読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■ミュシャ展の感想 スラヴ叙事詩は舞台装置!?

ミュシャ展を1日かけて鑑賞しました。そこから見えてきたこと、感じたことを紹介します。スラヴ叙事詩って舞台装置だった!? まるで舞台を見ているような錯覚に陥りました。 今回の目玉、スラヴ叙事詩は撮影できます。その写真を使いながら、思ったこと感じたことをつれづれに・・・・

 

 

■1日がかりでミュシャ展の鑑賞

金曜日の開館時間延長を狙っての鑑賞してきました。
  ⇒■「ミュシャ展」ある日の混雑レポ & 知っ得情報 

 

11時頃から鑑賞スタート。噂には聞いていましたが、スラヴ叙事詩の巨大さに驚かされます。最初の10作品については、下記のとおり、若干の予習をしていました。
  ⇒■スラヴ叙事詩の解説(ミュシャの年譜とともに全体像を)

  ⇒■「ミュシャ展」の前に叙事詩とは?「スラブ人」の移動や分布、歴史について

 

事前の準備として下記のサイトをプリントアウトしていたので

  ⇒〇ミュシャを楽しむために:スラヴ叙事詩

音声ガイドや解説を見ずに、まずは気づいたことを、このシートの絵の部分に記入していきました。

 

〇実物の情報量は違う

ネット上で高画質の画像がたくさんあり、拡大して確認していました。意外に、わかるものですが、やはり本物はちがいます。当たり前と言えば、当たり前のことではありますが、ここまで情報量が違うということには驚きました。あの絵の黒っぽい部分、いったい何が描かれているのかわからない・・・ ここのぼんやりした部分は? そんなところが至るところにありました。その部分は、想像していた以上に実物は鮮明に描かれていました。それ以外にも、ここにはこんなものが描いていたんだ・・・・ ここはこうなっていたんだ・・・ 見ていてあきません。双眼鏡、必携と言われていましたが、なくても十分、楽しめます。

 

 

〇一枚の絵を3回に分けて見る

一通り見たあと音声ガイドを聞いてから、そのあとにパネル解説を改めて確認。一枚の絵に対して、3回に分けて見ていたので、結構、時間がかかります。さらに、双眼鏡での鑑賞も加えたかったのですが、散漫になりそうですし、この調子で見ていったら、終わりそうにありません。拡大して細部を確認するのは、お昼を食べたあとの午後の部に分けることにしました。また写真撮影は、閉館間際になれば空くと思われ、一通り見た上で、ポイントを絞り、何を撮影するかある程度、考えて効率よく撮影しようと思いました。そして取り残しのないように・・・・・

 

〇映像コーナー 他のミュシャコーナー

とりあえず、全体をざっと見ることを優先していたのですが、お昼を過ぎました。お昼をとりながら、アートライブラリーへ行く予定にしていたので、その前に一通りは見て調べたいことはリストアップしておきたいと思いました。昼食の混雑を避けるためにも、ビデオ見て、スラヴ叙事詩以外のコーナーもざっと見て時間調整することにしました。ところがスラヴ叙事詩の他のコーナーは、人が多くてひしめき、絵に近づけませんでした。しかたがないので、展示エリアを、通り抜けつつ遠目に作品の雰囲気だけを感じながら、音声ガイドの番号のところで立ち止まって聞き、全体をつかんだつもり・・・

 

そんな感じで、一通り見終えると14:00になっていました。お昼の時間帯をちょうどはずすことができたので、昼食は、混雑を避けてゆっくりとることができました。ちなみに美術館は、お昼の時間帯は、空くと言われているようですが、特に変化はありませんでした。

 

 

〇アートライブラリーへ

小一時間、小休止してから、15:00に3階のアートライブラリーへ。金曜日の閉館は18:00までなので、その間、可能な限り、資料に目を通そうと思っていました。しかし、所々で睡魔が襲い、結局、閲覧できたのは、図録のスラヴ叙事詩の解説のところだけでした。

 

以前、でかけたラリック美術館の「ミュシャとラリック」の図録がないか検索してみましたが、ありませんでした。

 

 

〇夕方の部は拡大鑑賞と写真撮影

18:00からは、また美術館に戻り、双眼鏡を使って細部を鑑賞しながら、図録で新たに知ったことなどを確認しつつ、音声ガイドの聞き逃した部分を確認・・・・ と思っていました。ところが再度、聞きたいと思った部分がわかりません。聞いたその場でチェックしておくことが肝要。最初から聞き直さないと、どこかがわからず、さすがにお疲れ状態には、再視聴はしんどかったのであきらめました。朝11:00頃から~20:00まで、ミュシャ漬けの長い1日となりました。

 

 

ミュシャの「スラヴ叙事詩」を知ったのはいつだった?

