出雲大社の御本殿に向かう参道は下り坂で、下り参道と呼ばれています。これは全国的にも珍しいとのこと。出雲大社の謎とされています。しかしこの謎に、疑問を感じてしまいました。出雲大社の立地や、地形、建設の際の場所選びなど、この地を選んだ経緯をなど知りたくなり調べてみました。
*この記事は、こちらの(■①出雲大社を知識ゼロから理解 疑問を紐解きながら )
■出雲大社の「下り参道」の意味は? をリライトし独立させました。
- 1■出雲大社の「下り参道」の意味は?(2020.01.10記)
- 2■下り参道の傾斜について
- 3■出雲大社が下り参道の理由?
- 4■下り参道の神社
- 5■下り参道の謎を探る(2020.2 再訪)
- 6■地形の標高差を確認
- 7■神社の成り立ち
- 8■古代出雲大社はどんな場所に?
- 9■出雲大社の歴史
- 10■出雲大社周辺の地形や建物に関する資料(2020.01.21)
- 11■ファーストインプレッションは大事
- ■出雲大社関連(ブログ内)
- ■脚注・補足
1■出雲大社の「下り参道」の意味は?(2020.01.10記)
出雲大社の参道は、全国でも珍しい下り参道と言われているのですが・・・・
1-1 〇帰りの登り参道の方が印象に残る
始めて出雲大社に訪れた時(2020.08)下り参道であることには気づかずに歩いていました。下っているという感覚は全くありませんでした。
ところが、帰り道、勢留の大鳥居の直前から、急に傾斜がきつく感じられ、足も重く、息苦しくなりました。その時、初めて、この参道が急な坂道だったことに気づきました。最初は、だらだらとした登坂なので、傾斜も気になりません。ある場所を過ぎたあたりから、急に坂であることを意識させられました。
出雲大社 下り参道を登り方から望む 帰りの登り道
次第に傾斜がきつく感じられるあたりから、鳥居が見えてきます。その鳥居は次第に大きくなり、最高点に達します。すると、その先の世界が、がらりと変わり目の前に広がります。
下記はその様子をGIF動画にしたものです。
1-2 〇勢溜りの鳥居 下り参道側からの景観が穴場
長い一直線の道を上っていく参道。最初は緩いのですが、次第にきつくなり、少々疲れを感じた頃、鳥居にたどり着きます。その先に急に広がったのがこの景色です。 参拝後に見る世界が、一変したように感じられます。
勢溜の大鳥居越しにみる景色
鳥居越しに、出雲の山並みが一望して広がります。これまで見ていた世界とは全く違う様相です。(お天気の変化などが影響しているのかもしれませんが)お参りをしたあとに見る景色。 これがご利益というものなのか・・・ 漠然と感じさせられていました。
さらに鳥居をくぐって前にすすみ、勢溜りあたりからの眺めです。神門通りが足元から一直線に伸びるのが見え、道の先にもまた鳥居が見えていました。(初めて訪れた時は、神門通りの先に鳥居があることに気づいていませんでした。)
今、立っているこの場所を頂点として、これまで歩いてきた道と、これから歩いていく道を、示唆的に示されたように感じられました。そしてまだ、まだ、見たことのない新しい世界が広がっていること。同じ景色も、見え方はこんなに変わる。そんなお告げをいただいたように思ったのです。
苦しい思いをして山登りをしたあと、山頂で見る素晴らしい景色に、神々しさを感じる。それと同じような感覚がありました。
お参りのあと、参拝者はどのような景色を見ているのでしょうか? お天気や時間によっても、違う表情を見せているはず。勢留の大鳥居をくぐったあたりの逆方向からの景色、TPOによってどんな姿を見せているのでしょうか?⇒(*1)
1-2 〇参道の勾配は意図されたもの? 自然によるもの?
この景色から受ける感覚に、人為的なものを感じていました。帰りに参道を登りきったところで、何か悟りやご利益を感じるように、意図的に土地を造成をして作っているのではないか?
信仰を確実なものにするため、他の神社との差別化を図る。そのための大プロジェクトが、出雲大社では行われたのではないかと。
地勢までも変えて、参拝者に何かを感じ取らせ、信仰を促し、国の統一をはかる。そんな出雲大社の秘密をみつけたようで、ワクワクしてきました。
一方で、そんな裏読みのようなことは全くなく、もともとの地形を生かして、このような状況が生まれただけなのかもしれないとも思ったり・・・・(地勢を変えるような大プロフジェクトが行われていれば、出雲大社のトリビアとして、どこからともなく耳に入るはず)
参拝後の帰り道、鳥居を出る時に、視界が広がったのは、人為的な誘導があって導かれたことだったのか? もともとこの土地が持っている地勢から感じさせられたことなのか。そこのところを、確かめたいという興味が生まれてきました。次に訪れる時には、確認してみようと思っていました。
1-3 〇ひっかかりを感じた理由は?
