ヨコトリ2020のサブ会場となっているプロット48の展示は、刺激的? 攻めてる? 性的表現を用いた作品が多く展示されています。その中で注目したのは、ジェン・ボーの《シダ性愛》。シダと戯れる男性のエロティシズムな世界。これでもかと迫ります。
エロと美の境界は、いったいどこにあるのでしょうか? 映像を見て思考したこと、感じたこと、これまで見聞きしてきたことの関連など、赴くままの垂れ流しです。
以下、ネタバレ注意
- 1■シダと戯れる男たち《シダ性愛》
- 2■作品の概要
- 3■映像の構成
- 4■シダとの性愛表現は愛撫?交尾?
- 5■全部の映像を見る人はいるの?
- 6■生殖はどう表現されたのか?
- 7■アートとエロの違いは?
- 8■ジェン・ボー(鄭波)について
- 9■ジェン・ボーに関する記事
- 10■調べたり考えたりしたこと
- ■《シダ性愛》1~4を見て
- ■【追記】2020.08.22 シダは有性生殖が基本だった! のですが・・・・
- ■補足
1■シダと戯れる男たち《シダ性愛》
プロット48で上映されている《シダ性愛》。エロティックな動画が流れているという話が耳に届きます。シダ植物と男性が交わる性的な交流。それはどんな表現がされているのでしょうか?一見、見たところ、美術展で堂々、AV上映?と思ってしまうような映像が流れていました。
2■作品の概要
タイトルは《Pteridophilia》 「シダ」を意味します。
接頭辞「pterido-」+接尾辞「-philia」の造語です。
接尾辞「-philia」は「あるものに対する愛情または嗜好性」を意味します。
巨大な木性シダが林立する台湾の森。全裸の若い男性が、シダの葉を愛撫し、葉の先端と戯れながら、シダとの性愛を深めます。
3■映像の構成
作品は4本の映像で構成。それぞれの内容は下記のとおり。上映はループでインターバルはほぼなく回っています。上映時間は、鑑賞した時のもの。毎日、同じ時間になるかと思いましたが、前回、見た時と違っていました。
*上映時間と内容
参考:ZHENG BO
・京都市立芸術大学アートギャラリー
・第11回台北ビエンナーレ
・Villa VassilieffとPernod Ricard Fellowship
・TheCube Project Spaceによってサポート
4■シダとの性愛表現は愛撫?交尾?
《シダ性愛》を見る前に、漏れ聞こえてきたことから考えていたことを列記。
4-1 性的マイノリティーへの理解
《シダ性愛》というタイトルで、まず頭に浮かべたことは、性的マイノリティーへの新たな認識を提示しようとした作品ではないかと思いました。昨今、LGBTなどが話題に取り上げられるようになりました。個々が受け入れたり、理解できるかは別としても、その認識は、すこしずつ広がりつつあるように感じられます。
しかし、その認識とも違う、性や種を超えた対象に対する、性的指向も存在すること。理解はできなくても、その存在を知り認め合うことを目的にしているのでは?
多様性が叫ばれる今日ですが、その多様性の理解は、一般的な常識の中で捉えられがち。その常識を覆した、想像をはるかに超えたところにも存在している価値観。そんな認知の拡張を投げかけようとした作品なのではないかと想像しました。
4-2 アートが表現するもの
「アートとは何か?」と考える中で、自分なりに理解してきたことは、「生きる術」を与えてくれるもの。「生命」「生きる」ということを多角的にとらえて、提示してくれるのがアートなのではと理解するようになりました。その「生命」の表現の中には、誕生、連鎖、進化、多様性、共生なども含まれます。
生命の進化や連続を司っているのが「生殖」。アートの世界でも「生殖」は、作品の表現で扱われ重要なテーマだと理解してきました。
《シダ性愛》も、生物の生殖、交尾によって、命の連鎖、あるいは、新しい命や生命を誕生させるための行為。その新たな形を示しているのではないかと・・・・
4-3 シダとの性愛は、愛撫なのか、交尾なのか?
《シダ性愛》で描かれた愛の形は、シダを愛でること。愛撫という行為に留まっているのか。あるいは、生殖を伴う交尾も表現されているのか。そこの部分に、一番の興味がありました。交尾を表現しているとしたら、それはどのような形で表現されるのか・・・・・・
4-3 無性生殖と有性生殖の交尾は成り立つ?
シダとの性愛。シダと聞いて思い浮かべたのは古生代の原始的な植物。雄しべ、雌しべで受粉をする有性生殖に進化する前の段階、胞子で増殖する無性生殖です。つまり雄と雌の区別がない植物です。
これは、男か女かという枠でくくることができない、トランスジェンダー的なニュアンスとも重なりそうです。性的少数者全体を包括する言葉として「クィア」という言葉が用いられていることをのちに知りました。
オス・メスのないシダ植物は、一般的な生殖から考えると、原始的であり少数派で、クィアに位置づけられるのかもしれません。そして、「種」を超えた雄雌のないシダに、愛を注ぐ男性もまたクィア。そうしたクィア同志の性愛がテーマ。
自然の摂理、法則を超えたところで結ばれる性。愛撫という形は成立したとしても、命をつなぐという生殖という面からは、いかに成立させるのか。
有性生殖は、凸凹の生殖器官が合体することにより、細胞が融合して行われます。一方、無性生殖は、単独で発生や発芽を始めます。(シダは減数分裂)こうした、生命が持っている構造、機能、生殖の仕組みが根本的に違う生物において、器官の結合はどう表現されるのか。そこに、強い興味を抱いていました。
4-4「科」や「種」を超えた交配は難しい
現代は動物や植物の品種改良が盛んで、新しい形や形質を持ったものを生み出そうと様々な技術や研究が行われています。新しい植物を生み出す時、「科」を超えた交配は難しいとされていることを聞いていました。動物の交配は近い種で行われます。
しかし、新品種を生み出そうとする人の欲望は、それを超えて新しい生命を生み出そうと試みます。その行為は、チャレンジなのか、冒とくなのか・・・
これに関連して、ずっと気になっていたことがあります。人間と動物が生殖行為を行った場合・・・・ AVでそのようなジャンルもあるようですが、万が一、受精してしまうことはないのでしょうか?
