コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■2017年:[1~3月] 鑑賞記録 簡単メモ

 

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■(2017/05/01)  /  [04/29] 静嘉堂文庫美術館渡辺崋山と「芸妓図」-その魅力を読み解く- 

河野先生の館長のおしゃべりトークが開催されたので参加。内覧会の時に先生の一押しとして紹介された一枚が、渡辺崋山「芸妓図」でした。「ゲイギ」と読みます。

内覧会で解説をされていたのですが、いまひとつピンとこず、内容が頭に入ってきませんでした。先生が戯訳されたコピーをいただいてきましたがそれも読まずにスル―。

 

ということで文人画に関する解説は二度目。おそらく同じようなことをおっしゃっていらしたと思うのですが、妙にするすると頭に入ってきます。やはり2度目となると理解も早くなります。

 

先生曰く。文人画は今一つ人気がない。琳派若冲など書のないものは人気があるのに・・・・(うんうんとうなづく) サントリー美術館で行われた若冲と蕪村展。蕪村は人気がなく、人場まばらだったそう。見方としてはまずは賛を読む。それを理解してから絵を見るものだと。

 

それを提唱したのが富岡鉄斎文人画の不人気は富岡鉄斎がもたらしたと冗談めかしておっしゃいます。目も悪くなってくると字は読めない。見えたとしても漢字のつらなりはどこで切るかもわからない。現代人はその意味をすぐにはなかなか理解できるものではありません。賛なんて読まなくたっていい。絵を見て感じるままでOK。

どう感じたらよいか。それは、絵の中の登場人物に気持ちを投影する。感情移入してみること。芸妓図で言えば芸妓の気持ちになったり、それを描く側の気持ちになったり。それは日本人が昔から得意とするところで、山水画などそれにあたります。今っでも「KY」なんて言葉が生まれてくることを考えると、そうした気質がしみついた民族と言えるのかもしれません。そうやって絵の主人公になり切ってあれこれ想像したら、それで終わりにして帰ってもいいと・・・ でも、それで終わってしまったら、この講座もこれで終わってしまうので続けますが・・・と笑いを交えながら。

 

そこで、現代文にしておちゃべり館長による戯訳を用意されました。4月から静嘉堂文庫美術館の専任になってまず何をしようか・・・と考えた時、文人画というすばらしい作品。ところがその作品がどうも人気がなく親しまれていない。それは賛があるとわからないからだ。ということで、館長の戯訳をつけてみようと思ったとのこと

実際のところ、なじみがないと読んだだけでは、まだわかりにくいのですが、解説を聞きながら音として入ってくると理解がより深まります。

一枚の絵の解説で1時間半・・・・ こんなにも深いものとは・・・ 先生の伝えたいパワーが全開。

 

〇芸妓図の名称

昔は校書図と言われたが今は、芸妓図。歴史的な面からも「校書図」と呼びたいということが語られたのですが、「校書」の意味がよくわかりません。

 

校書とは - 歴史民俗用語 Weblio辞書

②〔中国唐代芸妓薛濤せつとう文才があったので,元稹げんしんが校書(きようしよ)に当たらせたという故事から〕 芸者異名

 

この絵は、ポーズをとらせて描かれたものではなく、一瞬の美を捕らえる日本人の感性によって描かれたもの。それは古くからの自然観察の目。人間観察によるもの。美しさとは何か・・・・

 

中国において文人画を描いたのは科挙試験に受からなかった人(イツミン)、受かっても途中でやめてしまった人(イツミン・・・ドロップアウトした人)が文人となり文人画の担い手となる。それが日本に入って影響を与えた。

渡辺崋山南宋画の柔らかさに、北画の衣文のかたさ、さらに洋画の手法を加え中国から伝わる文人画を描きました。 美人だけを取り上げるのではなく「見立て」をして絵画として成立させる。この場合は歳寒三友の「竹」の見立てが行われている。

 

歳寒三友(さいかんのさんゆう)・・・

代より始まった、中国文人画で好まれる画題のひとつ松竹梅

松・・・(宋時代)すぐれる 孔子が送る 冬でも緑 100年

竹・・・(唐時代)緑を保つ 風がふいてもないびく しなやか 腹にいちもつがない

梅・・・冬一番に匂いたち、咲き誇る

 

渡辺崋山は「隠喩の画家」「メタファーの画家」 そしてそれが浮世絵の美人画につながる。

 

あまりなじみがなく興味のもたれにく文人画をいかに興味を持ってもらうか。さまざまな角度から読み解き、他の研究者の解釈にも触れ、ご本人もいらして生の声も伺えるというサプライズも。その上で河野先生の解釈を解説を伺いました。

また「國華」という時々目にする日本の美術書ですが、それに関する解説と実物を見ることができたのも貴重。ちなみに国華は、岡倉天心によって作られた世界一番古い美術雑誌なのだそう。

 

饒舌館長 のご案内もあり、「挿絵本の楽しみ」の記事もアップされています。

静嘉堂文庫美術館「挿絵本の楽しみ」5

静嘉堂文庫美術館「挿絵本の楽しみ」4

静嘉堂文庫美術館「挿絵本の楽しみ」3

静嘉堂文庫美術館「挿絵本の楽しみ」2

静嘉堂文庫美術館「挿絵本の楽しみ」1

 

今回のテーマとは関係なかったのですが、其一の《四季花鳥図屏風》について伺いました。某所に収蔵される前に御覧になっていらっしゃるとのこと。プライスさんも御覧になっており、彼の評価は、一双屏風になってしまったことで散漫になってしまったと購入は見合わせたそう。六曲ならよかったと。面白い見方だと先生もおっしゃっていました。あの屏風はあそこに行ったのか・・・と。てっきりあそこで見ながら、あのご本を書かれたものとばかり思っていました。

南画つながりで、秋田近代美術館所有の 〇〇〇〇  2人で描いたことになっているけども、どのように分担して描いたのか? 升目の重なりの部分は? 升目は本当の升目なのか?

寺院に掲げられていた絵を模写しているので、線は描けない状態ではないかと思う。絵具は日本絵具に胡粉などを混ぜて、油絵具のように見せたのではないかと思われる。

同じ絵を谷文晁も描いているけども、谷文晁は、おそらく原本でなくこの絵を参考にしているのではないかと思うとのこと。描かれた時代はほぼ同じ。原本の絵は焼かれてしまったのだそう。そして例のものについての見解もこっそっと伺えました。さすがの解答!

 

 

■(2017/04/25)  /  [04/23] 岡田美術館:魅惑のガラスガレ、ドーム展

〇入館料が高くてチェックが厳しいという噂の岡田美術館

岡田美術館に初めての入館。この美術館は、気にはなっているものの、なにしろ入館料が高い! そのため、「どうしても見たい!」というここぞという時でないとなかなか2800円は払えません(笑)・・・やっと、訪れることができました。それは、魅惑のガラス、ガレ ドーム展 ガレ研究の第一人者とも言われる鈴木潔先生の講演会とギャラリートークがあったのでこれは好機とでかけました。行程の途中でお目にかかったマダム。箱根にマンションを持ち、月2回ほど箱根で過ごすという方でしたが、岡田美術館は高くて行ったことがないと言われていました。

 

〇噂の数々

岡田美術館に関する噂はいろいろ耳に届きます。

よくささやかれるのが、MOA美術館系列の岡田? しかしそれは関係がなくパチンコ関係の事業者だとか・・・ そして誰もが口をそろえて語る高い入館料! そして厳しい空港並みの荷物チェックがあり、持ち物の制限があり、メモすらも取れないという話も。講演会もメモできないかも・・・なんて声もあり、さすがにそれはないでしょ・・・と思って事前に確認したら、メモは展示室でもできるとのことでした。ただし、鉛筆の貸し出しはしていないようです。

 

庭園が併設されていますが、入館料には含まれていません。別料金300円が必要です。「庭園もいいらしいわよ」という会話もされていましたが、時間がなく断念。館内に自販機はなく、飲みものは美術館のカフェからオーダーしなければいけません。お食事は、おいしそうでしたがやはり高いです。とにかくなんでもかんでも高い! という印象・・・ お弁当、おにぎり、パンなどを持参して、外で食べるのも一案です。

 

鈴木先生のギャラリートーク

午前中、10:30から鈴木先生のギャラリートークが行われました。少し遅れてトークに合流しました。ペンライトで照らしながらの解説。照らされることで浮かび上がる技巧の数々。そして裏からのライトが見せる表情。下からも照明が当てられています。ガレの作品の時代は、まだ照明が普及はしていません。ライトをあてることを意識したのは1902年というのはちょっと驚き。ガレは1904年に亡くなっているので、作品のほとんどは、ライトをあてて見ることを想定はしていなかったことを知りました。なのにこの光による七変化・・・ ⇒「顕微鏡」「写真」「電球」の発明と美術への影響(覚書)

 

〇ガラスは曜変天目茶碗に通じる

透明のガラスを上からかぶせている。あるいはサンドする。パチネの技法は曜変天目茶碗に通じる。酸化第二鉄、、銅で赤、マンガンで紫。ラスター金属 光沢・・・

解説を聞いていて、曜変天目茶碗と全く同じだと思いました。釉薬は特殊ガラス。そのガラスでコーティングされたもの。ガラスの化学変化と同じことが、茶碗でおきていると考えると理解ができます。ガラスは透明感があるので、その反応がイメージしやすいのですが、曜変天目も原理はガラスの変化と同じ。

 

そして強いライトをあてて鑑賞。やっぱりそうするんだ・・・・ 曜変天目茶碗も強いライトを当てないとそのよさは引き出せないという話を伺い、自分でもそのように感じていましたが、ガレのガラス作品を見て、より納得しました。当時は、ライトなんてものはありません。でも、今の時代に、見る時はライトを当てて見ます・・・その心は・・・ 

ガレの作品は、自然光による変化を想定して作られています。同時期、新たに電気が発明されました。当然、ライトもあてて観ることを想定しているとばかり思っていました。ところが、ガレが照明を取り入れたのは、晩年の1902年のことだった。ということを今回、知りました。それでも、ライトをあてて解説することの意味・・・・

  

背景が黄色のガラス作品。日本の金箔屏風をイメージして黄色に。ジャポニスム。現代も、お金持ちが好む作品。落款をイメージした縦書きのサイン。

 

国賓級の作品

ここに集められたのは、岡田氏が自宅で楽しんでいたものだと言います。そのコレクションの内容が、半端ありません。選眼は誰によるものなのでしょうか。フランス国王に渡すために作られた作品。《麦穂文花器》は、国賓へのお土産として渡されたレベルの作品。鈴木先生曰く。書物では見ていたけども、しかしどこにあるかわからなかった。それに、まさかここでお目にかかるとは! そんな作品が何点もありました。

 

他の作品が素晴らしすぎたので、これが国賓への贈答品? と思ってしまったのですが、あとで近くで見たら、とんでもない作品だったことがわかりました。遠くで照らされたライトだけではわからない、細かな細工が施されています。鈴木先生が驚かれたことに納得。

 

貝殻と海藻文壺 パチネ 曜変天目様・・・・  ローマン ペルシヤ 難破船に藤壺がついたイメージ。

 

〇工房作品も一級品

照明も、他の作品とは一線を画すものであることが、私にもわかります。死後の工房作品の中でも一級品が揃えられています。酸にエッチング 印刷、ローコストで生産性を上げます。生前よりも従業員はさらに増え400人、作品も20万点と生前の制作数を超えました。今、デパートで流通しているのは、この時代の作品。高級品ばかりを制作していては、買ってもらえる人を限定してしまいます。酸を使うことでやわらかくし削りやすくして量産。5万円ほどで買えるグラスなども・・・・

 

 

〇個人コレクションのすばらしさ

岡田氏の個人的なガレコレクション、気づけば120点。他にシャガールなども集めていらっしゃり、小林館長から、それらを展示したいということを言われたそうですが、岡田美術館は、あくまで東洋の美術館というコンセプトなのでOKがでなかったそうですが、今回、やっと展示できることに。これらが、個人で楽しむものだったこと驚きを隠せません。岡田美術館の学芸員は専門が違うので、作品の評価はガレの専門家、鈴木先生に鑑定も含め依頼。展示は照明に凝り、作品の傾向、技術などの監修をいただいたとのこと。鈴木先生曰く。文献、資料では目にしていたけども、実物は誰も目にしたことがなく謎・・・・ という作品が、ここにあったのか! と驚くものばかり。しかしこれらは、マニラに作る美術館に行ってしまうとのこと。重ね重ね残念。しかし、今、ここで、見ることができたのは、不幸中の幸い(笑)

 

〇真贋の目はどこから?

これまでもガレ展は、何度となく見ていて、それぞれに驚いたり感心したり・・・ しかし、ここにはそれ以上の作品が、個人の楽しみとして所有されていたのでした。誰も知らない評価をしていない。また、本物かどうかもわからない価値をどうやって判断し、手に入れる決断をしたのかが気になっていました。

 

鈴木先生の開催のあいさつに次のように書かれていました。

いかにもアールヌーボーらしい艶美な作品ばかりでなく、一見地味ながら光のあてかたによってガラス地の変化に富んだ色あいが浮かびあがるという技巧の粋をこらした作品を含んでおり、エンジニアとして大企業を育て上げてきた岡田氏ならではの玄人的とも言える審美眼。フランス元首への献上品として別格のステータスが認められ、美術的、歴史的にも高く評価される逸品が含まれる蒐集家としての目の高さがが伺えると・・・ 

 

 この解説を見て、「岡田氏=エンジニア」  あれ? と感じさせられました。パチンコ業界の方・・・ と思っていたのですが、会社は「パチンコ・スロット機器製造」を手掛ける会社の会長だそう。パチンコ店の経営側かと思っていたのですが、どうやら技術開発をする会社らしいことがわかりました。wikipedhiaによれば、エンターテイメント業界自体にも強みがあり、映画・格闘技などのイベント主催・協賛などを数多く行っているとのこと。機械技術畑の方・・・ということでエンジニアだったのだということが分かっていろいろなことが理解できた気がしました。あのセキュリティーチェックや、各フロアの厳重な扉。それらは、技術屋さんのた血だったのかも・・・なんて思いながら、さらに元真空管エンジニアだったこともわかりました。

 鈴木先生のお話も、ギャラリートークから、講演会のすべてが、終始一貫して作品の製法に関することがメインのお話でした。作品の意図や込められているものなどのお話はなく、構造、作りに主眼が置かれていました。そのことやこれまで書かれたご著書などからも、どこか科学のニオイを感じさせられていたのですが・・・・ ⇒著者略歴

 

これでやっとつながった気がしました。人のベースがどこにあるかによって、人の思考や嗜好が形成されると思っていたのですが、パチンコと美術がどうつながっているのかが、これまでよくわかりませんでした。技術者の目が美術をとらえた・・・・と考えるたらわかる気がしました。

 

曜変天目茶碗を物理学者がチャレンジした時にも思ったのですが(⇒ 自然科学を学んだ人は、美術作品を見る時に、物質の性質、組成や構造というところに着目するのだと思いました。エンジニアだった岡田氏も、作品を見る上で、それが何でできていて、どのように作られたのか・・・というところに着目されていたのではないかと想像しました。そうした見方によって、本物を見極めることができる真贋の目を養うことができたのではないかと・・・ 何でできているのか、どう作られているのか・・・を見ると、他とは違う何かをこの作品は持っている。そんなふうにモノを見ていたのではないでしょうか?

