出雲大社の御本殿は、三重の垣に取り囲まれています。御本殿に一番近いのが玉垣、その回りの瑞垣。境内の回りは、荒垣に囲まれています。また摂末社と呼ばれる小さな神社にも囲まれています。これらの建物について紹介します。
■御本殿を取り囲む3つの垣の謎
〇玉垣・瑞垣・荒垣について
御本殿を中心に、三つの垣によって区画され、その周囲に摂末社や宝庫が並ぶ出雲大社。御神体が祀られている御本殿は、2つの垣でめぐらされており、その中に入ることはできません。聖なる領域と俗なる領域を分ける結界が張られているようで、御神体には、容易に近づくことができない造りになっています。
御本殿に一番近い「玉垣」と、その周りの「瑞垣」が、一般の人は入ることができないエリアです。そして境内は、「荒垣」で囲まれています。それぞれの垣を色で囲ったのが下の図です。
荒垣:銅の鳥居(第4の鳥居)から境内を囲む垣根
*20時以降は閉鎖されるため中には入れません。
瑞垣:八足門から延びる垣。楼門や脇宮3社を囲む垣根
玉垣:御本殿を囲む垣根(楼門からのびる)
荒垣と瑞垣は、見ることができますが、玉垣は瑞垣で囲われていて見えないため、どのようなものなのかよくわかりません。
▼下記の少し上からのアングルからだと、御本殿を取り囲む玉垣が確認できます。
引用:出雲大社のご紹介 | 出雲市 (掲載許可)
〇垣の仕様
参考:出雲大社のご紹介 | 出雲市 (掲載許可)
〇本殿を囲む垣の様子 google航空写真
以下、それぞれの垣を、いろいろな角度から撮影してみました。
〇荒垣
・境内を囲む荒垣(下図青線)
・荒垣には「七口門」があり、銅鳥居を入れると7つの門があります
出雲と大和 出雲大社配置図 図録P85
上記の南側、銅鳥居側の荒垣について
A:銅の鳥居(第4の鳥居)の左右に延びる荒垣を境内の外から
(左)銅鳥居から延びる左手荒垣 (中央)銅鳥居 (右)銅鳥居から延びる右手荒垣
B:境内の内側から銅鳥居周辺を見た荒垣
(写真左)境内内、銅鳥居あたりから左手
(写真中央)銅鳥居の横に植えられた木と垣根が一体化
(写真右)神馬、神牛のあたりから鳥居と荒垣
瑞垣の石のベース部分を利用して土を盛り、大きな木を植栽されていました。
C:荒垣のコーナー部分
下図のCのコーナーのあたりから見た荒垣 外側には植栽がされています。
出雲と大和 出雲大社配置図 図録P85
D:境内より十九舎あたりから七口門に向かって
門は閉じられています。 内側も、荒垣をはさんで植栽されています。
E:素鵞川側の荒垣
神楽殿へ向かう出入口 七口門の一つ
〇瑞垣
A:瑞垣は、御本殿と「天前社」「御向社」を囲っています。
瑞垣の屋根と瑞垣の木目
(左)屋根のコケが美しく思わず撮影
(右)瑞垣の柱に光があたり木目が浮かぶ。影とのコントラストも美しい
出雲と大和 出雲大社配置図 図録P85
B:瑞垣コーナー部分、瑞垣の屋根
C:西側の瑞垣
宝庫側から望む
西の十九舎側から望む
D:正面の八足門と回廊
八足門の右手、東側は、祭りを見るために2階建ての観祭楼となっています。2階には、畳敷きの2室があり、朝廷や幕府、藩の要人が南側境内(
右側の四角い枠は、ここで舞踊がおこなわれました。
四角いコンクリート敷はなにかなと思っていたら・・・
〇玉垣
瑞垣から見える玉垣
出雲と大和 出雲大社配置図 図録P85
実態がわかりにくい玉垣の様子がこちらからわかります。
玉垣のベース部分は石ではなく木が使われています。
■垣にまつわるお話
〇垣の変遷
慶長期の復元 1609年頃
古代歴史博物館 模型
本殿を囲う玉垣はなく、瑞垣だけです。
三重塔、鐘楼が立ち並び仏教色が濃いことも伺えます。
復元模型の元になった絵
杵築大社近郊図 古代歴史博物館にて
寛文期の復元 1667年(寛文7年)
古代歴史博物館 模型 「御宮中指図惣碁盤指図」をもとに復元
