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コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■豊島でボルタンスキー体験② 《ささやきの森》

■現代美術  >豊島

豊島《ささやきの森》ボルタンスキ―作

この作品を見ようと思ったわけではなく、気づいたら成り行きでその場所へ向かっていました。「豊島唐櫃(からと)地区」から18分の表示。しかし体感時間は「30分以上」 途中、こんな大変な思いをしてまで行く価値のある場所なのか・・・と不安がよぎります。しかし結果は、大満足。苦労してでも行く価値がある場所でした。そんな場所への誘われたのは一枚の案内看板からでした。

 

 

 

1.「ささやき森」への案内版

 

    1050m 徒歩18分

 

18分・・・ちょっと歩くなぁ。でも1Km程度。18分ぐらいなら歩けるでしょ。なにはともあれ、豊島、全作品制覇を目指しているので、迷わず向かうことに・・・・ 

 

この看板を目にするまでの唐櫃地区での行動がこちら・・・⇒【*1

 

2.どんどん山奥へ・・・・

▼こんな島独特の家の作りを横に見ながら 

 

              ▲こんな坂道を上っていきます

 

 ▼そしてその先は、次第にこんな山道になってきました。

 

どんどん、どんどん、山奥へと登っていきます。行けども、行けども、その場所らしき姿は現れません。これは、まだ序の口です。次第に勾配もきつくなり、足元も悪くなっていきます。18分が山道だなんて、聞いてないんですけど・・・・ まだまだ、先はありそうです。次第に、こんな思いをして、たどりついてみたところで、その先にどんな作品があるのでしょうか? 大したことなかったりするかも・・・  

 

何があるかも知らずに、ここまで登ってきてしまったことに気づきました。

 

 

3.《ささやきの森》てってどんな作品? 見る前のイメージ

ガイドブックを見てみました。そこに書かれていたのは・・・・

屋外に200個の風鈴を設置。鑑賞者は風鈴の短冊に亡くなった人の名前を書くことができる。風が吹くとなるチリンチリンという音はあの世にいった魂の神秘的な音。作者は《心臓のアーカイブ》と補いあうものとして位置付けている。

 

この解説から、私の脳裏には、ある映像と音が浮かんでいました。

 

▼風鈴でイメージしたのはこんな風鈴でした

http://static.wixstatic.com/media/8f233f_df4e739ee058e455a51576ef18a76c0d.jpg

出典mosakugh.wix.com

風鈴という解説から、短絡的に上のような透明のガラス製品にカラフルな金魚などが描かれている映像が浮かびました。しかも短冊に名前・・・ただでさえカラフルな短冊に名前まで書かれたらよけいにゴチャゴチャに。そんな情景を思い浮かべていました。これを森の中に釣下げられていると思ったとたん、一気に興ざめ状態に。森の奥にこんな色を氾濫させてしまうなんてどうなんだろう・・・・そして、この風鈴が奏でるチリンチリンという音。なんだかうるさそう・・・・ この場所には、絶対に合わない・・・・

 

こんなに苦労して、今、登っているけど、きっと、徒労に終わりそうなことが目に見えたような予感・・・・ しかも、あのよくわからなかった《心臓のアーカイブ補いあうという位置づけの作品らしいし・・・・・ コンセプトは理解できても、その形はどうなんだろう・・・・ またもやよくわからない作品になりそうな・・・・

 

 

4.入り口に到着 さらに奥へ

そんなことを思っているうちに、入り口らしきところにやっとたどり着きました。

        

そこには受付のようなものがあって、小休止できるようなコーナーがありました。

 

そこからまた、こんな石畳が続き またまた奥へ奥へと進んでいきます。

  

 

ここからは、勾配のない平坦な森の散策道のようです。そこを抜けると、パッと視界が開けました。そこにあった光景は・・・・・

 

 

5.息をのむ光景が

 

