コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■対話式鑑賞との出会い:俵屋宗達《風神雷神図屏風》を通して感性を伸ばす

最近、よく耳にするようになった対話式鑑賞。それを知ったのは、2015年、俵屋宗達風神雷神図屏風を見たあとでした。この屏風を使って、対話式鑑賞を行っている先生のブログを目にしたことからでした。その時に感じたことをリライトして転載。

 

出典:風神雷神:①対話式鑑賞  俵屋宗達 風神雷神図屏風 (2015/11/10)

 
 
 

 《風神雷神図屏風》について調べていて、次のサイトが目に止まりました。とても示唆深いことがたくさん書かれていたのでメモ。

■対話による鑑賞授業

いかに生徒の発言の痕跡を残すかより  by 庄子 展弘

 鑑賞はたのしい。1枚の絵を目の前にして、じっくりと眺める。一人で見るよりも二人で見る方がさらにたのしい。その絵について語ってみたときに、自分の見方と、相手の見方が違うと、何で相手は「こう思ったんだろう?」と同時に「何で自分はこう思ったんだろう」と考えていく。そうすることで、絵についての理解も深まり、その見方や感じ方、味わいが深くなる。まるで、面白い映画を見た後に、盛り上がって語り合うように。 一人よりも二人、二人よりも三人と、みんなで見て語り合う方がたのしい。人と語りたくなる美術作品に出会えたときも全く同じである。絵や彫刻、不思議な現代アートなど、見たり、触ったり、感じたりしたときに語り合うのは基本的にたのしいことだ。

 

 

〇二人で見る面白さ

なんとなく最近、美術館に行く機会が増えてきました。これまでは、ずっと一人で見ていました。たまに、主人と一緒に観ることがあって、そこで漏らす感想が実に面白いと思いました。その発想が、どこからくるの?! 絶対私には、考えもつかないこと・・・・

その後、似たようなジャンルの美術作品に興味を持つ友人が身近にいたことに気づきました。「○○見た?」とその後の感想を語り合うことによってもたらされる楽しさというものが分かり始めました。

元来、一人行動が好きなのですが、「いっしょに行かない?」という機会も増えてきました。とは言っても、基本は一緒に見たりはせず、自分のペースで自由に観ます。観たいところで立ち止まり、興味のないところはスルー。その後、ああでもない、こうでもないと語る。そんなことをしていた時に見た動画これでした。

 

〇ポーラ美術館の動画 

www.youtube.com

同じ空を見上げても選ぶ色は人それぞれ。
芸術に正解はない。

今目の前にあるものが輝いて見えるのは
自分自身が輝こうとしていることの証。

大切なのは何を見るか ではなく
誰とどんな場所でそれを感じるか

明日はあの人に 今日 一日のことを話そう


この動画で語られていた、一人で見る楽しみでなく誰かと共に見たり、あるいは、あとで語りあったりすること。その楽しみ方が、少しわかり初めていたときだったので、
一つ一つの言葉が、ずっしりと響いてきました。

 

〇語り掛けるギャラリートーク

そして、今また、美術教育をされている先生が、そのことを冒頭で訴えかけていることに意を得たりでした。
 

人の薦めで『みる・かんがえる・はなす 鑑賞教育のヒント』の本に出合う。読み進むたびに、今までの悩みが解消出来る予感が見えてくる。そのときになって気づく。私はアレナスを知っている。


(中略)

あの衝撃的な番組。こんな授業がやりたいと思っていたあのギャラリートークその人だった。(略)
当時の色彩に復元し、原寸大のその画像を元にギャラリートークをするもの。後半は誰がユダなのかと問いかけてさらに絵を深く見つめていく。
 当時は、よくあんなにいろんな人の話をまとめていけるなと思ってみていたものだが、まさか自分がそんなことに挑戦しようとは夢にも思わなかった。

 

 

