コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■《風神雷神図屏風》俵屋宗達 雷神が白いのはなぜ?

本来、雷神は赤で表現されるものらしいです。ところが最初に描いた宗達は「白」で雷神を表現しました。雷神はなぜ赤で表現するのか。それなのに宗達はなぜ「白」で表したのでしょうか? 様々な説があるので調べてみました。

 

2015年当時に調べて記録したものを元にリライトしています。

 ⇒出典:風神雷神:⑥宗達の雷神 白いのはなぜ? (2015/11/18)

 

 

  

 ■なぜ雷神は、赤で表現されたのでしょうか?

宗達が雷神を描くにあたって元になったのが、「北野天神縁起絵巻」の「雷神」という説をいろいろ目にするようになりました。

「雷神」は、もともとは「赤」で表現されていたそうです。

「北野天神縁起絵巻」「雷神」で画像検索してみると、そこに現れる雷神は「赤」です。宗達が描いた雷神の元になったと考えられている「北野天神縁起絵巻」の「雷神」は、赤だったということは確認できました。

  ⇒「北野天神縁起絵巻」「雷神」 

イメージ 6 https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-f4-9a/hehualu2000jp/folder/1360647/87/40198787/img_6?1352901568

出典:北野天神縁起絵巻承久本 ( その他文学 ) - 枕草子-まくらのそうし - Yahoo!ブログ


しかし、これだけで雷神は本来、赤で表現されていたとは言えません。
他の雷神も見てみないとわかりません。
 

〇清涼殿の落雷の場面(赤)の雷神

国宝「風神雷神図屏風」公開/宗達・光琳・抱一・其一の4作品 

(mimi-fuku通信より)

 『北野天神縁起絵巻』での<雷神>は“赤色”で描かれています。

 この<赤>は清涼殿での落雷の場面として画中に描かれていることから、 火を表現していると考えることができるでしょう。

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出典:富山市民俗民芸村より

 

推測ですが、自然現象の「雷」が山に落ちる。木が裂ける… 火がふく… あるいは稲妻は火をイメージさせる。

それによって「雷」=「火」=「赤」 というイメージとなったということは考えられると思いました。 

 

 

仏画では雷神は赤

【美の扉】宗達が生んだ元祖ゆるキャラ 「栄西と建仁寺」東京国立博物館平成館
(産経ニュースより)

仏画では風神は緑、雷神は赤と決まっている


仏画決まりごとという説。では、なんでそういう決まりごとになったのでしょうか・・・・

ということで、本来「赤」で描かれるというのは、確かのようなのですが、宗達は雷神を「白」で表現しました。なぜ、白で描いたのか・・・・その理由についても、いろいろに語られているようです。

 

 

■赤い雷神を宗達が白に描いたのは?

〇風神との色のバラスを取るため

wiki pedhia より)

宗達は元来赤で描かれる雷神の色を、風神との色味のバランスを取るため白に、青い体の風神を同じ理由で緑に変える等の工夫を凝らし、独創的に仕上げている。

 

最初に見たのはwiki phedhiaで、「色味のバランスを取るため」と書かれており、そうなんだ・・・と深く考えず納得していました。その時に、何で雷神は本来、赤なのかなと思いながらも、そういうものなんだと思い、白にしたのもバランスを取るためと言われたらそうなんだろうなと受け止めていました。


〇神々しさを強めるため

鑑賞:「風神雷神図をみる」 より

雷神は赤く彩色されているのに,宗達の雷神は白鬼です。金地の空間を
跳び回る雷神の肌は,赤より白が似合い神々しさも強まっているとされます。


こちらも感覚的な理由なので、神々しいと言われたら、そう思ってしまいます。


宗達の並外れた色彩感覚の表れ

風神雷神図屏風 より

対をなす神の姿を調和と均整を感じさせる白色(雷神)と緑色(風神)で描いたことは、宗達の並外れて優れた色彩感覚の表れである。


調和、均整、色彩感覚・・・・ というのも、やはり曖昧で、何をもって「優れた色彩感覚」なんだろうと思うものの、優れていると言われれば、優れてるんだろうな・・って(笑)