ところで ミュシャのスラヴ叙事詩が来ることを知ってから、ずっと、遠い記憶をたどっていました。私は「スラヴ叙事詩」をいつ知ったのか・・・ 3~4年前のことだと思うのですが、ある方が突然、それは唐突ともいえる感じで、スラヴ叙事詩のことをブログでとうとうと語っていました。その方は、なぜミュシャを急に語りだしたのか・・・ 何かきっかけがあったはず。きっと、スラブ叙事詩が、日本に来たのではないか・・・・ と思っているのですが、そのブログがみつけらず、その因果関係がわからなくて、自分の中ですっきりしないのでした(笑)

 

これまでミュシャに関してどんな展示があったのか・・・ 過去、日本にスラヴ叙事詩が来たことがあるのかを調べてみると、なんと来ていたのです! 芸術新潮3月号に、過去のスラヴ叙事詩の展示の年譜がありました。(p92)

 

 1989~92年 高島屋 他20か所   スラヴ叙事詩1作と習作

 1995~97年 Bunkamuraザ・ミュージアム 叙事詩1作と習作

 

しかし、私が知ったのはこんなに前の話ではありません。だとするとミュシャ展が行われたことに絡めての話だったのでしょうか・・・ 考えられるのは、

 

 2013年 森アーツギャラリーにて
   ミュシャ財団秘蔵 ミュシャ展-パリの夢 モラヴィアの祈り」

 が開催されています。このあたりの展示にからめての話だったかもしれません。 
 時期的にもちょうど重なります。
  こちらの展示内容も、知られざるミュシャにスポットが当てられていたようです。

   ⇒「ミュシャ展」 森アーツセンターギャラリー - はろるど

 

そして、国内ではありませんが、チェコでは、全作品展示が行われるようになりました。

2012-16年 プラハ国立美術館 ヴェレトゥルジェユニー宮殿にて
       20点すべてが常設展示

 

きっと、この話と、森アーツギャラリーの展示に乗じて、スラヴ叙事詩20作について、語っていのだろう・・・と理解し、喉につかえていた骨がとれが気がしました。(笑)

 

 

■知っているミュシャと違う?!

多くの方は、「スラヴ叙事詩」を見たら、こんな絵も描いていたんだ・・・と思われたと思います。ミュシャはなぜ、このような絵を描いたのか・・・・

 

〇スラヴ叙事詩のきっかけ(万博、スメタナ

それは、1900年のパリ万博で、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのスラヴ民族の歴史を主題とする壁画を依頼されその取材でバルカン半島、ロシアの実態を見て啓発された・・とか、

f:id:korokoroblog:20170402083524p:plain

「1900年パリ万国博覧会 ボスニア・ヘルツェゴヴィナ館壁画」(下絵)

出典:2017年開催のミュシャ展 より

 

 

あるいは、スメタナの「我が祖国」に刺激を受けたとされていました。

 

www.youtube.com

 

 

ミュシャのポスターは仮の姿

しかし、私の知っているミュシャは、「いわゆるアールヌーボのフェミニンな女性を描いていたミュシャというのはある意味、仮の姿」という認識を持っていました。予習の段階から、私が知っているミュシャと今回のミュシャ展の扱われ方が違っていそう・・・と、ちょっと戸惑っていました。

 

 

■早くから信念を持っていた 

ミュシャは、自分が本当に描きたいものがありました。しかし、たまたまサラベルナールのポスターがヒットし、世間が盛り上がり時代の寵児となっていきます。そのニーズにこたえるため、あるいは食べていくために、本意ではないのだけどもあの一連のポスター作品を制作していました。それは避けられない芸術家の悲しい性・・・・というように捉えていました。

