コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■小泉八雲旧居:日本の庭 著作や英文原作から探る

小泉八雲旧居は、八雲が暮らした家で、その庭が、作品の中で紹介されています。現作全体を読んでみたくなり、探してみた。ところが、いくつかの壁にあたり、翻訳者による違いや、英語と日本語表現の違いなど、わからないことが出てきました。八雲理解へのプロセスを記録しておくことにします。

 

 

小泉八雲は日本語堪能だった?

小泉八雲旧居のパネルや、小泉八雲記念館で紹介されている八雲が使う日本語。

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昨年の8月に訪れた時、外国人の八雲が、これだけの日本語を使いこなしていたことに驚きました。どのようにして短期間にこのような日本語を習得したのでしょう。非常に興味が沸きました。

120年ほど前に日本にやってきて、美文調の日本語を使いこなし、しかも漢字を交えて書くことまでできたことが信じられません。日本人ですら、このような日本語を操れる人はなかなかいないと思われます。語学が苦手な私にとっては、驚異的なことでした。

しかしこれは、八雲のことをほとんど知らないゆえの感想だったのです。この時、八雲の作品は、八雲自身が書いた日本語だと思っていました。

 

〇八雲作品は翻訳だった

戻ってきて八雲作品は、翻訳されたものであることを知りました。

「八雲の文章は基本英語で、翻訳家さんが翻訳するにあたり、大変苦労したというあとがきを読んだことがある」

という話を聞きました。

美文調を使いこなす八雲=すごい! というイメージが私の中に広がっていたのですが、それが崩れていきました。この日本語は、八雲の日本語ではなかった。(日本語が堪能ではない八雲とセツさんには、2人だけに通用する言語があったそうです)

「たぶん、霊的 究極の霊 天の声というのは・・・そのまま解釈するのも良いのだけれども、翻訳しきれなかった違う意味も含まれているかもしれない」

日本語には、言外に込められていることがたくさんあります。八雲はそういう部分まで理解して、日本語を駆使したのだと思っていました。ところが原文は英語だったのです。

翻訳者は、八雲の英語表現から、書かれていない部分を読み解き、あるいは日本人的立場から、補足も行っていたのではないでしょうか? 八雲が描いていないことも、補っており、もしかしたら八雲が書いたこと以上のことが、補足されているかも。八雲の書いたものと、訳されたものは、ギャップがあるかもしれない。翻訳者が、どれくらい補うかによっても、全体の印象はかなり変わってくるでしょう。(⇒*1

 

〇八雲の美文は日本人によるもの?

八雲文学は、翻訳されたものだと知り、翻訳には、直訳もあれば、意訳もあります。さらに意訳をより洗練にした超訳もあります。八雲の美文は、超訳による日本語なのでは?と思いました。

美しい表現と感じた八雲の日本語は、翻訳者によって紡ぎ出された日本語だったのでは? と捉え方が変化してきました。

日本語の繊細で美しい表現を、英語で表現できるとは思えなかったからです。(⇒*2

 

〇八雲はどんな英語で表現していたのか

八雲の英語は、どのような表現だったのでしょうか? 日本語の繊細なニュアンスを伝えるような表現がされていたのでしょうか? 英語にはそのような表現方法があるのでしょうか? 疑問が次々に沸いてきます。しかしこの先は、英語力が壁となり進めません。

いつもなら、英語の原典をあたらなくてはならないところで、断念となります。英語の壁に、知りたい欲求が跳ね返えされます。

しかし、小泉八雲記念館には、英語の原本が置かれていることを知っていました。見てもわからないないでしょうが、雰囲気だけでも眺めてこようと思いました。

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〇新しい扉が開く

これまで、文学や小説を読みたいと思ったことがあまりありませんでした。(⇒*3)今回は、八雲の本を、実際に読んでみたいと思い、探すという行動に移していました。

また、苦手な英語の原典をさぐってみようと、新しい世界へ、八雲は導いてくれています。

 

 

 ■『知られざる日本の面影』探し 

八雲の暮らした家や庭を書いた著作を探してみたのですが、ちょっと難航しました。

〇八雲が暮らした家の庭が書かれている著書は何? 

