コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■クリスチャン・ボルタンスキー – Lifetime 国立新美術館(前編)

国立新美術館で「クリスチャン・ボルタンスキー – Lifetime」が行われています。ボルタンスキ―を全く知らない時に、豊島で作品を見たあと、庭園美術館の「ボルタンスキー アニミタス-さざめく亡霊たち」を見ました。今回で3回目。ボルタンスキーの捉え方がどう変化したのか、記録に残しておきたいと思います。

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■ボルタンスキーを「知らずに見る」

ボルタンスキーとの出会いは、3年前の瀬戸内芸術祭。豊島に渡って作品を見たことが始まりです。その時、ボルタンスキーが何者なのか、どんな生立ちなのか、どんな作品を作っているのか全く知らずに作品を見ていました。

 

 

その後、少しずつ、現代のフランスを代表する作家で、国際的な評価を得ており、歴史や記憶、人間の存在の痕跡といったものをテーマにしていることを知りました。「空間のアーティスト」と自負し、世界中で作品を発表しているそうです。

 

作品のテーマはホロコーストと重なるものも多いということを知ったのですが、「ホロコースト」という言葉すら知りませんでした。「ホロスコープ」と関係があるのかな?と、星座から転じて、宇宙のことでも表現しているのか… なんて思っていたわけです。ボルタンスキーを知らずにこの作品を見た時の感想が・・・・

「帰郷」庭園美術館:「ボルタンスキー アニミタス-さざめく亡霊たち」にて撮影可

 

「うんち」でした。そう思った人、結構いたようです。⇒(*1

しかし、「うんち」に意味付けをしてました。ボルタンスキーは、「生と死」を作品のテーマにしているとのこと。

そしたら、うんちを代謝産物ととらえ、それが生きていることの証。人は代謝によって熱を得ており、熱エネルギーだけでなく、意欲熱や情熱のようなパッションの熱も含まれている。そんなことを考えていたのでした。

 

 

作品や作家のことを知らないと、捉え方はいろいろな方向に広がっていきます。

 

 

■ボルタンスキーを「知ってから見る」・・・生立ちや作品

その後、ボルタンスキーの表現や、モチーフが何を表しているのかなど少しずつ理解するようになってきます。どんな幼少期を過ごしたか、家族構成やどのような教育を受けたかなども、知るようになりました。⇒(*2

古着写真は、よく使われるモチーフで、かつてそこにいた人の不在つまり、死を意味するアイテムとして用いられています。それを着ていた人の抜け殻を意味するらしいことがわかりました。⇒( *3

 

そうした基本的なことを知ってから見るボルタンスキー作品は、どのような受け止め方になるのか。その変化を楽しみにしていました。

今回で3回目。何も知らなかったこれまでとは、きっと違うはず。

 

「古着」の展示があれば、「生死」を表しているし、「抜け殻」を意味します。
「山」があったら、その中に「何か入っている」のかもしれない…と考えます。

 

3年前とは、想像力がちょっとは働くはず。

 

 

■咳をする男

〇嫌悪感の伴う音の正体は?

会場の外にまで 、咳き込んだ音がこだましています。耳障りのいい音ではありません。正直なところ、嫌悪感を伴います。ちょっと気持ち悪い・・・・ 

と思ったのですが、実は、これ、咳き込む音ではなく、「何か他の音」なのではと思っていました。聴覚から、咳き込み苦しそうな不快な音と判断してしまいますが、それに似せた音で、実は別の音だったり? 

一つの感覚だけで決めつけてはいけない。「音の刺激だけで判断すると見誤ることがある」という私たちへの警鐘を込めているのでは?音だけで嫌悪感を抱いたとしても、その正体を見たら、全く違うものだった。

聞き続けることに抵抗を感じさせられている「今の状況から逃れたい」という気持ちが、実はこの音は、違うものだったというオチを求めていたのでしょうか?

