コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■クリスチャン・ボルタンスキー – Lifetime:国立新美術館(後編)

国立新美術館で行われている「クリスチャン・ボルタンスキー – Lifetime」を見て感じたことを、思うままに覚書。(後編)  

 

↓↓ 前編はこちら ↓↓  追記あり

 

 

■《アニミタス》(白)

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〇《アニミタス》とは

作品のタイトル《アニミタス》は、スペイン語で「小さな魂」を意味し、死者を祀る路傍の小さな祭壇のことです。チリでは交通事故などで亡くなってしまった人の魂を慰めるために道端に作られる小さな祠(ほこら)を指します。

 

〇4つの《アニミタス》

ボルタンスキーは、《アニミタス》をテーマに下記の4点のシリーズを制作しました。

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第一作は、高地にあり、なかなか人が入り込めないチリの砂漠に、風鈴をつけた棒をさし、日の出から日没までを撮影したインスタレーションです。

ボルタンスキーが誕生した日に南半球で見られた星空を再現しています。同シリーズはその後、同じ星の配置を基本に風鈴が設置され、再解釈しながら展示されてきました。

 

今回展示されている作品(白)は、カナダのケベックティーに流れる川のオレアン島に設置されています。場所は、下記の地図の通り。川の中の中州のような島が、オレアン島です。

[http://:title]

 

第1作《アニミタス》チリは、2016年庭園美術館で映像が展示されました。

3.《アニミタス》

3-1  24時間の映像

 

第2作は、唯一、存在し続けている豊島の《ささやきの森》です。ここは訪れました。

 

〇《アニミタス》 白

これまで、砂漠の《アニミタス》を映像で見ました。豊島の森は実物と映像で、景色と風鈴の音を耳にしました。今回の展示、国立新美術館の景色はがらりと変わり、タイトルが示すとおり、白一色の雪景色です。画面の雪原からは、雪があふれ出しているようで、雪の吹き溜まりが足元まで伸びています。

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砂漠も雪原も、ともに厳しい環境の中、ずっとそこに佇み続け、放置されたままです。その様子を、日の出から日没までの間、10時間ほど、固定したカメラで撮影した映像が残された作品です。設置された風鈴は、今は厳しい環境の中、風化していると考えられています。

 

〇実際に行くよりも知っていることが意味がある

ボルタンスキーは、このシリーズで、豊島の《ささやきの森》について次のように語っていました。 「豊島に実際に行ってみることより、その話を知っていることが意味がある」と。

実際に時間をかけて豊島を訪れ、さらに長い距離を歩いて現地に行ったことのある人だけが体験できること。そこで見たり聞いたりして多くのことを感じて帰ってきた身としては、知っていればいいと言われてしまうのは、納得ができません。

 ↓ ささやきの森までのフォトムービー 

↑ 上記のような体験をしました。現地の体験は、これだけではありません。

 

6.知っているということは、実際に見るよりも意味がある?

必ずしも観ることではなく、そこにあると知っていて、

いつか行くことができると知っていることが大事

巡礼地があることを知っていて、

今はいかないけども、いつか行くことができると知っていること。 

 

4.つながる「巡礼の地」

そんな経験をした人の話が、言い伝えとして語られ、そんな場所があることを知った人たち。そんな人たちの前にも、突如して同じような場所が表れて、遠い豊島とつながり合います。そしてそれは、チリのアタカマ砂漠とも・・・・(2016.12.23)

 

表向き、ボルタンスキーの言いたいことは、理解したつもりです。それでもあの時から、ずっと考えていました。なぜ、現地に行くことよりも、知っていることの方が意味があるのか。現地で体験することに勝るものはないはず。ささやきの森での経験は、何ものにもかえられない体験でした。それはいったい何だったのか。ご本人を前に伺うチャンスが訪れました。通訳の方を通して伺うことができました。

豊島は残るけども、残らない作品もある。形ではなく神話として残すこと。豊島には心臓の鼓動があり、ささやきの森があります。しかし、他の場所は残りません。それらは形はなく伝説となって残ることを考えています。

 現地に行って理解したことと同じことを語っているのですが、受け止め方が変化しているのを感じました。「わかるけど、納得できない」から「腑に落ちたような感覚へ」

 

〇展覧会が神話になる?

《アニミタス(白)》は、カナダ北部の厳しい気候の中で撮影が行われました。その映像が、今、ここ国立新美術館のこの会場で流されています。空間全体を使って構成したという今回の作品。これらも形としては残らず消えてしまう運命なのです。

そこで残るものは何か?この展覧会も、人々の心の中に残り続け、遠い未来にまで語り継がれる神話となるでしょうか?今、この展覧会を見た私たちは、その瞬間の立会人に、なれるのでしょうか?

このシリーズ、現在4か所に設置されています。これからも、神話の場所が増えるかもしれません。全てが神話として語り継がれていく。神話の残された土地としてそれぞれが結びつき、巨大な神話のネットワークが各地を包まれるのかもしれません。⇒(*1

 

ボルタンスキーは、今、作品を神話として残すことに力を入れているようです。それは、自分自身の名も忘れられ、ただ、そこに言い伝えが残ることを望んでいるといいます。形のないものが、伝承によって後世に残っていく。これは、新しい作品の形態ともいえるかもしれません。

 

 

■《ミステリオス》 

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中央の黒い物体はメインビジュアルにも使われています。その左には、クジラらしい骨。右には青く広がる海。3つの映像で構成されたエリアです。

 

メインビジュアルの物体

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おそらくこの構造物には何か深い意味があるのだと思うのですが、それが何であるのか、そして他の映像とどうつながっているのかわかりません。

 

〇何を意味している作品?

この3枚の映像は、何を伝えているのか、思うままに想像してみます。

鯨の骨は、長い時を経た風化の時間を表しているのでしょうか?海に住む生物は陸上にあがって、進化していきます。その結果(?)生まれたのが人間。(正確にはもっと複雑な過程を経てるようです。↓下記図参照)

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 (科博にて 2018.09.26 水上にあがった哺乳類はどう分化したのか)

人間と同じ肺を持つ哺乳類の仲間、鯨。肺呼吸する同胞が、かたや海に留まり、かたや陸に。そんなところに、何かメッセージを込めたのでしょうか?(同じ仲間であっても仲間ではないとか・・・)原始の生命を育む海。そして美しい瑠璃色の地球、この環境はこの海によってもたらされています。生命の根源でもある美しい海。

 

これらの画像は、《アミニタス》(白)とも関連していると、どこかで目にした記憶があるのですが、どういうつながりなのでしょう?

それぞれの映像が長回しで撮影され作品になったということでしょうか?一見、変化のなさそうに見える映像です。しかしわずかな変化がおきて、そんな小さな変化と時間の積み重ねが、年月をかけて風化し、いずれなくなっていく運命にあります。その一方で、骨は残り続けます。時間の経過によって「消えてしまうもの」vs「残るもの」の対比?

 

〇作品解説

以上のようなことを想像したあとに、作品解説を見てみました。

この作品は、南米のパタゴニアで撮影された三つの映像によって構成されるインスタレーションです。巨大なラッパ状のオブジェを現地の音響技師と共同制作し、世界の起源を知る生き物とされている、鯨とのコミュニケーションを図ろうとした試みたのだそう。

しかし、そんなことを、この映像から読み取るのは無理です。

 

〇世界の起源って?

