マルセル・デュシャンと日本美術のコンセプトは「考えること」 今回は、この展示を通して考えたことや、知りたくなったこと、調べたこと、過去の鑑賞とつながったことなどなるべく記録に留めておこうと思っています。3回目の再訪。展示のどこが気になるのか。作品のどこに注目したのか。鑑賞から何が見えてくるのか。また訪れたいと思った理由を紹介しつつ、そういう見方もあるのか…と参考になればおなぐさみ(笑)
*写真撮影は禁止作品以外は許可されています。
■新たな見どころがリリースされました
ここで紹介されている、ゲートやグラフィックの秘密、気づいてたぞ! と内心ガッツボーズ。でも、次の点には気づきませんでした。
〇秘密一杯の会場のデザイン
- 狭くて作品の密集している所や広くて作品点数の少ない場所など意図的に操作
- 会場に散りばめられたグラフィックの中のデュシャンの眼差しに注目。
- 第2部冒頭の漆黒の展示台の上の黒楽茶碗や掛軸の、見え方や色彩などに注目
それらは、具体的にどうなってたのか、確かめに行こう!
〇もう一度、見て確かめる
いろいろ、確認したいことが出てきたので、再訪することにしました。
デュシャンの本人写真は、見る位置によって「現在、過去、未来」をイメージさせていると思いました。しかしその眼差しがどこを見ているかということまでは、気にしていませんでした。
そして茶碗や掛軸のライティングには、どんな工夫がされていたのでしょう。何か工夫があると「あれ?」とひっかかったりするのですが、今回は何もひっかかりがありませんでした。
そして、一番気になったのは、会場のモックアップを見た瞬間、目に入ってきた「中央部のエリア」 これはいったい何だったのか?! こんなスペースがあったことに、全く気付いてません。この部分は展示とどういう関係になっていたのでしょう・・・・
〇中央の壁の謎
ちょっとさかのぼった下記の記事によると
デュシャン展では、造作壁の厚みが普段の展示のおよそ4倍、20mmもあるとても重い壁だということがわかりました。中央の部分は、実際の展示ではどうなってたのか気になりました。
中央部の縦長の空間は、左の写真のパネルの上部にそそり立つ壁になっていました。そしてその先の反対側の部分には、《瓶乾燥機》が展示されています。背後には大きなパネルがあり、ゆとりある空間の展示です。
最初に見た時《瓶乾燥機》を撮影するのに、この部分が、妙に広いなぁ…と感じていました。この作品を介して見える向こう側の通称《大ガラス》。そして背景に展示されたパネルと、何か関連性はないのか…
《瓶乾燥機》がどんな道具かもわからず、この形状の間から、向こうを覗くように見たら、何かが見える仕掛けになっているかも…などと考えていました。
別に何も見えないか・・・・ じゃあちょっと高さを変えて、壁の展示をのっけてみるか…
広くて作品点数の少ない場所などが意図的に操作されている。
というのはここのことだったのでしょうか?そして4倍の壁の厚さというのが、中央のあの空間のことだと理解していたのですが、20㎜という数字を見て板厚だったことがわかりました。やはり中央の部分はバックヤードを兼ねていたのかな…と思いました。
【追記】2018.11.28
便器の展示。今思うと、随分と隅っこに追いやられているなぁ‥‥と感じていました。メイン作品なのに、ポツンと放置されているような。もっと仰々しく「これがあの便器です!」みたいな展示かと思っていたので・・・・ この空間が意図的に広げられていたからだったのでしょうか?
〇あえて狭く作品を密集した場所は
「狭くて作品の密集している所」ってこの窓の裏側付近のことかな?
この窓の先に何があるのか、写真と展示物はどう関連しているのだろう…と、最初に見た時、考えていました。が、人が多くなってきて、疲れてきたこともあり、戻って確認することはしませんでした。(今、考えると人をかき分け、ガラスケースもよけ戻るのが大変そうだった…ということは、作品展示が密だったということかな?と)再訪して、前に立ってみて思い出しました。
この窓の先に展示してある写真は、撮影NGだったのです。会場風景として写り込んでもダメという厳しい制限。そのため、撮影を断念したのでした。
今は、会場風景として写ってもOKとのことなので撮影してみました。
この窓から見える壁にはマン・レイが撮影したデュシャンの女装写真が展示されいます。(最初の写真は、写らないような配慮をしていたのでした)そして奥に《ローズ・セラヴィ》 さらに奥には女装写真・・・・
4章に展示されている写真を見ると、下記の写真であることがわかりました。
展示では、女性とデュシャンとの間にの間に窓を開けたという設定です。そこに何を見せようとしたのでしょうか?