もし、雷神を「赤」にしていたら・・・・ 当時、「補色」という概念があったかどうかわかりませんが、「赤」と「緑」という補色関係にある色を選択した宗達

そういう概念も知らなくても対比というコントラストを狙った「並外れて優れた色彩感覚」の持ち主ってことになってしまいそうです・・・(笑)


そんな中、ん? と思ったのがこちらでした。

 

〇光の神の白

国宝「風神雷神図屏風」公開/宗達・光琳・抱一・其一の4作品 より

( mimi-fuku通信より)

 

金地の中に浮かぶ 『雷神』が、なぜ白色なのか?

 『北野天神縁起絵巻』での<雷神>は“赤色”で描かれています。
 この<赤>は清涼殿での落雷の場面として画中に描かれていることから、火を表現していると考えることができるでしょう。

 しかし宗達はなぜ<雷神>を白で描いたのでしょうか? 想像ですが、雷神の白は目が眩むような光の表現ではないか? すべての色は、強い光があたると白に近づくことは知られています。(逆に光が不足するに従って、すべての色は黒に近づきます。)一瞬の閃光は、目の前を真っ白にします。金よりも強い色としての白は、光の象徴。金地(金箔)の明るさと強さにも負けない輝きの色は?  そのことから、~宗達の描いた雷神の<白>は、光の神。 


「白」という色が持つ物理的(?)な性質に言及されていて、説得力があると思いました。しかも、なんで雷神が赤で表現されていたのか・・・という私の疑問にも答えてくれています。

  赤=火  

稲妻 閃光 白 色の混合は黒になるけども、光を混合させると白に… もしかしたら、「黒い」雲と「白」の雷の対比もしてたり・・・(と言っても、描いた時は黒くなかったわけですが・・・)これまでのよくわからない、感覚的な理由と比べると、納得させられる理由でした。


【参考】第72話 絵画が科学と出会った頃 その1 
      →「白い光」ということについて上記で解説

 

〇普賢の像の白

尾形光琳「風神雷神図屏風」(3) より

(にわか学芸員の鑑賞日記より) 

本来は赤でなければならない雷神が白色に、そして風神は緑青に変更されています。宗達は「伊勢物語芥川図」では同じかたちの雷神を赤で描いているそうですから、「わざと」色を変えたと考えられます。

 

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出典:大琳派展 その5 - すぴか逍遥

 

 本来の宗達の「風神雷神図」の居場所は京都の妙光寺という臨済宗のお寺で、禅に関係する内容を想定することができます。

 すると、風神雷神の二神の色から違う禅にまつわるモチーフが浮かび上がってきます。
 左が東京国立博物館蔵の普賢菩薩、右が伊藤若冲の描いた文殊菩薩です。時代が少し異なりますが、適当な画像がなかなか見つからなかったのでご勘弁を。

 上の画像のように普賢の象は「白」文殊の獅子は「緑青」として表されるのが約束だったそうです。これを宗達風神雷神図屏風に照らし合わせてみてください。


 他にも、雷神には象の牙を表すために「牙」がつけられていて、風神のほうには「牙」がありません。その代わりに、風神の方には獅子の鬣を表すために「金色」でその部分が表されています。光琳の屏風には両方の鬣が金色になっています。


 なぜ、そのようにしたのでしょうか?


