本物と偽物・・・ 偽物には「複製」「レプリカ」「模造品」などと呼び方もいろいろ。「レプリカ」と聞くと、なんだ・・・と思ってしまいます。しかし、その違いがわかって見ているでしょうか? 今年は「本物とレプリカを比べる」ということをテーマに作品を見ることにしました。
■レプリカと本物は見わけられる?
〇「レプリカ」と言われて「な~んだ」と思ってしまうのは
「レプリカ」と言われてしまうと、多くの人が「なんだ、偽物か・・・」という感情を持ってしまいます。しかしレプリカを何も言われず「本物」として置かれていたら、それを「レプリカ」と見抜ける人って、どれくらいいるのでしょうか? 多くの人が疑うことなく本物だと思って見てしまうと思うのです。
私たちが「本物」と思って見るのは、しかるべき団体(?)が本物だと言って見せているから。その判断に頼っているというのが現実なんだと思います。
それなのに、「レプリカ」と言われてしまうと「なんだ、レプリカなのか・・・」って思ってしまうのは、自分の目で確認しているわけではなく、第三者が判断をしたことをそのまま、受け入れているだけです。「本物とレプリカを判断できる目を持っているのか?」それなら、「な~んだ」という言葉もわかるのですが、最初から蔑みの視線(?)を送ってしまうのは、ちょっとレプリカに対して失礼では? と思っていました。
〇本物の中にレプリカが紛れたら
レプリカが本物の中に紛れていたら・・・ それが違うとわかる人は、まずいないはず。以前、カラーコピーの棟方志向作品が美術館に展示されて、それを学芸員も気づかず本物として展示していたわけですから・・・・
偽物でも本物と言われれば、本物になってしまうし、本物もレプリカだと言われたら、レプリカだと思ってしまう。それが多くの人の見方なのだと思います。私自身もそうなのですが・・・・
レプリカに対して「な~んだ・・・」と片付けてしまうのではなく、ちゃんと一度は自分の目で見て判断した上で「やっぱりレプリカはレプリカね」と思うならいいのですが・・・ これまでレプリカを見てきて、自分で判断している人は、少ないように思えました。
■今年の鑑賞テーマ
今年は、「本物」と「レプリカ」が同時展示されている美術展には積極的にでかけ、比較してみるようにしています。あるいは、過去に「レプリカ」を見たことがある作品の「本物」の展示があれば、それも鑑賞して過去に見た「レプリカ」と比較してみようと思っています。
〇レプリカを本物だと思って見る
レプリカが展示されているとき。鑑賞する際、まずは先入観を取り除くために、レプリカだと思わずに「本物」だと思って鑑賞してみることを試みています。本物だとしたらどこがおかしいのか? そんなふうに見ていると、古い作品のレプリカは、妙に新しく見えたりするので、最近のものでは? と思うこともあります。
〇「レプリカ」と「本物」を比較
本物とレプリカが同時に展示さている場合は、積極的にでかけています。本物とレプリカを同時に比較してみる機会というのは、またとない機会です。同じ会場で展示されたものを、本物とレプリカを行ったり来たりしながら比べられるというのは、貴重です。
何度も比較ができます。「本物」と「レプリカ」 見るポイントを絞りながら、一つ一つ、何が違うのか、じっくり細部まで観察ができます。どこまで、忠実に再現されているのかなどもわかって、意外に忠実に再現されているわけではないなんて発見もありました。
〇逆設定をして鑑賞する
鑑賞経験が増えてくると、時々、これ本物なのかなぁ・・・? と思うことがありました。逆にレプリカと言われても、その技術に感じ入ったりすることもあります。また、描いたように見えるけど、別の方法を使っていないか?とか・・・
そこで今年は、本物とレプリカが展示されていたら、それぞれを逆に設定して鑑賞してみることにしました。レプリカを本物と思って見ると同時に、「本物もレプリカだと思って見直してみる」 ことにしました。自分自身に逆だと思い込ませて鑑賞をすると、どんな矛盾に気がつくことができるのか・・・
そんな見方をしていくと、先入観で見てしまうことから、ちょっとずつ解放されていくような気がしています。本物をあえて「レプリカ」だと思って見ることによって、どう見てもここは、レプリカとは思えない。ということが見えてきて、そういうことがどの程度、見つけられるのかを試してみようと思いました。
これまでも、逆転させてみる。ということは、無意識にしてきたように思います。今年はより意識的に、逆転させて鑑賞してみようと思っています。
■「レプリカ」を見てみよう
いくつか「レプリカ」の展示のある美術展を紹介します。
〇サントリー美術館:神の宝の玉手箱
50年ぶり修復された《浮線陵文玉手箱》と、近現代の名工が手がけた模造の同時展示をしています。両者を比べてどこが違うのか。本物の本物たるゆえん、模造品はどこまで本物に迫れているのか。そんなことを、同時に比較できます。また修復にあたり、時代性をどこまで再現するのか・・・というのも面白いです。《浮線陵文玉手箱》は、同じ階の比較的近くにあるので、比較がしやすいです。
《片輪車螺鈿手箱》は「本物」が3階、「模造品」が4階に分かれていますが、4階は比較的入り口のあたりなので、階段を使って行ったり来たりしながら比較することができます。
〇東京国立博物館:高精細複製によるあたらしい日本美術体験
親と子のギャラリー びょうぶとあそぶと題した夏休み企画で《松林図屏風》の高精細画複製品が展示されています。《松林図屏風》は、10月から始まる京博の「開館120周年記念 特別展覧会 国宝」でも展示されます。また、お正月には毎年、本館で展示される屏風なので、「本物」と「複製品」との比較がしやすいと思われます。今は巨大スクリーンの中で楽しみつつ、じっくり観察して、お正月に本物と比較してみる。というのも面白いのでは? 夏に見る松林、冬に見る松林も違う視点で見えてくるかもしれません。
こんな話をみつけた!
