コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■ミロ展 ―日本を夢見てー【再訪】Bunkamuraザ・ミュージアム

「ミロ展 ―日本を夢見てー」Bunkamuraザ・ミュージアムもいよいよ大詰め。いろいろ確認したいとこがでてきたので再訪しました。

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図録や『もっと知りたいミロ』、図録、目にした書籍を眺めながら紹介します。

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■もう一度、訪れようと思ったのは…

ミロが特に好きというわけではありませんが、一度、全体を通した展覧会を見たら、何かクセになってしまう感覚がありました。

モチーフをかわいいと思ったわけでもなく・・・・ でもなぜか気になる妙な存在となって目に止まるようになりました。作品に関する古い書籍が、求めたわけではないのに向うから近寄ってくるようにうに目の前に現れました。

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またいろいろな気になる点や疑問がでてきました。それを確認したくなりました。

 

確認したいと思ったこと

〇浮世絵をコラージュした絵、本当にコラージュされてた?
〇ミロは宇宙を描いたのだろうと思うけど、宇宙は感じることができるのか?
〇晩年と思われる墨画。どのように描いているの?

そして、初見ではスルーしてしまったけど、見終わってから、だんだん気になりだしてくる作品もあり、予約が必要になる前に訪れました。

 

 

■浮世絵をコラージした作品

↓ 最初に見た時に気づかなかった浮世絵のコラージュ。

〇1917年《アンリク・クリストフル・リカルの肖像》

www.tokyo-np.co.jp

浮世絵を貼り付けたと解説されている作品ですが、それを知らずに、となりの浮世絵と何度も見比べていました。その結果、忠実に再現はされていない。発色も悪いし描き方が劣ると判断していて、これがコラージュされたものには見えませんでした。

コラージュだとわかって見たらどう見えるのか。コラージュだと知らずに見た場合、それに気づける要素はあったのかを確認したいと思いました。

 

〇コラージュの境界は?

まず最初に確認したのは、貼り付けの境界部分です。
テープのようなもので止められているようです。その部分を見て、最初に飛び込んできたのは、背景の黄色い部分の油彩の盛り上がりでした。それに対してテープが一段下がった感じでフラットになっています。そして浮世絵部分もフラットで平面的。

「ちりめん絵」と言われていますが、凸凹の質感は確認できません。全体をくまなく見ましたが、肉眼で見たのと同じ貼りじわが見えただけでちりめんの形跡はありませんでした。念のため、スコープでも、端から端まで確認。張った時に入った空気のしわを確認できたくらいで平面状態でした。

一方、隣のちりめん絵は、非常に細かな凸凹が確認できまました。

 

〇ちぢれ具合と大きさの違い

絵の中にコラージュされたちりめんが平面的。一方、ちりめん絵は非常に細かなちぢれが見られます。両者の状態は全く違います。そして浮世絵に張られた浮世絵は、二回りほど大きい状態でした。

しわがなくなっている状態からも、おそらく、ちりめんを延ばして張ったのではと想像されます。質感、物質性にこだわっていたというミロなら、ちりめんの状態も生かして絵画に取り込もうとするのでは?と思いました。

しかし、この絵はミロの初期作品。24歳の学生時代に描いたもの。これから目覚めていくと過渡期の作品と理解しました。

 

〇発色の違い

発色も大きな違いがあります。コラージュの浮世絵の「紫」は全く発色していません。江戸時代の紫は、植物由来で退色しやすいとは言われています。しかしこのちりめん絵は明治期に輸出用に制作されたものだそう。

明治期になれば紫の色素は化学合成された顔料(アニリン)を使うようになっているので、明瞭な発色をしますし、色も残るはず。ここまで色抜けはしないはず。

経年劣化で退色したというよりは、もともと紫の部分は着色していなかったのでは?と思われました。色素が手に入らず、省略してしまったとか?

 

〇版木の違い?  

