サントリー美術館の「オルセー美術館特別協力 生誕170周年 エミール・ガレ展」に行ってきました。
5月の庭園美術館で行われた「ガレの庭 花々と声なきものたちの言葉」展に2回、訪れていたのですが、それを書き留めることができないままとなり・・・・その分も合わせての記載になります。その後、ポーラ美術館でも、ガレの作品を見て、今回のサントリーのガレ展も、2回、訪れました。
- ■音声ガイド
- ■構成
- ■脚付盃《蜻蛉》(1904年)
- ■ロレーヌ十字とガレ
- ■ランプ「ひとよ茸」
- ■花器「カトレア」(1900年頃)
- ■カトレアは何を表しているか
- ■【追記】(2016.12.18)日本画におけるラン
- ■【関連】エミールガレ
■音声ガイド
サントリー美術館の音声ガイド、なかなかすぐれものです。最近、美術館で携帯を使った案内がされていると聞いたことがあったのですが、音声ガイドをスマホのアプリとしてダウンロードし、館内で聞くことができます。
しかも、ダウンロードしたものは、エンドレスに聞くことができるとのこと。再度、訪れた時は、その音声ガイドを再生することもできます。自分のヘッドホンを使って、音質のよい状態で聞くことも。「音声ガイド」のヘッドホンも、自分のヘッドホンに切り替えて聞いてもいいそうです。音源がヤマハなので、音質もとのこと。ただし、途中で展示替えがある場合は、前半のアプリはすべて無効となってしまうそうです。
そして、ガレ展ならではのお得情報。サントリー美術館のメンバーズクラブは、とてもお得感がいっぱいです。会員になると、休館日に内覧会招待があり、学芸員のレクチャーが行われます。そして、同伴者1名無料が、この内覧会にも適用されます。最初の見学は、友人のメンバーズカードで、同伴者として参加し、レクチャーも受講させていただきmした。日記の内容は、そこでの解説も含まれています。
今回のガレ展の期間中に入会すると、音声ガイド利用券がつくという特典があるそうです。今後、行われる企画でも、音声ガイド利用券の発行を継続するかどうかは、わからないとのことなので、入会を考えていて、ガレに興味があるなら、今がチャンスです。
■構成
Ⅰ章「ガレと祖国」
Ⅱ章「ガレと異国」
Ⅲ章「ガレと植物学」
Ⅳ章「ガレと生物学」
Ⅴ章「ガレと文学」
エピローグ「ガレと究極」
ちなみに、この構成を考えるにあたり、タイトルの最後の文字が「く」の韻を踏んでいる・・・・というのがひそかなこだわりだと企画をされた学芸員さんのお話しでした。
■脚付盃《蜻蛉》(1904年)
今回、見るのを楽しみにしていた作品です。最晩年と言われる脚付杯「蜻蛉」大切な人に向けて、5個、形見として制作したと言われています。「サントリー美術館」所有品を見ることができたので、「大一美術館」「北澤美術館」と3館の作品を見ることができました。
サントリー作品は、これまで見た私の一番に、食い込むことができるか・・・・と思いながら、訪れていたので、一番、最初にこの作品が展示されてしまうと、本命がいきなり登場! の感が否めません。ガレの究極の姿として、エピローグの作品群の一つを、初っ端に提示して、どうだ! これがガレだ! と見せつけてしまうという展示のようです。
個人的には、楽しみにしていた作品だったこともあり、ガレのいろいろな作品を見てから、最後に最晩年の集大成の作品として、じっくり見たかったなぁ・・・・というのが本音・・・・
でも、真田丸の展示でも、最初に、これが真田信繁だ! と見せる手法がとられていたり、国吉康雄展でも、晩年の作品と初期作品を先に見せて、画業の変遷を知らせ、概要を伝えるという手法がとられていたので、晩年作品を最初に持ってくるというのは、最近のトレンドだったりするのでしょうか?(笑)
●蜻蛉の姿はガレ
●サイン
ところで、上記の言葉がどこに刻まれているのかがよくわかりません。「うちふるえる蜻蛉を愛する者 これを作る」という言葉が、この作品の中に刻まれているのかどうか・・・
今回の図録の記載では、上記の言葉を刻んだ「別名品を作る」とあるのでこの作品には刻まれてはいないと考えられます。
