コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■創建1200年記念特別展「神護寺―空海と真言密教のはじまり」@東京国立博物館 覚書

東京国立博物館神護寺展 自分用の覚書メモ

見て感じたことをとりあえずメモ。公式のポストの画像を利用し後になって思い起こすときの参考に。寺外初公開の釈迦三尊像や、兼ねてから追いかけてきた「曼荼羅図」理解の変遷等。

写真撮影可の時は、撮影する部分や順番等から、対象物をどのように見ていたかを知る手がかりがある。今回は撮影不可。心に思ったことをわすれないように記録。

 

 

 

■薬師三尊像

神護寺のご本尊で国宝の《薬師如来立像》が寺外初公開。平安初期彫刻の最高傑作ともいわれる仏像を東京で拝観できるという特別展示。その奇跡ともいえる展示に加えて、後期には背後も拝観可能となった。このような機会は今後、ないだろうと言われており、住職の特別な計らいだったという。

 

〇後期展示風景

後部が拝観できる展示の様子

 

〇前期展示風景

前期にも訪れていたが、この展示室の仏像は後期回しにして見ていなかった。どのような展示だったのか写真でさぐってみた。赤い柱の枠に白い幕が張られていた。

 

こちらからも前期の様子が伺える。

bijutsutecho.com

 

〇ライティング

十二神将の影が壁に映し出された躍動感が伝わる展示に鑑賞者の評判は上々。

 

照明の裏話もブログで紹介。www.tnm.jp

 

〇展示への賛否

影による演出に、賛否が起こりそうな気がしていたが予想どおりTLが流れてきた。

 

 

前期は会場を通り過ぎただけだったので、どんな展示か記憶がなかった。幕がなくなったと言われてもどこにどのような幕があったのか?

ただ十二神将の演出は通り過ぎるだけでも目に飛び込んだ。否定的な意見がでるだろうことは必至だと感じた。東博のライティングは定評があると耳にしたことがある。

一方、これまでの展示、特に「仏像」の照明は、物議をかもし出していたように思う。今回と同様の反応が運慶展でもあったと記憶している。

見る側のバックボーン、見せる側の意図、思惑。そして今の鑑賞者の受けとり方。いろんな視線が交錯する。

これまで東博では様々なチャレンジ企画が行われてきた。その度に眉を顰める方がいらっしゃる。展覧会は誰に向けて行われるものなのだろうと考えさせられる。

実際に見て私はこういうアプローチがもありではと思った。人の興味はいろいろ。何が入口になるかわからない。そこに深淵な世界の窓が開いていることもある。人によって眉を顰めるような方法でも、その先につながる興味が潜んでいるかもしれないと思うと…

仏像展示のむずかしさ。「美術館、博物館」と「お寺」の仏様は違う。ではどこまでが許されるのかは悩ましい。

 

照明で個人的に興味をひいたのが、影を映し出すための光源が、床面に埋め込まれていたこと。光をあてていることを気づきにくくする工夫だった。意図的にあてていることをなるべく悟られないように…

www.tnm.jp

1089ブログで「照明の裏側」の話が紹介された。そんな方法があってその手の内を伝えてしまうのね。陰を切りぬくようにしているのはわからなかった。

 

人は気づかぬうちに自分の世界の住人になって、それが当たり前になり、新たな試みを受け入れにくくなりがちに感じる。チャレンジング企画は眉を顰められやすい印象。そんな状況を見て、立場の違いによる物事のとらえ方の違いなどに面白さを感じているところがあるかも?

初心者と専門家の視線は違う。また信仰を持つ人とも。仏様とはいかなるものか? 仏様を公開するということは? 手を合わせながら拝観する姿を必ず目にする。どうしたら興味を誘発できるのか? 一方、仏様として見る視線は、魂抜きしてあってもなくても変わらない。

時代背景も変わり、仏様に対する見方も変わる。そして見る環境、見せる技術も変わる。そのはざまでいかに展示し見せていくのか… また自分とは違う立ち場の人たちが、仏様をいかに見ているのかにも思いを馳せる。

深淵な世界への導きは、イレギュラーな展示の中に潜んでいることもありそれによって世界が広がることもあると感じている。

 

〇奇跡の東京お出まし

この先、東京出張はまずないと言われている。この機会を逃してはならないとじっくり拝観。

 

「公開は最初で最後」この触れ込みは、これまでも何度となく展覧会で目にしてきた。ところが、数年後に展示されるというケースも経験している。もしかして…はあるかもしれないと内心思いながら、背後を中心に、近くで遠くで何度も周回していた。