また「鯨は世界の起源を知る生き物」だったというのは初めて聞く話です。と思ったら、これは「パタゴニアでは」クジラは「時間の起源を知る生き物」と解説にありました。パタゴニアに限定された話のようで、この場所だから、成立する話であり作品・・・(ところで「世界の起源」>「時間の起源」という感じで、ちょっとニュアンスが違うと思ってしまいました。⇒(*2

 

〇鯨から起源を教わる

金属的な音を介して鯨と会話する。鯨から、世界の起源を教えてもらおうとしているということのようです。トランペットのような形の金属の中を風が通ると音が奏でられます。その音が、鯨の語る言葉です。

この金属の筒を通して、鯨に語り掛け、鯨の発する声を聴くための装置だということがわかりました。糸電話のようなイメージでしょうか? ボルタンスキーにとって、この作品は、手にすることのできない知識の探求も意味しているとのこと。

パタゴニア地方に伝わる「伝説」をもとに、様々な世界の始まりを知っているという鯨から、あらゆるものの始まりや理を知ろうとした男がいた。そんな新しい「伝説」を新たに作ろうとしていたのでした。

 

この作品によって、神話が生まれる。何年もすれば、金属の筒は破壊され、なくなります。それでも、パタゴニアに、鯨と話そうとした男がいたと語り継がれていく神話が、ここ一帯に吹いている風のように漂っている。

 

参考:ボルタンスキー、「アート」と「アーティスト」のあるべき姿について語る|MAGAZINE | 美術手帖

 

その後にあれこれ考えたことはこちらに移動

  ⇒■《ミステリオス》について沈思黙考

 

 

■《白いモニュメントite,、来世》

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赤紫色に輝くネオンで「来世」と漢字で書かれた入口。死後の世界への入口なのですが、ちょっとした違和感がありました。この作品、日本に向けの作品ということです。もし、同じ作品を海外で展示したら、この表記はどのようにされるのでしょうか?

英語で来世は? afterlife next world Future など

もし、英語で表記された作品を見たとしたら、受けとるニュアンスが随分変わる気がしました。西洋の死生観と、日本の死生観の違い。

日本人ではない外国人が、この「来世」という文字を見た時に、どういうニュアンスでとらえられるのか気になりました。これは、日本、アジア向けの展示。ボルタンスキーは、漢字を使うことで、日本人の私たちが漢字から受け止めているニュアンス、感覚的なものを受け止めていたのか?そんなことを考えていました。(祖母が日本人という話があるらしい)

回りの白い発砲スチロールみたいなものは、何を表しているのでしょう?現世の高層ビルが林立する都会のジャングル?

 

そしてタイトルの《白いモニュメント 来世》にも何かひっかかるものがあって、なぜ、わざわざ「白い」モニュメントとつけられているのか・・・・ どうやら大阪の展示は、黒いお墓をイメージされた展示だったらしいです。

こちらは、国立新美術館のために制作された作品だそう。白いモニュメントはビル群、もしく墓地をイメージしているとのこと。

  

 

■《保存室(カナダ)》

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おびただしい量の衣服が、天井まで三面の方向に、びっちりと埋め尽くされています。否応なく、ボルタンスキーの出自とも重なり、アウシュヴィッツが想起されます。大量の虐殺行為が、閉鎖空間において行われた過去の過ち。

高さのある壁を這い上がっていくように上に向かっていく衣服の数々。上昇がイメージされ、不謹慎ではありますが、天に昇っていく天使のようにも見えてしまうのでした。

この衣服を着て生きていた人がいたことを想像させます。どのように亡くなったのかはわかりませんが、それがどんな状況であったとしても、安らかに眠ってほしいと願います。せめて、天使たちに囲まれて、来世にたどりついて欲しいという気持ちになります。天井からの光は、天界からの導きの光と思いたいです。

 

【作品解説】

この作品は、最初にカナダで制作され、《保存室(カナダ)》というタイトルは、「存在が消えてしまう」ことを意味しているとは意外でした。そのため、記憶を留めることの必要性を暗示しているといいます。

 

 

■《黄金の海》

《保存室(カナダ)》の奥に、金色のエマージェンシー・ブランケットが、平たく敷かれ、天井から電球が吊るされてブラブラゆれています。

《保存室(カナダ)》のつながりで、今度こそ、この中には、古着が入っていると思いました。積み上げられた抜け殻と、平坦に広がる抜け殻。庭園美術館で展示された作品と同じ素材、エマージェンシー・シートとつながりです。

そして金色のシートを照らすライトは、平坦になったこの作品では、山のてっぺんはなくなり、ライトを据えることができないため、上からさげられ左右に動いています。固定された光と、移動する光? 対比的な展示かな?そんなことを思いながら見ていました。

 

【作品解説を見て】

平坦なエマージェンシーブランケットは「海」を表していたのだそう。光の効果で、荒れた海を表してるといいます。「これが海?」「荒れてるの?」私にはそのようには見えないのですが‥‥

高く山のように積みあげらた作品から、山の遭難をイメージできます。平たく横に広がるシートからは、海の遭難?を想像できなくはありませんが‥‥

私がイメージしていたのは、大地に眠る人。「さとうきび畑」の歌のように、戦争によって倒れ、その地に眠る戦士が浮かんでいました。

ところが、このシートの下に、衣服は入っていないようで、エマージェンシーブランケットだけが敷き詰められているようです。

 

すると、エマージェンシーブランケットが持つ機能が、表立ってきます。命を守るためのアイテム。その機能を発揮するために必要な蓄熱のための太陽熱。 

 

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ここから先は、前半の展示に戻ります。わからないオンパレードだったのですが、それでもいくつかは、過去に見た作品と重ねて見ることができました。

また、解説のタブロイド版を、帰ってから見直してみました。このペーパーが解説だと言われても、会場ではピンときていませんでした。⇒(*3

この見覚えある特徴的な形態の配布物。アニエスbの広告を兼ねたチラシであること知識として知っていたので、会場では広げることはありませんでした。帰ってから広げてビックリ。今回は、こういう構成で攻めたってことだったんだ。

ボルタンスキーさんが、作品の解説(タブロイド版)はあとから見て・・・・と言った意味をやっと理解できたのでした。このペーパーは、従来のアニエスbのチラシと同じ構成と思ってしまったので、会場で解説として見るという行動に移らなかったのでした。

これを見たことで、やっといろいろなことがつながっていきました。初期の作品のわけわからないと思ったものも、何を表現していたのかがわかると、それらと、全体が次第に親和してきます。全体の中の作品の一部を担うようになっていきました。 

 

■《影》

影が投影される作品は、3つあり、こちらはその最初の作品です。

3つの覗き窓から中を覗くと、幽霊のような影が壁に映し出され、ゆらゆら揺れています。こちも、庭園美術館で見た《影の劇場》を彷彿させます。

 ⇒3.《影の劇場》

こちらの写真は、庭園美術館にて撮影したもの

 

ところが、今回の展示の影の動きが微妙で不自然な動きをしています。ゆれが大きく、その動きに不自然さが伴うのです。庭園美術館で見た時、影は何によって動いているのかを確かめていました。閉鎖空間から抜ける空気によるものなのか、他の力が加わっているのか… 今回は、外的な力が働いていることが感じられます。そんなことを思いながら、人形たちの動きを作り出している力の元を探していました。

今回の展示スペースは広いため、空気の自然流入や流出で、動かせる大きさではないと考えられます。小窓の窓にも手を伸ばし、閉鎖空間かどうかも確かめていました。そして、投影される人形がぶら下げられ、その光源との位置関係を見ていると、傍らに、扇風機を発見。やっぱり…と確認している自分に苦笑していました。