前回のサントリー美術館のガレ展でも、蜻蛉文を付したある作品に、「うちふるえる蜻蛉を愛する者 これを作る」との冒頭の銘文を彫っているとの記載 ⇒ここ
つまり、この言葉が、サントリー所蔵の 脚付盃《蜻蛉》 に刻まれているように理解してしまったのですが、そういうことではなく、他の作品に刻まれていて、それくらいガレは、蜻蛉が好きだったんだよ~ということが言いたいということのようです。
そんな勘違いをしてしまった原因がこれだったと判明
蜻蛉の反対の側面に彫られた「Galle」の文字、よく見ると「G」は蜻蛉を象った飾り文字になっている。「うちふるえる蜻蛉を愛する者」ガレの蜻蛉への思いがここでも伝わってくる。
ところで・・・・
今回のガレ展では、「ガレのサイン帖」というコーナーがあり、作品に刻まれたサインの拡大写真とともにまとめて展示されています。
そこで、脚付盃《蜻蛉》の蜻蛉を模したという ガレの「G」の文字を確認しようと思ったのですが、この作品のサインの展示がありませんでした。どんな「G」の文字だったのか、拡大図で確認してみたかったです。作品でみたのですが、よくわかりませんでした。
●私のお気に入り《蜻蛉》は?
●誰がみてもわかりやすい作品
今にも、果てそうな蜻蛉の姿というわかりやすい大一美術館作品。よくわかっていない時は、見てすぐわかることにポイントが置かれるのですが、この作品が、最晩年に作られたものであることや蜻蛉の意味を理解してしまうと、マーブル模様の感じとか、他の部分にも目がむくようになります。
脚付盃《蜻蛉》の一連の作品は、大型タイプと小型タイプがあり、大型タイプには、盃と台の間に一段、リング状の装飾があるとの記載が、庭園美術館のガレ展の図録に書かれていました。今回、サントリー作品を見て大型タイプというのは、これのことだったのか・・・と判明。
●形見としての作品
北澤の研究企画員の方のお話しによると、形見として5つ作られたというようなことが言われるけども、そのようなことはなく5つ以上、他にもあるとのこと。また、どの作品が一番と言われたりするが、そういうこともない。その時に、大型タイプ、小型タイプのお話しがあったような記憶がうっすら・・・そして、それぞれの作品に対してメッセージというものもない。とのお話しでした。
ガレの作品を扱っている画廊の方にお話を伺ったとこもあるのですが、ガレの蜻蛉の盃は、他にもあって、たまにだけども出ることがあるとのこと。マーブル模様は、基本の設計があってそれに伴って作られているけども、それぞれの違いは、偶然の産物ではないか・・・・とのお話しでした。
しかし私は、もし、それぞれの親しい人に向けて贈ったということが事実なら、きっと、ガレはメッセージを込めているのではないかな・・・と思うのです。とりあえず、5つ作って、適当に渡すということは考えられず、贈る人を想定しながら、制作するはず。大型で飾りのリングを入れた作品があるなら、それはきっと何か意味のあることだと思うし・・・・メッセージを込めていた。そう思いたいです。
■ロレーヌ十字とガレ
ガレは、フランス・ロレーヌ地方に生まれます。ロレーヌ十字とは、キリストの礫刑の際に十字架の上に罪状を書いた短い横板を取り付けたのが元の形とされており、ロレーヌの紋章です。
もともとは、フランスを侵略者から奪還する戦いで有名となった、ジャンヌ・ダルクの象徴とみられていたのですが、1871年から1918年の間、ロレーヌ地方は、ドイツに併合されます。この地域は、交通上恵まれた位置で、豊かな資源を有していることもあり、外国の敵対勢力に攻められました。そこから抵抗を表すために、シンボルとして使われるようになったのです。そして、ロレーヌ十字はフランスの象徴であり、愛国心の象徴となりました。
戦いが絶えなかったという歴史を持つロレーヌを愛したガレは、その地域の象徴「ロレーヌ十字」を作品の各所にちりばめました。それが意味することは・・・
「外国製でない、フランス製でも、パリ製でもない、
自分が愛するロレーヌ地方で作った」
という意味が込められています。
●国吉の《鯉のぼり》に「ロレーヌ十字」?