ファシリテーションマトリックス

生徒の意見を引き出す板書で使われたのがファシリテーションマトリックス

縦軸に、絵画の意味(価値)の深まりをすえ、横軸は、造形要素や心情など、部分から全体の方向へと広げる。絵の中に描いてあるものの位置関係を部分から全体として対応させる。座標軸のマトリックスを用いて、生徒の感想をまとめるという方法。

(因子分析法は、こんなところでこういう使い方もできるんだ・・・・)

ところが生徒は、より評価を得ようとして、高い位置に属する意見を言おうとするようになるというのも面白いです。

そこで絵の部位と黒板を連動させるだけにして、生徒の意見を単純に配置。そして意見同士の絡み合いを関連づけて板書。黒板右側に、作品のテーマや主題を書く欄も設けておき、最終的にこの絵は何なのか? 主題やテーマも考えさせる

以上のような方法を用いて、様々な作品の鑑賞会を実施されていました。

その結果、子ども達は、鑑賞を楽しむようになり、このスタイルの授業をすると、喜んでくれた様子が伝わってきます。3年生になると、幅広い解釈が生まれ、新しい発見をしたり、絵を見ることが好きになっていることがわかります。


3年生ともなると、単なる絵だけ、作品だけの世界から、作者の生き方や人物にも興味を広げて、さらに知りたくなり質問をしてくる。そんな時にどこまで授業の中で話していいものなのか、また悩みが生まれるそうです。


 

■対話式鑑賞  俵屋宗達 風神雷神図屏風

その対話式鑑賞の一つとして、俵屋宗達風神雷神図屏風の鑑賞授業が紹介されていました。

鑑賞に際して、実物大の屏風を市内で借用。それは、教科書などに載っている平面の状態ではなく、あくまで屏風として折れ曲がっていることや、二曲一双であることから
屏風同士の距離や位置関係を変えることで、感じ方が変わるかどうかについても試してみたそう。

環境も、暗幕で暗くし揺らめくろうそくの火のなかで鑑賞することで、さらに味わい深い物なるようにされていました。


私が、実際に屏風を見て、「図録と屏風は違う」ということに気づいたことを、美術の授業の中で体験させてもらっているのです。

そして、ロウソクの光の中で鑑賞をし、当時の見え方を再現しています。

尾形光琳の紅白梅図を同じような対話形式の鑑賞授業をされた先生のことを、以前、「ここ」 で、触れていますが、こちらでは、実際にロウソクをたててはいませんが、
屏風はどんな光の中で見るのものか・・・という視点をさりげなく言葉の中で投げかけ、気づかせるように誘導されていました。

 

〇モノを見る時、光を意識する

最近、作品はどんな光が当てられているか・・・ ということが気になるようになりました。そして、もともとは、どういう光の中に存在していたのか・・・・

その見方は、生活にも直結するようになっていて、商品がどんな光の中でディスプレーされているのか・・・ということにもつながっています。こんな種類の光をあてたら、実物よりもよく見えている・・・・という捉え方もするようになってきました。

 

 〇京博の展示は美術品として

ただ、今回展示された、風神雷神図は、崇め奉って見ていました。かつては生活の道具として利用されていた屏風であり、間仕切りであることをすっかり忘れさせられていました。

目の前にあるものは、貴重な美術品として、崇めており、本来、どういう光の中で見られていたかという視点は全く抜け落ちていたことを、このレポートで再認識させられました。

せっかく、屏風は昔は、ロウソクの薄暗い光の中で見られていたということを一度は、理解していたのに、あの展示の環境が、それを忘れさせてしまうのでした。

発色が悪い。 色が薄い・・・・と思いました。しかし、これをロウソクの光で見たとしたら・・・・ 見え方は違っていたはず。

 


〇対話式鑑賞のテーマ

一連の対話形式の鑑賞におけるテーマは、次のとおりだそうです。

いきいきとした一見神とは見えない風神雷神の姿を見ながら、これらは一体何者で、何をしているのか。そして題名を知った後に、どう思うのか。自由な発想を保障しつつ多様な思いを交流させたい。