作品が何を意味しているかという以前に、どのような仕組みでこのような動きをしているのか、不規則な動き。これは風を送っただけでは得られません。こういう、おかしいと感じる部分に、目がいってしまうのでした。

見てはいけないものを見てしまったと感じていました。⇒(*4

 

 

■《影(天使)》

もう一つ、《影(天使)》という作品もあります。影が天井の壁伝いにぐるぐる回って投影されています。天井にこのような映像が映し出されていること、気づいていない人も多そうです。こちらは図録の表紙になってます。

この影が、どこから、どのように映し出されているのかまで見てる人は、そんなに多くはないはず。私はちゃんと確認できたぞ~ ちょっとご満悦状態。

しかしながら、作品よりも、このような仕組みの方が目に入ってしまうのは、今に始まったことではありません。10年前、直島に行った時も同じように見ていました。

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(左)《影》
(右)《影(天使)》 *解説マップより

 

【解説】

天井に映し出される幻想的な影は、天使がダンスをするようなイメージ。これは、中性から繰り返し、西洋美術の主題となった「死の舞踏」の系譜に位置付けられています。

 

 

■《心臓音》

心臓の音が響いてきます。その音に合わせるように電球が明滅しています。その奥には、紐でできたカーテンがあり、そこには人の顔が投影されています。

 

〇過去に展示された心臓音

この作品は、言わずと知れた、豊島の《心臓のアーカイブ》がベースになった作品。

↓↓ 2016年に訪れた時の様子 ↓↓

そして2016年、庭園美術館でも、《心臓音》の展示が行われました。

   ⇒4.《心臓音》・・・2016年、庭園美術館で見た心臓音

 

〇人の存在は永遠ではない

この心臓音は、豊島でサンプリングされた音から選ばれているはず。庭園美術館の展示の時は、スタッフの方の心臓音も含まれていたそうなので、今回も新たに関係者の音が加わっているのでしょうか?カーテンに映し出されている顔は、心音の持ち主。紐のような暖簾に映し出されています。人の出入りのたびに、映し出された映像が乱れ消えます。その心音の持ち主が、今も生きているのかどうかを暗示させる効果があります。生きている人、死んでしまった人。そんなことを想起させようとしているのでしょうか?人の存在は永遠ではなく儚い・・・・

 

〇種明かし

ところがこの顔写真は、ボルタンスキーの7歳~65歳までの顔写真合間に』(2010年)という作品だということがわかりました。そして心臓音もボルタンスキーのものという話をどこかでみかけたような。

それって、なんだか反則技(笑)だって思いました。そんなこと、言われてみなくちゃわからないことだし、そうだと知ったら、やっぱり、豊島の展示の方がいいとは、言いにくくなります(笑)

このインスタレーションを見た時、(庭園美術館の時もそうでしたが)豊島の《心臓のアーカイブ》には及ばないって思ってました。ボルタンスキーがなんと言おうと、やっぱり現地に勝るものなしだって思います。

 

 

〇「匿名の誰か」vs「ボルタンスキー」

でも、この心臓音や画像が、ボルタンスキー本人のものだということになると、話は変わります。意味付けができてしまいますから。

しかし、その話を聞かなかったら… 捉え方は違います。何も知らずに見てたら、one of them の心臓音でしかないし、顔写真なのです。 

そして、豊島で心臓音を録音した人の中には、もしかしたら、自分の心臓音が、いつか展示に使われるかもしれないという、わずかながらもかすかな期待を抱いている人もいるかもしれません。その機会を、ボルタンスキーが奪っちゃったことになる…って(笑)

なんだか、作品のテーマからは、離れた方向にずれ始めている気がしますが、豊島の展示にはかなわないという印象には変わりがありません。

  

 

■展覧会を見終えて

3年ぶりのボルタンスキー展。何も知らずに見た時とは、少しは変化しているはず。にわか知識を得て見る展覧会はどのように私の目に映るのかを確認するように見ていました。

 

〇「死」よりも「生」を感じた展示

生死をテーマにしているけども、特に「死」のイメージの方が強く、怖いとか、おどろおどろしい印象を持たれがち。そういう事前情報があったとしても、私には「死」というよりも「生」のイメージの方が強く伝わってきました。

例えば、《あの世の門番》は、単純な構造で人が歩く姿を表現していることに「生きる」を感じさせられました。《保存室》の衣類の抜け殻も、天使が天に昇る姿に見えました。光をあてて影を映した人形は、コミカルな影絵のようでした。冒頭の嫌悪感を伴う音や映像も「なんちゃって」では?と思ったり、悲惨な状況すらも、生きていることの証ととらえました。

 

 

〇感受性が鈍い?

ボルタンスキーの作品は、予備知識がなくても、本能的にどこか怖さを感じさせられると聞きます。私にはそれが、全くと言っていいくらいありませんでした。(最初の印象が「うんち」から始まったということもあるかもしれません)

この展覧会にでかけようと思う方というのは、予備知識がないと思っていても、なんらかの形で、ボルタンスキーについての情報を耳にしているのだと思います。その中で、ボルタンスキーのイメージというのができて、怖さを感じるのでは?と思っていました。

ところが、知識なく初めて見ても、やはり怖いと感じるようなのです。⇒(*5

怖いと感じなかった私は感受性が鈍いから?だからそれを受け止めることができないのかなぁ…と思ってしまいました。

ホロコーストや死をテーマにしていると知ったあとでも、「死」よりも「生」のメッセージの方が強いのです。

 

〇作品は見る人の人生を映す鏡

ボルタンスキーは、自分の作品を、見る人の人生を移す鏡だと語っています。私は、死よりも生きることの方に目が向いてるのかな?と思いました。

それは、生と死は、表裏一体であること。死で終わりではなく、命は生まれ変わり、再生や循環すると捉えているので、死を見ても、生につなげて捉えたのだと思われます。

たとえば星野道夫さんの「ナヌークの贈り物」のような世界観⇒(*6)そして、ボルタンスキー自身の生命の連鎖をイメージさせる言葉に共感していました。⇒(*7

 

 

〇見てる方向が違うのかも

作品を見る方向が、違う方向に向かっているのかも・・・・

怖いと感じないのは、それを感じる前に、これはどうなってるんだろう。どうやって作ったのか。どのように動かしているのか、どうやって投影しているのか。作品の仕組みに着目してしまうのです。怖いと感じるセンサーは別のセンサーに代わってしまうようです。

そもそも「どうなっているのか?」と捉える裏には、これらは、作られたものだという認識を持っているということになります。そのため怖いという感覚は、すでに排除されてしまっているからだと思いました。

冒頭の目をそむけたくなる映像《咳をする男》も、これは誰かが演技をしている。吐き続けるための、仕組みが組み込まれている・・・ と、制作側の視点にシフトしていたのでした。

しかしながら、いつもなら、映像ものは、最初と最後を必ず確認していました。さすがに、この映像は、最後まで見続けることができませんでした。そのため《なめる男》という作品があったことは、知らずにあとにしたのでした。

 

〇痛みは生きている証

作品は見る人の人生を映す鏡とボルタンスキーは語ります。そこで、思いだされたことがあります。 

それは、星野富弘さんの詩です。元体育教師で、クラブ活動中に、頚椎損傷。車いすの生活をしながら、絵と詩を描き続けている方です。学生時代に出会った詩です。

 

よろこびが集まったよりも
悲しみが集まった方が
しあわせに近いような気がする

強いものが集まったよりも
弱いものが集まったほうが
真実に近いような気がする

 

・・・・・・

 

なぜ、よろこびが集まったよりも、悲しみが集まった方が幸せに近いのか・・・・ 学生時代、考え続けていました。夜な夜な、同級生や友人たちとも語り合いました。

そんな中で、看護科の友人が語ったこと。患者さんと接していると、痛みを発してとても、苦しそうで、こちらも辛い。でも、痛みを感じることができるのは、生きていることの証だって思う。それと同じじゃないか・・・・ 

「悲しい」と感じるられるということは、生きていることの証。 

星野さんも、治療の過程で、苦しくて苦しくて、どうでもよくなっていこともあったけども、その苦しさを感じるということは、生きていることに他ならないって思うようになったんじゃないか?