あるいは、もともと何を見る時にも、そのままに受け入れない自分のモノの見方からくるものなのか・・・

この音源が、どこからくるものなのかわからないまま、奥へと進んでいきました。

それにしても、のっけから不快音でお出迎えかぁ‥‥ 

と思わせておいて、実は違う音だったという、種明かしが、どこかにあるはず。と思いながらそれをみつけることができませんでした。

 

〇帰りに映像のブースを発見

帰りは、展示を逆行していて、入口から出ようとしていました。そこにブースがあったことに気づきました。入館した時は、人が多くてブースの入口に気づかなかったのと、気持ちが先に行っていたこともあり通りすぎてしまったようです。

中に入ると、包帯を巻いた男(?)が苦しそうに、血の混ざったような吐しゃ物を吐いています。あの嫌悪感のある音は、本当に咳をし嘔吐している音だったのでした。予測は、見事はずれました。

この映像は何を伝えようとしているのでしょうか・・・・ しばし、考えてみましたがわかりません。ずっと見続けていれば、わかるのでしょうか?この映像はどれだけ続くのでしょう?始まりと終わりはあるのでしょうか?

ふと、庭園美術館で展示された「アニミタス」の映像が頭をかすめました。もしかして、この映像、24時間流れているとか? 夜になったら、暗くなったりして・・・・・  ⇒(*4

この映像の始まりと終わりが気になりました。そんなことを考えているうちに、興味は別のところに移っていました。⇒(*5

 

 

〇どうやって撮影しているのか

この吐しゃ物、何でできているのでしょう。この男は、咳き込み吐くという演技をしているわけです。しかし、本当に吐き出しているように見えます。どういうしかけで吐き出しているのでしょうか?ロボットってことないわよね。

映画やドラマの撮影で血のりを作るお手伝い(監修)をしている看護師さんがいます。看護の実習で、模擬うんちが作られて、子どものおむつ替えの練習を行なっているドキュメンタリーを見たことがあります。

この吐しゃ物も、気持ち悪さを演出するために作られたもの。制作する方法がきっとあるはず。部屋いっぱいに広がる粘性の液体。どうやって作ったのでしょう?床の防水性は大丈夫?片づけが大変そう… この作品の制作過程を頭に描き、作りものとして見ている自分がいました。⇒(*6

 

〇ボルタンスキーの言いたいことは?

ボルタンスキ―が、この映像から何を言いたいのかを考えていたのですが、上辺のことしか見えません。人は、どんな時も、苦しみを背負わされている。それをどう受容し、どう乗り越えていくか。そんなことを最初のメッセージとしたのでしょうか?⇒(*7

これだけの吐しゃ物を吐いたら、人は生きてはいけないはず。ありえない量です。それでも彼は生きています。多くの人に嫌悪感を抱かせるような咳と嘔吐を繰り返しながら・・・・ 「生きていく」ということは、人に疎まれる部分もあるということでしょうか?

 

自分が、そういう状況に立たされているということを受け入れることができてからスタートする。私はこのようにとらえました。

しかし、ボルタンスキーは、別の意図があったように感じます。しかしその答えが見つけられず、それから、逃げるように別の部分に目を向けてしまったのでしょうか?
いや「何でできているのか」「どうやって作ったのか」そこを知りたくなるのは、(私が考える)本質を知るための手続きだから?

 

 

 

■ざっくり全体を一周して思ったこと 

〇大回顧展であること

まずは、作品を一周して見ることにしました。何も見ずに作品を見て、どれだけ受け止められるでしょうか?

ボルタンスキーのことは、少しわかってきたつもり。これまでとは違うはず。 

ところが・・・・ 今回の展覧会は、50年に渡るボルタンスキーの様々な試みを振り返る大回顧展です。私が見たつもりになっていた作品は、ほんのごく一部に過ぎなかったことを、目の当たりにしました。特に最初の方に展示されていた、初期のものは、全くわからず、何を表現しているのかさえもわかりませんでした。

 

〇年代別作品

作品を年代順に追うと…

1944年:パリで生まれる

1968年:短編フィルムを発表。短編映画発表

1970年代  :写真を積極的に用いて、自己や他者の記憶にまつわる作品を制作。

1972年:ドイツのカッセルで開かれた国際現代美術展のドクメンタに参加
     以降、世界各地で作品を発表する。

1970年代:国際的な活動を続けてきた
 「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ
 「瀬戸内国際芸術祭」に参加。
  継続的に作品を発表。

