コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■学び:「本質」って何? ②ジャコメッティ展より「見たものを見たままに描く」とは?

本質とは? ジャコメッティの作品は、ジャコメッティの目を通して見えている姿。「見たものを見たままに描く」というのは、ジャコメッティの目で見たビジョン(視覚)にすぎません。それは彼の経験や生い立ち、人との交流など様々な要因によってもたらされている。その構成要素が本質? 

 

■「ジャコメッティ彫刻の時空間」・・・横山由美子氏による講演

なかなか概念がむずかしくて、今の私には理解が難しいです。示されたキーワードは下記のとおり

 

「ビジョン」「非連続性の連続」「同時偏在性」「同一性の解体」 

 

ジャコメッティの作品はどんどん小さくなってマッチ箱に入るほどの大きさになってしまいました。人物をより本物に近づけようとすると小さくなっていったと言います。

 

そこで、高さを1mに限定することにしました。すると、今度は作品が、どんどん細くなっていったというのです。

 

そして、次のように語っています。

 

 

■見たものを見えたままに描くとは?

 

  「見たものを見えたままに描く」

 

それによって、次のような状態になるというのです。

私とモデルの間にある距離はたえず増大する傾向をもっている。『もの』に近づけば近づくほど、『もの』から遠ざかる

 

見えたままに描こうとすると、その対象物との距離は増大していく。近づこうとすればするほど、モノから遠ざかる。そして描いた対象物は小さくなる・・・・

 

う~ん‥‥  よくわかりません。どうして、見えたままに描くと距離が増大するのでしょうか? そして見えたままに描くとそれはマッチ箱に入るくらいになっていまうのでしょうか? 私には、どうしても理解できないのです。

 

いらないものをそぎ落としていったら、小さくなったというのなら、それはなんとなく理解はできるのです。しかし、見たままに描いたら小さくなるというのは、わけわかりません。見たままに描いたら、実物大の大きさになるか、大きくなるのでは? と思ってしまいます。

 

 

■具現化された展示

横山由美子さんが今回の展示で一番力を入れた部分というのが、壁にガラス窓が取り付けられ、向こう側の展示室が見えるようになっている場所だそうです。

 

そこには棚があって小さな台座にのったミニチュア版の彫刻が展示されています。ガラスの向こう側には、展示室を行きかう人がいて、作品が飾られています。

 

この小窓、きっと何か意味があるのだろうな…  ここから展示を見てる人を見るということ? そしてあちらからもこちらを見るということに何か、意味を込めているのでしょうか? 

 

あるいは、展示というのは、サークルのようになっていて、周回してまた戻って、スタート地点から再スタート。循環していて、はじめと終わりが繋がっている。そんなことを感じたのがエナジーヴォイドを見た現代美術館の展示でした。回転のエネルギーがここにもある・・・・と思いました。そして先日の草間彌生展。ここでも、スタート地点と終点をつなげていました。ジャコメッティ―展もそれと同じ???? などと思いながら通り過ぎていました。

 

 

■見える通りに人が存在するとは?

横山由美子さんがジャコメッティの言葉を解説します。

 

見えるとおりに人が存在するとはどういうことなのか?

 

存在するということについて、ジャコメッティ―は友人を戦争でなくしたことによって感じたと言います。意識があれば存在しているということになる。記憶の中に意識として残っていればそれは存在していることだと。それは泡沫の中のビジョンで、3.3cmの小像はビジョンの具現化したもの。

 

◆ビジョン・・・・

よく使う言葉ですが、改めてビジョンと言われるとどの言葉をあてはめたらいいのでしょうか? 将来のビジョンといいますから「展望」? テレビジョンのビジョンは映像?

 

wikipedhiaによれば  視覚・先見・幻影 だそうです。

単純に、見えているものという理解でよさそうです。

 

 

■時間と距離を隔てた存在を感じる展示

それを表現しているのがあの窓で、窓越しに大作を見る。

 

入口でミニチュアのような小さな作品を見ます。そのあと、時間をかけていろいろな作品を見て、距離を隔てた状態で、大きな作品を見ます。それによってそのものの存在を知るということのようです。

 

なんだか、その時の解説では、わかったような気がしました。講演会が終わって、再度、その小窓の前に行くと、銀行プロジェクトの3体が窓越しに見えていたことを確認します。最初はボっと見ていたので、作品が向こうの部屋にあるぐらいにしか思っておらず、それが何の作品かもわかっていませんでした。