自然の摂理で、種を超えた生殖は成立しない仕組みが備わっているのか。あるいは、受精したとしても、それは成長しない。途中で流れてしまうようになっているとか・・・・ いい機会なので調べてみました。
まじめに、詳しいサイトがありました。
やはり、種の違う生殖では、精子は卵子に近づけない「接合前隔離」という仕組みがあったのです。近い種では、成功することもあるようですが、次の世代には引き継がれないそう。異種間では、生殖は成り立たないという自然の摂理が保たれていたのでした。
こうした自然法則がある中、種を超えた性愛を描く時、生殖行為は、含まれているのか。摂理を超えた生殖をどう描くのか? アートは「生」を扱うものであるなら、命をつなぐ「生殖」というテーマも、包括していて欲しいと考えます。生殖をするための生物としての器官。しくみが全く違うものどうしは、どう融合させようといているのでしょう・・・・
4-5 系統樹における「シダ」と「ヒト」のポジション
ちなみに下記は、生物の進化のプロセスを簡略的に表した系統樹です。
引用:国連生物多様性の10年日本委員会 生物多様性マガジン『Iki・Tomo』
特別号 SUMMER 2017ガジン 生物多様性を知ろう
系統樹の左側、緑色のコケ植物のとなりに、山吹色の「シダ植物」が存在しており、古い時代の植物であることがわかります。一方、ヒトは、右上のゾウやキリンとともに進化の新しい時代に位置しています。
「シダ」と「ヒト」は、時代も系統も、こんなにも離れた「種」であることが視覚的に理解できます。そして生殖機能も全く違う生き物です。それらが交わることが可能なのでしょうか・・・・
ちなみに、1階のアンドレアス・グライナー《マルチチュード》のピアノ自動演奏で使われる光る生物は、植物性の藻です。シダの前、コケが陸上に上がる前、海に生息していた植物プランクトン。直接的なつながりではありませんが、作品どおしのつながりを感じさせられました。
4-6 最後にシダを食べる!?
最後にシダを食べるシーンがあるらしいことがわかりました。ここで思い浮んだのは、交尾後にメスのカマキリは、オスを食べてしまうという話です。よく残酷物語のように、お役目が終われば、食べられてしまうかわいそうなオスと語られます。ところが調べてみると、この話には、誇張が含まれて伝わっていたことがわかりました。
メスが産卵し子孫を増やすためにはエネルギーが必要です。オスは栄養源としての役割も全うして一生を終えるのだと思っていました。新しい命のために、自らの体を供している。これは命を循環させるために組み込まれた歯車なのだと。しかしそういうことでもなかったようです。
男性がシダを食べる行為。それによって表現しようとしたことは、果たして何なのか。あるいは、食べる行為に何か隠された秘密はあるでしょうか?
5■全部の映像を見る人はいるの?
5-1 芸術祭作品のコンプリート志向
1~4からなる作品、合計68分に及びます。4作品全てを見る人は果たしているのでしょうか? 芸術祭において、映像作品は、おまけのような位置づけで捉えられることの方が多いように感じられます。
しかし、個人的には、イベント性の強い芸術祭になると、可能な限り作品群を見たいというスイッチが入ってしまいます。映像作品もしかり。それがシリーズで提供されるとなると、その全てを見たくなるのです。長尺作品については、最後、どう終わらせるのかを見届けたいという欲求もあります。
5-2 過去の芸術祭や趣味にもみられたコンプリート癖
これまで、参加した瀬戸内芸術祭でも、豊島の作品は、全作品をコンプリートするべく、入念な事前計画。ボランティアさんにほぼ、完璧と言われるプランを立てて訪れました。
(⇒〇芸術祭開催期間の島へのアクセス事情)(⇒*3)
別のボルタンスキーの展示、エスパス ルイ・ヴィトン東京で上映されたアニミタスⅡは、午前から夜、8時までの長尺動画でした。終わるまでの2時間、延々と代わり映えしない映像を見ていました。最後の瞬間、どう終わらせるのか確認するために見続けていました。
(⇒■クリスチャン・ボルタンスキー個展「アニミタスⅡ」(後編)(エスパス ルイ・ヴィトン東京))
通常の展覧会では、何か一つ得ることがあればいいと割り切っています。
(⇒■平成26年(2014.9):展覧会では何か一つ得ることがあればいい)
(⇒■平成27年(2015.10):「ポイントを絞って」見る)
ところが、会期が4期に分かれ、それぞれ出品作品が変わるとなると、コンプリート癖にスイッチが入ってしまいます。全作品を見るには、いつ、何回行けばいいかを、出品リストから割り出し、全作品網羅を目指してしまうのです。
5-3 映像鑑賞から性癖が見える?