パネルによると、八雲の庭は「日本の庭園」に紹介されているようです。

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ところが、小泉八雲の「日本の庭園」という本がみあたりたりません。 

 

それは、『知られざる日本の面影』という本に書かれているようです。

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 『知られざる日本の面影』の第16章「日本の庭」に掲載されているという情報を目にします。しかしどの本の16章なのかよくわかりません。

八雲関連のサイトに、その記載があります。
 ⇒八雲が愛した城下町松江 光と幻想のミステリーツアー / 小泉八雲旧居 
 ⇒小泉八雲全集. 第3巻(大正5年出版)の中にありました。(*4

 

〇『知られざる日本の面影』がない!

島根入りの前日、図書館で『知られざる日本の面影』を探していただきました。ところが、そのような書名がないとのこと。そんなことある?と思いながら、いろいろ探していただいた結果、『知られぬ日本の面影』ならあることがわかりました。(「知られざる」と「知られぬ」控え間違いをしてしまったのだと理解しました。)

また『小泉八雲全集』の中にも収録されており、その本は閉架式の書庫で、別の図書館に行かないと見れないとのことでした。

さらに、『神々の国の首都』の中に「日本の庭で」が収録されていることもわかりました。以前、欠品して取り寄せていた「新編 日本の面影」も入手。ここにも「日本の庭」が収録されていることがわかりました。

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小泉八雲本関連の本がそろいました。

 

 

■訳者による違い

〇タイトルについて

『知られぬ日本の面影』『知られざる日本の面影』『日本の面影』・・・・同じ本のようでうですが、タイトルが違います。また「日本の庭」は、『神々の国の首都』にも収録されていることがわかりました。

八雲作品のタイトルも、訳者によって微妙につけ方が違うようです。
また、それぞれの著作は、短編の集まりで、何を載せるかは編者によって、選択されているようです。同じ作品が、いくつかの本の中に共通して掲載されており、「日本の庭」は、何冊かの作品集の中で見ることができるようです。

上記の写真中の『小泉八雲集』には『知られぬ日本の面影』の中の3篇が掲載されていました。

 

〇翻訳者池田氏が語るタイトルのこと

タイトルの違いについて名著45 「日本の面影」:100分 de 名著の中で、翻訳者の池田雅之氏が次のように語られていました。

『日本の面影』(原題:Glimpses of Unfamiliar Japan)はこれまで、「知られぬ日本の面影」「知られざる日本の面影」などさまざまなタイトルで邦訳されてきましたが、今回は、現在最も一般的と思われる「日本の面影」を作品タイトルとして使うこととします。

 

『日本の面影』と題した本  小泉八雲記念館のライブラリーにあったものです。 

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「日本の庭」の訳者による違いを見てみます。 

小泉八雲旧居のパネルの訳

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〇『新編 日本の面影』の訳

「新編 日本の面影」の、どの部分が該当箇所かを探しました。p222からです。

 屋敷の前面にあたる庭の中心は、南向きの位置にある。そこから庭は、西へ向かって北側との境まで伸び、その境界は一風変わった垣根で部分的に仕切られたいる。
その庭には、ずいぶん苔蒸した大きな岩があり、水を湛えた風変わりな石の水盤もいくつか据えてある。歳月を経て緑色になった石灯籠や、城の天守閣に見られるような鯱(しゃちほこ)もある。この大きな石の魚は想像上の海豚(イルカ)のことで、頭を地面につけ、尾を空中にはね上げている。
老木の茂っている小山もある。緑の草の長い斜面もあって、花をつけた潅木が影を落としており、川岸の土手のようである。緑に覆われた築山は小島を思わせる。
 これらの緑鮮やかな小高い隆起は、川の流れを模した、絹のようになめらかな淡黄色の砂地から盛り上がっている。その砂地の上は踏んではいけない。踏むにはあまりに美しすぎる。

『新編 日本の面影』ラフカディオ・ハーン…「日本の庭にて」第3章より

 

2つの文章を照らし合わせると、微妙に表現が違うことがわかりました。

 

〇『神々の国の首都』の「日本の庭」の訳

『神々の国の首都』とも比較してみました。訳者は仙北谷晃一氏です。小泉八雲旧居のパネルは、こちらの訳とも違っていました。

 

〇旧居のパネルは、どなたの訳? 

3つの翻訳がそれぞれ違います。小泉八雲旧居のパネルの訳は、他に翻訳された方がいらして、それが納められた書籍が他にもあるのでしょうか?

