パナソニック汐留美術館の「ルオーと日本」が6月5日より6月23日まで開催。一か月を切る期間ですが、近代から今まで日本人がいかにルオーを受け入れ影響を受けたかを紐解く展覧会。日本をキーワードにルオーの新たな側面と出会えます。
インターネットミュージアムに、レポートしました。御覧いたけましたら幸いです。
パナソニック汐留美術館「ルオーと日本展 響き合う芸術と魂ー交流の百年」 | レポート | アイエム[インターネットミュージアム]
記事内では、ルオーが日本から受けた痕跡をさぐることに重きを置きました。
以下、記事で紹介できなかった補足や、感想などをご紹介します。
■展覧会のコンセプト
今回の展覧会のコンセプトは、新たな視点を随所に加えるという点にあります。従来はルオーから受けた日本側の影響にスポットが当てられる展覧会が多いのですが、今回は「ルオーから日本へのアプローチ」を顕在化している点が注目すべき点です。
2020年は、オリンピック開催の年でした。新型コロナの影響で中止になってしまいましたが、パナソニック汐留美術館では、この年の企画展のテーマが「日本」となりました。
ルオーがなぜ、日本人の心をつかむのか。これまで20回に及ぶルオーの展覧会を開催してきた美術館として、「日本」との関係を掘り下げる展覧会となっています。
2018年「ジョルジュ・ルオー 聖なる芸術とモエルニテ」の開催時に行われた、ポスターで振り返る「ジョルジュ・ルオー企画」より
■苦手意識も多いルオー
「日本人の熱烈なルオー人気」と喧伝される一方で、ルオーに苦手意識を感じる方も、意外に少なくない印象を受けます。私自身も、ちょっと、というより、かなり苦手な画家でした。
トレードマークの黒い輪郭線、厚塗り。これらは奇妙でどこがいいのか、全くりわかりませんでした。(ルオーを理解できないのは、どこか知的レベルを問われているような印象を持ったりしていました(笑) 美術館スタッフの方でも、当初よくわからなかったという話を伺い、ちょっと安心したり・・・・)
しかし、何度か目にするうちに、噛めば噛むほどではないですが、何かわからない味わいのエキスが染み出てくるのを感じるようになりました。
今回の展示は、苦手意識を持っている方に、ぜひおすすめしたい展示でもあります。「日本」と「ルオー」という関係で見ることで、これまでとは、全く違う世界を感じさせてくれます。ルオーの印象を変えるきっかけになると思われる展覧会です。
「ルオーって日本を参考にしていたの!?」という新しい着眼点の提示は、これまでの苦手意識を、ひっくり返してくれそうです。
■ルオーと日本の相互発見
〇日本におけるルオーの受容
展覧会では、日本の画家が、ルオーからどのような影響を受けていたかについても、明らかにされています。ルオー(1871-1958)が初めて日本に紹介されたのは、梅原龍三郎が、1921年にルオーの《裸婦》を購入して帰国したことから端を発します。
約100年前、日本は大正から昭和へと時代が移り変わる頃。力強い線、輝く絵肌は、日本の洋画家の心を捉えました。
数々の洋画家たちに様々な形で、影響を与えました。近代洋画を代表する画家から現代作家まで、いかにして、日本はルオーを受け入れてきたかを、壮観することができます。
〇太く黒い縁線は何?