植物に興味を持っていた時、似たような品種は、全て集めたいという衝動にかられました。シリーズ物は全て収集したいというコンプリート欲です。本人は自覚していませんでしたが、生産者からは、それをマニアというと聞かされました。
アーティストは、マニア特有の収集癖を巧みに利用し、シリーズものは全部揃えたいという心理を作品作りに生かしています。
同じ型で、違う色の作品を制作。マニアのコンプリート欲をかきたて商売上手だったラリック作品
芸術祭や、作品も同様に、全てを網羅したいという欲求を抱いてしまうようです。
また、光の変化を眺めているのは好きで、映像や建物、室内などの変化を、ずっと見ていてもあきません。そして、最後、どう終わるのかを見届けたいのです。
今回のヨコトリ2020でも、映像作品のリストやタイムテーブルを、何かに急き立てられるように、半ば意地のように作っていました。これもコンプリート欲の表れだったと思われます。また、映像のタイムテーブルなど基本情報を提供されないことへの反動のようなものであったかと。
このような状況の中、開催されたことは、大変なご苦労があったのだと頭が下がります。それを理解した上でも、来場してくれる人達に対して、基本情報を提供しないのは、いかがなものかという思いもありました。
しかし、簡単にできそうなことなのに「できない」。そこには、何かできない理由があるのかもしれません。あるいは、あえて「しない」という選択を、何か目的を持っているのかも・・・・ と思い直したりしました。
作品をどう見るかは、来場者の自由です。「もともと見ない or ちょっとだけ見る」(これが一番、多い気がします)「下調べはせず、偶然の出会いに任せてぶらぶら赴くままに見る」「直観に響いたものを見る」「あらかじめ見たいものを選択し、それ狙いで見る」「なるべく多く見るために計画的に回る」「全作品制覇をめざす」というように、見方にはそれぞれのスタイルや考え方があらわれるもの。
コンプリート癖を持つ人は、マイノリティーで理解されにくいのかもしれませんが、存在しないわけではないと思います。こうした様々な見る人のスタイルに応える。特に積極的、能動的に見たい人にとっては、会場マップやタイムテーブルは、不可欠な情報です。基本情報が提供されていないのは、不親切さを感じてしまいます。だったら、自作しようと思って制作しました。(現在、タイムテーブルは、アップされていますが、ちょっとわかりにくい場所です。)
いろいろ言いたいことを、言っておりますが、元来、計画を立てたり、一覧にしたり、裏技を見つけたりするのが好きな性分。いずれにしても、自分でタイムスケジュールを作り、網羅するための情報収集をして、鑑賞計画は立てたはず。
現にパスポート替わりになる横浜美術館協力会会員のしくみを知るまでは、全映像作品制覇するプランを真剣に考えてタイムテーブルを作っていました。
(⇒■場所と時間がわかれば、効率よく回れる)
パズルのピースを埋めていくように、バーティカルタイプの時間枠に埋めていました。ループ上映作品は、スタートがどのタイミングになるかわかりません。そこで、後半から見たことを想定して、所要時間の倍の時間に設定します。そうすれば、必ずゆとりが出るので、その時間を、展示作品の鑑賞に回わせばいい・・・ そんな時間割を自作しながら、枠がぴったりと納まると、快楽を感じるのです。
⇒*4■寝ない3歳の娘が放つ哲学的な言葉
また穴情報や、自分だけがみつけた裏技に、エクスタシーを感じながら(笑) 私だけが知っているという密かな楽しみを味わっていました。こうなると性癖としかいいようがないです(笑)
ほぼ、プロット48の映像鑑賞計画が完成に近づいたあたりで、横浜美術館協会会員のシステムを知りました。これまで作った計画は水の泡・・・・ でもそのプロセスに楽しみを感じることができますし、次の何かイベントのプランを練る時に、経験が反映されノウハウが蓄積されていきます。
また、定点観測も好き。メイク・オア・ブレイクの「橋を気にかける」の塩水によるサビの変化。(最初の変化前を撮影していなかったことが悔やまれます・・・)ロバート・アンドリュー《つながりの啓示-Nagula》は、次第に作者のルーツ、アボリジニの言葉浮かび上がると言います。竹村京《Time Counter》は、館内で作品を仕上げます。時間の経過で、どう変化していくのか、これらの作品も見届けたくなります。
5-5 《シダ性愛》は最後まで見ることができるのか?