1980年代:光を用いたインスタレーションで宗教的なテーマに取り組む。

1990年代以降:大規模なインスタレーションを数多く手がけるようになる。
1990–91年にICA, Nagoyaと水戸芸術館で個展を開催。
      以来日本とも密接な関係を築く
大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」(新潟)第1 回から参加
2010年:「瀬戸内国際芸術祭」(香川)《心臓音のアーカイブ》を豊島に開館
2001年:ドイツでカイザーリング賞
2006年: 高松宮殿下記念世界文化賞を受賞。
現代のフランスを代表する作家として知られる。

その後:歴史や記憶、人間の存在の痕跡といったものをテーマに据える。

 

 

〇知っているのは後半の作品

私がこれまで見てきたのは、「その後」のあたりの作品が中心だったことがわかりました。ボルタンスキー作品を少しばかりわかったと思っていたのですが、ほとんど見ていないに等しかったのです。とは、いっても、後半の展示になると「これ、知ってる!」という作品が、ぽろぽろ出てきます。

 

〇作品の展示は、年代順ではない(追記:2019.07.04)

この大回顧展について次のようにサイトでは解説されています。

「空間のアーティスト」と自らを形容するボルタンスキーは、「展覧会をひとつの作品のように見せる」と語っています。本展は、初期作品から最新作までを時代順に紹介するのではなく、個々の作品を組み合わせ、一つの大きなインスタレーションとして構成される予定です。会場では配布するマップを片手にご鑑賞ください。

 

 

その一方、ボルタンスキーご本人は、

展覧会は、教会に入り、沈思黙考することと似ている。教会を訪れた時のように、自分を解放して見て欲しい。展覧会全体を1つの作品のように見て、哲学的考察に身を任せてほしい。マップも用意されていますが、見るのは、鑑賞後で・・・・

 

〇マップを見ながら? それとも後から見る?(追記:2019.07.04)

会場では薄暗い暗い中を、解説マップを片手に作品の間を行き来する方が多いようです。解説を見て確認しながら、見るのもいいですが、先入観なしにボルタンスキーの作品を見たら、どう感じるのか。どこまで理解することができるものなのか。個人的な興味があります。

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作品は年代順に展示せず、様々な年代の作品と相互に関係しているというのも、1つの見どころのようです。いつの時代も根底に流れているものが同じ。それゆえに、つながり合っていくのかもしれません。会場全体を一つの作品ととらえる。そこから、哲学的な考察に身を任せてほしいと語るボルタンスキー。

 

解説に頼らずに、何を感じとれるのか・・・・ 自分自身に問いかけて考えてみる。前半は全く、考えることができませんでした。考えることができたと実感できたのは、知っている作品が登場した後半からでした。 

 

展示の時代は、ランダムとのことですが、前半の展示は、初期の作品が多かったように感じられました。初期の作品を見ていないので、展示を見ても何が言いたいのかさっぱりわかりませんでした。

後半になるにつれ、知っている作品が目に入ってきて、これまでの見聞きしてきたことが、考えるための素材になってあれこれ想像を巡らせていました。

 

 

■理解できる作品の登場

今回の展示では、作品にはタイトルや解説がありません。音声ガイドも用意されていません。最初から、先入観なく素の状態で見ようと思っていたため、タイトルがつけられていないこと、解説もないことに気づいていませんでした。

後半になって、見たことのある作品が登場し、すこしずつ考えられるようになってきました。

「展覧会全体で一つの作品ととらえ、全体から沈思黙考し、哲学的考察に身を任せてほしい」

会場を見たあとに、解説マップを用意しているので、見て欲しい。と語った意味がやっとわかりました。

(以下、作品名を記載していますが、最初に見た時は、作品名を知らずに見てます)

 

〇デジャブ感のある作品

左手の黒い山《ぼた山》と、天井から垂れさがるスクリーン《スピリット》。庭園美術館で展示されていた作品を彷彿とさせます。そこに人のような作品《発言する》が点在しています。

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《ぼた山》(2015) 《スピリット》(2013) 《発言する》(2005)

ここでは、それぞれの作品を、新たに組み合わせることによって、別の価値を創出するインスタレーションのようなものと考えられます。それぞれの時代の作品を組み合わせることで、相互性の発見や、新たな価値をみつけ出してほしいと思っているのでしょう。

それが、ボルタンスキーの言葉「展覧会全体で一つの作品ととらえ、全体から沈思黙考し、哲学的考察に身を任せてほしい」につながっていると思われます。

 

