コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■静嘉堂文庫美術館:おしゃべりトーク「洋風絵師の司馬江漢―本もたくさん書いたとさ」

静嘉堂文庫美術館で行われている「書物にみる海外交流の歴史」展の関連イベントして、好例「河野館長のおしゃべりトーク」が7月21日(日)に開催されました。タイトルは「洋風絵師の司馬江漢―本もたくさん書いたとさ」です。講座のメモというよりは、自分用の覚書メモです。

 

 

司馬江漢ってどんな人?

これまで、折につけ司馬江漢の名前を耳にしてきました。その時々で、いろいろな横顔を見せます。それらは断片の情報なので、同一人物なんだろうか?と不思議に思うような多才ぶり。今回の展示でも、新たな一面が顔を出していました。 

それは、天文学者のような天球図を描いていたり、沈南蘋のような絵も描いていました。かと思えば銅版画を初めて描いたとか・・・・ なんだか万能の人のようです。この時代の平賀源内のような人・・・(と思ったら平賀源内と関係があったようです)

 

 

■これまで見聞きした司馬江漢は・・・

初めて司馬江漢の名を耳にしたのは、北斎が、浮世絵の遠近法を司馬江漢から学んだという話でした。⇒(*1

また北斎の《神奈川沖浪裏》を理解する上で眼鏡絵というキーワードを山種美術館の浮世絵展で、藤澤先生よりいただいていました。この眼鏡絵という手法を、司馬江漢が使って独自の浮世絵を確立していったようです。⇒(*2

その時は、遠近法と言えば司馬江漢という認識でした。ところが、浮き絵を初めて制作したのは、奥村政信だと知ります。 

また、司馬江漢は、鈴木春信の贋作を描いていたという話も耳にしました。 そして南蘋画のような画風の絵も描いているのを知ります。それは「ような」ではなく、南蘋画を学んでいたのでした。

 

2018年 府中市美術館の「リアル最大の奇抜」では、風景や人物画を見ました。これらは時代が下っていたようで、浮き絵とこれらの絵に、随分と時代の隔たりを感じていました。

いろいろな情報を耳にするのですが、時代性を把握できていないため混乱しています。すべてが、断片的に得ているため、つながりがなく、司馬江漢という人物のつかみどころがありません。講演会はその全貌を紐解くよい機会になりそうです。 

 

■ざっくり江漢をつかむ

wikiphedhia情報で調べてみました。

とても多才な人物のようです。日本版のレオナルド(?)のようです。日本のレオナルドと言えば、平賀源内を思いうかべますが、平賀源内とも接点があり、いろいろ教えを受けていたようです。

 

 

■洋風絵師の司馬江漢

いろいろな顔を持つ江漢ですが、なんといっても画家としての功績が大きいとのこと。好例、館長のマイベストテンが紹介されました。

その中の解説で、江漢が描いた浮き絵と、奥村政信の浮き絵、春信の贋作絵師についての解説があり、長年、混乱していたことが解決したので覚書メモ。

 

浮世絵は、春信様式が売れるようになると、みんな同じような絵を描くようになります。江漢も明和2年頃から春信様式を追随しました。⇒(*3

江戸時代、絵を学ぶ時は、まず狩野派の門をたたきます。それは絵画の小学校のようです。多くの有名絵師が学んでいます。しかし、その教育に疑問を感じ満足できなくなると、当時、注目されていた南蘋画へ移行しました。若冲や応挙なども秋田蘭画秋田藩士が描いた阿蘭陀風(おらんだふう)の絵画」という意味)を描いています。

南蘋画が注目された背景には、享保16年~17年(1731~32年)に、沈南蘋が来日したことがあげられます。 熊斐(ゆうひ)宗紫石、司馬江漢という南蘋派の系譜があり、引きつがれていきました。

江漢は一点消失の洋風絵画を学びながら、眼鏡絵などの方法を用いて、独自の画風を確立します。しかし、一点消失法の遠近法表現は、奥村政信が浮き絵として、すでに描いており、江漢もそれを知っていました。