60分を超える映像を見続けることは、基本的に苦ではありません。しかし、今回の映像は勝手が違うと思われました。かなりきわどいらしく、変態AVのようだという声もありました。
それを約1時間、見続けていたら、回りからの目が気になりそうです。上映会場が狭くて閉鎖的な空間だったら、むずかしいかもなぁ‥‥ まずは、環境のチェックも兼ねて下見に。
会場は明るく開放的。密集もしておらず、これなら長くいても大丈夫そうです。
しばし見ていたら、画面が暗転。画面が切り替わりました。
次に「4」という数字が表れました。ここからがchapter4です。区切りを見極め、頭から見始めました。
4が終わると、1がスタートしました。
映像を長時間見ることへの耐性はあるつもりでした。しかし、限界を感じ始めていました。もう少しで終わりそうという終盤なのですが、この場をあとにしました。
それは、映像がどうのこうのということではなかったように思います。立ったままで疲れがたまってきたこともあったと思います。(ソファに座ることに抵抗があったから。再訪時は、除菌シート持参でいきました。)
5-5 見続けることができない映像
何を表現しているのかわからない状況で、見続けることへのストレスが、一番、大きかったと思います。再訪時は、それぞれのchapterの概要は把握していました。再度見ていてわかったことは、一つの場面が長すぎるのです。
最近はテンポの速いカット割りのテレビ映像に慣れさせられています。次の場面への移行の尺が長すぎるのです。そしてその場面で繰り広げられるエロティックな行為が、助長してしまうというか、お腹いっぱいで、もういいよ状態になっていました。2度目は、見ている自分を客観視できたり、周囲の状況や、作品の構成などにも、目が向くようになっていました。
入れ替わり立ち代わり、ギャラリーがやってきます。センシティブな場面を一緒に見るという、ちょっとした気まずさを繰り返します。それが男性だったり、おじさまだったり。しばし佇まれると、この人とこの場面を、ずっと、一緒に見続けなければならないという妙なプレッシャーも(笑)
5-6 見ている人ウォッチング
しかし、次第に、行き交う人の反応が面白くなってきました。画面の前に立ち、いきなりきわどい画像との遭遇。その時のリアクション。お子さんづれが入ってくると、すかさず、スタッフが駆け寄ってきます。そしてごにょごにょ親御さんに話しかけます。そして、親子はおもむろに会場をあとにしていくのです。
「別に構わないです」と言って、子供に見せちゃう親はいないのかなぁ… 幼い子が、この手の映像を見たら、どんな反応をするのか。興味が沸いてきました。
▲この映像の前でしばし、佇んでいた親子がいました。子供は「草食べてる。おいしいのかなぁ‥‥」と言ってあとにしていきました。
6■生殖はどう表現されたのか?
この映像を、全て最後まで見る目的は、シダとヒトの生殖のシーンをどう表現するのかを確認するためです。
6-1 茂みの中に隠れて
ヨコトリ2020のサイトで、アーティスト紹介に使われていた映像が流れました。
その後、茂みの中に隠れてその行為は行われているようです。男性は見え隠れしていますが、現場の様子はわかりません。
6-2 シダの若芽のゆらめき
小刻みにシダの若芽がゆれ動きました。その動きで、行為を表現していました。
6-3 暗転でブラックボックスに
そして暗転しました。日本の性表現の規制では映すことができないという結末。
再度、暗転しました。そして・・・・
結局、シダと人間の交尾(有性生殖と無性生殖は交尾とは言わないようです)生殖の部分は、背後から映されてわかりませんでした。また核心の部分(?)は、暗転によって確認ができませんでした。
暗転の中では、どのような表現がされていたのでしょうか?
6-4 シダを食べる行為の裏側
行為のあとでしょうか? シダを食べ始めました。
しばらく、むさぼっています
じっと、その様子を見つめていました。シダを引きちぎり、口に頬張りむさぼります。口に頬張ってはいるのですが・・・・ 飲み込む様子はありませんでした。
それに気づいたあとは、ずっと、喉元を見ていました。最後まで、飲み込むことはありませんでした。
「シダを食べてる!」この映像を見ていたら、そう思わされてしまいます。しかし、頬張った葉は、飲み込まれることなく終わりました。
6-5 文脈を伝えるためのもの
この時、ふとよぎったことがありました。ここに登場する男性たちは、シダに欲情する性癖を持つ「クィア」だと思って見ていました。
しかし、食べていないという現実を目の当たりにし、彼らは演じていた。特殊な性癖を持つ人だと錯覚をさせられていたことに気づかされたのです。すると台本があり、カメラアングルがあり・・・・ということが、急に見え出してしまったのでした。
植物に愛を感じる性的マイノリティーの存在、その相手は、雌雄を持たない無性生殖の原始植物。「種」や「時代」をはるかに超えて愛し合う人たち。そうした愛の形もあることを伝えるという文脈。それを提示するために制作されたフィクション・・・・
当初、プロフィールでチラ見した作品画像から、アーティスト本人が登場し、自身の性癖を作品にすることで、マイノリティーからの主張、社会へ問うというコンセプトなのだと想像していました。
「アートにはまやかしがある」「私は嘘つきだ」 ボルタンスキ―が語った言葉です。現代アートは、文脈を伝えるために嘘をつくことを知りました。
⇒関連:〇(追記:2019.08.11)地下1階の休憩コーナー 紹介映像
最初は、すっかり騙されていました。しかし「シダ、食べてないじゃん」という事実を目の当たりにした瞬間、これらはすべて、文脈のための作り事であることを悟ってしまいました。これまであれこれ、考えてきたことが崩れていくのを感じていました。
⇒(*5)■文脈のために創られたアートの世界
7■アートとエロの違いは?
プロット48を見ていて、エロティックな作品の多さを目の当たりにし、「アート」と「エロ」の違いはなんなんだろう。どこで線引がされるのかと、漠然と考えていました。
7-1 プロット48のセクシャリティについて
開幕前日の記者会見で、プロット48のセクシャリティーの表現について質問がありました。セクシャリティーを扱った作品が多いと感じられたが、何か考えはあったのか?