大幅なリニューアルが行われており、本殿の回りには「玉垣」が作られました。「瑞垣」も作り変えられ形状が大きく変わっているようです。「荒垣」も樹木から、「垣」に変わりました。
三重塔は移動され、仏教色は取り払われて、簡素で壮大な神の宮が完成しました。
〇出雲大社 三重塔 移動
1677年、出雲大社の造営にあたり、御本殿の檜皮が足りなくなり、妙見山という寺に(但馬国=今の兵庫県北部)いい木があるので、打診をしたところ、三重塔が欲しい、といわれて譲ったそうです。その三重塔は名草神社(兵庫県養父市)に今も存在しています。参考:〇出雲大社と神仏分離
1677年、出雲大社の造宮しつつ、その中で、三重塔も壊して移動させるというのは、なかなか大変なこと。どのように移動をしたのでしょうか。地上ではなく海上ルートが使われてました。また移動に関する費用や人員は、どちら側が担ったのでしょう?⇒(*1)
〇垣に注目して参拝
3度目に訪れた時、本殿を囲う垣が、なぜか気にかかりました。「瑞垣」は参拝ルートを周回すれば、外側からは見ることができます。しかし「玉垣」は見ることができません。存在を意識しつつ、その気配を感じることができたら・・・・と思っていました。
そして「荒垣」については、垣という認識をしておらず、印象が薄かったので、どんな垣か、もう一度、確かめてみようと思いました。外や内から、外周を少し回って確認してみました。北側の端はどうなっているのだろう・・・・と興味も出てきたのですが、そこまで確認する時間はありませんでした。
〇神仏習合による鰐淵寺との関係の深まり
奈良時代に、神仏習合の流れがあり、出雲大社も北西にある鰐淵寺との関係が強くなっていたことが、出雲大社の遷宮の歴史でわかりました。
鰐淵寺・大社・立久恵コース - 中国自然歩道を歩こう♪ トレッキング・ハイキング・ウォーキングに最適なコースです。
島根県:鰐淵寺・大社・立久恵コース(トップ / 環境・県土づくり / 自然・景観・動物 / 自然環境 / 島根の自然公園・保護・観察 / しまねの中国自然歩道)
散策しながら、途中に上記の案内図を目にしていました。鰐淵寺ってなんだろう・・・と思いながら見ていたのですが、その理由が理解できました。(⇒ 出雲大社の御祭神がスサノオ尊の時代があった 鰐淵寺との関係・・・出雲鰐淵寺
中世(鎌倉時代)は、神仏習合の関係で、神社と寺院とかなり緊密な関係となり、神社よりも寺院の方が力が強い状況になっていきました。学問も僧侶が中心のことが多く、仏教の力が強まっていた時代です。
中世出雲神話では、出雲の国引き・国作りの神を素戔嗚尊としていたことから、出雲大社まで祭神を素戔嗚尊に変更させるまでの力を持つようになりました。(⇒*2
〇石が基礎になっている3つの垣
2つの垣を中心に見てきたのですが、石積みがベースになっています。この石の量もかなりあります。それぞれの垣が作られたのは、下記のとおりです。(文化遺産オンラインより)
玉垣 江戸中期/1667
瑞垣 江戸中期/1744‥‥墨書により判明
1667年(寛文7)の寛文の造営の時に玉垣ができていますが、これは松江藩主、松平直政が行いました。
直政といえば、出雲大社の御神体を見たいと押し入り、大鮑が大蛇に変身したのを見てから、篤く崇拝するようになったと言われています。その後、出雲大社を、大規模修復することになりました。その時の修復が、今の出雲大社の姿の元になっています。
〇神仏分離
出雲国造千家尊光は、神仏習合の流れを断ち切るべく、神仏分離を考えていました。直政に願い出てたところ、それが受け入れられ実現することができたようです。それは、明治の神仏分離にさきがけてのことでした。
この時、瑞垣や荒垣がリニューアルされ、玉垣が造営されています。垣のベースとなる石が必要です。そこで、大社の東、境内外の摂社、命主社の近くにある大石を切り出してそれに利用しようとしました。
