八雲の著作『知られざる日本の面影』の中に紹介された「日本の庭園」を読みました。『新編 日本の面影』池田雅之訳による新訳で、14のブロックのそれぞれに書かれている内容を把握しながら、どのような文脈の中で庭が紹介されているのかを把握しようと思いました。
■「日本の庭」について
小泉八雲旧居で展示されていた、八雲の著作のパネルを見て、実際の庭とパネルの文章を対応させてみたのがこちら↓
「日本の庭」という作品で、パネルの文章は、どのような文脈の中で語られているか知りたくなりました。著作も読んでみようという気持ちにさせられます。
「日本の庭」という書籍を探してみたところ、この作品は短編で、文庫本の中で60頁ほどの作品であることがわかりました。日本の庭について延々と1冊にまとめられた本だと思っていたので、これなら私にも読めそうです。
この作品はいくつかの著作の中で紹介されていました。最初に発表された時は、どのような形で発表されたのでしょうか。
『知られぬ日本の面影』上下2巻の、下巻にあり、16章に「日本の庭」として書かれた作品であることがわかりました。「日本の庭」は、短編なので、いろいろ形で収録されていたのです。
■執筆までの様子
八雲が日本で初めて書いた『知られぬ日本の面影』。その中に掲載された「日本の庭」ですが、作品になるまでを、追ってみました。
1890年4/4:横浜に来日します。その4か月後、8/30松江に移住します。
1年3ヶ月過ごしました。
1891年6/22:「日本の庭」の舞台となる武家屋敷に引越しました。この時期を5月とする記録もあります。従ってこの家に住んだ期間は、5ヶ月、あるいは6ヶ月という記載を目にします。
1891年11/15:熊本へ向かいます。
1891年11/19:熊本に到着。
1892年5月上旬:熊本に移住してから5か月後、『知られぬ日本の面影』が、外国人向けのアトランティック・マンスリー誌に連載が始まりました。
同年5月上旬:ボストン・ホートンミフリン社に『忘れられぬ日本の面影』の出版のため、原稿送付しますが、出版まで2年5ヶ月かかりました。
1894年9/29 :『知られぬ日本の面影』上下2巻出版されます。
原稿を送ってから出版までに時間がかかり(2年5ヶ月)ましたが、執筆は来日してから2年の間に仕上げられています。
「日本の庭」は松江で暮らした1年3ヶ月のうちの、後半、6カ月(5カ月)の体験です。その後、熊本へ引っ越しますが、その前後はあわただしい時間を過ごしているはずなので、執筆の時間はあまりとれていないのではと考えられます。
庭の木々や生き物については、夏の描写が中心になっており、秋の描写は見受けられないようでした。8月~9月ぐらいまでの庭の観察が中心になっているでしょうか?10月は、熊本への引っ越しの準備に追われていると考えたとすると・・・
熊本に移住してから5ヶ月後、超大作の原稿すべてを仕上げて送っています。作品は、上下2巻、全編700頁以上。27編に及びます。
〇筆の速さ
表で視覚的に見ると、異様なまでの筆の速さがわかります。
その間にも、精力的に各地にでかけ、日本人の気質や文化など多角的にとらえて深めています。(それを一覧にしようと思ったのですが、途中で断念・・・著作を読みながらその都度、拾うことに)日本の庭に関する、樹木や石、動物たちの伝承などを調べながら、ふんだんに盛り込まれています。
(また教師としての人望も厚く、生徒の面倒見もよくて、自宅でも指導していたと言います。執筆の時間をどのように捻出していたのでしょうか・・・)
興味のあることをあますことなく調べて吸収しており、スポンジが水を含むようです。スポンジの水分保持力を超えると、水が絞り出されているように見えます。その水は、浄化されていたり、ミネラルを含んだりして、元の水とは違う、新しい水となって潤しているようです。
〇翻訳本