風神、雷神が何物なのか。何をしているのか。この部分も、私の中ですっぽり抜け落ちていました。


3者、そろいぶみ・・・・・・ その貴重な機会にばかり、目が行ってしまい、3者を並べて比べて、その違いをみつける。そういう視点でしか見ることができませんでした。

風神、雷神って、三十三間堂にあった彫像。とわかった時、風神、雷神って何なんだろう? とふとよぎっていたのです。しかしそのことは置いてしまい、せっかく3者を並べて見ることができるこの機会を逃さない。そちらにばかりに気をとられていました。
 


〇中学生の自由な発想

 「屏風には2つの何かがいる。それぞれが何で、お互いに何をしているのか」その問いに対する答えが実にユニークで、今風です。同じような傾向のものをまとめてみました。

・こいつらは鬼で、どっちが強いが競い合っている。ケンカ。仲が悪い。

・天気の怪物。このほかに『雨』と『晴れ』もあるがその中で競い合って
 残ったのがこの雷と風。闘っている最中。
・人間にとって雷はいらないけど、自然界には必要。
 この雷様は想像のもの。雷の方の雲があまり黒くない。雷雲は黒いので逆。
 実は風の方と雲を取り替えられて、口で言ってもらちがあかないので、
 これから取り返しに行こうとしている所。
 これから戦いに行こうとしている所。その直前のポーズ

 ・ダンベル持って筋トレ。強くなって龍を倒そうとしている。

デスノートの死神みたい。どっちが偉いが競っている。

・永遠のライバル。最終決戦。風神が雷神に向かっているところ。

・闘ってる。雷の神と風の神。

・風神の袋には攻撃の道具が入っている

・黒い煙は戦いのオーラ。黒いのは悪だから。

 

以上は、風神と雷神は、バトルをしている。喧嘩をしている。強さを比べて戦ってるという意見。風神の袋には攻撃の道具が入っているなど、 ゲームのキャラクター的なとらえられ方は今風だと感じられました。

 

一方、2人は仲が良く遊んでいる、楽しんでいるという見方もされています。あるいは、悪ふざけをして下界の人間界をこらしめているといった共同作業という見方も・・・・

・仲良し。下界に雷と風を送って喜んでいる。自分達の楽しみのため。

・もやもやが雲で上空にいる。右の顔がふざけている感じなので悪魔。
・口のゆがみも。風の神。暇なので、悪戯しようとしている。
・人間界に雷と風をちょっと起こして楽しむ。

・昔からの仲良し。何でも分かり合える存在。雲の上は操る。
 時空を超えて操る神様。これからすごい事を起こそうとしている最中。
 2人とも色は小汚いけども大きな力を持つ神様。 
 人間には見えない不思議な存在。笑ってウキウキ。神秘的。

・右側が鬼で、左はそれに近いもの。仲良しで会話している。
 「最近どう」みたいに。顔が鬼っぽい。口の大きさが。

・何か楽しんでいる。口元が笑っているから。

・雷を鳴らすためには雨雲が必要。それを作って、風で送っている。
 手首と足首にわっかが二人ともある。おそろい。悪天候同盟。

・右は妖怪の仲間でいろんなものを袋に入れて攻撃する道具として使って、
 腐れ切った日本に制裁しに行くところ。悪い人を懲らしめる。
 座敷童のようないい妖怪。

 

そして今の時世が反映されていると思ったのが・・・

・立ってダイエット。食べてなくてイライラしている。荒らす。

 雷神はまってる間にストレッチ。強さは同じぐらい。
 髪のなびきが風の強さを示す。風神。

 

・黒い煙は火を消した瞬間に出るから。歯がきれいだし。エンジェル。
・緑は歯がきれい。白は歯が汚い。

ダイエット、さらには歯の白さへの言及などは、日頃の関心事が伺えます。

 