▼石を切り出したあとがこちら・・・・
引用:神魂伊能知奴志神社(命主社)・真名井の清水:八雲ニ散ル花 04 – 偲フ花
*お写真は上記「偲フ花」のCHIRICO様より引用させていただきました。
すると、その石の下から、銅戈(どうか)や勾玉が現れたというのです。これらは、三種の神器のうちの、剣と玉にあたるもの。それが出土したということは、大変、重要な意味を持ちます。
巨岩の前に建てられ巨岩の下から、銅戈(どうか)や勾玉が出土したということは、かつてこの岩が信仰の対象であったことを意味し、古代の磐座信仰が、神社に発展した例と考えられる貴重な神社です。
そんな歴史ある神社の、御神体を掘り上げてしまったと当時は大騒ぎになったようです。1953年、重要文化財指定を受け、現在は、出雲大社の宝物殿に収蔵・展示されています。
参考:
〇出雲大社と神仏分離
〇命主社|出雲観光ガイド【出雲観光協会公式ホームページ】
〇思ったこと 出雲大社10
〇最近人気のパワースポット、命主社 | 出雲 幸せ巡り- 松尾たいこのイラストエッセイ『出雲 幸せ巡り』公式ブログ
〇出雲大社近くのパワースポット「命主社・真名井の清水」|うんちくマニアックな旅
〇神魂伊能知奴志神社(命主社)・真名井の清水:八雲ニ散ル花 04 – 偲フ花
〇垣にひきつけられたのは?
御神殿を囲む3つの垣が、気になったのは、何が気になったのかわかりませんでした。撮影したものをまとめていたら、命主社の石の話にたどりつきました。
垣に使われたと言われている石が、何かメッセージを送っていたのかもしれません。
今回、北島国造館、天神社、その先の真名井の清水まで、赴くままに足を延ばしていました。命主社はその途中にあったことをあとで知りました。通りからはちょっと奥まった場所になります。
残念ながら、そこにひきよせられることはなく、気付かずに通り過ぎてしまいました。素鵞社もそうでしたが、その先にあるパワーまでは、まだ感じ取ることができませんでした。
一度訪れ、そこに興味を持ったら、調べてみると新たなことが出てきます。また訪れてみようか・・・と思わせる引き付ける力なのかもしれません。
■摂末社
本殿は、垣に囲われ、その周囲に摂末社が並びます。
◆摂末社とは
本殿(本社)で祀っている神様(出雲大社では、大国主大神の后神・御子神)と深い関わりがある神々を祀るのが摂社。それに次ぐ末社。
神社の境内にある小さな社は摂社・末社神社の呼称として用いられています。
〇本殿周囲の社
本殿周辺を散策していていると、周りにいろいろな社があります。どれも同じように見えて、それらが何なのか、さっぱりわかりません。
解説も、下記のような看板が立っています。
しかし、最初は、何を言ってるのか全く理解できず、読む気になれませんでした。
漢字が羅列する神様の名前の認識ができません。神様どおしの関係もわかりません。これを見ただけで、拒否反応状態でした。
古事記や神話を理解しないことには無理なんだと思いました。初めて訪れた時は、のちのためにと思って、とりあえず撮影はしておき、興味が沸いてきたら追々、調べていこうと思っていました。
出雲大社の主、大国主大神ですら理解していないという失礼な状態だったので、解説を見ても右から左への状態です。そんな中、足を引き止めさせ、動画まで撮影した社がありました。それが・・・・
〇 素鵞社(そがのやしろ)
素戔嗚尊(すさのおのみこと)(大国主大神の父)を祀った社です。
*呼び寄せられる力
ここでも、素戔嗚尊(すさのおのみこと)は、かすかに聞いたことがあるような気がする程度の認識。どんな神かも全くわかってません。
しかし、高くなった階段をわざわざ雨の中あがり、ここの屋根から滴り落ちる雨雫を、動画で撮りたくなりました。ここは、感じる人には何か感じさせる場所なんだそうです。何かの力が働きかけたのでしょうか?
