので、中央に立てばよいという好環境は唯一無二。せっかくの機会なのに作品を把握しきれていないもどかしさでいっぱいでしたが、疑似オランジュリー感に浸ることで満足することに。

 

 

■TAKE2

〇事前の予習、準備

2度目は、この空間に浸りって心ゆくまで堪能してくる! 入館が遅くなり時間が限られていましたが、他の作品を見ることができなくても、この空間の展示を体にしみこませておこうと思っていました。

今回は図録であらかじめ、展示作品と同年に制作された《睡蓮》の把握をしたり

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マルモッタンモネ展(2015)の、同じ構図の《睡蓮》をコピーし現地で比較しようと思ったり… 

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これまでのモネ鑑賞を振り返ったり…

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また「画家別」に年代を追えるよう作品リストを、カラーリングしたり… 

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画家ごとの変遷を見ることは、時間がなくなり断念することになりましたが、いつもより下準備に時間をかけていました。

展示室は、人がいっぱいでした。どこから見ようか……と考えましたが選択の余地がありません。空いたスペースができたところから見ることに。

 

和泉市久保惣記念美術館蔵(1回目)

最初に見たのは「久保惣記念美術館」の睡蓮。この作品の前あたりにスペースができたのでその場所から・・・・

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どうやってみようかと考えましたが、作品を前にじっくり立ち止まってそのまましばらく見ることにしました。5分ほど見ていたでしょうか?するとこれまで見てきたモネの睡蓮が頭の中でぐるぐる回わり出しました。

この絵は、1日の夕暮れ時、時間は何時頃でしょうか?季節はいつごろなのかな?水面は画面の奥方向に奥行を広げ、平面が3次元空間になってきます。そして、時間のゆれや季節のゆれを想像させ、4次元の世界へ導きます。

20分ほどこの前に佇んでました。この絵が発する光の中にどっぷり体ごと浸かったような感覚になりました。そして、中央の《睡蓮》に目を移します。

 

〇DIC川村記念美術館蔵《睡蓮》

その瞬間、時間がグワンと巻き戻された!と思いました。時計が瞬時に回り、一気にワープした感じ。時間の空間を瞬間移動させられたような感覚でした。

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場所は明らかに先の《睡蓮》と同じ場所です。瞬間移動なのに、その間の光の移り変わる変化も伴っていました。

時間の逆戻り。「時間を遡る」というありえない移動なのですが、それに伴うわずかな変化の連続。感覚的には捉えにくい変化です。しかし気づいた時には明らかに大きく変化している。あたりを次第に覆いつくしていく空気感を逆回しで体験したようでした。

それはこれまで夕暮れ、日没、夜景や、夜明け、日の出など、いろんな場所で定点観測してきたことが反映されているように感じました。これまで見た光が走馬灯のように回わり、そこで目にした光や大気が、この2枚の絵の間を埋めてつなげてくれたのです。

korokoroblog.hatenablog.com

 

DIC川村記念美術館解説より ⇒*1

 

モネが、同じ場所で光の変化を体感しながら、ここ!と思った瞬間を素早くキャッチ。筆を走らせキャンパスに閉じ込めます。その封じ込めた瞬間を一緒に体験したようなリアリティーを伴って感じることができました。

ルーアン積み藁、ポプラなどの連作を手掛けながら、1日中光を追いかけていたモネ。

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その後、場所の移動はせずに、自庭に留まって睡蓮を描きます。そこには池の水を通して、見えない大気も映し出されるようになりました。

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展示室は混雑していましたが、ちょうど部屋の中央あたり、3点の睡蓮の中間地点に位置どることができました。動かずに3点のモネを見ることができるポジションです。その日は、3~4回、この部屋を出たり入ったりしながら時空を行き来しているようでした。

 

〇現地調達した『図説「モネ」睡蓮の世界』を休憩時間に

ここで一度、休憩を兼ねつつ3階のソファーへ移動。ショップで購入した安井裕雄著『図説「モネ」睡蓮の世界』を閲覧ました。

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持参した資料を確認しながら、

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手にした書籍は、1907年に制作された《睡蓮》がより分かりやすくまとまっていました。

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図録のリスト

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1907年に描いた一連の作品を見ていたら、イスラエル美術館から来た《睡蓮の池》も、これらと同じ場所で一連の時間の連なりの中にあることを理解しました。これまでは、似たような構図ではあるけども別物と思って見ていました。

もう一度、3階の展示室に行きイスラエルの《睡蓮の池》を見に行きました。展示場所が離れていたことと、光の加減が全く違っていたので、同じ流れで描かれたという認識がありませんでしたが、明らかに一連の作品であることが理解できました。