見事な空間です。ガラス製の風鈴ではありませんでした。森の緑にマッチした青銅(?)のような色合い。違和感なくなじんでいます。また、その音も耳障りな音ではなく、透き通るような音色です。そして、短冊もてっきりカラフルなものだとばかり思っていたのですが、透明なプラスチックフィルムというのは考えました。森の中にすっかり溶け込んでいます。

 

我が発想の貧困さを、突きつけられてしまったような気分・・・(笑)
「これでご満足いただけますか?」 と言われてしまったような・・・(笑)

 

そしてさらに驚かされます。

 

 

6.森の精のお出迎え

ふわ~と風がそよいで通り抜けました。すると、風鈴が静かに鳴りだして、次第に音が大きくなり、それぞれが共鳴するかのように一斉に揺らめきだしました森の精がやってきて、ここ一帯を取り囲み、歓迎の歌声を聞かせてくれているかのように響き渡ったのです。それは、とても幻想的な空間で、魂が優しくささやいているようで、心洗われる気がしました。

 

この様子、ぜひとも動画に収めておきたい! 初めて動画撮影をしたいと思わされた光景でした。買い換えたばかりで慣れないスマホをあれこれ駆使して、撮影を試みました。

 

ところが、何度か試みたのですが、さきほどのような、次第に膨らむような風光景は、再現されませんでした。されたとしても、ビデオの録画時間が切れてしまい納まりませんでした。結局、最初に遭遇した森の精のお出迎えは納めることはできませんでした。

 

その雰囲気をなんとなく彷彿とさせられるような部分をアップしました。動画の埋め込みができないとのことなので、下記のリンクを御覧いただけたらと思います。

 

   ⇒ 風のささやき

 

この動画の途中、ここから、風が次第に強くなって風鈴の音が大きく共鳴しそうなのにしなかったポイントがあります。想像力で補ってその光景を思い浮かべていただけましたら幸いです。

 

 

7.林床で戯れる光 

木立の隙間から光が差し込んでいます。木々の間から見える空を映し出しています。

 

 

 そして、地面を這うようにゆらゆら揺れる光の影がうごめいています・・・・ 

この地面をゆらゆらと小刻みにゆれるものはいったい何? と思って見ていたら、透明な短冊が光を反射して、風でゆれながら、地面に映し出されていたのでした。風の動きが光の動きで感じさせられます。また風鈴の音からも、風を感じます。目と耳と体全体で森の精気を感じとれる空間。目に見えない魂も感じられる場所です。

 

写真では、十分伝わらないので、ぜひ、動画でご覧いただきたいです。

 

       ⇒ 光の戯れ 

 

 

8.森の終わりは・・・・

私はこれらの光景を見ていたら、ふと、この森はどこまで続いているのか確かめたくなりました。この風鈴が途切れる場所はどうなっているのか・・・・ 進めるところまで進んでみようと・・・  ここに訪れた人は、皆、設置された動線上の小道で佇んでいるだけでした。私、一人が、ずんずん、奥へ奥へと踏み混んでいきました。⇒*2 思ったよりも奥に続いています。

 

 

▼やっと、その端にたどりつきました。

ここが風鈴の限界地点です。あえてこの境界、森の最終地点まで来て、大切な人の名前を下げる人もいるのだろうな・・・ それはどんな人で、どんな思いでここにさげるんだろう・・・・ そんなことを想像したりしながら、あたりを見渡してみました。まだ、名前は掲げられていませんでした。限界点は、崖か急斜面で、それ以上、先には行けない状態であることを想像していました。でもまだその先の森は続いていました。

  

しかしながら、やはりこの《ささやきの森》には、限りがあるわけです。土地だって取得しなくちゃいけないのだろうし、借りるにしたって予算もあるわけだし・・・・ 無限に続くわけではないのです。あそこには見えないけども、土地の境界線がある。そんなことを思いながら想像していました。

 

この作品に魅了させられているのに、なんて下世話なことを考えているのでしょうか・・・自己嫌悪になりつつも、でもそれが現実でもあるわけで・・・・(笑)

 

 そして、帰りは受付のところで作品に関する解説のチラシをいただいて帰ってきました。すぐにそれは見ていなかったのですが、戻ってきてから見て、またいろいろなことがわかりました。