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改めて作品を見ると、棚に飾られた小像は、奥の部屋の3体の彫刻のミニチュア版だったことがわかりました。そういうつながりだったのか・・と理解したのですが、改めて考えてみると・・・

 

時間と距離を隔ててみたら存在を感じる

 

こちらと向こうの作品の距離。それは時間の経過も表しているということは理解できます。しかし、その存在を感じるというのはどういうことなのでしょうか? どういう存在として感じるのでしょうか? なぜ、存在を感じたら小さくなるのか。大きくなったっていいわけです。 

 

のっぽさんの奥の壁 ガラスの窓が時間と距離を隔てて見ることを具現化

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こうして、展示の解説を見たり、講演会のお話を聞いていると、見る前に考えていた「本質」を表しているとか、残ったものが「本質」だとかいう話とは違うとらえ方のように感じられました。

 

同じように、講演会のあと、ここに戻ってきた方がいらして「どういうことなんだろう・・・ よくわからない」と首をかしげていました。距離は時間・・・ ミニチュア版と大型版の間には、どれくらいの時間が隔たっているのでしょうか? そんなに時間経過はありませんでした。1年ほどだったでしょうか・・・

 

一度は、わかった気になったのですが、実際に見たらまたわからなくなってしまいました。

 

 

■音声ガイドを聞きながら 

音声ガイドがとてもよかったということだったので、翌日、ガイドを借りて再度、鑑賞しました。ガイドは、速水もこみちさんと山田五郎さん。五郎さんの解説は、堅苦しい解説ではなく、お話口調。原稿を読んでいるのではなく、まるでおしゃべりをしているかのようで、こんな音声ガイドは初めてです。そして2日連続で鑑賞するというのも、初めてかもしれません。

 

作品について、次のような解説がありました。

内部に向かって消していく・・・ 最後に何が残るか。何も残らないかも・・・ 

 

ジャコメッティーは、内側に向かう縮み思考。そして限りなく消していく引き算の美学。そんな思考が、あのミニマムな作品を生み出したとうことらしいです。やっぱりそぎ落とした結果の小ささであり、細さということでいいのでしょうか?

 

対象の内部に存在している姿を描く。それは対象の本来の姿で、イコール、本質っていうことでOKかな? そのためには見た通りに制作する。見た通りに制作すると内へ内へ進んで対象の本質、その形が見えるということ? それが、内に向かっていく縮み志向ということ。

 

音声ガイド No2より

「見えるものを見えるままに」とは、ある距離を置いて認識した対象の正確なヴィジョンを表現すること。

限りなく小さくなる像と不釣り合いに大きな四角い台座との組み合わせは、遠くの人間を目にした時の自分との間にある圧倒的な隔たりそのものの造形化

小さな像は遠くの人間が視野に入ってきた時のその細部を消失した ?の現れ

恐ろしく小さくなる 小さくないと現実にならない

記憶によって作る すべては虚無の空間の中

 

 

音声ガイドでは、そのあと「本質」という言葉が出てきました。

 

 

■「実存主義」 と「本質主義

そして、山田五郎さんのスペシャルトラックでやっと理解ができました。

それは、「実存主義と「本質主義についての解説でした。

聞いていた時には、すごよくわかった! と思ったのにいざ、言葉にしようとすると表せなくなってしまうのですが・・・・ そしたらこんな動画をみつけました。

 

www.youtube.com

 

あくまでもジャコメッティは、見たままに描いた。それは写実的ともいえる。自分の記憶や意識が投影されていて自分との関係の中でしか見ていない。見るというのは自分の意識が投影されていて客観的に見ているわけではない。自分にとって「見る」とはどういうことか・・・ということに執着し続けた。ジャコメッティ―の目を通して見ると相手がマッチ箱のように小さくなったり、細くなったりする。自分が見えるようにしか存在しない自分が見ることでしか存在しないというのが実存主義

 

そして、音声ガイドでは、自分の見たもので世界が変わるという考え方だと言われていたと思います。その反対が本質主義本質主義というのは、自分が見たもので世界は変わらないという見方。

 