窓の向こう側に改めて立ってみると…
この手前側に女装の写真です。
〇黒の展示台の黒楽茶碗の見え方や色彩に注目
黒楽茶碗 銘 むかし咄 長次郎
カメラのせいなのか、光の反射のせいか、黒茶碗が黒く見えません。辺縁がぼっと光っています。いろいろ角度を変えてみたのですが、やはり真っ黒には写りません。茶碗の表面の凹凸が、より明確に写しだされています。カメラが黒い色を補正し、質感がわかるよう真っ黒にならないように再現しているのでしょうか?
黒楽茶碗 銘 むかし咄 長次郎
と思っていたのですが、もしかししたら、照明によって、茶碗の表情をより鮮明に見せるような工夫をしているのかもと思いました。黒く映らないと思っていた「あれ?」という感覚は、そういう照明だったんだと思ったら、
黒楽茶碗 銘 むかし咄 長次郎
制作の手のあとまではっきりわかります。黒いと思った茶碗は、黒ではなく複雑な色の構成をしています。でも、これは光による見せ方なのか・・・・ わからなくなりました。
しかし「漆黒の展示台、背景の黒、茶碗の黒」黒の中に溶け込む黒茶碗を見せたかったようです。私は近寄りすぎてしまったようです。もっと引いて見れば、暗闇の中の黒茶碗が見れたのかもしれません。しかし、辺縁はやはり真っ黒ではなさそうです。
〇掛軸の見え方
この時は、特に照明の仕掛けはわからなかったのですが、先日訪れた時は展示替えされていました。少し離れて見た限りは、よくわかりませんでした。近づいてみると、左右、上下、全面にライトが設置。それによって影がなくなるのかな? と思いきやそういうわけでもなく。タイムリミットになってしまって、ライトの様子を撮影することは、できませんでした。
■ ゲートの写真の秘密
〇意味ありげなアーチと写真の関係
このゲートのアーチの写真。何か意味がありそうと思っていたのですが・・・・
〇アーチ内の写真はデュシャンの成長物語
アーチ内の写真を中央に置いて左右を眺めると・・・・
(左写真)白い右側のエリアには、1902年、デュシャンが初めて油彩を描いた作品、印象派の影響を受けていることが見てとれる作品が展示されています。そしてアーチの写真は、デュシャン1900年頃の少年時代、ブランコの脇に立つ写真の一部だったことが図録を見ていたらわかりました。(図録p8)
(右写真)左側のエリアには《自転車の車輪》が展示。そしてアーチ内の写真は、デュシャンの1900-02頃の写真です。(図録p6)右のコーナーはその後に描かれた作品。
アーチ内のデュシャンは、年齢を重ねたフォトで、ゲートをくぐる度に、その時代の作品の変化を縦断的に見ることができる構成になっていたのでした。
デュシャンが年齢を重ねていく様子がわかります。
入口から遠くに見えていたデュシャンは、1章と2章の境界のゲートに存在していたことがわかりました。
■《泉》の表面の状態は?
〇1917年当時 便器の表面は?
今回、再訪した一番の目的は、《泉》の便器の表面加工はどんな状態なのかを確認することでした。1917年頃のフランスの工業技術は、どの程度の製品づくりだったのかを確認したいと思いました。一つ一つの便器の仕上がり精度はこの時代、どれくらいだったのでしょう。
〇現在の均一化された製品に慣れてしまうと昔の質感を知らない
以前、熱海の「起雲閣」の窓ガラスを見た時、うねうねしていました。この時代、こういうモノしか作ることができなかったのだといいます。しかし、逆に今は貴重なもので、このようなガラスは作れないと言います。割れてしまったらおしまい。そんな話を聞いていたので、この便器もうねうねしていそうな気がしました。
「時代による製品のバラツキにデュシャンは価値を見ていた」という推察は、却下されてしまいましたが、個人的な興味として、当時の工業製品のレベルが知りたくなりました。
〇コピーはいつの時代のもの? 質感は?
