スラヴ叙事詩の絵は、「どこ」に「何が」描かれていて、それが「何を」意味しているのか。「背景の史実」は? 最初に解説を見ただけでは、どこを示しているのかすらわかりませんでした。絵に番号を振って、それが何かを示し、その絵が何を描こうとしたのかをまとめてみました。
- ■スラヴ叙事詩概要
- ■出典
- ■ 1《原故郷のスラヴ民族》
- ■ 2《ルヤーナ島でのスヴァントヴィート祭》
- ■ 3《スラヴ式典礼の導入》
- ■ 4《ブルガリア皇帝シメオン1世》
- ■ 5《ボヘミア王プシェミスル・オタカル2世》
- ■ 6《東ローマ皇帝として戴冠するセルビア皇帝ステファン・ドゥシャン》
- ■三部作「言葉の魔力」
- ■ 7《クロムニェジーシュのヤン・ミリーチ》
- ■ 8《グルンヴァルトの戦いの後》
- ■ 9《ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤン・フス師》
- ■10《クジーシュキでの集会》
- ■撮影可能コーナーの解説写真(2017.04.07追加)
- ■関連
■スラヴ叙事詩概要
〇20枚の大画面からなる連作
〇最大 6×8メートル
最小 4×4メートル
〇額縁におさまった巨大タブロー
〇制作年: 1910年着手 1928年完成 プラハ市に引き渡し 18年
〇内 容:古代から近代のスラヴ民族の苦難と栄光の歴史
チェコの歴史 & スラヴ民族の歴史
〇テーマ:スラヴ民族の団結、統一、自立を切望する画家の思い
■出典
まとめるにあたり下記の記事を参考にさせていただきました。
〇HPの解説(ミュシャ展)
〇芸術新潮 2017年3月号
【特集】秘められたミュシャ
パリで咲かせた華、スラヴに見つけた星
〇 ミュシャの「スラブ叙事詩」全点の図解 : Art & Bell by Tora
注:対応させてた番号は、解説から理解したものなので図録での確認を・・・
■ 1《原故郷のスラヴ民族》
【制昨年】: 1912年 【時代】:3-6世紀
□ミュシャのメッセージ
スラヴ民族の精神の出発
戦いとともに成長し平和とともに強靭となる
□描かれている場面
スラヴ民族の祖先が他民族の侵入者から身を隠す様子を描いた
常に異民族の脅威にさされた スラヴ民族の精神の出発
□解説・歴史・背景
叙事詩は3~6世紀のスラヴ民族の姿から幕開け。
輝く星空の元(⑥)灌木に身を隠し(⑧)おびえる2人(⑤)はアラヴ民族におけるアダムとイヴ。草の上に落とした鎌⑨だけが身を守るもの。農民の象徴。
後方から燃え盛る炎を背景に騎馬軍団(⑦)が押し寄せる。
常にスラブ民族は、異民族の脅威にさらされていた。
そんな彼らのために神に慈悲を乞う祭司(①)
その両脇の青年(③)と娘(②)は、
「防衛」(③)と「平和」(②)を象徴する擬人像が寄り添う
□解説番号
□絵画解説
①:スラブの宗教者(多神教の祭祀)が神に慈悲を乞う
②:平和象徴する緑葉の冠の娘(平和)
③:武器を帯びた若い戦士 (防衛)
擬人像に支えられる司祭
④:地平線:焼き討ちにされる村
⑤:手前2人:焼き討ちから逃れる2人
⑥:青い星空:青はスラヴの原点を象徴する重要な意味を持つ色
⑦:攻める異民族
⑧:灌木:身を隠す
⑨:草の上に落とした鎌:農民の象徴。唯一身を守るものとして
■ 2《ルヤーナ島でのスヴァントヴィート祭》
【制昨年】: 1912年 【時代】:3-6世紀
〇描かれている場面
1168年、デンマーク王がルヤール島を征服、