勢留の鳥居から、神門通りを眺めるこの景色。どこか不自然というか、人の手が加わった人工的なものに感じられました。
鳥居の向こうに広がる山々の神々しさ。それとは対照的に、直線的に伸びる道路は、幾何学的で人工的に思えました。この道路、遠近感を強めてない? 実際の距離と目で感じる距離、違う気がする・・・ (たとえば、道路の幅を手前と奥とで変えてるとか?道路の傾斜も視覚に何か影響を与えていそう)
出雲大社駅から神門通りを歩いていて、最初に目についたのは、歩道に縁石がないことでした。
さすが出雲大社のお膝元、バリアフリーを考えられた町づくりをしているのだと思いました。(これは「シェアドスペース」(歩車共存型道路)という考え方でした。)また歩道が広め。電柱がないことを後から知りました。
神門通りの整備は、遷宮の時に行われたという予備知識がありました。それも、この通りの人工的なニオイにつながったのかもしれません。
参道は(その他も)時代によって変化しているはず。今の技術によって、なんらかの効果が加わっていると考えられます。一方、昔は昔で、その時代の技術があり、整備されているはず。その中で、信仰を集めるために、地勢までも変えるような大プロジェクトが行われていたかもしれないと想像を膨らませていました。出雲大社であれば、そんなことまで行っていても、おかしくないと考えていました。
一方、逆の帰り道について、次のような捉え方もありました。
〈大国主命〉はもともとの日本を指す葦原中国を治めていた国津神という神さまですが、その息子の代で天照大御神のような高天原に住む天津神に統治権を譲ります。国譲りをしたあとは〈黄泉の国〉をつかさどることになるため、出雲大社へのお参りは、生から死を疑似体験することでもあります。
逆に帰り道は、黄泉の国から坂を上って二の鳥居にたどり着き、そこから広がる美しい“この世の風景”に向かって一の鳥居までの坂道をゆっくりと下っていきます。こうして“黄泉がえり”を体感できるのが、僕にとっての出雲大社です。
引用:神社参拝のキホン、あなたは知っていますか? | 日本の神さまと 上手に暮らす法 ― 神さまのいる毎日を過ごしませんか? | ダイヤモンド・オンライン
2■下り参道の傾斜について
2-1 〇下り参道は、地形によるもの? 造成されたもの?
この下りの地形は、もともとの地形だったのか。あるいは、勢溜のあたりを頂点に一番、高くなるように造成されたものなのか‥‥そこをまずは確認したいと思いました。
2度目に訪問した際、ボランティアツアーに参加して、下り参道の説明を受けました。そのあと、下り参道は、もともとの地形で、造成したわけではないことがわかりました。
2-2 〇下り参道であることを「知って通る・知らずに通る」違い
ボランティアツアーでは、勢溜の大鳥居のところで「出雲大社は下り参道で珍しい」という解説をうけます。その時に思ったのは、最初から下り参道であるという知識を持って通ると、ここは下り参道であるということがインプットされてしまいます。
しかし、何も解説を聞かず、知識もなく通ると、参道が導く方向へそのまま直進し、私の場合は下っていることは意識されませんでした。知識による先入観、あるいは、個々の観察力や感性によって、坂の捉え方が左右される好例だと思いました。
2-3 〇実際の傾斜と坂と回りの景色を確認
最初に傾斜を感じなかったのは、角度が緩いため、下りを感じさせなかったのだろうと思いました。しかし、帰りは、息切れするほどの勾配を感じています。その不思議に、実際の下り坂の傾斜がどうなっているかを確認したいと思いました。また、この坂には錯視効果もあったのでは?という推察もあり、景色と坂の関係も確認したいと思っていました。
2-4 〇下り参道の意味の確認
「下り参道」は、調べてもどのような意味を持つのかがわかりませんでした。また本来の参道はどういうもので、それが下りであることによる効果(?)は? そこの部分がわからないと、ただ「めずらしい下り参道」というキャッチコピーのように感じられてしまいます。
そこで、下り参道の理由について探ってみました。
3■出雲大社が下り参道の理由?
3-1 〇様々に語られる下り参道の理由
出雲大社の下り参道の理由を調べてみると、結局はわかっていないようです。理由についてはさまざまな説があります。また個々に考察されている方も・・・・
3-1-1 *「へりくだる」ことを参拝者に伝えるため
参道を下がることで「へりくだる」ことの大切さを伝えているという説。この説を支持される方が比較的多いようで、有力説となっているようです。謙譲の心というのは、日本人の精神性に響きそうです。
・【島根】正しいお参りで縁結び効果アップ!出雲大社参拝ガイド | ぷらんジャ
・出雲大社 Vol.1 失敗しない参拝の仕方~境内まで|うんちくマニアックな旅
・【めのうさとえすこな散歩】神在月 出雲大社 |「縁結び」の地、出雲に八百万の神々が集まる! 第9回 | これを知っておけば、参拝が10倍楽しくなる!16のポイント
・出雲大社 Vol.1 失敗しない参拝の仕方~境内まで|うんちくマニアックな旅
・出雲でパワーを貰おう☆ | 原田亜弥子のあやコラム
個人的には、ポータルサイトの孫引き情報のように感じられ、元ネタがどこからきているのかわかりませんでした。
3-1-2 *気やエネルギーの流れによる
高いところから低いところに気が流れるから説。
また、「勢溜の大鳥居」が出雲大社の中でも一番高い位置にあり、ここから下り坂を通って「気」や「エネルギー」が本殿の方へ向かって流れていくという説もあります。
「気」の流れに乗って参道をすすむわけですね。
引用:【めのうさとえすこな散歩】神在月 出雲大社 |「縁結び」の地、出雲に八百万の神々が集まる! 第9回 | これを知っておけば、参拝が10倍楽しくなる!16のポイント
3-1-3 *地形による影響 砂の丘のなごり
地形や地勢に起因する説。
近くに海岸があり、勢溜の大鳥居の場所は、砂浜の砂が運ばれた砂丘の隆起で、それによって下り参道となった説。
二の鳥居を抜け本殿へ伸びる参道は下り坂になっている。一般的な寺や神社は山岳信仰につながるため上り坂が一般的である。出雲大社は古代、砂丘と日本海に挟まれた場所に建てられた。砂の丘を固め参道を作ったため下り坂になった。さらに、大陸から稲作や鉄鋼など最先端の技術が出雲に伝えられたという。
引用:価格.com - 「お坊さんバラエティ ぶっちゃけ寺」で紹介された情報 | テレビ紹介情報
神門通りと呼ばれる現在の表参道も、やっぱりいきなり下り坂。
実はこのあたり、昔は砂丘地帯だったそうで、現在よりも海が遥かに出雲大社に近かった大昔の地形がそのまま残っているのだそうだ。
それってつまり……
水納島の桟橋から続く石畳道と同じなんじゃ??