上半身裸、身にまとっているものからいろいろに想像力を膨らませ、またダンベル、縄跳びといった、トレーニング的なものとしてとらえられています。

・風呂上がりのおじさん。パラシュート(パラグライダー)に見える。
 緑はポケモンとか。

・子どもです。ダンベルで鍛えている。緑の方を絵の具で塗った。
 その仕返しにバスタオルで拭いて行こうとするところ。
 ズボンがお下がりのゆるゆる、脱げないように足をあんな風にしている。
 すでに脱げてへそが見えている。
・人間だけど悪魔。悪い人間の象徴として悪く書いている。豚みたい。
 右は奴隷。貧しくてカエルなどを食べているので緑。
 身分の違いを表現したもの。
・筋トレと縄跳び、この時代には縄がないのであんなもので縄跳びしている。

 

観察によって想像たくましくいろいろなことが引き出されています。

・紐みたいになびいているのはのり? 昆布?ビデオテープのようにひらひら。
・左は豚みたい。耳の位置。右はライオンみたい。たてがみ。鬼ごっこ。
 
・時代は江戸時代? 緑の方は肩にわっかがある。特徴的なものを着ている。
・雷が怖いので、昔の人は雷が鳴っているとき上に何かあるんじゃないかと 想像した絵。風も神。

 

では、屏風を逆にしたら? という問いに対して・・・・

・緑は顔がドラゴン。腹の脂肪がすごい。腕がすごい。白と緑は兄弟。
 左右逆にすると下に行こうとしている。
・別れる感じ。緑は生き生きしている。口の開きと、目の見開き具合。
 気合を入れて、何かしようとしている。右はそれほどでもないが少し、
 生き生きとしている。
・逆にすると、協力感が強まり、上に戻ろうとしている。
・ 離すと、逃げようとしている。



両者を戦い、戦闘ととらえたり、仲良しと捉えたり、ダイエット、筋トレ、白い歯など、中学生の世相も表しています。物の感じ方って、こんなにもユニークなんだと思わされました。

その一方、「風神、雷神が何をしているのか、何者なのか・・・・」なんてこと、一切考えることもなく、ただただ、3者の違いだけに焦点をあてていた見方の狭さに愕然。

鑑賞における言葉の投げかけ何を観たらいいのか・・・・何に着目して鑑賞するかという指南をしてもらうということは、いかに大事なことなのかと感じました。

そして、1年生、2年生、3年生の感想を見ると、鑑賞の深さの学年の度合いの違いはあるけども、どの学年でもそれぞれの受け止め方があり、小学5年生でも実施できるそう。

こんな授業を受けていたらなぁ・・・・・美術作品に対する鑑賞方法が、早いうちから変わったのだろうなと思います。


この対話式の鑑賞の授業はいかに生徒の声を拾い上げて、作品への多様な見方や思いを交流していくかが課題である。生徒の声をいい悪いではなく、全て認めていくとことで多様な思いを言いやすい雰囲気をつくりだし、お互いに認め会える環境を作る。その上で、さらに深い鑑賞に結びつくような教師側の働きかけをおこなっていく。

     出典:庄子展弘のページ - 美術による学び研究会より



まさに、芸術に正解はないのです。


だから、何を感じてもいいということなのです。風神、雷神の乳首が1つしかない・・・・ 描かれた乳は、垂れている・・・・ っていうことだって(笑)

ちなみに、同じ部分に気づいた人がいました!
  ⇒風神の⦿ 

 

〇鑑賞を通して育みたい資質や能力

 ・作品に直に向き合いじっくり観察することにより作品の本質に迫ろうと判断し思考する力

・作品との対話、他者との対話、そして自分との対話を通して、作品に対して
 今、ここで自分なりの意味を生成する力
・他者の気づきや発言から、自分にない良さや、新たな視点に気づく力

 


私が感じ初めていたことを、くっきりはっきり言語化していただけたような気がしました。

 