 

 

9.永遠に続く森のささやき

この森は、ずっと続くのだそうです。そして、豊島という場所に《心臓のアーカイブ》と《ささやきの森》を離れて作ったことに意味があるのだそう。この2つは、つながり合っていて、生を受けた時から心臓は鼓動をはじめ、死とともにその動きを止める死によって名前が刻まれ魂となる《ささやきの森》。そしてこの場所が巡礼の地となることを・・・・

 

そんなようなことが書かれていました。

 

最初はよくわからないと思った《心臓のアーカイブ》でも、わからないなりにも、生きることへの投げかけがされていて、あてもなく訪れた《ささやきの森》とつながっていたのでした。この場所にたって、「この森はどこまで続くのだろう・・・・」というちょっと興味本位なのぞき見に対しても、ボルタンスキ―は、答えを用意していたのでした。自分の了見の狭さのようなものを感じさせられてしまいました。⇒【*3

 

ここで終わり・・・・と思った先に森は続いていました。

 

ここを訪れた人が、「大切な人」を記そうと思ったらその気持ちには、答え続けることが保証されているのか。それが担保されていないとこの場所は成立しなくなります。その答えは、作品のコンセプトとして用意がされていたのでした。

 

大切な人」の名を短冊に記す。それを「する」か「しない」にかかわらず、その言葉によって、いろんなことを考えさせられる場所なのだと思います。自分にとって「大切な人」とは誰なのか・・・・ それは亡くなった人だけではなく、生きている人かもしれません。静かに豊島の森の中で、人知れず風にゆられ続ける短冊。そこに込められた思い・・・・

 

そんなことを、返ってきてから感じさせられていたのでした。

 

そしてこの作品は、庭園美術館 「アニミタス―さざめく亡霊たち」の展示へと引き継がれていったのでした。

 

■【関連記事】豊島 ボルタンスキ―

■豊島でボルタンスキー体験② 《ささやきの森》     ←ここ

■豊島でボルタンスキ―体験① 《心臓のアーカイブ》    ←前

 

 

■【関連記事】展覧会関連プログラム(連番)

 

 

■【脚注】

 

*1:■計画的散策は整理券確保と時間を上手に利用した鑑賞

《心臓のアーカイブから一旦、逆戻りするかたちで《豊島美術館》へ
豊島美術館整理券は事前確保してあるので時間に合わせて訪れ鑑賞。
《島キッチン》お食事処。建物がアートなので食事をしないと内部の見学ができないので昼食をとりつつ見学するのが定番。人気スポットのため人が多い時期は、整理券が配布されます。これらの配布は、船が島に入る時の乗船人数によって島の滞在人数を割り出し、整理券の配布時間などを決めています。人が多い時は、お昼前に配布が終わることもあるので、豊島美術館を見たあとはすみやかに「島キッチン」へ行き、整理券を確保。ゲットできた時間に合わせて、周辺の作品を散策。時間を調整しながら昼食に・・・・・
(こんなに大変な思いをして整理券をゲットした「島キッチン」でしたが、作品としての建物は、だから何? という感じでよくわかりませんでした(笑))昼食を終えてからは、湧水見学へ向かいました。

『唐櫃の清水』ここは「豊島唐櫃(からと)地区」の生活をささえた湧水。ちょっと離れていて遠いです。たどりつくまでにいろいろな作品が並んでいるので、鑑賞しながら散策します。現代美術はようわからん・・・・の印象を強めました(笑)
《空の粒子》そんな中ちょっと楽しみに期待していた作品、湧水近くにある《空の粒子》「空」「粒子」というタイトルワードに興味がそそられました。しかし、う~~~ん・・・・よくわかりません。 

 