 

〇《発言する》

スタンドにかけられた衣類。抜け殻です。人型の歩いているようなスタンドに着せています。近づくと音声が聞こえてきます。これもまた庭園美術館で見た、亡霊たちのささきを想起させます。⇒( *8

点在するいくつかの作品に近づいて何を言っているのか、聞きとろうとしました。

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しかしよく聞き取れません。勝手にこれは、英語、あるいはフランス語だと理解してしまい、これ以上、聞いてもよくわからないと思って聞くことをやめてしまいました。⇒(*9

 

この作品が、庭園美術館のさざめく亡霊がベース にあるのだとしたら、発している言葉は、この場所との因果関係は特にないはず。見る人の感覚にゆだねるもので、いかようにも解釈ができることば・・・・ 今回は、あえてイマジネーションで想像させようと、外国語にしたんだと理解しました。⇒(*10

そして、これは指向性のスピーカーが使われているはず…  しかし、今回は音の反応を確かめてみるという興味はおきませんでした。

 

解説を見ると・・・・

他の方の鑑賞の様子をから、日本語で何やら語り掛けていたことがわかりました。自分の中では、さざめく亡霊と同じコンセプトだと判断したため、何を語り、どうとらえるかは、見る人にゆだねた作品と理解し、それ以上はもういいと思ってしまったようです。そのためか、言葉も外国語と認識し、それ以上、考えることを拒んでしまったのでしょうか?

 

この作品のタイトルは《発言する》だと後で知りました。それがわかっていたら、もっと発している言葉を聞いたはず・・・ 見方が変わったと思います。(*11

 

〇《スピリット》

スクリーンは、庭園美術館の《眼差し》《帰郷》を思い起させます。⇒(*12

そして子どもは、この目を見て、怖いと近づかなかったという話を思い出していました。

 

〇《ぼた山》

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こちらは、庭園美術館で見た黄金のうんちの黒バージョン。以前の金色はエマージェンシーシートを使ってたけど、ここでは黒のシートで覆ったようです。こちらのシートは、どんな機能を持った素材を選んだのでしょうか。⇒(*13

そして、今回の鑑賞では、この黒いシートの中に、大量の衣類が入っていることを、私は読み取ることができるようになってる! これは、庭園美術館の《帰郷》を発展させた作品だと理解ができる!

では、金を黒にした意味は? そしてこのシートが持つ特性との関係は? と考えていました。

 

《ぼた山》の周囲をぐるぐる回りながら、この空間に展示された作品と、それぞれの作品との関連を探っていました。黒い塊の山の中に丸い光るものが6つ、目に入りました。

山の中央部分の少し下あたりに、ダブルのジャケットが正面を向いていて、こちらに向かってくるかのように置かれていたのです。それがいきなり目に飛び込んできました。

今、まさに誰かが脱いだあとのような痕跡として存在を主張し、訴えかけているように感じました。(これ、絶対に意図的に置かれたものだと確信しました。他の無造作に置かれた衣服とは、明らかに置き方が違います。絶対に何かを主張しているはず・・・・)

たまたま、ボタンが放つ鈍い光で気づきましたが、もしかしてそれも計算していたのかも!と思ったほど。ここで、ジャケットがくっきりはっきり浮かび上がったのです。

これによって初めて、この黒い山が、衣類の山そのものであることに気づかされたのでした。

 

⇒《ぼた山》は何を意味するのか? (*14

 

〇《幽霊の廊下》

影絵のこのエリアの先に、チラリと黒い山《ぼた山》を捉えた瞬間、これは黒いシートで覆われていて、中味は衣類だ! 私にはそれがわかる!と思い込んでしまったのです。

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《幽霊の廊下》

 

一度、そう思ってしまうと、その思い込みはなかなか解けません。周囲で見てる人たちは、このシートで覆われた中に、衣類が一杯入っていること。どれだけの人が、わかっているだろうか・・・・ ちょっと優越感にも似た感覚に浸っていたのでした(笑) 

 

始めて金のシートを見た時は、照明と光の反射、シートの凹凸の様子なども見ていました。⇒(*15

今回は、黒いシートに覆われた山と理解してしまいました。シートによって作られている凹凸が妙にごわごわしていて、エマージェンシーシートの質感とは随分と違うと、感覚的には思っていました。しかし、近づいてそれがどんな素材で、何かを確認をしようとはしませんでした。

