源頼朝が鎌倉入りし、幕府を開きます。最初の幕府は大倉の地に置かれ、「大倉幕府」と呼ばれています。それはどのあたりに、どんな大きさで設置されたのでしょうか?その痕跡を追ってみました。
■大倉御所の場所(推定)
東西約260mで南北が約220m
参考:原点としての鎌倉幕府跡
〇鎌倉と大倉幕府のジオラマ
国立歴史博物館のジオラマ
神奈川県立歴史博物館のジオラマ
■鎌倉幕府の変遷
鎌倉幕府は所在地が3回変わりました。
赤のアイコン:鎌倉幕府の変遷 最初に開設されたのが大倉幕府
①大倉幕府(1180-1225)
源頼朝は1180年(治承4)鎌倉に入りし、大倉に屋敷を構える。
侍所、公文所、問注所(後に移転)などを整備。
碑を中心に東御門、西御門と金沢街道に囲まれた地域に幕府があったと考えられる
②宇都宮辻子幕府(1225-1236)
1225年(嘉禄1)に幕府を移転。
実朝の死後、北条氏は京都から藤原頼経を将軍に迎える。
政子の死後、若宮大路と小町大路に囲まれた宇都宮辻子の北側200mに幕府を開く。
③若宮大路幕府(1236-1333)
4代将軍藤原頼経から9代将軍守邦親王まで存続。
若宮大路幕府の位置については諸説ある。
⇒碑のある鶴岡八幡宮側の横大路に面していた説。
⇒宇都宮辻子幕府と同じで出入口が若宮大路に面していた説。
歴史道 No19(P51)
■大倉幕府
1180年(治承4)鎌倉入りした源頼朝は、大倉に屋敷を構えました。東御門、西御門の碑が残された場所と金沢街道に囲まれた地域に幕府があったと考えられます。現在、清泉小学校の側に大倉幕府跡碑 が建っています。
大倉幕府は、鶴岡八幡宮(黄色)の北東一帯の地域(赤色)にあったとされています。
〇金沢街道(六浦道)
鎌倉の「筋替橋(A)」から「六浦(B)」を結ぶ街道。
現在は剣道204号線で「金沢八景(C)」とを結んでいます。
鎌倉時代は金沢の「六浦港」とを結ぶ、重要な物資の輸送街道。
以前は「六浦道(むつら)」と呼ばれていました。⇒*1
筋替橋跡(A) 六浦(B)(金沢)から鎌倉へ向かう金沢街道(六浦道)の突き当り。 鎌倉十橋の一つ「筋違橋」(すじかえばし)…石碑の表記は筋替橋
金沢街道 鎌倉⇔六浦を結ぶ
〇南御門
金沢街道(鎌倉と六浦とを結ぶ街道)の通りに面した、「Bergfeld雪ノ下本店」あたりが南門があったとされる場所。
金沢街道の南門あたりから、頼朝の墓方面を望む。(赤い直線)
右手に清泉小学校 止まれの十字路のあたりに大倉幕府跡碑
〇大倉幕府跡碑
清泉小学校の十字路に石碑 (2022.04.12)
・石碑の周囲 (2022.04.12)
左:直進すると頼朝の墓へ
右:右折すると鎌倉宮へ
・小学生の解説パネル(大倉幕府碑)
清泉小学校の史跡委員会(2022年度)による手作り解説(2022.04.12)
大蔵幕府の石碑
(2022.04.12)
大蔵幕府について
(2022.04.12)
・南門⇒「頼朝の墓」方向
清泉小学校脇を直進
清泉小学校を過ぎたあたり 左手に公園、法華堂碑、白旗神社
〇西御門(にしみかど)
西御門 (2022.04.12)
横国大附属鎌倉小学校の校舎と校庭との境とほぼ確定 その名が地名として残る。
石碑周辺
道路側からはサインに隠れて最初は見えません。
・西端:西御門川(現在暗渠化)
暗渠となった川の道路からは目にしにくい状態。
・西御門⇒東御門
西御門から東御門に向かう道 聖泉小学校の運動場の裏に沿って道が伸びます。
〇東御門(ひがしみかど)
石碑の周囲にはパネルなど…
(左)金沢街道 ⇒ 東御門方向
(右)西御門碑⇒東御門碑へ
・東御門 ⇒ 金沢街道方向
・東端⇒東御門川(暗渠化)
(右)金沢街道方向から石碑方向へ
・東御門橋