【余談】:私が美術に興味を持つきっかけの一つは空気遠近法でした遠くの空は青く見える。これは空気中の水蒸気(水の粒子)に光があたりその屈折で青く見えるから。遠近感を出すために、遠くは青に・・・・そんな科学が絵画表現に潜んでいた・・・・絵の中に科学が存在している! それが絵画に興味を持つきっかけとなり今に至ります。作品タイトルに「空」「粒子」という言葉があったので、私の原点と、なにかつながるのではないか。そこから発展しないかなぁ・・・と期待したのですが・・・・

 

空気遠近法 - | 武蔵野美術大学 造形ファイル より

空気遠近法は、大気が持つ性質を利用した空間表現法です。例えば戸外の風景を眺めてみると、遠景に向かうほどに対象物は青味がかって見え、また同時に、遠景ほど輪郭線が不明瞭になり、対象物は霞(かす)んで見えます。こういった性質を利用して空気遠近法では、遠景にあるものほど形態をぼやかして描いたり、色彩をより大気の色に近づけるなどして、空間の奥行きを表現します。

美大では空気遠近法の、原理、本質ともいえる、「なぜ青く見えるのか・・・」には言及しないことに一種のカルチャーショックを受けました。以前、美術界の頂点の大学の学長も務めた大家の弟子にあたる方から、「遠くの景色は青く描くのだよ」と教えられたと解説されたことがありました。これは、そう見えるから描く・・・・ ということ? そこに理由や原理のようなものは存在しないのかと思ったことがありました。

美術界では、遠くが青く見えるから青く描くが基本的なとらえ方なんだ・・・ 私が本質だと思っている、原理(自然科学)には触れない世界だった・・・ということをムサビの解説を見て理解しました。

そのため、時々、絵の解釈や理解において、ギャップのようなものを感じさせられることがありました。美術家の方たちの、自然観に疑問を感じることがありました。私がとらえる本質と、美術界の方の本質が違う・・・ということをなんとなく感じさせられる場面があったのですが、それはこういうところからもきていることがわかった気がします。自然科学の原理、原則に照らし合わせておかしくないか・・・・を常に考えようとする思考と、そう見えるから青に描くという、現象をそのままとらえるという思考。そこにギャップを感じさせられる一つの原因なのかもしれません。

 《空と粒子》という作品の、「粒子」という言葉のとらえ方の違いをも感じさせられました。科学者でもあるダ・ヴィンチの「粒子」は理解できるけども、イメージとしてとらえた「粒子」には反応しない。ということのようです。脚注までもがかなり脱線してしまいました。話を戻します。

 

島に渡ってのんびりゆったりアート散策・・・・というイメージを持ってでかけますが、実際のところは効率よく回るために、緻密な計画と事前の情報収集、そして現地に入ってから生の情報を合わせてベストな選択をしていく必要があります。が、そういういろいろな苦労の元、たどりついても、現代美術は、フィーリングで合うもの合わないものの落差が大きく、せっかく行ったのに期待はずれということもいくつか・・・・ いずれにしても《ささやきの森》に行くということは、そこにただ行くというだけでなく、瀬戸内芸術祭を、くまなく回りある程度網羅しながら、行くことになるわけで、返す返すも大変ということなのでした。

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*2:そういえば、仙石原のススキの小道も、どこまで続いているのか、その終点を見極めようとしたことを思い出しました。

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*3:といいつつも・・・・

瀬戸内芸術祭の作品見ていて、「消耗される作品」「恒久展示される作品」の格差のようなものを感じさせられていました。会期が終われば取り壊さなければならない作品がほとんどです。一過性の展示です。しかも、春だけ、夏だけ、秋だけ・・・という作品もあります。町おこしやイベントの名の元に、アーティストが利用され消耗されているのではないか。またアーティスト側には、しっかりペイがされているのか・・・ 立派な建物を建てて、恒久的に展示が許されるアーティストとの差を感じていました。この時、ボルタンスキ―がビックなアーティストだとは知らなかったので、壊されてしまう側をイメージしていました。場所柄、人が来なくなって人気がなくなったら、ここは取り壊されてしまう運命にあるんじゃないか。もし、そんなことになったら、ここに大切な人の名前を書いた人の心は、どうなってしまうのか・・・ そんなことを考えていたのでした。

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