それは《鯉のぼり》という作品の右上の数字「4」の部分です。
○《鯉のぼり》 ⇒出典
遠目に見ると、背景のグレーのムラが、4の上に横線が引かれたように見え、4の斜めの部分が細くて薄いため見えにくくなっているので、ロレーヌ十字に見えるのです。
祖国を愛する気持ちを表すシンボル的に描いた。国吉の祖国への思いを、ロレーヌ十字に託したのかも・・・・と思っていたら、それは数字の「4」で、「July 4=独立記念日」だと知り、そのまま流していました。
しかし、改めてロレーヌ十字の意味を知ると、もしかしてもしかしたら、数字の「4」を描きながら、ロレーヌ十字にも見えるように意識して描いていたかも・・・・なんて思ったり。
祖国を愛する・・・・という気持ち。それは日本に対してなのか、アメリカに対してなのか 含みがありますが、フランスへ愛国心を表しているというそのままの意味で考えたら・・・
レオナールフジタのことを思い浮かべて、ここに込めていると解釈することができるのではないかと・・・・国吉はアメリカという国で苦労し、フジタもフランスで苦労しました。お互い行き違いもありましたが、晩年を迎える時期にきて、お互い異国の地で、祖国との間に挟まれ、苦労したよな・・・・という共に戦った同志としてのねぎらいの情とともに、フジタのことを思い出しながら、日本を思っていたのでは? と・・・
かなり、自分都合の解釈ですが(笑)作品の見え方、理解のしかたというのは、見る人の見たいように見えてしまうもの。意味付けも、いくらでもできてしまう・・・とガレのロレーヌ十字を見て、改めてから感じさせられていました。
○ロレーヌ十字とガレ作品 ←ロレーヌ十字が刻まれているガレ作品群
○その他の《鯉のぼり》(国吉康雄) ←右上の「4」の数字がロレーヌ十字に見えませんか?
■ランプ「ひとよ茸」
●4つあったランプ
それよりも、それぞれの美術館の思惑がからんで実現は無理そう・・・・(笑)
●6つ説が有力?
●一番の《ひとよ茸》作品はどれ?
ネット内で、いろいろな方が語られているのですが、その時に感じたのは、それぞれの美術館の方は、「自分たちが所有する作品が、一番だと思っている」という強い意識を持たれているのだなということでした。今回図録を見直したり、学芸員さんのお話しを聞いたりする端々に、さりげないアピールが感じられます。やはり「我が家が一番!」という自信は大切なのかもしれません。
●巨大化したキノコではなく・・・・
今回、実物を見てふと思ったのは、きのこを巨大化させたのではなく、自分が、小さくなって森の微生物、分解者の目線となって、ひとよ茸を見た作品ではないか。命の終わりを意識し始めた時、自分も土に返ることを考えたガレ。その時に、土中の小さな微生物に思いを馳せ、その目線でひとよ茸をとらえた作品ではないかと思いました。
ランの研究について書かれていたパネルに、顕微鏡をのぞいてランの研究をしていたという記載がありました。ミクロの世界をガレは、体験していたわけです。もしかしたら、80㎝というひとよ茸のサイズと、分解生物のサイズ比があっていたりしたら面白いなと思いました。
ガレが作品に込めたのは、「生と死」「自然の摂理」「輪廻」「はかない命」と言われています。腐った樹木や朽ち果てた木々は、ランプの土台、黒い鉄で表し、その中に潜んでいる、小さき命の目線で森をとらえたのだと。
ガレが好きで、工場の扉に掲げられていたという言葉とも一致します。オランダの生理学者ヤーコプ・モレスコット(1822-1893)の一節
「わが根は森の奥底にあり」
キノコが大きくなろうが、自分が小さくなろうが、結局は同じことなのかもしれません。
が、ひとよ茸を見下ろしたまま、小さなひとよ茸が巨大化したランプなのではなく、自らが小さくなって、ひとよ茸を見上げる目線で作ったのではないかなと。
●作品名はどうやってつける?