『知られぬ日本の面影』は、八雲の弟子によって翻訳がされました。その後の翻訳について紹介
1916年(T05):『知られぬ日本の面影 下』落合貞三郎訳 第十六章 日本の庭
1922年(T11):ハーン全集(全16巻)2巻本 上下700頁以上 収録作品27編
1958年(S33): 角川書店『日本の面影』
2000年(H12):『新編 日本の面影』 作品11編 大部から選んだアンソロジー
〇『新編 日本の面影』について
もともとは、『知られぬ日本の面影』は、 1894年(M27)9/29に上下2巻出版されました。全700頁、27編に及ぶ大作でした。
『新編 日本の面影』は、その中から、ハーンの文学世界がわかり、日本を理解するエッセンスがより伝わる11篇をピックアップされたものです。
つまりは、アンソロジーです。(特定のジャンル(文学分野)から複数の作品をひとつの作品集としてまとめたもの)
■『新編 日本の面影』の目次
『新編 日本の面影』で取り上げられた作品
ハーンの文学世界がわかり、日本を理解するエッセンスがより伝わる11篇で構成された中の「日本の庭にて」です。この本で取り上げた作品の中では一番、長い作品です。
■構成と内容
「日本の庭にて」は、「一」~「十四」で成っており、それぞれの内容を簡略にまとめ、補足説明を加えました。その途中で、小泉八雲旧居で紹介された庭のパネルと、関連写真を差し込みました。「日本の庭にて」の中で、小泉八雲旧居の庭がどのように紹介されているかを知りたいと思いました。
〇一:住まいの概略
大橋川そばの鳥かごのような2階家に八雲は住んでいましたが、快適に過ごすには小さいと感じました。そこで城の裏手の静かな通りに引っ越すことにします。
新居である家中屋敷の立地や外観の解説がされています。
(左)瓦をいただく高くて長い塀で仕切られており、門の右に突き出た見張り窓。
(右)湖の見えない町の北部、崩れかかった城の裏手に引っ越します
(このあと、建物に入る前の入口、障子戸のところにあるパネル《この家のたたずまい》のパネルに続きます。)
本文中の、壁から突き出た大きな見張り窓 (小泉八雲旧居 - Wikipediaより)
663highland - 投稿者自身による作品, CC 表示 2.5, リンクによる
(左)八雲邸の門
(右)門を入った両側は塀右側
(右)いつも障子がしまっている家の入口を己が前に見るだけです
(そのあと、庭の様子が書かれています。)
・侍屋敷の特徴(部屋数が14、天井高くゆったり
・屋敷からの眺め(湖水のながめなし、お城見えない、地平線も空も見えない)
・庭は美しい(三方向を囲むひと続きの庭、広い縁側、垣根の役割)
〇二:一般的な日本の庭について
・日本の生け花と西洋のフラワーアレンジメントについて
・日本の庭は花園ではなく、山水の庭である(岩・小石・砂で構成)
・日本の庭は大きさではない。
(果物皿にあしらわれた庭もあり風景が生き生きと縮小されている)
・日本の庭園の美の理解は、石の理解が必要
・日本は石にまつわる奇妙な信仰や迷信が多い
【補足】
日本の生け花に対する八雲の理解は、短期間の学びながらも、本質をとらえているように感じます。(これは日本人だからそう感じるのかもしれませんが・・・)西洋のフラワーアレンジや、ブーケと呼ばれる花束は、花を生殺しにし、色彩感覚の冒涜といった過激な批判をしています。さらに、イギリスの庭園を自然の破壊であり富を誇示しているだけではないかとも言っています。
一方、日本の庭を理解するにあたり、石が重要なポイントであることに言及しています。自然の営みによる石の美しさを取り入れる日本の感性は、至るところで見受けられ、それは神仏の像を彫ったり、手水鉢にするというところに表れています。また石に刻まれた漢字にも、独自の存在感を見たり、石から気分や感情まで感じ取っています。
