コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■東京国立近代美術館:ゲルハルト・リヒター展 から「見ること」を考える

現代アートの巨匠、ゲルハルト・リヒター展が16年ぶりに、国立近代美術館で開催されています。様々な素材を用いて、具象、抽象表現を往復しながら、人がものを見て認識する原理を問い続けてきた60年。その足跡をたどります。

 

 

■見るということについて

〇「ものを見る」とは?

「ものを見る」ということは、視覚を通して見ているだけでなく、芸術の歴史や、人類が経験した残忍な歴史の記録ホロコースト)などを通しても見ています。さらに画家や家族の個人的な記憶も重なります。

そしてある時は固定観念にとらわれたり、こう見たいという欲望も複雑にからみあった結果として「ものを見る」という行為が成り立ちます。

リヒターは60年に渡る画業を通して、見るということを一貫して問い続けてきました。人がものを見て認識する原理自体を表すことに一貫して取り組んできたといいます。

 

〇情報によって見ている

以上のことを言い換えると、人は与えらえた情報や環境から、見たいもの見たい現象都合よく取捨選択し、その上で「見る」ということを成立させてきたのではないでしょうか?

そしてそのプロセスを、あまり意識することなく、自分のモノの見方として享受してきたように思われます。今回の投げかけは「見ること」への大きな問題提起ととらえ、自分自身のこれまでの「モノの見方」を振り返り、この展覧会によって「見ること」について再確認させられたことや、改め感じたこと、新たな気づきなどを記録しておこうと思います。(これまでツイートしたことなども含めています。)

作品を通して見ることの原理を私たちに伝え考えさせようとしている展覧会と理解しました。(参考:公式サイトより)

「ものを見る」にはいろいろな見方があります。「自分の見るの傾向は・・・」とまずは自覚して見る。そこから新たな見方を模索。しかし長年、染み付いたもののの見方はなかなか変わらないということも感じていますが、それを根底からひっくり返してしまうような出会いを求めて・・・

 

 

■展覧会について

〇リヒター自身が手掛けた会場 

会場の構成は、リヒターも直接かかわり、モックアップを制作し企画担当者と共に作業にあたりました。90歳になるリヒターが自ら会場の構成を指揮するという肝入りの展覧会。リヒターの「見る」がダイレクトに伝わる貴重な機会です。下記のツイートでは、リヒターが電話で細かい調整を行ったことなども紹介されています。

 

〇展示空間はキーワードで構成 

展示会場は8つのゾーンで構成されています。各コーナーには、1~2のKWが設定されています。

アブストラ・ペインティング / ガラスと鏡
・ビルケナウ
・グレイ・ペインティング / カラーチャートと公共空間
・頭蓋骨、花、風景 / 肖像画
・ストリップ / フォト・ペインティング
・フォトエディション
・オイル・オン・フォト アラジン
・ドローイング

 

〇章構成なし 制作年もバラバラ

KWの提示はありますが、章構成はありません。また制作年もバラバラで、抽象絵画具象絵画の区別もありません。

 

〇順路なし 興味に応じて鑑賞

以上のように鑑賞を制限をする縛りのない会場構成です。章や制作年といった鑑賞する上でのルールは一切ありません。入口で配布されているグレーの冊子には、会場マップやキーワードが掲載されています。それらを手がかりに、関心の赴くまま自由に鑑賞を楽しむというスタイルをとっています。

 

〇自由度の高い会場

展示コンセプトの元、会場も自由度の高い鑑賞空間が提供されています。会場内は広く、隣の展示室への開口部分がいくつもあり、どこにでも行けるようなレイアウトです。解放的な空間の中を思いのままに回遊することができます。

興味、関心を端緒にして、作品のつながりを各自が見出していきます。バラバラに入り乱れたように感じられる作品の関係を自分の目で見ながら結びつけ構造化していくスタイル。

このような会場構成や展示プランも、リヒター自身によるもので、美術館側との話し合いによって完成しました。

 

会場に関する情報は、ハンドアウトや音声ガイドで紹介されています。開催後は、時間の経過でツイートやブログなどでも事前に耳に入ってきます。

しかし開催直後、それを知らずに鑑賞していました。ハンドアウトを手にしても、冊子でまとめられた装丁に、情報過多を感じ、会場で読むゆとりはありませんでした。開くことすらしていませんでした。

順路のないことも知らずに見始めると、混乱していたのです。「見る」ことに伴う習慣や固定観念こう見たいという欲求をのっけから感じさせられることになりました。

 

 

■展覧会を見る順番は?