神殿や神像を破壊した史実を暗示
〇解説・歴史・背景
バルト海沿岸ルヤーナ島(現リューゲン)アルコナでは、大地の収穫の神スヴァントヴィート③を祀る大きな祝祭が開催されていた。⑥ だが、1168年にデンマーク王ヴァルデマールがこの地域を領土とした際に終止符が打たれた。
〇解説番号
〇絵画解説
①:ゲルマンの戦神トールが狼をひきつれて迫る
②:白馬に乗った瀕死のスラヴ戦士。の背後に・・・
↑(スヴァントヴィトのシンボル)
③:スヴェントビートが若者の剣に手をかける
④:若き木彫り職人 ⇒(芸術が救う)
⑤:スラブ人虜囚
⑥:巡礼者
■ 3《スラヴ式典礼の導入》
【制昨年】: 1912年 【時代】:3-6世紀
〇描かれている場面
ヴェレフラード城の中庭で、王に宗教儀式でスラヴ語の使用を認可する教皇勅書が読み上げられる場面
〇歴史・背景・解説
ビザンティン皇帝は二人の僧侶(兄弟:コンスタンティノス、メトディオス)に、スラヴ語を表記するグラゴール文字を考案させる。聖書をスラヴ語に翻訳させ、それによりゲルマン人司教やローマ教皇を憤慨させていた。スラヴ式典礼を導入し正教会へ傾倒することで、スラヴ人はローマ教皇や神聖ローマ皇帝の支配を逃れることができた。
〇解説番号
〇絵画解説
①:メトディオス:白鬚白髪老人
②:2人の使者
〇 ロスティスティフ先王:兄弟の派遣を求める使いを皇帝に送る
③:スラヴ人の団結を示す輪
④:キリスト教を広めた僧侶たち
⑤:スヴァトプク公:右の王座に座る
⑥:司祭:スラヴ語認める教皇勅書をよみあげる
■ 4《ブルガリア皇帝シメオン1世》
【制昨年】: 1912年 【時代】:3-6世紀
〇ミュシャのメッセージ
スラヴの文学と美術の幕開けを描く。
この時代ブルガリア人はすべてのスラヴ民族の中で最も進んでいた
〇描かれている場面
高名な学者を集め、ビザンティンの文献をスラヴ語に翻訳させている場面。
〇解説・歴史・背景
①シメオン1世(在位888-927)
ブルガリアギリシャの皇帝。ポリス一世の三男。
第一次ブルガリア帝国に全盛をもたらす。
ビザンチン帝国を圧倒。
アドリア沿岸まで領土を広げる。
学者にヴィザンチンの文献をスラヴ語に翻訳。
スラヴ文化を反映へ導く文学の創始者とされる。
〇解説番号
〇絵画解説
①:シメオン皇帝:スラヴ文学の創始者
②:高名な学者:ビザンティンの文献をスラヴ語に翻訳
①:王座シメオンを中心に宮廷の情景をとりあげる。
③:円やハート(チェコの国旗・菩提樹の葉の形)を用い
美しい文様に装飾化としての技量が伺える
■ 5《ボヘミア王プシェミスル・オタカル2世》
【制昨年】:1924年 【時代】:1261年
〇ミュシャのメッセージ
スラヴの連帯を掲げた人物としてオタルカル2世を表現したかったが・・・・
〇描かれている場面
1261年 豪華な結婚式にスラヴ各国の王たちを迎えるオタルカル2世を描く
有能な支配者であり、当時ヨーロッパで最も裕福であったオタカル2世が催した、姪とハンガリー王子ベーラの婚礼の様子が描かれている
(ハンガリー王の息子 3年後の姪とハンガリー王の息子の婚礼を兼ねるという説も)
客人のロシア人、セルビア、クロアチアの君主を歓迎する様子を描く。
〇解説・歴史・背景
〇オタカル2世:(1253~1278)
・ブシェミスル朝ボヘミア(880代~1306年)を支配し、最盛期の王。
・チェコ(ボヘミア)を武力と経済の両面でヨーロッパの強国に。
・農地や鉱山開発で蓄えた経済力を背景に軍事力で領土を拡大。