戻ってから、本殿よりも強い最強のパワースポットといわれていることがわかりました。ヤマタノオロチを退治した素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀る社だったのです。大国主大神の父神とされ、御本殿後方の一段高いところに祀られています。強いご神気を感じる場所だそうです。
*八雲山に囲まれる素鵞社
背後の八雲山に取り囲まれています。
引き寄せられた荘厳な雰囲気。その理由は、背後の八雲山からの霊気でしょうか? そして、八雲山の盤座が素鵞社の後ろに控えています。
*古代信仰の盤座?
盤座・・・・古代祭祀における祭場
その背後に回ると・・・・
八雲山の山肌が迫ります。
背後の岩肌を社の隙間から・・・・
八雲山は、神職も足を踏み入れことができない禁足地で、古くは出雲大社の御神体だったのではという話もあります。
参考:
〇出雲大社 Vol.3 境内のパワースポットはここ!|うんちくマニアックな旅
〇出雲大社の神体山・それは霧の中の謎でした! - 神秘と感動の絶景を探し歩いて Beautiful superb view of Japan
原始信仰では、山や岩そのものを御神体とされていました。八雲山のすそ野の大きな岩、盤座が迫っています。
*出雲大社は素戔嗚命が御祭神だったことも
そして素戔嗚尊は、鎌倉時代から江戸初期まで、出雲大社の祭神だったと言われています。
出雲大社の荒垣入口の銅鳥居に記載あり。(1666年寛文6年 長州大名毛利家が寄進した鳥居)
銅鳥居に、何か書いてあったことに気づきました。読めませんが、とりあえず撮影。暗くてよくわかりません。
◆出雲大社 銅の鳥居 銘文
ここに書かれている銘文は・・・・
「一を日神といい、二を月神といい、三を素戔嗚というなり、日神とは地神五代の祖天照太神これなり、月神とは月読尊これなり、素戔嗚尊は雲陽の大社の神なり」
雲陽大社=出雲大社 *雲陽秘事記・・・直政の出雲大社御神体を見たという秘話
「日神者他神五代之祖天照大神、月神者月読尊他、須佐之男命雲陽大社神也」
*御祭神の変遷
古代‥‥大国主大神
平安時代前期・・・大国主大神
中世・・・素戔嗚尊(神仏習合の影響)
「中世の出雲大社は、神仏習合の影響を受けて、一時祭神は素戔嗚尊であった。それは鰐淵寺を中心とした縁起(いわゆる中世出雲神話)に、出雲の国引き・国作りの神を素戔嗚尊としていたことから、それが一般に広まり出雲大社までが祭神を素戔嗚尊とするようになったのである。」(しまねの古代文化第十一号、島根県古代センター)
*八雲山ー盤座ー素鵞社ー本殿 ラインのパワー
このラインには、ただならぬ力が渦巻いていたようです。
岩肌が、神社のギリギリまで迫っています。
出雲大社の御祭神だったこともある素戔嗚尊。また、本殿が建てられる前は、八雲山が御神体だったかもしれない。そんな一帯から発せられるパワーは、何も知らなくても振り向かせる力があったのだと思います。
*全貌をすぐには明らかにしない
しかし、初めて訪れた時は、この背後の岩の存在までは、見せてくれませんでした。
また、ここには、床縁下の御砂をいただけること。社の下に砂箱があったこともあとで知りました。こちらの御砂をいただくには、稲佐の浜の砂をいただいてきてからだそう・・・よくあるご質問 | 出雲大社
床縁下の砂
*予備知識なく訪れてみるのも面白い
最初に訪れた時、ここから眺めていただけでした。背後から呼び寄せられるパワーまでは感じることはできませんでした。知った上でおとずれるのもいいですが、何によび寄せられるのか。どんな気配に気づかされるのか・・・・ 信仰心のない者にも、それを感じさせる不思議がありました。
関連:
〇izumotaisha
〇出雲大社(杵築大社)後編:八雲ニ散ル花 02 – 偲フ花
〇彰古館
ほかの建物とは、様相が違います。それもそのはず、ここは神様を祀った場所ではありません。