当初、違和感を持っていたルオーの黒い輪郭線。
これは「ステンドグラスの枠組みだ!」と気付いたのは、鑑賞後に見た、ロビーの映像がきっかけででした。14歳でステンドグラス職人の弟子になったことが紹介されたとたん「あの黒枠は、ステンドグラスの枠だったんだ!」と納得しました。
ステンドグラスの影響を受けたということは、周知のことのようで、ルオーを知る人にとっては、いまさら感があるかもしれませんが・・・・ ルオーがステンドグラス職人だったことは、知っていました。しかしルオーの輪郭線にステンドグラスを感じたのは、今回が初めてです。これは、展示内容が大きく影響したと考えられます。
プロローグで、ルオーの黒い輪郭線と、墨蹟を重ね合わせて見るという視点が提示されました。これまで黒の輪郭線は、ルオーの特徴的な太い線としか思っていませんでしたが、墨蹟と捉えることもできるというのは斬新でした。
全く関係のない水墨画と対比させて、その中に共通性をみつける。という見方が、ステンドグラスの枠と黒い輪郭線をつなげました。
〇ルオーの中に見える日本
トレードマークの黒い輪郭線に、水墨画の墨蹟を重ねると、同化する瞬間に遭遇します。塗り重ねたボテボテとした印象の強いルオーですが、今回は、人物の背景の青に透明感を感じました。
透き通るような水がイメージされ、心が洗われるような気がしました。墨で描かれた水墨画が、濃淡を重ねて水を表現することに通じるものがありました。
面長な顔は、平安美人をイメージさせます。そして、以前、日曜美術館で、書家の紫舟さんが、「西洋画では人物の鼻を、陰影で表現するけども、日本画の鼻は筆の線で表します。日本画は『線』の文化」と語っていたことが思い出されました。ルオーは、鼻を陰影でなく、黒い線で表してる! 日本の線の文化の影響があるってこと?
そして、透き通るような青を眺めていると、その奥の奥をみつめているような感覚に。これは、禅の内省的なことにも通じているのではないでしょうか?ピエロの衣装は白地に赤。もうこれは直観的に、日の丸を連想せざるえません。(笑)
ルオーは、西洋絵画とも、一線を画している印象を持っていました。ところが、今回は、そこはかとなく日本が感じられる不思議な感覚をいだきました。新たなルオーと出会えるチャンスです。
〇日本の影響をルオーは受けていた?
ルオーは、実際に水墨画から影響を受けていたのでしょうか?
白隠や富岡鉄斎の水墨画を並べて展示されています。それらを見ていると、確かに水墨画がルオーに影響を与えたように感じられます。しかし、関係性は、全くないと伺いました。せっかく、ルオーの中に日本を見つけた気分になっていたので、拍子抜けしてしまいました。
日本の浮世絵が、西洋の画家に影響を与えたジャポニスムのような、相互関係を認められるものは、みつかっていないそうです。
ただ、ルオーが日本の浮世絵を写したり、日本でおこった関東大震災を気にかけている書簡などから、日本に対して関心を寄せていたことが、展示を通して浮かび上がっています。
〇ルオーと水墨画の類似性
関係性は全くないとは言っても、ルオー作品と水墨画の類似性や同質性は、ルオー研究において、かなりの頻度で見られると言います。
・哲学者 谷川徹三が富岡鉄斎と比較。
・武者小路実篤は、日本の宗教畫を見るような味があると語る
・白隠コレクター山本發次郎は、白隠の表現の深さをルオーの線の深さで論じる
また、出光美術館のコレクションの礎を築いた出光佐三氏もルオーの中に水墨画を見た人物です。晩年、白内障だったにもかかわらず、ルオー作品の線の中に、仙厓の墨絵に似ているものを感じ、購入を決めたという逸話もあります。
今回出品されているマコトフジムラ氏が、禅書家に西洋の芸術家で最も尊敬するのは誰かを尋ねたらルオーだという答えが返ってきたという話も図録の寄稿で紹介されていました。
多くの人が、ルオーと日本との関係を感じています。双方向性があったことは十分考えられると思われます。具体的な裏付けは、今後の調査によって明らかにされていくだろうろのこと。
■コレクター福島繁太郎とルオー
〇ルオーが福島繁太郎のもとへ