引用:出雲&温泉津温泉
3-1-4 *地形による影響 山の開拓によって下り参道に
出雲大社をとりまく三方の山があり、参道も江戸初期まで山だった。その山を開拓するにあたり、このような傾斜ができた。
その理由は、もともと江戸時代のはじめ頃までこの参道のあたりが“山”だったから。山を開拓するかたちで表参道ができたので地形を活かした「下り坂」になったのだという。
古くは四方を山に囲まれた神社だったということに思いを馳せながら通ってみよう。
引用:出雲大社~どうして縁結びの神様なの?何度でも行きたい!出雲の神様と出会う旅~|神社専門メディア 奥宮-OKUMIYA-
3-1-5 *個人の推察
個々に推察されている方も・・・・ 自分であれこれ考えて理由をみつけてみるのも面白いと思います。
ご拝殿が坂の下にある理由は、
「へりくだる」ということを参拝者に伝えることだとも言われていますが、古代の出雲大社はなんと約100メートルあったそうです。
もしかすると、坂の上からでも、実は神様を見上げる必要があったのかもしれません。
↑私の想像ですが。
引用:日本の成立ちを考える ~出雲~ | みさこの徒然ひとりごと | Himechanzブログ
3-2 〇研究者による考察
黄泉の国の大国主大神をお参りするため・・・
一の鳥居から二の鳥居、三の鳥居を上って下ることに意味があり、生から死の世界(黄泉の国)を司る大国主大神の世界を疑似体験すること。
国譲りをしたあとは〈黄泉の国〉をつかさどることになるため、出雲大社へのお参りは、生から死を疑似体験することでもあります。
引用:神社参拝のキホン、あなたは知っていますか? | 日本の神さまと 上手に暮らす法 ― 神さまのいる毎日を過ごしませんか? | ダイヤモンド・オンライン
出雲大社の祭神、大国主大神を祀るのに適さないような場所に祀られている。それは・・・・ オオクニヌシが出雲に封じられた神だから?
出雲大社は、(略)谷底の湿地に建てられたのだ。この地は現在二本の川に挟まれているが、要するに川が氾濫すれば水浸しになり、おそらくは川の流れも時代によって移り変わるため、河川敷や中州のような地質であっただろう。(略)にもかかわらず、そこに、出雲大社は建設されたのだ。
もしこれが天皇の宮殿であったなら、このような土地に建設されることはありえないだろう。そもそも出雲の祖神であるスサノヲが初めて宮殿を構えた須我の地は、スサノヲみずから「すがすがしい場所だから、ここにしよう」と決めたという伝承がある。なのに、このようなすがすがしくない場所に大社は建築されたのだ。
引用:出雲大社は「下り宮(くだりみや)」である!: てんげん録
3-3 〇下り参道について推察してみた
以上を踏まえつつも、私なりに勝手に推察してみました。
この地域は、昔から信仰の場であったことを、知りました。(⇒日本古来の神道は、岩や山、木を祀ることから始まると言われてます)背後に控えた八雲山への信仰が下地にあったと考えら、禁足地として今につながっています。
神殿はいつ、建てられたのでしょうか? 出雲大社の歴史を紐解き、それが確認できれば、建設場所を決めた経緯も、すぐにわかると思いました。当時の記録に、どこに建てるかを検討をした記録が残されているだろうと・・・
一方、八雲山への信仰のあったこの地に、神殿を建てるのは、検討の余地はなく必然的な流れともいえます。結果、この場所が、たまたま下り参道の地形をしていたということではないか?
下り参道という他には見られない形態なので、特殊性、希少性が、出雲大社の特徴として広く伝わるようになっていったのではと考えました。
3-4 〇出雲大社紫の教会 ・・・深い意味はない説
以上の推察を、裏付けるように、出雲大社紫野教会から、下り参道は、意味はないだろうという見解を出されていました。
勢溜から参道を進むと、少し下っていきます。神社では珍しい下り参道ですが、勢溜が高い位置にあるためで、何か深い意味があるとかはないと思います。
他の下り参道の神社について調べてみました。それらからは、下り参道であることの、明確な理由は、伝わっていないという共通点がありました。
つまり、その場所が、下り参道であることに、重きが置かれた場所ではないことを意味していないでしょうか? 神社を建てた場所が、たまたまそのような地形の場所だったということなのだと思います。
しかし、全国的に見ると珍しい。それなら、それを売りにして、特別なものとして扱われるようになったのではと思いました。
さらに時代が下って、人も全国を移動するようになると、他の神社との差別化も必要になります。そんなキャッチコピー的な意味合いも強まっってきた結果ではないかと考えました。
3-5 〇ブラタモリ・・・砂丘説
いろいろ調べていたら、ブラタモリで出雲大社が取り上げられていたことがわかりました。坂道好きのタモリさんです。下り参道についても、何か解明してくれるかもしれません。
〇神門通りは、江戸時代は別の通りだった!
#ブラタモリ #nhk pic.twitter.com/5XVRKDUu3M
— くーるぜろ feat. りんかる 規制垢 (@zephel02) 2015年8月22日
神門通りは、昔からあったわけではなく、旧大社駅ができた時に、駅から参道を一直線に伸ばしたという経緯があります。 それ以前は、別の道が参道だったそう。
そして、この地形は、砂丘による高低差であると解説がされていました。
4■下り参道の神社
4-1 〇下り参道を有する神社は他には?
珍しいと言われる下り参道。出雲大社意外にどれくらいあるのでしょうか? 下記のブログで、階段で下る3大神社が紹介されています。ここには出雲大社はありません。
ここでも、なぜ下り参道なのか、理由はわかっていないとされています
写真素材提供サイトでも下り参道の神社を見ることができます。
4-2 〇下り参道の神社はどれくらい?