 

〇翻波式衣文(ほんぱしきえもん)

薬師如来の左側のきれいなドレープ状の衣文がみどころ。特徴的なので必見。

耳慣れない名称だが、神奈川県立歴史博物館で行われた「相模川のみほとけ」で目にしたことがあった。龍峰寺の千手観音立像の翻波式衣文。その時の記憶とちょっと違う気がした。神護寺の翻波式衣文は典型的な表現、これだけの典型的な表現はないそう。

 

螺髪がツンツン

螺髪が放射状に広がり全方向に何かを放っている印象。つんつん尖がっていて四方八方に知恵を振りまいているということか?なにやら特別なビームを発して、攻撃されているような(笑)印象さえあった。

 

他に初見で気になったこと、

・枘が確認できない⇒台座と足が一体化?⇒一木造だった。

・内刳りがなさそう⇒施されていないことが判明。

 

予備知識なく拝観したが、これまで見てきた仏像とどこか違う。あるいは知っている知識との齟齬などが目に入り、仏像を読み取れる力が少しついてきたかも?

 

 

両界曼荼羅

曼荼羅とは何か? 解説を見てもつかみどころがなくわかりにくい。これまで東博の総合文化展で曼荼羅が展示される度に撮影してきた。それを見続けているうちに何かわかることもあるかもと長年、気長に向き合ってきた。折々で話を伺ったり、住職やお寺の方と会話をして教えていただいたこともあった。

 

〇これまでに得た曼荼羅関連情報

korokoroblog.hatenablog.com

・2018年1月 

南方熊楠は、密教曼荼羅とは違う科学や宇宙、そしてあらゆる分野と結びついた独自の曼荼羅の世界観を持っている。これを「南方曼荼羅」と言われており理解するのは僧侶でも難しいという。

 

・2018年2月

仁和寺と御室派のみほとけ」で見た曼荼羅。僧侶と曼荼羅について語る時間を得ることができた。

 

・2018年8月 

東寺展に備えて開催前と開催中に「東寺」訪れる 

 

・2019年5月

 

・2019年6月 

東京国立博物館で「国宝 東寺−空海と仏像曼荼羅」が開催。展示の立体曼荼羅と東寺の立体曼荼羅の世界観を把握しようと試みた。

 

・2019年6月 

曼荼羅フラクタル

 

・2023年12月

たまたま見た空海の番組、シリーズ「空海の風景」に遭遇した。その中で曼荼羅の教えが語られていた。神護寺展に合わせてこの番組は再放送もされた。番組の中で、仁和寺の僧侶から伺った話と重なる部分があった。

密教の悟りの境地については、折々で調べていたが、いくら調べても拾うことができなかった話題がテレビ番組の中で語られていた。(一度だけ目にしているのだが失念)

 

・2024年8月 

この番組は、神護寺展に合わせて再度、放送された。

 

・2023年12月

日経新聞南方熊楠について取り上げられていた。その記事の中でも関連の記載があった。熊楠の本質や曼荼羅に通じる話として掲載。

www.nikkei.com

この中で「性科学」という言葉を始めて耳にした。そんな学問形態が成立しているのか?調べてみると学会もあるようだが、最近話題になった「日本看〇倫理学会」のような印象も。しかし南方熊楠が提示しようとした曼荼羅の悟りに通じるものがあると感じる。

 

・2024年8月 

神大寺展」関連のテレビ番組で、神護寺展に合わせて再度、こころの時代選 シリーズ「空海の風景」放送。これまで見聞きしてきたことが、この時の視聴で一気につながり出した。

 

・2024年8月

神護寺展」が始まり平成館休憩フロアでビデオが上映されていた。展覧会を見る予習替わりに視聴。この中に、前出のテレビ番組で語られていた曼荼羅密教の教えの本質的部分が語られていた。曼荼羅の最終段階の教えと思われる話。

 

〇高雄山神護寺の「高雄曼荼羅」現存最古 修理後公開

今回、230年ぶり、6年の月日をかけて修復された高雄曼荼羅。そこから何か見えてくるのだろうか?

 

両界曼荼羅とは?