最後の最後になって「気づきなさいよ」と言われたようで、あちらから、声をかけてきた気がしました。

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ボルタンスキー作品を何度か見て、少し理解が深まれば、新しい何かが見えると期待したのですが、逆に、過去に見た作品ににひきづられ、思い込みというフィルターがかかってしまいました。

 

無数の人々が折り重なって抜け殻となった山。人の存在や死を連想させる作品。ではこの山は、何によって、積み上げられたのでしょうか。

 

⇒「死」よりも「生きる」を感じた(*16

 

〇それぞれが何か分かってから考えたこと(追記:2019.07.05)

この黒い山が「何でできていて」「その意味」がわかると・・・ 黒い服は礼服だったようです。また、コートを着た人型の板は、あの世の門番で、作品名は《発言する》。何をしゃべっているのか?それは、「自分の死」や「死後の世界へどうやってたどりつくのか」を問いかけていたのだそう。それは具体的にはどんな言葉だったのか・・・・ そうしたことを理解した上で、ここ一帯のコーナーは、どう見えるでしょうか?一連の流れ、ストーリーが浮かびました。

 

この世界には、いろいろな幽霊が浮遊しています。(それが《幽霊の廊下》)その幽霊たちは、どんな人生を送ったのでしょうか?ここに黒い衣服の山があります。これはかつて炭鉱で働いた人たちによって掘り出されたものが積み上げられて残された「ぼた山」をイメージしています。

 

ぼた山とは(wikiphedhiaより)

ボタ山(ボタやま)とは石炭亜炭の採掘に伴い発生する捨石(ボタ)の集積場である。ぼた山と平仮名表記をすることもある。漢字では硬山と書く。ズリ山の一種で、主に石炭産業が栄えた北海道常磐九州北部等で見ることができる。過去の産業遺産ともいえる。

石炭成分を含み自然発火や、土砂崩れの危険などもあり、負の遺産として減りつつある。が、日本の近代化を支えた石炭産業の象徴としてボタ山を恒久的に残し、維持管理していこうとする動きも出始めている。

佐賀・多久市:ぼた山が2年前から燻り続け! – kyoto-seikei

 

エネルギーの主役が変わっても残された産業の遺構。彼らがそこで働き、社会を支え、天寿を全うした姿でもあります。大地は生物の屍でできていると言われますが、それぞれの時代、時代においても、尽力した人たちが生きて、全うした力がここに高く積み上げられ、今があるということが見えてきます。彼らは名もなき戦士。そんな屍によって今という時代が存続していることを伝えられているように思いました。

彼らがあちらの世界に旅立つ時、あの世の門番の前で、いろいろなことを尋ねられます。その問いに、生きた人生を振り返えらされます。そこで名もなき人たちの、生きた証を垣間見ることができます。その問いは、我々にも投げかけられ、共に耳にしながら、自分の人生を考えるきっかけを与えられます。

門番の許可を得られると、衣服から抜け出した体は魂となって天に昇っていきます。天井から吊るされたスクリーン《スピリット》は、彼らの生前の姿です。抜け出した魂は光となって、天界をそして下界も照らしています。下界を照らす魂は、時折、下界にも降りてきて、何かを語りかけるのかもしれません。

 

このエリアに併設されている《アミニタス》(白)も、これらの作品と結びついています。空間を操るボルタンスキー。この展示空間の特徴を最大限に生かし、過去の作品を有機的につなげています。その先にある《ミステリオス》や《来世》など新しい作品へと蔓伸ばしてつなげていきます。f:id:korokoroblog:20190706003049j:plain

左の《ぼた山》の奥に《ミステリオス》 さらに奥には《来世》
右の《アミニタス》(白)と《ミステリオス》に挟まれた《幽霊の廊下》
上からは《スピリット》 そして中央で門番をしている《発言する》人。

 

「空間のアーティスト」を自負するボルタンスキーが、これまで制作した個々の作品を、コネクションし一体化させた空間。「入口」から「出口」へ、さらにその先へと一連の流れを見渡せるポジションがここ。