下り参道を有する神社の総数は、どれくらいなのでしょうか?(実は、意外にありそうな気がします。)下記によると十社は確認されているようです。
現在私が把握している限りでは、「下り参道」の神社は全国に十社ある。たぶん他にもまだあると思うが、それについての完全な調査資料はないので、統計もないだろう(ぜひ読者諸兄姉のご教示をお願いいたします)。
引用: 出雲大社は「下り宮(くだりみや)」である!: てんげん録
これらの、下り参道の神社をじっくり考察すれば、何か共通点が見えてきて、下りである理由がわかるかもしれません。上記ブログでも、考察がされています。
4-3 〇従来の神社の参道は・・・
考えてみると、通常、神社などのお参りは、階段を上がった先に祀られていることが多いです。階段は構造物という認識なので、坂を上っているという認識をあまりしていませんでした。小高い山の上に神社あり、長い階段を上がることが多いというのは、これまでの少ない体験からも理解ができます。上ることが当たりまえで、あえて上ってるいるという意識を持つことがなかったように思います。
神社をお参りする経験があまりないと、下り参道が珍しいと言われても、あまりピンときませんでした。
出雲大社については、個人的には、下り参道よりも、帰りの上った参道の先の鳥居の景色が印象的でした。
4-4 〇出雲大社の下り参道はいかにできたか?
この「珍しい」下り参道という状況はどのようにしてできたのでしょう・・・・ 下記のような想像をしていました。
・人為的にこの地形を作った ⇒出雲大社はこの理由は消去
・下った先に社がある、めずらしい地形を探して、ここを選んで建てた
・たまたま、建てた場所の地形が下り参道で、後付けで意味を持たせた
出雲大社の下り参道はもともとの地形で、それは砂丘であることがわかりました。
4-5 〇神社の建設地は、どのように決まった?
神社の建設というのはどのような、経緯や手順で決まるのでしょうか?
神社を建設する時、場所選びはどのように選定するのでしょう? もし、出雲大社にとって、下り参道であることが、重要な意味を持つのであれば、下りの参道となる場所を探し出して、この場所に決定したと考えられます。
あるいは、下りの参道を「造成」するだろうと考えました。しかし、造成はされていないことはすぐにわかりました。
下り参道を有するどの神社も、説得力のある意味が見いだせていないことから、昔からその場所で信仰があり、その延長で、建設されたというのが、妥当だと考えられます。
2度目の訪問のあと、出雲大社に興味が持てるようになって、調べ出しました。その過程で、お社ができるはるか昔は、八雲山が御神体だったということが、いろいろな情報から判りました。
参考:出雲大社の神体山・それは霧の中の謎でした!
- 神秘と感動の絶景を探し歩いて Beautiful superb view of Japan
従って、下り参道はもともとの地形で、そこに意味を持たせたと思われます。
もし、このような場所を探して、この地に建てたのであれば、出雲大社の歴史を紐解けば、その記載が出てくるはず。出雲大社の歴史、始まりを知りたくなってきました。
出雲大社を建てた時のこと、また建てる前、この場所はどのように変遷してきたのかも興味が出てきました。
4-6 〇地形の変化はない?
またこの周辺の地形は、出雲大社が建てられた時代から、変わっていないのでしょうか? 時代が下って江戸時代になれば、参道に傾斜を持たせて開発することもできたかもと思いました。勢溜の鳥居を頂点に、造成して坂にすることも可能かもしれません。
出雲大社の立地、地形は、昔から同じだったのか‥‥ 2度目から3度目の出雲大社の訪問は、そのあたりの疑問を解決したいと思いました。最初は、雲をつかむような話ばかりで、理解できないことばかりの出雲大社でしたが、一つの疑問が解決すると、次の疑問が浮かび、興味が深まっていきます。
5■下り参道の謎を探る(2020.2 再訪)
2020年2月。3回目の出雲大社の訪問です。
始めて訪れた時、下りであることを全く意識していませんでした。なぜ、下りであることに気づかなかったのか。それを探ろうと、坂の状態をいろいろな角度から確認してみました。
下りの参道をGIF動画にしました。
出雲大社 下り参道
5-1 〇傾斜の秘密
帰り道、参道を上っていて、終盤になってやっと、急な傾斜であることに気づきました。そこで、この参道の傾斜は、実際にどれくらいの角度なのか確認。終盤、息苦しくなるほどの傾斜なのに、行きは坂であることに気づかなかったのです。これは、勾配が急激に変化しているのではと思いました。
勾配の様子を、撮影したものです。
勾配の変化は、明確に表れていました。傾斜角度の変わる部分で、参道の敷石が、切り替わっていました。
勢溜の鳥居を抜けたあと、緩やかな傾斜が導入となり、そのあと急に角度が変わっています。この急な傾斜は、長く延びます。そして、先の方になってまた緩やかなカーブとなっていました。
下記の写真は坂の上から見たものです。
おそらく、導入の緩い傾斜の時は、坂であることを認識せず歩き始め、角度がきつくなっても変化に気づかなかったのだろうと思われました。
5-2 〇錯視効果はない?
そして、もう一つ推測していたのは、ここに錯視効果もあったのでは?ということ。錯視とは、下り坂なのに上り坂に見えたりする視覚の不思議のことです。
⇒坂道錯視
出雲大社の参道の場合、下り坂なのに、傾斜を感じませんでした。それは周囲の景色の影響があったのでは?ということを想像していました。写真で見ると、結構な坂です。それなのに気づかないものなのか?
とはいっても、下りを感じなかったのは、単に注意力不足、感覚の鈍さなのかもしれません。でも、何か理由があるのかも?と思ったのです。見え方、傾斜に秘密があるかも・・・
それが構造的なものなのか、心理的なものなのか、環境によるものなのか。出雲大社の「下り参道」がこんなに注目される理由が、隠されているかもしれないと思いました。
結果としては、錯視の影響を与えそうな周囲の景観はありませんでした。下り参道の傾斜は、3段階で構成されていて、入口付近は緩やか。そして、帰りの坂の始まり、祓い橋からの傾斜も最初は緩やかでした。中盤の傾斜が強い坂が長く続きます。
下る時は下りを感じさせない緩やかな傾斜で入り、出る時にまた緩やかになることで、傾斜が緩和されたのかなと思われました。
一方、帰りは緩やかな傾斜で上り始め、少し角度がついた長いだらだら坂が続きます。終盤疲れが出て、最初は感じにくかった坂を、実感じたということのようでした。
「松並木の参道の鳥居」から「勢溜の鳥居」に向かう参道 画面中央の消失点に向かって参道の坂の様子が遠景で確認できます。
5-3 〇出雲大社の参道は「砂丘」を確認
勢溜りの鳥居から、下り参道を降りると、松並木の参道の鳥居にでます。
松並木の参道は、中央と左右に分かれています。
参道の西、東側に広がるのが、西神苑と東神苑です。西神苑にはウサギの像がたくさんあります。
この日は、雨でした。松の根が地表を這っているのが見えます。
そして、広場には水があふれていました。下り参道の低い部分に水が集まってきたのでしょうか?