 

そして、マニラに美術館を作るという話も、なぜゆえに? と思って聞いていたのですが、調べてみると、なるほど・・・・とつながっていきます。事業の展開との関連がありそうで、参入するにあたっての、プラスαの信頼なども必要だったのかな? とか・・・・ 海外では、経営や研究など、美術的な素養があるかどうかで、成功につながったり・・・ということがあると聞きます。美術展を見てそこから、経済や、国家間の駆け引きまで見えてしまうといのは面白かったです。

 

朝日新聞「驚きの敗訴」で見えたカジノビジネスの「光と闇」(北島 純) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)

日本のパチンコ王がフィリピンで巨大カジノ建設に挑戦したら、大変なことになってしまった。英紙の独占インタビュー! | クーリエ・ジャポン

日米カジノ王の「離婚劇」、泥沼化の顛末 ⇒元真空管エンジニアらしいことが・・・
   ⇒この情報、「消息筋によると・・・」ばかりで大丈夫か?(笑) って思うもの、真空管エンジニアだったという話は、他ではみかけない話でした。

「パチンコ王・岡田」の美術館を覗きにいった:日経ビジネスDigital

 

 

〇「雪月花」三部作について

喜多川歌麿による「雪月花」三部作

「深川の雪」・・・岡田美術館

「品川の月」・・・米国フリーア美術館・・・米国初(1842年)の美術館に所蔵

「吉原の花」・・・米国最南のワズワース・アセー二アム美術館

 

ばらばらになった三作が同時に展示されたのは明治12年(1879)が最後。
7月からこの3作が同時展示されます。ただ、フリーア美術館の「品川の月」は、他館に貸し出しをしてはいけという遺言があるため、貸出ができません。岡田美術館の作品も、基本、他館への貸し出しや借入はしていないそうです。が、現在、歌麿の三部作を所有する三館で、巡回展が行われています。フリーア美術館に「深川の雪」の貸出をしたお礼として、フリーア美術館所有の「品川の月」の複製を認められたそうです。ワズワース・アセー二アム美術館からは「吉原の花」来日します。次の展示、7月からは3点、同時展示(フリーア美術館「品川の月」は複製) 小林館長によると、「品川の月」の複製はほぼ本物と見分けがつかない出来上がりになっているとのこと。

 

〇岡田美術館所有の「深川の月」(複製)の展示について

妙に色が濃いです。 これが、保存状態のよさということなのでしょうか・・・・ 
つい先日も、静嘉堂文庫の鮮やかな《本草図譜》を見たばかりです。コンディションがよければこれくらいの色は保てるのかもしれません。しかし、《本草図譜》は書籍の構造のため、空気に触れていません。春画なども色が鮮やかなのは、密やかに見られていたから・・・ だからこそ、これだけの色が残っているというのは納得ができます。

この絵も空気に触れない工夫がされていたのでしょうか? 昔から何等かの工夫がされて、保存され維持されていたからでしょうか? あまりの鮮やかさにどこか納得できないものを感じていました。しかし、岡田美術館の作品は保存状態がとてもよいという話を聞いていました。だからこんなにきれいな色が出ているのかも・・・・

 

これだけの作品を手に入れてきたということは、その保管技術に対してもコストをかけているのだろうし・・・・ 修復にもお金がかかるから・・・入館料が高いのはしかたがないか・・・と理解させていました。

 

もう一周して再度、見ました。今度は解説を見ながら鑑賞・・・  あら、これ複製画だったんだ・・・ 本命は保護のため、7月の展示のため、控えているのかなと思っていましたが・・・・

そういえば、館長さんが貸し出しをして、絵と一緒に挨拶に行った。と語られていたことを思い出しました。現在、フリーア美術館に展示されているため、岡田美術館の「深川の月」は複製だったのでした。

 

〇美術作品の真贋、複製と本物・・・そしてコピー

時々、展示作品の中に、複製画が展示されていることがあります。それを知らずに本物として見てしまってあとで複製と知った時、本物と複製を自分はどう受け止めるのかについて、いろいろ考えさせられます。これを見て、あれ? 何か変・・・って思えたことは、ちょっとは見る目が育ったかな?

デジタル複製写真を代筆で実際に書いたものと思った例

  ⇒■海北友松:《雲龍図》 建仁寺の襖は****だった -記

 

〇カラーコピーと版画

最近あった、コピーが飾られていた棟方志向の版画。見学者から違うのでは? と指摘があったと言います。自分だったら気づけたかな? なんて思いながらこのニュースを見ていました。さすがに、単純なそのへんのカラーコピーだったら、気づけるくらいにはなってきたのでは? と思うのですが・・・ コピー用紙と和紙は違うと思うし・・・ 美術館で見る意味は、写真やコピーとは違うよね・・・それが美術館で実物を見る意味だと言えるわけですし・・・・ よほど高度なコピーが使われていたのか・・・

貸出の際、貸す側の学芸員は作品をチェックし、受け入れ側もチェックをすると聞いています。そのチェック体制が日本では整備されておらず、マニュアルをシート化することを提唱されている修復家の方がいらっしゃいました。

しばらく、発表されなかったのは、そうした怠慢を指摘されてしまうから・・・では?なんて想像してみたり(笑) ある程度、作品を見ている人なら、カラーコピーとの違いくらいは、わかるはず。それに気づかないとなると・・・・

 

複製作品を見ながら、いろいろ思うのでした。

 

あらためて経過を確認してみたら、

棟方志功の版画盗難か=いつの間にかカラーコピー-神奈川:時事ドットコム

県民ホールの館長室から県立近代美術館に2013年に移管。その後、2014年にレプリカでは? という指摘を受けたとのこと。一般の見学者からの指摘かと思っていたら、こちらの情報では専門家によるものとのこと。授受の時は本物だったけど、その後の展示中のすり替えも考えられることがわかりました。

鎌倉市民は、さすが文化度が高く、見る目があると思っていたのですが、指摘したのは専門家だったようです。結局、それまで誰も気づかないということ。

美術館の箱にはマジックがあって、幼稚園児の絵が飾ってあっても、芸術になってしまうと指摘された方いました。

本物、偽物、レプリカ・・・・ いろいろ考えさせられる事件でした。その一方で、写真技術によるデジタル画に感動した海北友松。現在、京都博物館に来ています。ぜひ行きたいのですが、行けるかどうか・・・

 

 

■(2017/04/20)  /  [04/16] 静嘉堂文庫美術館:挿絵本の楽しみ 

楽しかった~  兼ねてからいろいろに抱く疑問・・・あちこち調べた結果、知りたい欲求の先にある望む答えを出していただけるのが河野先生でした。当日の朝も、黎明アートルームで見た其一の屏風に対する疑問。友人から、「河野先生が、こんなこと書かれていたわよ~」とメールが入って実にタイムリー。その話も伺いたかったのですが、時間がありませんでした。

琳派を知ってから、本当にいろんな疑問が出てきました。そもそも、琳派とはなにか・・・とか、鶴下絵図屏風の本阿弥光悦の間違いはわざとではないか・・・とか。その推測に意を得たり! のえを示されていたのが河野先生でした。ぜひそのお話も伺いたかったのです。

会場に入る前に、階段で先生とすれ違いました。お声をかけていいものか迷ったのですが、いきなりお声をかけて質問するのはあまりに失礼(笑) しかも今日の展示とは、全く違う内容だし・・・

ところが、セミナー終わりに奇遇にも、鶴下絵の質問をされた方がいらっしゃいました。ラッキー! これで堂々と、お話を伺えます・・・・ 先生は、それに関する、論文を書かれたそうです。じゃあ、送りますよ・・・って  うわ~!!! なんて気さくな先生。

 

そのあと、東博曜変天目茶碗の展示について司書の成澤さんにお話を伺いました。「やっぱり、そうですよね~」思ったとおり。静嘉堂で今、展示されているガラスケースを見る限り、そんなに強い光ではなさそうなので、こういうものなのかな・・・と思ったのですが・・・ やっぱり、光をあてないとあの変化は見られないとのこと。ショーケースの光は光源を変えれば光は変わるわけです。また今は作品保護の観点から・・・・ 6月の展示を楽しみにしています。

静嘉堂の絵葉書、オレンジに輝いていました。もしかしてカラーライト当てちゃったの? と思ったのですが、それをしたら、曜変天目の意味がなくなると・・・ 確かにそうです。

安藤堅氏の静嘉堂曜変天目の詳細な観察で、オレンジ色に輝くと書かれていました。どう見ても、その色の光は認めることができませんでした。しかし、静嘉堂の絵はがきでは、オレンジに光ってます。当てる光の強さでこんな変化をするということなのでしょうか? 

藤田美術館のギャラリートーク曜変天目茶碗を見た人の中に、「今日は特別にライトをあてて御覧に入れます」と言って、ダイヤモンドに光をあてるような感じで見せてもらったなんて話を見ました。 

静嘉堂での曜変天目茶碗。今から楽しみ・・・・ 

 

 

■(2017/04/16)  /  [04/15] 東京国立博物館:特別展『茶の湯』⇒

講演会の開催があり、土曜日も夜間展示が重なったので行ってみることにしました。目的の講演会は整理券の配布に間に合いませんでした。

実際に展示を見ると、予習をしてないため、いろいろな天目茶碗が展示されているのですが、それがどういうものなのかがわかりません。解説はされているのですが、天目茶碗という全体像の中の位置づけが理解できないのです。ラスコー展の時に感じたのと同じ、総論がわからないジレンマを感じながらの鑑賞でした。

 

今回のメイン 曜変天目茶碗・・・

第一印象・・・「これですか?」 イメージと全く違いました。もっと七色に輝く茶碗かと思っていました。それは、これまでの来歴や、これまでに見た写真や映像、それによって自分が勝手にイメージを作り上げてしまっていたようです。「実物は違った・・・」ということではありません。どう見せるかという問題。

茶碗にどんな光をあてているのか。細かく観察しました。基本、光はあてていません。床からの反射光を利用しているようです。光の当て方を変えれば、見え方もきっと変わるはず。以外にも内部の変化よりも、外側の色の変化の方が興味深ったです。 

しかも《曜変天目茶碗》より、「そのあとに見た茶碗の方がよっぽどきれい・・・」と感じてしまいました。ところがその茶碗の上部をみたらコウコウと照明が照らされていました。

釉薬はガラスだといった安藤堅氏の言葉が浮かびます。ガラスではありませんが、ダイヤモンドの輝きのことを思いだしました。光の種類によってダイヤモンドは輝きが変わります。ダイヤモンドは、光をあてなければ輝かないのです。器もそれと同じだと思いました。ガラス質の釉薬に光をあてれば輝くし、その光量が足りなければ輝きません。 

と思ったところで気づきました。そうか・・・昔は、光なんてなかったんだ。屏風を見るのと一緒。昔見ていた明るさで見ていると思えばいいのか・・・ しかしながら、これまでこの茶碗をとらえる写真、映像は、明らかに光があてられています。そのものの特徴を引き出すための演出(?)が入っているということなのでしょうか?。

しかしながら、注意深くみていくと、細かなきらめきが確認できました。それにも増して外側の光の七変化の方に興味深いのです。周回したり、上下に移動したり・・・・  茶碗をもっと、低く位置付けて見たらどう見えるのでしょうか。

 

この茶碗に向けられたメインの照明は4つ。その照明は、どこに向けて当てられているのか。スタッフの方に、伺ってみました。茶碗には向けられておらず、床に当てられているとのこと。やっぱり・・・・ 床からの反射の光だけを(?)を利用しているらしいのです。だから側面の変化が顕著だったのでしょう。記憶がうろ覚えですが、茶碗の影が出ていなかったと記憶しています。(他の茶碗は2つの影が出ていて、メインライトは2方向だと思いながら見ていたので)

借り物のため、光をあてることができないとのこと。どうりで・・・ 他の茶碗のライティングと明らかに違っていたのです。他の茶碗は、それぞれの特徴を引き出されるような照明でした。しかし、MOA美術館で《色絵藤花文茶壺》が常設展示になる聞き、光の影響は大丈夫なのかと伺いました。その時、陶器は問題がないと聞いています。やはり3つしかない国宝。ということで、過剰な配慮がされているということでしょうか?

静嘉堂では常設で扱われている茶碗だそうで、3年に1回の展示といった性格の作品ではないとのことです。静嘉堂ではどのようなライティングをして見せているのか気になりました。スタッフの方も思ったような輝きではなかったと言われていました。会場にいた見学者の方とも会話をしましたが、やはり「あんなものか・・・」と思ったと。 

そのあと、東博の常設展の茶の湯のコーナーを見たり、法隆寺東博内のボランティアガイドに参加したりして、茶の湯の展示を行ったり来たりしました。そのたびに、まずは、この茶碗を見てから他の見学していました。

 

常設展会場に本草図譜」がありました。なぜ、日本人はこの茶碗を好んだのか・・・・ なんとなくわかった気がしました。斑入り植物は、外国人には病気のように見えて嫌われると言います。しかし、日本人はこの斑を愛で、その入り方を競い合うという文化がありました。それと同じだと思いました。曜変の違い・・・・ しかし、その違いというほど、アイテムは出現しなかったわけですが。

 

茶の湯展を見ていて、「価値」とは何か・・・を考えさせられました。

どんな茶碗が好まれるのか。時の権力者、あるいは貴族階級の好みが価値の基準ということなのか。しかしのちにその階級とは違う武家や町人の価値が台頭し、庶民レベルにまで広がると価値は多様化します。そうした価値の変遷を、今の時代から見る私たちは、どう見ていくのか・・・・

 

長次郎 《無一物》 貴重なものと聞いていました。近代美術館で展示が終わってしまったといわれていました。それって何者なんですか? 名前からして、なんだか究極の茶碗のようです。

ところが、ここにもあります。どういうことなのでしょう? 同じ名前の茶碗がいくつもあるのでしょうか? 光琳の《紅白梅図屏風》の時と同じような感覚。展示替えで移動してここに来たのか・・・・

なにやら、ちいさい美術館所有であまり外に出すことはないのだとか。その作品が目玉なので外に出すと、来館者の期待を裏切ってしまうらしい。

今の私にはその価値がわかりませんでした。

その隣のキサラギ・・・   無骨、茶碗は宇宙と表現されるけど、宇宙じゃなく地球、大地だと思いました。色もそうだけど。これが、キサラギという名前? これまたわからない・・・・でした(笑) 

長次郎、正面はどこなのか。手になじむようにくぼみや切込みがある。ということは、茶碗には方向性があるはず。モノ知りげな感じの人がいて、言葉を交わす機会があったので、何人かに聞いてみたけど、みんなあまり気にしてないみたい。「どこでも、好きなところから見ればいいのでは?」っていったって作り手は、どこから見るかを意識してるだろうし、お茶を出す時に前後、ってあるのではないかと思うのですが・・・ 

茶碗の内部は、地層そのものだと思いました。だって土で作ってるから当たり前(笑) 其一の軸に描かれた茶碗の形とよく似てるものが・・・・ これが長次郎だったらな。

  