 

その頃、アキレス腱を切って入院。医学部の先輩から入院中に、お見舞いに『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』をいただきました。患者としての立場から、医療をみつめよ。というメッセージだと受け止めました。

看護科の友人や同級生とも回し読みして、「生きる」ことや、治療に伴う痛み、緊急時の処置についてなど、語り合っていました。大腿部切断という身もだえるほどの苦しみ。死んだ方がましとさえ思ってしまう処置。医師は現役当時、痛がる患者さんに対し大げさすぎる患者さんと思っていたそう。ない脚が痛むわけがないと・・・・ 

しかし、自分の身に起こって初めてわかる痛み。しかし、この痛みは生きていることの証でもある。その後の治療の痛みも「生」を感じる糧になったという話を見聞きしていたことが、あの目を覆うような状態の「咳をする男」を見ても、まだ生きている。と受け止める私のバックグランドなんだと思いました。

 

〇作品は見る人がその人の体験を通して完成させる

デュシャンが言ったように、ボルタンスキーも、見る人の体験によって作品は完成すると語っています。だから、自身の作品は、見る人の人生を表すと。

これと同じこと、庭園美術館での展示の時にも語っていました。それを聞いた時、私は、反発していました。見る人の人生を映し出すのはあなたの作品だけではない。そう思うのは驕りだとも(笑)私はあなた以外の作品からも、自分の姿を何度も見てきた!って⇒(*8

 

今回、美術手帖のインタビューに次のような質問がありました。

ボルタンスキー、「アート」と「アーティスト」のあるべき姿について語る|MAGAZINE | 美術手帖

ーー「見る人が自分の体験を通して作品を完成させる」というのは、ほかのアーティストの作品についても言えることですか? 鑑賞者が出した答えが、当初意図されたものとまったく異なっていたとしても、それは構わないのでしょうか?

 ボルタンスキーは答えていました。

すべての作品についてそうだと思います。

 

どんな作品でも、それを通して、自分の人生が映し出されます。ボルタンスキーの作品を見て、多くの人が本能的に、死や怖さのようなものを感じるらしいことがわかりました。しかし、私にはそれを感じられないのです。それはなぜなんだ・・・・と考えていたら次第に見えてきました。

作品を見て感じたことには必ず、何か理由があると思ってきました。その理由を見つけることが面白いと感じます。それは自分がこれまでに体験したり見たり聞いたりしたことによって作られていることを美術鑑賞を通して発見ができ、それが今につながっていると連鎖を感じさせられるからです。

 

■記録をしておくこと(追記:2017.07.14)

作品に触れた時に感じたことを記録しておく。その時に感じたことは、次第に薄れてしまいます。時間がたっていても、書いておくと、その後の振り返りのヒントに。

 

〇今、感じたこと、実は最初に感じてたり・・・

あとで振り返ったら、同じようなことを、言葉の表現は違っていても、比較的早い段階で、気づいていたことが見えたりすることもあります。

食べログで食の記録をしていた時にも、同じようなことを経験しています。今、初めてそれを感じていると思っていても、全く違うシチュエーションの時に、同じようなことを感じとってていたのです。そんなことが何度となくあり、それが自分の捉え方になっていきます。

長く続けている人も同様のことを語っていました。今、気づいたと思っていたことが、実は、結構前に気づいていたことだった。

 

美術鑑賞でも同様なことがあります。これは、新たに感じたことかと思っていても、過去の記録を探ると、似たような感覚を繰り返しています。その蓄積が、自分のモノの感じ方、捉え方になっていくようで、そのプロセスが見えてきます。

さらに、人が感じることの裏には、必ずその元になる経験や知識があるということも見えてきました。

 

椹木野衣氏の言葉

記憶や体験はその人そのものを作り、それがその人の感性につながる。

 

『感性は感動しない』を書かれた多摩美術大学美術学部椹木野衣教授の話

「絵の見方がわからない人」が知らない真実 美術館の売り文句に流されていませんか?より

ある絵をいいと思うのはその人が素の自分に帰るときだ。だから相性がある。なぜその絵がいいと思うのか。実は自分が過去に体験した出来事、出会った人とすり合わせて考えていたりする。記憶や体験は、その人そのものを作っていて誰も否定できない。それが絵の批評に反映する。

過去にこんなことがあって、自分の今の感性につながっていると気づかされた。こういった見方のほうが人に伝わる。

 

感じたことだけなく、そう感じる裏にある自分の体験は何かを探ってみる。

 

ボルタンスキーの作品から私が受け取るのは、死ではなく「生」でした。

それは、植物を育てていた時に理解したた生命の連鎖や、循環がもとになっていると当初、思っていました。ところが、原点は、さらに遡り大学時代の学びや語らいにあったことがわかりました。

こうして、当初、思っていたよりも、さらに遡った原点の発見があります。それは、たいていは、高校あたりから大学のこの時期に集約されていると感じているところです。自分が感じることの大元になっている原点を探しながら、鑑賞をするというのも、美術の楽しみの一つだと感じています。

 

■《ミステリオス》について沈思黙考

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《ミステリオス》という作品について、疑問に感じたことや考えたことなど、その変遷をこちらに移動(2019.08.07)

〇(追記:2019.07.27)鯨は世界の起源を知る生き物

はえら呼吸でなく肺呼吸をする哺乳類。人と同じ哺乳類の仲間。しかし、よくよく考えたらおかしい・・・・ 進化の流れで考えたら、鯨が肺呼吸を持ったのは、肺呼吸を必要とする状況があったからと考えられます。その状況ってどんな状況だったのか?でも、陸には上がらず海に留まる必要があったのか、それをあえて選択したのか、そこにはきっと理由があったはず。

一方、魚が陸に上がり、えらと肺で呼吸をする両生類になる。そのあと、哺乳類に進化して肺呼吸する一群に。そのグループの一つが人間。

と考えると、同じ肺を持つのに、鯨と人間の間に連続性がありません。どういうことなんだ?と、疑問を抱いていました。

ボルタンスキーがこの作品で意図したことは、私が受け止めたこととは、違うみたいです。でも、鯨と人の呼吸機能の関係というのは、私自身が理解しておきたいと思う問題となりました。

ボルタンスキーは、作品を通して問題提起をしているといいます。それに触発されて、自身も問題提起をして欲しい・・・・と。

 

科博に訪れたついでに、B2F「生物の進化」のフロアに立ち寄りました。

思わぬ進化のプロセスを知ることになりました。鯨というのは、水生動物が、進化の過程で肺を持ったのではなく、一度、陸上に上がった動物が、また、海に戻ったのだということがわかりました。 