このような石の造形による暗示は、古くから伝承としても伝えられています。その背景にあるのは、火山の多い国ゆえ、様々な形の石が産出すること、それによって言い伝えが生まれるのではないかと考察しています。
石にまつわる信仰、迷信といった広がりについて、歴史をさかのぼったり、地域を拡げたりしながら、その後の民俗学というジャンルを切り開いていく萌芽を感じさせられます。
〇三:日本の庭は、絵であり詩であり、抽象観念を表現できる
・日本の庭は、一枚の絵でり、一篇の詩。
・造園家が自然の持つ影響力を忠実に反映させれば、情感も訴えかけてくる
・昔の偉大な造園家は、庭の構図に道徳的教訓を盛り込む。
・抽象観念を庭で表現できると考えた
・持ち主が誰かによって工夫をされている
(以上のことから、八雲は日本の庭は、作庭者と持ち主の意思が込められているということを理解しています。その上で)
我が家の庭が、どういう人間の情感が意図され反映されているのか、今は知る由もなくなってしまいましたが・・・・(⇒*1)
(以下、こちらのパネルに続きます)
南庭・西庭・北庭
〇四:「非情」について
・仏教の一切衆生は、欲望のない「非情」と欲望のある「有情」に分かれる。
・「非情」は石や木、「有情」は人や動物。
・庭園哲学にこの区分に触れているものがない
・小さな庭に伝わる民間伝承に「有情」「非情」あり
・灌木の話(手柏・南天・譲葉・月桂樹)
【補足】
灌木にまつわる名称の由来や迷信を、樹木の形態などから紐解いています。また海外の風習や習慣と比較し日本での使われ方を紹介。
それぞれの樹木に対する、掘り下げ方は、樹木と人とのかかわり方を日本だけでなく、これまで訪れた国々との比較のから読み解き、共通性や違いを浮き上がらせています。
〇五:樹木について 女性の表現
・大小の樹木には詩や伝説が残っている。石も同様
・岩屋石が庭の平面図の骨格、松は群葉が織りなす意匠の骨組みで庭の中心
・象徴主義の日本で松は特別な意味を持つ
・松・桜・梅・藤・朝顔・牡丹などについて
・樹木や花に例える女性の表現(梅・桜・柳・芍薬)
【補足】
樹木の花の美しさ、開花の特徴、生態、品種に、読まれた詩や武士の精神性、地域特有の愛で方など、幅広い視点から紹介。また女性の美しさを花にたとえることについて、その比喩の使い分けなど、細かな考察がなされています。
外国人から見る客観的な指摘は、日本人として、ハッとさせられる部分が数多くあります。これらは、先行の日本を訪れた外国人が伝えた日本人観を塗り替えてしまう、八雲の独自視点が、際立ったものだと思われます。
〇六:日本の樹木には魂がある
・仏教哲学による宇宙の真理に近い考え方
・西洋は、樹木を「人間のために創られたもの」とする西洋古来の正統思想
・特定の木にまつわる奇妙な迷信(おばけの木・枝垂れ柳・榎)
・武家屋敷の柳にまつわる伝説
【補足】
樹木にまつわる迷信を取り上げ、化けるということについて、姿形を変えて歩きまわるという特徴をとらえいます。これは日本だけでなく世界にも同様の話があり、それらの話の裏にある真理のようなものを導き出そうとしているようです。
〇七:第二の庭 北側の庭
北の庭 夏
お気に入りの庭の紹介をしながら、庭に植えられた蓮が、彫金師による再現が行われており自然と工芸の美をより高めていることにも言及しています。
〇八:第三の庭 菊にまつわる話
・第三の庭 草と野花が生え放題の荒れ地
・北西のはずれの稲荷の祠
・屋敷東側 耕作地 菊作り
・日本の園芸が生み出した成果である菊 菊にまつわる不吉な話
・姫路城 お菊の皿
【補足】
メイン意外の庭を紹介しながら、そこで作られている菊について、不吉だとされる伝説(⇒*2)そこから他の地域にも同様の話があることなどにも言及されています。伝説というのは似たような話が、一所で留まっておらず、各地に存在していることなども、世界を旅した八雲の経験から導かれているのではないでしょうか?