その 素性がわかりました⇒〇 小泉八雲旧居のパネルは誰が訳したもの?

  

〇参考:根岸泰子氏による訳

小泉八雲旧居の持ち主で維持管理をしてきた根岸家の関係の方が訳したものです。

南の庭
ラフカディオ・ハーン『日本の庭』
三番目の庭

 

 

■「妙な壁」について

夏に訪れた時に、どうしても気になっていたことがありました。西の庭の壁を、八雲は妙と表現したのですが、八雲はこの壁の何を妙と感じたのか。どう見ても妙に思える壁ではありません。この壁ではない何かを意味しているのでしょうか?

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しばし、佇んで考えながら眺めていました。しかし、これは、壁のことを言ってるとしか考えられないと判断しました。

  

〇妙な壁の推測

その後、戻ってから八雲の年表を作成していました。
  ⇒小泉八雲年譜 - Google スプレッドシート

17~18歳ごろに短いですがイギリスで暮らしていたことがわかりました。その後、アメリカに渡ります。

そこで、イギリスやアメリカの庭のことが思い出しました。日本でイングリッシュガーデンがブームになった時に聞いた話です。

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wikiphedhiaより コッツウォルズ地方

海外では、隣家との間に塀の区切りはなく、それぞれつながりを持った庭づくりをしており、街の景観を美しく形成していると聞きました。

またアメリカの庭などは、芝生が広がっていて、隣家との間いに壁や塀で仕切るという習慣がないとも。

八雲がイギリスやアメリカで暮らしたということから、この庭の話とつながりました。八雲が妙と感じたのは、壁の形状のことではなく、庭を壁で区切っていることに対してだったのでは?と推測しました。

 

〇訳者による違いは?

そこで、この壁の区切りについて、訳者によってどのように訳されているのかを確認してみました。人によって、違う表現をしているかもしれません。

結果は下記の通りで、大きな違いはありませんでした。しかし、若干のニュアンスの違いはあります。

実際の庭を見ると「部分的に仕切られている」「完全に仕切られているわけではない」と書かれていますが、そのようには見えません。今は、完全に仕切られているけども、昔は部分的だったのか・・・・など、またまた疑問になってくるのですが・・・・

 

・その境とは妙な隔ての壁で半ば分かたれている
(旧居パネル)

風変わった垣根部分的に仕切られている。(P222)
『新編 日本の面影』「日本の庭にて」 池田雅之=訳

風変りな仕切りによって仕切られているが、完全に仕切られているわけではない(p291)
  『神々の国の首都』 「日本の庭で」仙北谷晃一 

  

〇原典の単語は?

「妙な」という部分は、同じような意味の単語で訳されていますが、元のワードはどんな単語だったのでしょう。もしかしたら、他に意味を持った単語であることも考えられます。

英語が苦手でも、これくらいなら、なんとか確認してくることができるかもと思いました。「妙な」の単語を確認する。今回、訪れる目的の一つにしました。

元のワードがわかると、壁でない何かであることも考えられるかもしれません。

 

 

 ■ 小泉八雲記念館にて

〇『新訳 日本の面影』入手

小泉八雲旧居に行く前に、翌日、記念館に訪れるために図録を購入しておこうと思っていました。記念館に立ち寄ると、幸いなことに『新編 日本の面影』も販売されていました。

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事前に、旧居のパネルの訳と、書籍を突き合わせていたのですが、どうも書き込みをしたい衝動にかられていました。本を購入しておけばよかった と思っていたのでここで入手できました。

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手にした『新編 日本の面影』

 

小泉八雲旧居のパネルは誰が訳したもの?

購入する時「この本の訳と、隣の旧居のパネルの訳が違うのですが、旧居のパネルは、どなたの訳なのか」を伺いました。

すると、学芸員の方がいらして、解説していただきました。お隣のパネルは、以前、旧居にいらした方が、独自に翻訳されたものだということがわかりました。(⇒根岸家の方でしょうか?)

 

〇八雲の英語は、日本語的だったのか?