・ポーランドから北イタリア、クロアチアまで領土広げる
・「鉄と黄金の王」と呼ばれる。
・前年は、強国ハンガリーをやぶる
スラヴの連合を理念に掲げ、ロシアやポーランド、セルビアなどスラヴ民族の支配者や王侯貴族を招いた。
〇歴史
オルカタ2世は、神聖ローマ帝国たらんと野心満々。
(オルタカの目的は征服ではなく各地スラヴ王室の親交を深め友愛と一致による結束をめざしたという記載もあり)
しかし、絶対的権力を持つオタカル2世を恐れたドイツ諸侯は、
スイスの弱小領主、ハプスブルグ家のルドルフ1世を神聖ローマ皇帝に選出。
1278年 ルドルフとオタカルはモラヴィア南部のマルヒフェルトで決戦。
激戦の末、ボヘミア軍敗退、オタカルは敗死。
オタルカルの領土は、ハプスブルグ家・オーストリアにとって代わる。
▼歴史における場所の関係
・ボヘミア=チェコのこと 「ハンガリー」破る
・領土拡大:「ポーランド」から「北イタリア」「クロアチア」
・スラヴ連合:「ロシア」「ポーランド」「セルビア」→結婚式招待
・スイス領主:ハプスブルグ家・ルドルフ一世を神聖ローマ皇帝に
・オーストリア:オタルカルの領土はハプスブルグ家・オーストリアに
・
〇解説番号
〇絵画解説
①:王(壇上の中央)の婚礼と
②:ハンガリー王の息子 3年後の姪とハンガリー王の息子の婚礼を兼ねる
③:ロシア人、セルビア、クロアチアの客人の君主を歓迎する様子を描く。
■メモ
〇左のうなだれた黒い人が私は気になるなぁ・・・
〇ボヘミアンって?(wikipedhiaより)
ボヘミアン(英語)とはボヘミアに由来するもの。
ボヘミアとはヨーロッパのヴルタヴァ川流域の盆地をさすラテン語の地名。ボイイ人に由来。
さらに別の意味
- ロマのこと。北インド起源の移動型民族。移動生活者、放浪者として知られてきたが、現代では定住生活をする者も多い。かつてはジプシーとも呼ばれたが、最近では彼等の自称とされるロマ(その単数形のロム)が使用されるようになってきている。
- ボヘミアン・アーティスト - 芸術家や作家、世間に背を向けた者などで、伝統や習慣にこだわらない自由奔放な生活をしている者。上記のロマの多くがフランスにおいてボヘミアからやってきたことから「ボヘミア人」=流浪の人と考えられた。ボヘミアニズムを参照。
- ボヘミアンクラブ - 世界各地にいくつか存在する紳士社交倶楽部。
- 1982年の大友裕子の楽曲『ボヘミアン』(作詞:飛鳥涼、作曲:井上大輔)。一般にはオリジナルよりも、翌1983年に葛城ユキがカバーしたバージョンが有名。
■ 6《東ローマ皇帝として戴冠するセルビア皇帝ステファン・ドゥシャン》
【制昨年】:1923年 【時代】: 1346年
〇描かれている場面
スコビエ(現マケドニア共和国首都)で執り行われた戴冠式後の行列を描く
〇解説・歴史・背景
〇ステファン・ドゥジャン セルビアの君主(在位1331-1355)
ビザンティン帝国(東ローマ帝国)衰退期に、アルバニアとマケドニアを奪取。
スラヴ民族の領土を南方へ拡げた軍事指導者ドゥシャン。
1346年:復活祭の日、自らをセルビア人とギリシア人の皇帝(東ローマ皇帝)と宣言。
1468年:スコピエの聖マルコ聖堂で即位した。
1349年:「ドウジャン法典」発令 力を発揮
1455年:6年後暗殺
はかないスラブの春
この時期、神聖ローマ皇帝はボヘミアのカレル4世であったため、東西ローマ帝国はスラヴ人によって治められた。
〇解説番号
