「マルセル・デュシャンと日本美術」 頭に浮かぶよしなしごとのメモ
- ■美術は美しいもの ⇒ 考えるもの
- ■美はオリジナル 自作でないといけない?
- ■アンデパンダン展出品 否決の状況
- ■そもそも便器を形にすることについて
- ■便器と茶碗の共通性?
- ■デュシャン展について キュレーターインタビュー
- ■デュシャン展 メディア関連
- ■Twitterより
- ■多様性を認める
- ■鑑賞法
- ■本質メッセージ
- ■アートをいかに学ぶ?
- ■美とは何か
- ■写真撮影のとらえ方
- ■(追記:2018.12.16)デュシャン展についてあれこれ
- ■関連
■美術は美しいもの ⇒ 考えるもの
・便器が美術か?
・それは投げかける人の背後の実績にも影響
・デュシャンがそう言うならそうなんだろうと思わせる何か。
・自称 と 世間の評価
・ライターは誰でも名乗ることができる。
・名乗ってもそれを認めるのは世間
・どういう活動をしていたらライター?
・「美術家」「アーティスト」「評論家」「ジャーナリスト」なども同様
・ビートたけし談:芸能人の「引退宣言」はおかしい。引退は世間が決めるもの
■美はオリジナル 自作でないといけない?
・ウォホールだって、工業製品をポスターにしてる
・そんなこと、とっくにウォホールがやってる
・そんな価値観、昔からある。目新しくもなんともない。
・組み合わせによる価値の創造なんて日本は昔からやってること
・私の中の認知度はウォホールが高い。デュシャンよりも先に生きてる人
・美術史を知らないと前後関係がごちゃごちゃ。
・先に知った人の方が時代が早いと誤認
・美術や創作物に純粋なオリジナルなんてない
〇デュシャンの影響は、ビジネスにも
上記より引用
実態や機能よりコンセプトやコミュニケーションが尊ばれ、既存のものを組み合わせる編集は新たな価値を創造する手法として確固たる地位を占め、オリジナルと複製の差は、テクノロジーの進歩でますます曖昧になり、SNSや画像投稿サイトの登場でアーティストと観客という主体論も既に無意味なものに見えてきてしまっているのが、今の世の中だ。
デュシャン の影響は芸術分野に限らない。デザインなどのクリエイティブな分野はもちろん、アートとはほど遠いビジネスの分野まで、世の中のすべてのフィールドは デュシャン の手の内といっても過言ではない。
既存のものとの組み合わせ、編集による新たな価値を創造。そんなの日本のお家芸じゃない!と思ったけど、これらもデュシャの影響だったということ!?
〇デュシャンとアンディーウォホールの作品からの考察
人類の価値観への問題提起、
「それによって人々が既成概念から解き放たれる」
「既成の価値観」へチャレンジ
鑑賞とは?
有名美術品を観て感想を言ったり書いたり、ってなことは
ほんの一部に過ぎないよ、
より深い体験を、と、
今日の人類の価値観があるのは「これだ!」って、
ディスカッション。
■アンデパンダン展出品 否決の状況
〇否決の経緯
・アンデパンダン展の審査では、全面的に否定されたという印象をうけた
・ところが、図録p67では、下記のように書かれていた
伝えられるところによると、役員は《泉》の可否について議論した後、評決することにした。その結果、僅差でこの彫刻の展示は否決されたので、アレンズバーグとデュシャンはすぐさま講義して役職を辞任した。
・否決は「僅差」だったという。どれくらいの差だったのか? 審査員は何人?
・ここでの議論はどんな見解が出ていたのか?
〇どう伝えたのか
・デュシャンは、この事件を具体的にどう表現して語っていたのか。原文は?
・本人の言葉だとしても、そこに誘導や、恣意的なものはなかったのか?
・そしてこの逸話を後世に、伝える側にも・・・・
・原文が読めないと、訳者の意図にも影響を受ける
作品名《泉》もそう。Fountain の訳語としては「噴水」が妥当だという話があるらしい。これは誰が訳したのでしょうか。訳者はなにがしかの意図をもってあえて「噴水」としたのか・・・・ あるいは、単なる誤訳、勘違いなのか・・・・ そんな話の一方で、「泉」が適切という話もあるようです。
(参考⇒『百年の《泉》 便器が芸術になるとき』 : Living Well Is the Best Revenge)
平芳はFountain の訳語として「噴水」でなく「泉」が適切であると説く。すなわち男性小便器とは「男性器から出される液体を受け止める場所」として女性器のメタファーであるからだ。
訳されたものにはなにがしかのバイアスがあると思うようにしている。その一方、原文を読めたとしても、それを真の意味として理解できるかといったらまた、別の問題でもある。
〇真実はどこにあるのか?
・作品は展示されず、バックヤードにあるのをデュシャンが見たという話し
・デュシャンはバックヤードに展示されていたことは知らず、あとで聞いたという話。
・また、これは自作自演だという話も。もともとなかったということなのか?
・何が本当なのかわからない。
・本人の言うことさえも信じられない
〇審査側の見解は?
・この時に審査に当たった人たちは、この審査のことを残していないのか?
・その言葉や文献には何が書かれているのか?