また、八雲の英語は、日本語のニュアンスを伝えることができる英語表現だったのか。という疑問に、細かく、細かく修飾語に切り分けて、表現していたのだそうです。

翻訳の際に、それを直訳してしまうと、とてもわかりにくい日本語になってしまうので、訳者それぞれが、工夫をしながら訳されているようです。それぞれに特徴があり、好みもあると思うので、比べてみても面白いと思います。と解説していただきました。

 

 

■オリジナルをあたる

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〇原典と対面

翌日、「Bonさんお松江文豪まちあるき」始まる前の時間を利用して、ライブラリーで、『日本の面影』を探しました。自力でみつけることは無理と判断し、スタッフの方にどの本か伺っていました。

そこになんと、凡館長が出てこられ、直接、教えていただくことができました。棚から本を取り出していただいたのがこちらです。 

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そして、16章にあたるページも教えていただきました。

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日本語の原本があれば、それと対応させていけば、「妙な」が、どんな単語が使われているかわかるでしょう。ということで、前日に購入しておいた『新編 日本の面影』に、マーキングしながら、対応させることができました。(⇒*5 

 

〇「妙な」の単語は?

日本語の段落替えと、英語の原文の段落替えが一致していたので、意外にも対応させることができました。  

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そして「妙な」と訳された元の単語が判明しました!
それは「curious」という単語でした。

 

〇「curious」の意味

時間もなかったので、スマホで簡易的に調べて確認できたのは、「奇妙な」というワードだけが出てきました。それ以外、訳しようのない単語なのだと理解しました。

戻ってこられた凡館長から「わかりました?」と気にかけていただきました。「curious」だったことをお伝えしつつ、自分で推測していたことをお話してみました。

 

〇当時の松江の住宅の状況

「境界の壁の形を奇妙と思ったのではなく、境界に壁があることを奇妙と思ったのではないか?」 

すると、当時の松江は、旧居のような塀のある家は、そんなに多いわけではなく、武家屋敷のようなところに限られていたそうです。そして、八雲がこの家に住む前の家は、宍道湖から中海に流れ込む大橋川のあたりに住んでおり、そこの家には塀はなかったと言います。そしてその周りの家にも塀はなかったとのこと。そんな状況を考えると、塀の存在そのものを妙と感じたというのは、あるかもしれないですね。とのことでした。

 

 

■日英翻訳家の方と遭遇

そのあと「Bonさんの松江文豪まちあるき」に参加すると、日英の翻訳家の方が参加されており、いろいろお話を伺うことができました。

 

〇「curious」はどう訳すのか

「curious」を日本語にする時、どんな訳が考えられるのか伺ったところ、それは、人に対して使っているのか、ものに対してなのか、聞かれました。人とモノとでは、意味あいが変わるのだそう。モノであれば、一般的には「奇妙な」と訳すとのこと。あとは文脈によって変わるから、原文を見ないと・・・・

 

〇八雲の英語は、外国人からみたら違うのか?

日本で訳された(美文調のような)日本語のようなニュアンスで、英語の表現がされているのか? 外国人からみた八雲の英語は、どのように感じられるのか。外国人が八雲の英語をどう感じたのかという実際のところは、日本人には、わかりにくいことだと思われます。八雲にも造詣が深い、日英の翻訳者に直接、伺えるというのは、とても貴重な機会です。

その答えは意外なものでした。

八雲のあの文章は、外国人の八雲が、外国人に向けて日本を紹介しようと思って書いたもの。レポートのようなものを、日本人が訳して、日本人が読んでいることが、よく理解できない。日本人は外国人に向けて書いたものを見て、どう受けているのか・・・・・

そんな答えが返ってきました。

 

八雲は、日本の心を理解し、日本語の美文調のような表現も英語の中に取り入れて、日本を紹介しました。それはあくまで、日本を知らない外国人に向けたものだったというのは、意外でした。 

 

 

■八雲の翻訳について

〇美文調に宿るリアリティー

下記にも、『日本の面影』が欧米の読者向けの英語であることとともに、八雲文学の特徴として「大仰」「美文調」ということが挙げられていました。

大仰な美文調に宿るリアリティー | NHKテキストビュー

『日本の面影』は、もともとは、欧米の読者向けに英語で書かれたものですが、その文体には大きな特徴があります。それは、きわめて19世紀的な、装飾語の多い、息の長い凝った文体です。本書の特色の一つは、八雲のかすかに震えるような、朦朧(もうろう)とした美文調の文体の息づかいにあるともいえます。

 