梅原がルオーと出会い、コレクターの福島繁太郎も、パリでルオーと出会い衝撃を受けました。作品を買い集めていたところ、それがルオーの耳にとどきます。
自分の絵を集める日本人に興味を持ち、会ってみたいと思いました。その時に描いた絵がこちら。「この絵を見て欲しい」と福島の家を訪問したと言います。
太くたけだけしい線。浮世絵を思わせる。武士の気迫に満ちた表情が、素早いタッチによる黒い線で巧みに とらえられる。と評される《日本と武士》
〇ルオーが描いた武者絵の秘密
ルオーが日本の武士を描いていたことにまずは、驚きました。その一方で、武士のフォルムが、馬の躍動感に比べて、おまけに描いたようなアンバランスさを感じたというのが率直な感想でした。
武士というモチーフを描く機会があまりなかったから? お手本も少なかったのだろうと思っていたところ・・・・(ルオーに大変失礼ですが・・・・)
鑑賞後、ロビーで上映されている映像を見ていたら、福島に会うための口実で描いた絵だったというエピソードを知りました。個人的には、武者絵から最初に感じさせられた「とりあえず描いた」という印象と一致したように思いました。
(ちなみに、ルオーのお手本については、師であるモローが日本美術研究で収集したものを見る機会は、あったと考えられるとのこと。今回、モローが描いた《日本の歌舞伎役者》が展示される予定でした。ルオーが日本の版画を写した作品が3点とともに。それぞれがパネルで展示されてます。)
〇福島とルオーの交流と、日本への橋渡し
ルオーは、福島と意気投合したのでしょうか? 毎日、夕方になると訪れ、そこで絵を描き、ルオーの描く技術を披露しました。福島は、制作過程を身近で見たり、技法の説明も受けていました。一説によると、ルオーは納得していない絵を、描き直していたとも言われているようです。
人前で描くことが、ほとんどなかったそうなので、いかに心を許していたがか伺えます。そして、この交流は、評論家でもあった福島が、ルオー芸術の神髄を日本に伝える上でも貴重な体験になっていたと考えられます。
■ルオーと宗教画
〇ルオーの宗教画は、キリスト教美術ではない?
ルオーというと宗教画、キリストのモチーフを思い浮かべます。しかし、描いたのは、「キリスト教美術」とは違うというのは、意外でした。
ルオーの描く世界は、キリスト教的な宗教画なのではなく、信じるという行為によって生み出された高貴な精神性を描いているのだそう。
大正から昭和の日本に紹介されたルオー。日本人にはなじみのないキリストの宗教画も多い中、なぜ、受け入れられたのか、疑問に感じる部分ではありました。
さらにルオーの評価を決定づけた展覧会が開催されました。1953年(昭和28年)東京国立博物館で行われた「ルオー展」です。日本の鑑賞者に驚きと称賛を持って迎えられたと言います。
ルオー自身は敬虔なカトリック教徒ですが、宗教を超えて、信じる者に伝える祈りの光を放っていたのでは?と感じました。
純粋に信じる心に宿る祈り・・・・
始めてルオーを見た友人の感想。キリスト教ではない別の宗教を信仰しています。
「この絵、光を感じる。暗闇の中に差し込む光。これいいと思う‥‥」
「この色がなんとも言えずいい。希望の光のような・・・・・」
「芸術のよさは、宗教の違いは関係ない」
素敵・・・・と見入っていました。全く違う宗教なのに・・・と、不思議でした。今、その意味がやっと分かった気がします。
〇信仰を超えるもの
信仰を超えて伝わるものがルオーの世界にはある。また、信仰を持たない者にも、伝わってくるということもわかりました。
それは、これまでに感じたことのなかった透明性でした。厚塗りイメージのルオーなのに、透明感が感じられて不思議な感じがしました。そこに光と、何か言葉で表せない何かを感じたのでした。
参考:以前行われたルオー展で、同様のことが担当学芸員より語られていました。
ルオーの「聖なる芸術」は、普通に私たちが思い浮かべるキリスト教美術とはまったく違います。それは、教会のために絵を描くといったこととは切り離された聖なる芸術です。高貴な精神を介して生み出された信じる者による芸術こそ、ルオーが考える「聖なる芸術」なのです。ルオーは、敬虔なカトリック信徒でしたが、あくまでも自分は画家であるという立場を崩さず、キリストの受肉や受難、底辺に生きる人々など、個人的なテーマを描いています。そこには、信仰を持たない人でも、何かを信じる人ならば心に感じるものがあると思います。