 

■「感性や創造性をはぐくむ造形教育」村上尚徳先生の講演

庄子 展弘先生のブログを見たら、講演会のメモがあったので、それを転記。
  ⇒感性や創造性をはぐぐむ造形教育 より
 

「感性や創造性をはぐくむ造形教育」と題した村上尚徳先生の講演。
 ノートに記録したメモから、キーワードの抜粋。

・義務教育に図工・美術がある以上、日本国民全ての人に将来必要な力を育成しなければならない。
・心豊かに生きていく力が大切。
・「感性」とは、「あっキレイ」という心の中の動き、感じ取る力。
 この力は先天的な要素もあるが、その後の教育で育まれるもの。
 このとき重要なのが、言葉の働きである。

             ↑
           ここ、重要!!

 ・「言葉」と「体験」を関連させる。豊かな体験によりイメージが広がる。

・落ち葉を見ながら、色の三要素と関連づけるなど、造形の言葉を使って視点を増やす。
 これが、感性を伸ばすことにつながる。
・図工や美術を通して、子供たちにどんな力を育成しているのか。
 学習指導要領の教科目標に注目しよう。キーワードは「感性」、「創造」。

・「美しさは見る人の心の中にある」

 

ずっと「感性」を身につけるにはどうしたらいいか・・・ということを考えてきたのですが、「感性」とは「知識」だということで納得した部分がありました。ここにもあるように、「落ち葉」を見ながら、「色の三要素を結び付ける」といことは、「色の三要素」という「知識」を身につけること。それによって作品を見る時の「視点」が増えます。この見る「視点」=「知識」が少しずつ増えると、相乗効果で感性が伸びていくということを体験してきました。鑑賞の積み重ねで「視点」(知識)が一つ一つ増えていき、統合的に見ることができるように次第になっていく。作品を見たら、ただ見るだけで終わらせず、何でもいいから、1つ、周辺の知識を身につける。この繰り返しが感性を伸ばすことにつながるのではないか‥‥ということを漠然と感じるようになっていました。

 

・共通事項のアは「造形要素」について、イは「イメージ」について。
  アは一つ一つの要素について、言うなれば「木を見る」こと。
  イは全体をみること、つまり「森を見る」こと。

・「もの」じゃなくて「こと」を描く。
 「お母さん」を描くのではなく、「お母さんとの思い出」を描く。
・「つくる喜び」と「つくり出す喜び」の違い。
   前者はプラモデルなど、
   後者はその子が生み出す表現。再現ではなく表現である。
・「手を作ろう」ではなく、「○○な××を作ろう」。
・自分で表したいことを見つける。
・自分の表現意図を語る(記述させる)。
 見ただけではわからないことがある。
 (子供たちは主題を生み出し、工夫して表現する。それを鑑賞して
 (話しを聞いて、視点をもって見て)共有する。)当然上手くなくてもOK。

 

「木を見て森を見ず」「部分」と「全体」という捉え方は、様々な場面で共通する大切な視点です。「森を見て木を見ない」ということもあるかもしれません。「木」は「知識」に置き換えることができるでしょうか?

美術における細かな決め事。そんなことは関係なく、感覚、イメージでとらえればいい・・・ というのも一つの見方はあると思うのですが、1本、1本の木の詳細を知っていたら、全体の見え方も変わってくるはずです。逆に、1本、1本の木については詳しくても森全体のことがわからないということになってしまいます。

 

・「中学3年生で美術や音楽を選択教科にしてはどうか」という声にどう反対するか?
 その年代にしかできない学習がある(必要な学習がある)ことを実証する。
 具体的には仏像彫刻の鑑賞など、中学3年生ぐらいで価値を理解できる。
 心の内面やものの本質への理解の成長が著しいこの時期こ重要。 