閉館間際の30分間。ほとんど人はいません。ひとりかぶりつきで曜変天目茶碗。 さっきと見え方が全然、違うじゃない!  どういうこと? 七変化してます。ライティング変えた?  パナソニックミュージアムみたいに時間によって変えてる? そんなことないよね。 

わかりました! この器にあたる光は床からの反射光です。人だかりがあると、床から反射した光は、茶碗内部には届いていなかったのです。今は私一人だけ。茶碗を周回しながら思う存分鑑賞。全く違う表情を見せてくれまたのでした。 

もし、昼に見て、それで終えてしまったら、曜変天目茶碗ってそんなに騒ぐほどのものなのかな・・・と思ってたかも(笑) あの七変化は、照明によって作られたもの。そんなふうに思ってしまったかもしれません。印象が全く違ったと思いました。

安藤堅氏の『碗の宇宙』をとりだし、静嘉堂曜変天目茶碗を観察された下りと突き合わせながら見ていました。全く別ものに見えてきました。

茶碗が焼かれている状況。その組成、成分、そして茶碗を構成している物質の分子が動いている様子がイメージされました。茶碗の傾斜によって、物質が移動が変化するというくだり。緩やかな勾配では、ゆっくり移動急こう配の部分は速く・・・  なるほど、だから、底の部分に星がたまるわけだ。

海と島に分けて考える。分けて見る。その辺縁の変化は干渉による。色素ではない。黒い部分も枠と中に分かれてる。そうやって見るだけで、移動する物質の姿が見てくるた気がします。芸術と科学。そういうとらえ方、嫌う人もいそうだけど、私はおもしろいと思いました。

 

 ■(2017/04/15)  /  [04/13] 黎明アートルーム:鈴木其一 四季花鳥図屏風

サントリーで見た印象と随分、違いました。何でなんだろう・・・・とあれこれ考えてみました。 ⇒■其一の《四季花鳥図屏風》との再会(黎明アートルームにて)

 

■(2017/04/06)  /  [04/04] サントリー美術館:絵巻マニア列伝

メンバーズ内覧会 スライドレクチャー 学芸員上野友愛

事前にメンバーには、「美術館ニュース」などの配布物もあるのですが、それには目通ししておらず、行きの車内でざっと携帯から情報収集した程度。今回の展示は、趣向がこらされたユニークな展示であることを理解しました。絵巻を見た人の目線を通して、その人たちがどのように鑑賞をしていたか。そして本来、絵巻といものがどんなふうに鑑賞されていたのかを知ることになりました。

その解説を改めて見ると、なるほど・・・・でした。これまで何度か絵巻の展示を見てきましたが、肩幅60cmの世界だった・・・・そんなふうに鑑賞をしていたものだという捉え方をしたことがなかったので、絵巻の見方がガラリと変わりました。さらに、レクチャーでは、絵巻をビデオテープにたとえて、今のDVDとの違いを解説され、早送り、巻き戻し、頭出しを、絵巻にたとえられて、とてもわかりやすく興味をそそられる解説でした。また、絵巻の貸し借りをTUTAYAの貸出にたとえ、レア物収集のマニア心や、貴重なものの貸し倒しなど、今の世相に重ねた解説。こういうユニークな企画を思いつく方ならではのお話だと思いました。絵巻というものの見方が一変しました。

 

レクチャーを受ける前に、一通り見学。それぞれの絵巻をどの人の視点で見たのかという人物のアイコン画像が解説的に添えられていました。ところが、どのアイコンが誰なのかという解説がどこにあったのか・・・・ 見逃してしまったのか? と思って受付で確認すると、章立てになってまとまっているので、ブースごとに見ればいいということがわかりました。

 

60cmほどの肩幅でカット割で見ていた・・・・それがわかり、広げられた絵巻のどのあたりを自分なら切り取りながら見るか、自分のカット割りをしながら見ていると、次のカットにこれが現われるということか・・・ と思ったらその時の驚きやワクワクを、当時の絵巻マニアと同じ気持ちで追体験できました。

 

6人の絵巻愛好家の絵巻に対する尋常ならぬ愛について解説されました。中でも最後の松平定信は、単なる愛好家にとどまらず、絵巻の修復や次世代に繋げるための使命感に燃えており、絵巻対する愛は、人類愛のような普遍的なものに変化していたと言います。こうした歴代の絵巻に対する彼らの愛を、十分に感じて、今回のテーマ「うい、らぶ、えまき」の輪の加わって下さいという学芸員さんのメッセージでした。

 

そのようにおしゃっている担当学芸員さんが、もしかしたら、一番、絵巻を愛しているマニアなのかもしれません(笑) 一握りの愛好家によって今に引き継がれてきた絵巻を、より多くの人に理解してもらい、愛好家を増やそうとされた今回の試みは、松平定信に匹敵、いやそれ以上の貢献をされているかも・・・・? 

これから、100年、200年後に、もし同様の展示会が開かれたとしたら、「マニア列伝」の中に上野学芸員が登場するかもしれません(笑) 絵巻マニアに女性は、登場していなかったと記憶していますが女性は閲覧を許されていなかったのでしょうか?

 

「絵巻」だけでなくそれに付随した文章も、ちゃんと見て下さいね・・・ と念をおされました。それによって、絵巻をみていた人たちや、それを取り巻く人たちの様子がわかり、その愛の強さを感じとることができます。

確かに、文字情報はわからない。つまらない。だから見ない・・・という悪循環。ところが、サントリーの其一展で翻訳文章が掲載されていてとてもわかりやすかったという記憶があります。(他でもしていたのかもしれませんが、これまで目にとまりませんでした) 通常は素通りしがちなガラスケースの前で立ち止まり、いろいろ話をしていました。

「文字」というのは、その人の気質を伺わせます。ぴっちりまっすぐに、乱れることなく書いた文字。これは、定規あてて書いてたの? と思うような文字があるか思えば、訂正線があちこちにあり、加筆、修正だらけの花園天皇天皇がこれですかぁ・・・・  マティスとルオー展のルオーの手紙を思い出しました。いろいろな思いがあふれすぎて、手が思考に追い付かないのかもしれません。

 

そして、文字の部分の展示方法。講座後、改めて見直してみると、なみなみならない工夫がされていたことに気づいました。「ちゃんと見てね」そのメッセージがいっぱい、いっぱい、込められていました。とってもわかりやすかったです。そのメッセージを企画された方の声で聴いた影響は大きかったと思います。

受講した方たちは、会場にもどり、「すごくわかりやすかったわね」「話していること、全部、理解できたわ・・・・」「今回、よかったわね・・・」と、絵巻愛を、存分に受けて浸透している感じでした。

 

見どころトークが開催されます。おそらく担当された学芸員さんによるお話ではないかと思います。 ⇒ まなぶ・体験する サントリー美術館

 

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気になったこと

・《放屁合戦絵巻》朝顔の種が下剤の役目をすることを知っていたよう

  MOMATOにもおならを表現した絵があります。
  おならをどのように表現するか、西洋と日本との違い。

・ナルコプシーという病態に関する記載もされていました。病気と認識いたよう。

・1200年代、(鎌倉時代)に、宮中の内部を直線的な表現を用いて遠近表現をしている。

・この直線は、フリーハンド? 定規を使った? 当時定規はあったそうですが、使われていたかどうは・・・・

・日本美術は遠近表現がされず、平面的といわれがちですが、この時期から遠近表現はされています。この表現を西洋的な遠近法とは認識はしないのかずっと疑問。

・鎌倉と京都の張り合い。今でもそれはあることを京都に行った鎌倉の人が話していた。庭の手入れにそれが見えたそう。お公家文化と野武士文化。それがよく表れているコラムに笑った。

・《玄奘三蔵絵 巻三》捨身飼虎(しゃしんしこ)の虎話、初めて知りました。

釈迦、投身?  お釈迦様って身投げしちゃったの? そんな話、聞いたことないんですけど・・・・ 横にいた人が、「捨身飼虎」の崖ね・・・・と話していたので、どういうことなのか聞いてみました。

釈迦の聖地であるインド「捨身飼虎」の崖を訪れ、崖の下にいる飢えた虎に、釈迦が身を投げてたべさせたという話だと聞きました。でも、釈迦は食べられなかった・・・

前世の話らしい。みんなよく知ってるなぁ・・・と思ったら結構、常識的な話らしい。

 

・《伴大納言絵巻》に群像劇と解説がありました。ミュシャ叙事詩も群像劇?だと思ったけど、その表現が随分と違う。もちろん、サイズも比べ物にならないけど、表現緑は、絵巻の方が上だと思った。

 

参考:饒舌館長より

サントリー美術館「絵巻マニア列伝」1 

サントリー美術館「絵巻マニア列伝」2

サントリー美術館「絵巻マニア列伝」3

サントリー美術館「絵巻マニア列伝」4

同じテーマでシリーズ形式でブログを書かれる方はあまりお見受けしないのですが、サントリーの『絵巻マニア列伝』のことを4回にわたって書かれている方がいらっしゃいました。連載で書かれる方というのは珍しいし内容も充実・・・と思って見ていたら、サントリーのプレス内覧会で乾杯の音頭をとられ、静嘉堂のディレクターもされていらっしゃる方でした。 

 

 

■(2017/04/06)  /  [04/05] 国立新美術館:アートライブラリー

近くに行ったので、アートライブラリーに立ち寄り、ミュシャ関係の本を閲覧。芸術新潮3月号」が詳しく、まだすべて見ていなかったので、続きを読もうと図書館に行ったら、4月号、草間彌生特集に切り替わっていました。そして、3月号は、すでに貸出状態。予約待ちは6名・・・・ みんな行動が早いです。そこで、国立新美術館アートライブラリーにあるかな・・・と思い立ち寄ってみたら、ちゃんとありました。1冊だけのようだったので、誰か見ていたら閲覧できなさそうですが。

 

以下、気になった部分を抜粋

 

「スラヴ叙事詩から見えてくること ミュシャ」(本橋弥生)

  芸術新潮 2017 3月号  ) p41~

ここに書かれていることと同じようなことを、自分の力で感じることができるようになっていました。「視点のコントロール」「当時の美術の技法の影響、(印象派)」「作品を前に、引き込まれていくのは演劇的イルージョンであること」・・・例に挙げられていた絵は、私がそれを感じた絵とは違っていましたが、スラヴ叙事詩は舞台であることと同じだと思います。(⇒■ミュシャ展の感想 スラヴ叙事詩は舞台装置!?)そして絵の構成が舞台に通じるものがあるのは、サラ・ベルナールとのかかわりの影響もあると思ったおこと。そして、ウィーン時代は舞台美術の工房で働いていたことを最近「もっと知りたいシリーズ」からわかっていたので、それも関連性が、あるんじゃないかな? と思っていました。それと同じ考察をされていました。

 

そして、ミュシャの今、現状・・・・  日本ではこんな騒がれているけども、カレル大学の学生の反応や、これまで放置されてきたことなどを考えると、どこかミュシャの思いと、チェコの人たちの間に温度差を感じていました。実際のところミュシャの研究はさかんではないのだそう。それはミュシャチェコ人の歴史的理解の温度差もあると解説されていました。チェコが独立するとスラヴ民族の連帯という考え方は後退し、ヨーロッパ全体としての統一という意識に変化。汎スラヴ主義の問題、ドイツへの対抗に変化。

 

日本でミュシャ展を開催にあたり、親族が反対して危ぶまれたということが言われています。なぜ、反対したのか。「日本に行く」ことが問題だったのか。遺族とチェコとの問題なのか。

ミュシャ展の目玉「スラブ叙事詩」日本初公開に暗雲…?ミュシャの孫が貸し出しの取りやめを求め提訴 - Togetterまとめ

Mucha-holic / ミュシャ中毒 スラヴ叙事詩の行方はまだまだ混迷中

 

いろいろに言われているようですが、最終的にはOKとなり、しかも、写真撮影までが許可されることになりました。そのことを不思議に思っていました。なんとなくこういうことなのかなと思ったのは、ミュシャの強い人気のある日本。そこでファンの心をしっかりキャッチして、ミュシャの人気を維持させる。火をたやさない。そんなことを考え得たのかなぁ・・・とか(笑)

 

〇追記:(2017.04.09) 

上記を書かれた本橋弥生氏が、国立新美術館 主任研究員だったことを知りました。来週、日曜美術館に出演の中にお名前を見ました(4/16) うわべだけを見ているだけだと、真意はわからない。何でミュシャが以前からスラブ愛歌を描こうとしていたことに触れないんだ・・・と思っていましたが、芸術新潮ではミュシャの現状が語られていました。 また、歴史画を描きたいという気持ちは、画家をめざした時から・・・だったことも書かれていました。

日曜美術館ミュシャの回の出演者に宮本亜門さんが。やっぱり! スラヴ叙事詩と舞台との関係が語られるのだろう。

 

 

◆The era of "Slav epic"|ムハをめぐる複数の文脈 

    − プラハ、スラヴ、そしてフリーメイソン阿部賢一
      芸術新潮 2017 3月号 ) p51~

こちらでも、ミュシャ歴史観チェコの人たちの認識の違い、温度感覚の違いについて触れられていました。またフリーメイソンの主要メンバーであったという文脈が加わることによって、絵の解釈も見え方が変わる・・・・

フリーメイソンの入団証を描いていたり、トップの立場で牽引していたり・・・
 フリーメイソンの精神、平等・自由・友愛は、スラヴ叙事詩にも込められています。
 叙事詩を寄稿したり市民の間の作品も寄贈していることなどその現れ)

ミュシャ自身が次のように語っていたそうです。

作品が目指すのは、壊すことではなく、常に何かを作ること。橋をかけること。なぜなら我々全員が生かされているのは全人類は近づくことができるという希望による。お互い理解しようとすれば容易に 

 

 

絵巻マニア列伝を見て、絵巻愛・・・というものを感じました。ミュシャに対する愛についても、いろいろな愛のカタチがある・・・  こんなに一人のアーティストのことを調べたのは初めて。それは果たして愛なのか(笑)  嫌い、嫌いも好きのうち? (曝)

 

ミュシャ展で感じていた、なんか変は・・・・・
反対していたのに、なぜ撮影までOKするの?
反対していたのに、インタビューは受けるんだ・・・・

 

そういう直感的に感じた裏側にあることをさぐることを愛しているのかも(笑)

 

■■■■■■■■〈2017年 3月〉■■■■■■■■■■■

■(2017/03/27)  /  [03/26] 國學院美術館:祭祀と神話―神道入門―」

前回は、試験中でお休み。今回は、

 

お昼を学食で・・・と思ったら春休みでお休み。事前の確認は大事。いつも立派な資料があるので、今回もそれを目的にでかけたら、それは今回は作成されていないとのこと。

 

神話については、西洋の神話もふくむのか・・・と思ったら日本の神話でした。祭祀・・・ 最近、googleのピックアップ記事に、宮中祭祀のことについて書かれたブログがリリースされます。なんでもこのままいくと、継続が危ぶまれるているのだとか。そんなゴシップ的な記事でしたが、そういうことが頭の中にあると、祭祀の見方が変わります。こりゃ大変だ・・・  よく耳にする新嘗祭。とても主要な行事だからこそ、私たちの耳に届いていたわけだ。大嘗祭・・・天皇即位をした初めての新嘗祭。それにまつわるニュースが・・・・平成30年11月に大嘗祭を挙行へ 通常国会で法整備不可欠に  伊勢神宮式年遷宮のために樹木が用意されるように、大嘗祭のためのお米の用意が行われる。