 法華経禅宗で重要な経典であります「摩訶止観」の中に「空中の雲雷は象牙の上に草を生ず」という仏の説法の喩えとして、当時の江戸の人たちには常識だったそうです。


 または、風神雷神は釈迦による説法の様子や慈悲を表すものとして平安時代から「法華経」などのお経の「見返し」という写経する前の絵を描く部分に描かれているそうです。

 以前にも述べましたが、宗達本阿弥光悦という有名な芸術家の絵画部門担当者でした。本阿弥光悦法華経の熱心な信者で宗達らとともに法華経の村を作って住んでいたほど法華経を信仰していました。


 つまり、「摩訶止観」という経典に基づいて雷神を「普賢菩薩」風神を「文殊菩薩」にイメージを変換してみると少しこの屏風を描いた当時の江戸の人々のメンタリティに近づくことができます。


 普賢と文殊は釈迦の両脇を務める尊像です。つまり、この屏風の普賢と文殊は間の金色の空間のところに見えない「釈迦」を創造させる、見立ての「釈迦三尊像」であることを見る人に要求しているそうです。


 だれが、このように作れと宗達に依頼したのかは分かりませんが、こういう内容までは当時の人々のメンタリティを分かろうとしないと、つまり、当時の人々の立場に立って考えてみないと分からないことだと思います。


 今の常識がいつでも通用するなんて思うことは全くおかしなことで、いつの時代の人々の考えをも尊重するような気持ちで古美術を見ていかないと、なかなか本質までは分かりません。

 一見、シンプルな風神雷神のイメージが実は奥深い意味を我々に示しているなんてとても驚くとともに、すごい精神世界が昔はあったのだなぁと感じました。

 

学芸員さんの理由は、さすが・・・という感じで、一段、上の解釈がされているように感じられます。絵が描かれた背景を知るには、当時の人々のメンタリティを理解しなければいけない・・・ つまりその時代に生きる人たちに感情移入できなければ分からない。しかし感情移入するためには、その時代の宗教観や生活、世相など時代背景も合わせて理解した上で、その人になりきらないと・・・ それには、相当な学びも知識も必要です。

そうなってくると、お手上げとなって退散をしまうのか、逆におもしろさや、興味がわいて、いろいろな価値を見いだしていこうと思えるか・・・・ 美術を理解してより深い興味へ引き込まれていくかどうかの分かれ道になりそうです。

 

この解説をいつか理解できるようにすこしずつ知識を増やしていけるかどうか・・・

 

(2年たって、一つ一つの解説は大体のことは、理解できるようになった気がします。ただ、「雷神を普賢菩薩」と「風神を文殊菩薩」にイメージを変換・・・ といわれても、唐突さを感じて、そこを埋めるための知識が足りないと感じてしまうのでした。

「イメージを変換すればつながる」というのは、直感的にそれを感じれば繋げられますが、「これとこれはイメージが繋がってますから同じと思って下さい」と言われても、腑におちないと思ってしまうのでした。)

 

 


「赤で描かれる雷神が、白で描かれた」そのことに対する、推察が、人それぞれの背景も伺えて、何を知っているか、見てきたかによっても、解釈は変わり、とてもおもしろいと思いました。



〇白くすることで軽く

【美の扉】宗達が生んだ元祖ゆるキャラ 「栄西と建仁寺」東京国立博物館平成館

(産経ニュースより)

例えば仏画では風神は緑、雷神は赤と決まっているのに、宗達は雷神を白にしている。「白く塗ることで軽くしたんだと思います。絵画的表現、美しさにこだわった」と田沢さん(東博の絵画・彫刻室長、田沢裕賀(ひろよし)さん)は見る。

 

 

〇素案と宗達の関係

(NHK‐BSプレミアムより)

風神雷神図を描いた男 天才絵師・俵屋宗達の正体」より

先日、放送された番組。メモしながら見ていたのですが、途中、ウトウトしてしまい、ミミズがはったような字で書かれているものを見直してみました。

放送最後のあたりのメモに残されたキーワードは、「風神雷神」「最後の出会い」「角倉素庵」「宗達」「看取り」「友情を絵に」


ただこれが、何を意味する記録なのか全く記憶にも残っていません。どのような内容だったのか、ネットで調べると、素庵と宗達の関係性が語られたようです…

 

 

〇角倉素庵(すみのくら そあん)との関係性

俵屋宗達の正体より(本阿弥光悦覚え書き)