それに対するラクスコレクティブの答えです。
「展覧会を通じて探ってきたことは、考える、思考する、それによって現れる実感、実体験とリアルとの関係性でした。そして考えるだけでなく、そこから呼び起こされる身体、存在に取り組んでいます。これらを色濃く感じられる作品が集まっているのがプロット48」
「生きる、生存するという問いただしの中から現れる新しい身体と、思考することを通じて、関係性と宇宙観そのものが立ち現われる作品ばかりを集めた一画である」と。
7-2 作品解説から
改めて作品解説を見てみます。
「クィア」という言葉、はじめて知りました。
これらがたどるのは、種を超えてまじわされる、ホモローグでエロティックな、もう一つの性交の系譜。
ホモローグ:「ホモ」「ヘテロ」の「ホモ」由来のワードだと思っていたのですが、違うようです。数学の用語らしいのですが、よくわかりません。トポロジーとも関係があるらしい・・・
⇒ホモローグの意味・用法を知る - astamuse
⇒なぜhomologousをホモローグと表記するのか | サラリーマンのすらすらIT日記
7-3 命の継承
ー絶滅ではない最後を探ろうー
ー別の種と交わる快楽によって。
やはりここで伝えたかったことは、命の連鎖、生存競争、生き残りのためには、別の種とも交わってでも、生き残りをかけて命をつないでいくという選択もあるということ。そこには快楽も存在している・・・・
しかし、自然の摂理には、それを許さない仕組みが組み込まれているのです。
この樹形図を知っていると、交わって快楽を得ることはできるかもしれませが、次世代に命を引き継ぐことは、理論上できないことがわかります。自然科学の法則との齟齬にぶつかってしまうと、受け入れられなくなってしまいます。それが私の思考であり、ものごとの受け止め方、そして性癖なのかもしれません。
7-4 シダは、かつて有性生殖をしていたものがいた
ところが、シダの生殖について調べていると、面白いことがわかりました。
無性生殖で知られるシダですが、日本のシダの13%は、かつて有性生殖だったというのです。一度、有性生殖となり、無性生殖に戻った種が13%ということに驚きました。
無性生殖とばかり思っていたシダですが、生き残りのためでしょうか? 形態的・遺伝的な変異の大きい進化を繰り返していたのです。そして、今も、無性生殖を行うシダの中には、比較的近縁の有性生殖を行うシダと交雑し、有性生殖の遺伝的な形質を取り込もうとしているということが研究がわかったと言います。
⇒*6■進化は進むだけでなく後戻りもする
7-8 交雑は悪? 生き残り戦略
生態系の維持、遺伝子の攪乱ということが話題となり、交雑が問題になります。外来種や交雑の問題は、ちょうど興味を持っていたテーマです。今回の展示にも、それにかかわるものがありました。(⇒■ヨコハマトリエンナーレ2020:インゲラ・イルマン「ジャイアント・ホグウィード」を見て)
遺伝子が交わることが悪とは限らないという考え方があることを知りました。
上記では、生き物との共生の考え方として、遺伝子をやりとりすることで、安定した進化を繰り返すと語られています。
「自分たちで環境を維持してしか生きられないことを考えれば、もっと丁寧に世界をつくっていかないと長くは保てない。その第一歩は地産地消。地域ごとに自立した地方分散型社会をつくり、緩やかにつながる。生物学的には『メタ個体群構造』というが、たまに交流して遺伝子をやり取りすることで、全体として安定した進化を繰り返す。人間社会も一緒ですよ」
遺伝子が交ざってしまう交雑は「悪」のように扱われがちですが、生き残りの戦略でもあり、一面的に見てはいけないことを理解しました。
以前から興味を持っていた、生態系や外来種の繁殖、遺伝子攪乱。是か非かではなく、いろいろな考え方があり、まずはそれを知ることから始めようと思っていたところでした。そこに《シダ性愛》とのめぐり合わせがあり、新しい「知」との出会いがありました。
自立した地方分散型社会を作り、緩やかに繋がる。生物学的に『メタ個体群構造』という。たまに交流して遺伝子をやり取りし、全体として安定した進化を繰り返す。プロット48《シダ性愛》は種を超え、生殖の仕組みも超えた無性生殖と有性生殖との交わりは成り立つのか?交雑という社会問題と重ねていた。 pic.twitter.com/jcD37t63c1
— コロコロ (@korokoro_art) 2020年8月13日
7-9 アートは考えさせて、新たな知見をもたらしてくれる
プロット48の一連の、エロティックな作品を見ていて、これらの作品は、エロビデオと、どこが違うのか・・・・と考えていました。見る前から、問題を投げかけ、考えさせてくれていたことが大きな違いかもしれません。
そして現代美術は、今の社会問題を内包していると言われるとおり、聞いたことはあるけども、よくわかっていなかったことや、新たなワードとの出会いがありました。そこからまた、新しい世界が広がっていきます。
「クィア」「クィアネス」「ホモローグ」「ホモフォビア」「ヘテロセクシャル」「コスモロジー」「カニバリズム」
性的マイノリティーの問題に目を向けさせてくれるきっかけを与えてくれました。
そんな作者、ジェン・ボーはどのような人物なのでしょうか?
8■ジェン・ボー(鄭波)について
生まれ:1974年 北京(中国)
拠 点:香港
経 歴:
1999年:アメリカ・マサチューセッツ州 アマースト大学
コンピューターサイエンス学部を卒業
2005年:香港中文大学の修士課程
2012年:ロチェスター大学ビジュアル文化学の博士課程を修了
2016年:上海ビエンナーレ、
2018年:台北ビエンナーレ、マニフェスタ12等の国際展に参加
2019年:京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAで個展を開催。
実 績:アーティストと並行して研究者 文筆家として活動
手 法:地域の歴史についての緻密な調査から出発するリサーチをベースとし未来を想像。社会的に周縁化された集団や雑草などを用いて、史実や社会現象などから未来を考察。
作 品:映像やテキスト、庭といった形態を用いる。学術的かつ重層的な構造を持つだけでなく視覚的な美しさもあわせ持つ。より良い生態学的未来とすべての種における平等を考えるための新作インスタレーションが披露される。終末へと向かう今日の世界の、生態学的問題について言及する作品。
本 展:台湾と日本でのリサーチに基づく、クィアな植物と人々との交流を描いた「Pteridophilia(シダ性愛)」と題したシリーズを発表する。
9■ジェン・ボーに関する記事
10■調べたり考えたりしたこと
上記の記事から、作品や作家周辺の情報を見て、わからないことを調べたり、考えたり、感じたことを列記
10-1 シダを食べることが意味するのは?