新穀を育てる特別の水田(斎田)2カ所を準備する必要があり、同じ年の2~3月に亀卜(亀甲を用いた占い)で斎田を決める「点定の儀」が行われる。

何度か、この博物館の祭祀のコーナーを見てきましたが、ぐっと近づいた気がしました。

 

神話・・・・ ちょうど、スラヴ叙事詩を見て、スラヴの神話が描かれていたわけでですが、スラヴの血を引く人たちはこうした神話を知っていて、自分のアイデンティティーになっているのだと思っていたけども、実はそうではないらしいということを、現代の若者の感想を見て知りました。

 

日本の神話も、日本人ならだれもが知っていて、精神形成や日本人の心の形成に影響を与えているかというと・・・・  自分に置き換えたら、そんなことはないし(笑) そもそも古事記日本書紀の神話を知らない・・・・

 

ただ、宮中祭祀 天皇系の継続と稲作はシンクロしていて、稲というのは自家受粉する作物で、他の血を入れない。といったことが、稲作を代表とした祭祀につながっていると論じられているのを過去に見たことを思い出した。

 

伊勢神宮式年遷宮 大嘗祭新嘗祭・・・  それが何かを知らなくても、聞いたことがある「言葉」「行事」は、興味の入り口になる。

 

 

 

■(2017/03/25)  /  [03/24] 国立新美術館ミュシャ展 ⇒

ミュシャ展、行ってきました。思ったほどの混雑ではないです。どこから混雑と思うかにもよるから。若冲展、モネ展、京博の琳派展を経験したものにとっては、こんなのは混雑とは言いいません。解説に近づくこともできないと思っていたけど、この程度はノープロブレム。

以下、思うままに感想を羅列します。

〇大きい とにかく大きい。でもそれだけだったり?(笑) スラヴの心、その本質は、日本人には理解できないと思われる。単に巨大さに圧倒されて、解説を見てそれをわかった気になっているだけのなのかも・・・・と見る前に、頭をかすめていた。でも、そんなことはなかった。付け焼刃の予習を少ししばかり・・・・ 20作のちょうど半分のところで、まだ終わってないのだけど、でかけてみることに。 狙いは金曜日。1週間先延ばしたら混雑も変わりそう。予習が半分残っているというのは、ちょうどいいバランスかも。電車の中で、後半の半分の概要だけ、読んでおいた。これも正解だった。

〇天空と下界  その両方で表されているものも。現実と空想(?) 暗示と陰り

〇光に注目  どこにスポットをあてているのか  その光は何か
  星  太陽  炎・・・・
 遠くで見る  入った瞬間に感じるもの  近くで見る
〇もやの立ち込め  空気観とぼんやり描かれる人 空の色 ぼかし
〇近景・中色・遠景の表現 
 低・中・高・・・・ 高い部分 見上げる さらに上を向く人による効果
 上部  平面+近景  アーチの重ねによる遠近  

 

〇時間表現  時代の暗示  
〇時間の同時性 同じ画面に時間差  鳥獣戯画の異時同図技法? ミュシャのオリジナル? 歴史画の描き方の定番?

 

〇これは舞台装置では?  群集劇を見ているかの錯覚

(群像劇・群集劇の概念がちがった・・・野田秀樹みたいのを言うのかと思ってた)
 見るなり登場人物が語りだす絵もある  役者も動きだすものも・・・
  それは予習あってのたまもの? 解説には歴史映画のようだ言われた絵もある
 舞台であり、映画であり、等身大の絵のVRに引き込まれる感じ・・・
 ミュシャの描いた自然の中で一緒に遊んでいたり。

 

〇多彩な登場人物
背後霊のように描かれている人が、実は偉い人で主役級。しかしスポットを浴びているのは、民衆。真正面を向き、 目で何かを語ろうとしているあの強烈な目力を持っているおは民衆。王や貴族は正面を、私たちを見てない。(たぶん・・・・全部を確かめたわけじゃないので)その傍らににはブッシュがあって、身を隠したり横たえたり。 前景、中継、高景への移動の拠点にもなっている。 

現実に戸惑う人、客観視する人、斜に構えて見つめる人。あなたは何が言いたいの? と思うものもあれば、自ら語りだして声が聞こえてくる。やはり、この絵は舞台だと思った。ここに登場する一人一人がかけがえない一人。ぼんやり影の薄い人もいる。でも、この舞台のなかではしっかり役割があって、セリフが与えられていて何かを語ろうとしている。それを考えてみるものもおもしろい。

 

〇予習しながら見えなかったものがはっきり見える

絵が何を表しているのか、ネットの画像を見ても、はっきりせずわからない。何かわからない。どれかわからない。これのことかな・・・ あたっているのもあったけど、違っているのもある。修正せねば・・・・

 

〇日本と世界との違い  アイデンティティの違い
これは埋めようのない史実の違い。この民族、地域の人でないと共有できない。私たちに真の理解は無理。同じ民族の人たちならこの絵を見れば、何が描かれているかを一目で理解し、その精神を理解できるものなのか・・・・それが血というものなのか。

ナチスドイツによる侵略 それによる反駁。フランスのマティスとルソーも同じだった。それによって誘発された愛国心ナチスが与えた影響。至るところに、どこの国にも同じような歴史、弾圧が存在している?

 

たまたま読んだカレル大学日本研究学科修士課程の学生によるスラブ叙事詩の感想を見て、衝撃というかカルチャーショック。自分の言葉を持っている。感じたことしっかりと語ることができる。それこそが、ミュシャ叙事詩を通して描いた言葉の力。通底しているテーマ。それを引き継いだ結果なのかもしれない。

 

アルフォンス・ミュシャ「スラブ叙事詩」に挑む – プラハから日本へ より

私はミュシャの作品は非常にきれいだと思うが、スラブ叙事詩を初めて見たときあまり好きにはなれなかった。なぜかというと、その絵画は全然誠実ではないという気がするからだ。誠実ではないので、人間の心を動かせない。もちろんスラブ叙事詩はほかのミュシャが描かれた作品と同じように、高い技法で、装飾を凝らしているし、観覧者に印象を与える。だが、残念ながらこの絵画が好きにはなれない。王プジェミスル・オタカル2世の絵画も私にそう思わせる。絵画を見ると真ん中に腕を差し伸びながら立っているオタカルの姿が見える。その周りに同じ立ち姿でほかのスラブ王も描かれている。この中心的な場面は絵画の残部と比べて、薄い色で強調されている。王様が腕を差し伸びながら立っている立ち姿はリアリティがなく私に不自然な印象を与えた。この場面はボヘミア王としてオタカルの栄光を表わそうとしていることがわかるが、立ち姿さえ信じられないと絵画の全部をまじめに受け取られないだろう。ミュシャは技術で歴史を変えてみたかったが、そのため彼の絵画が誠実ではなくなってしまったと感じている。スラブ叙事詩展覧会の小冊子を読むと、スラブ民族の栄光や有名なスラブ人に対しての敬意については理解できるが、本当にその気持ちを実感することはできない。ミュシャは偉大な画家ではないとは言いたくないが、技術が誠実でないとどんなに偉大な芸術家でも、いい絵を作ることができないと思う

 

同じ民族だからといって理解できるわけではない。時代も歴史認識も違うのだろう。日本人が日本の歴史を理解しているかと言ったら、みんながみんなわかっているわけではないのと同じ。現にミュシャは、制作途中で古いと言われ、しばし忘れ去られていた。誰かが光をあてたから今があるのだろう・・・・

私もミュシャが好きなわけじゃない。だから、叙事詩を見て好きになれなったとストレートに語る学生がまぶしく思えた。好きだからミュシャ展に行く人が多い中(たぶん)好きじゃない。と語るのは気が引ける。そして予習をしながら学生と同じようなことも感じていた。

 

ぼやけた描き方はなんなんだ・・・  足元がおぼつかないというか描いていない? と感じる部分もあるし・・・中心部、中心人物のはずなのに、ちゃんと描いていない。その答えは、テレビの放送で出てしまった。民衆にスポットをあてているということらしい。それに納得していた。

この学生のように、ミュシャを「誠実でない」とは思わなかったけど、何かずっと、違和感を感じていたことも事実。そして「スラブ民族へ敬意は理解するけども、その気持ちを実感できない」とスラブ民族であろう学生が語った。私も思った。表向きの表面上の描きたかったことは理解できる。しかし、その本質なんて私たちには理解できるわけがない。それはスラブ民族でないと無理・・・と思っていた。それがスラブに流れる血。しかし、スラブ人さえも理解できないと語る。日本人がこれを見て、ミュシャの気持ちがわかるというのは、わかったつもりになっているだけじゃないかなぁ・・・とか。そんな感想を行く前に抱いてのミュシャ展・・・・・

 

実際に行ってみるとその感覚は、ちょっと変わりました。しかし・・・・

 

 

〇光とともに「手」に注目

いくつかポイントを決めて見ていたのですが、会場でみつけたテーマは「手」 ミュシャの描く手が気になりました。 前出のプラハの学生が語ったこと。

 

技術が誠実でないとどんなに偉大な芸術家でも、いい絵を作ることができないと思う

恐れ多くてミュシャに対して、「技術が誠実でない」とは私には言えませんが、でも、それに通じると思ってしまったのが、ミュシャの手の表現、これってどうよ・・・と突っ込みたくなる・・・ ミュシャ、ちょっと下手じゃない? って思ってしまうのは、まだ絵の見方がわかっていないせい?・・・・(笑) 巨大画故の何か注意をひくためのこの表現手法なのか?

 

 この手の表現は、どう受け止めればいいのでしょうか・・・・手は、ある分で、民衆の生活であり、何かをつかみたい意思を表したりもするだろうし・・・

 

 

 〇最後の作品

最初に目に飛び込んできたのは、上部の人ではなく、下でのけぞって手を挙げる人。

なによりも喜びを無条件に表していて、見ているこちらもなんだか晴れ晴れした気分。

これまでの作品は、どれもがどこか重々しさが漂っていた。他のどの絵よりも喜びが表現されていました。

 

この絵については、予備知識が全くありませんでした。でも見ていて面白いくらいに何を表しているのかがわかったのです。構図の謎解きもすぐにわかって、この絵にも異時同図の手法が用いられていること。それらが織りなす重なりの構成、絶妙なバランス・・・ それはらせん構造になっていた。(←これは読み解けなかったけど、図録で判明)これまでみてきたいろいろな作品とも通じる、キーワードが重なろ融合している。すべての史実が神話も混ざって影響して今に至る・・・・ 

しかし、中央の黄色い部分がだけがどうしてもわからないのです。それもそのはず、既出ではない場面だったから・・・半分の予習ではあったけど、最後のこのこの作品をちゃんと読み解けるまでに理解できるようになっていた・・・ 予習の成果、あらわる?(笑)

 

音声ガイドの解説。BGMはモルダウは最後のクライマックス部分。

渦巻く急流を抜けると、川幅が広がりプラハへと流れる壮大さが、この絵に重なります。それまでのモルダウがまた違う意味を持ちました。

 

 モルダウをBGMに持っていこうと思っていたのですが、音声ガイドにモルダウが単体でBGMとして聴けると勘違いしてしまった。転調の部分が意味することも変わりました。

 

 

〇民族ではないけどもスラブ人としてのアイデンでティーとはなにか?

スラブ人だけでなくすべての民族において共通したアイデンティティーとは「土地」であり「言葉」。そして「名前」・・・・・戦いによって奪われる「土地」それに伴ってはく奪される「言葉」。奪われるという歴史を繰り返してきたスラブ人。スラヴ叙事詩にはその「スラブ語」を復興するシーンが多く描かれている。いかに言語というものが、民族を支えているのか‥‥ 奪われた側の立場を思うと同時に、奪う側の立場。

ひるがえって日本人のことを思った。言葉を奪われたという歴史を持っていない。そして奪った歴史は持っている。名前も奪った・・・・ 同じ日本の民族の言葉も奪ったという歴史。スラブ叙事詩を見て考えたことは、スラブの歴史よりも日本の歴史だった。

 

 

 

■(2017/03/17)  /  [03/15] 山種美術館速水御舟について

●新美術館開館記念特別展 速水御舟  日本画への挑戦

p23 名樹散椿  S52 重文

金地は雁皮紙に金砂子の「撒きつぶし」によるもの

「撒きつぶし」とは 金箔を細かく砕いて粒子にした砂子を竹筒に入れて何回もわたり振りまいて  と技法

金地と土ハによる構成は宗達の《蔦の細道図 宗達 - Google 検索

 

山下裕二先生寄稿 (p11)

御舟の「よく?折」により老大家、あるいはのちの老大家によって称えられたことで以後の院展日本画全般のありようにとてつもない影響を与えてしまった。また山種による一括購入による御舟のブランド化が加速。御舟は特別という風潮が・・・・

 

全能の神のごとくあらゆる技法に習熟しその技法を画面に余すことなく定着したタイプの画家ではなかった。線画を排除した塗る日本画に傾倒。日本画壇が御舟に冠をいだくことでつまらない美術史作った。大観、天心の評価とともに見直すことが必要。

  

意を得たり!  全くこれと同じことを感じていた・・・・

 ⇒〇速水御舟の全貌 ―日本画の破壊と創造― ④《炎舞》.