実際、確認をしたら、やはり表面は滑らかではありませんでした。そして便器は陶器からできている。ということを目の当たりにしました。便器がどうやって作られているのか。これまでそんなこと考えたこともありませんでした。
また、よくよく観察すると、まさに陶器である素材の特徴をよりリアルに感じ取ることができます。
陶器は仕上げに釉がかけられています。表面の状態のなめらかさは、釉を均一にかける技術で決まります。案の定、この時代の便器はツルツルではありませんでした。⇒(《泉》のヨリの拡大写真の撮影。当初、OKと言われたのですが、再確認したところ、NGとなり残念ながら掲載ができません。十字と配管の穴がどのようにつながっているかとか、便器の内部が凹凸のために反射して回る光とか・・・・最近、フェルメールの光の描き方が話題になっているので、そんなところにも目につきます。))
〇つくる基本工程は茶碗と同じ
作り方は、土をこねた粘度を成型をして焼き釉をかけます。まさに陶器の茶碗の作り方と同じなのです。
TOTOは、大倉陶苑から分かれたことに驚きましたが、まさに素材や製法は全く同じなのでした。私はこういうところに、物の本質を感じさせられるのだなぁと思いながら…便器も茶碗も素材や作り方の原理的なことは同じだったんです!
便器の表面の状態から、この時代の技術が伝わってきます。釉の垂れたようなあと。釉のかかってない小さな円のくぼみのムラ… 内部はさらに釉をかけにくいのでしょう。凸凹していて、そこに光があたると、波打って波紋の模様ができていました。
滑らかだと思っていた便器。実は凸凹していたのです。今の技術で作られた便器を見慣れているから、当然、ツルツルしたものだと思い込んで見ています。しかしこの時代の技術は、今とは違うということに思いを馳せることができました。(最初に見た時にも、表面は手作り感があるなぁと思っていたのですが)ところが・・・・
〇これは1950年のレプリカ
てっきり、この便器、オリジナルと同時代(1917年)に作られた便器と同じ型のものを選んで、サインをしたのだと思っていたのですが、後世になって作られたれたものでした。
《泉》1950年(昭和25年)
1950年頃の技術で作られた便器なのか、1917年当時の技術を模して造られたか・・・・ オリジナルとは、便器の形が違います。となるとサインは、リアルに描写されているのかも気になりました。
便器の写真が展示されていました。
オリジナルの《泉》が表紙となった雑誌です。
オリジナルの《泉》は、1917年撮影 されたものです。
1950年代に制作された便器の表面は波打っていました。復刻版として作られたTOTOの便器の表面は、当時の表面を再現できているのか気になってきました。
今の技術で、昔の波打つガラスは作れないと言います。復刻版の便器に波打たせることはできているでしょうか? 次回、訪れた時に確認してみます。
〇オリジナルと展示のサイン比較
便器の形も違いますが、サインの筆跡も完コピーしているわけではないのです。
■《泉》の構造が撮影によって違って見えたのは
左と右の写真、同じ便器ですが、十字の穴の位置が、全く違って見えます。なぜ、そんなふうに見えてしまうのか。実際にはどのように見えているのかも確認したいと思いました。
左は真正面から撮影しているため、便器のカーブの部分がわかりにくくなってしまったこと。上部の繰りぬかれた状態も正面からのアングルのため奥行き感が認識できなくなってしまったのだと思いました。
再度、訪れて撮影したのがこちら
(左)腰を落として低いアングルから
(右)上からのアングルで
■日本美術の展示 「書という芸術」 本阿弥光悦
企画展や特別展の展示と、本館の展示は連動して展示されていたり、連動はしていなくても、同じ画家の作品が展示されていたりします。
そういう時は、関連づけて見ておくと、新たなつながりや発見があって面白いです。本館には本阿弥光悦がまとまって展示されていました。
〇下絵に書を書いた本阿弥光悦
今回「特別展」で展示されていた本阿弥光悦。
料紙に描かれた絵の上から書を書くのが光悦のスタイル。下絵と文字のバランスを配慮した連動がすばらしいです! 書と絵のバランスをとる。そのため、文字がはみ出したりしていますが、文字の配置が美と直結していることが見てとれます。
〇本館の本阿弥光悦でも書の配置を確認
本館にも光悦の作品が展示されています。どちらかというと、本館の作品の方が、下絵と文字のバランスのよさが、よりわかりやすいと思いました。
長く続く土坡(小高く盛り上がった地面)のなだらかなカーブに合わせて文字が配されています。
書の頭と絵を合わせることによって生じる文字のはみだしですが…
下絵に合わせながらバランスを調整しています。
〇書き足し文字?