台湾においてシダは、原住民にとって食用として重要視された植物でした。ところが、戦時中、戦後と、日本、中国が食糧難に備えて食用植物として用いました。つまり支配下におき、台湾で珍味で食用として利用されていたシダを、奪ったということになります。
男性がむさぼるように食べるシダは、植民地支配を意味し、さらにカニバリズム的な(人間が人間の肉を食べる行動や習慣)欲望が垣間見え、それはレイプに等しいと言います。欲望のままに相手を食い尽くしてきた歴史に重なるという解釈ができると言います。
ZHENG BOでは、「クィアの彼らは先住民族によって評価されますが、日本の入植者や民族主義者によっては評価されません」とあり、シダを愛するという個性は、民俗によっても受容の違いがあることがわかります。
実際の映像では、食べてはいませんでした。そこで「食べる」ということの定義を調べてみました。下記では「食べる」を哲学的にとらえていました。
ここでも、答えのない問題を考えることの重要性を説いていました。
10-2 無性生殖の胞子体、シダを用いることについて
オス・メスのない胞子で増えるシダ。そこには「支配者vs被支配者」で表される「男性vs女性」というジェンダーの支配図式から逃れることに成功したと語られています。男と女という性を超えたところでとらえるためのシダ。
異性に対して性的感情を抱くことが一般的とされる規範の中で、ヒトとシダという「種」を超えた新しい性愛を提示。
10-3 暗転について
有性生殖と無性生殖の結合をどのように描いたのかについては、暗転させられてしまったことに残念な思いを抱いていました。
一方、この暗転を違う意味で残念なこととして語られていました。
その対応は、表現の規制や炎上を考慮し「リスク回避」を優先させた処置と思われること。その背景に、ホモフォビア(同性愛、または同性愛者に対する恐怖感・嫌悪感・拒絶・偏見、または宗教的教義などに基づいて否定的な価値観)もあるのではないかとのことでした。
そして、その判断は誰が下しているのか。その経緯がブラックボックス化して、暗黙のうちに決まってしまったことを問題視されていました。
参考:ジェン・ボー「Dao is in Weeds 道在稊稗/道(タオ)は雑草に在り」:artscapeレビュー|美術館・アート情報 artscape
10-4 エコ・クィアを描く
ジェン・ボーは、作品のビジョンを「エコ・クィア」(クィアな植物とクィアな人間の密接な関わり)としました。
参考:新たな公共性へと思考を促す「エコ・クィア」なビジョン。はがみちこ評 鄭波(ジェン・ボー)「Dao is in Weeds」展|美術手帖
このあたりの意味が、よく理解できません。「周縁性」が意味するものは?
「周縁性」とは・・・「周縁」に接尾辞「性」がついたもの・・・・
「周縁」とは‥‥もののまわり。ふち。
なんだか堂々めぐりをしているようです。
参考:クィア・エコロジー という言葉もあるようです。同義でしょうか?
周縁性関連⇒中心と周縁 | 現代美術用語辞典ver.2.0
これから、少しずつ読み解きます。
10-5 一元論的世界観
人間と植物がまぐわう壮大なコスモロジー(宇宙の起源、進化、そして最終的な運命の研究)。それは、それらの間に境界がなく等価である一元論的世界観
引用: 新たな公共性へと思考を促す「エコ・クィア」なビジョン。はがみちこ評 鄭波(ジェン・ボー)「Dao is in Weeds」展|美術手帖
「一元論的世界観」この一言で、やっと「エコ・クィア」の世界観が理解できたように思いました。
一つの実体から現実が成り立っていると主張する形而上学の諸学説を指した用語
正確な意味は、理解できていませんが、感覚的な、物事の捉え方の根底の部分が違うということだったのだと理解しました。
これまでの学びの中で「クィア」を理解しようとすると、種を超えた「生殖」は、自然の法則で考えたらあり得ないこと。おこりえないことと捉えてしまいます。
ジョン・ボーの経歴を見直し、自然科学の視点も含んだ作品作りなのか・・・ と
しかし、「多種多様であることの原因をも単一であるものと考える」という物事の捉え方があって、それを元に成り立つ世界観の存在。これまで自分の中になかった物事の捉え方に触れました。
10-6 SEA(Socially Engaged Art)で注目を集める
ジェン・ボーはSEAで注目されたとあります。SEA=海? と思ったら略語でした。
◆SEAとは?
Socially Engaged Art(ソーシャリー・エンゲージド・アート)
ソーシャリー・エンゲイジド・アート | 現代美術用語辞典ver.2.0
アーティストが対話や討論、コミュニティへの参加や協同といった実践を行なうことで社会的価値観の変革をうながす活動の総称
中国では1979年の「星星画会」に始まりました。
エリートとしての仕事を辞め、大学院に入り直し、さまざまなマイノリティに関わったジェン・ボーは、SEAを実践。周縁化されたコミュニティの存在を、聞こえる声にしていきました。
ジェン・ボーは社会的に周縁化された集団や雑草などの植物に注目し、それらを政治的な歴史や過去の事物の調査と結びつける制作を行ってきました。
ここで使われた「周縁化」で意味のニュアンスがつかめた気がします。社会の枠の外に押しやられたという意味あいでしょうか?