 

実際、アールヌーボー全盛時代に描かれていた女性像と同様のモチーフを、スラヴ叙事詩の中にみつけた時にはそれを確信しました。決してミュシャは、1900年に思いたったわけではなくて、心にずっと温めながら、スラヴ叙事詩に向けたモチーフを作品の随所に紛れ込ませていたのです。ポスター時代から、スラヴ人復権を思い描き心に秘めて温めていたわけです。

 

「ミュシャ展」 森アーツセンターギャラリー - はろるど より

 しかしながらここで見逃せないのはスラブ的なモチーフです。確かにミュシャは優美な女性、曲線を多用した調和的構図、また花や自然などのモチーフを取り込み、自らの様式を確立させましたが、例えば「夢想」ではチェコの伝統的な刺繍の意匠もさり気なく挿入円形モチーフもスラブ教会の聖画の光輪に似た構図となっています。

 

 

 

■ラリック美術館の「ミュシャとラリック」

以上のようなことは、2015年のラリック美術館で行われたミュシャとラリックの展示を通して理解したことです。しかし、今回(2017)のこの展示では、そのことは一切、語られていません。何か違和感のようなものを感じてしまったのでした。もしかして、私の思い違いだったのか・・・? そういえば、ラリック美術館の展示について書いている人をみかけない気がする・・・  誰もあの展示に触れる人はいないのだろうかと思って探してみたらラリック美術館の展示について書かれていました。

  ⇒ミュシャとラリック @ 箱根ラリック美術館 - ミュシャ編 - 日々帳

 

また、食べるため、生活のためにミュシャが描いたということも・・・・

  ⇒ちくわと鉄アレイ: 2015年プラハ旅行03〜スラヴ叙事詩と墓地とオペラ〜

 

 

  ⇒【読書感想】ミュシャのすべて ☆☆☆☆ - 琥珀色の戯言 より

 どんな天才的なアーティストでも、「自分が描きたいもの」と「他人が描いてほしいもの」の折り合いをつけるのは難しいし、懸命に取り組んだ作品が、必ずしも「傑作」と呼ばれるわけでもないのだな、と考えずにはいられないんですよね、ミュシャの生涯を追っていくと。

 

 

 

■展示は、企画者によってとらえ方が違う・・・

あの甘いフェミニンな図柄を苦手に思っていました。しかし、ミュシャはあれを描きたくて描いていたわけではなかった・・・・ということを知った時、ミュシャへの視線が変わりました。それは、私にとって肝の部分です。

本当に描きたいものが他にあった。でも、描くことができず、あのポスターを描いていた。そこが味噌で、画家は心に秘めつつも、生活のため、そして世間のニーズにこたえるために、描かねばならないという時代があり、描いたものは、本意でないこともある。描かれた作品だけを見て、その画家が表現されていると思ってはいけない。

画家はそこをどう折り合いをつけていくか。いつかきっと自分の描きたいものを描く。それを実現するべく、折々にその素描をまぎれこませたり、資金を集めるために奔走し、パトロンをみつけ、完成に至った。というのが、私のミュシャ像だったのです。

その完成した「スラヴ叙事詩」とはいかなるものなのか・・・・そこにずっと興味を持っていてぜひ見てみたかったのでした。ミュシャが本当に描きたかった絵とは、どんな絵だったのかを、この目で確かめたい。その圧倒的な大きさと数も含めて、実感してみたいと思っていたのでした。

 

今回の企画では、「スラヴ叙事詩」は、パリ万博がきっかけ、スメタナの曲がきっかけに留まっているように感じられました。そうじゃないと思うんだけどな・・・・と心の中でつぶやいていました。ミュシャアールヌーボー調の絵が好きな人は多いから、これらの絵がミュシャの本意の作品ではなかった・・・というのは、伏せた方が興業的にはいいとかあるのかな・・・なんて思ったり(笑)

 

 

〇追記(2017.04.12)芸術新潮の記事より

芸術新潮の記事を見ていました。本橋弥生氏の記事の中に、

  ⇒◆「スラヴ叙事詩から見えてくること ミュシャ」(本橋弥生)