1912年に、宝物を常設するための建物で宝物館の役割をしています。 現在は、神祜殿とこちらが宝物館の役割を担い、彰古館は定期的に公開をされています。
〇十九舎
■感想・雑感
最初は全くわからなかった出雲大社の建物でした。3度目になると少しずつ理解が進み、細部に目が向くようになってきます。神話上の神様の名前、役割がわかってくると、解説も理解できるようになってきました。
のちのちの参考資料になれば思って撮影していた写真が、今になって見えない糸でつながり出しました。出雲大社を歴史的に遡って追いかけると、立体的になってきます。
松江の歴史上の登場人物、直政公側からの話や、松江に暮らした小泉八雲が記した出雲大社の話なども、別の視点を加えてくれます。
『日本人なら知っておきたい神道』という本が、2017年から手元にありました。ミホミュージアムに行った際、なぜか主人が購入した書籍です。興味はあるものの、読む気がおきませんでした。いつになったら、この本が読めるようになるのかなぁ・・・・と思っていました。
これまで読むことができなかった理由が、やっとわかりました。神様の名前が羅列していたり、系統や知らない用語ばかりで、なじめなかったからです。
大国主大神のことを少し理解しただけで、その先へ、少しずつつながるようになりました。神社建築の種類や構成など、総論から入っても、全く興味がもてません。しかし、構造の部分でこれ、おかしくない? という疑問から探っていくと、じゃあ、他の建築はどうなっているのか?と、次第に全体に及んで知りたくなります。
興味を持つためには、基礎用語の理解。知っているワードが増え、見たことがある言葉が増えることが大事であることがわかりました。言葉を増やすには、現地に出向く。それが一番の効果のようです。
■付記:玉垣・瑞垣の用語について(2020.04.09)
玉垣、瑞垣、荒垣について、用語を調べたのですが、どうも、出雲大社と一般的に使われている言葉が違うように感じられました。
出雲大社関連の解説では、本殿の回りが玉垣、その回りが瑞垣とされています。
〇事業の概要 | 出雲大社
〇出雲大社のご紹介 | 出雲市
〇出雲大社 玉垣 文化遺産オンライン
〇出雲大社 瑞垣 文化遺産オンライン
境内内のマップや、散策マップなども同様に外が瑞垣、本殿の回りが玉垣です。
〇出雲大社 - Wikipedia
〇出雲大社・本殿裏(いずもおおやしろ・ほんでんうら)
ところが、玉垣と瑞垣は同意、もしくは、瑞垣が、本殿近くで、玉垣がその外という記載が通例のように解説されています。
〇神社に行こう! 神社空間を読み解く⑧玉垣 | nippon.com
〇玉垣の意味とは?玉垣とは何か、解説いたします|終活ねっとのお墓探し
〇神社の鳥居の周りにある囲い、玉垣・瑞垣などについて由来をしりたい。近所の神社に鳥居しかないので、なに... | レファレンス協同データベース
各辞典のほとんどが、内側を瑞垣、外側を玉垣と解説しています。
出典不十分、独自研究の指摘あり
重複の囲いの場合の意味と同義語玉垣は複数めぐらすことがあり、その場合、名称で区別をつけるが、神社によっては内側の垣を瑞垣、外側の垣を板垣(いたがき)といったり、一番外側のものを荒垣(あらがき)または外垣といったり、その他、中垣(なかがき)、内垣など、様々な例がある。これらの名称が混用されている場合もあるが、概ね一番内側の垣を「瑞垣」とよぶことは一致している。伊勢神宮を例に挙げると、四重の垣がめぐらされ内側から順に、瑞垣、内玉垣(うちたまがき)、外玉垣(そとたまがき)、板垣と呼んでいる。
そして、垣根の数や呼び方には、決まりはなく、神社によっても違っていて、呼び方が違うとも語られます。多くが、伊勢神宮の例を取り上げ、4つの垣がある例外を示しながら、本殿に近い垣を瑞垣と呼ばれ、その外を玉垣という解説となっています。用語の検索からアプローチすると、これが基本のように語られているように感じられ、混乱を招きます。一番内側の垣を「瑞垣」とよぶのが一般的。しかし、ケースバイケースで、いろいろな呼び方がある。という感じでしょうか?出雲大社は例外という感じがしています。神社建築を全体的に捉えてみる必要があります。