SEA は「海」のSEAだと理解して読んでいましたが、Socially Engaged Artの略語。対話や討論、協同で社会的価値観の変革をうながす活動のこと。
雑草などの植物と共生することを示しつつ、今の社会の状況や政治を、歴史も含め考察し、未来を展望してきました。シダと交わる男性たちをモデルとして、人と植物だけでなく、あらゆる生命や事象との共存を投げかけているのではと思われました。
参考:中国におけるソーシャリー・エンゲージド・アートの現在とは? ジェン・ボー(鄭波)によるレクチャーが京都で開催|美術手帖
10-7 EEA(エコロジカリー・エンゲージド・アート)
SEAからEEAへ
2013年 雑草を用いた仕事を始めたが、民主主義の問題よりもずっと、生態学的問題が深刻であることに気づいたそう。
鄭が「エコロジカリー・エンゲージド・アート」(EEA)と呼ぶアートの実践方法で、様々な作品を送り出しています。「EEA」とは、いかなる方法なのでしょうか?
◆EEA「エコロジカリー・エンゲージド・アート」とは?
調べてもその答えは、Webにはみあたらりませんでした。(日本語では)と思ったところに、ジェン・ボーが実践する多彩なアートということなので、それを定義することは難しいのでしょうか? 「必要なのは定義ではなく、開かれた記述だ」ジェンが語っていました。
■《シダ性愛》1~4を見て
種を超えたヒトとシダとの愛の形。愛し合うことはできます。しかし、交配は自然の摂理、法則に基づいて不可能です。そこの部分をどう描くのか・・・・ その1点を見極める目的だけで、2度訪れ、最後まで見ました。
種を超越した愛という理念は語ることはできます。しかし、それを交配、融合という形で実現することはできない。(もしかしたら、暗転した画面に答えがあるのかもしれないけど)
ここに、埋めようのない溝を感じさせられていました。
ジェン・ボーの経歴を再確認。(⇒ZHENG, BOバックグランドより)
・社会的および生態学的に従事する芸術を専門とする芸術家および作家
・Journal of Chinese Contemporary Artの編集委員
・「東アジアの現代美術と生態学」と題された特別号を共同編集
・ロチェスター大学で視覚文化研究の博士号を取得
・中国美術学院現代美術社会思想研究所の関連メンバー
・芸術と文化の発展における優れた業績に対する表彰
・コンピューターサイエンス学部、生態学的問題へ言及。
・プロジェクト:雑草プロット 雑草コモンズ
「weed=雑草」という言葉選びに、眼差しの違いを個人的に感じさせられました。「雑草という名の植物はない」という、植物学者牧野富太郎や、昭和天皇の有名な言葉があります。
植物を尊重し、その交わりを説くのであれば、「雑草」という十把一絡げな総称を使うのだろうか?(と思ってしまうのは、日本的な感覚なのかもしれません。また変わりとなる言葉もわかりません・・・)
⇒ZHENG BO 植物性ワークショップ
植物がどのようにセックスするかについては話しません(ダーウィンを読むことができます)
私たちは植物がどのように私たち人間とセックスすることができるかについて話します。
しかし、そのあとの話は、洒落も意図されているとのことで、私には理解ができない世界の話でした。
これは、相入れることのできない思考の違いという「毒」なのだと思いました。
⇒*8
しかし、最後、救いとなりそうなの言葉もありました。「一元論」という言葉です。この言葉の中に、このような捉え方があることを理解できるヒントがありそうな気がしています。今後のお楽しみ・・・・
このような、今ならキャッチできそうな、未知の世界との遭遇が、展示作品の中にありそう・・・と思うと、可能な限りコンプリートしたくなってしまいます。
■【追記】2020.08.22 シダは有性生殖が基本だった! のですが・・・・
上記の中で気になる記載がありました。
ジェンは、権力、統制、服従といったものが、政治、性愛、生態学にどのように現れるのかをシダを通して探っていました。シダは、胞子が発芽して形成される前葉体で受精することによって増えます。
前葉体? 受精? これまでシダは無性生殖で、受精はしないものと思っていました。た。調べていると・・・・
シダ植物が有性生殖をすることの解説動画です
シダは、通常は有性性生殖で、中には無配生殖をするものがあるということがわかりました。
このような、シダの無性生殖の一種である、無配生殖は、単純な無性生殖ではないと考えられています。有性生殖等のメリット(遺伝的多型を生みだす能力)と、無性生殖のメリット(大量に子孫を残せる)を兼ね備えた生殖様式ではないかと・・・ このようなシダ植物の生殖様式の全貌を解明することによって、種の多様性と生殖様式の進化との関係が明らかになることに期待ができます。
無性生殖のシダを性的少数者全体を包括する言葉「クィア」としていましたが、そのクィアは、さらなる多様性を見せる可能性を秘めていること。生き残りをかけて変化していくのは、性的マイノリティーと言われるLGBTもさらなる細分化、多様性を見せていることにも通じるのかも‥‥
■補足
*1:■ランの花形と色は官能的
エミール・ガレの作品、蘭の花瓶に、雌雄の生殖器が埋め込まれていて、次の世代の命、命の連続性を感じたことがありました。
*2:■《疑似交接》