歴史画を描きたいという気持ちは、画家をめざした時から・・・だったと書かれており、ほ~らやっぱり。と思って見ていました。最初に記事を見た時、本橋弥生氏がどういう方なのかわからなかったのですが、今度、日曜美術館の出演者の中に、「国立新美術館 主任研究員…本橋弥生」とお名前があるのをみつけました。

 

これまで、メアリーカサット展でも、ここの部分はどうなんっだろう・・・という疑問を追ってみると、すでにその答えが図録の中にあったということがありました。今回も、この件については、図録の中にも記載がされているようです。またフリーメイソンとの関係からも読み解かれているようでした。

 

2017.03.20 ミュシャ展 東京六本木・国立新美術館 (F.kosakai) : Warm Garden 岬

むしろ、図録の解説にもあるように、彼が会員だったフリーメイソンプラハ支部では最高位にあったという。)の掲げる汎人類的な博愛精神に寄り添ったものといえるかもしれない。「故国のためにナショナル・アイデンティティの表現を追求した。だが、同時にそれは「ナショナル」という枠組みを超えた、私たち人類の心の深層に潜む、普遍的な原風景ではなかったか。」(本橋弥生[国立新美術館主任研究員]の図録解説文より。)という指摘がまさに的を得た論点なのだと思う。

「故国のためにナショナル・アイデンティティの表現を追求した。だが、同時にそれは「ナショナル」という枠組みを超えた、私たち人類の心の深層に潜む、普遍的な原風景ではなかったか。」(本橋弥生[国立新美術館主任研究員]の図録解説文より。)

 

 

■スラヴ叙事詩の本質はわからない

ざっくりではあるけども、予習をして感じていたことは、スラヴ人の心、その本質、真の意味を日本人が理解できるわけがないと思いました。ミュシャの描こうとした内面的なことまで理解するのは無理。スラヴ叙事詩を見れば圧倒されます。しかしその巨大さ、そして解説を見て、なんとなくわかった気になっているだけのなのかも・・・・と感じるようになっていました。 

でも、実際に見たらそんなことはなくて、目の前に存在する、チェコからやってきた作品群は、いろいろなことを語り掛けてきました。

 

 

■これは舞台装置では?  群集劇を見ているかの錯覚

No13《フス派の王、ボジェブラディとクンシュタートオイジ―》

を見た時のことです。

f:id:korokoroblog:20170401160154p:plain

絵を見ていたら、中央の赤い人物が、突然、語りだしました。

 「パンと葡萄酒の両方を用いた、聖体拝領を禁止し、ローマカトリックに帰依するように」と声高に浪々と読み上げます。彼は教皇ビウス2世の使者です。それを聞いた彼の前方、右側の椅子に座っていた、国王イジ―は、怒りをあらわにして立ちあがりました。その勢いで椅子が押し倒され、バタン!と大きな音がプラハ王宮内に響き渡ります。そしてイジ―は、顔を真っ赤にして(?)告げます。「断固拒否する! ローマカトリックには絶対に屈しはしない・・・」それは、ローマ教皇に聞こえんばかりの声でした。

すると、使者の周りのお付の人たち、あるいは、王の周りの人たちは、顔を見合わせながら、ひそひそと、なにやらささやく声が小さく響きます。

そして、この様子をじっと見ていた右下の少年は、手にしていた本をパタンと閉じました。その音は、回りのざわつきをおさえるかのように、そしてむなしく王宮内にこだましました。その本の表紙には「ROMA」というタイトルが書かれています。これは、ローマ教会との終焉、決裂を意味します。

背景の窓からは、黄金色の光が差し込んでいます。円が連なるゴシック式の窓。それは新しい宗教の自由と希望を暗示しているかのようです。

 

そんな一連の舞台の一幕が、一枚の絵の中で、時間差で繰り広げられていったのです。絵の中の人物がしゃべり、動き出しました。この絵は巨大な舞台装置だったのだと思いました。大きな舞台セット。そしてそこに描かれた人たちは、役者となって、言葉を発し、演じ出したのです。これにはびっくりしました。

 