〇順路に戸惑う

会場に入ると中央奥にガラス板が何枚か連なっています。(この時点で作品とは認識していませんでした)さえぎるものがない見渡せる広い展示空間が広がります。

目についた作品を眺めながら一回りしました。《アブストラ・ペインティング》⇒*1

ひととおり見たところで、さて私は次、どこへ行けばよいのでしょうか、戸惑っていました。動きがとれないのです。次に行くべき方向がわかりません。

章のサインや動線の誘導がありません。会場のスタッフさんに順路を訪ねようかと思ったのですが、どこかでそれを躊躇させる力が働いていました。 

音声ガイドが頼りになると思い最初の案内に耳を傾けました。音声ガイドの番号をたどれば、順路の参考になると考えました。

 

 

〇順路はなかった

ガイドに耳を傾けると…

そこには、作品は制作年で並んではいないこと。章立てもないので自由に見ればよいと解説がされていました。次、どこに行けばいのか。という戸惑いから、解放された気分でした。

いくら探しても「章」のサインがみつからないわけです。また順路を示すような矢印表示などもなく、何かが変・・・と感じていました。

(そんな状況が、もしや順路設定をしていないのでは?という予感があり聞くことにブレーキをかけたようです。)

 

「鑑賞の順路がない」

この確認を最初にできたことで安心して鑑賞できる状況が整いました。もしそれに気づかずに鑑賞を続けていたら、「順番はどうなっているの?」とずっと、ひっかかりを持ち続けながらみていたのだろう思われます。

 

順路が設定されていないことは、ハンドアウトに書かれています。しかし、書かれていても必ず見るわけではないのです。家に帰ってから冊子を眺め、会場マップがあったこと、作品番号も記載されていたことを知りました。そして順路もないということも… 

 

音声ガイドがなかったら… 私はずっと戸惑ったままだったでしょう。この展覧会で音声ガイドは必須と感じ、案内板をすかさず撮影していました。

 

〇音声ガイドに救われた?

展覧会で音声ガイドはとりあえず借りますが、ガイドによる先入観を持ちたくないので、最初からは聞かないようにしています。一通り見終わったあとで聞きます。途中、どうしても気になる時は聞くという利用法でした。

しかし最近はケースバイケースになり、予備知識が全くない時は、展示概要に続き、ガイドを頼りに概要を把握することも…

今回はそれに救われました。次どこへ行ったらいいかという手がかりがなく、そのヒントを音声ガイドに求めていました。展覧会がどのような意図で構成されているのかを知っているかが大きなポイントになっていることを感じていました。

 

〇鑑賞順にこだわりはないのに…

ほとんどの美術展には章立てがあり、順路が存在しています。美術展の鑑賞では順路に沿って見ることを基本にはしています。しかし混雑状況によってはケースバイケースで、空いているところを先に見ます。最後に順番に流して分断していた鑑賞をつなげるように…

展覧会は入口が混みやすいので、最初に一番奥に行き戻るという方法をとることも。混雑やその時の状況に応じて鑑賞ルートを変えていました。順番へのこだわりはなく、人混みをなるべく避けストレスなく見ることに重視してきたつもりでした。     

それなのに今回、戸惑いを感じて動けなくなってしまったことに驚きました。なぜなのかと考えてみると… これまでランダムに順番にこだわらずに見ていたつもりでも、そこには、「章立ての順番」や「鑑賞ルート」が存在していたのです。それに「従うか、従わないか」にかかわらず、「順路がある」ことに意味があったのだと思いました。

 

〇ランダムに見ていても秩序を求めていた?