江漢の功績は、それを大胆に取り入れ洋風画家として残ったという点にあります。 

 

■ベストテン 参考画像

① 楼上縁端美人図

春信様式の美人画は、大人気となり売れるとなると、他の絵師たちも、これにならって春信様式の美人画を描きました。江漢が春信の贋作絵師というように言われますが、この時代、春信様式の絵が、たくさん描かれていたのでした。

 

②三囲景図

こちらの絵では、空が青く描かれています。これまでの日本画で、空を青く表現することがありませんでした。これは、西洋絵画の描き方を学ぶ中で、空気遠近法なども取り入れられるようになった影響と考えられます。

日本画の空は青くはなかった」というのは、目からウロコでした。⇒(*4

 

 

③西洋樽造図

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出典:東博本館常設展示

日本で初めてエッジングを完成させたことでも有名な司馬江漢は、えごま油を使って油絵を描いたことでも有名。ベストテンで紹介された油絵が、東博でも展示されていました。

 

独特の遠近法で描いた《不忍之池》も同時に展示されていました。 

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出典:東博本館常設展示

 

不忍之池といえば、小田野直武

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引用:小田野直武 - Wikipedia

小田野直武は、江漢の̪師です。

 

 

④相州鎌倉七里浜図

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引用:wikipedhia 

 

⑤ 寒柳水禽図 (パワーズコレクション旧蔵) 絹本油彩 寛政初期

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引用:wikipedhia 

小田野直武に学んだ司馬江漢サントリー美術館の「世界に挑んだ7年 小田野直武と秋田蘭画」に展示されていた《鷺図》を思い浮かべました。⇒Tokyo Art Navigation

 


 ⑦「地球全図」

 

引用:wikipedhia  

 司馬江漢 (1747-1818) の描いた「天球全図」は、太陽や月、地球などの天体から、顕微鏡下の 世界まで、一部木版の司馬江漢は、江戸時代後期の画家であり、蘭学者。日本で初めて銅版画(エッチング)の制作に成功しました。 他は全て銅版画で制作した上に彩色を施したもの。これらの図は洋書の図が基になっていることが指摘されています。

 

01 司馬江漢

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引用:wikipedhia    高橋由一

 

 

■これまでに見た司馬江漢

○小田野尚武と秋田蘭画


○リアル最大の奇抜 

salonofvertigo.blogspot.com


参考:遠近法について

■脚注・補足

*1:司馬江漢の名を知ったきっかけ

『ボストン美術館浮世絵名品展 北斎(上野の森美術館)』より(2015.01.04)

北斎は、西洋の遠近法を知っていたのか

MOA美術館北斎展(2014.08)を見たときに、北斎の版画の構図は、独自の手法を駆使しているということを知りました。

その構図には、西洋の遠近法も取り入れられているといます。北斎は独自の技法を駆使し、新たな構図に作り上げているとのこと。

西洋の遠近法という表現技術を、どうやって取得したのか。試行錯誤の中で、北斎自信が、たどりついた表現法だったのか・・・あるいは、西洋の絵画を見たり学んだりする機会があって、取得したものなのか。

MOA美術館の展示(2014.08)では、そこの部分がわかりませんでしたが、今回は(2015.11)遠近法に関する展示があり、その手法は学んだことによって身につけたという記載を見ました。

消失点などの解説もされており、北斎自身が、この構図を考えたわけではなかったことはわかりました。が、具体的にどのような解説だったか記憶になく、ネット内の情報を元に下記にまとめました。

18歳の時に、勝川春章の門下となり「春朗」を名乗り役者絵を発表。

その一方、向上心、好奇心に富む北斎は、司馬江漢の洋画も学んだ。それによって、西洋画風の遠近法を駆使した「浮絵(うきえ)」のシリーズを描く。しかしながら、他派の絵を真似たとして破門。