〇九:「有情」 欲望も持つ存在について
・庭の4匹の蛙・イモリ・まいまい虫・カタツムリ
・子供たちには植物の生態や昆虫の脅威の世界を学ぶがある
・母によるしつけ
・亀 日本美術における亀の表現
【補足】
庭に生息する生き物が、生き生きと紹介されています。種類や特徴、通称の由来、行動の特徴など。そしてそれらの動物たちが、いかに人々と共存し、大切にされているかを、様々な人の言葉によって伝えています。
また、動物の行動と人間の行動。庭から学ぶ植物の生態。神話や伝説をとおして伝えられているしつけや生き物との関わり方。自然とともに暮らしながら学ぶことが、伝統として受け継がれています。そして日本絵画のモチーフとして用いられた経緯、その変遷など考察は縦横無尽に広がっています。
〇十:庭の動物たち
・蛙・蛇・イタチ・猫
【補足】
蛙と蛇の関係、生き物どおしの生態系の話や、我が道をゆく猫の特性についても語られています。諺や仏典などを用いて、人間との関係を語っています。
八雲の自然観が伺えるように思いました。生きとし生けるもののへの尊重と哀惜の念。自然のサイクルや法則・原理とはまた違う、それぞれが生かされていることへの賛歌のようなもの。一方、感情的な部分も含まれていたり・・・
〇十一:庭の昆虫
・蝶・蝉・きりぎりす・トンボ
【補足】
自然は人間が支配するという考え方の西洋において、昆虫の鳴き声に耳を向けるという習慣は、ほとんどありません。しかし、小さな生き物、昆虫に対しても、興味を示し、観察をしています。
特に鳴き声に対しては、神経を集中させているように感じられます。その音を、言葉に置き換えることで、昆虫たちと会話でもするかのような楽しみを見出しているようです。
視力が衰えたことによって、別の感覚が研ぎ澄まされ、特に聴覚が敏感になるという話はよく耳にします。聴覚は視覚を補う大きな力となっていたのではないでしょうか?
〇十二:庭のかそけきもの
・蚊・さねもり・蛾・カマカケ・カマキリ・ゴキカブリ・蛍
・トカゲ・ムカデ・クモ
同じ昆虫でも、あまり好まれないものたちにも目を向けています。特徴や種類、名前の由来、習性、迷信など実に細かく調べられており、注釈にも加えられています。
〇十三:庭の裏手の山の鳥
・鶯・ふくろう・粟まき鳥・ホトトギス・トンビ・ことわざ 鳩、山鶯
小泉八雲旧居の裏山
住まいの裏山に集まる鳥たち。その習性、行動をつぶさに観察しながら、それぞれの鳥にまつわる伝説を紹介しています。また鳥の行動によって農作業の時期を読み取る日本の暮らしぶりにも触れ、鳥の名前の由来や、鳴き声との関係、諺や、子供たちの歌う歌、など、民俗学的な考察が行われています。そして儒教、日蓮宗など宗教的なかかわりなど、様々な視点とからめて紹介しています。
鳥の総本山 我が家の正面の部屋から見える古い城山の松林と紹介されています。
裏山に現れた鷺⇒(*3)
〇十四:愛する庭の未来を憂う
塀を挟んで向こう側の近代化された世界と、内側の庭
・気に入りすぎててしまった住まい
・塀を隔てた向こう側の近代化と内側の16世紀の夢の数々(写真上)
・この庭は、忘れられた過去の芸術の結晶となるだろう。
・人間を恐がらない屋敷の生き物
・家中屋敷と庭は、永遠に姿を消すことになるだろう
・それは出雲だけでなく、日本中から趣が消える
・失われてしまった芸術は、宗教が生み出した芸術
【補足】
日本の松江という土地や住まいは八雲にとってこの上ない場所でした。しかし押し寄せる近代化の波は、この家や庭も過去のもとし、忘れられた芸術の結晶となるだろうと予測しています。
そんな庭につどう生き物に向けるまなざしは、どこまでも優しく平等で、対等に向き合っています。衰えた視覚を補うように、八雲ならではの聴覚は研ぎ澄まされ、生き物たちと会話をするように、その音を拾いあつめて言葉に置き換えました。
かけがえのないものが、急速に消えてゆく寂しさ。それを世界に向けて発信し記録にとどめるために、書き急いだのかもしれません。
やっとみつけた自分の居場所、安住の地、日本。日本が持っている精神や心を、伝説や民話のように語り継がれていくことを望んだのかもしれません。命あるものは、失われれます。それは八雲自身においても・・・・
日本の文化、成り立ち、伝説、精神性を愛した一人の外国人がいたこと。彼が見出したことを、決して忘れることなく、人々の心に残り続けて欲しいと、八雲の願いを込めた置き土産だったのかもしれません。