両界曼荼羅は「胎蔵界」と「金剛界」から成る。調べてもその意味は表面的なを文字をなぞるだけでなかなかわからない。難しい概念の理解を手助けするための図というが、もっとわからなくしている。

これまでも、いろいろな展覧会で、曼荼羅図を目にした。その度に新たな曼荼羅とも出会い世界が広がっていく。(最近だと根津美術館の「仏画」国宝館の「仏画入門」で、仏画の中に曼荼羅が位置付けられ新たなバリエーションが示されていた)

両界曼荼羅」ではない曼荼羅からアプローチすると何かヒントが得られるのでは?と思ったのだが、調べ切れずにそのままだった。

 

  • A.大日如来を中心とした密教の世界、宇宙を図示したものです。

金剛界胎蔵界ふたつの世界があり、金剛はダイヤモンド、大日如来の教えの力強さ示します。胎蔵界はお母さんの体内で赤ちゃんが育つように、大日如来の教えが人々の心を成長るとを示します。ともに大日如来を中心にたくさんの仏が描かれます。

修復を終えた高雄曼荼羅は、前期に胎蔵界、後期に金剛界がお披露目された。

 

胎蔵界曼荼羅

前期の貴重な胎蔵曼荼羅の公開。あとでゆっくりと思っていたら見る時間がとれなかった。

 

高雄曼荼羅胎蔵曼荼羅に描かれているもの

 

こころの時代選 シリーズ「空海の風景」の再放送の再放送。そしてエントランスの紹介ビデオを再度、入館前に視聴。これまで掴みどころがなかった密教儀式、その映像と曼荼羅との関係、言葉だけで受け止めていた儀式が映像と結びつき目の前に浮かびあがるのを感じた。

 

「灌頂」という密教の儀式。東寺展でも儀式に関する道具展示や映像を見ている。また東寺では「灌頂院」にも訪れ、デジタルアートの世界を見ていた。今回、神護寺で行われたという結縁灌頂の様子とそれらが結びつき、「灌頂」という言葉の意味が少し見えてきた。

 

また空海ゆかりの「東寺」神護寺。さらに高野山の名もあがる。それらの関係がよくわからない。空海と言えば「東寺」と思っていたがあちこちに登場する。(⇒それは布教の跡であり、また空海伝説によるふくらみでもあった)

 

神護寺との関係

紅葉の名所として有名な高雄の神護寺和気清麻呂が建立した高雄山寺が起源。神護寺は伝頼朝像を所蔵する寺という認識の方が強かった。神護寺唐から帰国した空海の活動拠点となった。真言密教の出発点と言われる。この時から最澄との交流があった。

東寺は官寺、国の寺院。桓武天皇の仏教の力で国を治める鎮護国家政策から、次の嵯峨天皇と引き継がれ、唐で密教を学んだ空海に東寺を託し日本で初めての密教寺院が生まれた。東寺を真言密教の根本道場と位置づけた。

 

空海「身は高野、心は東寺に納めおく」と語っていた。

 

密教、東寺、神護寺など断片情報。最澄空海の活動。それらを空海の生涯という時系列でとらえていかないと混乱する。そこに空海が残したもの(展示物)をからめ、それぞれの出来事とつなげる。その流れの中に空海伝説、逸話が加わる。それは時代が下がってからのものもある。

それらの関係が、テレビ番組の特集『空海の風景』から浮かびあがった。その番組は司馬遼太郎の徹底的な調査によって書き上げられた空海の風景に基づいていた。

これまで歴史物など読むことはなかった。まだ読んで見ようと思うまでには至らないが、ちょっと気になる存在として心に留められた。

 

全国あちこちで空海との関係が語られる。それは空海の布教の足跡でありそこには伝説も含まれている。一度、空海の生涯として整理して追ってみる必要を感じた。空白の時間なども含めて空海の年表を作成。そしてそれにからめた著作や書などをまとめた表が欲しくなった。さらに最澄の年表もドッキングさせたり、東寺、神護寺の歴史をつなげたり、国家の動きや唐の情勢もリンクしていくと多角的な理解が深まっていきそう。

 

 

〇「高雄曼荼羅を写す」

高雄曼荼羅はいろいろなコピーが制作されていた。

www.tnm.jp

 

江戸時代修理をした光格天皇が原寸大の模本を制作。高雄曼荼羅と同じ展示室に展示されていた。こちらを見ると何が描かれているかの概要をつかむことができる。

またその反対側のガラスケースには白描で描かれた《高雄曼荼羅図像》が展示されていた。光格天皇による模写でもわからない部分は白描で確認することができた。

 

第2展示室の4章に移動すると、紫地に金で緻密に描かれた高雄曼荼羅の写しも展示。知恩院の「両界曼荼羅」高橋逸斎筆。「紫根」という高価な染料に金で煌びやかに描かれたな模写は、何が描かれているのかくっきりはっきり。