・デュシャンを神格化し、孤高に祭りたてているような・・・・
・それは本人も、回りも…
・「僅差」ということは、多くは認めていたということでもある。
・なのに、否定されたことばかりがクローズアップされている
・それもデュシャンの仕業なのか(笑)
〇協会がメディアに声明を出す(図録p63)
・どうみても芸術作品ではない。(要約)
・これによって、協会全体が否定したということになってしまったようだ。
一方、一般の人は《泉》を見ていない。撮影された写真を通してだけ。その写真は、、協会の《泉》に対する言動を批判する人、《泉》の支持者の議論を掲載する雑誌で取り上げられた。この雑誌での論旨は…
1.ユーモアは鑑賞者の芸術観を揺さぶるのに不可
2.何が芸術なのかを決めるのは芸術家次第
3.フォルムの美しさと純粋さを評価すべき
一方の立場からの見解がだけが、取り上げられているため、情報に偏りがあるといえる。しかし、論旨は納得できる話。
デュシャン大喜利は、芸術観を揺さぶるための仕掛けだった?
本質のインタビューに元お笑い芸人さんがいたのもその関係?
便器のフォルムって、ほんと美しい造形だと私も思った。
■そもそも便器を形にすることについて
〇世界のトイレ事情
・世界のトイレの歴史をさかのぼると、外や川に垂れ流し。
・その後、汲み取りそして、下水道の整備により、水洗トイレに至る。
・垂れ流し状態、汲み取り状態から、下水という技術のエポックメイキング。
・これまでとは全く違う捉え方の、形、構造、仕組を一から構築
・新たな造形が求められる。
出典: 世界@日本:快適さ求めて 各国のトイレ事情 欧州/インド/中国/日本 - 毎日新聞
・技術革新によって、全く違うものを創造することは、美術作品を作ることに匹敵しているのではないか。
・文化庁長官、科博「日本を変えた千の技術博」でのあいさつ。
「科学技術の外側にはデザインがあり、一体となったとき素晴らしい感性が生まれる」
・便器の形はデザインであるかもしれないけど、技術革新に伴って根底から見直されて創造されたアートといってよいと思った。
・デュシャンが便器を、アートだと言っても何の違和感も感じなかった。
・ただ、その時代がいつ頃の話かは気になったけど…
・この形を創出することはクリエイティブな作業だし、それは美だと思う。
・機能を併せ持った造形の秀逸さ
・機能を全うするために考えられた無駄のない造形は美しい
・そして選ばれた素材も
〇便器をデザインすることについて周りの感想
・美術鑑賞が好きだという知り合いにデュシャンの便器について尋ねてみた。
・過去に医療工学の研究をしていて、今は美容部員。そして担当の美容師さん・・・・
・「あの便器の形やデザインを考えること自体がすごいことだと思います」と。
・それまで、垂れ流しや汲み取りだった便器を、0から全く違う概念の形にしてる
・何かを作りだす人の捉え方なのか?
・便器はアートだと疑いもなくすんなり受け入れる人が回りにはいた
〇日本のトイレ事情
江戸までは汲み取り式 肥料に
・江戸時代までは、糞尿は肥料に利用。そのため汲み取り式
・腰かけは明治に入ってから 水洗は輸入
■便器と茶碗の共通性?
私なりに思ったこと。
・便器も茶碗も陶器。便器の作り方を見ていたら全く同じ。
・土を捏ねて成型し、釉をかけて焼く。
・両者ともに器の型をしており、そこに一度、水様性の液体が入る。
・そして外に出ていく。
・便器はいまだに陶器で手作り(?)されているという
・なぜ、陶器が使い続けられるのか。釉の役割は?
・一度、水を入れるものに求められる性質は? ⇒撥水性、防汚性、強度。
・釉がその機能を担う。
・目的や用途は違う、茶碗、便器だけど、そこに共通して求められる機能(?)がある。
・それを陶器という素材が果たしている。・・・・と思ったら
・長次郎の焼き物は、いわゆる陶器とはちょっと違うらしい。
そういえば、TOTOに勤めていた友人がいたんだっけ。
便器をどうとらえていたのか聞いてみたら、茶碗やカップっと一緒って言ってた。
やっぱりそうなのか・・・・
〇陶器という材質について
便器に必要な条件
①頑丈であること
②清潔であること
③水を吸収しないこと
④流水する仕組みが作りやすいこと
この条件に合うのが陶器
〇便器の作り方 職人技
TOTOの前身は食器を作っていた
衛生陶器の製造は、工程のほぼすべてにおいて人の手がかかっています。
それはまさに、熟練の職人技によってつくりだされる焼き物そのもの。今を遡ること1世紀、上下水道も整備されていない時代に「健康で文化的な生活」を提供するために起業したTOTO創立者の熱い思いが、この衛生陶器にはこめられています。
■デュシャン展について キュレーターインタビュー
〇フォーサイト編集部
・今回の展示は、フィラデルフィア側から選ばれた
・東博がこれまで協力してきたことへの返礼の意味もあり
「東京の数ある展示施設の中から当館が選ばれた背景には、幅広い客層にデュシャンの作品を見てもらいたいというだけでなく、返礼の意味合いもあります。東博とフィラデルフィア美術館は明治時代から交流を続けており、近年も『本阿弥光悦』展や『狩野派』展が先方で開催された際、当館がお手伝いをした。日本国内の美術・博物館や個人所蔵家を回って展示品を集めたチームの1人が、実は私なのです。それ以来“今度はデュシャン展を当館で”と言い続けていたところ、念願が叶いました」