■感想・雑感
〇フラットな観察眼
小泉八雲旧居に設置された庭に関するパネル。著作の一部が入口となり、「日本の庭にて」を読みたいという気持ちにさせてくれました。この本を手にして一番最初に感じさせられたことは、八雲の観察眼の鋭さです。
観察にあたっては、偏見や先入観を持たずフラットに物事を捉えていること。そして、表面の細かな観察をもとに、深い洞察が行われ、それらは示唆に富んでいます。
日本人ですら気づいていないことを引き出し、自覚させ、客観的な視点を持たせてくれます。八雲を読んだ多くの読者が抱くと思われる、自尊心をくすぐられる感覚。それとともに、面映ゆさも抱きながら、今の時代と比較して、失われてしまったもを見つめ、日本人としての在り方を内省させます。
思うことはいろいろありますが、誰もが褒められたら単純にうれしい・・・という気持ちで満たされ、心地よさに包まれます。奥底に眠っていた日本の心を喚起させられる。これが八雲を読んだ人を魅了する部分なのではないでしょうか。
〇多面的な視線
そんな八雲の背景には、日本のみならず、各国に渡航した経験があります。その経験に基づく比較が、直観を生んでいると考えられます。フラットな視線と、いくつかの国を訪問した経験は、多面的な客観性を生みます。
多くの場合、自分たちのことは自分たちが一番、よくわかっていると思いがちです。しかし八雲には、ジャーナリスト経験もあり、様々な角度から対象を見る目が備わっていました。自分たちでは気づけないことを、掘り起こして提示してくれることが、強みだったのではと思われました。
一外国人が見た日本ではなく、いくつもの国を訪れた経験と、さらに自身の中に流れる複数の国の血。このような複雑なメンタリティーを持った眼差しは、単一に近い日本人には、持ちえない視線で、数々のことを、引きだしてくれたと考えられます。
八雲の生い立ちや経験は、普遍性を見出したり、あるいは差異を引き出す源となっていたのではないでしょうか?
〇民俗学への橋渡し
幼少期、家族愛に恵まれず、叔母の家でつらい体験をしました。心理的につらいことがあると、人は現状から逃避するために別世界を作り出すと言われています。八雲も現実世界とは別の世界を作り出すことで、現実の辛さを回避するという方法を、身に付けていたと考えられます。
のちに、世界を旅しながら各国に存在する神話や迷信、言い伝えなどを、非現実の世界に重ねていき、見えない世界、神秘の世界へと傾倒していきました。
宗教についても、一神教の世界だけではないことを、生まれながらに理解していました。(ギリシアとアイルルランドの両親) さらに各国を訪れたことで、多様化した信仰の形に触れ、自身が考える神を形にしていたのだと思われます。
〇あくなき好奇心の先にある真実
そんな八雲を動かす原動力は、八雲自身の好奇心や探求心によるものと考えられます。一つの対象を深く掘り下げることから、実に広い範囲の調査へと広がっています。注釈を見ただけでもそれを読み取ることができます。
詳細な探求や文献、民俗学的なアプローチは、調査能力の高さとともに、元来持ち合わせている知識の広さと深さによるところも大きいと思われます。その深淵さには驚くばかりです。
そして、次々にわきおこる興味や驚きの裏にある真実への探求。真実は人の潜在意識の中に存在していると考えたのではないでしょうか? その意識は、民話や迷信などの伝承の中に埋め込まれて表れてくると考えたのだと思いました。
伝承される話の中に、人が持っている本質的な真実を見出そうとした八雲は、民俗学という新しい研究の世界も切り開きました。
〇日本を伝えるための手段
注釈にわざわざ加えられた植物の学名に着目しました。八雲は植物学にも造詣が深かった・・・と一度は、理解しました。
しかし、西洋の植物名の捉え方について聞いたことを思い出しました。植物の学名は、世界で通用する名前です。どこの国に行っても、それがどんな植物かを理解できる共通語と言われています。一方、日本では和名が一般的で、学名は研究者や専門家が使うのが一般的です。
諸外国では、子供の頃から植物名は、学名で教えているという話を思い出しました。