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さらに、水生爬虫類と水生哺乳類は、当初、形が違っていましたが、多種多様に適応して進化していきました。そして2憶年という長い時間をかけて、驚くほど似たような形に収れんして進化していったのでした。それが、イルカやクジラのような形です。

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進化の流れというのは、進むだけでなく、行きつ戻りつしていたのでした。
箱根の鉄道、スイッチバックのようです。

パタゴニア地方の諺、「鯨は世界の起源を知る生き物」という伝説。まさに、生き物が進化するプロセスの根源的な部分を知ることになりました。

 

〇(追記:2019.07.27)海は原始の海 生命のゆりかごを想起

地球上の生物を生んだ海。生命の起源は、水中のアミノ酸を始めとする物質によって誕生したという科博で見ていた下記のような画像を、この作品の海の映像からイメージしていました。

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(科博 2017.06.20 地球館 1階多様性の由来)

 

(科博 2017.06.11 大英自然史博物館展関連) 

生き物の始まり 水中のアミノ酸がDNA、RNAとなり、タンパク質を合成して細胞構造を作り生物が生まれる。地球上の生物を生んだ海。生命の起源。

 

「3.絶滅と進化を促す地中環境」

また水中に浮遊したり体積して雪のように見えるマリンスノーも頭に浮かんでいました。美しいフォルムを持った化石の体積物ですが、これらは地球環境の歴史を知る手がかりを与えてくれます。

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(科博 2017.06.11 大英自然史博物館展関連)

海は原始生物をはぐくみ、今尚、その痕跡を海の中に留めています。その間に、鯨のような巨大な生物が生まれ、海に暮らしながら肺機能も備えていますが、人間とは暮らす場所が違います。

しかしいずれも、生命の起源は同じで、体の構造も共通のものを持っており「人類みな兄弟」あるいは、長い生命の歴史や進化の時間の中では、我々の生きる時間は点にすぎません。鯨が骨となる風化の時間も、人の生きる時間も、生命の長い歴史の中では同じようなもの。

 

地球に生命が生まれる元「原子生命体」からの時間を「海」の映像が象徴しており、私たちはそのゆりかごの中に抱かれて一瞬の時間を生きている。でも、その生命は、次の長い歴史へのバトンをつないでいる。

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(科博 2017.06.11 大英自然史博物館展関連) 

 

というように、生命の連鎖のような考え方がベースにあるため、死を特別に切り離して考えることをしないのだと思います。次の生への通過点というという捉え方をしているため、ボルタンスキーの作品から、特に「死」をイメージさせられることがなかった。つまり、決して感受性が鈍いわけではなかったのだと思いたいです(笑)

 

〇(追記:2019.08.01)鯨はいつ頃、どうしてここに?

骨になった状態の鯨を見た時に頭をかすめていたこと。長い時間の経過を感じたわけですが、この鯨はいったいいつ頃から、ここに存在しているだろうと考えていました。そもそも、これは鯨なのかということもありましたが、鯨と仮定して・・・

打ち上げられて、白骨化した鯨と思われますが、その時間というのは、どれくらい前のことなのでしょう。数十年、数百年、数千年(?)という長い時間がここに存在しているのか。あるいは、近い過去のことなのか・・・・・

数十年、数百年前~数千年と考えると、鯨の骨は、このような原型の形を残したままで保つことができるのでしょうか。暴風雨もあるでしょうから、原型は崩れてしまうはず。(その後、パタゴニアは、風が強いのが代名詞だとわかりました)

これだけ、形が保たれているということは、それほど遠くない過去に打ち上げられたと考えられます。近い過去に打ち上げられ、そのまま放置されて白骨化したのだとしたら、白骨化までどれくらいの時間がかかるのでしょう?

その間、現地の人たちは、この鯨をそのまま、何もせず、白骨化するのを待っていたのでしょうか?という素朴な疑問が、頭をよぎっていました。ニオイもすごいだろうし、途中経過のびらん状態も、目を覆う状況のはず。もっともこのあたりには、人がいない地域だったから放置されていても大丈夫だったのか? 先住民の間に伝わる伝説。今、パタゴニアの人口はどういう状況なんだろう・・・・

ボルタンスキーは、たまたま、この白骨の鯨を発見して、作品にしようと思ったのでしょうか?ふと、よぎってしまいました。この鯨、実は作り物で、模型の骨を、ボルタンスキーが置き、そこにストーリーを作って作品にしているのではないか。

というのも、今年(2019)の3月に行われた科博の「哺乳類大行進2」で、鎌倉に漂着した鯨の研究レポートを目にしたことを思い出していたからです。

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そこで行われていた、一連の処置の様子です。研究調査をしないにしろ、鯨の内臓を放置したままにして、ここにある映像のようなきれいな白骨になるのか・・・・ という素朴な疑問。それが次第に、どんどん、大きくなってきたのです。

鎌倉に打ち上げられた鯨の標本を作る際、私は鯨の全てを標本とし保存するのだと思っていました。しかし、死後、何日かたって海岸に打ち上げられた場合、内臓の腐敗が進んでいます。そんな状態の内臓を、どうやって標本にするのか?何か技術があるのだろうと思っていました。この写真を見て、察することができました。

内臓をそのまま放置したとしたら・・・・ ニオイがたまらないはずです。パタゴニアの住民は、耐えられたのでしょうか?また、腐っていく過程は、鳥や動物がやってきて荒らすでしょうから、悲惨な状況が想像されます。そもそも、ここには、人はいない場所ということなのでしょうか?

そして、鯨が打ち上げられそのまま放置したら、どれくらいで白骨化するのか調べてみました。すると、鯨は、腐敗によってメタンガスを発生し、爆発するということがわかりました。過去に連鎖的な事故も起こっているというのです。

ということは、この作品のこの鯨の骨は・・・・・ 

沈思黙考すると、いつも、作品は何でできているのか? どうやって作ったのか。そこに帰結します。そして、新たな側面が浮かび上がってきます。

鯨の内部から出てきた様々なもの 

 

ボルタンスキーの問題提起をする作品。そこから自分自身も問題を提起する。

鯨の骨が浜にある。その鯨は打ち上げられたものなのか?なぜ鯨は打ち上げられてしまったのか?その理由を考えてみると、そこには、地球環境の問題などがあったり?様々な原因が考えられるようです。今、地球で何がおきているのか。現状を知る契機になります。また、打ち上げられた鯨からも海洋汚染の実態がわかります。

 

「鯨は世界の起源を知る生き物」「時間の起源を知る生き物」というパタゴニア地方の伝説。今、打ち上げられる鯨からも教えられることは、限りありません。

 

作品を通して送られてくるメッセージ。そのストーリーをいかに作り出すか・・・・・

《保存室》の古着の饐えたニオイ。このニオイって、元来の古着が持っているニオイなんだろうか。ひょっとして調香された香が使われているのではないかな・・・・と考えてしまいました。作品に没入ができず、死や怖さを感じられない理由は、そういうところにあるのだと思いました。

ある研究者の方との会話。「つきつめれば、全て物質なんですよ」その言葉に妙に納得してしまいました。そして、骨格標本は、3Dプリンターで精巧に作り出すことができることも知ってしまいました。あの鯨の骨はいったいなんだったんだ・・・・と考えてしまうのでした。

 