 ゲストの一人、関西大学大手前大学非常勤講師・林 進さんの、通説とは異なる俵屋宗達像も紹介されます。

 林さんの新説は、一昨年から昨年にかけて、東京・渋谷の東急Bunkamuraで開催された計13回の連続講座、「宗達を検証する — 友人角倉素庵の視点から絵師宗達の真実に迫る—」「琳派の誕生」でレクチャーされ、講座をもとにした一般書、『風神雷神図-雷神はなぜ白いのか-』(仮題)も近々刊行の予定。

 俵屋宗達が上層町衆出身であったとする通説を否定、伝統的に「赤」で描くのが通例であった雷神を、宗達がなぜ「白」で描いたのかについて、角倉素庵(すみのくら そあん)との関係性を軸に独自の説を展開しています。



テレビのゲストは林 進さん。なぜ白で描いたのかについて、語っていたらしいことはわかりましたが、その具体的内容がわかりません。


そこで、この番組を見た、友人、数人に声をかけて、どんな内容だったのか確認したのですが、記憶は曖昧・・・・ 録画をした友人に頼んで、確認をしてもらいました。

京都の三大豪商に育った角倉素庵という儒学者・書の達人がいて、素庵の出版を手助けするなど宗達と素庵には交友関係があったそう。その後、素庵は今で言うハンセン病に掛かり、病の偏見から逃れるため嵯峨野に移り住んだそう。素庵と友情で結ばれていた宗達は、素庵の最期を看取ったとも言われています。


風神雷神」は丁度そのころの作品らしく病で肌が白くなった素庵を白く描き、宗達自身を緑で描き、大空を駆け回り遊んでいるところではないか? という、林進さんの独自の説として紹介されたようで、真相はわかっていないとのこと。



なぜ白に描いたかとうことについて、色やバランスと言った感覚的なことではなく、周辺の事実に基づいた推察がされていていて、そういうこともあるのかもかも…と感じさせられます。

 

 

 

■美術研究における根拠とは?

美術における研究というのは、その根拠について、どのように扱われてきたのでしょうか?

〇推察における根拠

これまで、調べモノをするとき、まず冒頭で参考になるのが、wiki pedhiaの情報になります。美術や文学などの解釈などの世界は、「○○○と考えられる」とか、「○○○と言われている」とか、推測で表現されることがあってよくわかりませんでした。

心の中で、それって、編者の意見では? 一般的にはどう考えられているの? って思ったり、「○○と思われる」なら、そう思う根拠が示してくれないと・・・納得ができないと思うことがありました。

あるいは、この業界は、定義というものもなく、語られる業界なんだな・・・と思ったりすることもありました。

(その一方で、化学の世界でも調査や根拠を示さずに、「○○○したかもしれない」とか、「〇〇と言われています」という伝聞で話される方もいらっしゃいます)
     ⇒○塩の効果:パスタをゆでるのに塩を入れるのは? (2015/10/28)

 

〇状況の積み重ねによる推察  共感すれば納得

ただ、推測の域の仮説であっても、周辺の状況の積み重ねから、導き出されたことというのは、明確な根拠ではなくても、それは根拠と考えてもいいと感じさせられました。

それと、根拠があるなしにかかわらず、なんとなく受け入れてしまうこともあって、そんな時は、その説に、自分が共感できたとき・・・・ というのも見えてきました。

 

〇状況固め?

一方、宗達は、「今日は白に塗りたい気分だったから、雷神を白に塗ってみた」という説が出てきたら、そういう理由に対して、根拠を求められても困るのもわかります。(笑)宗達がいかに気まぐれで、気分屋で、場当たり的だった…といういろいろな史実を積み上げればいいってことでしょうか?

 

〇一般の美術愛好者は勝手に推察

学者でない私たちたちは、その日の気分で、どの学説を支持するか、あるいは、一般の方たちのいろいろな見方のどれを取り入れるか、そして、好き勝手に想像して楽しむ・・・・。そこには、根拠などを求められたりはしないので、自由にとらえていいわけです(笑)

 

【蛇足】宗達は存在したの?
何を見ても、宗達に関する情報がない・・・・ と語られます。そんなことが、可能なのでしょうか? そこで、私が思いついた新たな説(笑)

宗達は、実は存在しなかった架空の人物だった!

