コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■歌川国貞展:歌川国貞って知ってる? 展覧会を見る前の「歌川」整理

静嘉堂文庫美術館「歌川国貞展 ~錦絵に見る江戸の粋な仲間たち~が1月20日から始まりブロガー内覧会に参加しました。ところで「歌川国貞」って知ってますか? 聞いたことあるような、ないような。知ってるような、知らないような‥‥ 歌川広重歌川国芳とはどういう関係? クニサダ忠治との関係は? なんてことからスタートでです。

「歌川派生没年表」「浮世絵の技術変化」「流派」「浮絵」について追記

 

 

 

 【2018-01-23】

■あっちにもこっちにも「歌川」なにがし 「歌川」っていったい?

「歌川」といえば何と言っても「広重」 しかし、安藤広重って言われていませんでしたっけ? そして歌川国芳は最近では奇想の絵師として注目されています。しかし、こちらも知る人ぞ知るのような‥‥  私は、たまたま、そごう美術館で「浮世絵師 歌川国芳展」を2015年に見ていたため知っていますが、もし、それがなかったら知っていたかどうか‥‥  

 

そんな程度の浮世絵の認識。「歌川国貞」も聞いたことがあるような、知っているような気がします。しかし、単に「歌川」つながりということだけのような気もします。「国貞」も、「クニサダ忠治」でなじみがあり、それぞれは、どういうご関係? なんてよぎってました。クニサダ忠治は「国定」でクニサダ違いでした。

 

また、この展示のリリース情報を見ていると、「三代目歌川豊国」という呼び名もあります。それはいったいどういうことなのでしょう? 豊国ってだれなのでしょうか? 聞いたことがありません。名を襲名していくわけですから、広重や、国芳より格上のようですが、一般的な認識からすと、知名度がありません。 

ところで「歌川」って「派」なんでしょうか? 知名度の高い広重や国芳が、その歌川の一員ということ? 「〇代目」と冠がつくわけですから、「豊国」がトップなのだろけど、その認知度の違いにわからなくなります。

 

歌川「なんたらかんたら」って、他にもいっぱいそうです。それらは全部、一派ということなのでしょうか? 狩野派みたいなもの? まずはそんなあたりの理解から・・・・

 

 

■歌川派

展示会場には、歌川派の系譜図のようなものがありました。ところが人がいっぱいで見えませんでした。ギャラリートークに出遅れてしまい、解説も聞こえず、あとで撮影をしようと思っていたのですが、時間切れになってできませんでした。

 

主要な系譜をお借りてきました。

出典:広重美術館 〜美術館・博物館案内〜:やまがたへの旅/山形県観光情報ポータルサイト

 

▼歌川国貞展 江戸の役者の最後のページに掲載

「〇」代目豊国というからには、歌川派の一番偉い人かと思ったのですが、その上がいました「豊春」歌川派の「祖」だそう。その後、2派に分かれ、「豊国」派が襲名を続けていったようです。

 

一方、「三代目 歌川国貞」という表記も見ます。これは、「国貞」という名前を引き継いだ3代目を意味しているのか、はたまた、豊国の3代目である=国貞 を意味しているのか‥‥ なんだか紛らわしいです。

 

 

〇豊国の襲名(wikipedhiaより)

◎二代目豊国 : 豊国門下の歌川豊重が襲名。
豊国の養子となり、死去に伴って二代目豊国を襲名した。
通称「源蔵豊国」。別号に一陽斎、一瑛斎、後素亭。
作品に「風流東姿十二支」、「名勝八景」など。

 

◎三代目豊国 : 同じ豊国門下の初代歌川国貞弘化元年(1844年)に重ねて二代目豊国を称した。
  

⇒(1844年(弘化1)3代豊国を襲名していたが、自らは2代目を名乗っていたようです。なんだかいろいろありそう‥‥)

 

◎四代目豊国 : 国貞の門下。はじめは二代目歌川国政
後に娘婿になり二代目国貞
明治3年(1870年)に国貞に続いて三代目豊国を称し騒動に。今日では四代目豊国とみなされている。
通称は政吉、清太郎。別号に梅堂、一寿斎、梅蝶楼、香蝶楼、一陽斎、宝来舎。

 