そして、よく見るとここは砂地です。
出雲大社の参道は、砂丘であると言われていたことを、体験を持って確認ができました。境内のマップを見ると西神苑には、水路が記されています。
(左)雨によってその水が、表れてきたということでしょうか?
(右)西神苑に直線に伸びた水の道がありました。低い場所なので、水を流すための暗渠かな?と思っていたのですが‥‥ 看板の地図とは違う水路が現れています。
そして、砂丘には松が植えられており、伐採された切株が。松には保水効果があることがわかりました。
松の切り株からは、新しい芽が成長しています。
その一方で、朽ちていく切株も。木は土に還りながら新しい命がめばえます
ムスビの御神像付近
5-4 〇昔は、神殿まで海だった!
出雲大社の参道は砂丘と言われています。稲佐の浜の砂が、風に流されて堆積されて砂丘になるようですが、出雲大社までの距離、動くものなのでしょうか?
砂丘のでき方はこんな感じ。
風が強ければ、吹き飛ばして出雲大社のところまで体積するのかもしれないと思っていたら、今の海岸線と昔の海岸線が違うことがわかりました。
下記の想像図、よく目にするCG画像です。近くに海があり、昔は、出雲大社の神殿は、海岸線に建築されていたのかな?と思っていました。かつての海岸線は、現在、社が建つ場所まで、海だったという話を、現地で聞きました。
この画像が意味していること。そして出雲大社の参道や神苑が砂地であることを、確認することができました。
西神苑の砂地
砂丘の風紋のようにも見えます
6■地形の標高差を確認
出雲大社の参道の高低差を、googleマップで確認できないかと思い、参道をプロットしてみました。しかし、高低差が表現されるほどの差は見られませんでした。
大鳥居⇒勢溜の鳥居⇒鉄の鳥居⇒銅の鳥居⇒本殿
断面を見るツールがないか探したところ、国土地理院地図(電子国土web)で確認できることがわかりました。
6-1 〇断面図:出雲大社ー勢溜の大鳥居ー宇迦橋の大鳥居
上の地図の起伏を縦横比5:1にした断面図
勢溜の鳥居から、祓橋までの傾斜が3段階になっているのがかろうじて認識できます。
そして、松並木の参道、神苑のあたりは一番低く、雨によって水たまりができることについても納得。
縦横比を1:1にすると、ほぼ平坦となってしまいます。
googleの地形図では、砂丘の高低差は反映されず確認できませんでしたが、国土地理院から陰影起伏の地図が提供されていました。
勢溜のあたりに砂丘の起伏が侵入していることがわかります。
下記は高低差が色分けされています。下り参道の部分を拡大すると、高さが3段階に分かれていて、「黄緑」「水色」「青」に変化していることが確認できます。
6-2 〇断面図:稲佐の浜ー勢溜の大鳥居
稲佐の浜から勢留までの断面
稲佐の浜と出雲大社の距離感と起伏。砂丘形成の手がかりとして。断面図確認してみました。
稲佐の浜一帯の古代の地図などが下記のブログ内で紹介されています。
7■神社の成り立ち
神社の社を建てる時、その場所はどのように選定さたのか。土地探しをして選ぶのか。昔から信仰のあった場所にそのまま建てるのか?
丁度、読んでいた本『日本人なら知っておきたい神道』(武光誠著)の中で、神社はどのように誕生したかの解説がありました。
7-1 〇古代の信仰
一般的な現在の神社は、広い庭(神苑)つきの建物のあるところですが、古くは大きな木の周辺や、巨石、集落近くの山や丘に神が集まると考えられていました。そして、その場所は、祭りの時以外は入れない場所でした。このような場所が、のちの神社となります。
祭場の発展の途中に神籬(ひもろぎ)が作られました。祭場の中心にある常緑樹の回りに玉垣と言われる柵をめぐらしました。
下図は、野外で神を招く時につかわれる神籬です。
近代以前は、家で神を祀り、あちこちでかけて自然の驚異を感じた時には、その場で神を祀り、巨木や巨岩に頭を下げていました。神社の原形は、神さまが降臨すると考えられた木や岩の所。そこに仮設された建築物が原形と考えられます。
時代の進展とともに「やしろ」「みや」と呼ばれる常設の社殿が造られるようになりました。力のある豪族が地域のまとまりをはかるため、自分たちの氏神(うじがみ)を祀るために造ったと考えられます。また、その土地にあった信仰のシンボルとして建てられました。
7-2 〇7世紀 飛鳥時代(寺院の建築)
7世紀、飛鳥時代になると寺院が作られ、神籬が置かれた場所に巨大な神殿が作られるようになったとのこと。
7-3 〇神社はどのような場所に設置するのか
東京国立博物館で行われた「出雲と大和」 その関連講座で「出雲大社と巨大本殿と古代出雲世界」というコマがありました。(2020.01.25 「出雲大社巨大本殿と古代出雲世界」講師:島根県古代文化センター専門員 松尾充晶)
講座の中で、神社が建てられる場所は、川の水の流れが交差するところに建てられるとの解説がありました。古代の出雲大社はそれを踏襲しています。失念してしまいましたが、他の例も挙げられていました。
現在は、川の流れが変わってしまいましたが、古代の川が合流したあたりが、本殿の位置だったというお話があったと記憶しています。
8■古代出雲大社はどんな場所に?