このように、見るなり登場人物が語りだす絵がいくつかありました。絵を前にすると舞台が始まるのです。そんな舞台を目の当たりにできたのは、予習をしていったからこそだと思いました。椅子がバタンと倒された音が、画面一杯に響いて共鳴し、窓から注ぐ光とシンクロしているかのように・・・・ この絵はちょうど、電車の中で、解説を読んでいたのです。

 

No6《東ローマ皇帝として大観するセルビア皇帝ステファン・ドゥシャン》

f:id:korokoroblog:20170401154014p:plain

解説によれば、歴史映画の一幕のようだとありました。壮大な群衆が集まる歴史映画のワンシーン。私たちは、スクリーンを前にする観客として壮大な映画の一場面を見せられているようです。敦煌のこんなシーンと重なっていました。

f:id:korokoroblog:20170402081252p:plain

しかし、この絵の鑑賞は、客席の位置を移動できるのです。どんどん前に近づくと・・・・ 今度は映画の中に入り込んでしまいます。自分がそれぞれの出演者と同化して、出演者の一人になって映画の中をさまよい始めました。

 

 

No15《イヴァンチツェの兄弟学校》

f:id:korokoroblog:20170401154103p:plain

この絵の前に立つと、すかさず中に飛び込んでいました。「印刷小屋から試し刷りができた」という声が聞こえてきました。

聖書の印刷を配る青年              ▲
配られた印刷を読みふける人たち

 

傍らでは、印刷の出来のチェックが行われています。

チェックを経てから印刷物は配られています。この聖書はスラヴ語で書かれています。教えを「スラヴ語」で綴る。これは「スラヴ叙事詩」の主要なテーマで、「スラヴ語」で表現するというシーンが何度も出てきます。民族の独立を描く上での象徴的に描かれています。思わず、印刷を配っている青年の元にかけよって、印刷物をもらいに行ってました。

 

そのあとは、絵の中に描かれた自然の風景を、自由に散策していました。

 

中景の木々の小道を歩いたり、遠くに見える景色をながめたり、
またもどってきて印刷された聖書を読んだり・・・・

 

そして前方にいるイケメンの青年と盲目のおじいさんを横目で見ていました。 

 

この青年、イケメンすぎよね~(モデルはミュシャです)でも、目が鋭い。何を言いたいの? 老人の手をとって聖書に重ねています。老人に解説をしているというのに、眼差しはこちらに向かっています。ところがその手が、なんだか変なんですけど・・・・(笑)  もしかしてわざとこんなふうに描いたのでしょうか? 手の背景は白い聖書です。わざわざ目立つように手を描いて、聖書がスラヴ語で書かれることの意味を訴えているようにも見えます。

 

こうして、絵の中を自由に行ったりきたりしていると、まるでバーチャルリアリティーの世界に紛れ込んだような感覚になりました。

 

ミュシャの描いたスラブ叙事詩は、大きな舞台セットであり、映画であり、そしてVRの世界として引き込まれていくのでした。

 

 

■多彩な登場人物と印象派を感じさせるテクニック

スラブ叙事詩の人物は、くっきりはっきり、存在感を主張する人と、背後霊のように存在感のない人がいます。

  

この存在感のない描かれ方をしているのが、最初はどうも心もとなくて、なんでこんな描き方をするんだろう・・・・ ある意味、手抜きというか、これだけ巨大な作品全体を、同じように描ききることはできないから、力を抜く部分を作ったのねと思ったりしていました。しかも影の薄い人物が、その絵の中では主役級だったりするのです。

 

一方、スポットを浴びているのは、民衆です。真正面を向き、にらみつけるような 目で何かを語ろうとしている強烈な目力を持っています。

 

右の人物の表情は、何か動物の毛皮のようなものに隠れぼんやりと描かれています。しかしその目はこちらをしっかり見据えて、何かを訴えかけています。 

 

一方、王や貴族は中間部で正面を見ていても、絵を見る私たちを見ているようで見ていない気がします。

 

民衆の目は鑑賞者に得たいのしれない感情を起こさせ、一種の恐怖感にも感じられます。もの言いたげに前を向き、私たちと対峙してくるのです。それなのに傍らにはブッシュがあって、身を隠していたり横たえたり、動物の毛皮だったり・・・・ 何かに守られている。それは神なのか・・・・ そんなことを暗喩しているようでもあります。

 

↑ 印象的な目の横ににはブッシュや毛皮がある?