八雲の著作は、元来、海外に向けて日本を紹介するための外国人向けのレポートだったということにつながりました。植物を日本の呼び名、和名で紹介しても伝わらないのです。その植物が、どんなものなのか、いくら形容しても、アジアのはずれ。日本特有の植物もあり、伝わりにくいのです。
それを補足できるのが学名だったのだと理解しました。日本の庭にどんな植物が植えられているか。それを的確に伝えるための手段だったのです。
〇イングリッシュガーデンブーム
日本にイングリッシュガーデンブームが巻き起こった時、日本中が英国礼賛状態につつまれました。日本の庭は古いといった風潮が起こります。しかしその後、日本の見直しがおこり、江戸のガーデニングにスポットがあてられるようになりました。日本には日本のよさがあることを知るようになります。
江戸時代のガーデニングが注目されたころ、来日した外国人、プラントハンターたちが、日本を大絶賛する様々な言葉も紹介されました。しかし、それらのどの言葉よりも、八雲の言葉は、深い理解とやさしさに満ちているように感じました。
江戸時代の庭を見直すことから、日本回帰が起きた時、残念ながら八雲の記した「日本の庭」に関する言及を、私は目にすることがありませんでした。江戸時代から明治に下っていたためかもしれません。その時、目にすることができていたら… 日本の庭に対する見方が違ったのではと悔やまれます。
〇「日本の庭」&「西洋の庭」に見る「自然」と「自然主義」
小泉八雲記念館で、八雲の歩んだ道を見た時に、いわゆる西洋人の「自然を人間の支配下」に置くという思考ではなく、自然を愛しリスペクトした人。生き物と同じ目線で向き合い、そこに上下はなく同列で見ていた西洋人、という認識を持ちました。自然の摂理も含めて、生き物との関わり方を理解していた人であると。
その背景には、家族関係が複雑で、点々とし寂しい子供時代を送っていたこと。また自身の身体的なコンプレックスなどによって、平等の大切さを痛感するようになっていった経緯があったと思われます。そして各国を訪れるうちに、そこに暮らす人々とのふれあいから、人々の多様性、平等の意を、強めていったと考えられます。
日本に訪れた時、八雲が捉えてきた自然観と、日本の自然観が共鳴し、安らぎの場所になったのだと思われます。
しかし、個人的に感じさせられたのは、自然を理解していたと思っていた八雲が、蛇に食べられる蛙を哀れみ、肉を与えるという行動の不可解さでした。
自然を理解しているなら、そんなことはしないはずです。これは、人の手によって自然のバランスを崩してしまう行為です。そんな疑問を抱いていました。しかし、その考え方こそが西洋的な自然主義だったのだと気づかされました。
八雲は「自然」を愛していたけども「自然主義」は嫌っていた。
この言葉がヒントになりました。「自然」と「自然主義」同義かと思っていたのですが・・・・
「日本の庭」を読んでわかったことは、西洋の庭は「自然主義」、日本の庭は「自然」だということです。
明治以降の教育は、西洋化の波で塗り替えられたものを、のちの私たちは享受していたのでした。その概念によって、今の思考が成立しているため、なぜ「蛇に肉をあげてしまうのか」という疑問につながっていたのだと理解しました。
■参考情報
〇日本の庭と欧米人の眼差し - 桃山学院大学学術機関リポジトリ
■小泉八雲関連記事
■脚注・補足
*1:■八雲に貸した庭を作ったのは
八雲はこの庭は、江戸の武家時代に、持ち主や作庭者によるなんらかの意図を持った庭であると理解していました。ところがその後の調査で、八雲のために根岸家が、庭や家を改修して貸していたことがわかりました。
*2:■姫路城 お菊の井戸
姫路城に行った時に見た、お菊の井戸。こんなところでつながるとは・・・・
*3:■八雲にゆかりの鷺が裏山をねぐらに
夕方、裏山に鷺が戻ってきているのを目にしました。じっと動かず、置物のようでした。翌日の昼間、葉の落ちた木々に塊が見えます。鷺の巣だそうです。
鷺は八雲の好きな鳥です。小泉家の家紋でもありました。また英語で鷺はheronでハーンと似た発音です。旧居の横の山に鷺が、住み着いているというのも、八雲が呼んだのか、八雲の生まれ変わりなのか・・・・
(右)夕暮れ時、戻ってきた鷺
( 左)裏山の鷺の巣もあります
秋に訪れた時に見たお堀にいた一羽の鷺。この光景を見て、この地域の豊な自然、生態系を想像していたのですが、裏山には、1羽どころではない鷺が生息していました。