《シダ性愛》の裏の映像。ラン科の植物と昆虫の関係が映像になっています。《疑似交接》とは、ランがメスに似た形や匂いの花でおびき寄せ、交尾をさせて受粉させます。その様子が映し出されています。
(左)Cryptpstylis subulate(クリプトスティリス・スプラータ)
(中)Cryptostylis leptochila(クリプトスティリス・レプトキラ)
(右)Cryptostylis erectra (クリプトスティリス・エレクタ)
左のランは(初見、食中植物のサラセニアだと思っていました。食べられてしまう昆虫、から、カマキリや、食べられてしまうシダなどの関連を考えていました。)男性シンボルそのものだと思ったのですが、メスの形態に擬態?しているようです。
下記解説をもとに、植物の確認をしました
日本語表記では検索できない⇒学名で検索
①Cryptpstylis subulate(クリプトスティリス・スプラータ)
➁Cryptostylis leptochila(クリプトスティリス・レプトキラ)
③Cryptostylis erectra (クリプトスティリス・エレクタ)
ランという植物が持つ妖艶性は、生殖という機能を巧みに利用して、おびき寄せ生存をはかっている生態とも関連していそうです。
*3:■のんびり過ごす島時間のはずが・・・
島に渡って、時間に追われず、ゆったりのんびり、気の向くままの時間を過ごすという滞在。そう思って訪れた2006瀬戸芸でした。現実はちょっと違いました。その経験をふまえつつ、抑えるべき交通手段や、外したくない展示は確保。二の手、三の手も並行して考えつつ、流動的なゆるさの緩急も合わせたプランニング。
交通手段が整っていない地域へ訪れる時の、緻密なプラン作り。そんな経験の積み重ねが、結果、緩さももたらしてくれることがわかってきました。
夏休みの計画立てるのも好きだったなぁ‥‥ 結局、立てて終わるのですが
*4:■寝ない3歳の娘が放つ哲学的な言葉
母親に寝ないことを怒られた3歳娘 その後の『哲学的な発言』に、耳を疑う
「人生が楽しい!こんなにも楽しい!寝たら寝た分だけ減ってしまう!人生が!」
それに通じるものがあるような・・・・ 芸術祭は、通常モードの展覧会とは違う気がします。よくわかりませんが、わからないなりに、そこには、何かが潜んでいるような気がするのです。その時、わからなくてスルーしてしまっても、未来の自分に投げかけてくれる何か・・・
そう思うと、逃したくない。あの時に見たあれ。あのワード。その時のフックがなくても、あとで響いてくる、そんなめぐり合わせを逃したくないのかも・・・・ 今、この時に、見ていたら・・・ この瞬間を大事にしたいのかもしれません。
*5:■文脈のために創られたアートの世界
(*23)■(2020.07.06)スピナーは自作品でなく既製品だった
(*26)■(2020.07.08)カタログ製品であることは折り込み済みだった
*6:■進化は進むだけでなく後戻りもする
進化は、進むものと思いがちですが、一旦は進みながら、戻ることもあります。それは、クジラの肺の進化で疑問を持って調べた時にわかったことでした。進化の流れからするとクジラに肺があるのはおかしい。と思ってわかったこと。クジラは、一度、陸上に上がっていたのです。しかし、また海に戻り、肺はそのまま残ったことを知りました。
⇒関連: 〇(追記:2019.07.27)鯨は世界の起源を知る生き物
美術の歴史も同じなのかもしれません。新たな価値観を創造していますが、それが進むと、過去への揺り戻しが起きます。歴史や進化の共通性が見えます。
*7:■南方熊楠の粘菌と同様の捉え方か?
粘菌とは、オスメスのない中性的なもの、そして、動物でも植物でもない。そんな粘菌がに興味を持っていたことに通じる気がしました。
熊楠は粘菌のしめすこの「中間性」に着目しました。生と死は分離できない、生死は相即相入している。熊楠はこういう粘菌を「生きた哲学概念」として立てることによって、生命の実相に迫ろうとしました。
引用:人類はまだ天才「南方熊楠」の思想にたどり着けない〜現代人が見習うべき唯一無二の思考法(中沢 新一) | 現代新書 | 講談社(3/6)
*8:■出自によって受け入れられること、受け入れられないこと
結局、同じ話を見ても、どのような人が、どのような観点から語っているかに注目し、その立場や、語るバックボーンによって、受け入れられたり、受け入れられなかったりしていることがわかりました。
それは、語る人、その背景によっても捉え方が変わることが見えてきました。
今回、ソースが提供され、独学をする時にも感じていたことでした。ソースは、「どんな人が」「どんな立場で」「どんな媒体に」「誰に向かって」「何を伝えるため」に書かれたものなかを確認していました。その確認をするのに非常にてこずり、時間を要したソースもありました。
自由な連想や解釈をするにも、まず、そこが確認できないと、どう受け止めたらよいかが判断できないのです。
「人体ちくわ理論」という考え方も、東洋医学の方が語るなら受け入れられます。ところが、西洋医学の方が語ると受け入れられません。
右脳左脳・・・それを語る人の思考の基盤がどこにあるかによって、同じ科学畑でも受け入れられるかどうかがわかります。語る人のベースがどこにあるのか・・・・
アート作品も、アーティストの背景によって、扱うテーマを受け入れられるかどうかが変わってしまいます。
ジェン・ボーの視点や基盤はどこに?