〇ルオーの透明性
ルオー中期の油彩画では、不透明な下塗りの上に、透明な塗を重ねる技法で、透明性の高いマティエールを生み出していたという解説を見ました。
上の絵の背景の青に吸い込まれそうな透明感を感じました。このピエロは、1925年の作品です。ルオーに重層的な透明画法が見られるようになったのは、1934年前後からとのこと。その9年ほど前の作品になります。
■ルオーが放つ光は、今も生きる
〇日本人をとらえる精神性
見えないものを見る力、形のないものを超えて響かせていく・・・・ なぜか「心頭を滅却すれば火もまた涼し」の言葉が浮かびました。日本人の心の中にある、自己を見つめる力。そんな力が、ルオーが放つ光と呼応して、受け入れられていったのではないかと・・・
ルオーを見る回数を重ねるごとに、違う光を感じられてきたように思います。今回も別の場所から、光を放っていました。
〇闇からの救い
ルオーの日本での受容は、芸術家だけでなく、文化人の役割も大きかったように感じられます。遠藤周作は暗い心を救うために、ルオーの絵をよりどころにしたそう。
また、現代美術家のマコトフジムラ氏も、闇の中からルオーによって光を見出したと言います。
「出口なし」なし部屋の中で、まるで逃れられそうにない場所から外を見ることを可能にしたのだ。彼の絵画は私の存在さえしらなかった現実へと通じる小さな窓だった。
引用:ジョルジュルオー ー21世紀最初の芸術家ー マコトフジムラ 図録P18
〇現代作家が引き継いだルオーの光
ボストン生まれの日系アメリカ人のマコトフジムラ氏。東京藝大で日本画を学んだ現代作家です。何層にも重ねられた岩絵具。粉砕された鉱石はプリズムのように光る粒子となります。
重ねることによって生み出されるマティエール。重ねた中に埋め込まれていく光。まさしくルオーが絵具を重ねることで得られる作品の効果に通じるものがあります。
《二子玉川園》と題した、作品は、留学中に過ごした場所であり、信仰に目覚めた場所だそう。アーティストの心の葛藤が、ルオーによって励起状態となり、投影された幻想の世界のようです。
重ねた岩絵具から漏れ出してくる光が、祈りへと昇華されているのだと思いました。自己と向き合い対話することで見える光は宗教を超えてもたらされるのだと。⇒(*1)
〇闇の中でみつける光
遠藤周作が闇の中で光を求めたように、現代作家も行き場のない空間から光を求める。今、私たちも、コロナ禍という闇の中でさまよいながら、光を求めている状態であると言えます。そんな時だからこそ、ルオーが放つ、かすかな光が、祈りとして捉えることができるのかもしれません。
マコトフジムラ氏は語ります。ルオーの光は、内相的で描写的な光だけではなく、光の背景にある光、現実の背後にある現実もとらえているのだと。
自己と向き合い、内面と対峙することは、日本の精神性と響き合うのかもしれません。禅問答のようにひたすら考え続けることで見えてくる光。
厚く塗られた色彩の奥底に潜んでいたり、塗っては削ることで得られる透明性の中に見えたり。コロナ禍の閉塞した状況だからこそ、国や時代、場所、宗教や信条を超えて、捉えることができるのかもしれません。ルオーが埋め込んだ光をみつめていると、未来や、希望も見えてくるのかもしれません。
ルオーの光と祈り、探してみませんか? 3章は写真撮影可のコーナーがあります。
3章 会場風景
3章 会場風景
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*1:■光をとらえられない!
この絵の中に潜む光。光を放っているような気はするのですが、実は、はっきり捉えることができないもどかしさが・・・・ しばし、佇んでいたのですが、今の私にはキャッチすることができませんでした。きっと、自己との向き合い方が、足りないのだと思います。ルオーも何度か見て、やっと光が見えてきました。また再開する時のお楽しみに。時と場所が変われば、また見え方も変わるはず。次の出会いに期待・・・・