コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■国宝展:俵屋宗達 《風神雷神屏風》

今回、国宝展に訪れたのは宗達の《風神雷神図屏風》を見ることが一つの目的でした。2年前の「琳派 京を彩る」で、3つの風神雷神図屏風を見ました。その後、風神雷神図を場所を変えたり、違う作者のものを見てきたのですが、いくつか確認したいことが出てきました。 

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俵屋宗達 《風神雷神図屏風》 

  

 

■《風神雷神図屏風》鑑賞の歩み

2015年「琳派400年 京を彩る」で3者そろいぶみの風神雷神図屏風を見ました。その時の感想は‥‥

色が薄い‥‥ こんなボケた感じの色なんだ。と思いながら、遠くから崇めて見ていたという記憶がありました。

 

今年、尾形光琳の《風神雷神図屏風を、東博の常設展で見ました。するとまた印象が全く変化していたのです。

 

色は、修復したのかと思うくらいに鮮やかだし、京博では見上げるような遠い位置にあった《風神雷神図屏風》でしたが、とても近い位置で非常に間近な状態で見ることができました。なんだかあの時のありがたみが薄れてしまった感覚でした。

 

京博でみた時の様子を探してみると・・・・・

 

出典:風神雷神図屏風がそろい踏み 京都国立博物館で展覧会 - 産経WEST

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出典:風神雷神 3派並ぶ

 

こんな感じで自分の記憶の中にある展示の状態と随分違うのでした。

 

見上げて見たという記憶。このようなシチュエーションを、なぜか見上げながら見たという記憶に置き換わってしまっていたのです。なぜそのようなことが起きてしまったのでしょうか? 私だけの感覚的なものなのでしょうか? 

京都に一緒に行った友人も、東博の《風神雷神図屏風》を見ていました。印象を聞くと、やはり京都では見上げて見た記憶があると言っていました。私だけの感覚ではなかったのです。記憶というのは、いかに曖昧で、あてにならないものなのか、しかし同じ状況で見た友人とは同じ印象を持っていたのでした。

 

何で、見えた状態の記憶が変化してしまったのか‥‥ もう一度、訪れてそれを確認したかったのでした。

 

その理由については、あれこれ想像していました。

 

■実際に再会して

〇見上げるように見えたのは‥‥

鑑賞の状態は、「琳派 京を彩る」の時とは、比べ物にならないくらい良好でした。人は多いですが、あの時のようなイモ洗い状態ではありません。作品の近くにもすぐに行ける状態です。

 

2年前に見たように見上げるような状態ではありませんでした。

 

事前に想像していた、東博と京博の展示環境の違い吹き抜けの高さやブースのヌケによる解放感でより大きさを感じさせたのかも・・・・というのもちょっと違いました。設置環境によって、そのように見えるという状況ではありません。照明の当て方による効果だったのかも… という点についても、当時の照明状態の記憶がなく比較ができないのですが、それも違うと思いました。

 

展示の高さがそのものが違ったのかも。今回の展示は、2段の台の上に載っていました。あの時は、もっと高く展示してあったのかも… と思いながら、前回の展示の写真を確認してみました。

 

出典:風神雷神図屏風がそろい踏み 京都国立博物館で展覧会 - 産経WEST

全く同じ高さ、同じような状態で展示されています。

 

そこで考えられたのは、作品との距離。そして、その間の人の存在でした。人の頭ごしに見るという状況が、やはり作品の高さの見え方に影響しているのかも‥‥

屏風の近く、目の前で見ると、屏風の中に自分が取り込まれていくような感覚でした。そして屏風から次第に離れて鑑賞すると、感じる高さがどう変化していくのか‥‥ 何となくですが、遠くに見える距離感になると、高さを感じてきたのです。そしてその間に人が入り込むと、その頭越しに屏風を見るので、屏風は高くなって見える! 人を何人も前にいる状態にして見ると、まさに2年前に見た状態に近づきました。そして、自分のイメージをさらにたくさん人がいる状態にすると、屏風が高く見えるということがわかりました。