ちりめん絵とコラージュの浮世絵。同じ版木による浮世絵には思えない状態に感じました。刷りを重ねるうちに版木が劣化しますが、劣化を超えていると思いました。あまりに違いすぎます。コラージュで使われた浮世絵の版木は、元版をまねて、未熟な彫師によって彫られた別ものの版ではと思ってしまいました。

 

以上のことから、絵の中の浮世絵はコラージュだとわかっているので、貼り付けられたことをやっと認識できる感じです。知らずに見たら、ミロが描いたと思ってしまってもしかたがないと思いました。隣に比較展示されたちりめん絵とは明らかに違います。

 

写真撮影のできる時に訪れ、拡大で撮影で比較をしたかったのですが、都合がつかず…  アップの写真がツイートされていました。

 

図録解説(P35)でも、オリジナルの色は失われており、海外向けの粗製な廉価版、土産物だろうとのことのことでした。

 

◆ちりめん絵

木版摺の浮世絵を刻みの 入った棒に巻きつけて押し縮めたもの。ものによって縮率はおよそ5割に達していたそう。 江戸末期から明治中期に板行された浮世絵版画を加工したもの。主に海外への輸出品として制作。圧縮された分、発色がよいとのこと。⇒*1

 

 

■離れて見る 近づいてみる

絵画の見方として、近づいたり離れたりしながら見るというのはある程度、鑑賞経験のある人にとっては、取り立てることではないかもしれません。が、今回は近づくことによって、使われている素材の物質性がより顕著になって浮かびあがってきました。何が使用されているかモノがわかることによって、その意味や何を伝えようとしているのかを探る手がかりになりました。

 

〇墨線画

ミロの作品のアイコンサイズの画像を整理していて、実際に見た印象と全く違って見えることに気づきました。それは、黒い墨線で描かれた作品で、細い線が隠れるため、太い線がより強調され、描きたいものが新たにみえてくるようでした。
 

〇コラージュ作品

コラージュ作品は、あまり関心がなかったので、初見では近づいて見ていませんでした。フライヤーやネットの画像で見ていると作品イメージは平面的でした。近づいて初めてわかる立体感。こんな凹凸があったのか…とか、遠くから見えない穴が開いていたり、くぎが打ち付けられたり・・・・

写真や、遠目で見ていただけではわからないテクスチャーに遭遇しました。映像や写真と、実物は違う。それはこれまでにも、何度も体験しており既知のことです。

それぞれの作品でいろいろな驚きをもたらしてくれます。が「実際に見ないとわからない」ということに対しては、新鮮さは薄れていました。

ところが、あまり見る機会のなかったコラージュ作品は、想像を超えるギャップを見せます。興味がないと近寄りもしません。遠くから眺めただけでした。閉館間際、たまたま近寄ってみたら… 驚きの世界が存在していました。もう少し、ちゃんと見ておけばよかった。コラージュ作品をじっくり見る。それも再訪のきっかけになりました。

さらに鑑賞後、調べると、いろいろな仕掛けがあるらしいこともみえてきました。それらをもっと知りたいと思うように… 実際に見るとその情報量は半端ない状態。これまでになかった新たな発見や表現が詰め込まれていました。

絵画では表現できない手法。破る、打ち付ける、こする、傷つける… それらの組み合せで表現の範囲が格段に広がっていました。表現手段の拡張。

作品への興味の低さから「近づく」ことが誘発されず、おもしろさを見逃すところでした。コラージュ作品はぜひ、近づいて見ること。それによってこれまでの鑑賞体験とは違うおもしろさをみつけることができることがわかりました。一粒で何度もおいしいさを味わえます。

 

 

■何に描くか 何で描くか

コラージュ作品に使われているモノを見ると物質の特性のバリエーションが顕著です。それらの特性から、何を表現しようとしていたのか、新たな側面が伝わってきました。

 

〇33 無題(デッサン=コラージュ : 浜辺)(1933年8月15日)

 コンテ・コラージュ 富山県美術館 

支持体は短い繊維を吹き付けた「植毛紙」を使っています。これまで見たことのない新たな素材です。2人の男女がいて、下部にベースラインが引かれています。大地を意味しているのでしょうか?そこから生まれた2人の男女?

解説で気になったのが、図版から切り抜かれたという微生物。左の人の頭に利用しているとありました。男女、生殖、海から陸にあがった人間の進化。微生物は、水中、土中に生息する小さき生き物。無生物と有生物。ベースラインはもしかしたら水面かもしれません。 

支持体の繊維は、草を意味してる? あるいは人間を育てる布団の役割? 人が生まれて成長した過程をコラージュ。水着を着た女性が様々な態勢をとり撮影された写真が貼り付けられています。

 

〇34《絵画》(1936年 夏)