 

 

●輝ける金銀 琳派から加山又造 p39より

この金地に用いたのが「撒きつぶし」の手法
弟子の吉田善彦によれば、金砂子を何度もまいては擦りつぶしていくものだとういう。表面は完全に均質な状態で、大観、天心も肉眼では砂子に見えないのだが、テレビ取材の時、並木秀俊氏の調査により砂子が確認

 

重要文化財の指定

s52 名樹散椿 炎舞 重文指定
s51 御舟一括購入

 

p152よ

御舟展、一括購入の話題もあり、8万人導入  一種の社会現象に。
文化庁より作品を散逸させないようにとの要望もあり、そうした社会貢献が考慮され重文の制定に・・・・ 

 

 

■(2017/03/16)  /  [03/15] 山種美術館日本画の教科書 東京編⇒

ー―大観、春草から土牛、魁夷へ―

ギャラリートークに参加。大観、春草から土牛、魁夷へ・・・・のサブタイトルの大観への疑問の解決を第一目的に・・・

大観の数ある富士山の中でも、「心神」は特別なものと言われているようです。しかし、具体的には他の富士とは、どこがどう違うのか。おそらく富士の絵で、「心神」はここだけ、もしくは数点。具体的にこの絵がどうこうということではなく、大観の信条的なもの。大観自身がこの絵を大切にしており、気に入っていて、その名を配した。

 

圧巻だったのは下村観山の金の屏風。

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「琳派から日本画へ —和歌のこころ・絵のこころ—」 | フクヘン。- 編集者/美術ジャーナリスト 鈴木芳雄のブログ

 

背景は金箔? 箔足が一切、見えません。いや、うっすらあとはあります。しかし箔足の重なりがないに等しい。光のちょっとした加減で継ぎ目のようなものが見えます。しかし、金泥といわれたら、金泥にも見えるくらいのマット感。御舟の「撒きつぶし」かと思ってしまうくらい・・・・ しかし、撒きつぶしではないそう。金箔と伝えられているが、金泥の可能性もあるかもと思うくらいの均一さ。屏風の職人がはるとこのようになるだそう。(金箔は屏風職人が張ることもあるんだ・・・・)

そして、金箔と伝えられていたとしても、以外にあてにならないこともある。画家自身がそのように言ったとしても、画家によっては正確には答えないことも。福田平八郎などは、「金箔ですか?」と聞くと「まあ、そんなもんだな・・・」と濁したりすると。

新らためてじっくり背景の金を確認した。うっすらと重なりが確認できた。

 

 

■(2017/03/12)  /  [03/14] 上品会

日本橋髙島屋で行われていた「日本美術と高島屋」の中で紹介されていた上品会。

日本の文化、技術を守るという役割を担ってきた百貨店。今でも、呉服の世界の技術を守るべく上品会(じょうぼんかい)という形で支援。機会があれば、その品評会? というものを見てみたいと思ってました。スタート時は、3社、現在6社が。着物や帯を、1年以上、手塩にかけて作った名品を競いあい、入選すれば、高島屋がすべて買い上げる。出品者いわく。

「着物催事では、高島屋さんの上品会が日本一。参加する我々の優越感。お客様からの期待感。職人たちの力の入れ方、神経の使い方も相当。切磋琢磨し腕を挙げ、業界全体が参考にする部分もある。兼学向上」こそが上品会の柱。ずっと続けて頂きたいし、続けられることが高島屋さんのお力。」

 

今年のテーマは、ジャポニズム。ヨーロッパのアールヌーボー時代のガラス工芸は、日本の影響を受け、ジャポニズムブームが席巻。それらベースに着物が作られていた。

 

高島屋の呉服 | タカシマヤ

さまざまな国の美術様式に影響を与えた日本の美「ジャポニズム」の本質に迫り、同人各社の卓越した染織技術を駆使して、ものがたりの世界を表現しております。

訪問着「細雪

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細雪」をモチーフに“花”を優美に描きました。「細雪」には4姉妹がお花見を楽しむシーンが多くでてきますが、それを象徴するしだれ桜をメインに、京都の風景を想起させる写実的なタッチで描きました。透明感のある地色で全体を構成し、下前には、日本美術から影響を受けたといわれるアールヌーヴォーの表現を、桜などとは対照的なタッチで描いています。

 

上記の着物で思い浮かべたのが下記の作品だったのですが、並べてみるとちょっと違いました。またこの作品は、細雪が題材なので関連性はないかもしれませんが・・・

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竹取物語のガラスは、ガレだよね・・・ あの黒のシリーズかな?

細雪も、ガレのあの作品と色あい、似てる気がする。と思いながら・・・

 

加山又造や、院展の早々たる顔ぶれの作品も・・・ 日本橋加山又造を見逃してしまったのですが、8月に横浜高島に巡回。

 

3月23日~3月28日 新宿高島屋 

4月13日~4月18日 日本橋高島屋

 

 

■(2017/03/12)  /  [03/13] そごう美術館 

絵画の潮流展明治から昭和の日本画と洋画
エール蔵王 島川記念館所蔵 秘蔵の名品

 

名前は聞いたことがあるけども、どのような絵を描いていたのか知らないという何人もの画家の作品を見ることができた。日本画という世界。洋画の世界。新しい潮流の中の歴史がコンパクトに解説されていて、全体像を俯瞰して見ることができる展示。パクトな解説図録(?)もハンドブックのようでよさそう。

 

田中一村前田青邨は、初めて作品として見た。日本橋で見逃した加山又造展。こちらで加山の作品を見る。8月には横浜高島屋で行われるという情報をゲット。

 

◆近代日本画 洋画の流れ

高橋由一 浅井忠 岡倉天心の前に、紆余曲折のあったことを知った。

その後、梅原、岸田、中川・・・といった名前だけしか知らない画家の関係がなんとなくわかった。

 

53 スフィンクス 島

油の質感、初めて。土塀のよう。影 へこみ 凹凸

 

54 何処へ・・・・

心がかき乱されるような・・・ なんと言っていいかわからない感情。顔の周りの光、背景の表現、その中に見える光? 体に当てられたひかり。

 

解説より・・・ 緊張感 闇(←これだ!) 表情 

 

■(2017/03/11)  /  [03/10] 地球館  3Dシアター

金曜の名古屋博の特別上映は、青、赤、地球を毎月、ローテンションしているのかと思ったら、一度に一気に上映していたのだそう。万博では5時間並んで、1つ見れただけ。出血大放出? 最後の光の放出は地球、愛・地球博。見たものは同じだったけど、恐竜と宇宙の回を見ることができた。

 

人の進化、祖先は、鳥とどこかで分かれると思っていたけど、恐竜が鳥になったらしいことがシアターで判明。地球館で確認。イマイチ、よくわからない。

 

 

 

 

■(2017/03/10)  /  [03/11] 企画展「理化学研究所百年」

ゲノム解明 2003年

 

 

 

  

3CDでなく立体模型で・・・

 

■(2017/03/11)  /  [03/10] 夜のアートイベント 上野公園

(2) 夜の音めぐり 桜の街の音楽会スペシャ

  1. 東京都美術館  (入場無料)
    午後7時00分~午後7時15分

モンテヴェルディ―  声楽アンサンブル

ルネッサンス代表する音楽家

ティツィアーノヴェネツィア派展」にちなんで・・・

 

■(2017/03/11)  /  [03/10] 都美セレクション 新鋭美術家 2017

初めて公募展に参加。写真? かに思ったものが、油絵!  なんだかわからない物体? ミトコンドリア? でも違う  あのぬめっとした垂れ下がる液体(?) 脳裏に焼き付く  「心映」こっちはどうなってるんだろう・・・とのぞき込む自分の姿が映し出される。笑った・・・・

 

 

■(2017/03/02)  /  [03/01] MOA美術館 

 リニューアルオープン後の紅白梅図屏風を見ることを目的にでかけた。国宝の《紅白梅図屏風》のみならず、他の作品も、国宝がずらりと並ぶ。何もわからなくても、見ているだけですばらしいとかんじさせられた。行きのバスは大行列。そんなに注目なのか。美の巨人の影響がここまで? この人たちが、なだれ込んだら、イモ洗い状態は必須。京都国立博物館風神雷神のあの悪夢の光景が浮かんだ。しかし一行はバス下りて別の方向へ向かった・・・・ なるほど、と納得。

 

〇《紅白梅図屏風》 

◎根津でみた紅白梅と違う

11:00にレストラン予約してあった。時間まで、2階の展示だけざっとひととおり見学しつつ、目的の紅白梅図屏風に足をとめる。2年前に根津で見たものと 違う! 違いすぎる・・・・作品が小さい。それに額装変えちゃったの? こんなにごてごてしてなかったはずだけど。展示の高さも違う。屏風を広げる角度も違う。根津では、ちょっと見上げて見る感じだった記憶が・・・ でも、こちらはちょうどよい高さ。座位で見ている状況に合わせて展示されているものと思われる。鑑賞に負担のないとてもよい高さ。そしてなにより屏風の距離感が近い。目の前に近づいて、細部をつぶさに手に取るように見える。

あとで、根津の展示をインターネットで確認。額装が変わったと思ったのだが、同じだった。光の加減によるものか・・・ 妙に目だった気がした。

 

 

◎音声ガイドの解説の差

これまで2回、鑑賞している。しかしよくわからない。やっと《紅白梅図屏風》2年前の根津の音声ガイドによって、はじめてこの屏風の見方を理解ができた。それまでのMOAの解説はどんな解説だったのか・・・・ なぜ、MOAの音声ガイドでは、この作品を理解するに至らなかったのか。それを確かめるために、ガイドを借りた。600円也。高い!  

 

やっぱりMOAの解説は、思ったとおりだった。何によって興味が深めることができるのか。そのきっかけというのが人にはある。しかしそのきっかけは、ひとそれぞれに違う。「そんな解釈法まで、導入のガイドで解説したら、初心者は離れちゃうでしょ・・・・」 しかしながら、その解説を加えた美術館もある。逆にその解説があるからこそ、興味を持つ人だっている。

 

 

〇音声ガイド利用法

私の周りの美術好きは、音声ガイドを借りない人が多い。それは、ガイドに惑わされるのがいやだから自分の感覚で見たいと思うから・・・・ 私はとりあえず、借りる。でも最初からは聞かずに、一通り、見てからガイドを聞いて、ああ、そうだったのか・・・・と発見したり、自分とはとらえ方が違うなぁと思ったり。最近は、ガイドを借りてまで・・・と思う展示ではなかったので利用していなかったが、今回は、紅白梅図屏風》がどんな解説をされているか。それを確認するのを目的で借りた。借りた直後、すぐ、黄金の茶釜の横にあるソファに行って、ガイドを書き写してきた。

 

いつもは音声ガイドを借りない友人が、今回は借りていたのでどうしたんだろう。「先入観にとらわれるのがいやだったけど、今回、展示されているものは、ひととおり、自分でも勉強して理解し、自分なりの解釈ができたものばかりだった。じゃあ、ガイドはどんな解説をしているのか聞いてみたいと思った・・・」と。 ガイドを借りる目的もいろいろ。

 

 

〇《月下紅梅図》杉本博司 

いろんなところで、写真では見ていた作品。この作品、すごい興味があったのだけど、同時展示されていることを知らなかったので、ラッキー! これはどういう作品なんだろう? 杉本氏は、とうとう日本画にまで手を出しちゃったの? 杉本さんという方は不思議。出会うたびに、新たなチャレンジをされていて、ご自身の殻を破っていく感じ。最初は写真家だったはずなのに、いつのまにか建築にまでかかわり・・・  今度は絵まで描いちゃうとは?  どこまで才能ある人なんだ・・・ と思いながら、流水をじっとみていた。

 

あれ? この流水、上の紅白梅図屏風》の水の文様と全く同じじゃない? あれ? 紅梅の枝ぶりも、一緒だ・・・・ 模写してこんなに完璧に写せるものだろうか・・・・  そういえば、光琳の金に対し、銀で、写真の銀板を使ったとか聞いたような記憶がよみがえってきた・・・・

 

監視の人に尋ねようとしたら、この絵について尋ねている人がいた。一緒に行った友人だった。学芸員らしき方が出てきて、この絵は、白黒写真で撮影したものを、プラチナ原版にうつして、拡大したものだと解説されていた。「写真であることを、一言、解説で添えた方がいいのでは?」 と語っていた。「これを見ていろいろ想像して欲しい」という作者の意図があるとのこと・・・・

 

〇作品の解説について

MOAの作品解説は、画材が紙か絹か、何で描かれているかが表示されていませんでした。それまでどうだったのか記憶にないのですが、あえてそうしているのか・・・・

 

何に描いているのか。何で描いているのか。当初はそんなこと、全く気にもならなかったし、作品リストにわざわざ記載されているのを見て、そんな情報をそこに掲載する意味ってなんだろう。ちょっと、邪魔くさい・・・というか、文字がごちゃごちゃして余計な情報、とまで言わないけど、あってもなくてもいい、なくていい情報だと思ってました。ところが、だんだん、絵の見方を知ると、これは何に描かれたのだろうか。何で描いたのか・・・が気になりだして、鑑賞に関する知識が少しついてくると、必要になってくる情報なんだと理解。

 

ただ、あえてそれを記載せず、何だろう・・・という疑問を持って見てもらう。というのは、一つの提示の仕方だと思った。「それだと、不親切では? こんな遠くまでわざわざせっかく来た人に、何も伝えないのは・・・・何か、きっかけになることを示しておくことが必要では?」 何も気づかない人は気づかないまま終わってしまう・・・

 

私はこれを見て「これなんだろう」と思わない人は、それはそれでいいんだと思う・・・って(笑) 作り手も望んでいるわけだから、わざわざ、解説する必要はないし、なんだろう・・・と思って知りたいという欲求の先に、サプライズがある方が楽しいと思う。

 

疑問を感じない人に、よけいなおせっかいはしなくてもいいと思う。自分でつかんでいくものだと思うから・・・・ 一生、気づかないなら、それはその人の人生・・・ 「疑問を持つ」ということも、一つの能力。鑑賞のレベルがあがらないと疑問もわかない。期が熟すのを待つ。それも大事では・・・とちょっと弧競り合い(笑)

 

自分の模索でやっと《紅白梅図屏風》の意味や作品の価値をつかんだという経験が私にはあるためか、美術って自分の力で時間をかけながらつかむもの。その方が、面白さも倍増・・・と思ってしまうのでした。

 

それなのに、《紅白梅図屏風》の音声ガイドに対しては、MOAは、見たままの解説だけ。それによってどういう解釈が生まれるかという解説はなし。そこを解説してもらえれば、私はこんなに遠回りはしなかった。という話をしていました。

「音声ガイドは初心者向けのものだから、そこまで解説したら、初心者は混乱しちゃうでしょ・・・・」  「でも、根津では作品解説に加え、その解説をもとにした解釈を、3例出してた。それによって私は、いろいろ、自分で調べたり考えたりするきっかけをもらった。この作品が何を言おうとしているのかを自分なりに理解するということを悟った」そのため、初心者であっても、そういうナビゲーションがあれば、その後の興味や調べ方が変わるのだから、もう一歩、解説が欲しい・・・・

 

お互い、「より詳しい解説をして欲しい」と思うポイントが違うのでした(笑)

 

私は《紅白梅図屏風》の経験から、絵画の理解は、自分で疑問をもちながらつかんでいくもの。疑問を抱けることが、経験や能力の蓄積によってもたらされる。と思っていたので、杉本さんの梅も鑑賞レベルによって、疑問を感じる感じないがあるのだと思う。だから解説はせず、その人の成長レベルに応じて、疑問を持ちながら見ていけばいいのでは? と思ったのでした。

 

おたがいに感じた「解説が不十分で不親切」というポイントが違うことが面白い。杉本さんの梅で感じた友人。私は紅白梅の音声ガイドの解説でそれを感じた。一方、私は杉本さんの梅にその解説はいらない。友人は、《紅白梅図屏風》でその解説をしたら、解説しすぎ・・・・ と全く逆のとらえ方。

 

美術館が、解説一つとっても、何をどこまで提示すればいいのか・・・・人によって求めるものが違うということを目の当たりにした。

 

そして、初心者にわかるような展示をしてほしい・・・・と望みながら、自分では初心者と思っていても、なんだかんだ言って、10年ぐらい、美術展を見てきているわけです。全くの初心者の捉え方とは違っているのかも・・・なんてことを思いながら。

 

杉本博司作品  「海景」 

この方は、年を重ねていくたびに新たな世界を切り開いていかれる方。昨年の直島で、新たな作品に触れ、今回、また同じ海景。 なんとなく想像はできたし、水平線の写真で、これ以上、何が表現できるのだろうか・・・と思っていましたが、全く新たな世界を見せてくれました。光・・・・ そしてモヤの中の何もない海景。じっとみつめて浮かび上がるのものは?  そして、写真という素材の展示法  印画紙(?)という素材に当てられた光。見る人の投影が一切、ないということの不思議。

 

柳橋図屏風  

作者不明桃山時代の作品  ガラス越しでない露出展示。最初、それに気づきませんでした。ランダムな見方をしていたので、透明度の高いガラスで、直接見ているかのように見える展示。と思いながら、その延長で見ていた。作品解説プレートをみたら、ガラスなしの表示があった。「最初に露出展示を見せて、そのあと全部の作品が露出かと思わせるしかけがされている」と書かれていたことを思い出した。