大倉幕府の東の境界を流れる川。この川は鎌倉幕府を守る堀だったかもという解説が、清泉小学校の生徒さんのパネルに書かれています。
幕府の堀かもしれない川が橋を挟んで伸びています。
・解説パネル(東御門)
h左:東御門 右:鎌倉宮
東御門説明板より
大蔵幕府と考えられる清泉小学校の東西に、「東御門」「西御門」の碑が存在し、そこが大倉幕府の「東門」と「西門」のあった場所と考えられます。
現在、「西御門」は、清泉小学校・鎌倉八幡宮の北側一帯が住居表示として残りました。一方「東御門」は地名としては残りませんでした。
永福寺については英語バージョンも
大倉幕府概略
・東御門⇒金沢街道
■畠山重忠邸址
八幡宮の流鏑馬道の出口付近に、畠山重忠邸址の碑が立っているのを偶然発見。ここに畠山重忠の屋敷跡があったそう。畠山重忠は、頼朝の信頼が厚かった。それゆえ、幕府に近い位置に屋敷を構えることができたらしい。
〇大倉御所西門跡
横濱国大付属小学校の校庭に、大倉御所西門跡が存在していることがわかりました。小学校の敷地内なので撮影はできません。
(2022.04.12)
■鎌倉幕府の中枢 大倉御所(鎌倉の13人 大河ドラマ館より)
〇武家政治が要となる御所の建造
源頼朝が鎌倉を本拠地にしたのは、源氏ゆかりの地だった。
源頼義(頼朝の5代前)が、 当時の鎌倉の豪族・平直方にこの地を譲られた。
義朝(頼朝の父)も鎌倉の亀谷に屋敷を構えていた。平治の乱で敗れて亡くなった後、家人の岡崎義実(よしざね)が御堂を建てて御霊を祀った。
亀谷に御所の建造を進言する声もあったが、 御所は政をする要と考えていた頼朝は、 手狭な亀谷ではなく、鎌 倉の中心にあたる大倉を選んだ。それは豪族たちのいいなりにはなら ないという、頼朝の意思の表れだったのかもしれない。
1180年(治承4年) 10月6日。 石橋山の戦いでの 大敗。わずかひと月半後に鎌倉入りし、 すぐさま御所の造営を命じた。
東西・ 南北とも 200m以上あったと言われる広大な敷地 に建設。頼朝や政子の私邸のほか、 寝殿を中心に対屋や侍所 (武士たちが控えた詰 所)、厩などが構えられた。
貴族の一般的な寝殿 造の邸宅に比べて侍所や馬場・矢場が広かったと 言われ、 源氏の棟梁の本拠らしさが窺える。 また公文所や問注所など、 幕府の主要な施設も置か れたという (後に移転)。
歴史書『吾妻鏡」 によれば、 同年12月12日、 頼朝 いし が仮住居から新御所へ移る 「移徒の儀」 および 「着到の儀」が行われ、長さ十八間 (約 37.8メートル) に 及ぶ侍所に311名もの東国武士が二列に対座した というこの日を境に源頼朝は「鎌倉殿」と呼ば れるようになり、北条義時を始め鎌倉殿を仰ぐ武 士たちは 「御家人」 と称された。
〇地の利を生かした自然の要塞
・地の利による幕府の設置
鎌倉に幕府が置かれたのは、 南は相模湾、 東北・西の三方を険しい山々に囲まれ、外敵が攻め入る隙の ない、 鉄壁の地形だった。
・武士の都へ
大倉御所が完成すると、 周囲に義時ら有力御家人たちを住まわせた。頼朝の身に何かあった時すぐ駆け付けて戦えるようにするため。農民や漁師が住む鎌倉に 多くの武士たちが移り住んだ。
・切通
人口増加による生活物資の調達のため、三方の山を切り開き、「切通」 と呼ばれる道を作った。 敵の侵入を防ぎつつ、京や北関東と鎌倉を 結ぶ重要な交通網・物流網として整備。
北条泰時の代には、 由比ヶ浜に和賀江島を築港 (日本最古の 築港遺跡)し、海上貿易を盛んにした。 商売人も集まり京と並ぶ大都 市へと変貌を遂げた。
〇現代にみる鎌倉幕府の足跡