〇(追記:2019.08.01)パタゴニアと鯨の問題提起

パタゴニアに伝わる鯨の伝説、世界の起源を知るという話には、具体的にはどんな話があるのかと思って調べたら、こんな情報が・・・・・

337頭の鯨が座礁して死亡したそう。パタゴニアの上空から見ていて発見したといいます。現場は人里から遠く離れた未開の地のようなので、300頭以上の鯨が放置され、それが爆発したとしたとしても、大きな被害には至らなさそうです。これだけの数の鯨がなぜ死んでしまったのか?詳しくはわからないそうですが、赤潮の影響が一つの原因ではないかと推測されているよう。なぜ、赤潮がおきるのか・・・・・

パタゴニアの鯨伝説をきっかけに、パタゴニアの鯨はいろいろなメッセージを送ってきます。

 

〇(追記:2019.08.02)パタゴニアに伝わる伝説 

地球や生命の起源を調べつつ、パタゴニアに伝わるという「鯨は世界の起源を知る生き物」「時間の起源を知る生き物」この言い伝えについても、もう少し詳しく知りたいと思って調べていました。

そこで、「パタゴニア」「クジラ」「伝説」で検索してみたのですがそれらしい情報が見当たりませんでした。(探し方が浅いのかもしれませんが)パタゴニアの原住民は、テウェルチェ族といわれていることがわったので、こちらで捜してみたのですが、やはり、ひっかかってきません。

「鯨は世界の起源を知る」という情報の出典を知りたいと思い始めていました。これもまたいつもの癖です。言われたことをそのまま鵜呑みにしない。そんな話が、本当にあるのか確かめてみないと、納得しない・・・・ ネット上ではみつからないのかもしれませんが、しかるべき本をあたればみつかるのかもしれません。

 

〇(追記:2019.08.05)作品はパタゴニアのどんな場所にある?

この作品のある場所は、どんなところなんだろう。チリのアタカマ砂漠のように人が近づけないような場所なのか。昔は未開の地だったかもしれないけど、今は人が住んでいたり?作品を見に行こうと思えば行ける場所なのか・・・・

そして、白骨のクジラの骨が打ち上げられた(?)と考えられる場所…

海岸線から遠くない? 満潮になれば、ここまで波打ち際が迫るのでしょうか?そして浜辺との地続きではないような地形。この浜辺もしかして・・・・ この作品のある場所っていったいどこなんだろう。

図録にそれが記されていました。作品の設置場所は、バイーア・ブスタマンテ(パタゴニア東部 アルゼンチン南部のチュプト州にある太平洋に面した村)住人はごくわずかだそう。

そして、南米の国際現代美術ビエンナーレ「ビエンナルスール」の第1回展のために制作されたものだとわかりました。

地図でその場所を確かめてみました。最初にこの場所の映像を見て受けた印象。ここは、人が行きにくい場所ではなさそう。

文脈にそって作られていく作品・・・・というイメージが次第に大きくなっていくのを感じ始めていました。そこに「あざとさ」「嘘くささ」というKWを目にし、その印象が次第に大きくなっていくのを感じ始めています。

 

〇(追記:2019.08.06)ストーリーのソース

パタゴニアでは鯨は世界の起源について知る賢く古い生き物であると信じられている。答えのない問いに対して「鯨に聞け」という言い回しさえあるらしい。(図録p160)

上記についての出典が示されていました。

*イスラエルで開催されたボルタンスキー展(2018年6月1日~11月3日)のためのタブロイド判解説ペーパーより

提示されるストーリーのソースを求めても、なかなか1次情報にたどりつけないもどかしさ。鯨伝説、アニミタス・・・・ 次第に本当にそんな話があるのか…と疑いだしてきました。

これまで、疑問に感じたことは、実物を見て確かめる。現地に行くとその空気からわかることもいっぱいあります。それが自分の行動規範だったことに気づきました。(さすがにここには行けませんが、その代わり、googleマップでどんなところかを確認してました)

・鯨の骨の残り方、おかしい⇒模型じゃないか
・鯨の骨格ってどうなってる?⇒鯨の標本や撮影写真を探す
「この骨、きれいすぎない?」と友人は言った⇒そうなの…
 この鯨、模型じゃないかって思うの。
・この一帯、人は住んでいるのだろうか?
・海と鯨の位置関係がおかしい
   ⇒満潮になればここまで水際があがってくる?
   ⇒砂浜に連続性がないんだけど
   ⇒もしかして、これ、鯨の下に砂を敷き詰めてない?

そうした、様々な疑問が沸き起こり、実物を見てみたいなぁ…と思ったいたところに、こんな図録の解説。

バイーア・ブスタマンテのインスタレーションについて、人がそれをパタゴニアに見に来ることは重要ではない。重要なことは自分がここでやったことを知っておいてもらうこと。自分の物語が語りつがれて生き続けていくこと。

オブジェとしての作品そのものより、その場所に「物語」あるいは、「寓話」が残ることの方が重要だと語る。

 

〇(追記:2019.08.06)作品に込める文脈について考える

やっとわかりました。これまで感じてきた違和感や疑問。これらは、作品がオブジェであることを理解すれば、納得ができるのでした。

当初、白骨化した鯨に遭遇し(どうして遭遇できたのかも考えてました)、そこから、生命の起源や進化、誕生と死、そして死後も残り続けていくこと。そんな光景にインスパイア―され、現地で知ったストーリーとからめて出来上がった作品。という文脈だと理解していました。

ドキュメンタリー番組だと思って見ていたら、フィクションを随所に織り交ぜて作られていたのを知った感覚。記事だとばかり思って読んでいたら広告だった。そんな感覚と重なりました。

そんな折に目にしていた「あざとさ」「嘘くささ」という言葉と重なってしまったのでした。作品が持つ「文脈」や「意味付け」という言葉に対して、美術作品の文脈というのは、実は巧妙に作り込まれているものだった。それに合わせて素材も準備していく。この世界では、当たり前のことなんだろうけど、それを知って、ガーンとなっている感じ。

そうそう、鯨が打ち上げられて調査し標本にするときも、内臓は、調査後、破棄されていました。死後何時間もたっているものは標本には適さないので当たり前のことなのですが、ちょっとしたカルチャーショックでした。考えたら当たり前なのですが、ちょっと違う立ち位置にいると、そこに一瞬の衝撃が走ったのです。

 アートの中に込められた丁寧な文脈づくりというものを知らされてしまった感じ・・・・ (その世界の人にとっては、当たり前のことでも、外野からは違う受け止め方をされる。自分の世界にもありそうです)

 

〇(追記:2019.08.06)ぶらぶら美術・博物館にて

ボルタンスキ―は語ります。鯨に問い続けることだと。何を問い続けるのか。出演者がちらりと漏らしました。「日本の捕鯨問題」「環境問題」・・・・

クジラから想起されることとして、同じようなことに浮かんでいました。鯨を食べる日本人は野蛮。同じ哺乳類を食べるのはかわいそう。しかし、犬や猿を食べる文化だってあります。調査捕鯨へ切替わりました。鯨は保護で、増えており、コントロールすれば、捕鯨は可能といういう話も。逆に保護し続けたら増えすぎる問題になったりするということも耳にするようになりました。また、捕鯨パッシングをする団体の裏側なども、耳に入ってきます。鯨は今も、昔も社会を写す鏡なのかもしれません。

日本では鯨を余すことなく役立ててきたという文化があります。「いただきます」という言葉は、外国語にはなく翻訳できないといいます。命をあますことなくいただき、役立てますという感謝の念が入った言葉。アイヌでも残酷と言われる風習がありますが、同じような命との向き合い、全てを生かしています。

また、最近では、鯨の胃の中から出てくるプラスチックごみで、環境の汚染と、その原因が日本であると叩かれる原因に。その裏に誘導的な、ミスリードが含まれているという話があったり・・・・