基本となる流れがあることで、ランダムに見ていていても、安心していられたのだと思いました。一方、今回のように「章の順番」「鑑賞ルート」がない。となると、どう見たらよいか迷ってしまうのでした。

また、どこでもドアが開いているような鑑賞ルートは、展示室の奥にもまた展示室がつながっているように感じられ、見落としをしそうという懸念がありました。

順路を一筆書きのように何等かのルールにそって見ないと、見逃がしが発生する。そんな不安も感じていました。

流れという大きな基本軸があって、それを意識しながらランダムに見ていたのです。基本の流れに誘導される、されないにかかわらず、基本ルートが存在していることで、安心しながら見ていたことがわかりました。

ランダムで見ていたとしても、あとから統合して流れを再構成できるという安心感があったのでした。

 

 

■鑑賞後にしたこと

〇展覧会の構成の把握

「章立て」はないとされています。しかしKWがコーナーごとに設定されていました。これらのキーワードに対応する作品を色別にマーキングしました。

鑑賞順はないと言っても、リヒターはモックアップを制作し、会場設営に関与しています。そこには何らかの意図は存在しているはずです。まずは全体の構成と作品の配置を把握しようと思いました。 ⇒*2

 

動線と音声ガイドの配置

鑑賞した動線を書き入れました。順序のない会場をどんな順で回ったのか。何に興味を持ったのか。見る順番は何に影響されているのかを考えていました。その時々で目に入ってきたものを思い出しながら、音声ガイドの順番に大きく影響をされていたことに気付きました。そこで順路に音声ガイドの番号を加えました。

展覧会を見る時の習慣。構成の把握 ⇒*3

私の「モノを見る」物事の捉え方の原理はこのあたりにありそうです。

 

〇構成要素は?

展覧会はどのような構成要素で成り立っているのでしょうか?配置や構造を知るため、平面図の中に作品番号をマッピングして上から眺めています。リヒター展では会場の平面図に作品番号が記されていました。

会場マップ

会場マップに作品番号を記す作業が省略できました ⇒*4

興味のある展覧会では、興味のある作品を中心に、なるべく他の作品番号を記録するようになりました。

 

〇展示構成、配置から見えたこと

今回の展示は、KWと作品の配置の境界は、明確に分かれておらず、緩くつながったり、点在しています。その中で「鏡」をKWとする作品の展示位置と、それがもたらす効果に面白いものをみつけることができました。分散、飛び地で配された鏡によってもたらされる反射、それによって映し出されるものが、平面図から見えてきました。

 

 

〇撮影した作品、撮影順から興味や見方を探る

展覧会の作品の何を、どのように見ているか。それを客観的に把握する指標の一つに写真撮影があります。撮影OKの展覧会の写真撮影は、一番最後にまとめて撮影することが多いです。途中、どうしても撮影したくなった作品がある時は、その作品への強い興味があったことを示しています。

撮影順というのは、他にもいろいろな要因に左右されるのですが(人がいないから今撮っておこうとか…)対象とのかかわりを、あとで振り返って客観的に見ることができます。そしてどの作品を撮影し、どの部分をどう切り取ったか… それは、作品に対してどう見ていたのか。撮影時には気づいていなかったことを知る手がかりにもなります。

「見る」にあたって何に注目し、どのように見たか、それらが時間とともに記録された媒体として、自分のものの見方を客観的に知るツールとなります。

 

 

■知らずに見る 知ってから見る

リヒターが提示した作品を通して、どのように見ているのか、自分自身の鑑賞を細かくウォッチし「ものを見る」ことについて探ってみました。それによって自身の「見る」という行為の裏にある原理を探ってみようと思います。

近年の最重要作品と位置付けられている《ビルケナウ》 
展示については次のような解説を、音声ガイドなどを通して会場で知りました。

 

会場で情報が入ってくると、それを追うように見てしまいます。そして撮影も解説を反映するように、4枚の《ビルケナウ》作品と、写真で複製された4枚を向かい合わせにし、その間にグレーの鏡をはさみ込みました。そしてそこに映し出されるギャラリーや作品を調整しながら撮影。自分の姿は見えないように…

「複写」「写真」「4枚」「4等分」「向き合う」「グレイの鏡」と与えられたKWを関連づけたり、意味付けをしながら作品に少しずつ意味を付与していました。それは「ことば」から連想されるイメージを有機的に結びつける作業だったと振り返って感じています。

 

〇情報を知る前の感想

入った瞬間に感じていたことを思い出しました。大きな鏡がある! 空間が増幅されている。こちらとあちら、鏡の向う側の世界。ガラスが床面まであったら、こちらとあちらの境界はボーダレス化し拡張性はより増しそう。実像と虚像が融合し、自分がどこにいるのかわからなくなる錯覚も起こしそうです。そんなことががよぎっていたことを思い出しました。