鶴岡八幡宮は、源頼義が京都の石清水八幡宮を勧請、由比ヶ浜に建立 した由比若宮だった。 頼朝はこれを源氏の守り神として坂東武士たちを一致団結させようと大倉御所を建造。それとともに八幡宮を移転・建立に着手。
・若宮大路
鶴岡八幡宮から由比ヶ浜まで続く参道が「若宮大路」。頼朝が妻・政子の安産出額の ために造営。
平安京の朱雀大路を模したと伝わる。 八幡宮に 向かうほど徐々に道幅が狭くなっているのは、 敵の侵入を防ぐためともいわれる。
当時の鎌倉は、八幡宮の南側を東西に延びる横大 と、由比ヶ浜沿いを東西に走る古東海道の二本をメインストリートとしていた。 若宮大路 の辺りは水はけが悪く不便であったが、幕府は南北に若宮大路を造営して二本のメイン ストリートをつなげ、 都市整備を進めていったのである。
・「大蔵幕府舊蹟」
八幡宮から東に約400mの 場所に「大蔵幕府舊蹟」の石碑が建つ。 周囲には「西御門」や「東御門」の石碑 もあり、これらを辿ると、かつての大倉御所の広さを実感できる。
・北条義時の法華堂跡
御所を見下ろず山の中腹には頼朝の墓があり、そのすぐ東隣の丘に寄り添うように、 北条義時の法華堂 (噴草堂) 跡地がある。 両者の関係性の深さと、武家政権の礎を 築いた義時の往時の時勢が偲ばれる。
・頼朝の墓
かつて頼朝の持仏堂があった場所に法華堂が造られた。 法華堂は廃絶し、現在の墓は江 戸時代に建てられたもの
■大倉幕府 訪問記録
2022.01.31 鎌倉幕府変遷 宝戒寺 大倉石碑 頼朝墓 バスツアー
2022.02.04 交流館 バスツアー
2022.03.04 大河ドラマ館 大江墓 大倉幕府 永福寺
2022.04.12 交流館 国宝館 鶴岡八幡宮 大倉幕府
■関連
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【関連・参考サイト】
〇西御門・二階堂を歩く(一)畠山重忠邸跡・源頼朝の墓・大蔵幕府跡・来迎寺|鎌倉観光 歴史と文学の旅
■歴史の多層性
〇土地はレイヤーの重なり
大河ドラマを通して鎌倉の歴史を追っています。現地に行って地図にその場所をプロットし、適宜ジャンル分けしてレイヤーにし重ねていました。
すると、その場所が単なるスポットではなく、時代によって、またどんなジャンルでカテゴライズするかによって、場所の見え方が変わってきました。
人や地域の交流が、国と国の交流にも発展。その土地が持つ特性を生かした開発が行われ、そこに適応した暮らしが根付き文化が生まれる。場の成り立ちは様々なレイヤーが積層し。今に至っていることが見えてきました。
鎌倉歴史文化交流館 常設展示 2中世 より
〇レイヤーの融合
薄いレイヤーは重ねてしまうと、融合して部分が見えにくくなってしまいます。が、そこには様々な要素が詰まっていることが見えてきました。時間とともに地層となって積み上がると、時に押しつぶされたり、「天地返し」もおこり、混然一体となり融合していきます。
こちらは大倉幕府の位置と、御家人邸あとの地図。幕府に近いほど重要人物が配されていることがわかります。(茶色:①北条義時、③畠山重忠)
⑦北条時政、⑧安達盛永などは、遠巻きに幕府を囲むように配されています。そして⑧上総広常は幕府から離れた六浦道の朝比奈切通に、その手前に⑨大江広元を配していました。
そして死後、どのような場所にお墓や法華堂が立てられたのかも注目です。幕府裏の頼朝の墓との位置関係を地図で確認すると、生前の関係性も浮かび上がります。⑧大江広元は幕府から離れたところに位置していました。そしてその先には、要注意人物と目された⑨上総介広常がいます。大江広元は監視的な役割を担っていたのでしょうか? お墓の位置も頼朝に近いことなどから信頼の厚さがうかがえます。