◎六代目豊国1903年生-2000年没) :
印刷業を営む傍ら、90代で
定時制高校及び近畿大学法学部夜間部に進学し話題となった。「大学院にも進学し、美術研究をしたい」と語っていたが、大学2年次に死去

 

 

〇「歌川国貞」の襲名

◎二代目国貞:門人の三代目歌川国政(1823年-1880年)。
嘉永5年(1852年)に国貞の長女に入婿し、二代目国貞を襲名。
更に明治3年(1870年)、三代目豊国を称して騒ぎとなっている。
実際には四代目豊国であった。

 

◎三代目国貞:四代目歌川国政(1848年-1920年)。
本名は竹内栄久。幼名、期太郎。幼少の折から国貞の門下に入り、
国貞没後は二代目国貞に学ぶ。明治22年(1889年)に三代目国貞を襲名した。

 

 

「豊国」を襲名する系譜と、二代目を襲名した国貞の名を襲名する系列があるようです。

 

 

国定忠治 wikipedhiaより

国定 忠治は、江戸時代後期の 侠客(強きを挫き、弱きを助ける事を旨とした「任侠を建前とした渡世人」の総称。「国定」は生地である上野国(上州)佐位郡国定村に由来し、本名は長岡忠次郎

後に博徒となって上州から信州一帯で活動し、「盗区」として一帯を実質支配する。天保の大飢饉で農民を救済した侠客として、講談浪曲映画新国劇大衆演劇などの演劇の題材となる。「赤城の山も今宵限りか」の名文句は有名である。

 

  ⇒全く国貞とは関係がありませんでした(笑)

 

歌川広重は・・・・・

 

 「豊広」系の系譜。広重も襲名されています。

 

◆ところで安藤広重との違いは?

かつては安藤広重とも呼ばれた。安藤は本姓、広重は号。両者を組み合わせて呼ぶのは不適切。広重自身もそう名乗ったことはない

 

ちなみに、15歳の頃、初代歌川豊国の門に入ろうとしたそう。しかし、門生満員でことわられ、歌川豊広1774年-1829年)に入門。翌年(1812年)に師と自分から一文字ずつとって歌川広重の名を与えられ、文政元年(1818年)に一遊斎の号を使用してデビュー。(←やっと納得!)

 

 

歌川国芳は?

初代豊国の直弟子で国貞とは兄弟弟子にあたることが系譜からわかります。

国芳には歌川芳虎歌川芳艶落合芳幾歌川芳藤など多くの門弟。
(これは、そごう美術館の「国芳展」でそんなこと言ってた記憶があります)

 

 

さらに「最後の浮世絵師」と呼ばれた月岡芳年や、幕末から明治前期に活躍した異色の絵師・河鍋暁斎国芳に弟子入りしたことがあったそう。さらに、その画系は芳年年方清方深水という風に昭和期にまで続いているとのこと。(wikipedhiaより)

 

これで、これまでの混沌とした「歌川」なんたらが少し整理できました。

 

 

■歌川派と浮絵

歌川派とは、 江戸後期の浮世絵の一派。浮世絵に洋画の遠近法を取り入れた歌川豊春を祖とし、役者絵国貞武者絵国芳風景画広重が出た。(デジタル大辞泉より)

 

〇浮世絵の中の遠近法?

以前、浮世絵を見ていて、不思議に思っていたこと。それは遠近法が用いられているということ。北斎画を見ていても遠近法が使われています。遠近法って、明治になって近代化がすすみ、西洋絵画を学んだことによって入ってきた表現方法だと聞いていたのに、江戸時代でも遠近法で描かれています。どういうことなのでしょう? 

 

〇浮世絵の中の遠近法はいつから始まった? 〇〇世紀のいつ頃?