最初に『忘れぬ日本の面影』の文章に触れた時、今ではあまり使われなくなった、修飾語が多い美文調。まさに仰々しい、装飾過多という印象もありました。

そして、修飾過多な文章の翻訳の難しさが語られています。

原文についてまずいえるのは、一文の長さです。日本語訳では読みやすさを考えて五つの文に区切って訳していますが、英語の原文ではこれでたったの二文です。

これらの、修飾語過多で大仰な表現の背景には、その時代に発達した写真技術に対抗する意識、そして日本の地霊との対話があったのではと考えられています。

 

八雲の表現する自然描写。それについては、凡館長からも講演内で、島根県立美術館学芸員、柳沢氏の寄稿でも目にしていました。八雲の描写は印象派のような表現手法を使って、言葉を紡いでいると語られていました。それをワードペインター印象派風の言語芸術家)と称されており、言い得て妙だと思いました。

 

〇翻訳者が語る八雲文学の翻訳の難しさ

平井呈一訳「日本~一つの試論」にて

ついでながら、拙訳はできるだけ平明を心がけていましたので、
その妙味を全く伝えることができなかったことを、
ここに深くお詫びしておきます。

 

平井呈一訳「心~日本の内面生活と暗示と影響」あとがきの最後

暗中模索の文章、ただ平明に、平易にと、それのみを心がけた。
それでもまだ、古い思念がふるいおとされないでいる点が多々あって…と書かれています。

以上、情報提供いただきました。

 

池田雅之訳『新編 日本の面影』訳者あとがき

原作の文体はかなり息が長く、決して読みやすい英文とはいえない。しかし翻訳ということで、できるだけ平明。達意の読みやすい現代日本語にしようといろいろと工夫を試みた。世紀の変わり目がしきりとハーンを読んでいる感じがするが、訳者には、ハーンの兄ミスチックな共生と循環と文学的コモロジーを読者と一緒に楽しみたいという密かな願いがある。

 

修飾語の多い英語の文体に、翻訳者はご苦労されている様子が伺えます。(⇒*6

 

 

■タイトルの違いは統一の方向へ

「第二部:小泉八雲と松江を愛した文豪たち」の特別講演が、小泉八雲記念館で行われました。講演会が終わったあとに、凡館長による展覧会の解説があり、終わったあと質問の時間がありました。

日英の翻訳者の方と、八雲の著作のタイトルについて、あれこれお話を伺いました。

 

〇『知られざる日本の面影』のタイトル

『知られざる日本の面影』『知られぬ日本の面影』など、混乱しているのが現状。統一の方向に動いているとのことで、現在、小泉八雲辞典が編纂されたので、それに準じるようにしていきたいとのこと。

 

〇『日本一つの試論』

こちらのタイトルも、『日本一つの試論』『日本―一つの解明』『神国日本 解明への一試論』など、複数のタイトルがあります。これらも、訳者の解釈の違いだと思っていました。全体を試論と捉える訳者の方もいれば、解明されたと捉える方、そのプロセスと捉える方・・・・

ところが、英語のタイトルも、表紙と中表紙とでの違うという妙なことがおきていることを教えていただきました。それはデザインレイアウトによる文字カットだったりと別の要素もありました。

同じタイトルでも、日本語側から見ているのか、英語側から見るのかによっても見えてくるものが違っていました。

これらのタイトルも、統一の方向で集約させていくようです。

 

  

■まちあるきに参加して 

「Bonさんの松江文豪まちあるき」に参加して浮かんだいろいろな疑問が、浮かびました。

〇怪談には、教訓や真理があるのか

耳なし芳一」などの怪談、何が言いたいのかと考えるとよくわからない話もあります。結局、何が言いたいのか・・・・

最後まで手を抜かない。見落とししやすい部分に注意。弘法も筆の誤り。そして、黙って痛みに耐える忍耐強さ。明治時代小学校の教本になっていたということは、明治の教育で、日本人に忍耐を植え付けるツールとしても利用していた?

そんなことを考えていました。

講演会の中で、二元論というお話があり、現世だけでない世界があること。何かに恐れる畏怖の念というもの伝えようとした?

今回参加されていた、日英の翻訳者の方にも、耳なし芳一からどんなメッセージを受け取るか、伺ってみたところあれは、単なるホラー、人を怖がらせるための話と捉えられていました。

 

〇八雲は南方熊楠のような人だったのか?