しかし、音声ガイドを聞いたとたんそれは吹き飛んでいました。今、最初の印象を思いだしながら振り返ったことで、ファーストインプレッションがよみがえりました。

《ビルケナウ》は「アブストラ・ペインティング」の展示のあと、早い段階で鑑賞していました。そのあと会場内を一巡してからまた見ると… 

間にはさんだ「グレイの鏡」に意味付けが加わりました。他の展示室に設置された「グレイ」や「鏡」。それらが要所に与えていた効果を《ビルケナウ》に重ねていました。見る順番によっても印象は変わることが考えられます。

 

何も知らずに見ていたら、この作品から衝撃をうけるものだろうか? 心ゆさぶられたのだろうか? 多くの人が衝撃を受けたと感じている。しかしそれは情報によってもたらされる感情ではないか? 何も知らずに見たら… 私には何もわからなかったと感じています。

 

〇情報提供がなかったら?

《ビルケナウ》の展示構成から、どのような解釈が考えられるか、音声ガイドでは2例、紹介されていました。これを聞いてしまうと、そのような見方に傾倒していきます。「例えば」とエクスキューズされていましたが、多くの人がこの解釈に引っ張られてしまうのでは?と思いました。

これこそがリヒターの言う「ものを見る」上での固定観念。歴史、慣習、こう見たいという欲望を、提供された情報によって作らた状態になっているのだと思いました。

展示構成の状況解説を全くしない(展示状態を解説するだけで、その言葉からイメージが誘導されるように感じます。)絵の下にホロコーストの写真を描き写していることも伝えない。強制収容所の写真も説明しない。その状態で不穏な感覚を抱く人はどれくらいなのだろうと思っていました。

作品に関する基本情報を事前に知っているかどうか。知らなかったとしても作品が評判になれば否応なく情報が耳に届きます。知らない状態では見ることができなくなるという環境も出来上がります。

 

この作品は、ホルコーストを下地として埋め込むことで、考えさせることが目的なのだと思います。「見る」という行為は、そうしたことから思索を深めていくこと。

しかし、私にとっての「見る」は、提示された条件(?)、つまり「ホロコーストの写真を描いたという解説が事実かどうかを確かめることが第一義であることに気付かされました。

痕跡が全く消されており認識できない状態。それは、「本当に描いたことになるのか」「描いたというストーリー設定の上で考えさせようとした作品なのか」「描いたかどうかは問題ではなくそれも含め想像させて考えさせようとしているのか」 作品に付与した条件の真偽や意図を明確にすることが最優先され、それを確かめてから次のステップにうつるという見方をしていました。

 

歴史がおこした過ちの悲惨さを考える前に、作品の前提条件を確認しておく。描いた痕跡がなければ、「描いたというストーリーの元に”見る”ということを問いかける設定の作品」というように、与えられた状況を確認し、認められなければ、それをどうとらえるかを考えるというプロセスを経て見ていました。

 

図録に制作のプロセス画像が掲載されていました。(P142) しかしそれを見ても納得はできていません。写真を描いたというので、それはフォト・ペインティングだとばかり思っていました。緻密な写真のフォーカスをぼかして描いていると思っていましたが、ドローイングでした。

また日付をタイプして経過を追っています。色を重ねたりけずったりしていますが、2枚の間に流れる時間と制作工程。そこに連続性が感じられません。どのような工程をへるとこのようなつながりとなるか。それがイメージできないないと納得できないのです。

「下絵として描いた」とされることが事実なのかどうか。それを確かめ、それをどう捉えるかを考えることが私の見るのファーストステップでした。

そんなことを考えながら、作品を写真撮影された《ビルケナウ》を見ていました。これは写真と解説がありますが、じっと見ていれば、言われなくても明らかに写真という判断はできると思いました。質感、光の反射が平面的でライトの反射もくっきりでています。

そしてこの写真に対しては、ホロコーストの絵が描かれたとされる事実(?)は、映し出していることになるのかという疑問がおこりました。階層的に描かれた作品は、その筆致でそれを感じとることができます。そこに埋め込んだ形として見えない概念も、感じとることができます。

しかしそれを撮影し、平面化した写真に階層的なものを感じられるのか。それは言葉によって作られた概念が感じさせているのではないか。あるいは、見る側がそれを感じ取ろとするかどうかに委ねれているのかもしれません。