〇絵画解説
①:先頭にオリーブの枝や花を手にした民族衣装の少女
②:有力者 王の甲冑と剣を運ぶ
③:マントの裾を持つ従者
④:ドウジャン ②と③に囲まれる
⑤:王子や后、司教、貴族、使節団と続く
■三部作「言葉の魔力」
⑦ ⑨ ⑩
〇3幅対の形式で展示
〇ミュシャが「言葉の魔力」と名付ける
〇15世紀初頭、教会の腐敗を批判、焚刑となったヤン・フスを中心
〇その前後の宗教改革のエピソードを描く
ルターの宗教改革に先駆けること1世紀
これらの3部作は、ミュシャ自身が三連作と位置付ける。
3人の「言葉の力」がつながり歴史とチェコの人に大きな流れを引き起こす。
⑦《クロムニェジーシュのヤン・ミリーチ》→ヤン・ミリーチ
⑩ 《クジーシュキでの集会》→コランダ
■ 7《クロムニェジーシュのヤン・ミリーチ》
【制昨年】:1916年 【時代】: 1372年
三部作「言葉の魔力」の1作
〇描かれている場面
ヤンフスに先んじて、プラハで宗教改革に取り組んだ聖職者ヤン・ミリーチを描く
〇解説・歴史・背景
14世紀の重要な聖職者ミリーチは、ヤン・フスの改革の先駆者であった。
1372年 街頭で説教し、贖宥状を批判。
一方、売春婦たちに生き方を悔い改めるよう説いた。
プラハの旧市街地の売春宿を取り壊し
修道院「新エルサレム」を設立。
修道院には、悔悛させた売春婦が暮らしていた。
〇解説番号
〇絵画解説
①ミリーチ:建設現場の足場の元、アーチが残る壊れた壁の前に立つ
②ミリーチの前に行列する女性:白い衣装は(純潔を意味)
③衣類:脱ぎ捨てたドレスや装身具が地面にちらばる
④娼婦:(中央手前の女性)
赤いドレスを着たまま口を覆い目を見開きながら
内心と戦っているかのよう
悔悛を拒んで赤いドレスを着たままの娼婦
布で口を覆うのは、嘘をつく罪の象徴説、
他の娼婦たちを同様させないための口封じなどいくつかの解説あり。
■ 8《グルンヴァルトの戦いの後》
【制昨年】:1924年 【時代】: 15C初頭 1410年
〇ミュシャのメッセージ
戦闘そのものを描かず戦いの翌朝、戦場を訪れ茫然とたちつくすポーランド王、ヴワディスワフ2世に焦点をあてた。
〇描かれている場面
戦争の意味を私たちに問いかける。
〇解説・歴史・背景
15世紀初頭、ドイツ騎士団は北方スラヴ諸国に侵攻した。
ポーランド王:ヴラジスラフ王とボヘミア王:ヴァーツラフ4世の連合軍は、1410年、グルンヴァルトの戦いでドイツ軍に勝利した。
1410年 クルヴァルトの戦い(→ドイツ側の呼称はタンネヴァルトの戦い)
不敗と言われたドイツ騎士団を北スラヴ連合軍が
ポーランド北部平原で破る。
ポーランドは強大な国家となる。
ドイツ騎士団の衰退を招き、ポーランド、リトアニアの存在を強める。
「北スラヴ民族の連帯」を象徴する大会戦
〇解説番号
〇絵画解説
①王:ヴラジスラフ王
②ヤン・ジシュカ:(左後方の隻眼の戦士)
ボヘミアの義勇軍を引きて参戦し、のちにフス戦争で大活躍する
ヤンジュシュカの姿も見える 右目に眼帯
③ロシア正教会の司教:(②の右側)・・・犠牲となったロシアの兵士たちを追悼
④散乱する白い旗:騎士団の白い旗は戦争の悲惨とともに北スラヴの希望を示す
■ 9《ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤン・フス師》
【制昨年】:1916年 【時代】: 1412年
三部作の中核
〇ミュシャのメッセージ