 

それらの人物ははっきりと描かれる「前景」の中に存在しています。
そして次第にうすぼんやりとした「中景」へ移行していきます。

 

↑ 中景の人物はうすぼんやりとして表情は見えません

 

そしてモヤのような「後景」へと目線を移動させます。 

 

  

↑ モヤにかすむ「後景」

 

目力のある人物がアイキャッチとなり、そこから、遠近を経て絵画の広がりとなるのですが、キャンパスの大きさゆえに、無限の広がりのように感じられます。

 

たくさんの人が画面の中で言葉を発しているようです。
「現実に戸惑う人」「懇願する人」「客観視する人」「斜に構えて見つめる人」

 

 

 

 

あらためて全体像

 

〇登場人物 一人一人に役割が

あなたは何が言いたいの? 自ら語りだす声が聞こえます。その一方で、中継にうすぼんやりと所在なく描かれた群衆。しかしよくよく見ると、何か言いたげで一人一人、役割が与えられているようです。

 

 

やはり、この絵も舞台だと思いました。ここに登場する一人一人がかけがえない一人で、ぼんやり影の薄い人も、この舞台のなかではしっかり、セリフをもらっていて、何かを語ろうとしています。それは言葉がなくても、横顔や後姿でメッセージを送っているようです。そんな声を受け止めようとするといくら時間があっても足りません。

 

〇指示待ちから自立への戸惑い

これは農奴制解放が一番遅れたロシア。農奴解放の勅令が読み上げられたモスクワの赤の広場の様子が描かれています。解放は喜びかに思えます。しかし、実際の農民たちは戸惑いを隠せません。寒い雪の降り積もる地べたにひざまづき祈る人がいます。これからどうすればいいんだ・・・と不安な表情をする人。様々なな人間模様が画面の下方1/3ぐらいに集中して描かれいます。

他の作品と比べると、「空」「中景」が広くとられ、大聖堂が画面の多くを締めています。これまでの支配の象徴? あるいは制度が変わっても、簡単に変わるものではない。言われるままに働くという長年慣れ親しんだシステムからの解放。しかし、じゃあ、どうすればいいんだ・・・・ なんだか今の時代を表しているようでもあります。

そんな状況の中、虎視眈々と好機ととらえて、一攫千金を狙おうとする人(?)もいるように見受けられました。

 

 

〇霞の中の聖堂と光

この作品は、一連のスラヴ叙事詩の中で、一番大きな作品に感じました。サイズは6×8mの最大の大きさですが、他にもこのサイズの作品はあります。この上部の広がりが作品の大きさを感じさせたようです。

 

このカスミのようなもやもやとした空間。それが、これからの先行きの不安感をあおっていて、この表現が印象派や、長谷川等伯の松林図屏風を思いださせていました。霧が立ち込めているのにそこには光が淡く差し込んでいる・・・・

 

一部の解説によると、モヤの中に立つ建物の向こうに見えるうっすらとした光。それがこれからの希望を表しているとありました。私には、この光は希望には感じられず、松林図屏風の霧の光景なのに、そこに光が通過している。それと重なったのでした。

 

 

印象派を思わせるタッチ

モネの雪、ルーアン大聖堂を感じられると思っていたら、解説にも印象派の下りがありました。 

 

〇雪の表現

 

〇雪のタッチ

 

〇霞のかかった聖ワシリー大聖堂

 

  

■構図の共通性

〇天空と下界

予習でスラヴ叙事詩を見ていると、ある構図のルールのようなものが見えてきました。「天空」と「下界」それぞれに、違う世界を描いています。「天空」には神話や王、「下界」には民衆・・・ その両方で表されているものもあります。下界の現実と天空うの空想を意味するのでしょうか? そして陰りが忍び寄り、暗転の暗示のようです。

 

 