先日のメアリーカサットの作品の中にも、途中で作品名が変わったものがありました。
日本語で「ひとよ茸」をどう表記するのか・・・・いくつか考えられます。
・ひとよだけ
・ヒトヨダケ
・ひとよ茸
・一夜茸
ひらがな、カタカナ、漢字、混合 いろいろな表記が考えられる中、《ひとよ茸》をあてたのは、どうしてなんだろうと思いました。
それは学術上の動物植物は「カタカナ」で表すというールのようなものがあると聞いたことがあったからです。
参考 ○動物や植物の名の表記。カタカナ、ひらがな、漢字、などその基準は?
(NHK放送文化研究所)
動植物名を、学術的名称として使う場合には、
カタカナで書くことになっています。例えばバラ科サクラ属。
今回のテーマの柱にも、ガレの究極の柱として植物学を上げています。学術的にも非常に価値のある作品であることが、ガレの特徴です。
ガレの作品と植物学については次のような言及がされていました。
ガレの作品の草案や素描は、単なるデザインのための絵画でなく、博物学的細密画「ボタニカル・アート」としても成り立つほどの写実性を兼ね備えている。
ガレは単にこれを植物学的に写したのではない。「学術的に再現された博物学の記録、資料は、どれほど精緻なものであっても私たちを感動させるものではない。」なぜならそこに、人間の魂がぬけ落ちているから
これまで、ガレはそういうアーティストであることを理解していたつもりですが、「ガレと植物学、生物学」というテーマ設定された展示で、それを再確認させられました。
それだからこそ、日本語表記も、学術的なルールにのっとった表記をしてほしいと思ったのでした。
もしかしたら、学術的価値から、芸術作品という昇華された状態なので、「ひとよ茸」という表記が選ばれたということでしょうか?
●鳥獣戯画を参考にしたひとよ茸?(推察)
今回、解説に数日で、朽ちるとあり、あれ? 1日ではないんだ・・・と思ったことから、カサが解けてインクのよう液体につつまれた胞子を放出するのが1日で、成長は、数日の時間がかかり、作品はその凝縮だったと理解し直すことに。
ということは、この手法、日本画の鳥獣戯画で表現される、時間の経過を一つの画面に押しこめる手法を用いていたとにならない?と思ったのでした。
●どこが正面?
自然界において、キノコは、どっちから見るなんてないわけなので(たぶん)、どこから見ても、それなりにまとまっているように、作ってあるのかも・・・
しかし部屋の4隅にランプとして置くことを想定されていたとなると、方向性はあったと考えられるわけですし・・・・
ガレのみぞ知る?
想像する楽しみを残した?
ガレ自身にも答えはなかった?
永遠の命として、作品の中から問続けているのかもしれません。
■花器「カトレア」(1900年頃)
●3つのカトレア
●カトレアの花瓶は彫刻? 屏風?
このカトレアの花びらも屏風のような折に合わせて、でっぱたり引っ込んだりさせて、花をより立体的にしていると思っていました。
解説では、屏風ではなく彫刻と表現されていましたが、私には、屏風にガラスを使って立体感のある絵を描いたと捉えています。
●表裏は「生と死」を表している?
●カトレアの花弁にドキッ!