 

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この写真が、高く奉られたように見えたヒントになります。この状態で見ても、屏風に高さがあるような展示に見えます。そして人が一人立っていますが、この写真の屏風の前にたくさんの人が埋めつくした状態に想定すると・・・・ 屏風は確かに高さがあるように見えるということがわかりました。

 

再度、同じ屏風を、近くで見た状態です。同じ目線に見えます。

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〇色が薄く見えたのは

 

鑑賞体験の未熟さによるものだと思われました。

 

最初に見た時は、色が薄い! って感じさせられていました。そして光琳の《風神雷神図屏風》を2年後に、東博で見た時には色が濃い・・・と。こんなに濃かった? 修復でもしたの? と思ったのです。

 

そして、今回、宗達の《風神雷神図屏風》についても、こんなに濃かったっけ? と思っているのです。

 

それまで日本画は実物をまだ鑑賞する体験がなく、ネットや図版でした。それは色調整がされていて実際よりも色がはっきりと見えるようになっているようです。そのギャップに驚いていたのだと思われます。

 

ところが2年の年月の間にいろいろな作品を目にするようになって、実際の色は図版とは違っていて、色のトーンが落ちることを認識するようになってきたため、最初の色が薄い! と感じてしまった感覚とは捉え方が変化しているためだということがわかりました。

 

 

風神雷神の目はどこを見ているのか?

3者の《風神雷神図屏風》の視線について、図版を用いて解説があり、本当に微妙な目の位置の違いについて語られていることがわかりました。

 

ところが、この元になる図版の撮影カメラの高さや角度など、3つの風神雷神図屏風は同じ条件で撮影がされているのか。また3つの屏風サイズは違います。そして屏風をどれくらい離した状態で撮影するかによっても違います。サイズの違う屏風を、比較するのに同じ条件で撮影するにはどうすればいいのか。また平面にした状態でそれを比較しても意味のあることなのだろうか・・・ という素朴な疑問が出てきてしまいました。

 

もともと、自分の中で、風神雷神の目は、見る人の心にあるということが答えとして出てしまっています。(⇒■風神雷神図屏風:風神雷神の目線は、自分のみつめている目線?)今回、見る位置、距離によってかなり見えかたが変化するとことを実感し、その思いをより強くしたのでした。

 

〇下地に金箔のない宗達の《風神雷神図屏風

宗達の絵の下は金箔は貼っておらず、背景だけ。一方、光琳は、すべて金箔が張られている。という情報を絵、それを確認‥‥ と思っていたのですが、すっかり失念してしまい残念。またの機会に‥‥

 

 

■1対1の対峙

閉館間際、ここに戻ると、人は数人。そして最後、1対1の対峙できるできる時間を持つことができました。

 

宗達、あなたは何者のなの? 

何にもあなたの情報が残っていない‥‥ いくら何でも、そんなことってあり得る? 私は、あなたは空想の人物じゃないかって思ってるんだけど‥‥

 

ここに来る前に、宗達は、本阿弥光悦っていう説があるって話を聞いたのだけど、本当? 風神は角倉素庵へのオマージュだっていう話もあるけど、違うっていう人もいるし、本当のところは?

 

あなたが参考にしたっていう三十三間堂風神雷神像、明後日、行って見てくるわ‥‥ どこがどう、ここに現れているのか、確認してくるから‥‥  そして、また建仁寺に行って、今日見た、あなたの風神雷神と、レプリカの風神雷神を見比べて見るわね・・・‥ 

 

そんなお話をしてお別れをしたのでした。

 

 

■関連 

 ■尾形光琳:《風神雷神図屏風》東博 常設展にて 

 

 ■建仁寺:《風神雷神図屏風》あるべき場所・環境で見る(どんな光?)

 ■建仁寺:キャノン高精細複製品《風神雷神図屏風》

 建仁寺:陶板性のレプリカ《風神雷神図屏風》とご対面 

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