この本質主義の話を聞いて、やっと理解ができました。私のモノの見方は本質主義だったのです。「茶碗」や「刀剣」それらの作品の何をこれまで見ていたかと言ったら、物質の構成成分や製法。それによってどんな模様が生まれるか。その裏でどんな反応をしているか。さらには、美術の世界は、伝来云々が重要のようですが、だれが持っていたかで、その物質の特性はなんら変わらないとまで思っており、まさに本質主義そのものだったのです。

 

見えることでしか存在しない・・・・

 

この言葉から想像したのは、「モネは目にすぎない」という セザンヌの言葉でした。

 

この言葉は、モネに対する賞賛である一方、皮肉も混ざっています。モネの描いている世界というのは、モネの目に映った世界にすぎません。他の人が見ている世界とは違う・・・という意味にとらえていました。

 

こちらに詳しい解説が・・・⇒【*1

そして山田五郎さんも、セザンヌの言葉を引き合いに出していたそう⇒【*2

 

 

ジャコメッティだけの見え方 

「見えるままに描いた」というのは、「ジャコメッティの目、ジャコメッティのものの見方、捉え方でそのまま描いた」ということなのであって、彼にだけ、あんなに細く、小さく、そして最後は巨大に見えたという意味だったのだとやっと理解ができました。

 

ジャコメッティには、ジャコメッティの見え方がある。そして、私には私の見え方がある。だから、なぜ細く見えるのか、あんなに小さくなるのかを、理解しようとしてもできないのは当たり前なのです。ジャコメッティと同じ経験をしていないのですから。

 

《歩く人》・・・・当初、私にはどう見ても、あれが歩いている人には見えませんでした。関節がないのに歩けるわけないじゃない! それが私の目、私の見方なんです⇒【*3】 

  

《3人の男のグループ(3人の歩く男たち)》・・・・これは、人という字に見えて寄り添ってように感じたし、日体大の集団行動に見えました。ハリネズミのジレンマ状態にも見えた。それが私の見え方。実存主義な見方ということだったのです。 

 

 

■「見えるように見る」ということは

この「見えるように見る」という行為を構成しているものは何かというと、その人がこれまで何を学び、どんな経験をしてきたのか。何を見て、何を考え、何を思考してきたか。さらにさかのぼれば、子供の頃にはどんな遊びをして、それはどんな環境の中で行われていたのかということも、潜在的な部分を大きく形成するものと思われます。あるいは、成長してからは、どんな仕事をしていて、どんな環境で過ごしたか。そのコミュニティーはどういう集団で、どういう人たちと出会ったか。そこにはどういう習慣があって、どんな考え方をする人が集まる世界なのか。それらが相乗的に作用して、ビジョン(見え方)を形成していくということなのです。

 

本質って何だ? と考えていたのですが、その人が考えることや受け止め方、ものの見方を「構成している要素」によって個々の本質が成り立っているんだと思いました。

 

これまでの経験、すべてが「見る」ということを形成する・・・「見る」という裏に存在している構成要素が、より多くの知識や経験、知見とともに蓄積されていくと、その見え方も複雑化、固有化して、他人からは理解されないものがみえてきて、ジャコメッティ―状態となるのだとわかりました。

 

だから、私たちはジャコメッティ―の目や、同じような背景を持っているわけではないのですから、なぜあんなに細くなるのか、小さくなるのかを理解できなくて当然なんです。それをわかった風に理解していることの方がおかしいんじゃないかって・・・(笑)

 

《歩く人》が何で歩いて見えるのかが私にはわかりませんでした。あるいは、ミケランジェロの肉体表現がすばらしいと言われることも、私には理解できません。それは、医学を通して学んだ身体の構造や機能が思考のベースを占めているため、どうしても矛盾を感じてしまうということだったのでした。⇒【*4

ジャコメッティ―には、《歩く人》かもしれないけど、私には《歩こうとしているのに歩けない人》となってしまったのです。

 

しかし、その見方もジャコメッティ―が変化していったように、私の中でも変化していきました。歩く姿を、正面から見たら歩いているように見えるはず。ほ~ら、やっぱり。 

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正面を見て歩いてくる人の前を、横切って歩いていこうとする人・・・・

 

 

重心移動をすれば人は歩ける。前傾姿勢は、重心が移動した状態・・・・ 

↓ 前傾に傾いた体 遠くを見つめて歩いています。

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                 ↑ 力強く歩いています

 