後世になって、いろんな人が、いろんなことを言って、そういう人物像をつくり上げてしまったある種の偶像的な存在・・・なんていうのは、いかがでしょうか? 笑)
 
 

〇「保津川下り」の歴史に見る角倉素案と宗達

琳派400年 風神雷神図屏風 より 

保津川下りの歴史)

豪商でありながら芸術に長けていた角倉素庵と俵屋宗達は、熱い友情の間柄であったのでは…と。

講師に関西大学大手前大学非常勤講師の林進先生は説を唱えられています。
しかも、宗達の「風神雷神図屏風」は、当時不治の病と信じられていたハンセン病にかかり亡くなった素庵に対して鎮魂を込めて描いたのではないかと述べられています。
そのことは、先日放送されたNHK BSプレミアム 女優中谷美紀さんがナビゲーターを務められたザ・プレミアム「風神雷神図を描いた男・天才絵師・俵屋宗達の正体」に詳しく紹介されていました。

 


二人は厚い友情で結ばれていて、ハンセン病でなくなった素庵への鎮魂看取りである。メモの言葉とも一致します。

そして、こちらは、「保津川下り」のサイトの一部で、「保津川下りの歴史」を紹介しています。

ここで、なぜ、宗達風神雷神に関する情報が詳しく紹介されているかというと…

保津川の舟下りは、京都の豪商、角倉了以保津川の開削におうところが多いそう。そして、この川下りの創始者角倉了以の息子が角倉素庵だったのです。素庵は晩年、文化創作への道を選択し、本阿弥光悦俵屋宗達らの協力を得て「嵯峨本」を出版。俵屋宗達と素庵はお互いの才能にリスペクトされ、友情を深めていた。

そんな背景があるため、こちらのサイトでは、川くだりの歴史とともに、宗達、素庵に関するディープな情報が、掲載されていました。以下続きます。

 

 


琳派400年 俵屋宗達と角倉素庵の友情物語 ~その参~ より

実はこれまでの俵屋宗達と角倉素庵の友情物語は林先生の説に基づいて書いています。

先生の説によると、寛永四年(1627)にライ病(ハンセン病)を患った素庵は、当時のらい病者への偏見という掟に従い、世間との関係を絶って嵯峨千光寺の跡地にひっそりと隠棲します。

ライ病は、皮膚が白くなる「白らい」(ビャクライ)という症状があり、素庵もその症状が発病し身体の皮膚が白く変色していました。宗達は素庵への鎮魂の為にこの絵を描いた事を、自らの心情を作品で表現しようとしたのでしょう。

本来、伝統的には赤く表現されていた「雷神」が、なぜ宗達の絵では「白い」のか?

風神雷神絵を考察するときに見過ごすことができない視点なのに、これまで説得力のある説明はなされいません。宗達ほどの作家が何の意図もなく赤から白に変えることは考え難いです。

これについては宗達研究の第一人者の山根有三氏でさえも、白い絵具を使うのが「好きだったから」と全く踏み込んではいないといいます。 


確かにこれまでの理由は、踏み込んだものではなく、バランスとか、神々しいとか、感覚的な表現で、つかみどころがなく、納得しにくさを感じていました。

ハンセン病の素庵がなぜ白なのか。そのあたりの病状との関係もよくわからなかったのですが、こちらでは、「白らい」のことに触れられていたのでなるほどと納得。

実業家のみならず文化人とても輝かしい業績を残しながら、不運な晩年を過ごさざるおえなかった素庵の生涯。その無念の心境を道真に重ね、雷神として描いた宗達、そして自分も風神に寄り添う。

そして、今にも雷を落とし災いを起こそうとする雷神(素庵)に、右側から駆け寄り、「おーい、素庵。俺も来たよ。昔のように楽しくやろうよ。今までのことは良いじゃないか。」となだめ、話しかける宗達の心情。