フィラデルフィア美術館は、あのアメリカ建国百周年を記念したフィラデルフィア万博(1876年)の際、建設されたメモリアルホールが起源。日本が万博初参加したウィーン万博1983年の3年後。この時、日本からも出品。
引用:1876年フィラデルフィア万博 | サムネイル一覧 | 博覧会―近代技術の展示場
日本の作品も、浮世絵4000点以上を含んだ版画5000点、絵本・画帖100点余を所蔵している[2]。
〇TBSラジオ『荻上チキ・Session-22』
ラジオの中で、
ラジオの中で、「日本が万博に出品した時には、まだ日本美術を理解されていなかった」のくだりで、万博? ん? と思っていたが、フィラデルフィア万博のことだったとつながる。フィラデルフィアの美術館、東博の成り立ちが、万博や内国勧業博覧会とと関連していたように、フィラデルフィア美術館も万博に関連した似たような歴史ががある。明治の時代から、東博、フィラデルフィアの交流があったという背景を理解。
日本の美術をデュシャンを通して、世界に発信する意味あり。
〇20代の問題解決メディア
アートの「考え方」や展覧会についてのお話を聞くセミナー開催。
芸術の秋だから。"考える"アート入門~特別展『マルセル・デュシャンと日本美術』~ | WIZOOM-ウィズム-│20代の「知りたいコト」を発信する情報メディア
日本美術とデュシャンの芸術に関わりはありませんが、日本美術に現れたものがデュシャンが提示した方法論と似通っているように見えるものもあるのかもしれません。
日本とデュシャンは、かかわりがないよ・・・・とキュレータは言ってます。
〇J-WAVE NEWS
キュレータの解説を聞きながら貸し切り展覧会が行われたレポート
購入してきた既製品にサインをして、芸術作品として「意味づけた」ことが、人々に大きな衝撃を与えたそう。デュシャン本人は既成概念を壊す目的はなかったのかもしれませんが、「ミケランジェロのような芸術家が自らの手で作った唯一無二の作品を鑑賞することが、それまでの芸術でした。そのなかで、デュシャンはモノを作るということではなくて、作家がモノを選ぶ行為自体を芸術制作としたわけです」
これまでの芸術は、自分の手で作った唯一無二の作品を鑑賞することだった。
デュシャンのあとの芸術を見てしまっていると、そんなことは当たり前のこととして受け入れている自分がいた。「美術は、唯一無二のものを自分で作らなければならない」と考えられていたという歴史を知り、逆にそのことに驚いてしまったという逆転現象が自分の中でおきていた。
■デュシャン展 メディア関連
〇新聞 和と洋 文脈を超えた比較で問う
「便器をアートに変えた」「アートを何でもあり」 という誤解
昨日の #エクスマ劇 の冒頭で教わったデュシャン。研修が終わって自宅に戻ると新聞記事にも特集されていた。ますます興味が深まる… #デュシャン #レディメイド #千利休 pic.twitter.com/J7GVNOvN3g
— 山本やすぞう☆大河ドラマ税理士 (@yyamamotokaikei) October 25, 2018
〇10月12日東京新聞夕刊文化面「マルセル・デュシャンと日本美術展」
誤解は広がる
世の中に「現代美術嫌い」っていう人がいるけど、そういう人に読んでほしい美術評。
— 鈴木薫 (@xunkrs) October 12, 2018
黒瀬陽平「マルセル・デュシャンと日本美術展」。10月12日東京新聞夕刊文化面。 pic.twitter.com/66PKBHlB8P
10月12日東京新聞夕刊文化面
〇なぜ《泉》ばかり
作品関連のメモ群や習作絵画群とともにいくぶんコンパクトにまとめられた《大ガラス》のセクションの左側、長い展示室のいちばん奥に男性用小便器は重厚なガラスケースに納まって鎮座している。左右の壁際には《瓶乾燥器》などのレディメイド作品が並び、いわばすべてが《泉》に収斂していくように空間がデザインされている。
すべては《泉》に収斂してる?
予備知識なく「デュシャン=便器」と思いながら鑑賞。展示された便器を見た時、あれ?こんな端っこに押しやられてポツリンとしてる。この展覧会のメインアイテムのはずなのに、こんな扱いでいいの?って思った。メインコンテンツが、随分と、端っこに押しやられてしまったもんだわ!って・・・・
そう感じた印象をとらえていた一枚。だから、これまで見てきたものが《泉》に収斂されているとは全く感じない。
そのあと、会場のモックアップを見て、中央の壁構造が、こういう状況を生んだんだと理解。あれ? と思ったことは、やっぱり何か理由があるもの。
デュシャン=泉という図式も鑑賞者の受け取り方次第で、泉を中心にした展示だなと感じるのも「あなたもデュシャンといったら泉だと思っているのでしょう?」ということも言えてしまうんじゃないか……と思ったり思わなかったり
— 🐣とりこころ🐣 (@torikokoro) November 22, 2018
見る人によって、捉え方はいろいろ。初心者は「デュシャン=泉」と見てしまうのは確か。しかし、実際に見たら、いろんな捉え方があって、見た人の数だけ受け止め方がある。初めて見る側も、一律ではない。いずれの側にも、先入観がありそう。
有名な便器が!