そして・・・・ 書き足し文字発見!
〇鶴図下絵和歌巻 「柿本人麻呂」 書き忘れ?
鶴図下絵和歌巻で、「柿本人麻呂」を書き忘れて文字を横に書き足しているという話があります。しかしあれは、わざとではないかと個人的に思っていました。横に書き足したのは光悦のプロデューサーとしての話題作りでは? と推測をしています。
静嘉堂文庫美術館の河野館長も、以前、同様の推察をされていました。
日経「琳派作品の楽しみ方」より(2015.10,8)
「琳派400年 京を彩る」が行われた2015年に目にした記事です。当時、光悦は、絶対にわざと間違えて話題作りをしたのだという直観がありました。それと同じを提唱されている方はいらっしゃらないかとネット内を探したのですが、いらっしゃいませんでした。ゲットしてきた資料を整理していて、会場で配られた新聞を見返していたらその中に、この記載をみつけたのでした。美術大学の学長さんが同じこと言ってる!
しかし、河野先生がおっしゃるバランスや美意識という意味を、全く理解できませんでした。わざとという着眼点は同じだけど、理由はそんな簡単なことじゃないと思うと思っていました。当時「美意識」という言葉を、まだうわべだけだけでしかとらえていなかったからです。
しかしあれから今まで、いろいろな作品を見た経験が、自分の中に「美しいバランス」というものが出来上がったように感じています。
光琳の《燕子花図屏風》がデザイン的に非常に優れているということについても、理解できていませんでした。しかし非の打ちどころのない構成であることがやっと理解できるようになりました。
今は、光悦の画と書のバランスが絶妙に織りなされているということがとても理解できます。
「美とは、自分が決める。自分の中にある」
デュシャンが言おうとしていることにつながる気がします。自分の中の美をみつける。新たな美の捉え方を、アップデートしていくということなのではないかと思います。経験や時間を重ねることによって、美の捉え方は変化していくもの。留まってはいないのかもしれません。
〇本阿弥光悦はTPOで書体を書き分けていた
本阿弥光悦の書簡なども展示されています。寛永の三筆と言われた光悦ですが、書く対象によっても、字体を随分変えていたことがわかります。
くだけた内容の書状では、こんな書体も書いていたのかとちょっとびっくりでした。
同じ人とは思えません。⇒*1
【本館8室】安土桃山時代から江戸時代前期の本阿弥光悦の流れを中心とした書を12/9までご覧いただけます。また、江戸時代初期、三筆(信尹・光悦・昭乗)が新しい書風を打ち立て、江戸時代中期以降、黄檗の三筆らがもたらした中国書法は唐様の書として流行しました。 pic.twitter.com/MyAYVoGFlP
— トーハク広報室 (@TNM_PR) November 22, 2018
〇本阿弥光悦とデュシャンとの関係
日本では書画一致という考え方があります。書も絵のうち・・・・ それと、デュシャンが作り出す作品=形態が概念を示すものとするなら、同じでは? ということのようです。
浮世絵なども、本館には写楽をはじめとする作品が展示されています。
第2部の「日本美術とデュシャン」については、いろいろなとらえ方があり、様々な意見があるようです。
それについてはまた… (続く)
■関連
■マルセル・デュシャンと日本美術:「見るんじゃない 考えるんだ」の足跡
■マルセル・デュシャンと日本美術:3回目の鑑賞で考えたこと、感じたこと、知りたくなったことなど(備忘録)⇒ここ
■マルセル・デュシャンと日本美術:賛否両論の第2部 日本美術とデュシャン(備忘録)⇒次
■脚注
*1:【追記】2018.11.28 新しい書風の打ち立て
書がよくわからなくても、巻物の文字は「美しい」と感じます。一方、書簡の文字は… 随分とラフな書体。と思っていました。書体も中国書法が唐様として流行するなど、美の基準は変化しているようです。