8-1 〇出雲大社付近の古代の川
川の合流地点に社が建てられるという話を聞いたあと、島根県立古代歴史博物館で撮影してきた写真を見ていたら、まさにその解説と思われるパネルの写真がありました。
水色の破線(実際はグレー)は、古代以前の川の流れを表します。2本の川がY字に合流しており、この合流地点がかつての鎮座地と考えられます。背後には八雲山を仰ぎ、神聖な場所として、建物が建てられていたと考えられます。
8-2 〇鎮座地周辺の環境
弥生時代から、この場所は祭祀と交流の場所でした。
古い神社にみられる立地環境
・背後に山をあおぐ水源の地=川合 (かわい)
・三方が山、2つの小さな川が、東西を南流したやや開けた谷間に鎮座。
・古代には潟湖が近くに広がり、良好な港が存在。
・真名井遺跡 境内遺跡から祭祀関連遺物出土
・弥生時代以来、祭祀と交流場所
この地が、古代の人たちのよりどころとする条件をいくつも兼ね備えていた場所でした。
8-3 〇出雲大社の立地環境
東神苑には、鳥居だけが建ち、その先になにもないところがあります。それは、森全体がお社であることを意味しており、古代の信仰の形の表れです。
出雲大社を作る時に使った杵を埋めたと言われる場所。かつては、森そのものが信仰の対象だったことが、大社内にも残っていると紹介されています。
ここは、出雲大社建築時に使われた杵を納めたと伝えられているところで
杵那築の森(きなつきのもり)と言われています。
ここにお社がないのは、森全体がお社であるとする古代の神社の
一形態を表わしています。
出雲大社では『建築学生ワークショップ出雲2019』も行われました。国内外の建築や環境デザイン分野を専攻する学生による公開プレゼンテーションを実施。それに先立つワークショップで、出雲大社という場所について、つぎのような解説があったといいます。
このほかにも、古代では川が合流する「河合」が力を持つこと、さらには、境内正面の南端を砂丘が遮蔽し、まるで境内が「籠り」の空間であることも語られている。
出雲大社の神苑で、場を読み解き建築物を造り上げる。「建築学生ワークショップ」2019 in 出雲大社 | 住まいの「本当」と「今」を伝える情報サイト【LIFULL HOME'S PRESS】
川が合流する「河合」の力や、砂丘によってできた「籠り」として、出雲大社周辺の特徴として紹介されていました。
8-4 〇現在の川の様子
古代の川は、現在、下記のような流れに変わっています。
引用:出雲観光ガイド
素鵞川は、 「祓橋」をくぐり、「浄の池」の先で、合流しています。まさにこの付近が、『建築学生ワークショップ出雲2019』が行われた場所です。ワークショップが行われた場所も川の合流地点、その場の意味も感じさせられます。
8-5 〇出雲大社の下り参道、下りきった場所は?
(左)下り参道を下りきったところにある祓橋(はらえのはし)
(右)橋の下を流れる素鵞川(そががわ)
下り参道の下りきったところ(一番低い場所)にかかる祓橋(はらえのはし)。その下を流れている川は、八雲山から流れる「素鵞川(そががわ)」。禁足地である八雲山から流れる聖なる川です。その橋を渡るということは、鳥居をくぐるのと同様、穢れを祓うという意味があると考えられます。
勢溜の鳥居をくぐり、祓社で清め、聖なる川にかかる橋を渡ることで、御本殿が神聖な場所であることを表わしているのでしょう。神の領域へと近づく儀式的な意味があると考えられます。
「内正面の南端を砂丘が遮蔽」し、境内が「籠り」となった地形であると、建築学生向けのワークショップで語られた意味がよく理解できます。
川の流れは、変化しながらも、古代から、信仰の場所として受け継がれ、そこに社が建てられて今に至っていることがわかりました。
出雲大社の建設場所が、下り参道であることに意味があるのであれば、そのような場所を探して建築するのではないかと考えました。しかしそこには、もっともっと、悠久の時間が流れており、そこに暮らした人たちに支えられて、その場所に存在していることがわかりました。
8-6 〇島根の砂丘
当初、出雲大社に関する砂丘を調べても、「鳥取砂丘と出雲大社」の情報ばかり。島根の砂丘に関する情報にアクセスできませんでした。(マイナス検索を思いつき、利用すると、とたんにヒットしはじめました。)
砂丘というと、イメージは鳥取砂丘が浮かびます。出雲大社付近が砂丘と言われても、どうもピンときませんでした。どのように砂丘は形成されたのか謎でした。
上記で紹介された地図を見ると、島根の砂丘の形成過程がよくわかります。出雲大社のあたりが、どのような地形であるのかもわかりやすいです。
下記は、ジオサイト1000選です。
出雲大社は浜山砂丘に属しており、上記よりその形成がわかります。
浜山砂丘:海岸から2kmも離れた内陸にある砂丘とその麓から湧き出る名水
浜山砂丘は、神戸川やかつて西流していた斐伊川によって運ばれてきて、海岸に堆積した大量の砂が強い西風で吹き上げられてできたものです。東斜面が急傾斜であるのに対し西斜面がなだらかな砂丘地形は、西風により砂が移動・堆積したことによるものです。
砂丘というのは、海岸の砂が堆積するだけでなく、川の上流からの流れてくる砂の堆積物も、砂丘であることがわかりました。
砂丘という概念が、もっと広いことがわかりました。そして、砂によってできた地形は、開発によって隠れてしまいます。さらにわからなくなってしまうのでした。
幸いにも、出雲大社の西神苑で砂地を確認することができました。それは、雨によってだったのか・・・・ 風紋のようなものも見えました。これは巡り合わせがもたらした重な体験だったのかも。
島根の砂丘に関する参考情報
〇絵図にみられる砂丘の表現
〇砂と砂浜の地域誌(24)出雲平野と宍道湖・斐伊川の砂
〇出雲平野の土地環境と災害危険性
9■出雲大社の歴史
9-1 〇古代出雲の歴史
・土地に埋もれた神話