この作品に足を止める人は少なかったです。
そうなんです。私も、それ、思いました。話題の便器なのに、人がいない…
(最初のころだったからかもしれませんが‥‥ 結構、素通りされているんです。)
〇 フィラデルフィア美術館館長へのインタビュー(追記:2018.12.16)
(中尾拓哉:美術評論家で『マルセル・デュシャンとチェス』の筆者)
私はいつも自分自身にこう問いかけています。いま、デュシャンが本当に必要とされている場所はどこか、(略)一般の方々、アーティスト、研究者、そしてまだデュシャンの作品を見たことがない人たちに向けてデュシャンを紹介するために、アジアで展覧会を行うことはとても有益だと思いました。
東京国立博物館の方から「アイ・ラブ・デュシャン」、「日本でデュシャン展をやりましょう」と言われました。私たちは当時、日本やアジアの美術について交渉していたのですから、そこでデュシャンが出てくるのは普通のことではなかったかもしれませんね(笑)。そして、「デュシャンの作品が持つ側面と日本美術を関係させたデュシャン展をしたい」という提案をされ、とても良いアイデアで、面白いと思いました。
ラブ そうですね。ただ、この展覧会はデュシャンと日本の関係について考察するものではありません。(略)デュシャンと日本のあいだにある歴史的な関係性を見せるということではなく、日本美術あるいはデュシャン作品と共振する日本の芸術的実践の、ある側面についての展覧会
フィラデルフィア美術館館長も、日本とデュシャンは関係ないと言ってた!
〇トークイベント 登壇者ブログ
〇文春オンライン
《泉》が公開されたときには、非難の声が巻き起こったという。こんなのはただの既製品で作者は何も創造していないし、何より下品じゃないか!《泉》を巡る議論は、デュシャンの自作自演という話もあるほどで、彼の虚実ない交ぜの企みはどこまでも深くて複雑だ。なんとも「食えない人物」である。
自作自演の根拠、出典は?
⇒デュシャンの自作自演という話もあるほどで・・・・
こちらの出典はどこ?
⇒彼の虚実ない交ぜの企みはどこまでも深くて複雑
断定できるのか?
私が気になったところは以上の点でしたが次のような指摘も。
特に野心的な解釈や新しい切り口のないただの「解説」なら、まともな研究者か批評家に書かせればいいものを、こういう怪しげなライターのところに仕事が行ってしまうところに、美術批評の衰退を感じる。自戒も込めて。(ちなみに、この解説はかなりかなりテキトーです) https://t.co/a4t87vIyZM
— 黒瀬陽平 (@kaichoo) October 6, 2018
・上記の記事の具体的に、どのあたりが、テキトーなのか知りたい。
・仕事が来るということを客観的に判断したら…
・編集が想定している読み手が求めそうな記事を書く人
・読者が読みたたい記事とは?
・専門家 研究者の最新情報とは限らないかも
・専門家が読みたい記事と読者の求めるもののギャップ
〇 「と日本美術」を付け足して東博らしさを出したつもり……かな?
日本美術はオリジナルに価値を見出さず、代々コピーを繰り返してきたと指摘していた。それはそれで間違いではないけれど、いまさらデュシャンと同じだと新発見したように喜ぶものでもないだろう。日本美術がまだモダナイズされていなかっただけで、デュシャンはモダンアートを否定した結果、図らずもプレモダンに近づいたというだけの話だ。
デュシャンと日本美術の共通性を新発見したというようには思えなかったけど…
もうひとつ私見ながら付け加えると、日本美術にはトンチの系譜が息づいている。利休もそうだし、仙厓も芦雪もそう。戦後では河原温をはじめ、高松次郎、赤瀬川原平、関根伸夫と、みんな発想がトンチやトリックではないか。むしろそこがデュシャンと通底しているように思えるのだ。
・お互いが理解できなくなった時、笑いに変える。
・デュシャンも「ユーモアは鑑賞者の芸術観を揺さぶるのに不可欠 」と。
・学ぶ上で、孤独になっても、ノリやユーモアで乗り切れと。
(3ページ目)気鋭の哲学者・千葉雅也の東大講義録 #1「勉強とは何か」 | 文春オンライン
・デュシャン大喜利、元芸人さんへのインタビューはこのあたりからの布石?