公会議でフスを告発した反対派の司祭もこの礼拝堂に忍び込んだとしている
〇描かれている場面
15世紀にボヘミアとモラヴィアからはじまった宗教改革の偉大な指導者ヤン・フスによる説教の様子が描かれている。
〇解説・歴史・背景
◎ヤン・フス:(1369-1415)本作の主人公
・チェコの英雄的存在 宗教改革者
・ベツェレへム礼拝堂を拠点に、教会の堕落を批判する説法を行う
・弟子のみならず、国王ヴァーツラフ4世の妻、王妃ゾフィー(③)さえも
プロテスタント運動の先駆者フスの言葉に耳を傾けた。
・のちにプラハ大学の総長に就任。 さまざまな階層から支持される。(④)
1412年、フスはプラハを追放。
1415年、コンスタンツ公会議で異端を宣せられ、火刑
マルティン・ルターに100年先駆けて教会改革を呼びかけた。
ルターは、「フスを我が心の師」と称える。
カトリック教会はフスを異端として1415年、火あぶりの刑に。
カトリック教会は、フスの処刑に抗議するチェコの人々の運動が宗教改革に発展するのを恐れ、フス派の信仰を徹底的に弾圧。
〇解説番号
〇絵画解説
①ヤンフス:説教教壇から身を乗り出して説教するフス。
②聴衆:その声に熱心に耳を傾ける 3000人収容できた礼拝堂には様々な階層の人がつめかける
③ソフィー:(画面左天蓋下)「ソフィー」(国王ヴァーツラフ4世の妃)が説法を聞き入る。・・・赤の戴冠帽
④侍女:(②の傍ら)侍女が警戒の目を光らせている(モデルはミュシャの妻)
→白のフード
⑤怪しげな修道士:(画面右端) 侍女③の視線の先にフードで顔を隠してメモをとる修道士
■10《クジーシュキでの集会》
【制昨年】:1916年 【時代】: 1419年 9月30日
三部作最後
〇ミュシャのメッセージ
宗教改革運動のフス戦争への需要をこの夜明けの情景に重ねた。
〇描かれている場面
ヤン・フスが火刑に処せられた後、チェコ改革派の指導者となったピルゼンの改革派司祭ヴァーツラフ・コランダがクジーシュキで説教をする場面
フス焚刑後の信者たちを描く
〇表現法
《スラヴ叙事詩》ではポスター作品では見られない、炎や太陽光などを用いた明暗の描写が効果的に使われる
〇解説・歴史・背景
信仰を守るためには武器も必要と説き、フス派改革運動からフス戦争へと移行していった。
フス焚刑後の信者は野外で聖書の朗読と説法に耳を傾ける平和的な周回を開いた。
がローマ教会とフス派の溝は深まる一方。
1419年 ビルゼユの司祭ヴァーツラフ・コランダがプラハの南クジーシュキの集会を主宰。
◎ヴァーツラフ・コランダ
平信徒にパンと葡萄酒の両方を用いる聖体拝領の支持者(ローマ教会はパンのみ)
信仰を守るためには、武器も必要と説き、参加者に武装を促す。
薄明の中、仮説の説教壇の上で祈りをささげるのがコランダ。
〇解説番号
〇絵画解説
①コランダ:薄明の中、仮説の説教壇の上で祈りをささげるのがコランダ
②会場に火が焚かれ人々が集まっている
③白旗と枯れ木:避けられな戦争と死を暗示
④赤旗と緑の松:フス戦争の混乱からも復活するチェコの命と希望を表す
(以下続く予定でしたが、予習の前に展示を見てしまったのでここまで
半分、予習していき、半分は自分で解釈するというのもいいかも・・・)
■撮影可能コーナーの解説写真(2017.04.07追加)
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〇ミュシャ展:感想
〇ミュシャ展:予習 復習
〇ミュシャ展 混雑 知っ得情報