・創建の記憶
・古代日本の神社の位置
9-2 〇出雲大社の造営に関する出来事
下記の一覧から、出雲大社が建てられたのは659年、出雲国造に神宮を作らせたという記録があります。
古代歴史博物館展示パネル
10■出雲大社周辺の地形や建物に関する資料(2020.01.21)
〇出雲大社が描かれた絵を追いかける
出雲大社の周辺や建物が描かれた過去の絵図を追えば、参道の変化が読み解けるのでは思いました。目についたものを集めていました。
以下、古代歴史博物館の展示撮影、インターネットの画像検索、手持ち資料によるものです。
〇10世紀:平安時代のイメージ
引用:島根県:特集1(トップ / 県政・統計 / 政策・財政 / 広聴・広報 / シマネスク / 2007年 / 62号)
〇1248年:宝治2年(鎌倉時代)造営時の建物
1248年 鎌倉時代 宝治2年の造営時
鎌倉時代(13~14世紀)の杵築大社(現在の出雲大社)とその周辺を描いた絵図。古代歴史博物館 部分を4倍に拡大複製したものです。
出雲大社并神郷図 部分拡大図(4倍)複製 島根県立古代博物館 展示
画面中心付近の大社の朱塗りの神殿は、宝治2年の造営のものといわれ、他の建物よりもひときわ高くそびえています。
これが『出雲と大和』にて展示されました。
元絵はこちら・・・・ 何がんだかさっぱりわかりません。千家家所蔵。
中央の白く抜けている部分が上下にありますが、上の部分を拡大すると・・・・
『出雲と大和』図録p78より)
出雲大社とその周辺が描かれているのがわかります。
『出雲と大和』図録p79より)
これらの画像を探してみると、
引用:寺社建築文化財の探訪<TIAS> 出雲大社の起源 不思議な平面
上記では、文化庁解説文、島根県立古代出雲歴史博物館の解説が掲載されています。出雲大社関連で、一番古い絵となる。
『出雲と大和』図録p276より要約)
旧杵築郷とその周辺を描く(このあたりが神郷領域)
全面に格子模様の剥落 元来は衝立障子
鎌倉期の絵画性豊かな絵画であるものの、構成は荘園絵画に近く、南方の山に水墨画表現がみられることから、制作年代は相応に降る(宮島新一氏)
境内と砂丘地帯は胡粉を引く
境内内、本殿は周囲よりもひときわ高い
柱・千木は朱塗り 高欄回り、階段側面は黒字の文様
剣と巴の文様は火伏の呪いで、春日大社本殿にも見られる
〇1609年:慶長期の出雲大社復元
豊臣秀頼が願主となった慶長14(1609)年の造営で、本殿の高さは20メートルほどに復活
「杵築大社近郷図絵図」を参照して復元
〇1664年:寛文の造営前の近郊図(全体)
寛文の造営直前に描かれた「紙本著色杵築大社近郷絵図」(北島建孝氏所蔵)
引用:島根県:島根県 : 遷宮の源龍
(トップ / 県政・統計 / 政策・財政 / 広聴・広報 / シマネスク / 2013年 / 87)
出雲大社の時代変遷
『出雲と大和』図録解説より(P276)
・寛文4年(1664)に、絵師実見による下絵をもとに作成。
・後ろの八雲山を意識的に高く描写され、山への聖性の意識の高まりが感じられる。
また現在の神門通りのあたりは山となっていることがわかる。
この造営にあたって、豊臣秀頼による慶長14年(1609)造営の出雲大社とその周辺の姿を記録に留めたのが「杵築大社近郷絵図(きづきたいしゃきんごうえず)」です。本殿は現在とは異なり、朱塗りで描かれています。また本殿南側には三重塔・鐘楼などが描かれており、神仏混淆の状況を伝えています。
〇1664年:寛文の造営前の近郊図 (部分拡大)
上記の出雲大社の部分を拡大したもの
江戸時代初期の八雲山と出雲大社 古代歴史博物館展示パネル撮影
山の直下の屋敷は北島国造家。寛文の造営で境内東に移転新築。
引用:寺社建築文化財の探訪<TIAS> 出雲大社の起源 不思議な平面
〇1667年:寛文7年
「御宮中惣碁盤指図」をもとに復元。1667年の現代の景観と似ている。仏教色を排除
〇1667年:寛文の造営直後
寛文の造営後に描かれた「杵築大社境内絵図」(千家尊祐氏所蔵)
神仏習合の影響で境内に鐘楼や三重塔という仏教施設
島根県:島根県 : 遷宮の源流(トップ / 県政・統計 / 政策・財政 / 広聴・広報 / シマネスク / 2013年 / 87)
寛文の造営直前に制作された「紙本著色杵築大社近郷絵図」には、鐘楼と三重塔が描かれています
鐘楼は永正7(1510)年、三重塔は大永7(1527)年に、それぞれ戦国武将尼子経久(あまごつねひさ)が建立。
慶長の造営でも仏教建築はそのまま残されたのです。
〇1875年:明治8年頃 「出雲大社絵図」
国立公文書館所蔵「出雲大社絵図」(明治8年頃作成)
出雲大社 - Wikipediaより
不明 - National archives of Japan (http://jpimg.digital.archives.go.jp/kouseisai/category/drawing/izumo_taisya_e.html), パブリック・ドメイン, リンクによる
関連:寺社建築文化財の探訪<TIAS> 出雲大社の起源 不思議な平面
〇1881年:明治14年に斎行された正遷座祭の御動座行列図
関連:「出雲大社の正遷座の行列図」を発見! | 亀甲紋のブログ
〇1912年:大正元年 神門通りの参道は旧大社駅開業とともに整備
出雲大社の現在の神門通りができたのは、大正期になってからです。
⇒〇第1の鳥居:宇迦橋の大鳥居
1912年の国鉄大社駅の開業によって、人が参拝するために、駅から直線の参道を通して、利便性を計りました。
出雲大社の周辺は、過去には、荒れ地だったそうで、そこを耕して田んぼが広がり、邸宅を構えていてたと言います。
下記は、明治8年頃の、参道の様子。