 

「ガラスがないように見えるなぁ・・・・」と話していた方がいたので、「本当にないみたいですよ」と伝えたら、びっくりしていました。

 

この作品を食事をしたあとじっくり見たら、圧巻。この屏風を右からみるとググンと向こうへ連なる橋が・・・・ そして左へ移動すると急に風が吹き出し周囲の天候は雲が立ち込めていた。そしてちょっと離れてみると、波がさざめき出す。誰が描いたのかわからない絵。前評判の高い絵でもない。でも、すごいなぁ・・・と思える絵。こういう絵に価値を見出して所有するということ。そこがどこであろうと、こういうものを見せてもらえることはに感すごい・・・・ 

 

〇色絵藤文茶壺  

これまた、何度もみてきた壺だけど、全くその良さがわからなかった壺。作者の野々村仁清も知らない。ところが、サントリー美術館で現在行われている展示のコレクターのお一人、清明氏が子供の頃に、野々村仁清の香炉を買ってもらったことがきっかけて、コレクションするようになったという話でやっと知った。

 

藤・・・といえば、其一展で、藤の花に注目して見たりしてきたので、何か感じるものがあるかも・・・という期待があったのだけど・・・・

 

友人にあの壺、何がいいのか聞くと「平面に描くことと、ツボという曲面に描くことの違いがあるんじゃない? あとは、蔓の表現とか、花の描き方とか・・・」

 

そして音声ガイドを聞いたら、やはり蔓の表現について触れられていました。そして葉の葉脈。そこで、蔓だけをずっと追ってみたのです。すると、大発見が!  あの蔓は、つながって、うねうねしながら壺を取り巻いていたのでした。この展示の意味が、それでわかります。360度、周回しながら見る蔓がどうつながっていて、上下しているか・・・ そこに垂れ下がる房。5年越しでしょうか? やっと、この壺のポイントが一つ見えてきました。  

 

〇その他

・黒茶碗・・・

・松と月

北斎 美人画

・乾山・・・花の蓋物 型紙利用

伊勢物語・・・宗達 金雲

・鹿下絵・・・宗達  本阿弥光悦の文字  ずらし 

       料紙と文字のバランス

・床材 瓦?  旧日向別邸と同じ?

 

 

〇カフェレストラン オー・ミラド― 

予約可能。正直なところ、期待はしてなかった。結局、名前貸しでしょ・・って思ってたから。箱根のとある有名オーベルジュオーベルジュ をうたいながらシェフ不在。メニューを作って指導してあとはスタッフにお任せ。きっとここもそんなもんなんだろうって思ってた。

 

ところが・・・・ おいしい!  スタッフの教育が行き届いている。本気なんだ・・・  勝又シェフの姿が見えたそう。ここに常駐はしないと思うけど、オープン間もないからか、目くばせは、しっかりされている模様。

 

 

 

■■■■■〈2017年 2月〉■■■■■■■■■■■

■(2017/02/28)  /  [02/27] そごう美術館 第49回神奈川県私立小学校 児童造形展

こころがかたちになった
神奈川県私立小学校教育協会が主催する、年に一度のこどもたちによる作品発表会。

 

私立の学校でこのような美術作品展が行われていることを初めて知った。公立vs私立という対立構造で見てしまいがちでした

が、こういうところに力を入れることができるのは私立教育のよさか・・・

懐かしい作品・・・  こういうの作った、作った。図画工作というのは、そういうカリキュラムがあるのか。ボックスアート ボトルアート  毛糸  

流木などの形を造形に  何に見えるか。物の特性を生かす

 

浮世絵と版画の違い。

鉛筆の削りだしで、こんなにもパターンが・・・

学校によるカラー  なぜか、色の傾向などが同じになるのは、テーマの共通性か?

 

ーーーーーーーーーーーーーー

 「絵は魂を表す」「絵が下手なのは魂がからっぽ」

 

あのドラマで語られていた言葉、ずっと気になっていたのですが、それを思い出させられました。

芸術とは? いかに生きるか・・・・・  「生きる」とうことについて、臓器提供という問題と「絵」を描くことにからめて問いかけようとした作品?

 

■(2017/02/19)  /  [02/18] そごう美術館 再興第101回 院展

西田俊英ギャラリートーク

西田 俊英 コロポックルの月 

瀬戸内しまなみ海道をイメージ。まず最初に描いたのは月。昼間の雲の状態から墨を入れる。真ん中の月と雲を描いてその周りを描く。その月の光を見ながら・・・ どこに光があたるか。童心に帰って描きたいように。物語性、芸術性

 

・巨大な蕗への注目から、遠景中央の蕗の濃淡に目がうつる

・巨大蕗に注ぐ光  絵の中に注がれる光

・ベースの色の重

 

故 松尾敏男前理事長 特別出品 月輝く古都 

月が暖かい 冷たい色の青も・・・ ドームは花のよう

喪章・・・・  晩年の様子  ゴルフが好き それは、足腰が弱くては絵が描けない。ジェントルマン。女性に家族に優しい。

 

解説より

気象の変化などで見ていた光景が一変することがある。時間も同じ役目をする。

いつも見慣れた昼の風景。帰国の前夜、夜半に窓から見た時、そこには昼間見ていた街と別のものが・・・ 黒いマントに覆われた屋根屋根の中に、寺院の塔が輝いていた。日本画の材料、群青の輝きの青に包まれた古都の寂の空気を表現。

絵は、単純に好きか嫌いかで見ればいい。どんなに偉い方の絵であっても、自分の好みとは違うな・・・って思ったっていい(笑) まだその深みが理解できていないということなのだろうけど、そのうち、見え方が変わるのか・・・ ということでここにメモ。

 

那波多目 功一 アイガ―北壁 

平成2年、松尾先生とスイスのグリンデルワルドの町で写生。
かなり細かく自分なりに滿足出来き、何日(いつか)絵にしたいと思いながら、17年。今、描かなければ描く機会を失ってしまうと思い大きな画面に挑戦。

 

松尾氏と那波多目氏の師弟関係を感じさせる北壁 向かい合わせの展示  虫の知らせ? 偶然が描かせた? 16年あたためた取材を今、恩師松尾氏に送る形に。

 

田渕 俊夫 飛鳥川心象 春萌ゆ 

なぜか松林図屏風と重ねる  曖昧な焦点  近づく 遠ざかるの距離感によって見え方が・・ 黒い部分に吸い込まれる  雪あとの方向による視線の妙 心象風景?

  

奈良県明日香地方を流れる飛鳥川は、日本で最も歴史のある川の一つ。静かな田園の中をゆったりと流れる。が過去には古代国家の激しい興亡を見つめ、また、万葉人に愛でられてきた川。

 

今井 珠泉 風蕭 

“樹木が年間の大部分を強風に晒され、真直ぐに伸びることが出来ずに、それでも逞しく生きている。それを土地の人は風衝樹と呼ぶ”と聞く。早速取材に。厳しい自然の中、風衝樹を写生 

雪がいかに描かれているか。方向、厚み、描かれていない場所。鳥の周辺。こちらもまた松林図屏風に重ねていた。この雪を墨で描いたとしたらどのように描かれるのだろうか。簡単にスケッチメモ。

 

〇近藤仁  村雨

自然の描写に心惹かれることが多いのになぜかビルの谷間を描いたこの絵の前で立ち止まる。(本来好きではないテイストなのに引っ張られる。それが本当に力があってすごいことなんだと思う。単に、自分とのフィーリングがあっただけともいうのかもしれないけど)全面を覆う雨のせいか・・・  そしてこの絵が放つ光。太陽光ではない光。集中する光。影、緑の光。視点の複雑さ? いったい目線はどこから見ているのか。ビル街、遠くに見える海。注視して浮かび上がる川や橋。ビルの光。四角で描かれる細かさ。金で描かれる雨。ベンチに座るとまた違う景色が・・・ あっ、線刻(とは言わないのだろうけど)もある!

 

 

■(2017/02/18)  /  [02/17] 国立科学博物館 常設展

〇常設展:シアター360 

ラスコー展連動企画「人類の旅」を目的にでかけるも、一日2回の上映で間に合わず残念。

マントルと地球の変動–驚異の地球内–       

・海の食物連鎖–太陽からクロマグロをつなぐエネルギーの流れ– を見る。

浮遊感を感じるという触れ込み、気持ち悪くなる人が・・・というインフォに、いろいろイメージしていたけども、あれ? こんなもんなんだ・・・と思ってしまった。が、昔は大陸は一続きだった。それが分割して今の形になったと聞いていたが、マントルの噴火によって、亀裂が入ったというのは納得。大陸の端が分離して、ひょっこりひょうたん島みたいに、プカプカ、大陸が移動した・・・・と思っていたかも(笑)

19:00からは、毎週金曜限定の、愛・地球博で上映された映像。こちらの方が浮遊感など強く感じられ楽しかった。

そして愛・地球博の時に感じたことを思いだした。筑波万博で見た時のさまざまな映像インパクトの方が強かった。当時は360度画面ではなかたけども、臨場感あふれる映像に何度も、訪れて見た。また、3DのDNA螺旋の映像インパクトが強く、映像におけるブレイクスルーを体験してしまったので、360度画像は想定内。既知のものとなり斬新性に欠けてしまうのだな・・・と。映像面での新技術革新の衝撃度は、つくば万博で頭打ちになってしまった感あり・・・なんて思っていたことを思い出させられた。

 

 

〇地球館:地球環境の変動と生物の進化 ⇒

・古代の時間表現 見せ方

「人類の旅」を見ることはできなかったけど、地球館の展示で十分、堪能できた。時間スケールを等尺で見せて欲しいという希望を持っていたのですが、次第にせばまる時間間隔の短縮をいかに見せるたらいいのか・・・・ 自分で考えていた方法(⇒*1)の他に、なるほど・・・と思う見せ方がいくつか提示させられており、こういう方法があるのかと感心。宇宙史、生命史、人間史 その時間のスパンの違いを同列に並べつつ、渦巻で見せる表記方法。こんな方法があるんだ・・・・

 

▼渦巻状に表示し 宇宙史 生命史 人間史を同時に表記し比較

   

 

 

▼棒グラフからの引き出し *1     ▼等間隔で表記     

     

↑ この表記法を考えててたけど   ↑時代のスケールがわかりやすい  

 

北京原人ジャワ原人、アウストラロピテスク・・・

かすかな記憶の中にいた進化の過程の人たちが、ラスコー展では登場しなかった。どうしちゃったんだろう・・・と思っていましたが、学説ががらりと変わっていたということを、聞いてはいたけど、実際に展示を見て、その変遷がよくわかった。

また、新学説の新人類の最新情報なども展示されていて、聞きかじりの部分が補足された。

時間に余裕があれば、ラスコー展に、再度入場しようかと思っていたけど、地球館の充実度に時間が足りないくらい。

ホモサピエンスの前のホモ属。こちらもアフリカからいろいろ散っていた。世界への広がり方がより詳細に展示。逆方向から見てしまったので最初、戸惑ってしまったが、数字の順番に見ていくとよい。

壁画もラスコーだけでなく、他の壁画情報もあり、インタビューもある。フーヨー洞窟の研究者、なぜ、洞窟から装飾骨角器が発見されるのか。純粋な芸術を目的とせず、壁画と同様、呪術行為ではないか。実用品ではなく、呪術的価値を持っていた・・・(まだ仮説)→(そうか、呪術説かぁ・・・)

 

動物画が多いのは神話的かたり。子供の手形は通過儀礼。槍のささった動物は、成功への祈り。そして個人の自由意思。研究者によっていろいろに語られているもよう。理由に地域差もあるのだろうか・・・・・

 

〇日本館:2F北翼 3たくみに生きる縄文人

以前も見たけど、縄文関連の情報、ちょっと知識を入れたので見え方が変わる。

 

〇日本館:1F 自然を見る技  

微小を知る顕微鏡 好奇心から生まれる科学の目

こんなところに顕微鏡の歴史があったとは・・・ というか以前も、このコーナーは、見ていたはずですが、問題意識の違いで受け止め方は変わる。⇒(「顕微鏡」「写真」「電球」の発明と美術への影響(覚書)シーボルトが持ち込んだという顕微鏡を見たかった。

 

企画展「花粉と花粉症の科学」

花粉症発症のパネルの表現方法 見せ方ユニーク、わかりやすい

 

花粉症の対策は、既知のことが多く、新奇性はあまりない? 医療面での最新情報。

花粉についての学習

 

▼つぶやきで花粉情報を知る  

 

つぶやきでみる花粉症話題度マップ

今時の時代性を感じさせられます

 

▼乳酸菌の働き  腸内の様子 絨毛がマイクロファイバーモップには笑いを誘う。展示に際していろいろ考えるのだろうな・・・と。

 

 

■(2017/02/10)  /  [02/10] マティスとルオー展を語る! 「山田五郎アートトーク」 ⇒

山田五郎さんのアートトークに参加。トークの前に展示を見てから・・・のつもりが、トークショーにも遅れてしまった。すごい参加者。マティス、ルオー。私は知らなかったけど、有名らしい。日本人はルオーが好きなんだと五郎さん。出光、清治、ブリジストンと所有する美術館は多く、梅原 龍三郎が日本で初めて持ち帰っていた。

 

最近は、トークショーも知識を入れる前にまず鑑賞するのを習慣にしていたけど、今回は先にお話しが聞けてよかった。基礎知識0で、2人の手紙のやりとりや絵を見ても、読み取るのは、難しかったと思う。また、マティス・ルオーに至る美術史の大まかな流れをお話していただけたのも、西洋美術史を理解していない者にとってはありがかった。

見えないものを描く。ポロックのあのわからない絵はどういう意味なのか。カンデンスキーは音楽が好きで音楽を視覚化しようとした。抽象と具象についての解説がわかりやすかった。師のモローは、長所を伸ばす主義。絵を売らない。そのため有名にならない。弟子の方が名をはせていく。しかし先見の明あり。2人の方向性を示す。同じ窓辺を描いても、表現も違う。

 

手紙の文字、書き方から伺える2人の気質、性格。ルオーの熱さに対して冷静沈着なマティス。病気の自慢大会、マティス盲腸で入院したといえば、俺は鼻水がとまらないんだとルオー(笑) お互い業界の悪口で盛り上がる。長く続いた要因はこのあたりではないかと五郎さん。マティスがちゃんと眠れといえば、ポエムを交えながら俺は眠っているとルオーが反論する。展示の解説からは読み取れない2人のやりとりを面白可笑しく補足され興味をかきたてられた。

ルオーの手紙は、びっちり。書き足しやアンダーライン、さらに空白にまで縦書きで、思いつくままにどんどん書き足していく。話題はどんどん変わり、突然、ポエムが挟まれ、本題からずれていく。その一方、マティスは整った文面、熱いルオーに熱くは答えず、冷静沈着に。

其一の手紙を一緒に見た友人が、絵のようね・・・と語っていたが、まさにルオーとマティスの絵の特徴が手紙にも表れていると思った。

ところで、友情あふれる心温まる書簡・・・という触れ込みではあったけど、所詮は芸術家、お互いがライバル関係。秘めた火花を押し込めている部分が当然あると思っていた。そこを見出そうと思っていたけど、お互いがお互い、思いあっていたんだなってことが伝わってくる。

 

祖国フランスへの愛。プライド、誇り。ラ・フランスと、ひじ掛け椅子の座る裸婦の関係。ラ・フランスは、座っているのか立っているのか・・・ 自立 立ち上がる? 背景の黄色は太陽? → ビデオ:心地よいひじかけの椅子のような芸術

 

娼婦、底辺の生活を描いたルオー、グワッシュで・・ 国吉と共通してる? ブルジョアの空虚・・・カサットに通じるものあり?