 

 

■KWから見えた「見る」について

「鏡」「ガラス」・・・反射でみる

会場を回るうちに、「鏡」「ガラス」がもたらしている効果に着目していました。そこに何が映っているのかを見ているうちに、何を映して見ようかに変化しました。受動的に受けとっていた画像を能動的に見ようと変化しました。

↑ ガラスに何を映り込ませるかを意識

さらにそれを「どのように」見るか「見たい像」に変化させるため、見る位置や角度を変えていました。自分がこう見たい(見せたい)という意思が働きはじめました。

↑ ガラスの映り込みに、直角に面した作品をガラスの中央に映したい。

あるいは、ガラスの反対面に展示され作品の映り込みを、どの角度から、どのように見ると、どんな反射がおき、どう見えるか。それをどうトリミングしてガラスの中におさめようかと思いながら見ています。↓ 

《ストリップ》という作品を《アンテリオ・ガラス》に反射させて、どの角度でどこを写し込むかをコントロールして見ていました。

 

◆ガラスと鏡ハンドアウトより)

1967年以降、リヒターはガラスや鏡を繰り返し用いるようになり「把握することなくみること」と語っていました。ガラスや鏡作品は、何も写し込まれていないフィルムのようなもの。置かれた時と場所によってあらゆるイメージを映し出す。というのがリヒター作品の原理の一つ。ガラスや鏡の反射率、大きさ、色彩などを調整し原理を再検討。

 

図録をぺらぺらめくっていると『無用の要ーリヒターのガラスをめぐって』(林寿実)の P230 豊島のガラスの配置図に目が留まりました。偶然の像を作り出すガラス。その反射はどのような計算やプロセスを経て作られているのか。私の「ものを見る目」は、制作の原理や制作のプロセスに引きつけられることがわかりました。

 

「鏡」・・・見ている自分を見る

鏡の性質から、否応なく「見ている自分を見る」という状況が生まれます。自分の姿が 視覚的に客観的に見えてしまうことによって、いろいろ思うことが誘発されます。 

しかし、私は極力、自分の姿が映らないポジションを探しながら見ていました。自分の存在を排除するように… 

↑ 自分が映らない場所はどこ? を探しながら…

というか、どういう角度から撮影すれば、映り込まないか。場所によって何が映り、何が見えなくなるのか。それを確認しながら、自分の存在が映らない場所に置いていました。そして頭の中では光の道筋が描かれ、どのように目に届いているのかを見ていました。

↑ 自分の「見る」はいつもこの人体構造が頭の隅にあって像が結ばれている。そのため初見は感情や心が排除されている。

そのため、この作品の裏にホロコーストが描かれていても、何の感情もおきず、作品と鏡、自分。そこに結ばれる映像を、条件を変えて見る実験のように見ていました。

 

〇「ガラス」偶然の映り込み

鏡に何を、どのような状態映し出すか。そんな視点で撮影していたのですが、戻って写真を見ると全く意図されていない像が映り込んだ写真があり、ハッとしました。

意図して映り込ませた写真と、偶然に映り込んだ写真。それは「離れてみると抽象画に見える」というキャプションによってもたらされました。実際に離れても抽象画にはみえなかったのですが、撮影してみたところ、リヒターの娘がその中に存在していました。

 

〇8枚の「ガラス」による瞬間映像

8枚のガラスによって結ばれる画像はより複雑となり、瞬間の偶然がもたらす作品になります。

しかし、撮影の際は、極力、人が入らない状況を狙っていました。人の存在を加えることによって生まれていたであろう一瞬、一瞬の遭遇を逸していたのだなぁ…とあとになって考えていました。

 

〇「グレイ」・・・無を表す

リヒターはグレイという色を「無を示すのに最適」と語りました。色を混ぜればいずれ灰色になります。キャンパス全体を灰色に塗るグレイ・ペインティングシリーズが登場します。(1960年後半)

グレイという色が様々なテクスチャーで表現されています。色は単色ですが表情で広がりを見せています。

左:6  グレイ《樹皮》 右:4《グレイの縞模様》

 

7 《グレイ》

 

アブストラ・ペインティングで重ねられたグレイ?(左)と、単色のグレイ(右)。これらはカラーチャートのエリアに展示されています。

左:27《アブストラペインティング》 右:5《グレイ》

 

〇「グレイ」をテーマにした作品が点在

「グレイ」という無を表す色で、様々に表現された作品が、会場内に点在しています。テクスチャーの違い、技法の違いなどのグレイ作品は、グループでまとまった展示ではありません。

作品の周りには、多色のカラーチャートが囲み、色の洪水の中に「無」を意味するグレーを投げ込んだ状態。それは周りの多色の色を全て混ぜ合わせたらこうなりました。とでも言っているのでしょうか?