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右は2015年に見た、マルモッタン・モネ展の夕景の睡蓮。こちらも同じ一連の流れ。事前の予習で図録の一覧からそのように認識はしていたのですが、実感が伴っていなかった感じでした。

 

これは、同様の景色に年末、遭遇したことが影響しています。ほぼ同じ場所で約2時間後に撮影しました。15時と17時頃の光の変化です。12月30日(冬至(12/22)に近い日)の夕暮れ時。たった2時間の間に・・これだけ激的に変化していることに驚きました。

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イスラエル博物館」《睡蓮の池》⇒「DIC川村記念美術館蔵」⇒「久保惣記念美術館蔵」という一連の時間経過が一直線上に並んでいた作品だったことが実感として結びつきました。

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連続的に体験しているときは、体感としての変化は感じにくいものです。気づいたら大きく変化していた。あるいはあとで画像を比べたらこんなにも変化していたと実感刺させられます。

そしてこの一連の流れの間に、マルモッタン・モネ展でみた《睡蓮》がピースのようにはまりました。’(右から2番目)

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マルモッタンの《睡蓮》の記憶はありません。書籍の写真に頼るしかない状況です。画像でしか判断できませんが、久保惣記念美術館蔵」の前の時間帯ではないかと思いました。

以上のような考察をしつつ、もう一点の、東京富士美術館の作品を見にいきました。

 

 

■TAKE3

東京富士美術館

戻ってきて目にに入った富士美術館の睡蓮。見た瞬間、仲間外れ感をいだきました。これまでは一連の《睡蓮》と同じグループの仲間に思っていました。しかし全く違う異質のものに感じられたのです。

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明らかに描かれた場所が違います。お天気も薄曇り。描いた日も違う。制作年は1908年。なんだか仕切り直しされてリセットした印象。

富士美術館の解説から⇒*2

 

思い返すと2度目にの向けて予習する中で、この作品は別の場所を描いたという認識はしていました。ここで「認識すること」と「実際に見て体感として受け止めること」の違いを感じていました。

それは自分が見たり感じたりしてきたことを上書きすることで、言葉上の理解ではなく、体の中に浸透した理解に変化したように感じられました。

 

〇見る順番を変えたら

この3点の睡蓮は、見る順番を変えたら印象は全く変わるのではないかと想像されます。途中、休憩を入れましたが、そのままの流れで東京富士美術館の睡蓮を見ていたら印象は違ったでしょう。

淡くコントラストの少ない作品。比較的メリハリのある「和泉市久保惣記念美術館蔵」のあとだと、ぼんやりはっきりとしない睡蓮で、物足りなく感じてしまうかも。休憩を入れたことでリセットされ、新鮮な感覚で見ることができました。

一方、富士美術館の睡蓮から段階的に、色調を上げて見たとしたら・・・・と想像してみました。鑑賞にはその時のいろいろな条件が、気づかないところで影響しているのかもしれません。また混雑状況によって、見たい順に見れないという外的要因も発生します。

〇鑑賞者ウォッチ

人も少なくなってきたので、この部屋に入って、人はどの作品から見るのか?混雑しているときは、選択できませんが閉館間際になると、人も減ってきました。見たい絵を選択することができます。

しかし最初に目を向けるのは解説パネル。ほとんどの方がまずパネルを見て、そのあとそれぞれに見たい作品を見るといった感じでした。

どこから見るか? どのように見るか?

 

しばらく展示室内の人や作品を見て過ごしました。この部屋の鑑賞の順番、室内の動線などは想定されていたのかなぁ…と考えながら。

次第に何か物足りなさを感じてきました。ちょっと遠く離れたポジションから見たくなってきました。

 

 

■TAKE4

人も少なくなってきたので、いろいろな見方を試してみました。

 

〇一番遠く離れた場所から

展示室内で動かずに見ることができるのも貴重な体験です。しかしこれまでモネの鑑賞からベストポジションは「展示室の一番遠い場所」であることが見えていました。

その場所は、正面から直線的に離れた場所だったり、あるいは対角線上のコーナーだったり、あるいは、展示室の外だったり…

今回は、このポジションからがベストポイントでした。

 

〇ルドンとモネの組み合わせ

上記の展示室のコーナーから見た時、ルドンのグランブーケが、モネの睡蓮ごしに見えました。モネの睡蓮とグランブーケの色調が絶妙のバランスで響いているように感じられました。

他2作の《睡蓮》に置き換えて想像してみましたが、これがベストマッチに思えました。これは意図されていたのでしょうか?

 

〇3つの《睡蓮》の展示位置に何か理由が?

