コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■建仁寺:《風神雷神図屏風》あるべき場所・環境で見る(どんな光?)

 

美術館ではなく、本来、作品のあるべき場所で見ることの意味。時代や当時の状況を感じながら鑑賞をしたらきっと、何かこれまで見えていないものが見えてくるはず。中でも光に興味を持って建仁寺に訪れました。展示を見て思ったこと。考えたことなど・・・

 

【2016.03.21記】
 建仁寺:③風神雷神 どんな光があてられている? 宗達より素晴らしい絵師たち

 ↑ 上記をもとにリライトして転載しています。

 

 

■屏風はどのように飾られるものなのか?

屏風はどのように設置されるものなのか。決まり事というものがあるのでしょうか? そもそも屏風は、間仕切りとして使われるものです。屏風という名は「風を屏ぐ(ふせぐ)」という意味で、実用的な家具? のようなもの。

 

ところが、「屏風絵」と言われるように調度品として、芸術品としての役割や、城郭に置かれ地位、権力、財力の象徴として使われる屏風もあります。屏風には機能面と、美術性、権力の象徴など、それぞれの目的によっても、部屋のどの位置にどのように置かれ、どんな光を受けて飾られていたかが、違っていそうです。

 

 

■作成される時代による変化

時代とともに、夜の光源は蝋燭の火から電球へ変化します。電球が発明された頃から、普及するまでの過渡期に屏風を描いた画家は、どんな光の中で見ることを想定して描いているのでしょうか・・・・

 

エジソンが電球を発明した時を境に(1879年(明治12年))屏風の飾られ方も変化しているのかもしれない・・・・ということを、大観の屏風を見た時に考えていました。(⇒②「めでたい大観」:「竹」・・・・竹林に迷い混む (2016/01/14))

 

電球のない古い時代の屏風を展示をする時というのは、ライティングは、当時の光を意識して飾るのか、今に合わせるのか・・・・など、まだまだわからないことばかり。

 

「外光を畳で反射させて屏風にあてる」という話や「玄関に入って、正面に屏風があり、見る人の背から光があたる」という話・・・建仁寺では風神雷神は、どんな光の中に存在しているのでしょうか? 畳が反射する外光の光。そこに浮かぶ屏風というものが、どのように見えるのかという部分に、大きな興味を抱いていました。

 

畳で反射させる光は、どこからどのように入ってくるどんな光なのか・・・ もし障子戸の光だとしたら、障子で弱まった光が反射するとどんな光になるのか・・・そして、背後からあたる光の中に屏風が浮かぶのだとしたらそれは、どういう状況なのか。建仁寺では、玄関を入った背後の光を受けて設置がされているらしいと予測されるので(いろいろなブログを見ると玄関、入ってすぐにあると書かれていたので)それは、どういうシチュエーションなのか・・・・ 想像を巡らせていました。

 

 

建仁寺の設置状況

いきなり屏風は登場をしました。しかし玄関入ってすぐの正面でなく、蹴上をあがってからすぐ横の部屋の中でした。

  

飾られた場所は、部屋の奥にちょっと高さのあるステージのようなものが設けられていて、これは展示のためにこのような構造が作られたのか、もともと、このようなスペースとして備えつけられていたものなのか・・・よくわかりませんでした。

 

f:id:korokoroblog:20170706155956j:plain

しかし展示方法は、本来の設置されていた部屋に置かれているという状況ではなく、あくまで展示として飾られているという感じです。

 

 

〇《風神雷神図屏風》に当てられている光は?

そして屏風をサイドから見ると、はっきりどのように光をあてているかが見てとれました。風神、雷神にスポットがあてられています。

f:id:korokoroblog:20170706155427j:plain

 

▼上部から当てられた光

f:id:korokoroblog:20170706160148j:plain

▲下からアッパーライトも・・・

 

 

f:id:korokoroblog:20170706155920j:plain

▲下からの光の方向

 

▼天井からの光

f:id:korokoroblog:20170706161403j:plain

 

自然光の中で見る、風神雷神は、どんな姿なんだろう・・・と思っていたのですが、かないませんでした。

 

 

 

【付記】ライトの写真を見て

写真を整理していて、ライトがどのようにあてられているかを確認していて気づいたこと。風神に光がより強くあたっています。それによって、目は風神をより見るように誘導されていたのだな・・・と思いました。

 

どちらかというと、私は風神よりも雷神の方に興味を持っていました。なぜ、雷神が白で描かれていたのか・・・・と思っていたので。なのに、目はなぜか、風神に引き込まれていることを感じていました。

 

 関連:■《風神雷神図屏風》俵屋宗達 雷神が白いのはなぜ?