江戸時代、浮世絵の中で遠近法見られるようになったのはいつのころからなのか。その源泉をつきとめようと思い、東博の本館、浮世絵コーナーを、定期的にずっと見ていました。ところが制作年の表示が、「〇〇世紀」という表記のためわからないのです。世紀は「100年」あるので、その前半なのか、後半なのかでも違います。

 

〇世紀で表される制作年代の幅 いつ頃かを知る方法

ある時、ボランティアさんがいらしたので、伺ってみたら、それぞれ作者がわかっていれば、生没年がわかります。そして活躍した年代も推測できるので、そこから類推できます。とのことでした。ヒントはわかりましたが、それぞれ生没年を調べ、活躍時期を調べてというのはとても大変。先はまだまだ長い・・・・と思っていました。ところが遠近法は江戸時代よりも、以前に日本に入ってきていたことがわかりました。

 

〇浮世絵は浮絵(遠近法)から始まっていた

そして。浮世絵のセミナーが行われた時に、浮世絵の成り立ちのお話がありました。そもそも浮世絵の表現の中に、「浮絵」があり、これは遠近法を取り入れていたという歴史を知りました。

 

浮世絵がいつ頃から、遠近法を取り入れたのかを見極めるべく、東博本館の展示替えを通してウォッチしていました。が、浮世絵そのものが、浮いたように見える絵という意味があることを知って、なんだか拍子抜けしてしまったのでした。

 

そして、その遠近法を取り入れ広く広げたのが「歌川豊春」を祖とする「歌川派」の定番表現だったということがわかりました。(最初に遠近法を取り入れたのは奥村正信)

 

〇国貞作品は、静嘉堂文庫美術館で目にしていた 

また、「歌川国貞」・・・ なんとなく聞いたことがあるなぁ‥‥と思っていたのは、昨年、4月に行われていた「挿絵本の楽しみ」で入口に展示されていた錦絵が、歌川国貞だったということがわかりました。

   ⇒▼新版錦絵当世美人合

 

上記で作品についてレポートしておりましたが、歌川国貞の名前は、スルーされていました。解説パネルには、ちゃんと、小さな字ですが、歌川国貞の説明がされていたのでした。(⇒解説パネル

 

 

■浮世絵の制作法

始めて浮世絵を見た時に、どうして、多色刷りをしても版がずれないのか。また版木はどうやって同じ位置で彫ることができるのか。また、細い細かい文字はどうやって彫っているのか。長きに渡って謎でした。

 

それが理解できないと、どうも浮世絵を鑑賞するというスイッチが入らない。と思っていて、いろいろな展覧会や、セミナーに参加したり、実演を伴う講習会で実際に摺るところを見たり‥‥ 少しずつ、その作成法を理解し、やっと、昨年の「吉田博展」でその全貌を理解するに至りました。

 

  ⇒■版画はどうやって作成されるの?

 

そして、今回、版画を作成する行程を、浮世絵で見せるという解説がされているという願ってもない作品があったのですが、時間切れでちゃんと見ることができず、また撮影も最後に、人がいなくなってから・・・と思っていたら時間切れ。

 

もう一度、行って確認してこようと思います。下記のブログにて、撮影されたお写真が掲載されています。

 

bunjin.blog.so-net.ne.jp

 

blog.livedoor.jp

 

 

 

■歌川国貞 海外の評価は?

〇技術が高いのに日本で評価されないのは

歌川国貞の知名度は、現代ではそれほどではありません。それは作品数が多かったために価値が高まらなかったことが原因のようです。しかしその技術は折り紙付きです。

 

太田記念美術館 主席学芸員の日野原健司さんも自ら購入し所有しているほど。技術が素晴らしいのに、お手頃価格なのだそう。河野館長も同様のことをおっしゃっていらっしゃいました。

 

〇江戸時代は、北斎、広重をしのぐ人気

江戸時代は、北斎よりも、広重よりも人気だったそうで、今の評価を江戸時代の人が見たり聞いたりしたら、さぞやびっくりして、現代人の目のなさを嘆かれてしまうかもしれません。

 

〇西洋の評価は?

だとしたら、西洋ではジャポニズムがブームとなり、北斎ばかりが取り上げられます。国貞の評価は、西洋ではどうだったのかという疑問を持っていました。確かに西洋で、国貞が注目されたという声は耳にしないとのことです。

 

一節によれば、北斎があれだけブームになったのは、著作が多く、街中にあふれており、そのため、外交官が来るといやがおうでも、北斎が目についたと聞きました。

 

  ⇒国立西洋美術館「北斎とジャポニスム HOKUSAIが西洋に与えた衝撃」

         | インターネットミュージアム 

 

だとしたら、なおさら作品数が多く大量に流通していたという国貞の作品が目にとまってもいいはずです。

 