出典:琳派400年 俵屋宗達と角倉素庵の友情物語。

   ~その弐~ | ようこそ保津川下りホームページへ(保津川遊船企業組合)


宗達風神雷神の目を見た時、風神が雷神に視線を送っていて、何か言いたげな、何か話しかけているような、「おーい、素庵」と声をかけていると言われたらまさに、そのように思える感じがしました。来世で、一緒に楽しもう・・・・ そんな声が聞こえてくる気がしました。

   風神雷神:④目線は、自分の見つめている目線 (2015/11/19)


その人物像が謎に包まれている宗達ですが、この作品が林先生のいう心情から生み出されたものだとしたら、友情と義理厚い新たな宗達像が浮かび上がってくるのではないでしょうか?

本来、実業家としても、知識人としても近世日本史の一ページを飾ったであろう人物である角倉素庵が、未だ全くをもって‘無名’の存在であるのは、この晩年の人生が大きな理由ではなかった! 素庵の魂は、今年の琳派400年をどのような気持ちで眺めているのでしょうか。雷神の絵を見ながら、静かに語りかけたいと思います。



ネット内で、宗達の雷神は素庵ではないか。という説をいくつか見ます。その元は、関西大学大手前大学非常勤講師・林 進さんの説を元にしたものということが読み取れます。

現在のところ、林進さんのオリジナルな見解であると考えられます。この説は、下記のサイトで見ることができます。

  ⇒ 「宗達を検証する」after講座 

   ○「宗達を検証する — 友人角倉素庵の視点から絵師宗達の真実に迫る—」
   ○「琳派の誕生


宗達は、三十三間堂風神雷神をモチーフにした。と最初に知った時に、日陰の身にスポットをあてたのではないか?という推察をしていました。もし、素庵が雷神に重なるのだとしたら、あまりスポットを浴びることのない素庵に光を当てた。ということにもつながるような・・・・

   ⇒■風神雷神図屏風:風神雷神とは?

 


また、宗達自身も、自分の存在を示さなくてもよい。誰が作ったかわかないというアイデンティティーとも重ね、日陰の存在のかすかな、しかし大きな主張・・・みたいなことが、テーマになっていたりするのでは? と思うのでした。

 

 

■絵画の鑑賞について

〇疑問からスタートして

宗達風神雷神の元になったモチーフはなんだったのか・・・・から始まり、三十三間堂風神雷神が参考になったと思い込んでいましたが、実はそうではないらしい。いやモチーフの解釈はいろいろある・・・・

また、新たに、雷神は本来、赤で描かれていたことを知り、しかし宗達は白で描いた。それは、なぜだったのかという疑問・・・・

ところで、雷神は、何で赤で描かれるようになったのか海外の雷神も赤かったのか。これまで、描かれてきた、雷神図も赤いのか・・・・

一つを知ると、また、一つを知りたくなり、なかなか前に進みません。しかし、モチーフの一つされている『北野天神縁起絵巻』で雷神が赤く描かれていました。雷門の雷神も赤です。子供の頃に見ていた雷様も、確かに赤で表現されていた。という事実は、目で確認できました。でも、何で赤でないといけないのかはわかりません。
 
その過程で、『北野天神縁起絵巻』の雷様は、菅原道真の怨霊という逸話があることもわかり、菅原道真がどういう亡くなり方をしたかという歴史の一旦もわかりました。太宰府天満宮になぜ、菅原道真が祀られているのか・・・なども。断片的に知っている歴史がつながっていきます。


今度は、宗達はなぜ「白」にしたのかという新たな問題・・・・


その答えは、いろいろな理由が、それぞれに語られています。そこに、また一石が投じられようとしている、新しい学説が登場しているようです。
 

 