なんとなく、心臓が血液を送り出すイメージと重なりました。門番は弁の役割。左心室から全身に広がる血液の流れは、《ミステリオス》や《来世》の広い世界へとつながっていくイメージ。4つの心房、心室はそれぞれの作品が置かれたブースで、お互いが繋がり合いながら、大きなサイクルを回っている。全体を1周したらまた、戻ってくる。循環、再生、生まれ変わり、輪廻転生。さて、途中、肺で補給する酸素の役割を担っているのは何でしょう?・・・・・

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引用:中2生物【心臓・血液の循環】

ボルタンスキーは、豊島にいろいろな人の心臓音を保存しています。その音を使ったインスタレーションを送り出し、今回も《心臓音》という作品を出品しています。 (心臓からは血液が送り出され、各器官に届き、また戻ってきます。それぞれのブースは各器官におきかえられるかも。時にその血液は、吐血し口から吐き出されることも・・・ それが最初の入口の作品で、体の部分としては口にあたる。という置き換えができました。)

 

(続)

korokoroblog.hatenablog.com

 

 

■関連

〇初めてボルタンスキーを見た人たち。先入観を持たずに見たら・・・・

 

 

〇ボルタンスキーインタビュー

 

 

〇評論・レポート

 

 

 

ーーーーーー

  

衝撃映像、《咳をする男》 


■関連

■クリスチャン・ボルタンスキー – Lifetime 国立新美術館(前編) ←ここ
■クリスチャン・ボルタンスキー – Lifetime:国立新美術館(後編) ←次

 

 

■脚注 補足 過去の感想

*1:2.《帰郷》は何に見えた?

 

*2:■ボルタンスキーの横顔

【追記】2016.12.22 ボルタンスキ―の父は医師

 3.ボルタンスキーの生い立ち
 3-1   ボルタンスキ―のイメージ
 4.作者 作品のプロフィールについて
 5.「感覚で見る」「知識を得て見る」両方の見方で捉えギャップを楽しむ

 

*3:5-1  ボルタンスキ―作品の通奏低音

 

*4:3-1  24時間の映像

 

*5:■咳をする男 動画 (追記:2019.07.05)

この映像は、ボルタンスキーが制作した初めて映像作品の一つで、1970年大阪で初めてテレビ放送されたそう。


 

*6:■咳をする男 演じているのは長兄(追記:2017.07.05)

ボルタンスキーの最大規模の回顧展、見る、聞く、嗅ぐ? 5つの鑑賞ポイントより

入り口脇の暗室には、初来日のきっかけとなったボルタンスキーの長兄演じる『咳をする男』が映されている。

  

*7:■受容すること(2019.07・23)

病気を受容する(=与えられた状況を受け入れる)というプロセス。

うつ病などが増え、精神疾患の診断方法が変わったり、名称が変わるなど、精神疾患の治療などが、話題になり始めた頃、病気の寛解へのプロセスを見たことがありました。

身の回りの人がいかにケアしたり、サポートしていくか。あるいは、本人はどう向き合ったらいいかなどが書かれている中で、病気を受け入れること(=受容)の大切さが語られていました。その後、どういうプロセスを経て寛解に至るかが書かれていたのですが‥‥

これを見ていて感じたのは、精神疾患だけでなく、外科的な喪失や、内科的な疾患などにも共通していることだと思えるし、ひいては、自分の身におこる様々な困難の乗り越え方にも、同じようにあてはめることができると感じたことがありした。

今、起こっていることを正しく理解した上で受け入れる。それがどんな状況であっても、一度、受け入れて消化することから始まる。そこから、何かいい方法がないか探ってみる。ベストはないかもしれないけど、ベターな方法ならある。

よく言われるのは、乗り越えられなれない苦難を神様は与えない。乗り越えられる人を選んで与えている。それにはしっかり「受け入れること」そんなふうに考えるようになりました。この映像を見た時にも、それが浮かび、この人は、この状況を受け入れることができているのか? 悲惨な状況でも、受け入れることから、何かが始まる。そんなことを考えていました。

 

*8:2.「アニミタス-さざめく亡霊たち」

 2-1 香水塔の前で
 2-2 大広間にて スピーカー発見
 2-3 スピーカーの仕組みの解明
 2-4 声の正体

 

*9:■英語と日本語で語られていたらしい(追記:2019.07.06)

私には英語に聞こえてしまったと思っていたのですが、日本語と英語で語られていたようです。 

水鳥 on Twitter: "教えて、お母さんを残していったの?
Tell me,did you leave your mother behind?
ねぇ、慰められた?
Tell me,were you consoled?