北斎の遠近法は、自らたどり着いたものではなく、司馬江漢によって学んだものらしい。

(2019.01)新・北斎展では、勝川春章は、とても理解があり北斎に自由に描かせたという話でした。が、司馬江漢に学び破門という話と齟齬を感じていました。

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日本美術に興味を持ち始めた2015年頃。日本画の特徴は、平面的に描かれており、西洋的な遠近表現がない。と言われているのを目にしていました。しかし、浮世絵には、一点消失法で描かれている絵をよく目にします。それは遠近法ではないのか?このような、パースペクティブな遠近法が登場したのは、いつ頃からなのかを、探り始めました。

浮世絵に見る遠近法というのは、日本人が独自に生み出したものではないか?描くことを追求していくと、西洋と日本で、同時に遠近法という手法に達したのでは?と思っていました。天才と言われる北斎。独自に遠近法を生み出していたとしてもおかしくないと思っていたのです。

東博の常設、浮世絵のコーナーで、遠近表現されたものを見ながら、その時代を追い一番古いものを見定めようとしていました。ところが、記載された年代は世紀で表されているため、前半、中半、後半と範囲が広すぎて、具体的な年代がわかりません。

ところが作者の生没から、大体の作成年代がわかると教えていただきました。今度はそれぞれの絵師の生没年を調べる必要が出てきました。

そんな手探りの調べ方で、遠近表現が初めて登場したのがいつなのか探っていたので、なかなか進みません。

ところが、唖然とする事実が・・・ そもそも浮世絵というのは、「浮き絵」という遠近表現をした絵であることがわかりました。その創始者が奥村政信でした。

遠近法は、司馬江漢と理解していたところに、奥村政信が登場してきました。この二人の関係はどうなっているのでしょう?生きた年代もよくわからないままになっていました。

自分のブログを検索してみると、このあたりの話が、すでにまとめてありました。奥村政信のあと、遠近法で表現した歌川国貞もいたことを思い出しました。

■歌川派と浮絵

 

【2018.02.13】「浮絵」について

 

*2:■浮世絵の遠近法と眼鏡絵について
浮世絵 六大絵師の競演:②ブロガー内覧会 《阿波鳴門之風景》の遠近表現 (2016/08/31)より

   →浮世絵の遠近法は、海外からの影響によるのか、
   日本独自に見出したのかに疑問に思っていた頃。

■浮世絵の遠近法
江戸時代の浮世絵の遠近法は、西洋を参考にしたものなのか、あるいは独自に発案することができたのか・・・・人の考えることは、突き詰めたら同じなると思っていました。それは、絵画におけるオリジナル性の問題にも通じていると思います。
  【関連】⑤改めて、着眼点にこだわる理由 (2015/11/16)

日本の浮世絵を、ゴッホやモネが模写をしていたことを知った時、日本人としてのプライドをくすぐられました。
一方、日本の浮世絵は、西洋の遠近法を取り入れていました。しかしそれは、西洋の手法を参考にしたのではなく、日本人が独自の発想で、その手法にたどりついた構図だったのでは?その時代、西洋の遠近法が入ってきて触れる機会を持つことができたのでしょうか?むずかしいのではと思われるので、日本人が独自に考えたということも、ありえそう。もし、日本人が考えていたことが確認できれば、やはり日本人って、すごいよね・・・と誇らしくなります。

 

藤澤先生のレクチャーの中で、「北斎の《神奈川沖浪裏》が、海外で人気があるのは、西洋的な遠近法が用いられているため、なじみやすいから」というお話しがありました。

私は《神奈川沖浪裏》の遠近法は、西洋的な遠近法ではなく、日本的な遠近法ととらえていました。手前に大きなものを置くことで、奥行き感を出している。


■日本の遠近法と西洋の遠近法 眼鏡絵
北斎の《神奈川沖浪裏》の遠近法は日本的な遠近表現ではないのか?」という質問に対して、中国から入ってきた「眼鏡絵」という表現について言及され、調べてみて下さいとのことでした。

眼鏡絵の視点についてという論文がみつかりました。

のぞき眼鏡とは、西洋から伝わった遠近法を用いた絵を、凸レンズをはめ込んだのぞき穴から見る装置である。こののぞき眼鏡を使って絵を見ると、鑑賞者がまるで絵の中に入り込んだかのような錯覚に陥り、あたかも三次元の世界のような奥行き感が得られるらしい。