熊楠ほどの人であったかはわからないけども、似たような思考を持った人だと考えられる。民俗学つながりでのあったことにあとで気づきました。

 

〇医学界からの講演の依頼について

脳学会(?)や臓器学会からも八雲についての話をという講演の依頼があると伺っていました。医学界は八雲に何を求めているのでしょうか?過去の過ちの反省をしようとしているのでしょうか?(⇒*7

それはですね・・・・と笑いながら、こういうことなんですよ。と軽やかにお答えになられました。(⇒*8

 

 

〇八雲はシンプル?

街歩きの講座では、八雲をシンプルだと、凡氏より解説がありました。『日本の面影』がシンプルなのだろうか・・・・ と思っていました。初めて書いた『日本の面影』では、装飾過剰な美文に思えました。

その一方で、新聞記者というジャーナリズムの中に身を置いていた八雲は、シンプルで簡潔に伝えることも、並行していたのでした。晩年に向け、そぎ落とされシンプルになっていったそうです。

 

〇八雲は、自然は好きだったけど、自然主義は嫌いの意味は?

自然と自然主義は違うのでしょうか? 同義だと思っていました。

自然主義は、理論や法則、原理、原則など科学に基づいた考え方。一方「自然」は、科学だけでなく、哲学や宇宙論、宗教なども含む、人智を超えたものというイメージでしょうか?

これで、八雲が蛇に食べられる蛙がかわいそうと、自分の食事から肉を置いたという理由がわかりました。八雲は自然科学を理解している人だと思っていたのですが、生態系は理解していなかったのかと感じさせられていました。

食物連鎖、生態系という科学ではなく、単純に食べられたらかわいそうという人間的な部分も合わせ持っていたのだと理解しました。

 

■まとめ ・・・文学も自然に帰結

講演会のまとめとして語られていた五木貫之氏の言葉。

作家の本分は、自然と向き合うこと。最近の作家は、自然を書かなくなったと嘆かれていました。松江のような場所に住むと、自然を描きたくなるのは当然で、八雲のような文豪は自然の中で育まれる。といったお話で結ばれました。

いろいろなことに興味を持って、その先にたどりつくこと。それは「自然に学ぶ」ということでした。これまであまり触れることのなかった、作家や文学の世界も、同様に自然に帰結していることがわかりました。世界の中心に何があるかが見えた気がします。

 

自然主義について
写実的、科学的、客観的な態度に徹底し、理想主義を排除したもの。

白樺派
自然主義に対抗した潮流で、人道主義、個性主義、理想主義を掲げる

八雲は自然主義を「露骨で醜悪」と批判していました。(⇒*9

 

 

■あらためてcuriousの意味

curiousの意味を改めて調べました。

curiousの意味 - goo辞書 英和和英
curious / curiosityの意味と使い方 | ネイティブと英語について話したこと

一度は、「奇妙な」で一致を見たと思ったのですが、人に使う場合は「好奇心旺盛な」という意味もあることがわかりました。

  

今回、八雲が書いた英語はどんな英語だったのかを知りたいという好奇心が、文学、小説の扉を開いてくれました。そして英語の扉もちょっとだけ、動きました。

その入り口とになった単語が「curious」 
そのもう一つの意味は「好奇心旺盛な」だったというのは、何か示唆に富んでいるように感じられました。

 

追記 2021.11.25

「青天を衝け」 34回 栄一と伝説の商人にて

不平等条約の解消を、駐日英国公使を務めるハリーバークスらに進言したところ、民の声がまとまるシステムのない日本で、そんな進言には応じられないというやりとりが交わされていました。その会話の中、飛び込んできた言葉がありました。

それがcuriousです。字幕では「ばかげている」と訳されていました。何を言っているかわからない会話でしたがcuriousだけがはっきり浮かびあがり耳に飛び込んできたのでした。

curiousの意味は「奇妙な」。人に対しては好奇心旺盛。ドラマでは「ばかげている」という意味で使われています。調べてみたところ、その意味の記載は確認できませんでした。文脈によっても変わる。訳者によっても・・・・

 

 

■関連

航海記 ♪歌いながら行くがいい♪ 松江旅情 37 小泉八雲『知られざる日本の面影』

 

小泉八雲関連記事

 

 