 

黒は色。納得いくまで加筆されて真っ黒になった欄外。多くの言い換えによって再現なく修正された本文 漆黒の闇にかかれたもの。

 

ベル=イルの花束(2) 強い反射 テカリ ライト強い 自然の光 色彩にめざめる

 

スヒーダムの瓶のある静物  暗い  対比のため?

 

マティスの「窓辺の女」 ルオーの「   」同じモチーフで描きながら全く違う。

 

2人が突然、開花する瞬間の絵をその前後で提示

ルオー、厚塗り。白の使い方。

教会  三菱一号館  キャメロン思い出す。

其一の影は発見できず。

 

 

ミュージアムショップで見た一筆箋 どこか見覚えがある。そういえばルオーを見ていてもデジャブ感があった。私の好きなテイストでない絵・・・・ なのに、どこか懐かしいというか段々、親しみが感じられてくる不思議な感覚。

 

思い出した! ハッシュタグキャンペーンだ!

  ⇒ハッシュタグキャンペーンのお知らせ | 汐留ミュージアム | Panasonic

この時、こんな便箋ほしさに、ツイートなんかしないよね。もっとプレゼント商品、考えればいいのに・・・・って思ったんだけ。

  ⇒パナソニック 汐留ミュージアムの新たな試み 

パナソニック汐留ミュージアムが、ルオーコレクションの美術館だって知らなかったから・・・  あの一筆箋は、ここの看板アイテムだったんですね。失礼しましたm(__)m

 

でも、一度見たら、好きじゃなくても、なんだか気になる絵になる? だから、いろんな美術館にコレクションがあって、日本人が好きってこと?

 

 

■(2017/02/09)  /  [02/08] 明日の神話

井の頭線のコンコースの岡本太郎作 明日の神話 

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中央の骸骨を近くで見ると浮いてことを、あとで知って確認 ↑ 

第五福竜丸は、やっぱりどう見ても人。船を擬人化したのかも? 

   ↑         ↑  

  マグロ     第五福龍丸

         どう見たって人だ・・・・

もう一つの船あり。

この絵の見る方向は?  修復は遺跡発掘と同じ手法。

 

    ⇒前回(2017/01/28) /  [01/21]  《明日の神話》 

 

■(2017/02/09)  /  [02/08] サントリー美術館「コレクターの目 ヨーロッパの陶磁と世界のガラス」

会員向けレクチャー。毎回、受講者は増えていく傾向・・・・ ですが、2回目の13:30の回は、その時間に来た方も入れた模様。野依コレクションの中心となったデルフトはマヨリカがデルフト地方でつくられたものだと知った。 学芸員さんより、見どころ、おすすめという作品を紹介される。フェルメールの絵画に登場したという水差しなどが紹介された。野依氏は、展示会などのガレの作品蒐集通して、その関係で出会った作品を、自分の感性で選んだ。そのポイントは「きれい」「かわいい」 今、注目の「かわいい」に早くから着目されていた?

 

前回のガレ展で出展された、「フランス菊」の花瓶があり、これが野依氏のコレクションだったのか、よくわからかなかったのですが、野依氏所蔵と判明。この花瓶の裏の構造がすごい。

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             ↑ ガク、茎の再現  

     カメラ撮影の角度がガラスで制限されてしまいましが、
     花のガクからの茎なの表現がリアルで繊細。
     双眼鏡持参がおすすめ。

 

そしてこの形は・・・・あれではないかと勝手に推察しているのですが・・・

   

一体、なんでしょう(笑)

 

日本の磁器、絵付けを見ていると、そのイメージと重ねてしまってその比較で、最初は見てしまいました。日本を、中国を模倣? 独自の路線を確立すればよかったのに・・・・ しかし、この時代というのは、それぞれが、未知の世界へのあこがれや羨望。手に入れにくいものを手にしてそれを再現する。そういう時代だったのだな・・・と。筆の違いによる繊細表現の限界。顔料の選択など、文化の交流により、新しいものを取り入れることに価値を見ていた時代。

それを再確認するとともに、日本技術、感性のすごさが、より強く感じさせられる展示でもありました。お互いが、西洋へのあこがれ、東洋へあこがれ交流によって創出されたもの・・・  

 

日本でこれだけのデルフト陶器をまとめてみることは、できないと言います。今後、サントリー所蔵の備前磁器とのつながりなど、あらたな研究課題として、提示されていく模様。「お互いの影響力」という視点でみるとおもしろいかもしれません。

 

学芸員さん一押し作品 《色絵花鳥文鉢》

照明がどこに当てられているかに注目!

 

    

↑ 器のどこに光が    ↑ その照明はどこから?

  当たってる?      どこから光が? 

 

    

↑ ベースの光       ↑ 反対側の光

 

こんな風に見ると、主催者は、作品のどこをどのように見てもらいと思って展示しているかという意図が見えてきます。

 

そして、もう一度、遠く離れてみると・・・・・

   

 作品全体としてどのような光の演出をしているかがわかります。

(むこうのケースの底面から光があたっていることがこの写真で確認できます。

 作品を見ているときは、この光には気づいていませんでした。

 写真で撮影したものを、あとで見るとこういう発見があったりして面白いです。)

 

 

3階と4階で違う学芸員が担当するのは今回が初めて。4階の基調色は白、 3階は黒がテーマカラー。解説の文字のフォント(?)が違っていて、あれ? と思ったのはそのせいだったのか・・・

 

辻氏のガラスの審美眼は、9歳の誕生日にプレゼントされた香炉に興味を持ったことがきっかけ。紀元前のガラス、見た目にはガラスには見えない。土に埋もれていたものを引き上げ。正倉院の御物にもみらるガラス。ガラスの魅力としてあげられた「プリズム」効果。空気遠近法を調べていて、プリズムと光が気になっていたところ。

光をどうあてるか、その光の反射、屈折・・・  それを意識して見ていなくても、即座に目に飛び込む。光を意識せずに意識して見るようになっていることに気づく。

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     ↑              ↑

ブルーのガラスに光が集中している  上部には2つのスポットライト

(ことから、やはり、等伯の展示で、光の方向や集中はなかっただろうと確認)

 

 

■(2017/02/05)  /  [02/04] そごう美術館:「院展 再興第101回」

心惹かれる絵の傾向が固まってきたように思う。

西田俊英 《コロボックルの月》 また新たな作風。ウサギの視線に注目とあったけど、私は、蓮の方向性が作り出す世界に目が向く。

 

長谷川等伯《松林図屏風》の実物の霧を見て、「湿潤さ」を感じられなかったので、院展の作品で「霧」「もや」を表現された絵を中心に鑑賞。その霧に湿潤さを感じられるか・・・・ 霧、もや、霧雨、村雨・・・ 湿潤をいかに表現するかをウォッチ。一つ一つ雨を描きながら、画面の場所によって描かれ方が違う。雨の中に浮かぶ光。近景、遠景から鑑賞。焦点の曖昧な雪。曖昧さが消える距離。近づいたり、離れたり・・・ あえてピンとをずらす効果。

 

●空気遠近法について

東京都美術館にて、空気遠近法について調べる。調べる基本となる辞典は、

 ⇒「オックスフォード 西洋美術辞典」

 ⇒「新潮 世界美術辞典」 

 

ネット情報は、正確なものはないと考えてよい。編者が明らかになっていない。編者の記載のあるものがたまにある。辞書は編者の意向、基準に、編集されたもの。

 

上記2冊の「空気遠近法」を調べてみたが、用語の扱われ方が全く違う。詳細は追って記事にする予定。

 

                       

■■■■■■■■〈2017年 1月〉■■■■■■■■■■■

■(2017/01/30)  /  [01/29] サントリー美術館

「コレクターの目 ヨーロッパの陶磁と世界のガラス」

ああ、勘違い・・・  見ていて何か違う。あの精巧な陶器はどこ? デルフトが中心。途中で、庭園美術館の展示と勘違いしていたことに気づく。デルフト・・・言葉は知っていたけど、いまいちよくわからない。今回は写真撮影可。解説を撮影してきた。あとで読んで、概要把握してから再訪。正直なところを言えば、日本の技術の方がすごいな・・・・って思ってしまう。

ガレの陶器が出品。前回、だされていたロレーヌ十字と菊の陶器が出ていた。上から下から、裏から、撮影させていただいた。左にあったのも、和洋折衷。日本であり、フランスであり、でも、日本・・・ だけど違う(笑) 耐震構造の撮影も・・・・  これまでいろいろに工夫されていたライティングの撮影も。写真撮影可は、いろんなところを手元で再確認でるから、うれしい。ただ、自分モードになってしまわないように注意。まだ人が少なく、気になるような撮影の仕方をしている人はいなかったけど、無節操に撮影をする人が混入すると、雰囲気が壊れてしまう。

 

 

 

■(2017/01/28)  /  [01/26] ホモ・サピエンスと芸術~縄文人とクロマニョン人と岡本太郎からさぐる芸術のはじまり ⇒

 

●海部先生

本来の研究は芸術ではなく、人間の200年の人類の進化を科学的に研究。クロマニョン人ってすごいんだよを伝えたくて、ぜひ日本でこの展示をと奔走。研究の先にクロマニョン人の芸術性をいやおうなくつきつけられた。そんなご様子。

なんだかこういうアプローチが私は好きなんだな・・・と心から湧き上がるようなものを感じた。最初に「壁画が芸術かどうか」から入るのではなく、壁画を科学的に検証していく。その結果、芸術性を認めざる得ないことが発見されていく。

ご自身の専門は芸術ではない。芸術のことはわからない。しかし、「この迷いのない筆跡は、専門家ではない私にもわかります」うん、うん、とその一言、一言が突き刺さってくる気がしました。

そういえば、壁の上部に描かれているのは、頭の部分だけ。壁面の凹凸を生かして、体の部分は想像させる。これだって、掛け軸や日本画の手法。琳派に見られたはみだしの技術。江戸時代の日本人ってすごかったよね。と其一展で感じ、祖先が持つアイデンティティーの血が自分にも流れていると妙な自尊心みたいなものまで感じていたのですが・・・ ラスコーのクロマニョン人、すごすぎ! 日本人の精神性をすでに持っていた!  というか、アフリカのホモサピエンスが、全世界に散らばり、その末裔が日本人なんだってことを、海部先生の進化の話から理解しました。

思い返せば、国立科学博物館の催しは、私を芸術の世界へいざなうきっかけや転機を与えてくれています。「人体の世界展」や「レオナルド・ダ・ヴィンチ展」「ダーウィン展」

これまでに訪問した美術展の記録は、私の美術展の編年体記録。そこから関連性を見出し繋げていくと、紀伝体に変化します。興味のもった企画を並べてみると、「人体」「解剖」「レオナルド・ダ・ヴィンチ」「進化」「ダーウィン」「クロマニョン人」「ラスコー」・・・・見事なまでの連続性がそこに見られることに驚きます。そして新たな企画に触れるたびに、そのキーワードお背景の知識が蓄えられ、次のキーワードに受け渡され、取り込み消化されると、また新たな視点を見せくれます。まさにY=x2(二乗)の曲線を描いていることを実感。

入り口の基本は科学的なアプローチを持った企画によって興味を引き寄せます。その延長で、美術作品を見ていると、遠近法や空間表現法を知り、その知識が、またラスコーの壁画を解釈する際に還元される・・・・

いい感じの循環。海部先生のことばの一言、一言が、そうそうと、しっくり体の中に入ってきます。「クロマニョン人とは、かくかくしかじかで、われわれはこのように定義をして、話をすすめます」という冒頭のエクスキューズ。そこのところ、大事なのよねぇ・・・って思いながら(笑)

 

◎わきおこる疑問

展示を見ながら、沸き起こる疑問。それが、完璧なまでに、提示されていてストレスが解消されます。

 

Q ラスコーってどこ?

Q クロマニョン人って、人類の進化の中でどの位置づけの人たち?

Q   クロマニョン人って、毛が生えてる原人みたいな人たち? 

Q 何年ぐらい前の人なの? 

Q 縄文人との関係はどんな関係?

Q クロマニョン人がいた頃の日本ってどんなだったの?

 

あとから、調べないと総論的な部分を全然、理解してないから、イマイチ、つかみきれない。でも、総論調べたら範囲が、広すぎて大変そうだな・・・と思っていたら、展示後半で、人類の進化の全体の流れと、時間的なスパンも含め、ちゃんと展示がされているんです。

 

クロマニョン人っていうと、みんな毛が生えた原人を想像するんです」

 

ああ私だけじゃないんだ・・・・(安心) そういえば、クロマニョン、ネアンデルタール人と、原人みたいな人たちの前で、「どっちが先なんだっけ?」と言いながら話している人たちがいました。

当初、なぜゆえに洞窟に絵を描いたのか。それは記録。「何かを残したい」「見たものを留める」「情報を伝える」ためと私の中では確信していました。しかし、6章でその確信は変わります。クロマニョン人はアーティストだった! それによってクロマニョン人は人間=ホモサピエンスになった! と理解しました。

◎2章 洞窟の模型。

ネコ科の部屋が目に留まってそこから見てしまったので、この模型がどういうものかを理解せずにみていました。

この模型、これどういう意味なの? 洞窟の外観を模型でみせられたって・・・ せめて、半割にして中を見せてくれないと、意味なくない? ここから何を読み取れっていうの? 

と思っていたら、両サイドから中を覗ける状態。ネコ科の部屋は一番奥。あえて奥に押し込めた? 狭い場所だから、小さい動物の部屋にした?  腰をかがめ、はいつくばってたどり着き、そこで描く。何を思い、何を考えていたのでしょうか?

 

一方、途中、5mも落ち込む空間。これは外観が見えた方がわかりやすい。5mという高さをどうやって下りたのか・・・・

そして、いくつかある洞窟は、床面がごつごつのところと、フラットになっているところがあります。フラットになっているところは、大きな絵が描かれています。この絵を描くために削った? しかしその量たるや・・・・ 何で削ったのか、削った土はどうやって運んだのか。フラットな場所が、全体のどの位置にあったのかを確認してこれなかったのですが、クロマニョン人は、洞窟で暮らしたのは入り口あたり。奥の暗い空間で暮らしはしない。となると入り口のあたりを生活空間としてフラットにしたのか。でも、奥の方も、フラットな部分があったような・・・ 生活をしない空間、しかも、奥からカッサクしたものを引き出すのも大変なはず。絵を描くためだけに、わざわざそんなことをしたのか・・・・

伺ってみたら、見学のための通路だったそう。現代の人のしわざ(笑) 入口の階段はさすがにそうだと思ったけど、クロマニョン人、すごい! って思ったから、そういう技術も持ってたのかも・・・っておもっちゃいました。

 

なぜ絵を描くのか・・・・ そこに宗教的な要素を見る人もいるかもしれませんが、私は、宗教を感じさせる部分がありませんでした。ただ、洞窟の各部分の名称は教会建築の用語がつけられています。これは、誰がつけたのでしょうか? まさか、クロマニョン人が、後世の教会を予知しその名前で読んでいるわけがないので、現代人によるものと考えられます。教会建築の用語を使うということは、ここが宗教的空間であると、見ているということになりそうなのですが・・・・

それは、ヨーロッパ的な発想なのだそう。ヨーロッパなので、キリスト教的解釈、アトリビュート的な部分もあるかもとのこと。

 

 

◎3章 最後の壁画 

井戸の場面 鳥人間が描かれています。

パイソンの内臓から臓器が出てる・・・あっ、これね。そのとなりにいるのは人ね。そしてステッキの頭が鶏の棒。その横の黒い物体。これが鳥人間? しかし、どう見れば鳥人間になるのか・・・ じーーっと見ていると羽根をひろげたようにも見えてきます。

ところが、鳥人間は、長い人間が鳥人間なんだそう。これ、ただの人でしょ・・・と思ったら、確かに顔が鳥になってる!