実際に歩いて見えるアングルがみつかりました。そんなふうに見方が変化しました。おそらくこんなとらえ方をするのは、多分、私だけの「見えるように見た」結果なのだと思います。

 

私のビジョンは、これまで学んだこと、経験してきたこと、見てきたあらゆるものが総合的にからみあって見えているのです。これまで見てきたいろいろな美術展のあのシーン、あの言葉。そんなものが浮かんできて、それらがつながって、私のビジョンが作られていたのです。私のモノのとらえ方のベースは、本質主義だったのだということもわかりました。それを知った時、同時に実存主義でも捉えるビジョンにも変化したのでした。

 

 

■美術展を見ることで何がどう変わるのか

これまで見てきた美術展は、私の思考、もののとらえ方、考え方にどのように影響して変化をさせてきたのか。そんなことをウォッチしてみるというのも、このブログの目的の一つでした。そのため、思い出したらいつ何を見てきたかの記録をしていました。

■~2015年 訪れた美術展(年代別)

これらと照らしながら、いつ頃、何と出会い、どんな思考を得たのか。つまり私の「ビジョン」の変遷を振り返っていたことになります。美術に興味を持った原点はなんだったのか… それを探っていたのですが、はじまりは1995年の人体の世界 (東京国立科学博物館)だったことがわかりました。すべてはここにつながっていて、これがべ―スとなって始まったのです。

この展示で、解剖学をご指導いただいた恩師と偶然ばったりお目にかかりました。解剖実習を通して人体の構造の緻密さに触れ、その神秘さに科学では説明できない神が司るなにかを感じさせられていました。人の尊厳のようなものも感じていたと思います。そうした経験が、この展示に足を運ばせ、その後の美術館めぐりへとつながっていったのでした。

 

「ビジョン」の根幹というのは、人それぞれに違いますから、他人の「ビジョン」が理解できないのは当たり前なのです。それを理解するには、その人の体験に匹敵するような体験をしたり、知識として得たりすることが必要なのだと思います。

 

 

■ 科学教育に絶対に必要な人文科学

静嘉堂文庫美術館の講演会「香りの文化史」講師:畑 正高 氏 の受講のあと、畑氏が参加されていたシンポジウムの動画を見ていました。そこで、大原美術館理事長が次のようなことを語られていたことを思い出しました。我が身を振り返りながら、その言葉がグサリと刺さっていました。

 

www.youtube.com

日本の科学教育が弱くなっていると言われる。だから理科を教えましょうではダメ。人文科学を教えることだ大事科学する心を育てるには、思想・哲学・歴史・国語・芸術を教える。そしてたまに美術館に行く。科学ばかりを学んだ人は、実験の達人にはなれるけども、クリエイティブな人材にはなれない・・・・と。

 

おっしゃる通りです。優れた科学者は、芸術や哲学、歴史と全方向への好奇心の眼差しを向けています。

 

本も読まず、哲学とはなんぞや状態で年を重ね、歴史も時代の前後すらわかっていない。国語苦手。美術館とは無縁な生活が、卒業してからもしばらく続いていました。そのような偏った環境は、やはり思考にも偏りが生まれてしまうのでしょう。それが本質主義な思考をもたらしていったようです。

 

いつの頃からか、美術館にでかけるようになり、少しずつ、いろいろなものを見るようになってきました。すると物事のとらえ方も変化してきている気がします。

 

時々感じさせられていた違和感。相容れなさは、ここにあったのだということもわかりました。人文科学を学ぶ。人文科学というジャンルを知ったのは、ここ数年のことです。人文科学がどういうものなのか今一つわかっていないのですが、どうも人が中心に回っている世界。西洋的な人が一番、自然は人の配下にあるといった思想が根底にあるようなイメージを持っています。

 

今なら、人文科学を学ばないといけない。その言葉の重みがとてもよくわかります。しかし、人文科学を教える美術史家が発した言葉に耳を疑ったことがありました。虫を虫けらと呼び、ごみごみした気持ち悪いものと語られていました。あるいは、虫をおぞましい物ととらえる美術家の言葉も目にしました。

 

そういうモノのとらえ方は私にはありません。「見えるように見る」というものの見方は、それぞれの経験に基づいて加えられる視点なので、理解できないこともあります。しかし理解できなくても、そういう見方があることを知る。受け入れていくことでもあるのだと思いました。しかしどうしても相入れられないと感じてしまうのは、そこに自分の本質的な部分があるからではないかと思いました。自然科学を学んだ人は、たぶん「虫けら」という「視点」は持ちえないと思います。いや、自然科学を学んでいなくても、生き物は皆、平等・・・ そういう視点を持っている人は一杯いるはずです。