〇絵を鑑賞するということは

自分の感覚で感じるままに観ればいい・・・・ その一方で、知っていることに照らしながら、よみ解くおもしろさ。


下記の参考サイトの中で言われていますが、「自分の持つすべての知識を総動員して」と書かれていました。

つまりは、鑑賞するこということは、ある意味、その人が持っている知識がすべてがさらけ出されるという怖さのようなものも感じてしまいました。

自由に感じるままに、見ればいいんんだ・・・と思う一方で、これまで何を見て、何を読み、何を学んできたか。そこで得た知識とともに、新たなものの見方を創造する。価値観を作り出すことでもある。

その過程で人の考えを聞いて、さらに広げて、取り入れたり、ふるい落としたり・・・・・

絵の中にある価値を見出すと同時に、それを見て評価する人たちの価値観に触れられるおもしろさ。そこには、その人の学びや考えが投影されているようで、奥に潜んでいるものが、あぶりだされてくるのを見るかのようです。それとともに、一種の怖さまで、見える気がしてしまったのでした。



 

■参考サイト

国宝「風神雷神図屏風」公開/宗達・光琳・抱一・其一の4作品。 より

 絵画との対話は想像力に働きかけます。
 自分の持つすべての知識を総動員して、
 絵の前に対峙し“ひととき空想”にふける。
 空想を自分の言葉に変換しながら絵画を記憶していく。
 モノの見方はひとつではない。
 モノの見方を学ぶことは応用力の向上につながり、
 応用力の向上はその時々の答えの出し方に変化を与える。
 そして、
 それぞれの答えが次の創造へのヒントとなるのです。
 
 1つの答えを求める教育と同時に複数の答えを絞出す教育。
 複数の答えを絞出すための多くの知識と経験の収得。
 教育の形はデータ(既に確定しているとされる事項)の記憶に
 焦点を向けるだけでなく、
 複数のデータを自分達で創造する。
 この絵に限らず絵画鑑賞を含めて、
 “芸術鑑賞が持つ、人への導きは無限の形を有する”ことを
 知る学習能力が高まれば、
 人生は少しだけ豊かになると感じます。

 

>教育の形はデータ(既に確定しているとされる事項)の記憶に
>焦点を向けるだけでなく、
>複数のデータを自分達で創造する。

これまで、裏付けは? 根拠は? とデータを求めてしまう傾向があったのですが、データや根拠だけでなく、複合的な集積によるアプローチからの創造。それは、確固たるデータの裏付けでなくても、根拠となりうる。

 

>1つの答えを求める教育と同時に複数の答えを絞出す教育


答えは一つではない。宗達風神雷神の元は何か・・・・・

「北野天神縁起絵巻」も見ていたけども、「三十三間堂」の風神雷神も見ていた・・・・そして、もしかしたら、なんらかの形で、海外の風神雷神だって見ていたかも・・・

作品は、作者が見てきたものの総合芸術。と考えれば、一つのものに絞る必要もないし、いろんなもの、見てたんじゃない?  

最終的にたどり着くのは、いつもここ(笑) 最後、まあ、いろいろあるわよね。が、いつもの私のパターンでした(笑)



そして、ふと思ったこと。風神の風袋も「白」です。この白には、意味があるのでしょうか? 風神の風袋は「白」という決まりごとだったのでしょうか? 風というのは、なんとなく「白」というイメージがあります。でも「青」だっていいような・・・

雷神の「白」と風袋の「白」

風袋の白の意味は・・・・?  という新たな疑問が出てきました。

 

 

蜻蛉・秋津島・ヤマトについて 其の二 - 古事記・日本書紀・万葉集を読む

仏典(あるいは儒教道教神道の教典)の何に赤いとすると載るのかご教示いただけると幸いである。出光美術館蔵の奈良時代の絵因果経に見える雷神像では、太鼓は赤いが体は白い。西魏時代の敦煌莫高窟第249窟の雷神像では、太鼓(羯鼓)は青(緑)、服は赤、服からはみ出した体の顔、手、足は白く描かれているように見え、隣接する烏獲(風神)像の肌のほうは赤く見える。 

 

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