そんなことを考えていたら、ここに展示された3作の睡蓮。並び順には何か意味があるのでしょうか? 配置を組み替えていろいろに想像してみました。この並びはなるべくしてなったように思いました。

 

 

■アーティゾンの睡蓮とともに

三菱一号館美術館で国内の《睡蓮》が3点、展示されました。近くの石橋財団アーティゾン美術館でも同じ1907年に描かれた《睡蓮》が展示されていました。

右:石橋財団アーティゾン美術館蔵《睡蓮の池》(1907年)
左:三菱一号館イスラエル博物館)(1907年)

 

 

無理をしてでもアーティゾンの《睡蓮》を見ておくべきだったと後悔しています。一連の光の変化の間を埋める作品。独立した一枚でなく、大きな流れとしてとらえることができる貴重な機会を逃してしまいました。

アーティゾン美術館所蔵《睡蓮》 ⇒*3

 

 

リーフレットと図録

リーフレット

特別展示の《睡蓮》3点は図録に収録されていません。巡回がないためですが、変わりにリーフレットが制作されています。

 

 

〇図録

図録は、イスラエル美術館所蔵の《睡蓮の池》が表紙で、開くとつながっています。

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〇連作を一覧する意味

 

 

 

■感想・雑感

特別展示として国内の《睡蓮》が集められた作品。瞬間、瞬間を留めた作品の連続性は、宇宙の誕生から今に至る時間の刻みの連続でもあるようです。また宇宙の振動によって引き起こされる様々な自然現象。それらを、キャンパスに置いた一筆一筆から伝えてくれているようです。

自然とともに生かされている。宇宙から届く光の構成要素を、一筆に分解して見せてくれたのかもしれません。

モネという画家の作品を鑑賞してきた時間。断片の時間が連続しつなぎ合わされて、一つのライン上に並んでこれまでの歩みの道筋を見せてくれました。

 

 

■脚注

*1: DIC川村記念美術館解説より  

睡蓮の花の点在する水面に、対岸に立つポプラと枝垂れ柳が水面の左右に濃緑の影を落とします。その間には空が映り込み、明るい緑色の部分が広がっています。

限りなく平たい水面と、水面に浮かぶ睡蓮、そして映りこんだ景色の奥行きが共存。虚実の交錯する不思議な世界を描いています。

同じ年、ほぼ同構図でサイズも同様の縦長のフォーマットの作品を約15点手がけています。それぞれ色調が異なっており、画家が同じ景色を時間帯によって描き分けました。

 

*2:■富士美術館解説

1908年、モネが68歳の作品。この年15点の連作を作成。そのうちの1点。他の連作47点とともに翌年5月、パリのデュラン=リュエル画廊における「睡蓮ー水の風景連作」と題する個展に出品された。

この年、モネは明暗の差を極力抑えた画風で描いている。それはロココ的ともいえる繊細で優美な色彩と装飾性を見せている。膨大な睡蓮作品の中で、最も軽快な作風と言える。(1906年頃から時折試みていたことである)

モネは、睡蓮に魅せられた理由のひとつを次のように説明。

「そのイメージは無限の感覚を呼び覚ます。宇宙を構成する諸要素と、われわれの眼前で刻一刻と変わってゆく宇宙の不安定さとが、まるで小宇宙のようにそこに存在している」

水面の一部を切り取り、クローズアップして描く方法は、日本の浮世絵版画に見られるような暗示的な手法といえる。(「一部を描いて全体を表わす」)モネが、浮世絵版画から「視点」と「表現」を学んだことは間違い。それは彼の住居の壁に掛かる200余点に及ぶモネ蒐集の浮世絵版画からも想像できる。
このようなモネの東洋的な感覚を取り入れた画風の新展開に対し、さまざまな批評が行われたが、モネは一言このように反論した。

「誰もが私の芸術を論じ、あたかも理解しなければならないかのように、理解した風を装っているが、本当は、ただ愛しさえすればよいのだ」

なお本作とほとんど同じ構図、同じ色調による同年の作品が、ウェールズ国立美術館にある。

 

*3:■アーティゾン美術館所蔵《睡蓮》解説

睡蓮を扱ったモネの作品は膨大な数にのぼる。その中には同様の構図で描かれた連作で、1907年、15点描かれた。縦長のカンヴァスによる連作の1点。

 

水面に浮かぶ睡蓮と池の周囲にある柳の木の反映が幻想的な空間を生み出す。

 

モネはこの連作において、太陽が高い昼間から日没にかけて刻一刻と空の色が変化していく様を同じ構図の中に描いた。この作品の淡い朱を帯びた水面は、日没が近づいていることを感じさせます。