場所は点にすぎませんが、そこに潜む様々な要素を見つけ出して、引き上げスポットライトをあててみる。「土地が持つ歴史や文化」は一言では言い表せないことがわかりました。様々な要素がからみあっていることが地図や地形からも見えます。
〇実際に歩いてわかること
実際に歩いて調べてみると、これまで見聞きしてきた断片の歴史が、時間の流れに合流していきます。また地図上でも周辺の環境や特徴を取り込んで成り立っていることが少しずつわかってきます。
〇道路、水路が物資や情報を贈る
それらに伴う文物や人の往来。それは道路や水路の整備によって、段階的に戦略的に進められて、末端にまで届くようになりました。江戸時代の街道整備などにもつながっていきます。
〇血流と同じ?
それは心臓から送り出される血液が抹消にまで届き、必要なものを隅々までいきわたらせているのと同じ。「交通の大動脈」と言われるのも納得です。
金融もまた血流で表した図解を見たことがあります。歴史もまた人体の構造に例えられることができるのだと思いました。⇒*2
〇歴史はレイヤーの蓄積
歴史は様々なレイヤーの蓄積で成り立っている。その切り分け方や、切り分けたものの中から何を取り上げて見るかによっても、見えてくるものや見え方が変わるということ。「水系」で歴史を見るというのは、実際に歩きながら調べて得ることができた新たな視点でした。
■脚注・補足
*1:■六浦についての認識
〇読み方
「六浦」と書いて何と読むのか?「むつうら」以外に読みようがないと思ったのですが… 関東学院六浦もあります。ところが「むつら」と読むという方と出会いました。「むつら」?そんな読み方は、地元にいても聞いたことがありません。
調べてみると…
六浦は横浜市金沢区の一部。古くは「六連」「六面」と表記されそこから「むつら」との読まれていたことが判明(コトバンクより)現在は「むつうら」と読むようになったことがわかりました。
〇どんな場所
また六浦は、金沢区の海沿いの町だと思っていました。ところが六浦駅は内陸部です。きっと昔はここまで海だったのが、現在は埋め立てられたためだと理解していました。
鎌倉と港からの物資を結ぶためルートを確保するために「朝比奈切通」を作り「六浦」へ続く道を開いたと聞きました。鎌倉⇒六浦港の全体像をとりあえず確認したいと思ったのですが、なかなか全体をつかめる地図とお目にかかれませんでした。
googleマップにカテゴリ別のレイヤーを加えていて、これを利用すればよいことに気づきました。
〇侍従川の源流
六浦港から、鎌倉への道のり。切通もあるくらいですから、険しい道です。ところが川が内陸部まで入り込んでいるので、物資を運びやすいという話しを聞いていました。
また海岸沿いに位置すると思っていた六浦は、湾が入り込んだ場所だとわかりました。湾から六浦までの川の流れも確認できました。
さらにgoogleマップの背景を「大陸図」にし,河川の部分を拡大してみると… 陸地と水域が明確となります。水路を見ると、侍従川の上流は朝比奈の切通のあたりまで伸びていることもわかりました。
侍従川を散策してマップにされている方も…
〇和賀江島と六浦
1232年、執権泰時の時代に和賀江島が作られました。現存する最古の築港遺跡。遠浅で、石を運んで工事をし日宋貿易の拠点にしたと言われていました。遠浅で大型船が停泊できない。また台風などで係留すると破損もおきたようです。実際には、和賀江島から小型船で六浦に運んだり、大型船を回したりしていたという話しも…
和賀江島から荷揚げ後の陸路を地図で確認すると、和賀江島近くに滑川があり幕府跡まで通じていることがわかります。山道であっても六浦道からの方が利用価値の高さがうかがえます。
歴史において川が果たしている役割の大切さが見えてきました。