↑ カラーチャートの中に紛れ込むグレイ(No7)

 

〇「グレイ」をマップで俯瞰してみる

会場マップにグレイ作品の配置を灰色で示しました。それぞれのブースに効果的に配され、周りの色を「無に期す」役割をしているようです。多色で塗り重ねられた「アブストラ・ペインティング」作品がずらりと並ぶ空間にも、グレイが配されています。

さらに「グレイ」に「鏡」が加わわって融合していきます。

 

〇「グレイ・ペインティング」に「鏡」効果が加わる

「無」を意味したグレイ・ペインティングは、マットな質感で「樹皮」や「縞模様」など様々な表情を見せてくれまました。

そんなグレイに透明度が加わりガラスへと移行します。そこには反射による画像が結ばれます。しかし鏡と違って色彩は押さえられています。影絵のような幻想的な世界が映し出され虚像のようでもあります。

 

《鏡・グレイ》 フォト・エディションのエリアに設置されたグレイの鏡。ここに何を映し出すかは見る人次第。私は自分が映らず、人もあまりいない時を狙いましたが、作品を撮影する人が陽炎のように黒い影の中に漂っています。

↑ 11 《鏡・グレイ》

鏡に映し出される映像は、見る側が見たいものを取り込み、見たくないものは排除。「映すもの」「映さないもの」を取捨選択します。リヒターはガラスをフィルムと考えており、画像を定着させるものとしていることがわかりました。見る側に何を定着させるのか、委ねられています。

点在するグレイ作品を振り返りながら、ハンドアウトに目をやると表紙が「グレイ」の色であったことに気づきました。

↑ 手にした時、表紙をわざわざグレイにしたパンフレット。と思っていましたが、「グレイ」である意味がわかりました。ハンドアウトも無ということ? あるいはここから無限に広がりがあるということでしょうか?

 

〇近づく 遠ざかる 拡大してみる

作品鑑賞で「近づく、離れる、スコープで見る」というのは、とりわけ、新しい見方ではありません。しかしそれによってもたらされる世界に、これまで経験したことのない新たな視界が広がりました。

グレイ単色の《樹皮》や《縞模様》は、近づいて見ると全く違う表情が浮かびます。さらにスコープで覗き込むと違う世界へ飛ばされた感じで無限に広がる世界をさまよう感じがしました。同じをものを見ているのに、どんどん拡張して広がる世界が変化しました。

実際に見ていた状態から、次第に近づくと刷毛目が見えてきます。見ていた状態と描かれた状態のギャップにびっくりさせられます。さらにスコープで見るとS字や弧、回転するようにこすりつけたあとがあり、作品からうけるぼかし効果やゆらぎ効果の源泉を見た感じ・・・

これらの作品は離れて見ると、作品の両端が認識できますが、少しずつ近づいていくと没入感に襲われ、作品が膨張しているように感じられました。スコープで覗くと視野が無限に広がって拡張しているように見えます。同じ作品なのに見えている世界が無限に広がる不思議な空間に取り込まれます。

 

1《モーターボート》この作品は、離れて見ていると、どう見ても写真にしか見えません。


しかし、近づくにつれその本性が明らかなってきます。明瞭に筆致が現れ絵画であることを認識させられます。大胆な筆が入っているのですが、離れると全くわかりません。

 

写真だった作品が絵画に… それをまた写真に変換。視覚の混乱が脳内で起こっていました。

 

63《ストリップ》を拡大

 

31《ヴァルトハウス》をスコープでみる。 

31《ヴァルトハウス》はソフトフォーカスで描いた「フォト・ペインティング」作品。ピントがずれたものにスコープでピントを合わせるという作業に面白い現象が見えました。写真のようだった絵が明らかに描かれたものだとわかり、筆あとが認識できます。それをスコープで見ると、筆の毛先の一本一本まで見えますが、どこがピントが合った状態なのかがわかりませんでした。