同じ肺呼吸をする仲間。そこから派生する問題。たまたま陸に打ち上げられ、そのまま白骨化して今に至りここに。そんな姿を何かの象徴性として語らせようとしたのか?ということも、一方では考えていました。白骨の鯨から想起されること。出演者がちらっと発した言葉を耳にして、思い浮かべることは、同じだと感じさせるせられました。

捕鯨や鯨食は、日本人であることの影響が大きいです。ボルタンスキ―は、どんな問をかけているのか、人に考えさせるだけでなく、提示してほしいなと思いいました(笑)

 

「鯨は、 無駄がない」じゃあ、実際にどんなふうに使われていたのかを調べててみたら、下記のような記事に遭遇。

 

日本鯨類研究所 1996年発行「捕鯨と21世紀」より)
三崎 滋子 日本鯨類研究所 国際関係担当 

鯨に関してまた新たな問題を知ることになりました。

 

〇(追記:2019.08.11)地下1階の休憩コーナー 紹介映像

国立新美術館地下の休憩コーナーで、これまでのボルタンスキーの活動に関する映像が上映されているというので、見てきました。閉館の21時の1時間ほど前。見たのは途中からでした。何かヒントになることがあるかなぁと思いながら、途中、うとうとしてしまいました。

ただ、展覧会場で感じることができなかった怖さや、おどろおどろしさを、映像からは感じられたとのは、ちょっと不思議な体験。なぜ、会場でなく映像から感じられたのかと考えていたのですが、それは、おそらく効果音や音楽などによって演出されているからと思われました。

終了し、退館を促す放送も流れています。これで終わりかと思っていたら、オープニングから流れ始めました。島に到着する様子らしく、時間を刻んでいます。よく意味がわからない流れだなぁと思っていたら、そのあとに語られたことば釘付けになりました。

「私は嘘つき」
「アートにはまやかしがある」
「そんな中で物語を感じさせることが大事」

これまで感じ始めていたこと。その答えが、ビデオの冒頭で語られていたのでした。アートには嘘やまやかしがあることを感じさせないように物語を語る。ボルタンスキ―の《ミステリオス》について、あれこれ考えていたら、嘘やまやかしを感じ始めてしまったという矛盾。そういう矛盾をはらみながら折り合いをつけているのが、アートなのかもしれない・・・・と思わされたのでした。

 

「海」と「白骨化した骨」を見てそこから何を想起するか。海と白骨化した骨の組み合わせは、生命の進化をイメージさせます。海は太古から今につながり、生命の根源。ヘッケルの『自然の芸術形態』からも、それを感じとるようになっていたことを、↓の展示から思い出されました。


深海底は、今も太古の時間が流れる未知の世界。原始的で根源的な生命が宿る神秘の空間には、崇高さと神々しさが漂います。海という重力を無視した浮遊空間でこそ生物の伸びやかで優美な形と動きが生まれる。 

 伸びやかで優美な形態の代表としてクラゲが紹介されていますが、放散虫も同様? ⇒https://kaken.nii.ac.jp/ja/file/KAKENHI-PROJECT-21200053/21200053seika.pdf

 

海の映像を見て、何を思い浮かべるのか。

「海」=「白骨化した鯨」⇒ 生命の起源 ⇒マリンスノー ⇒放散虫 たまたま、近くで行われていた展示とつながりました。

「海」は原始的で根源的な生命が宿る神秘の空間

 

〇(追記:2019.08.11)いのちのてざわり

www.youtube.com


むりやり化粧していない食べ物。(オレンジ色した卵、)素朴だけどそのままおいしい食事。虚飾と本質。

文明が進むと黄味のコレステロールが食べたい氷河期人類の欲望みたいな卵を食べることになる。氷河期を生き抜いたコレステロールとカロリーへの欲求がコンビニエンスストアに現れる

コレステロール的なうまさではなく白身のおいしさ。

エッジを際立たせようと思って何かをすることは音楽業界にもある(味付け)

加工して何かでなく、そこに響くものがあるか・・・・

低コストでお化粧した卵づくり。何が正しいかでなく響いてくるもの。

本来の命のてざわりに触れる。自然本来の命。まっとうな命を食べると目が覚める。

〇商業主義 アート主義

化粧したものはわかりやすい。練習しなくても食べたらおいしい。しかし素朴なものをおいしいと感じるには、練習しないと難しい。

おいしさも含めた循環の気持ちよさ。草間彌生芸術も農業もアート。

お客さんを意識して調理されたものは、意図的なものを感じる。

原材料の段階で客のことは意識しない。SNS youtuberも手が入るとわかる
どうしたら混じりけのないままにできるか。原材料の複雑性ではなくどうやってやっていくかというのが、アートと似ている

・エッジをきかせる・・・・どこでもやってること

・化粧をする・・・・それにならされる 虚飾と本質

・循環の気持ちよさ・・・・練習しないとわからない

 

■関連

■クリスチャン・ボルタンスキー – Lifetime 国立新美術館(前編) ←前
■クリスチャン・ボルタンスキー – Lifetime:国立新美術館(後編) ←ここ

 

 

■脚注 補足

*1:■最初に感じたことの繰り返し(追記:2019.07.04)
それぞれの作品がつながりあって、巨大なネットワークが作られていく。これ、今、この作品を見て、感じたことかに思っていたのですが、過去に見たボルタンスキー展の記録の中に、巡礼の地がつながっていくということが記されていました。 

《ささやきの森》が神話となり、巡礼地となることを頭では理解しているのですが、心は納得していなかったようです。「実際に行くことより、知っていることに意味がある」ということを、苦労してここまで来たのにと、受け入れることができていなかったのでした。 

また、作品の過去の記録と今を比べたみると、今、感じたことと思っていることが、すでに最初に見た時に受け止めていることだったということがわかります。あるいは、最初に見た時の方が、もっといろいろなことを感じていたと思うことも。 

おそらく知ってしまったことによって、削ぎ落されてしまうことがあるのだと思います。

 

*2:■世界の起源
「世界の起源」と言われても、『「〇〇の」世界の起源』と、範囲が限定されていないと、つかみどころがなくよくわからないと感じてしまうのが、私の物事の受け止め方なんだと思いました。

これは、その地方の言い伝えで、鯨を神聖化し、鯨は何でも知ってるんだということを言いたいのはわかるのですが‥‥ 「世界の起源」と言うと、「人」や「動物」など生物学的な起源もあるし、「音楽」など文化的な起源もあるだろうし。いろいろな捉え方があって限りなく幅が広く、つかみにくくてよくわかりません。でもこれが「世界のはじまり」と言われたら許容できてたなぁ‥‥と。言葉選びのちょっとしたニュアンスの違い。

美術展と科博で行われるテーマの捉え方の違い。時々感じさせられていた齟齬は、テーマである「ワード」をどうとらえるかの違い。しっかり定義をし、矛盾点については、その場限りの条件を与えて考える。そういう物ごとの捉え方、思考が染付いていたことに気づく。そしてそこに心地よさを感じていたということを最近、確認したところだったのですが、今回、この展示でもそれを感じさせられました。


*3:アニエスb発行のチラシ(追記:2019.07.14)
このペーパーを見るなり、アニエスbの広告チラシだと理解していました。そのため、作品に関するこのような詳細の解説がされているとは思っていなかったのでした。