〇日野原学芸員にお聞きした 

すると、北斎は動物や植物など、工芸品のモチーフとなるものが多かったため、取り入れられやすかったのに対し、国貞はどちらかというと、美人画や役者絵など人物画が多かった。海外の人にとっては、動物や植物の方が興味があり、人物画はあまり気を引かなったのかかもしれないとのこと。もしかしたら、みんな同じ顔に見えてしまったのかも‥‥と。また、北斎は漫画などの動きのある描写をしていたので、面白がられて需要も多かったのでは? ということでした。

 

 

〇認知度低くても目にしている

日本でも広重、北斎と比べると認知度は低いですが、知らぬ間に私たちの生活の中に国貞が侵入しているとのこと。パスタのお店、「洋麺屋 五右衛門」はご存知でしょうか? こちらのロゴマークの五右衛門は、国貞の描いた五右衛門なんだそう。

 

 

〇洋食麺 五右衛門 に行ってみました

お昼に利用してみました。数十年ぶりです。五右衛門・・・

 ↓ これが国貞です

 

テーブルには五右衛門ラベル塩・・・   五右衛門ドレッシングも…

 

 

クレームブリュレのお皿   コーヒーカップ

 

ひょっとしてこの食器の柄、国貞の浮世絵の中で使われてるかも‥‥ という期待をしつつ鑑賞してみます。

 

日野原氏も、国貞は名前は知られていませんが、日本人の浮世絵のイメージ画として、知らぬ間に浸透していると思いますとのことでした。日本の暮らしや文化に根差し、日本人受けする図案なのかもしれません。

 

これはレアネタと思い、わざわざ、五右衛門に行ってみたのですが、太田記念美術館では、紹介されていました。

 

www.ukiyoe-ota-muse.jp

 

↑ 五右衛門のロゴがHPにも登場していました。

 

 

■なぜ西洋では北斎なのか? 

北斎ジャポニスム」を見た時になぜ、北斎ばかりが西洋に注目されるのか‥‥という思いがありました。ゴッホやモネは広重を参考にしているし、歌麿、春信だっているのに‥‥ 現にフェノロサは、これに異議を唱えていたと言います

 

静嘉堂文庫美術館で「歌川国貞展」が開催されるというリリースを見た時、静嘉堂の河野館長を始め、国貞を研究されていらっしゃる方々は、北斎ばかりににフォーカスされることをどう思われていらっしゃるのだろう。と思っていました。

どんなに技術があっても、外国人のテイストの好みが合わないと受け入れられない。そして作品数が多くなってしまうとありがたみが薄れてしまう日本人の受け止め方。絵の価値をどうとらえるか。国貞を通して見直してみる必要があると感じさせられました。

 

 

■参考:浮世絵主要流派の系図

続 西洋・日本美術史の基本(p103)より

 

「歌川派」は、浮世絵の歴史の中では、江戸時代の後半に位置していました。

「葛飾派」というのもあるんですね。これまで見てきた「鳥居派」はこんな位置づけだったのかぁ‥‥

 

■追記 

【2018.02.13】歌川派の浮世絵 生没年

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   奥村政信      1686~1764

 

〇 歌川派2代目の関係

 2代目争いをした豊重と国貞。国貞の方が16歳、年上だったことがわかります。豊重はタレントがなかったと館長談。初代の「豊国」と「国貞」も17歳差。師匠と弟子の関係としては年齢的には近しい?

 

国芳と広重はほぼ同世代

国芳と広重は、広重が一歳上で、ほぼ同年代。没年も広重の3年後に国芳没す。ほぼ同時代を生きた二人。

 

【2018.02.13】歌川派 国芳の系譜

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出典:浮世絵界の最大派閥!歌川派の絵師をまとめた系図がスゴい。どれだけ絵師を知ってる? | アート 日本画・浮世絵 歴史・文化 - Japaaan

 

国芳は人徳もあり、弟子からも慕われており、たくさんの弟子がいたと聞きましたが、こんなにも多かったとは! 来るもの拒まず状態?