 

そのあたりをどうとらえるか。それもその人の「本質」なのだと思いました。

 

権威におもねらない。偉い先生が言ったからと言ってそのまま信じない。偉い先生もみんな同じ生き物。それは、生物はすべて同等…という本質的な考え方がベースにあるからだと思うのでした。 

 

【参考情報】「勉強とは何か」(千葉雅也)

気鋭の哲学者・千葉雅也の東大講義録 #1「勉強とは何か」 | 文春オンライン

   ②「深く」勉強すること 

   ③)“キモくなる段階を通過し”ノリへ戻る

 

「深く」勉強するとはどういうことかを考察しています。一般的には、勉強とは、これまでの自分に新しい知識やスキルが付け加わるような、自己が増強されるようなイメージかもしれません。しかし、これまでの自分の価値観が変わってしまうような勉強が、「深い勉強」なのです。(略) 自分の殻を打ち破って、新たな生き方へと「変身」するような勉強です。この意味で、勉強とは自己破壊なのです。今までの自分を根本から揺さぶる、ラディカルな変身=自己破壊。

 

勉強によって身につけてもらいたいのは、「批判的になる」ということです。今とは別の可能性を批判的に考えてみる。それは、あえて「ノリが悪いこと」を考えてみることです。自分が慣れ親しんだ環境のノリから離れてみる。自由の余地は、むしろ「ノリが悪い語り」に宿るのです。しかしそれは、かつていた環境からは「浮く」ような語りでしょう。

 

自分独自の考えを持ったり、批判意識をもつと、周囲のノリからずれてしまうということがよくあります。しかし、勉強するというのはつまり、そうしたズレを生きることなのです。この本ではそれを「浮く」とか、周囲から見て「キモく」なると表現しているのですが、まずは勉強することで浮くことを恐れるな

 

周りのノリにあわせている第一段階を「バカ」だとすると、そこから距離をとってキモくなる、浮くのが第二段階です。しかし、単に浮いているだけではなく、第三段階として、再びノリへ戻るということも書いています。

 

 

■参考

〇【美術展】ジャコメッティ展───細くて長い苦悩の人物像 - メモスト~ArA's Memory Storage~

〇ジャコメッティ展を観た感想ー見えるものを見えるままにー – けいおうせいのあたまのなか。

〇ジャコメッティはいったい何を見たのか(2ページ目):日経ビジネスオンライン

〇ミニマリストとジャコメッティ|アートから物事の本質を見出す - Art Inspirations

no music, no tana: 『ジャコメッティ展』 於:国立新美術館

『ジャコメッティ展』 国立新美術館 - かわたれどきの頁繰り (小野寺秀也)

〇国立新美術館『ジャコメッティ展』 - シャボン玉のお散歩

 モネは目に過ぎない、しかし、なんという目だろう!|西洋美術の楽しみ方_ルーブルの魔女からの伝言

 

〇解剖学と芸術: ジャコメッティとロダンの『歩く男』

 

 

■関連

 ■ジャコメッティ―展:見えるまま感じるままに見た写真館 

■学び:「本質」って何? ②ジャコメッティ―展より

      「見たものを見たままに描く」とは?  ← ここ

■学び:「本質」って何? ①美術館めぐりで見えてきたもの 

 

 

■脚注

*1:モネは目に過ぎない、しかし、なんという目だろう!|西洋美術の楽しみ方_ルーブルの魔女からの伝言より

事象を「色と光」という「現象」に分解してしまった印象派への、不満と異議を表明した興味深い言葉として、
印象派以降の絵画の流れを解説する場面で、しばしば引き合いに出される一文です。

モネは事象を「色と光」という現象に分解。色、光というものを物理的にとらえていて、さらに網膜の中で色を混合させて結んでいるということは、目の解剖学をモネは知っていた? 私が美術に興味を持った入口がこのあたりのことからでした。レオナルドが科学者だった。イサムノグチも地球を生命ととらえていた。モネも科学的視点を持って絵を描いていた。芸術作品の中にみる科学を同じ時期に感じさせられたのでした。描くという行為の中に物理が存在し、解剖学も存在している? それが美術へのとっかかりになりました。 これも今思うと、本質主義的なとらえ方だったと言えます。