参考:六浦道について
〇「朝比奈切通し」によって結ばれる
⇒金沢街道関連情報:朝比奈切通・物資の輸送 塩の街道・和賀江島 ((■金沢街道関連情報
・六浦港は金沢氏(北条氏の一族)の所領。(地名:金沢文庫 金沢八景)
・途中の朝比奈切通は、朝比奈義秀(和田義盛の三男)が一夜で切通を切開いたという伝説がある
・各地域から物資が港に集まり鎌倉へ運ばれた
・中世、六浦付近には製塩場があり、塩の産地で塩の道でもあった
神奈川県立歴史博物館のこの図ともつながった。
*2:■歴史の学びと解剖学の学び方の共通点
〇アトラスで場所を確認する
地名を伴う解説を読んでも、言葉の羅列で全く理解ができません。言葉の意味を知ることも大事ですが、この場合は「場所・位置」を視覚的に確認することが重要でした。言葉だけでなく、場所の存在を目で一つ一つ確認していく。そのために必要なのが地図(アトラス)。その地図は知りたいことの目的にあったものを選んだり、アレンジすることも必要でした。実際にその場所が存在し、どこに位置するか確認。
これ、解剖学を学んだ時と同じプロセスを踏んでいます。言葉の解説がわからない。その細胞、組織がどこに存在するのか?それを調べるために適したアトラスを探す。
歴史でわからない地名。それを理解するためには、地形がわかる地図であることが重要でした。さらに水路がわかる地図も必要な場面がありました。知りたいことを理解するために必要な表現方法で描かれた地図。
水系にスポットをあてた地図があります。以前、エコ関係の研究者が、行政区分は水系で分けた方がいいと言われていたことを思い出しました。googleマップに「水域白表示」という基本地図があることをなんとなくは知ってはいましたが、そういう地図が必要な人もいるんだなぐらいに思っていました。
今回、基本地図をいろいろ変えてみると、「水」と「陸地」に色分けした基本地図が何パーンかあり、背景の色によって見え方が変わることに気づきました。水路を際立たせるには、「水域白図表示」よりも「大陸(濃色)」という基本地図が適していることがわかりました。
地形図では埋もれてしまう川の上流域の細い水系が、濃い大地の色によりコントラストで明確浮かび上がりました。
それによって「六浦道は、内陸まで水路で運搬することができた」という解説の意味を、地理的にそして視覚的な理解に至ったのでした。
可能であれば実際に歩いて、確認してみるとまたいろいろなレイヤーが加わり重層的に見えてくるのだと思われます。
〇「スポット⇒周辺⇒地域」の広がりは「細胞⇒組織⇒臓器」と同じ?
大倉幕府の石碑が残っています。その石碑の写真を撮っただけでは、それがどのような場所にどんな状態で存在しているのかは見えてきません。そこで2度目は周囲の状態を撮影しました。
これ、組織の「細胞」を見ている状態と同じだと思いました。その周りの「組織」を見て、その組織はどんな「臓器」の「どこ」の部分なのか。その切片は臓器の「どのあたり」なのか。「どの方向」から見ているのか。そのような観察をしていた組織学実習と同じプロセスで地図をたどっていると思いました。
大倉幕府はいわば「臓器」。そして「石碑は細胞」。その細胞をどんな臓器のどの方向から見ているのか。地図のスポットをプロットしながら次第に広げていく。組織や臓器をつないでいるものは?結合組織や血管。血管は街道に匹敵します。外部から栄養を運ぶ共通の役割が…
人体のアトラスを眺めるのと同じように、大倉幕府という心臓部から広がるアトラスを眺めているのと同じだと思いました。
また地域は皮膚の構造のように層になって重なっていたり。新陳代謝で生まれ変わったり、はぎ取られたり… 歴史の学びの中に解剖の学び方との共通性を見たように思いました。