■脚注・補足 

*1:■翻訳本が意図的に誤訳されていた話  
〇ブルーノタウトと音楽家 以前、ブルーノタウトという建築家のことを調べていた時に、翻訳者による意図的な誤訳が行われ、それが今もブルーノタウトのイメージとして引き継がれているということに遭遇しました。それ以来、翻訳本には訳者の意図が反映されているという見方をするようになりました。

 

*2:■英語表現と日本語表現
日本語で「あなた」を表す言葉は実にたくさんあります。

あなた ・ あんた ・ お前 ・ てめえ ・自分 ・ 君 ・貴様 ・ おのれ ・ われ ・ そち ・その方 ・あなた様 ・ 貴方 ・ 汝 ・お宅

引用:「あなた」の類義語や言い換え | あんた・お前など-Weblio類語辞典

これらの「あなた」には、相手との上下関係や、感情的なものまで含まれています。さらに「あなた」にも「アナタ」「貴方」と違う文字があてられています。しかし、英語では「you」の一言。(もしかしたら他にあるのかもしれませんが・・・・)

他にも、日本語には敬語があり、尊敬語、謙譲語、丁寧語などは、英語ではどのように表現するのでしょうか? これらの複雑な日本語表現を、英語でニュアンスまで伝えることができるものなのでしょうか。八雲には、英語でそれを伝える手段があったのでしょうか?

八雲は一般的な英語で書いていたのだけども、日本人の翻訳によって、あの美文調の八雲文学が生まれたのではないか・・・・と考えていました。

日本語と英語に表現の違いがある中で、八雲文学はどのように生まれたのか、というところに興味を持ち始めました。美しいと感じた描写は、日本人の感性が加わったことで、より高まったのではないかと推測していました。

 

*3:漱石の『こころ』 
木島櫻谷と漱石の関係を調べていて、『こころ』を読んでみたいと思ったことがありました。しかし手にすることはなく放置状態。今回、八雲にふれると、漱石との入れ違いの接点がありました。東京帝国大学文科大学の「英文学概説」を教えていた八雲のあとを引き継ぐという縁がありました。こうしたつながりが次第に、それぞれの興味につながっていくことに期待。

 

*4:■『知られぬ日本の面影』第16章「日本の庭」
小泉八雲全集. 第3巻(大正5年出版)のうち、『知られぬ日本の面影 下』落合貞三郎訳の中に第十六章 「日本の庭」の項目があることが、国会図書館のデジタル版で確認ができました。 

 ⇒小泉八雲全集. 第3巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
 ⇒小泉八雲全集. 第3巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション 

さらに下記のブログでも、16章に納められた「日本の庭」の紹介がされています。

 ⇒小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (一) / “Glimpses of Unfamiliar Japan”第二巻 「知られぬ日本の面影 下卷」開始: Blog鬼火~日々の迷走

 

 

*5:■原本をネット上で見ることができる 
現在では、原典がネット上で確認することができます。
In a Japanese Garden - The Atlantic

 

 

*6:■現地調査は? 
たとえば、「日本の庭」を訳す時、翻訳者の方は、現地に行って取材などされるのでしょうか?実際の庭を見て翻訳するのと、見ないで翻訳するのとでは違うだろうと想像されます。庭を目の前にして「日本の庭」を読むと、対応させてしまいます。

実際を見ないで読むと、そういうものなんだと理解してしまいます。本書に登場する全ての場所に訪れることは難しいでしょう。この庭は、八雲のいた当時を引き継ぐ異例ともいえる場所です。

 

*7:日本の医学界は、反省なき上に、権威が引き継がれ、今に至っているという話を聞いたことがありました。今になって、過去を見直すという機運が高まってきたのかな? 八雲のジャーナリストとしての先見性に学び、振り返りを試みようとしているのかと考えていました。 

*8:松江で学会があると、地元ゆかりの人を呼ぼうっていうことになります。それで八雲関連ということで、お声がかかるのでしょう・・・・と

 

*9:■自然と自然科学の違い 
感覚環境の街づくり事例集より

科学的な数値から、「五感 / 感覚」を使った調査へ。
目で見る景観だけでなく、直接的な体感へ。
環境の価値を、人の感覚や実感へと置き換えていく

科学は数字だけで判断しがち。数字の裏にある感覚的なものも含めて考える。