じっくり松林図屏風をご覧になりたい方は、秋に京都と奈良でじっくりご覧いただけます!東博では少し先に展示されます。お正月もご覧いただけません。ご注意下さいね。
— 長谷川Q蔵 (@kyuzohasegawa) 2017年7月9日
〇岡田美術館:特別展『歌麿大作「深川の雪 」と「吉原の花」』
この展示では、歌麿三部作が展示されます。そのうち、フリーア美術館所蔵の 「品川の月」は、唯一、岡田美術館だけが「複製」を認められたそうです。本物とみまがうばかりの出来上がりだと館長さんがおっしゃっていました。
出典:歌麿「品川の月」複製画完成記念講演会(10/14) | 栃木市観光協会
出典:喜多川歌麿「品川の月」高精細複製画展示終了のお知らせ | 栃木市観光協会
岡田美術館所有の「深川の雪」は「本物」と「複製画」があります。同時展示はされたことないそうですが、「複製画」を見る機会が今後もあると思われますので、この機会に「本物」を見ておいて、複製の展示のあった時に比較してみるのもよいのではないでしょうか?
私は、以前、「複製画」と知らずに《深川の雪》「本物」だと思って見ていました。
出典:「深川の雪」 喜多川歌麿の幻の浮世絵が66年ぶりに一般公開
妙に色が鮮やかすぎて、近代に作られたような気がして、本物には見えなかったのです。キャプションを見て、「複製画」とあり当たった!・・・と思ったことがありました。そんなこともあり、今回、本物を見て、本物はどんな色なのかを確認したいと思いました。「複製」を作成するにあたって、時代経過をどう再現するのか。その時代に作成された状態で再現するのか。時代経過をどれだけ加味して再現していくのか・・・これは本物の修復においても言えることです。
サントリーの《浮線陵文玉手箱》の再現と修復には、そのあたりの葛藤があったようで、両者を比べると、その再現性の違いが見えてきます。
〇俵屋宗達:風神雷神図屏風
建仁寺には、宗達の《風神雷神図屏風》をはじめとして、海北友松の障壁画の高精細複製画が展示されています。もう終わってしまいましたが、京博で海北友松展が行われ、東博で光琳の《風神雷神図屏風》の展示がありました。これらのレプリカと、本物とは何が違うのか・・・ それを比べてみたくてわざわざ京都まで行ったりしました。
このような見方をするようになった背景には、次のような体験があったからです。
■設置場所によって作品の価値が変わる
〇こんな公園にイサムノグチの作品があるわけがないという先入観
十数年前、高松の牟礼に行って、イサムノグチ庭園美術館に訪れました。行く途中で、ルートを外れてしまい、地域の子供たちが遊ぶ公園にでくわしました。さすが石の街。公園も、石が多用されているんだ! そこにちらりと見えた遊具。あれ? イサムノグチの遊具じゃない? しかし、こんなところに、そんな作品があるわけがない。イサムノグチの遊具があるなら、ガイドブックに掲載されているはずだし、もっとちゃんとした公園に設置されているはず。(失礼)ガイドブックにそんな記載はありませんでした。
まだイサムノグチの作品をよく理解していなかったため、どこかで似たような遊具見たことがある。色が特徴的なので似てるなぁ・・・・ でもきっと似てるだけ。キリンか何かを模したのかもしれないし・・・ なんちゃってを作ってしまったのかなぁ・・とか。「イサムノグチ作品がこんなところにあるはずがない」という先入観で一杯になっていたのでした。それにしてもよく似てるなぁ・・・と思いながら帰ってきました。
ところが、それはイサムノグチの遊具だったのでした。
自らが過ごした街だからなのでしょうか?? 寄贈したのか・・・ ごくごく普通の一般的な地域の公園です。でも設置するなら、しかるべき広さがあって、しかるべきシチュエーションの場所を選ぶはず。と思って見ていました。でも、どこか、本物のニオイも発していて、でもそんなことあるはずない・・・というジレンマに襲われていました。結局、本物だったということがわかり、自分のモノのとらえ方を根本から見直させられたのでした。