 つまり、《神奈川沖浪裏》のおそいかかるような波は、のぞき穴から見る装置となって、見る者が絵の中に入り込んだ錯覚をおこしているということなのだと理解しました。
中国に見られるとのことで、やはりなにがしかを参考にして描かれていたことがわかりました。

*3:■補足:wikipedhiaより
初期には、春信に師事し、鈴木春重の名前で描いていました。春信が没したあとは、贋作絵師として活動。春信の死後、春信の落款で春信の偽絵を描いていたが、後に春重と署名するようになったと記されている。春信の落款時代には、背景に極端な遠近法を使用し、浮絵の画法を取り入れていたが、春重落款の作品ではより春信風になっている。

 

*4:■遠近法、空気遠近法や黄金比も、江戸中期に

浮世絵 六大絵師の競演:②ブロガー内覧会 《阿波鳴門之風景》の遠近表現 (2016/08/31)より

遠近法は、1700年代後半からすでに日本に入っていたとのこと。さらには、ダヴィンチの空気遠近法や「黄金比」も日本に入ってきていたことがわかりました。(パネルの解説に空気遠近法で描かれていたことを あとで写真を見て気づきました)

 

山種美術館の土牛展で《吉野》[1977年(昭和52年)を見た時に、「空気遠近法だ!」と思いました。館長さんから、師匠の平山郁夫先生から、大学院時代(1980年代と思われます)に、「遠くの山は青く描くのだよ・・・」と教えられたというお話しを伺っていました。
「遠くの山は青く描く」この表現は、師匠から弟子に伝える日本画の技術として引き継がれてきたものなのか、西洋の空気遠近法をもとに日本画にもたらされたものなのか。

これを聞いた時は、西洋美術の空気遠近法を先に知っており、「空は青い」ということを当たり前に思っているので、何を当たり前のことを教えているのだろう…と思ってしまいました。
しかし日本画において、空は青くはなかった。という歴史を知って、やっと「遠くの空は青く描く」という教えの意味が理解できました。

 

歌舞伎の背景画でも、空気遠近法で描かれているのを見たことがあります。その時も、歌舞伎が流行っていた時代に、空気遠近法的な表現が日本に入ってきていたのか・・・と考えていました。

レオナルドが生きた時代が1452年~ 1519年 歌舞伎の舞台が発展しはじめたのが享保年間1718年~ 山種美術館の浮世絵展の展示と、藤澤紫先生のお話しによって、1700年代には、空気遠近法が入ってきていたことが、わかりました。
日本人は、西洋の文化を貪欲に取り入れていたことが伺えます。

 

 

黄金比も入ってきていた

よく、北斎の《神奈川沖浪裏》の解釈で、いろいろなガイド線が加えられた図を目にしていました。 ⇒北斎の構図 (日本と西洋の絵画から 北斎とモネ より)

正直なところ、これらのガイド線はナンセンスだと思っていました。あの時代に、こんなガイド線で構図を考えながら北斎は描くわけがない。そもそもこの時代に、コンパスなんてあったのだろうか・・・それに、和紙の判型も統一されていなれば、これらの構図も成り立たなくなります。浮世絵の和紙のサイズは、規格物だったのか・・・・
などと考えながら、これらの解析は、研究者の自己満足だと思っていたのでした(笑)
ただ、描いたものが結果として、そういう構図になっていたということは、あるのではないかとは思ったのですが・・・・

(その後、和紙の判型については、厳密な規格あったこと、そして、和紙を漉いたあとのカット技術も、高度な技術があったことがわかりました。直角をだし、同じサイズの紙を切り出していく再現性。彫師、摺師だけでなく、和紙を作る職人の技術もあいまって、仕上げられていた技の総結集したものだったことが、アダチ版画のデモンストレーションの時にお話しを伺い確認ができました。多色刷りの裏に、紙の規格統一も必須だったのでした。

またコンパスなどもその時代、すでに入ってきていたこともわかりました)