 

14《アブストラ・ペインティング》これはどうやって制作しているのだろう。近づいていくと・・・

削っている? そしてこれは鏡? と思うような反射がみられました。写真では黒く映り認識しにくいですが・・・

14 《アブストラ・ペインティング》油彩 アルミニウム

解説を見るとアルミニウムと書かれていました。アルミニウムの上に描かれ、削ることで支持体を見せ、それが鏡面反射のような効果を見せていました。

 

■後記

人がものを見て認識する原理を60年間、変わらずに問い続けてきたというリヒター。その全貌を自身の手でまとめ、私たちに提示しています。それを見る私たちの目はどのように捉えるのでしょうか? 見る人の数だけ、見え方、捉え方があると思われます。

「見る」「認識する」は変化します。最初に見た印象は忘れてしまうもの。その部分をメモ代わりにツイートしてきました。散乱してきたので、ちょっとまとめてみました。

また、これまでの美術鑑賞を通して「見る」について、見えてきたこなどを改めてまとめる予定・・・

 

■付記 補足

*1:アブストラ・ペインティング》

過去に見た横浜美術館、ポーラ美術館のリヒター作品を思い出していました。1作品で十分すぎるインパクトを持っていました。どれだけ見ていても飽きない魅力があり、それと同様の作品が津波のように押し寄せてきた感覚。アップアップでおぼれそうな状態でした。

同様の作品をこんなにも制作していたことに驚きを禁じえません。大波に飲み込まれて脳震盪をおこして何も考えられない状態でした。こんなに大量に見せられても…とオーバーヒート。ちょっともったいないというか…

 

*2:■モノの見方:構成要素からグループ化 抽出

物がランダムに存在していた時、それらを分類してグループ化、切り分けして捉える習慣があります。それらのグルーピングから関連性を抽出して考える。そんなモノのの見方が長年の習慣として蓄積されています。

章立てのないリヒター展にも、KWによる分類分けがありました。するとそのKWに基づくカテゴリー分けをする作業を始めました。

 

*3:■構成の明確化

展示のどこからどこまでが、どのカテゴリーに属するのかを明確して切り分けながら見る習慣があります。グループの境界は? あるいは境界があいまいな場合は、「曖昧」であることを明確にしながら見ていきます。

「分類外」であればここは別のカテゴリであるという切り分けを明確にする。そんな鑑賞傾向があることに、はっきり気付いたのは、横浜トリエンナーレを見ていた時でした。カテゴライズは、展覧会のキュレーションの便宜的なものです。それでも、キュレーターはどういう意図で分類分けしたのかを捉えたいと思う傾向があります。

企画の構成、構造、階層を自分なりに理解する。図録にインデックスをつけて確認。展覧会と図録との構成を一致させて同期しながら見ていました。

図録の間に挿入された寄稿やコラムは、独立したものですが連続ものとして視覚化させインデックス。展覧会と図録の構成を構造化しながら自分が一目できるようにしてます。どこに何がある状態なのかを把握。

興味のある展覧会については、以上のようなプロセスを経ています。いつも、これをして何になるのかなぁ…と思いながらwww

 

*4:■会場マップに作品番号をプロット

通常、展覧会ではどのような構成なのか、章立てや配置、構造を最初に把握します。展覧会によっては「作品リスト」に「章立てを記載した会場マップ」が示されているところもあります。それらの平面図に主要な作品番号をマッピングし、全体と部分、展覧会の中でどのような位置づけとして扱われているのかを把握します。会場マップは上から眺めることになるので、全体像を俯瞰して見ることができます。マップがない時は自作することも…

当初は気になる作品の番号を記録していました。そのうち、過去の展覧会を振り返る時、作品の見た記憶は、展示されていた周囲の様子とともに記憶されていることがわかりました。「〇〇」の横に展示されていた。「〇〇」を見た流れのあとに展示されていた。こんな雰囲気の中の展示だった。あるいはその時の光の状況が記憶されていることもあります。

構成の中の位置づけだけなく、作品のイメージとしての記憶と配置は大きく影響していることがわかり、過去の展覧会の配置図を書き起こすこともあります。