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*2:『ジャコメッティ展』鑑賞レポート!見どころや混雑状況、公式グッズなど | 平日美術館より(2017.08.24)

 セザンヌがモネを評した言葉「モネは目にすぎない、しかし、なんという目だろう!」を引き合いに、ジャコメッティが自身の見えるものをみたままに描く姿も近いものがあると独自の解釈で語られていました。

山田五郎さんも、セザンヌのモネの目のことに言及されていたようです。私のとらえ方もなかなか、いいところついてるじゃない! と思っていたのですが、もしかしたら音声ガイドにそのことまで込めて語っていらしたということでしょうか?
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*3:ミケランジェロの肉体のおかしさが伝えられるのか


ミケランジェロの肉体がおかしい! どうしておかしいのか… それを伝えるべく、解剖図を用いたりして説明を試みました。

■レオナルド×ミケランジェロ展:「舌戦バトル」と「素描」対決 

こうして対比させれば私が感じている違和感がわかってもらえるのではないか…  あるいは、解剖学者の言葉を借りないと説明することができないのかもしれない。と思って解剖学者が書いたミケランジェロ論の本を借りました。でも、これはおかしいということを、解剖を学んでいない方たちに伝えようとしても、結局はわからないのではないか。

私が感じている違和感を、伝えてみることを試みましたが、現物との間に感じている違和感は伝わらないのだろう…と思いました。学んできたこと、その内容、方向が違うのだと思いました。友人が、整体やカイロの人にミケランジェロの筋肉を見せたら、どう感じるのか聞いてみると面白そうね。と言われました。ちょっとでも身体に興味を持って、その筋肉の構造を見たりしている人ならわかるのかも。

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*4:これまでの「学び」について(2017.08.24)

ちょっと脱線しますが、実際、解剖学を学んだと言っても国試のための解剖学で、覚える範囲も限定されています。コメディカルの解剖の知識なんて、たかだか知れています。整体、カイロの方たちの方がずっと詳しいです。

しかし、試験に出る部分だけを覚えるのではなく、他の勉強をする時に、臓器名や組織名が出てきたら、必ずそれは体のどこにあるのかを確認していました。その視認に加え、臓器、組織の機能と、病態などを合わせて理解すると、体の中のネットワークができていきます。

今でも聞いたことがない組織名が出てくると、それはどこにあるのかを確認する習慣は続いています。というより、そこで確認できるか・できないかが、その情報の信頼性の第一関門になります。ない時は、それは本当に存在するものなのか。新たに発見されたものなのか。と疑ってみます。こうして、まずは、臓器、組織の位置を確認して、実在することを視覚的に確認してからでないと始まらないのです。あると言われても、医学書の中にそれが存在しているのかどうか・・・・ それが存在して初めて次の段階に進むのでDeNAの問題は、そういう習慣があれば、あの手の情報が信頼性に値しないものが多いことは一目なので、受け止める側の責任だってあるんじゃない? と思ったりしていたのでした。

セルライトがいい例です。解剖組織図にそれは存在しません。それによってこの情報はおかしいのでは? という判断がつきます。美容業界・健康品業界が概念として作ったということが見えてきます。今、話題の幹細胞も昔は、骨髄の中にあるものでした。ところがそれが組織にあるというのです。それはどういうこと? というように調べていくと、新たな知見にたどりつきます。

こうして、解剖図の部位の名前は憶えていませんが、これまでに何度も何度も、めくってきた経験があります。その仮定で、目的の組織ではないけども、筋肉というものが目にとまり、どういう配置をしているかという概念的なことを、感覚的に身につけていたのだと思います。そのため、ミケランジェロの肉体はどうしても受け入れらなかったのでした。

 

この受け入れられない感覚を人に理解してもらおうと思っても、解剖図をイメージ的にとらえるということをしていない場合にはむずかしいのだと思い始めていました。そこに、ジャコメッティが制作する彫刻を見て、彼の目に見える姿は、私には理解できない。それは彼のこれまで生きてきた経験や思考に基づくものなので、理解できなくて当たり前。私の見方が理解してもらえないのと感じていたことと重なりそれと同じことなのかもしれないと思い始めたのでした。 

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