死の番人から優しく問いかけられ、思わず泣きそうになった 
#ボルタンスキー展… https://t.co/ko1036ur4k"

英語の部分だけを聞いて、聞いても理解は無理と離れてしまったのでした。

 

*10:2-4 声の正体より

庭園美術館で行われたボルタンスキー展での展示でも声が発せられていました。旧朝香邸という場所に由来する声かに思ってしまいますが…

ところが、その言葉を「文字」で見た時に確信しました。これは、ごく一般の人々の会話なのだと。確かに一部の声は、朝香宮邸にかかわった人の声と思われるものもありました。でも、全てがそうなのではなく、その中には誰もが発する言葉、声が含まれていたように思いました。

ボルタンスキーは朝香邸の歴史に興味を持ったといいます。しかし実際におきたことに言及するというより「今、ここの時間や空間を超越する亡霊たちに語らせた」その解釈は、鑑賞者にゆだねるという形を選んだのだそう。歴史とは「事実」のつらなりなのではなくもっと複雑で重層的

会場に関連した言葉を発しているということではなく、見る人の体験と重ね合わせた言葉として届けるという狙いと、同じコンセプトの作品であると理解しました。

自分が過去に見た作品、庭園美術館で見た作品に重ねてとらえていました。 

 

*11:《発言する》(追記:2019.07.04)

人型の洋服を着た作品は、あの世の門番だと、見たあとに解説で知りました。

そんな予備知識を持たずに、この作品を見たら、これがあの世の門番であると理解できるものなのか・・・・素朴な疑問を持ちました。あの世の門番が発した声だと思って、言葉を聞けば、その受け止め方は固定化されます。

あの声は、「自分の死」や「死後の世界へどうやってたどりつくのか」を問いかけているのだそうです。この作品のタイトルは《発言する》 それを「知って見るか」「知らずに見るか」あるいは「過去にこの作品を見ていたとしたら」・・・・ 

受け止め方は、変わっていたと思います。 

ちなみに国立国際美術館のタイトルは「彼岸の番人たち」です。なぜ、違うタイトルをつけているのでしょうか?ユダヤ人に彼岸という概念はあるのでしょうか? なぜ、こちらの展示では「彼岸」としたのでしょう?もしかして・・・・ 展示期間を調べると2019年2月9日(土)~2019年5月6日(月・休) お彼岸を挟んでいます。そういうこと?「たち」と複数形になっているのも気になります。

 

*12: 5.《眼差し》《帰郷》

このスクリーンを通して、あてられてい光が、ぼんやり整列して浮かびあがるポジションを見た時、この光はスクリーンから抜け出した魂だと感じていたんだっけ‥・ この作品は上空にスクリーンから設置され、その間で瞬く光は、抜け出した魂。

 

*13:■金から黒へ それが意味することは?(2019.07.23)

この形状の山を「うんち」ととらえたことが、今回も尾をひいています。前回は金の「うんち」、今回は黒の「うんち」。黒にした意味は?と考えていていたのですが、漠然と「タール便」を浮かべていました。コールタールのような真っ黒で粘性のある臭い便です。上部消化管からの出血を意味し、下部に送られる間に黒色化します。

健康な「うんち」に対して、病気を患った「うんち」‥‥ そんなことを思い浮かべていたのですが、これは「うんち」ではないのだと、最初に見た時には打ち消していました。

ところが、この山は「ぼた山」で石炭の山であることがわかりました。すると、タールがつながります。タールとは、コールタールのこと。

◆コールタールとは

コールタール(coal tar)のことで、コークスを製造する時にコークス炉で石炭を乾留して得られる副生成物の一つ。 黒色の液体で芳香族化合物に独特の臭気(タール臭)を持ち、ナフタレン、ベンゼン、フェノール、クレゾール、ペンゾ[a]ピレン、フェナントレンを含む。

タール便と、石炭、ぼた山。関連があった!?(笑) そして、冒頭の「咳する男」が吐血するおびただしい量の出血。それは、上部消化管からの出血と考えられるわけで、黒いタール便ともつながるのでした。