4-1 チラシ  大型のタブロイド紙

このチラシは、アニエスbがファッション界では後発ブランドとしてパリに創業するにあたり、いかに認知してもらえるかということを考えて生み出されたものだそうです。現代美術家とコラボして広告ポスターを制作したのだそう。創立者のアニエス・べーは、もともと美術館のキュレーターを目指していたため、その後も、若手のバックアップと、自社の広告を兼ねて、創業当時から「ポワン・ディロニー」というタブロイド紙を発行してきました。8ページの紙面を使って自由に作品を展開していて、年6回、創業以来発行し続けているのだそうです。アニエスbや美術館などで配布されいます。その歴史ある継続の一枚ということになる。

 

*4:■扇風機を使ったインスタレーション
扇風機というのは、ボルタンスキーの作品において、重要なアイテムだったことがわかりました。(参考:現代美術の巨人の秘密に迫る【ボルタンスキー検定】 | カーサ ブルータス Casa BRUTUS

大地の芸術祭の《最後の教室》で扇風機が使われており、廃校になった小学校の体育館に枯れ草が敷き詰められ、何台もの扇風機を回していました。扇風機によって草の匂いが漂い、閉じられた空間に夏の風がただよう空間だったそう。これが2018年、新作の《影の劇場 〜愉快なゆうれい達〜》へとつながっていきました。

 

*5:〇初めてボルタンスキーを見た人たち。先入観を持たずに見たら・・・・

 

*6:■ナヌークの送りもの 

生と死に境がない。命は循環している。命は生まれ変わる。食うか食われるかの世界。しかしどちらが命を落としても同じこと。

 

*7:■生命の連鎖(追記:2019.07.14)
5.  受け継がれていく命より 

旧朝香宮邸には、さまざまなタイプの亡霊が存在しています。きらびやかで華やかな紳士淑女の亡霊もいれば、異なる亡霊に睨まれた人も・・・

私たちの顔は祖先から受け継がれて作られている。鼻は・・ 目は・・ そして精神も。私たちは、私たちより前に生きた人たちから受け継がれている

人類の生命の連鎖を感じさせる言葉

 

 

5-1  ボルタンスキ―作品の通奏低音より

個々の見る人によって呼び起こされる記憶は異なり、違う解釈が生まれます。一見、「共通」という記憶も、一様な解釈ではなく、それぞれの多様な記憶とリンクして、呼び起こされてくる。つまりは、見る人の経験によって、作品から受け止められることは変化し、多様性を持った作品となって見る人によって完成される。

芸術家は作品を見る人に対して刺激を与え、

見た人は今度は芸術家となって作品を完成させる。

自らの過去やバックグランドを通して理解する。

そのためにできる限り、普遍的であるようにすることが私の役目

 

*8:■作品は見る人の人生を映す鏡(追記:2019.07.14)
3-2  芸術家には顔がなく、鏡であって見た人の顔が映っている
カーサブルータスより 

「私の作品にはすべて意味や理由があるけれど、それをすべて話さないほうがいいだろう。「私の作品は」見る人の顔が映る鏡だ。見る人が、自分が何を欲するか、何を必要としているかに気づいて欲しいんだ。金色の山はとても美しく、崇高なイメージがある。金は権力や地位の象徴でもある。でもこれが緊急用ブランケットでできているのに気づくと、また違う意味が生まれてくる。どんな意味を読み取るかは観客の自由だ。見る人がそれぞれ、自分が見たいと思うものを見てくれればいい

 

5-4 エマージェンシーブランケットの素材や仕組みは?

 作品から離れて素材や機能への興味に代わってしまうのでした。まさに見る人の顔がそこに映っているわけです。しかし、それはボルタンスキ―の作品に限ったことではありません。アート作品を見るというのは、「その人の根本的な思考が映し出されるもの」だということはこれまでいろいろな作品に触れる中で感じてきたことでした。その時、その時のファーストインプレッションを忘れないため、そしてその後の変化を記録しておくために、ここを立ち上げたわけです。

作品には自分の思考が映し出される。それは、当たり前のように受け止めていました。それを最初に感じたのは、いつのことだったのか、考えていたのですが、やっと思い出せました。

 

■作品は見る人の人生を表す鏡と最初に感じたのは

2015年、11月。京都で行われた琳派展を見たあと、あれこれ、疑問に思ったことを調べていた時のことでした。ある方の考察を目にした時、その方が生きてきた人生が見えたように感じました。これまでどんなことを学び、どんなこと考えながら生きてきたのか。

つまり、作品を見た感想を語るということは、自分自身をさらけ出し、これまでの生き方までも露呈してしまうという怖さを感じさせられていました。

■絵画の鑑賞について

自分の感覚で感じるままに観ればいい・・・・ その一方で、知っていることに照らしながら、よみ解くおもしろさ。

下記の参考サイトの中で言われていますが、「自分の持つすべての知識を総動員して」と書かれていました。

つまりは、鑑賞するこということは、ある意味、その人が持っている知識がすべてがさらけ出されるという怖さのようなものも感じてしまいました。

自由に感じるままに、見ればいいんんだ・・・と思う一方で、これまで何を見て、何を読み、何を学んできたか。そこで得た知識とともに、新たなものの見方を創造する。価値観を作り出すことでもある。

その過程で人の考えを聞いて、さらに広げて、取り入れたり、ふるい落としたり・・・・・

絵の中にある価値を見出すと同時に、それを見て評価する人たちの価値観に触れられるおもしろさ。そこには、その人の学びや考えが投影されているようで、奥に潜んでいるものが、あぶりだされてくるのを見るかのようです。それとともに、一種の怖さまで、見える気がしてしまったのでした。

 

■参考サイト

国宝「風神雷神図屏風」公開/宗達・光琳・抱一・其一の4作品。 より

 絵画との対話は想像力に働きかけます。
 自分の持つすべての知識を総動員して、
 絵の前に対峙し“ひととき空想”にふける。
 空想を自分の言葉に変換しながら絵画を記憶していく。
 モノの見方はひとつではない。
 モノの見方を学ぶことは応用力の向上につながり、
 応用力の向上はその時々の答えの出し方に変化を与える。
 そして、
 それぞれの答えが次の創造へのヒントとなるのです。
 
 1つの答えを求める教育と同時に複数の答えを絞出す教育。
 複数の答えを絞出すための多くの知識と経験の収得。
 教育の形はデータ(既に確定しているとされる事項)の記憶に
 焦点を向けるだけでなく、
 複数のデータを自分達で創造する。
 この絵に限らず絵画鑑賞を含めて、
 “芸術鑑賞が持つ、人への導きは無限の形を有する”ことを
 知る学習能力が高まれば、
 人生は少しだけ豊かになると感じます。

美術作品の見方が変わる転機となった2015年の京都、琳派展。その時に、作品は自分を映し出すという感覚を持っていたので、ボルタンスキーが自分の作品は、その人の思考を映し出すと言われても、あなたの作品だけじゃない。と思ってしまったのでした。

また、本人を映し出す鏡は、美術作品だけはないということも感じていました。よく言われるのは、時計やバックは、その人のモノの考え方を顕著に表すと語られます。時計、バックに限らず、持ち物がその人を表すアイテムだと言われます。あるいは、机の上は、その人を表すとか、玄関、トイレは・・・というように場所がその人を表すと言われることもあります。

その人を表すものは、美術作品だけではない。あらゆるものの中に、人は映し出されるものと思っていたので、私の作品はすごい、美術はすごいみたいに語られると、それだけじゃないと私は思うと、ちょっと反発を覚えていたことを思い出されました。