■Twitterより
〇いつの時代も人が考えることは同じ
東博の「マルセル・デュシャンと日本美術」みた。・・「遺作」も「大ガラス」もなかったので「充実したワキ役」による展覧会、という感じか。あと、日本美術と比較されてたが、そもそも、デュシャンは全ての芸術を包摂しているので、ルネサンスでも古代ローマでもポップでも、何とも組み合わせられる。 pic.twitter.com/wMv87Gd0Dv
— 布施英利(ふせ ひでと) (@fusehideto) October 3, 2018
デュシャンが全ての芸術を包摂しているかどうかは知らない。でも、組み合わせは自由なんじゃないかと私も思った。
〇デュシャンの考えるこはとデュシャンにしかわからない
東博でデュシャン見てきた。人間の歴史の中でデュシャンになれるのはデュシャンひとり。一回だけ有効な発見だったということがわかった。墓碑銘に刻んだフレーズが最高。
— 小野桃子 (@lamedalico) October 3, 2018
《されど、死ぬのはいつも他人》https://t.co/FbKpVDsHLV pic.twitter.com/tRlwAGAWw2
ジャコメッティー見た時に、これと同じようなことを思った。ジャコメッティーが考えてることは、ジャコメッティーの生きてきた全ての背景がそこに反映されてる。われわれはジャコメッティーと同じ経験をしてないんだから、本人が何を考えてたかなんてわからない。だからこそあれこれ想像して楽しむ。
デュシャンも同様だと思う。
■多様性を認める
〇言葉上は理解
・作品に対していろいろな声があがる
・「多様性」言葉上の意味はだれもが理解をしている。
・そういう考え方もあるよね。と多くの人が口をそろえる。
・しかし、最後、気づくと「自分より」の考えで批判的になってしまいがち
〇ある美術番組の反応
・出演者があれこれとしゃべりだして収集つかない状態。
・こんな情報いらない。具体的に〇〇はいらないと名指し。
・それぞれの捉え方、感じ方はいろいろでいい。
・有益と思う人もいれば、役に立たたないと思う人も。
・いろんな人が捉える視点を楽しいと思う人。
・専門家の知識や技術的な情報が欲しい人…
・番組の構成、進行の不備を指摘する人
・捉え方はいろいろ。だからこそ、こういう番組もあっていいと思う。
・ニーズがあるから、提供されてるのだろうし。
・無駄と思ってもそこから何かを拾い上げてみる
・あるいは、自分はこういうアプローチは嫌いなんだと学べばいい。
・ごった煮の中から、おいしいそうな素材をみつければいい
む
〇どうしても結局最後は、自分よりに
・いろんな考え方あるよね・・・・と思ってる。
・でも最後は、自分よりで考えて排除しようとしている?
(今も同じ状態?)
〇企画者は何を考えたのか
・日本美術との関係の展示 評判が悪い感じ
・でも、こういう捉え方もあるんだなって思えばいいだけのことかと
・なんでこのような企画をしたのか
・さぐってみると、なんとなく見えてくることがある
・デュシャンと日本美術が関係あるかどうかは、1部を見れば伝わるし
・じゃあ、何が言いたかったんだ? って考えてみればいいのかと
〇アートの概念は明治時代から始まった
信仰や儀式、城や寺院の装飾のための道具・調度として、日本の芸術は発達してきました。単なる装飾ではなく、道具を洗練させていく過程で、機能的かつ美しいかたちになっていった
日本美術のなかには「芸術」という枠組みに当てはまっていないものがいまだに多くあります。
デュシャンと日本美術を同じ空間で観て、比較し、自分なりに考えてみれば、様々なダイバーシティの時代に、自分が責任を持って価値を決めるというきっかけになるのではないかと思います。
「このアートを大切にしている人がいる、大切にされている」ということを知って、様々な価値を知ってもらうことが、美術館や博物館の使命だと考えています。
■鑑賞法
・美術鑑賞も、何も知らずに見る方法
・一方、知識を入れてより深く見たり考える方法
・対話型鑑賞も、いろいろな手法があるよう
・表向き、美術の見方はいろいろでいいと、理解を示す
・しかし、提唱する側になると、自分たちマターに陥っていないか?
・いずれにもよさがある。
・どちらに縛られることなく自由であっていい
・と思っているのだけど、知らずに見ることでおきるギャップ。
・そこに大きな楽しみを感じてる。
・だから知らず見る方を優先して奨めてしまいがち。
・これが自分マターってことになるのか・・・・
・デュシャン展の企画には、どんな思いがあるのか少しづつひも解く
・鑑賞スタイルについても、いろいろある中で、その方法を選んだのはどんな思いがあるのか知りたい。
・人が考えることのなぜ? にも興味がある。
■本質メッセージ
現代では、芸術という枠組みは、受け手一人ひとりがみんなバラバラだともいえます。それに縛られない、「他人に縛られるな」というのが、今回の『マルセル・デュシャンと日本美術』展の本質的なメッセージです。
今は、自分で考えなくてはいけない時代ともいえるでしょうから、自分で考えるきっかけになるという点で意味があると思います。
引用: www.wizoom.info
・他人に縛られない
・自分には自分のものの見方がある
・人は人、私は私・・・・
・自分で考える
■アートをいかに学ぶ?
折しも、こんな動画の紹介があった
アート性を培うために、まず自分の好きなものの写真を100枚撮る。すると見えてくるものがある。帽子100枚でもいいし、好きな映画のポスター100枚でも何でもいい。自分は何を美しいと感じ良いと思うのかを知ることから始める。落合さんの研究室でもやっていることらしい。#落合陽一 https://t.co/bUiGTLJSqc
— ろこ|YUASA HIROKO (@hirokoyuasa) December 1, 2018
・自分が美しいと思うものを自分で選ぶ。そしてなぜかを考える。
・その形は? 素材は? テクスチャ―は?