 

 

*14:■ぼた山は何を意味するのか?(追記:2019.07.04)

山積となった衣類。ボルタンスキー作品における衣類は抜け殻を意味しています。ということは、山を作るほどの量の人の死を意味していると考えられます。単純に考えると、ボルタンスキーの出自でもある、ユダヤの虐殺を意味するのではと思われます。

しかし、それは短絡的なようにも思います。彼の作品は、見る人の内在するものに働きかけているといいます。作品を見た時代の社会状況も反映します。

この作品を東日本大震災と同じ時期に見れば、地震で亡くなった人を思い浮かべ、自然の力に対して無力な人間を思うかもしれません。また、その後の原発の放射能汚染が注目されている時期なら、広島の原発による殺戮をつなげて想起するかもしれません。9・11と重なれば、テロによる死を考えそうです。

黒い抜け殻の衣類が何を表すかは、その瞬間に何がおきているかを映し出す鏡の役割もします。では、今、ここで見ている私は、この山を、今、この瞬間に照らし合わせたら、何にとらえるのか・・・と考えていたのですが、繋がるものがありませんでした 。というか、藤田嗣治展(2018年)で見た《アッツ島玉砕》が頭に浮かんではいました。しかし時代のタイムリー性がないと打ち消していたような気がします。

 

解説によると・・・・

ぼた山とは、炭鉱の採掘の際に出る捨て石を積み上げた山のことだそうです。2015年、ベルギーの炭鉱施設の展示で制作した作品。大量の黒い衣服は、炭鉱で働いた人の存在を象徴し、個性と思い出がはかなく消えてしまうことを暗示しているとのこと。

 

作品タイトル《ぼた山》を知らなければ、炭鉱とは結びつきませんし、知っていたとしても「ぼた山」の意味や、その裏にある問題などを知らなければ、衣類が炭鉱夫のものという理解にも至りません。

かつての発展と衰退。時代の移り変わりの意味を知り、「軍艦島」を思い浮かべました。そこで働く人がいて、その場所に、人が存在したことを明らかに伝える遺構。

高度成長時代を下支えし、時代のスポットライトが当たっていた場所や人。今は、その顔すら見えず、時の流れによって遺構となってしまった。時代と栄華と移り変わり、産業の発展の光と影の部分を知らされたように感じました。

 

*15:横から当てられた光に対して、凹凸はこんな光を反射しています

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*16:「生きる」って難しく考えなくてもいい (追記:2019.07.04)

ウォーキング・ヴォイドがイメージ

このエリアの一連の展示を見て、私なりに捉えていたこと。《発言する》を見たときに思い浮かべた作品が、イサムノグチのウォーキング・ヴォイドでした。《発言する》見た時に思ったのは、単純な素材と構造で、人が歩く姿を表現できてしまうものだなということでした。それは、石でシンプルな三角形を形どったら、歩く人に見えたイサム・ノグチのウォーキング・ヴォイドと重なっていました。

板2枚を「人」の漢字のように重ねた単純な組み合わせ。それだけで人が歩く姿になってしまう。さらに、衣服をまとわせることによって、人であることを決定づけます。ここに存在する人は、あの世へ向かう人ではなく「今を生きる人」だと捉えていました。

「死」というよりも、板の単純構造と衣類で、生きている人間が表現できる。しかも歩くという動きまで伴っているのです。それらから「生きる」って、実は意外に、シンプルで単純なこと・・・・ 難しく考える必要はない。そんな「生」への応援メッセージだととらえていました。

 

最初に、このタイトル《発言する》を知っていたら・・・・ そして、作品があの世の門番というタイトルだと知ってしまったら、こんな受け止め方はしなかっただろうと思います。

 

今回、私が確かめたいと思っていたのはここの部分でした。「知って見ること」と「知らずに見ること」 ボルタンスキーの作品の根底に、「死」が流れていることを知らずに見たら、「死」のテーマはどう見えるのか。あるいは、「死」が主題となっていることを知っていても、それをあえてとり除いて見たとしたら、どう見えるのか?私には、「死」のテーマは、見えてこないのではないかと思っているところがありました。

「死」を主題にした作品の中に、私には「生」が見えていました。