〇こんなところにあるはずがない
こんなところにあるはずがない。という先入観。作品はしかるべき場所に置かれなければ作品とはなりえなのか。そのへんの公園や、ショッピングモールなどで、下記のようなイサムノグチっぽい彫刻をあっちこっちで、目にするようになりました。牟礼から帰ったあとは、見る物がなんでもイサムノグチに見えてきて、それらが至るところにあるのです。それはイサムノグチなのかどうか・・・ しかしこんなところにイサムノグチがあるわけがない・・・と思ったところで、あの牟礼の公園を思い出します。いや、そんなことを思ってはいけない。作品の価値は、置く場所ではない・・・と。
しかし、 これはイサムノグチなのか、違うのか・・・・ 六本木のミッドタウンらなありえる・・・ と思いながら、こちらは安田侃氏の彫刻でした。安田侃氏は、直島でも見ている既知の彫刻家です。でもイサムノグチとそっくり。エナジーヴォイドの変形・・・ じゃあ、イサムノグチと安田侃の違いは何なんだろう・・・と考えてしまいました。
どこに置かれている作品でも「もしかしたら有名巨匠の作品かも・・・」というように見るようになりました。逆に、美術館に展示された巨匠作品を、「そのへんの公園に、置き去りにされていたとしたら」この作品は何かを感じさせてくれるのか? というように置き場所を変えて想定してみたりもしています。「本物を偽物だと仮定して見たり、これが美術館という場所になかったら?」と設置場所を変えてとらえてみる。ということは、折々でしていたのですが、今年はそれをより意識的に見てみようかなと思っています。
どの本だったか忘れましたが、美術館というは特殊な装置で、そこに置かれたものは、すべてがありがたいものに感じられてしまう。幼稚園児の作品をそれらしく飾ったら、みんなありがたく見てしまうのが美術館という箱が持っている特殊性。と言われていて確かにそうだと思いました。そんな中で、アート作品とは何かを考えると、自分の価値観を持って見る目を鍛えるといういうことなのかと思うのでした。
ちゃんとした美術館のしかるべきところにあればイサムノグチに見えてしまう・・・・でも、なんでもない公園に存在したら・・・
レプリカだから、ダメなわけでもないし、巨匠作だからいいわけでもない・・・・ 世間の評価にとらわれないで自分で見ることが大事なんだと思うのでした。
■本物か本物でないかの判断が「ケース」
作品をいくつか見てくると、作品そのものの判断ではなく、 飾られている状況で判断するということがおきます。まずは、ケースに入っているかどうか・・・というのは、その大きな判断基準になります。
建仁寺で飾られている《風神雷神図屏風》 これが、本物か偽物か・・・・
建仁寺の《風神雷神》がどこにあるか。そしてどんな大きさか知識のある人ならすぐにわかります。しかし、これが「ケースにはいっているから本物」だと思った人がいました。
観光で建仁寺に訪れる多くの人は、このお寺に飾られた大きな屏風を本物だと思っている人もいるし、実物を見ながら懐疑的に思う人も。そしてレプリカと聞いてがっかり・・・というのが多くのパターンです。でも「レプリカ」にだって一縷の魂。よく見るとそこに様々な技術があります。
■レプリカの楽しみ
本物をどれだけ再現しているのか・・・・ どこまで迫っているのかを見るのも面白いです。「レプリカなんだ」ではなく、これが本物だよ~ って言われたら、どれだけ、本物との違いを見抜けるかを試してみる。
レプリカと聞くと、がっかり・・・・となってしまう人が多いと思うのです。じゃあ、本物がわかっているのかと言ったら、わかっていない人がほとんどのはず。それなのにレプリカに対して、先入観で送ってしまう蔑みのような視線が、レプリカに対して、それを作って再現をしようと努力している人に対して、ちょっと気の毒だなといつも思うのでした。
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