 

 

【2018.02.13】浮世絵の技術的な変化

〇肉筆画

浮世絵の始祖:菱川師宣(肉筆画)

 

〇黒刷り

江戸初期の絵入本(版本)の挿絵から独立。当初は墨一色。これが町に出回り、庶民の観賞用に。

 

〇紅摺

墨では物足りなくなり、彩色が求められる。紅を中心に、数色の顔料(絵の具)を使い筆で墨摺(すみずり)版画に彩色。量産できない。

 

〇江戸中期:色版の登場 錦絵誕生(1765)

ずれない技術、多色刷りの版画。錦の織物のようという意味で「錦絵」

 

 

 

【2018.02.13】浮世絵の流派 

〇初期:菱川派:初代師宣 浮世絵の始祖 一枚絵 肉筆画  見返り美人
(~)

〇元禄:鳥居派:初代清信 役者絵の基礎 芝居小屋の番付
(1688~1704)     

 

 (1743)享保3年    奥村正信:浮絵 「芝居狂言浮絵根元」

 (1766)明和3年    鈴木春信:錦絵

 

天明:勝川派:開祖春陽 写実的な役者の似顔絵確立
(~)      役者の顔を描き分ける意識のなかった鳥居派の役者絵に一石を投じる

1726-1793) 勝川春章 肉筆画
          立役や敵役の男性美を特色。
          鳥居派が容貌を役者によって差別化しないのに対し、

          写実的でブロマイド的な役者似顔絵を完成 

(1770)     『絵本舞台扇』  

        勝川春朗(のちの北斎)が弟子 

         

〇幕末~明治:歌川派:初代豊春 浮絵 美人画
          (1735~)       

           (1735~)

参考:世界に広がる浮世絵の歴史と広がり|くもん子ども浮世絵ミュージアム

 

【2018.02.13】「浮絵」について

西欧の透視画法を用いて、屋内の様子などを遠近感を強調して描いた江戸時代に描かれた浮世絵の様式のひとつ。近景がまるで浮き出て、奥行きが深まって見えるので命名。「くぼみ絵」、「遠視画」ともいう。劇場内部や室内の様子を描いた作品が多い。

初期は西洋画の遠近法を直接学んだわけではなく、見よう見まねで映す。あるいは中国版画の流入により生み出されたとされる。この表現は、眼鏡絵(レンズを通して見る)につらなてっていく。

浮絵は奥村正信が始祖とされる享保1716年-1736年)の頃の作品が最も古いとされており、初期には西村重長なども描いた。肉筆によるものもある。

その後、明和から天明1764年-1789年)にかけては歌川豊春にが確立。さらに葛飾北斎やその弟子柳々居辰斎昇亭北寿ら多数の浮世絵師が浮絵を描いている。しかし天保1830年-1844年)以降はあまり描かれなくなり、通常の風景画が描かれるようになっていった。

(参考:wikipedhia より)

 

〇奥村正信(1686~1764)浮絵を初めて描く

江戸中期:元禄期(1688~1704)から明和元年(1764)の間活躍。
浮世絵版画が墨摺絵から丹絵、漆絵、紅絵、紅摺絵へと変化を遂げた時期を生きる。
(約50年間余り)そして、その変革に参画し、錦絵が誕生する前年(明和元年(1764))に他界(79歳)した。

 

出典:奥村政信 - Wikipedia

(1743年)「芝居狂言浮絵根元」 当時の劇場の様子を浮絵の手法で描く。

 

〇歌川豊春(1735-1814)浮絵の開発、進歩、普及

奥村正信(1744-1748)につぐ名手。

浮絵の総数は不明だが多作。(奥村政信の浮絵は、西村重長に受け継ぐ。しかし同じ画面内での室内描写のみの遠近法の使用、そして屋外風景は従来の俯瞰描写と不完全。)豊春は西洋の銅版画を浮世絵に模写して研究し正しい遠近法を習得。早いものでは明和8、9年(1771年 - 1772年)(36歳)頃から浮絵を描き始め、これをもって江戸の風景を描いたのである

 

出典:歌川豊春 - Wikipedia

 

 

葛飾北斎

北斎の浮絵 - ArtWiki

 

 

■関連 

浮世絵 六大絵師の競演:④ブロガー内覧会 浮世絵とは? 浮世絵の源流岩佐又兵衛との関係(2016/08/31)

  →浮世絵というのもがイマイチわからなかった頃
  →岩佐又兵衛が浮世絵?