〇光の効果

そして光が効果的にスポットをあてています。それは、アイコンの小さくなった画面でもわかります。展示室では、入った瞬間、遠目から見た時にどこに、スポットが当てられているか・・・・ そして、その光もいくつかの種類があります。「太陽」「星」「炎」・・・・  光源がみあたらない散乱するまばゆい光

 

その一方で、モヤ、霧の状態というのも、全体の印象を左右しています。立ち込める霧、かすみのような状態。中景のはっきりしない状態。そんな霧の状態と光との組み合わせが暗示を示していたり。

 

〇前景・中景・後景

そして、「前景」「中景」「後景」の基本3層に描き分けられていて遠近感をだし、巨大なキャンパスに奥行きを与えています。それは、縦方向に広がっていることもあり

 

 

〇低・中・高

「低」「中」「高」のこともあります。高い部分はより高さを強調するために、そこに存在する人はぼんやり描かれ、さらに顔を上に向けて、見る側の視線を上方向にさらに上げさせる効果があります。たとえば・・・・

 

1《原故郷のスラヴ民族》

            ↑ 赤の矢印が上方向を見ています

f:id:korokoroblog:20170401164419p:plain

 

 

2《ルヤーナ島でのスヴァントヴィート祭》

       

f:id:korokoroblog:20170401164442p:plain

 

 

3《スラヴ式典礼の導入》

  

f:id:korokoroblog:20170401164509p:plain

 

 

 

〇アーチの連続による奥行き+平面+前景

また、下記の室内における構図は、アーチの連続による画面奥方向への奥行きの広がりに対して、固定された手前の壁が、建物と奥と、画面の手前の境界を示す役割をし、「上中下」あるいは、「近景・中景・遠景」とは違う空間を提供し、舞台の設定をバラエティーに富むような構成になっています。

 

4《ブルガリア皇帝シメオン》や

f:id:korokoroblog:20170401163157p:plain

 

 

5《ボヘミア王プシェミスル・オタカル2世》や

f:id:korokoroblog:20170401163214p:plain

 

9《ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤンフス》

f:id:korokoroblog:20170401163256p:plain

 

 

 

■画面の中にみる異時同図

同じ画面の中に、時間の経過が見られます。それは「過去」「現在」「未来」の時間の流れです。時には近い未来の不吉な暗示だったり・・・ マンガのように今の連続した時間だったり・・・ 同じ画面の中に違う時間が存在する、日本の鳥獣戯画異時同図と同じような表現方法です。これはミュシャのオリジナルなのでしょうか? もしかしてジャポニズムの影響をミュシャも受けていたり? あるいは、歴史画を描く時は、必然的に異時同時となるのでしょうか・・・・

 

1《原故郷のスラヴ民族》 

 f:id:korokoroblog:20170401191148p:plain

祖先が多民族に襲われたという歴史と、神話を同時に描く

 

 2《ルヤーナ島でのスヴァントヴィート祭》

 f:id:korokoroblog:20170401164442p:plain

祭りの賑わいの傍らから、狼を連れたゲルマンの神トールがしのびよる

 

13《フス派の王、ボジェブラディとクンシュタートオイジ―》

f:id:korokoroblog:20170401160154p:plain

こちらは、短時間のコマ送り、マンガのような同時性

 

 

14『ニコラ・シュビッチ・ズリンスキーによるシゲットの対トルコ防衛』

f:id:korokoroblog:20170401191800p:plain

トルコ軍の侵攻を、クロアチア総督が攻防するシーン。トルコ軍に攻囲され、総督は中央で手を広げ被弾しています(これはうすぼんやり描かれています) 総督の妻は足場に上り、火薬に火を放ち、爆破させようとする寸前が描かれています。まだ松明は放っていません。しかし、その後の爆発の状況がここには描かれています。

 

以上のように、同じ画面の中に異なる時間が存在するというのも「スラヴ叙事詩」の特徴に思えました。その時間の隔たりは歴史という長い時間で表現されるものもあれば、今の瞬間の時間経過を表しているものもあります。

 

 

■追記(2017.04.12) 日曜美術館 「ミュシャ 未来を見つめる超大作」

www4.nhk.or.jp

 

出演者に宮本亜門さん。きっと舞台の話になりそう・・・・

 

 

 

続き ⇒