不明 - National archives of Japan (http://jpimg.digital.archives.go.jp/kouseisai/category/drawing/izumo_taisya_e.html), パブリック・ドメイン, リンクによる
素鵞川にかかる「祓橋」の前に鳥居があります。現在、勢留の大鳥居のある場所には鳥居はありません。神門通りは短く、その入り口に鳥居があります。
大正になって、国鉄大社駅の開業によって、参道はのび、鳥居も移動。祓橋の前にった鳥居も勢留に移動したことが読み取れます。(ただ、鎌倉時代に勢留の位置に鳥居があったという記載をどこかで目にしたのですが失念)
下り参道と、第一の鳥居から、勢留の鳥居を一直線にしたのは、江戸末期から明治にかけてと、結構、新しい時代のことだということがわかりました。
〇出雲大社に関する絵図
出雲大社に関連した絵図を追っていけば、創建当時のことがわかるだろうと、絵図探しをしていたのですが、調べる過程で、下記のサイトに遭遇しました。
すでにまとめられていることがわかりました。
創建当時、その様子が絵に残されていると思っていたのですが、現在一番古いものは、ここで最初に示した鎌倉時代の「出雲大社并神郷図」であることがわかりました。それ以前の奈良・平安のものは、確認されていないようです。
また、島根県立図書館では、過去に「出雲大社図展」が行われており、様々な絵図を見ることができます。
www.library.pref.shimane.lg.jp
絵図について下記のような研究がみられました。
〇絵図を通してみた門前町杵築(大社)
〇いづも財団叢書第4号 ・・・鎌倉中期 江戸初期 江戸中期の絵図
宝物館内にも、過去の絵図が展示されていました。書き取りを試みましたが断念。
11■ファーストインプレッションは大事
出雲大社のことを何も知らずに訪れ、参拝をしたあと、勢溜の鳥居に広がった景色。それは、信仰心がなくても、何か神々しさを感じさせられるものでした。
正直なことを言えば、信仰心は全くなく、どちらかと言えば懐疑的に見てしまう傾向のある私が、ご利益のようなものを感じるものなのか? これは、もしかしたら人為的な何かがあるのかもしれない。そんなことから下り参道行脚が始まりました。
人為的な力が働いているとしたら、それは何なのかに興味を持ちました。物事には、必ず意味や理由がある。そして、自分が何かを感じるということは、それを感じるための背景があると思いながら生きてきたということに向き合わされたように思いました。
ハッとさせられて、世界が違って見えたこと。そこに神の存在と結びつけて考えてしまいそう。しかし、これは、何等かの仕組みによって誘導された結果なのかもしれないと思ってしまいました。
参拝によって、世界観が変わったと、一瞬、自分自身の感覚で感じとったと思ったのに、それは人為的な力が働いているかも・・・・
自分で感じたことにまで、疑問を持ってしまうことに、おかしくなりました。
(宗教って人を信じさせるために、様々な心理的な技術が長い年月をへて蓄積されていると思っていたことが露わになりました。現皇后様が神事に対して意味が見いだせないために悩んでいたという話を聞いたことがあります。その感覚がちょっとわかる気がしました。なぜ? それはどんな意味があるの? それはどんな理由で? と常に考えてしまう人にとっては、謎だらけの世界です。どう理解したらよいのか戸惑います。)
意味を見出そうとする傾向があると「下り坂がめずらしい」と言われても、納得できないのでした。
勢溜のあたりが、地形として高くなっている。ここには、人の心をつかむ作戦があるのかもしれない。
下り参道が珍しい。確かに全国的に珍しいのだろうと思います。しかし、なぜ、そこでは下りとなったのか・・・ その理由を一つ一つ、探ってみました。
調べてみたら、理由なんて本当はなくて、後付けされたり、信仰を深めるため、引き付けるためのお話だったという認識には変わりはありませんでした。
しかし、そのような土地に社が建ったという歴史。その歴史は土地が持つ力が、人の心をつかんで今に至ったのだということについて、宇宙の奇跡のようなこととして、捉えています。
今後、神話、神道を理解する上で、なぜ、なぜという疑問を呈することが、ネックになるりそうな予感を感じつつ、それを超えた力の存在も想像されます。
■出雲大社関連(ブログ内)
■脚注・補足
*1:■勢溜り大鳥居から神門通り、宇迦の大鳥居を臨む
〇山陰旅行島根・・・出雲大社・遠くにある白い鳥居と相呼応
〇出雲大社・・・眼下の視界がパッと開け、少し爽やかになったかのような錯覚
〇出雲大社 | 一人旅の旅行記・・・振り返って駅方向
〇出雲大社:出雲詣 その3 - 常温常湿希望
・・・振り返って神門通りの先に一之鳥居(宇迦橋の大鳥居)
〇2017年 山陰本線とサンライズ出雲旅行記7: PUPUPUKAYA WORLD
・・・・勢溜鳥居から神門通りを見る。遠くに宇迦橋の大鳥居
〇縁結びの最強スポット 出雲大社参拝ガイド|神社.com⇒夕暮れ時
・・・ガイドおすすめ一押しビュー
「勢溜の大鳥居の手前には神門通りが続いています。そのさらに先には一の鳥居である宇迦橋の大鳥居があるのですが、この場所からは勢溜の大鳥居の中に宇迦橋の大鳥居がすっぽりと入って見えます。まっすぐ参道が続いているのが見てとれるこの眺めは、何度見ても飽きません」
〇旧暦10月の神在月に八百万の神様が訪れる出雲大社 お参り方法やパワースポットは? - 旅ログ グルメ情報&おでかけ情報・・・下り参道中腹から
〇2017.08.31 神門通りと出雲大社 早朝散歩 ・・・勢溜(せいだまり=参道入口附近)の木製鳥居から神門通りを見る
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〇特集 神社へ ・・・二の鳥居のはるか向こうに一の鳥居(大鳥居)
〇公共交通での旅 第7弾【出雲満喫編】 ・・・勢溜の鳥居から神門通り。この景色は必見