浮世絵 六大絵師の競演:②ブロガー内覧会 《阿波鳴門之風景》の遠近表現 (2016/08/31)

  →浮世絵の遠近法は、海外からの影響によるのか、
   日本独自に見出したのかに疑問に思っていた頃。

 

ボストン美術館浮世絵名品展 北斎(上野の森美術館) (2015/01/04)

北斎は、西洋の遠近法を知っていたのか

MOA美術館北斎展を見たときに、北斎の版画の構図は、独自の手法を駆使しているということを知りました。

その構図には、西洋の遠近法も取り入れられているといます。北斎は独自の技法を駆使し、新たな構図に作り上げているとのこと。

西洋の遠近法という表現技術を、どうやって取得したのか
試行錯誤の中で、北斎自信が、たどりついた表現法だったのか・・・  あるいは、西洋の絵画を見たり学んだりする機会があって、取得したものなのか。

MOA美術館の展示では、そこの部分がわかりませんでしたが、今回は、遠近法に関する展示があり、その手法を学んだことによって身につけたという記載を見ました。

消失点などの解説もされており、北斎自身が、この構図を考えたということではなかったことはわかりました。が、具体的にどのような解説だったか記憶になく、ネット内の情報を元に下記にまとめました。

18歳の時に、勝川春章の門下となり「春朗」を名乗り役者絵を発表。

その一方、向上心、好奇心に富む北斎は、司馬江漢の洋画も学んだそれによって、西洋画風の遠近法を駆使した「浮絵(うきえ)」のシリーズを描くしかしながら、他派の絵を真似たとして破門。

北斎の遠近法は、自らたどり着いたものではなく、司馬江漢によって学んだものらしい。さらに、描くことにおける探究心は、人の構造、解剖学にまでおよびました。

 

2015年には「浮絵」に触れていたことがわかりました。このころは、まだ鑑賞経験も浅く、遠近法が、かなり前から取り入れられていることを知らなかった時代。しかしながら、「日本ってすごい」ということを、さらに強く認識し始めた頃でした。実は西洋の技法と言われる遠近法も、日本人は自らのとらえ方で習得していたのではないか。と思っていたのでした。(変化朝顔の品種改良にみるメンデルの法則のように‥‥)また、日本すごい!の情報が蔓延していた時とも重なります。

 

ほどなくして、遠近法は江戸時代でなく、もっともっと前から取り入れられていたことを各種展示から知るようになり、室町時代の絵巻の宮中表現だって、これは遠近法の一種では? と思いながら、その起源について知ることになったのですが‥‥   生憎、失念。

 

一時、日本すごい!ワールドにひたっていました。ところが時を経て昨年、日本文化は、すべて借物だった! 中国から、大陸から、インドから‥‥ 青天の霹靂状態。取り込んだものを独自にアレンジして成り立っているにすぎない。日本の国を作っているものにオリジナルはないという事実に衝撃を受けたのが去年のことでした。

 

日本画には遠近表現がないと言われるのはなぜか? 

 

一口に遠近法といっても3つの種類がある。その代表的な一点消失法のことを言っているのではと思われました。建物とともに描かれやすい構図。室内空間が描かれなくなると、パースのような遠近法表現が少なくなっていったのでは?

 

日本画に遠近表現がないわけではない。手前を大きく遠くを小さく。手前を濃く、奥を薄く。浮世絵に見るように手前に大きなものを置き、それを通して背後を見る。西洋ではこれを遠近表現と捉えたのに対し、日本では既知の表現だったため、遠近法というな認識を持てなかったのでは?

 

影のつけ方については、日本は光による影でなく、見せたいものに光を当てるという考え方であったと聞きます。それによって遠近とつながりにくかった?

 

遠近は描かれていないわけではない。それを評価した人の主観によって、日本画には遠近表現がなかったとされてしまったのでは? と思いながら、「日本画では遠近表現がない」なんて誰も言ってないような‥‥(笑)

 

遠近法と同様、陰影法も江戸時代にあったのをを見たことがありました。これも、光によってできた影を表現したルーツを探ろうって思ったことがあったようななかったような‥‥

 

■参考

〇[考察]なぜ日本では立体的な絵が描かれなかったのか - 日々帳

 →遠近と立体は違うけど、参考にとストックしている記事

〇江戸時代遠近法

  →これはすごい!