その年代にしか学習できないことがある。しかし、それを指導する教師によって、引き出せるかどうかの差があるはず。すべての教師がこのような指導ができるわけではない。

私は、美術教育でこういう指導をされた覚えがありません。中学の時、美術は大嫌いでした。でも、こんな授業、受けることができていたら・・・・ もっと違っていたかもしれません。

しかし、いくつになっても遅くはないということがわかりました。そういうきっかけを自分でみつけたり、あるいは、人からもらったり。

まさに「言葉の働き」 こういう言葉の働きに出会えるかどうか・・・・

 

 

 

〇何もわからない絵画をどうやって観たらいいのか

感性はいかにすれば磨かれるのか。ずっと追いかけていたのですが、その納得できる答えを示してくれる人はいませんでした。これは天賦の資質。そう結論づけようとしていたところに、ある本の中で、次のような言葉に出会いました。

 

     ■思考:学ぶとは? 考えるとは? 知識の融合


  後天的に感性を高めようとするなら、基礎知識を身につけること。

  感性とは知識だ!  という言葉でした。


絵画にはいろいろな見方あり、感じ方があっていいもの。しかし、どうやって感じたらいいのかわからないという期間が長かったのです。いくら見たって何も感じない・・・・

絵画や音楽をまえにして、何かを感じるためには・・・時代背景、作者の生い立ち、作品の成り立ちなどなど・・・・ もろもろの基礎知識があると、作品に対してなにがしかを受け取ることができるのだと書かれていました。 

疑問がわくということも同じ。ベースとなる知識があるからこそ、疑問というものが湧き上がるのだと思います。

感性を磨くには、知識を身につける。

感性は天賦の才能なのではなく、知識を身につければ、磨かれるというのは、一筋の光でした。

数を見ていくと、感性が磨かれるという意味もだんだとわかってきました。ただ見ているだけではダメなんです。その絵がどういう絵かという基礎知識も入れながら観る。
それが蓄積されてくると、あの絵がああだったから、この絵はこういうことかもしれない・・・・でも待てよ・・・ ここはおかしくないか・・・・

そんなふうに変化することが実感できるようになったのでした。

 

 

「対話による鑑賞ガイドブック」についてより

気になったことをピックアップ

 

「はじめに」

プロジェクタから投影された美術作品の画像に目を向けながら活発な発言が交わされ,先生が取りまとめながら対話を進行する。
作品解説が中心であった美術館のギャラリートークにも,観衆との対話を重視する傾向がみられます。

私たちが取り組んでいる対話による美術鑑賞は,学習者が主体的に学ぶ授行。学習者が発見し関心をもった課題を全員で考え,共同で知識を構成。
教育方法としては目新しいものではなく,他の教科ではよく見られる方法だが,美術の授業としては根付いておらず画期的。

作品に対する自分の見方,感じ方や考え方を他者とコミュニケーションし,対話を通して個々の見方や価値意識を深めたり広げたりすること。

意見の交流を通して自己の相対化や他者理解が促される経験は,心の教育や人びとの相互理解が求められる昨今,極めて重要な教育的経験であると考えている。

言い換えれば,対話による鑑賞は,ただ美術そのものを理解するのではなく,美術を通してこの社会を豊かに生きる力を育てようとする,いわば美術を通しての人間形成をめざす教育方法なのです。

柔軟な見方や自由な発想による発言は,教師の予測を越える。自分の生活や経験をたどるような微笑ましい発言もあれば,人生や社会に対する深い洞察に驚かされることもあります。

ピカソの〈ゲルニカ〉で真っ先に発言した少年が対話のリーダーシップをとっていた。その少年はふだんの授業では発言もせず目立たない存在だが,この鑑賞の授業のときは別人のように生き生きしていた。

児童・生徒は本来,自分の思いをみんなに伝えたい,自分の考えを聞いてもらいたいという願いをもっている。作品を見て話す,みんなで考えるという活動は,こうした学びの欲求にうまく合っている。きっかけさえあれば児童・生徒は語り出します。そして美術作品との出会いはそれを可能にするのです。