油彩・カゼイン・塗料・タール・砂・メゾナイト 

こちらの支持体は、メゾナイトという木材チップを 圧縮成形した硬質な板です。パーティクルボードのような素材でしょうか? 画材として木材が選ばれることはありますが、チップにして加工し硬質化した新たな素材を選んでいます。

固い性質を利用して貫通する小さな穴がいくつもあいています。(密にあけることができるのは、均一化した木材だからこそ)板厚に窪みがあり、板厚の途中で止めています。これらは破壊を意味していると思われます。

加工を加えるにあたり、木目の方向性のないことや、圧縮された固い性質が、このような表現を可能にしたのでしょう。

破壊行為の裏には、スペイン本土で内戦がおきるといった社会情勢がありました。素材を傷つけるという表現がそれを意味しているようです。あるいは、ミロ自身の表現との格闘を意味していたのかもしれません。

 

〇35《絵画(絵画=コラージュ)》(1936年10月29日) 

油彩・鉛筆・コラージュ・麻紐・針金・合板   

近寄った時の立体感に彫刻のような印象を受けました。銀色の部分はアルミでしわしわに。左上に貼り付けられたものも近づくと立体感があります。水玉模様かと思ったのは画鋲でした。固定するという機能を持ちながらそこには「差す」という痛みが伴います。その画鋲はさらに錆を帯びてダメージを受けています。

紐で縛られ拘束されているようです。そこに縛られているものがカメラに見えました。縛られている側からこちらを見ている?と思ったのですが、マッチ箱のようでした。内箱がコラージュされていました。内戦の火を表しているのかもしれません。

 

〇110 《人、鳥》1976年2月18日  

ピラール&ジョアン・ミロ財団     

この作品も近寄ることなく、キャプションも読まずに遠目でチラ見した程度でした。近づいてみると実に様々な表現が盛り込まれていて、画像でみるイメージと全く違うことに驚きました。

真ん中に破られた状態のペーパーが釘のようなもので貼り付けられています。紙には印刷文字があり、この文字、見覚えがあります。もしかしてサンドペーパー? 破りとられたサンドペーパーの裏でした。ペーパーの上部と下部は木材を使って、釘のようなもので打ち付けられています。板とペーパーが十字に見え十字架を想起。キリストの磔刑が浮かびました。

サンドペーパーの裏の部分には黒く太い線が描かれ、その周りの黄土色の背景に延びています。サンドペーパーの裏の白い部分に書かれた黒い太線は。濃い部分と薄い部分からなり、描き足されたようです。

一方、黄色い背景に描いた墨は均一でとても濃い黒です。非常に吸収がよい状態であることが見てとれます。それは表面のざらざらとした材質によるもので…と考えていた時、この周りの黄土色の部分が、サンドペーパーの表であることに気づきました。妙に吸収のよい黒い文字、またにじみ具合にも納得しました。

サンドペーパーが持つ素材の特性を、その上に描いた文字によって浮かび上がらせているようです。背景の黄色いサンドペーパー(表)は、部分的に破られたあとがあり、ダメージの印象をより強めています。

1976年、ミロ83歳(90歳で没する7年前)戦禍が終わり、スペインも民主化の時代に入りました(1975年)。民主化を勝ち得て、晩年に近づき、これまでの争いの世界を振り返りながら、制作されたのでしょうか?あるいは、ミロの内なる戦いや懺悔のようなものが表現されているのでしょうか?

 

ちなみ図録の解説(P127)によると、サンドペーパーを「排泄物を思わせるマチエール」だとジョルジュ・ライアールが語ったと書かれています。ミロは「まさに排泄物そのものによって生み出されたマチエールだと説明していたそう。この作品ではそれは見受けられませんが、これはシリーズとして制作されました。ざらざらした質感に抗うための攻撃的な表現では?とのこと。

 

再訪の一番の目的だった、禅画のような三部作については改めて…(続)

 

■脚注 補足

*1:■ちりめん絵との出合い

「ちりめん絵」は、ちりめんの布を用いて印刷したものだと思っていました。しわの間にどのように染料をしみこませるのかと思っていたが逆でした。布でなく和紙で、摺ったものを刻みのある棒に巻き付けて縮めしわに。収縮率は50%にも。

ミロがコラージュした浮世絵は、粗悪なお土産品と考えると、ちりめん加工はしていなかったのかもとも想像されます。あるいは伸ばして貼り付けていたとしたら、支持体を加工して表情を変えるというヒントを、この時から経験として蓄積されていたのかもしれません。