 

全体を見て・・・・  自然とともに生き、そこからヒントを得ているアーティストは、必ずと言っていいくらい生殖を描きます。ラスコーの壁画には、生殖は描かれていないんだな・・・って思っていました。

そしたら・・・  最後のブースで鳥人間の詳細な解説があって、これが男性シンボル描かれていると解説。最後にそこのアップを撮影しに戻りました。しかし、女性を表すものがありません。きっと、他の壁画にあるのか、この中のどこかに隠れているのかも・・・ 進化・・・ それがテーマの時は忘れてはいけないキーワードだから(笑) それによって、伝達され、連なっていく・・・

 

●石井先生

太郎は縄文よりも実は弥生が好きだった。戦略的に縄文を取り上げていた? 火焔型は火ではなく、太郎は深海をイメージしていた。

太郎の撮影した土器の写真。撮影させてもらった場所に間違いがないか確認にいくと、考古学者は自分たちの土器ではないといったそう。明らかに太郎の切り抜き方と考古学者のとらえ方が違うから。それを見て、考古学者は「なるほどね。写真が芸術的すぎるから・・・」自分たちがいつも見ている土器と違うように見えてしまうというエピソード。

研究対象として土器を見ると「経年」「形態」「文様」生活様式・・・ 撮影は画一的となる。しかし太郎の切り抜き方は違う。同じものを同じカメラで撮ったのだから、同じ。と太郎は言う。 しかし、私は違うと思う。切り抜き方で見え方は待ったく変わります。切り抜く人の視点が入るから。何に焦点をしぼっているかで、どこに焦点をあてるかで物の姿は変わる・・・・ 

太郎は四次元と対話したといいます。この四次元は時間ではない。⇒太郎の書いた文章を読み上げられたけど難しい。理解するには時間が必要。もっと見て、もっと知る必要が・・・・ でも真の部分はなんとなくわかる気がする。

 

パリ大学民族学を学ぶ。それは福井県立美術館の春草を調べていた時に、「森と芸術」という本の中で知った。太郎と縄文、そして沖縄。「太郎の森」と題したページ。原始自然信仰。物と者と霊との関係。粘土と会話をし、コミュニケーションをとり一体化。素材と作り手の一体化。

そして命の交歓。あらゆる命の尊厳。生きる尊厳。社会はお金との交歓。素材、皿、すべてを命をかけて交歓する。作品が芸術家、専門家を作る。社会の分業には反対。分化された人間になりたくない。一体化する。あの生命の樹が浮かんだ。

縄文人は能力があった。のに、チャレンジする人、あえてしない人たち。できるのにしない。作れるのに作らない人たちもいる。土偶を持つ縄文人、持たない縄文人

 

さらにアジアに広げると、絵をかかない人たち。芸術性から離れている。日本のオリジナリティーを与えている縄文。を求めて拡散とは逆の方向を太郎はたどった。それは、我が美術史=太郎の美術史。沖縄の森・・・・

 

そして「生きることが芸術」だと語る。「芸術は生きること」・・・・

これ、私が美術作品に触れてたどりついた答え。芸術とは何か? それは生きるための術を知ること。

しかし、これは芸術だけが教えてくれたことではないのです。植物を追いかけていて、なぜ、人は植物を育てるのか? という大命題。その答えの一つに、花を手向けるということがつながっていたのですが、自分でわかったことは、「生きるすべを学ぶため」

結局、いろんな趣味があるけども、それらのものは、みんなここにたどり着くのではないかという悟り。学問も同じ。「いかに生きるか」それを知るために、いろいろな形で私たちに提供してくれる。

私の答え、岡本太郎と同じだった! ヽ(^。^)ノ  クロマニョン人もすごいけど、コロコロも実はすごかった!(曝)

 

●海部先生

会場を見ながら、今回のクロマニョン人と縄文の関係。どうつながるのか? クロマニョン人と同じ頃、日本はどんな状況だったのか。祖先はどうわたってきたのか。

最近、「縄文」をキーワードに、國學院大學セミナー、音楽界、展示、しぶや探検に参加。東京都国立博物館の常設展のボランティアトークにも参加。そして、国立科学博物館のラスコー、そこと縄文がつながった青山ブックカルチャーの講座。その一つ一つが、二乗以上の効果をもたらしてくれています。

日本人は世界初めて海を渡った民族。それを知ったのは、東ハクの常設展で。すごいと言われたクロマニョン人は、海を渡らなかったのか・・・・  渡っていないんです。その話がまた、ここでつながってきます。

「科博のラスコー展」「東博縄文文化」「國學院大學縄文文化」このトライアングルに、岡本太郎記念館を加えて、4点のピラミッドパワーで、「縄文」を受け止めると、日本人の血を感じられるかも・・・・ そして、「明日の神話」を見て、明日をいかに生きたらいいかを考えよう!!

 

●参考情報

【参考】春草の描いた森について考えていた時に知った『森と芸術』 そこに岡本太郎がとらえた森について書かれていて、そのことについて記録してあったので⇒https://tabelog.com/rvwr/000183099/diarydtl/138188/



【ラジオ】「クロマニョン人が残した『ラスコー洞窟の壁画』は何を伝えているのか?」海部陽介&橋本麻里【音声配信】1月19日(木)放送分(TBSラジオ荻上チキ・Session-22」平日22時〜)
 ⇒http://www.tbsradio.jp/110883

 

 

■(2017/01/28)/  [01/26] 科博:ラスコー展〜クロマニョン人が残した洞窟壁画〜」 ⇒

 

見どころに「芸術のはじまりを知る」とあるように、洞窟に絵を描く。それは何のため? という2017/大命題。

見る前に考えたのは、「記録に残すため」という素朴な欲求。生きている自分の今を記録に残したいという欲求。芸術という高度な精神活動に高められる、一歩前の欲求。そしてその裏には、本能的に繋げる、伝えるという欲求からでは・・・と推察。

というのも、はてなのブログに移って、同じようなことを非常的に感じさせられたから。ここは文字の世界ですが、何等かの形で、今を記録するとう欲求、そこから何かを得たいというエネルギーのようなものがあって、このエネルギーは、ラスコーのクロマニョン人の血が今に受け継がれているのではないか・・・・という私の仮説(笑)

そして、第2章を見た時に、その仮説は確信に近いものに。それは「ネコ科の部屋」というエリアがあるのを見て・・・ なにそれ? どういう意味? と思いました。洞窟奥の狭い部屋に、ネコ科の動物を描いているとのこと。

それって、動物を分類するという感覚を持っていたということじゃない!? 学問的視点で動物を見ていて、動物を分けて、それを部屋ごとに、まとめていたということにほかならないってこと。原人からホモサピエンスへと進化する上で、脳の進化が見らたということだと思いました。

進化の過程で、「動物と人との違い」は何か。うろ覚えなのですが、埋葬するということが行われたことで、動物から人に進化したと聞きました。しかも、その埋葬には、矢車菊が添えられていた。それが意味することは・・・ 動物から「悼む」という人の心を持ち花を添えた。そんな話を聞いたことがあります。

今回、その話が、今回のクロマニョン人の絵が、芸術なのかどうかの判断をするヒントになるような気がしていました。

この話が直結はしていませんが、学問のスタートというのは「分類する」ことから始まったということを、解剖学を通して感じていました。まさに、このラスコーの洞窟内において、クロマニョン人が分類という意識を持った瞬間。動物を描き分け、さらに空間も分けていたということが、人として進化し「考える」ということの始まりとなったのでは? と思ったのでした。

さらに、洞窟の硬さによって、描くものを変えています。これは、洞窟を「性質によって分けて」いることでもあり、それによって何を描くかを選択していることになります。

さらに、馬と牛の蹄を観察して、その形態の違いも描き分けています。動物のタイプ分けが、ここでスタートしているということだと思いました。これは、まだ芸術の領域ではなく、見たものを記録する。生き物が生まれ持った、伝える、引き継ぎ、継承しいくという本能を、絵という手法を使って残そうとしたのだと思いました。

つまり、人間=ホモサピエンスとしての進化が現れた瞬間だったのでは? と・・・・

そして3章の洞窟を見た時に、遠近法を使っている! あるいは手間の牛を大きく描いて、後ろは小さく。日本画の手法じゃない! それに手前の色が濃いし、奥が薄い。レオナルドの色彩遠近法まで・・・  

いや、まてよ・・・これは、単に剥がれてしまってそう見えているだけかも。と思っていたら、後半に展示された牛は、明らかに手前を濃く、後ろの牛は薄く描かれているのです。

また、洞窟の展示では気づきませんでしたが、牛の足が3本描かれていたり、馬の首が首を振っているかのように、2つの角度の頭が描かれているのだそう。これは、漫画の動きのある表現に通じます。

2章の洞窟の模型で見ていた時は、壁画は記録、後世にという意識があったかどうかはわかりませんが、「伝える」ためのもの。3章の矢印が何本も同じ方向で描き足されているのを見て、これは、何かを伝えるためのマーカー的役割だと思いました。それが何を意味するのかは、すぐにわかりませんでしたが、獲物をしとめる時の、急所。方向を示したものでは?  牛は腹部から奥に向かっています。背中やお尻でなく、腹部のこのあたりを狙うとしとめられるというメッセージだったのでは?と。

解説では、矢がささっているとあったのですが、こんなに同じ方向に並べたようにしとめることができるのかな? と思いました。コロコロ 説は、矢印は何かを伝授するためのメッセージだと思ったのでした。

そして、6章でクロマニョン人の真の芸術性がわかる展示がされています。矢を遠くに投げるための石や骨でできた投槍器。これにデザインが見られました。ランプの作成動画を見ていて、このランプになにがしかの彫り物がされたとしたら、クロマニョン人には、芸術性があったと解釈できるなぁ・・・と思って見てたら、何かはわかりませんが彫り物をしていたのです。

ラスコーの壁画のスタートは、単なる記録。それを繰り返すうちに、いかに描けば伝わるかを「考える」という進化をもたらした。そのプロセスにおいて、現代に通じる絵画表現にまで引き上げられていて、さらには、純粋な(?)装飾という芸術性にまで高められていった。そんなことを感じながら、ラスコー展をあとにして、青山ブックセンターに向かったのでした。

 

■(2017/01/28) /  [01/23] そごう美術館:魅惑のドールハウス 

よくわからなかったけど、ハスケルドールハウスが。ここはしっかり写真を撮影。あとから、何か見えてくるかも・・・・日本のドールハウスとして吉原が・・・ 掛け軸、盆栽などが繊細に。軸は何か、題材となるものがあるのだろうか・・・

■(2017/01/28) /  [01/21] 【ワークショップ】:「しぶや探検!―渋谷で日本の文化を知る―」

●特別展「火焔型土器のデザインと機能 Jomonesque Japan 2016

石井先生、楽しい! 経歴がユニーク。國學院大學の展示は必見。このスペースにこれだけの重要文化財が展示されるのは、あとにも先にもない(条件つきで) 

岡本太郎が縄文に注目して縄文時代にスポットが浴びるようになる。美術の世界って、若冲もそうだけど、それまでの研究者は、何をしていたの? どう感じていたの? 新たな視点を提示されて、どう変わったの?

 

太郎の論文はみんな知ってる。でも、見て見ぬふり。忘れ去られていた。考古学者と美術の研究者の違い。美術の研究者は、縄文なんて認めていない。考古学者は、アートとして見ていない。太郎の縄文評価に対して、今でも認めていない人がいる。

土器に残っているおこげ。そこから残留物の成分分析。それらから、何を調理し、食べていたかを考察。こういうデータに基づいたものに興味が沸く。

石棒・・・・見るからに男性性器。やっぱり・・・と初めて見た時に思っていたのですが、女性を表すものはないのかな・・・と思っていたら、そのお隣の石のすり鉢みたいなものが、女性性器を表しているそう。やっぱり・・・・ 子孫繁栄の要素って絶対にあるもの。

 

ハートのモチーフは何? 不明・・・ 精神性を表していたのか。ハートいう認識は、現代の私たちの感覚。縄文人は、ハートとは思っていないかも。

若冲の鶏の羽根のハートの関連性は? 若冲が見ていたかということ? ではなくて、精神性のような部分で。若冲のあのハートは、「紋」だと聞いていたので、縄文時代の精神性が「紋」となって後世に引き継がれたのかと・・・・

 

●《明日の神話

どこに持っていくか、大論争して(?)渋谷に決まったのに、あれを立ち止まて見る人はいない。もし、あれが美術館の中で展示されていたとしたら・・・ きっと、みんなうやうやしく見るのだろうに。渋谷に来る前は現代美術館に展示されて人がいっぱい、押し寄せていたのに。芸術って、いいったい何? と思わされていました。そんなことを思いながら、あそこの前を通ってるのですが、立ち止まって見ることはしていませんでした。それをすることがどこか恥ずかしいから・・・・

今回は、みんなでツアーで見ることができます。写真も心おきなく撮影できます。見るのにいいポジション、みつけました。この巨大な絵は、どこから見るかという視点は設定されていたのでしょうか・・・・ 屏風みたいに、右から、左か見て、自分が思うベストポジションをみつけました。が、太郎が設定した場所は・・・・・ 

第五福竜丸が描かれています。どれのこと? え~、それ、船に見えないんですけど。どう見ても人です。でも、そう言われればそう見えてきました。マグロを引っ張ってます。キノコ雲・・・目があります。人みたい・・・

この絵のモチーフが、太郎の作品のいろんなところにあります。

 

岡本太郎記念館

作品名、忘れたけど、生命の樹みたいな作品。若冲の『鳥獣花木図屏風』と同じエッセスを感じる。生命の楽園。目で見た時は気づかなかったけど、写真にしたら、ヘビがいることに気づく。それに気づいた人、そんなにいないはずと自画自賛(笑)

 

同時に行われていた「舘鼻則孝 呪力の美学」 太郎と炎のバトル。壁に掲げられた作品の火炎。個人的には、速水御舟の炎舞よりも、ずっとこちらの方が炎を感じた。感じ方は人それぞれってことで・・・・(笑)

 

 

 

 

●NHKの壁画

なぜゆえにNHKに?  太郎NHKに出演。縁が深い。上層部に気に入られていた? 原画との比較。