美術の鑑賞を通して得られる自己の相対化というのは、物事を客観的に見ることにつながります。

 

〇客観的視点は応用可能

これは、美術ではない飲食においても言えることです。「食べログ」というシステムを使って飲食記録をつけてきました。そこからわかったのことは、どんなに有名レビュアーの味覚であっても、絶対ではありません。そして味覚の判断は、無意識のうちに自分の味覚がものさしが基準となり、絶対と思いはじめている。甘すぎと感じた「どらやき」 しかし全体で考えたらどうなのか。ちょうどいいと思った人もいれば、甘味が足りないと思う人もいる。自分の甘味の感じ方は、全体の中ではどういう位置にあるのか・・・ そんなことを意識しながら判断していかないといけないことに気づきます。

 

そんな大前提をおさえておけば、自分の判断は絶対的なものではないことは当然理解しますし、人の判断もまたしかり。相対化してとらえていれば、昨今、騒がれているカリスマレビュアーの接待による点数の引き上げ。あるいは、点数化されたお店の数字をを参考にすることの意味のなさもわかります。人の判断をあてにするのも、意味がないこともわかります。最終的には自分で判断する。一つ一つのレビュー内容を見る。つまり1本1本の木を見て、全体を自分の目で判断していれば、何の問題もない話。何をあんなに大騒ぎしているのか・・・ということになります。

 

自己の相対化ができれば他者の理解が促される。というのも、いろんな味の好みがあって、人によって違うということを、言葉の上だけでなく真の意味として受け入れることなのだと思います。

これらの力は、世の中を生き抜いていくために必要な根源的な力で、学力や知識とは違う、自分で考える力だと言えると思います。

美術なんて大嫌い! どうやって鑑賞したらいいかわからない!

と長きに渡って思ってきたのですが、よき指導者や、よき「言葉」に出会えると、
開眼できるものなのだと・・・・そして、それは年齢に関係なく、その出会いさえあれば、いつからでもスタートできるということがわかりました。


以前、美術館でメモをとりながら、鑑賞していたら、「何をメモしているんですか?」と2回に渡って声をかけられたことがありました。

この人は、なんなんだ・・・と思ったら、「美術教育について、研究をしていて、美術館を見ている人をウォッチするのが好きなんです」と言われていました。こういう研究会で、いろいろ模索されている方だったんだなと、思い出されました。


■美術鑑賞を通して、感じていたこと

与えらえて学ぶ学生時代の学習は、総論の「森」を見ることから始まります。だからつまらない。なんの興味も湧きません。しかし、大人になってから興味がわくことは、
一本、一本の木のおもしろさに、興味を持ちます。そこで、他の「木」も探して歩き回わるのですが・・・・

ところが、ただ探していただけはよくわからなくなってしまうのです。そこで必要を感じてくるのが、総論的な「森」全体を俯瞰して見る視線

学生時代に体系づけられた専門的な学習をしてきた人の強みはここにあるのだだと思います。その時は、いやいや学んだことだったかもしれないのですが、体系だった学習をした人は俯瞰した「森」の全体像が、ある程度、見えているということなのです。ところが、趣味で初めた場合はの興味は、最初のうちは、「木」だけしか見ていないことが多いと思われます。

これまで、興味のある絵だけを見てきて、まさに、そのことを感じさせれていたところでした。

学生時代に美術史なんて学んだとしてもきっと退屈で、面白くもなんとなかったと思うのです。でも、今、その総体的な知識がベースにあるかどうかが、作品を理解する上で、とても大きな要素になるということが、なんとなく見えてきました。

 「木」と「森」
 「部分」と「全体」
 「ミクロ」と「マクロ」
 「演繹」と「帰納

そうした両方からのアプローチが必要だということ。でも、興味を持ったことしか、関心がないから、その時、その時の興味に応じて、マイペースでいけばいいやと思っています。 

 

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