・デュシャンの便器は美しいのか? と考えたアプローチと同じだと思った
・表面のテクスチャ―が気になってわざわざでかけたのはこのためだったんだ
・そして何が嫌いかも、積み重ねていく。
・美術館も本物もいらない
・福岡伸一氏も同様のことをおっしゃっていた。
・自分が美しいと思う色の組み合わせは昆虫が持つ色。
・女性のファッションを見ても、美しいと思うコーディネートは昆虫色
■美とは何か
・自分で判断できる軸を持つこと。
・それが持てるようになるには、模索の時間も必要。
〇私なりに美術をどうとらえてきたかの変遷
■対話式鑑賞との出会い:俵屋宗達《風神雷神図屏風》を通して感性を伸ばす - コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記
■怖い絵:テレビ紹介後の混雑 鑑賞の順番 - コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記
■思考:学ぶとは? 考えるとは? 知識の融合 - コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記
■感性を磨くには? ①よく見る 『アート鑑賞、超入門』を読んで考える - コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記
・これまで自分なりに、出していた答え
⇒感性は知識によって身に着けることができる。
⇒本物を数多く見ることて見えるものがある。
そのあと、こんなことを書いているのがみつかった。
【追記:2018.12.22】
日本人の美意識の中に、デザインというものが根付いている。デザインとは西洋のものかと思っていましたが、
「日本のデザインは世界に遅れているが、日本の美は世界に勝る」
「日本画はアートというより、むしろデザインに近い」
ということであり、日本の美の源流を支えているのは茶道の「わびさび」と、一見それとは全く反対に艶やかな装飾性をもつ「琳派」ではなかろうかということである。
この相反する美の概念こそが日本の美を奥深いものとし、「陰・陽」の精神性をほうふつさせる重要なファクターではなかろうかと思う。加山又造展を見て、雪村という源流から流れてきたデザインに基づく波。日本の美の表現が、昭和の時代にまで受け継がれている系譜として見えてきました。日本の美とはデザインだったということを、実際に体感させられた展示でした。
美とは何か。何を持って「美しい」と判断するのか・・・・ レオナルドやミケランジェロが追いかけていた最初のテーマ「美」について、改めて考えさせられました。
「美」は見る人の中にある・・・・・ ってことでしょうか?
「美とは何か・・・・」「知とは何か・・・・」それをこの映画から考えさせられます。考えれば考えるほど、迷宮に迷い込んでいきます。その「考える」という行為とは一体何なのでしょう・・・ それは、心(心臓)で考えているわけではありません。まぎれもない「脳」という臓器の、細胞から発せられた電気信号による情報のやりとりにすぎないのです。
「考える」ということにていて考え始めたのは学生時代。「考える」という行為は、単に電気信号にすぎない・・・・という答えに至ったのは、その時だったのか、哲学という世界知って「考える」ということについて考えるようになってからだったのかわからなくなってます。
そのあと、脳におきる電気信号は、どのように起きているのか・・・・そっちの方が気になってたかも。今年の人体展でその入口が見えた。まだはっきりしていないようだけどナトリウムポンプのような仕組みらしい。自然科学の原理としての「考える」方を追ってしまうようです。
■くまのもの 隈研吾とささやく物質、かたる物質 東京ステーションギャラリー - コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記
美術とは何か‥‥と考えた時、非常に乱暴な言い方をしてしまうと、所詮、それは「物質」にすぎないのではないか‥‥ そんなことを考えていたところでした。
人とは何か・・・・・これまた「物質」にすぎない。すべては「物質」に帰結するのでは? と思い初めていたところだったので、隈研吾氏が語る「建築とは物質である」という言葉に強く惹かれるものがありました。
美術も人も結局は物質。突き詰めたら元素と思うようになった(笑)
- 〇美とは何か
- 〇三井記念美術館 「驚異の超絶技巧」にみる「美」
- 【追記】2017.09.17 「origin as a human」高橋賢悟
- 【追記】2017.09.17 「美」は力関係
- 【追記】2017.09.20 狩野派も力
美とは力関係・・・・ なんてことも思うように。確かに力を持った人が、美しいと言えば、美として認識されることは、歴史が物語ってます。
でも、そんな中でも自分の物差しを持ちたい。持つべき… そんなことを思ってきたようです。
結局は、既出の美術史観でない、自分の目で見て感じることが大事なのだと思いました。自分は何が好きなのかを知る。そこにはファーストインプレッションが、意外に的を射たりすることもあります。
ここでも「美」とは何かというテーマが掲げられていました。蒐集の流儀は、まずは「直感」その後「知」で整理づける。「美の問題」の考究。思想的一貫性 宗教真理の探究」 仏教-浄土思想。
以上のように「美とは何か」を、試行錯誤をしてきました。「美術とは考えること」ということは当然のことのように受け入れていました。だからそれをテーマにされても、当たり前のことにしか思っていなかったし・・・・ ただ、それを前面に打ち出す美術展はこれまでなかったので、どんな展示になるのか非常に興味を持ちつつ、開催まで自分もお題を考え続けようと思っていました。
自分の好きを見つけるということも自分の中の課題で、これが「好き!」と言えるものがまだみつかっていない状況でもありました。
そんな中、落合氏自分の好きなものを写真に撮影すれば、そこには自分の美が見えてくるというのは、目から鱗でした。また感性はいかにしたら磨けるか? というテーマの答えでもあると思いました。
【追記:2018.12.14】
趣味のものが捨てられずにどんどん増えていく。
そんなときは、集められるだけ集めちゃう。
それによって取捨選択が生まれ、グループ分けができ新たな視点が生まれる。
「美」を知る、「感性」を鍛えるというのも、どこか似ているのかも
■写真撮影のとらえ方
・専門学校の講師を努めるゲームクリエーターも落合氏と同じ授業をしている
・生徒に一日を写真に撮らせる
・そのあとそれらを編集し一冊にまとめさせる
・そこにモノを見る目、編集能力が鍛えられると
・国吉康雄展にて
写真撮影を許可することの裏にあった意味・・・・
「見ることに対して研ぎ澄ます。とんがらせる」
何を見るのか・・・・
どう見るのか・・・・・
「写真を撮影する」ということは、フレーミングをすることで、
これらの展示の中から、何をとりたいのか、
それをどう切り取るのか・・・・・
それによって、ただ、眺めるのではなく、
意識的に視ることで、国吉により近づくことができる・・・・・
引用:https://tabelog.com/rvwr/000183099/diarydtl/141173/
何のために撮るのか、誰かへの説明のため? この作品を見たという事実を残すため? 後で調べるため? それとも今の気持ちを残すため?