〇出雲大社(IZUMO-OYASHIRO)・玉垣(TAMAGAKI) | 出雲大社-御朱印
〇寺社建築と文化財の探訪<TIAS> 7-1 寺社建築の用語解説
玉垣と瑞垣。どちが内側なのかがわらなくなり、当初、立ち往生していました。一言、出雲大社は、一般的な呼び名とは違うと、注意書きのようなものがあると、迷わずにすんだのですが・・・・・
wikiphedhiaにはその旨、書かれているのですが、情報の不備の警告が出ていたため、判断ができませんでした。
そんな模索をする中で、『日本人なら知っておきたい神道』の中に、神社がどのようにできたのかという項目の中で、玉垣が囲む聖なる空間という項目があり、玉垣の歴史から成り立ちの概要がつかめました。それを見ると、玉垣というものが、本殿の回りとなるのですが、呼び名は、その言葉にどんな意味を持たせるかという習慣慣習のような感じがします。
■出雲大社関連(ブログ内)
■脚注 補足
*1:■三重塔の移動について
移動方法:出雲からやってきた三重塔/養父市より
搬送法:島根根県宇龍港(青矢印)から船にで日本海をわたり、但馬の津居山港(青矢印)に着岸したとあります。
出雲大社から宇龍港までの搬送は、陸路を使ったのでしょうか? 1891年(明治24)小泉八雲が、日御碕や日御碕神社に訪れた時のことを、八雲の『日本の面影Ⅱ』『日御碕にて』に書かれています。今なら道も整備されておりますが、この時代、道が険しく危険で難儀であることから、稲佐の浜から漁船で日御碕漁港にたどりついたと書かれています。
八雲は世界を旅し、フィールドワークをしていました。また水泳なども得意で、比較的体力に自信があったと思われますが、それでも陸路を避けました。出雲大社の三重塔を壊して宇龍港まで運ぶというのは、非常に困難だったのではと考えられます。こまめに小分けをして小さな船で宇龍港まで運び、そのあと、大きな船で運んだ可能性がありそうな気がしました。
寛文5年(1665)1月:解体開始。5月に妙見山(黄色矢印)まで人々の手によって運ぶ。9月に名草神社境内の現地に完成。大工の棟梁は、出雲松江から2名、但馬九鹿村から1名、計3名。出雲大社には但馬地方の村々からも代参を行い、出雲大社の御師も八鹿に巡ってきました。三重塔は出雲と但馬の交流を伝える貴重な文化遺産。
【関連情報】
〇出雲杵築大社・但馬妙見三重塔
〇但馬の名草神社。現地はなぜ日光院と神仏分離を隠すのか - 戦国時代を追いかけて日本の歴史つまみ食い紀行
〇名草神社(兵庫県養父市)の紹介 - たけの旅日記
〇えぇっ?!出雲大社に三重塔があった?!「名草神社・三重塔と出雲大社の壮絶な過去」 | 出雲大社-御朱印
三重塔とご神木を、お寺と出雲大社とで交換したという話なのに、三重塔があるのは「名草神社(赤矢印)」。交換をすることになった1667年、仏教の方が神社よりも力が強かったというのになぜ、名称が神社なのでしょうか?
また、出雲大社側は、お寺から三重塔を欲しいと言われて譲ったと語られていますが、行政や観光案内の解説では、名草神社側がお礼にいただいたことになっています。
出雲大社では、屋根の檜皮の木の不足による調達のためとされていますが、お寺では大事なご神木を提供という話になっており・・・ (出雲大社の屋根はそれだけ、神聖なものということなのかもしれませんが・・・)
そしてところどころに出てくる日光院(黄色矢印)との関係もよくわかりません。
国譲りの話もそうですが、取られたとする説、快く差し出したとする説、見る立場でも捉え方が随分、変わるものだなぁ…と感じていました。歴史は、片方からだけでなく、逆側からも見る。そこがそこが面白さなのかもしれません。
【参考】
町の「未来を拓く」ということで、レリーフが制作されています。荒木文夫作
国引き神話が題材になっていますが、この神様が誰であるかは、書かれていませんでした。