その横には仁和寺蔵の高雄曼荼羅版木も展示されていた。

 

修復によって金で浮かび上がり描かれた曼荼羅が見えてきたというが、劣化が激しく欠落部分はそのまま。そこに何が描かれているかはどんなにスコープで見ていてもわからないと判断。はっきりくっきりの写しを先に見て概要を頭に入れることを優先した。

子ども用の曼荼羅解説をプリントしたものと、知恩院曼荼羅と突き合わせる。そして映像コーナーへ。そのあと光格天皇の模写を見る。これによってだいぶ見えなかったものが見えてきたが、それでもわからない部分は白描で確認。

その上で本家の高雄曼荼羅と向き合うというステップを踏んだ。高雄曼荼羅が次第に姿を現してくるのがわかった。

情報を得ず、何も知らずに見ることの面白さがあると思っていたので、どのように見るか悩んだ。しかし閉館までの時間を考慮すると、知識なしで見る時間がロスタイムになると判断、その選択は正解だったと思った。

 

〇奈良博の「空海展」子ども用曼荼羅解説

奈良博の空海展にでかけた知人から、奈良博の方が子ど向けに向けてわかりやすい解説が行われていたので、東博の展示はちょっと残念という話を聞いていた。「空海展」の情報をさぐるとパンフレットが作成されており、本当にわかりやすい図解がされていた。このシートが、鑑賞に非常に役立った。

子どもパネル 「マンダラには何が描いてあるの?」

 

〇裏側紹介

胎蔵界曼荼羅の展示の様子

 

展示替えの様子

 

 

 

 

弘法大師 空海の書

達筆で知られる空海の書が3点、展示された。これまでも空海の書を何回か見たが、初めて見た時の印象が強烈に残っている。これが「達筆」と言われる空海の書?と首をかしげるような筆跡だった。

それがなんだったのか、何の展覧会で見たのか、その時に見た他の空海の書はなんだったのかずっと思い出せずにいてモヤモヤしていた。とにかく空海がこんな字を書いていたのかと衝撃を受けたことが強い印象として残っていた。

今回、その空海らしからぬ書と再会できるのか楽しみしていた。またいつ、どの展覧会で見た書だったのか明らかにしたいと思った。

 

〇「灌頂暦名」

前期に展示された「灌頂暦名」 空海

見た瞬間、これだ!と思った。明らかに間違いを修正したあとがありわかりやすい。そして最澄空海はのちに仲たがいすることをテレビ番組で知っていたので、それを予見してるかのように最澄の部分にしみ。

と思ったら、そこは修正部分ではなかった。灌頂を与えた日付が違っていたとのこと。 

 

「灌頂暦名」という空海が書いた書。空海が灌頂の儀式出席者のリストをメモしたものという解説。「灌頂」という儀式がいかなるものかをしらずそういうものという認識だった。

テレビの映像で「灌頂」がどのような儀式で、何を目的としたものなのか、実際にその儀式はどのように行われるのかをテレビの映像で見ていた。さらにエントランスの映像でもそれが紹介されていた。

一連の儀式を知ったことで、このリストがいかなるものであるかググっと迫ってきた。

 

〇「風信帖」

初めて空海の書を見たのは、何の展覧会だったのかが、何の書だったのか思い出せなかったがおそらく「風信帖」と「灌頂暦名」だったと確信を得た。

最終日、「風信帖」の前は閉館近くになっても人だかりがずっと続き、引く気配が全くない。見ることができるところだけ見て解説に目をやると「風信帖」には3種類の文字で書かれたものがあることがわかった。

 1通目の『風信帖』

 2通目の『忽披帖』(こつひじょう)

 3通目の『忽恵帖』(こつけいじょう)

これからまた、それらを見るための行脚が始まるのか… いつになったら全て見ることができものやらと思いながら、閉館直前、やっと人が少なくなりじっくり書を前にすることができた。

読める文字だけを追ってみた。3通の書があるようで、いずれも九月十一日の日付。冒頭の文字を見ると「風信」「忽披」「忽恵」と読めた。3通独立していたわけではなく、まとまっていたことがわかった。

書体が全く違っており、中国で新たな書体を学んできたことが伺えるものだった。

 

最終的には仲たがいをした最澄空海であったが、最澄が尺蹟を送ったことに対するお礼状だった。志を共にした同志の熱いものを最後に見せられた。

 

同時に展示されていた最澄の尺蹟までは見ることができなかったが、今後の再会に期待。

 

 

■関連番組

 