カトレアの花弁を見た瞬間、エロい! グロい!この花そのものが、メスを表している・・・ストレートに言ってしまえば、花の部分は、女性の局部「陰茎」そのものを表してると思いました。
●生殖を作品に描く
ということは、裏には、男性シンボルが表現されているはず・・・・そう思って、北澤美術館の作品をじっくり見ていました。しかし、見つかりませんでした。もう一度、訪れたので再度、確認しました。やはり、それらしいものを認めることができったのです。
そんなはずはない・・・・・ 見落としているのか。絶対にあるはず・・・・そう思ったのは、理由がありました。
■カトレアは何を表しているか
アナロジー(類推:特定の事物に基づく情報を、他の特定の事物へ、それらの間の何らかの類似に基づいて適用する認知過程)を前提とした表現ならば、たとえば「ランの花の形と色はあまりに官能的なので、不安な気持ちすら抱かせる」というガレの言葉には、2つの意味が読めるだろう。『失われた時を求めて』のなかで高級娼婦が胸元につけた「ランを直す」動作が愛の行為を暗示するように、植物にとって花は生殖器であるがゆえに、その形態の連想上にフロイト的解釈が入り込む予知を残す。有名な「ひとよ茸ランプ」にしても原名 Coprinが排泄物を連想させ、デザインが男性性器を連想させる点から、腐敗が生み出す新しい生命の輝き(エロス)と見る解釈がある。
私が、初めてカトレアの花を見た時、「まさに、あれじゃない・・・・」と思ったことは、あながち間違ってはいなかったわけです。カトレアの花そのものを、受粉をするための生殖器として捉ていますが、そこから動物、つまり人の生殖も表したのだと・・・・
だとしたら、その裏には、きっと男性性器が埋め込まれているはず。それは、確信に近いものがあったのです。が、みつけることができませんでした。
●裏面の男性シンボル探し
しかし、それらしいものを見つけることはできないのです。
私の解釈が飛躍しすぎてるのかなぁ・・・・・と思いながら、2回目。やはりありません。そして、帰り際、最後にダメ押し思って、カトレアだけ見に行きました。
今度は、腰を下ろして、目線の高さを変えて・・・・花瓶の端から順番に、少しずつずらしながら見ていたら・・・・・・
ありました! やっと見つけました! こんなところに・・・・
でも、ちょっと、無理無理感があるかなぁ・・・・無理してそのように見ようとしている気がしないではないですが・・・でも、ずっと、この花瓶は「生と死」の他にも、絶対に「生殖」も表していると思ってきたので、最後の最後で、見つけることができて、満足、満足(笑)
(ちなみにランの受粉のしくみは、あの女性部分に見えるところが 担っていて受粉が行われるそうです。 北澤の花瓶のランの方が、より女性の部分に酷似していて、サントリーのカトレアは、なんとなくそう見えるという感じでした)
鈴木先生は《ひとよ茸》ランプも男性シンボルを表わし生命の輝き(=エロス)を表現しているとおっしゃっています。
ということは、ガレは、ひとよ茸ランプに、自分のDNA=男性自身を埋め込んで、永遠に封じ込めたと考えることはできないでしょうか? 今でいうと、精子の凍結保存みたいなもの? なんちゃって・・・(笑)
《蜻蛉》の盃は、蜻蛉がガレ自身で、影はガレの魂が浮遊していると言われています。
《カトレア》では、花弁が生殖器を表していて、表と裏で人の男と女も表現
《ヒトヨダケ》では、男性自身の象徴として、ガレのDNAを埋め込む。
《カトレア》は両面で「生と死」の表裏一体を表していると言われてきましたが、ガレは、それだけではなかった。他にも込め込んだものがあった。その推察を、今回、やっと見つけることができました。
■【追記】(2016.12.18)日本画におけるラン
山下裕二(明治学院大学教授)× 松井冬子(日本画家)特別対談
テーマ:日本画の未来に向けて」六本木アカデミーヒルズ タワーホールにて
松井さんの描かれたアイリスをカトレアと思われた、山下先生の一言。「これ女性性器ですよね」「みなさんにそういわれるんです。肛門と言われることも・・・・」「松井さんの作風から考えると誰もがそう思ってしまいますよ」
もともと、花というのは生殖器で、フロイト的解釈ができる余地を残していると。特にランのような形態はそれを想起させる。花そのものが、そういうイメージがあると考えられ、そんな花の本質的なものを引き出して描いているから、そのように見えるのではないかなと思いました。
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■【関連】エミールガレ
■オルセー美術館特別協力 生誕170周年 エミール・ガレ展:ライティングの秘密
■オルセー美術館特別協力 誕生170周年 エミール・ガレ展 ←ここ
■ポーラ美術館:ガラス工芸 ガラスとことば(メモ (2016/05/17)
■エミールガレ:ヒトヨダケ文花瓶・・・自然の摂理と輪廻 - (2016/02/10)
■大一美術館 エミールガレ 《 蜻蛉文脚付杯》 (2015/08/21)