— Aoki Kanae (@herecomesjaja) November 18, 2018
【追記:2018.12.22】写真を撮影する理由
美術館の鑑賞者が写真を撮影する理由というのは、それぞれの中にいろいろあると思います。撮影の目的を持って撮っている人もいると思うし。(個人的には何時のころからか、テーマを決めて撮影するようになっていました。そして、一貫したテーマのようなものも持つようになりました。)
知人にも、写真撮影するときは、何を撮っているか聞いてみました。やはりヨリの写真は撮ってるといいます。
一方、美術の好きな美容師さんの一言。「写真は撮影しないんですよ。なるべく目に焼き付けて記憶に残そうと思って・・・・」ガツンと一本とられた感じ。
(子供の運動会で場所取りをしビデオ撮影をする親に対して、よく言われます。ちゃんと子供を見て、脳裏に焼き付けるように・・・・・って)
私:「じゃあ、撮影している人って、何で撮影していると思います?」
美:「見た絵をだれかに見せて説明したり、記念ですかね」
私:「日本人はヨリで撮影せず、枠に収まるように撮影する傾向があるらしいんですけど、そう思います?」
美:「うちの主人は、目玉だけ寄って撮ってますよ。猫ちゃんとか特に・・・私も猫の目だったらヨリで撮るかな」
私:「ヨリの写真って撮りますよね。日本人はあまり撮らないって、そんなことないと思うんですけど・・・・」
美:「日本人は寄って撮らないっていうのは、決めつけじゃないですか?人によると思いますけど」
そんな会話を交わしていました。私も日本人はあまり寄らないというのはどうなんだろうって思いました。もしかしたらこちらの美術館に来る人達が、寄らないだけなのかもとか。鑑賞経験を重ねると、次第に、部分に注目するようになり、寄って撮影したくなってくるものではないかと思います。
このツイートには、「ヨリ写真撮ってます」というツイートがいくつか寄せられていました。寄って撮影する人にとっては、そのように言われるとちょっと・・・・と思う気持ちが出てくるのわかる気がします。ヨル人の絶対数は多くないのかもしれませんが、日本人はヨリ写真をあまり撮らないというのは、フィルターがかかっているように感じられるのでした。
本当にそうなのだろうかと思って、先日訪れたポーラ美術館の常設展のモネの絵の前で、しばし撮影する人をウォッチしてました。ベンチに座ってみているとどようなフレーミングをするかまで見えます。まずはフレームに納まるように撮影するのはお決まり。そのあと、どこか1か所、ポイントを決めて寄って撮影するというパターンが多かったです。ヨリの写真は、比較的撮影されているように感じました。美術館によっても来る人のカラーというのもあるのかもしれません。しかし! そこにたたずんでじっくり見ている人は確かに少なかったです。(そういえば、展覧会の鑑賞後、いろいろ調べたりするのに画像検索をします。確かにヨリの写真をアップしている方は少ないかもしれません。)
写真撮影に関して次のような見解もあります。
写真を撮影するという行為はフレーミングすることで、別の角度の目で捉えて、スポットを当てていることになります。それに意識的かどうかということも含めて。そして、ズーム機能を使うことによって、肉眼では見えていなかったものが、見えてくることもあります。
一見、ツルツルに見える便器も、実はデコボコしていることに気づいた人はどれだけいるのでしょうか?(何を持って、デコボコととらえるかという判断もありますが)写真を撮影していない人の目も、見ている状況や見えているものが違うはず。
写真を撮影している人の目、肉眼で見る目。いずれにしても、いかに見るか。どういう見方をするかという見る側の意識の問題で、写真を撮影している人は、見えていないということはないと思うし、撮影しない人がちゃんと見ているかと言ったら、そういうことでもないのかと・・・・
美術作品の写真を撮影する人=ミーハー的でインスタ映えを狙って撮影している
あるいは、撮影することで見た気になる。満足してしまっている。という偏見が出てしまうのは、昨今のSNSによる拡散広報の弊害でもあるように感じられます。新たな広報ツールを得たあと、次のステップに引き上げていく必要があるのではと感じています。自分の発見、自分だけがみつけたおすすめポイントの紹介と共に、写真を撮影して投稿するようにと、主催者側が呼びかけ誘導しいく。ただ撮るだけでない環境を与えていかないといけないのではないでしょうか? 日本人はヨリの撮影をあまりしないのはなぜ? ではなく近寄って撮影をしたくなるようなしかけを美術館側が考えていかなくてはいけないのではないかと思うのでした。