神護寺展の展示物を理解するために役立った番組の内容を以下に紹介

〇京都 高雄山 神護寺に残されたもの

最澄空海から密教の灌頂を受けたことを示す記録「御請来目録」が残されている。

最澄空海の教えに従い2回灌頂を受けた。空海は、密教は経典のみではなく、師から弟子へ 体ごと伝えるべきものと考えていた。しかし最澄に請われるまま、自分の経典を5年にわたって貸し続けた。

ところが2人の間に決裂をもたらす問題がおきた。最澄が学ぼうとした一つの経典、「理趣経(りしゅきょう)」をめぐってだった。これは、空海が「御請来目録」に記していたもの。

 

〇理趣教とは

空海は「理趣経」を読むだけでは誤解を受けるおそれがあるとして貸すことを拒んだ。理趣経」は、それまでの仏教が拒んできた人間の欲望を積極的に肯定するもので、その中には男女間の性欲も含まれていた。

理趣経は、冒頭「密教は生命の当然の属性である煩悩も宇宙の実在としてその本性(ほんせい)をすべて菩薩とみている。「理趣経」は、それまでの仏教が拒んだ人間の欲望を積極的に肯定してゆき、その中には男女間の性欲も含まれていた。冒頭のくだりで、あられもないほどの率直さで本質をえぐり出していた。

妙適清淨(みょうてきしょうじょう)の句 是これ菩薩の位なり「男女交媾(こうごう)の恍惚こうこつの境地は本質として清浄でありそのまま菩薩の位である」という意味。

 

密教は生命の属性

密教は 生命の当然の属性である煩悩も宇宙の実在としてその本性をすべて菩薩とみている。さらには人間を含めすべての自然は本性において清浄であるとし、人間も修法(ずほう)によって宇宙の原理に合一しうるならばたちどころに仏たりうるという。

 

文章だけで読まれてしまえば真言宗というのは、男女の合歓(こうかん)をもって大日如来の原理の象徴とするのかと、そのままに受けとられてしまうおそれがある。密教とは、経典だけでなく体ごと伝えるべきものと考える空海

最澄からの経典借用の依頼を初めて拒否。最澄は、自らの教団がある比叡山を離れることができず、せめて経典を読み込んで密教を学ぼうとした。それは空海の受け入れるるところとはならず決裂に至った。

 

仁和寺の僧侶から教えていただいたことが、この番組の中で示されていた。

 

 

No21 秘密曼荼羅 十住心論 巻第八 巻第九

空海の著書『十住心論』の写本。

人間が悟りに至るまでの段階を十に分け、 各段階での心の状態を解説。巻第四、五が小乗仏教、巻第六以降が大乗仏教。各宗派の解説もしつつ、 最終的には真言密教の優位性を述べるもの。

巻第八 は「一道無為住心」

一道は法華一乗すなわち、天台の 教えにあたる。真言の密義を得れば、あらゆる教えは皆こ とごとく平等、さらには、顕句の経典や論書、注釈 書に依って修行するものは、いたずらに年月がすぎるだけ でいつまでたっても真理に世界に到達できないという内容。

空海の天台への眼差し、最澄との価値観 の違いが読み取れる部分。

 

巻第九は「極無自性 住心」

南都六宗のうちの華厳宗にあたる。

 

人間の心を、凡夫(一般人)から最終的な悟りの境地に至るまでの10段階に分けて整理・解説。9段階目までの顕教に対し、10段階目を言語的な伝達が可能な域を超えた密教と位置づけ、人間の心の到達できる最高の境地であるとしている。

  1. 異生羝羊心 - 煩悩にまみれた心
  2. 愚童持斎心 - 道徳の目覚め・儒教的境地
  3. 嬰童無畏心 - 超俗志向・インド哲学老荘思想の境地
  4. 唯蘊無我心 - 小乗仏教のうち声聞の境地
  5. 抜業因種心 - 小乗仏教のうち縁覚の境地
  6. 他縁大乗心 - 大乗仏教のうち唯識法相宗の境地
  7. 覚心不生心 - 大乗仏教のうち中観三論宗の境地
  8. 一道無為心(如実知自心・空性無境心) - 大乗仏教のうち天台宗の境地
  9. 極無自性心 - 大乗仏教のうち華厳宗の境地
  10. 秘密荘厳心 - 真言密教の境地

 

密教曼荼羅の最終的な到達点は、この『十住心論』に書かれていたことがわかった。

 

いくら探しても見つけることができなかった密教の最終的な教え。それを探るワードを知るとその先に世界が広がる。