 

解説にも「白」で描かれた「雷神」のことに触れられているのに、なぜか、目は風神の方へ向いていました。今の自分には、風神が心に何かを投げかけているのかなと思いながらも、何でなんだろう・・・・と思っていました。写真を見て、興味を持っている対象物が他にあったとしても、そこにより強い光があてられているもと、目はそちらを見てしまう効果があることがわかりました。

 

 

〇左右の間隔は?

左隻、右隻を飾る時の間隔というのも気になっていました。建仁寺ではどれくらい離して飾るのかも知りたかったのです。京都国立博物館の展示は、意図的に屏風を離して飾っているように感じられました。

 

 参考:■《風神雷神図屏風》(琳派 京を彩る) えっ?これ? 屏風の大きさ・配置の謎

 

宗達の《風神雷神図屏風》は他の2作品とは別格、特別、差別化をしたいという意図の現れ?・・・・なんて思っていました。建仁寺では、どのように飾られているのか。それを確認することも、もう一つの目的でした。なのに、こちらは、くっついているので1枚の絵のようになってしまっていたのです。

 

 

〇屏風の折がないのは?

屏風状態にできないのは、陶板だからでしょうか? 屏風の状態にして固定させてしまえばいいのに・・・と思ったのですが、陶板でその状態にすると折りたためないため、しまうスペースをとってしまうから? 屏風の状態でなかったことに加え、飾られている状態、光、左右の隻の間隔の確認など、がっかりポイントが、さらに増えてしまったのですが、なるほどポイントもありました。

 

 

■子供たちの風神雷神の展示

子供たちが風神雷神の絵を鑑賞したあとに、1時間半ぐらいで風神雷神を描くというテーマで、描かれた絵が展示されていました。子供たちが描いた風神、雷神の発想が、本当にユニーク。

 

風神、雷神がじゃんけんをしていたり、宇宙までジャンプしていたり、赤鬼、青鬼に転じていたり・・・・中学生による対話式鑑賞では、ゲームになぞらえてバトルをしていると解釈したようでしたが、小学生は、じゃんけんをしているところと解釈をして、絵にしている作品が多かった気がします。

 

おそらく、一人がそういう発言したことで、それに引っ張られているのではないかな? と見てとれる気がしました。中には描写力に非常にすぐれて子もいて、忠実に模写して、雷神だけで終わっている子もいました。小学生といえども、描写力はすごいです。

 

風神雷神のレプリカよりも「こっちの小学生の絵の方が面白いなぁ・・・・」と言って通りすぎていく人もいました。建仁寺内は、撮影は全面的にOKです。しかし、さすがに名前入りのこれらの絵を撮影したらまずいでしょ・・・と思って自粛しました。ところが、あとで確認したらこちらもOKとのこと。しかしそれがわかったときには、充電切れ。撮影ができなくなってしまいました。

 

  参考:■対話式鑑賞との出会い:俵屋宗達《風神雷神図屏風》を通して感性を伸ばす

 

 

風神雷神図屏風で対話式鑑賞する中学生のレポートを見ていたので、小学生の描いた展示はとても興味深いものがありました。

 

 

 

風神雷神図屏風の解説

陶板の屏風に添えられた解説・・・・・これまで《風神雷神図屏風》に関する解説でネット内の主要なものは、大体、目にしているつもりでした。ところが、ここに掲載された解説は、初めて見るものでした。

f:id:korokoroblog:20170706153140j:plain

 

雷神を白く描いた理由について、これまでいろいろ調べてきたのですが(⇒■《風神雷神図屏風》俵屋宗達 雷神が白いのはなぜ?)「白」の表現について、初めて見る見解です。

 

この解説は建仁寺のの見解なのでしょうか? それとも、どなたがおっしゃっていることなのでしょうか? この解説のリーフレットがないか、確認したのですが、ご用意はされていなかったようです。全体を見てから、最後に書き写すことにしました。

 

 

風神雷神図屏風》の横では、解説ビデオが上映されています。こうした説明ビデオは、見ないで、鑑賞することにしているので、ビデオは後回し・・・・まずは、何にも知らない状態で見る。ということに徹することにしました。

 

 

■関連