これまで作品の撮影は禁止と長きに渡って言われてきましたが、撮影を許可に急展開。その背景にSNSによる宣伝効果を看過できなくなったからという理由があり、あれだけ強い禁止をしていたのに、そんなに簡単にOKにできる著作権ってなんだったんだという思いを抱いていました。ご都合主義でどうにでもなってしまうものなんだと感じていました。しかし時代の流れは、その感覚も払拭させてしまいました。ならば、せっかく与えられた撮影というチャンスを次のステージに引き上げる方法を考える。鑑賞者がただ撮影するのではなく、そこには自分のモノの見方が反映されているということにきづかせてくれるアプローチが必要だと思いました。
■(追記:2018.12.16)デュシャン展についてあれこれ
デュシャン展について語られている新聞記事について話す機会がありました。
あの記事を何度読んでも、決して否定はしていません。
しかし、記事全体から醸し出される否定的な雰囲気が否めないと感じていました。
それは何なのか・・・・
これ、私だけの感覚的なものかと思っていたのですが、同じように感じている方がいらしたのはちょっと心強く感じました。
マウンティングという言葉をご本人も回りも使われています。
たとえご本人にその意識がなくても、見る側、一般鑑賞者がそれを感じているうという現実。
それは何によってもたらされているのか。
心の中で密かに思っていたこと。
デュシャンの研究においては、第一人者であるという自負を、無意識にお持ちで、今回の企画で、声をかけられなかったことへの不満ではないか。執筆依頼が自分のところにこないことへの嘆き? デュシャンを初めて見る初心者は、外からそんな風に見えてしまいました。しかしそれは心の中に押し込んでいました。
ところが、同じ印象を持たれていると感じた方の登場で、思わず発してしまいました。すると「そういうことではないと思いますよ!」と私の穿ったとらえ方を改めさせられました。
みんなデュシャンが好き。だからデュシャンをはじめて見る人たちに間違った(?)方向に向かわせてはいけないという心配をしているのだと思いますと・・・・
主催者は、デュシャンと日本美術は、まったく関係ないと言ってます。それを並列展示されているのを見た人が、「それはおかしい」「こじつけじゃない?」っていろいろ感じて考えることが今回のテーマ。だから何の問題もないと思うのです。それなのに何を騒いでいるのか、私には理解ができません。
そのように理解できる人はいいけど、初心者は、日本美術と関係があると思ってしまうので誤解を招いてしまう。そのフォローとして最後に「それぞれ考えよう」というメッセージが必要だったのでは?と・・・・
でも「美術は考えるんだ」って最初からフライヤーにも掲げてあるわけだから・・・・そこのところは伝わっていると思うのです。でも、フライヤーを見ない人もいるから・・・
美術展はそんなところまでフォローしないといけないのだろうか・・・・と思いながらも、確かに事前の問いかけに対して、あまりフックがなかったようには感じていました。
あえてミスリードのキャプションを掲げ、考えさせるという展示が、そごう美術館の「国吉展」で行われていました。
国吉康雄展:①《西瓜》 どっちが熟れてる? (2016/06/07)
これと同じだと思いました。関係のない日本美術を、関係あるかのように解説。それに対して、どう思うかを自分で考える。これまでの鑑賞者は、解説のままそうなのか…と思ってしまうことが多かったと思うのです。でも「違うんじゃない?」と自分で判断できるように鑑賞者も成熟してきたことの現れでもあると思うのでした。
そしてデュシャン展を見て、気になることをあれこれ調べたり、考えたり、再確認したりするのがとっても楽しかった。
ところが、専門家の話を目にするようになって、なんだかいや~な気分になってきたというのも正直な印象でした。
見る人にそういう気持ちを抱かせているという側面も・・・・
そのあとにこんな議論の形を目にしました。
いろんな人に意見を求めると、自分と同じような答えが返ってきます。
そのため、自分と同じように考える人は、いっぱい(?)いると錯覚を起こしがち。
「類は友を呼ぶ」ように似たような考えの人が回りに多くなるからなのか?
無意識に似たような思考を持つ人とつるんでしまうのか?
あるいは、無意識に似たような考えを持っていそうな人を選んで聞いてしまうのか?
違う答えが返ってきそうな人には聞いていないのかもしれない。
情報は自分が思う方向の見解が多く集まりがち。
自分でも考えないといけないけど、人がいかに考えるかも知らないといけないと思う。しかし、いろんな声に耳を傾けるつもりでも、そこにはフィルターがかかっていることもある。
自分とは全く違う捉え方、自分の及ばない考えを持つ人もスクリーニングする。そして実際に聞いてみたいと思う。ところが時として拒否されるということもある。
検索は、自分と同じような考えのキーワードをたたいてしまう。だから、ほ~らってなりやすい。逆ワードにはまた、その世界が広がっている。
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