コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■大津絵からの繋がりや広がり

大津に伝わる「大津絵」 頭の片隅にそのワードはあったものの、旅行先ではあまり気に止めることもなく過ぎてしまいました。ところが旅行から帰ると次々に「大津絵」というキーワードが飛び込んできて、その先、いろいろなつながりをみせてくれました。それを忘れないための備忘録。

  

泉屋博古館美術館分館の「浅井忠の京都遺産」で展示された「大津絵」を見たあとの思考のループ。写真は内覧会にて主催者の許可のもと撮影しました。 

 

 

■大津絵とは

wiki pedhiaより)

大津絵とは、滋賀県大津市江戸時代初期から名産としてきた民俗絵画で、さまざまな画題を扱っており、東海道を旅する旅人たちの間の土産物・護符として知られていた。

大津絵の画題を唄い込んだ元唄・音曲俗曲大津絵節)、大津絵節を元に踊る日本舞踊の一種(大津絵踊り)にも、「大津絵」の名がついている。

 

 

〇大津でチラ見した「大津絵」

今度、大津に行くのだけど、覚ろげな記憶の中にあるワード「大津絵」。お土産物やさんにあるのかなぁ…などと思いながら、大津駅に降り立って観光案内所に訪れたら・・・・ 確かに、大津絵が掲げられていていました! 今も昔も変わっていないんだ・・・・と思いながら、「大津絵」ってよくわかってないな、どこかで、聞いたことがあるのだけど‥‥ と素通りしてしまいました。

  

 

〇地元での情報収集のチャンスを無駄に

あとで思えば、地元の方々に伺わなかったことは悔やまれます。まして、そこは大津の観光案内所だったのです。観光案内所での興味は、これから訪れる予定のMIHO MUSEUMや八幡堀、安土城と、大津とは関係のないところばかり。

 

今、大津では「大津絵」が生活の中でどのような位置づけで、どう扱われているのかというのは興味深いところでした。

 

 

■「大津絵」が近寄ってきた

旅行から帰ると、泉屋博古館分館「浅井忠の京都遺産」の展示があり、その内覧会に参加することに・・・・ するとその中に「大津絵」登場してきたのです。

 

それは、MIHO MUSEUMで見た「雪村展」で日本画とはデザインである」ということを感じさせられた流れと合流するものでした。。

   ⇒■波濤の源泉は雪村にあり

 

 

〇生活の中から生まれた名もなき人が描いた絵

「大津絵」は、江戸時代の東海道五十三次の大津宿の手軽な土産物でした。それは、無名の絵師によるもので、美術品ではなく民芸品として扱われていたもの。手軽にたくさん書いて販売する、量産品のため、デザイン的なデフォルメも行われていました。今でいうとヘタウマな絵(?) 

私たちが遠足や修学旅行などに行ったりすると絵葉書を買って、旅のお土産にしていました。そんな位置づけの絵だったのかもしれません。日常の生活をデフォルメしてデザインとして描いた大津絵。その中に、浅井忠は、デザインとしての真価のようなものを見出してコレクションしたり、これらを元にした図案を起したと考えられます。

 

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 写真はブロガー内覧会にて

 

ところで、「浮世絵」と「大津絵」どこか似ているような気がします。世相を手軽に表現したもの? どのような違いがあるのでしょうか?

 

〇浮世絵との違い

「おそらく江戸の浮世絵と同じ経過をたどったと思います。その当時、大津は1万5千人ほどの町でしたが、東海道有数の宿場町として栄えていました。そこで、武士も町人もみやげものとして大津絵を買い求めて持って帰ったため、全国に広まったと言われています」

当時、徒歩の旅行者にとって“軽くて安くて珍しい”大津絵は、大変な人気だったのだという。そのころは絵を売る店も多く、逢坂山を越えた大谷・追分あたりで、道中を行き交う旅人に売られていた。しかし、明治20年に開通した鉄道の影響で客が減り、高橋さんの店も現在の三井寺参道に移らざるを得なかった。

「大津絵の半数は強烈な『人間風刺』です。江戸中期から、人の愚かさや滑稽さを表した風刺画が描かれるようになりました。 

「鬼の寒念佛」

出典:古都・湖都歩く 親しみやすく奥深い「大津絵」の世界より

 

大津絵の題材は風刺画神仏や人物、動物がユーモラスなタッチで描かれ、道歌が添えられていて、多くの絵画・道歌には、人間関係や社会に関する教訓が風刺を込めて表されていたと言います。風刺の中に登場するユーモラスな人物は、いまでいうゆるキャラのような捉えられ方を当時の人にされていたのかもしれません。そして庶民も旅ができるようになり、お土産を・・・・と考えた時、軽くて安い、めずらしいものということで「大津絵」が好まれ、全国に持ち返って広がったようです。

これ、浅井忠がミュシャのポスターを折りたたんでコンパクとにして持ち帰ったのと、どこか似ているような気がします。ところが、大津絵は、歩く旅から鉄道の旅という時代の変化により需要も減ったとのこと。しかしいろいろな人たちが、新たに光をあてていることもわかりました。

 

 

〇他の画家も大津絵を作品のスタイルとして用いる

近代京都の大津絵 —小川千甕「西洋風俗大津絵」を中心に— | 京都府京都文化博物館

関西エリアに浸透していた大津絵は定型化した画題を持つようになり、特に四条派の画家たちは、しばしば大津絵画題の作品を手がけたことが知られています。明治以降も富岡鉄斎、鈴木松年、久保田米僊、浅井忠、竹内栖鳳、冨田渓仙、神坂雪佳などの近代画家によって、大津絵画題の作品や大津絵スタイルの作品が、しばしば描かれました。
そうした中でも、近代京都を代表する洋画家・浅井忠は「黙語図案集」や「今様大津絵」という絵葉書を作るなど、大津絵をことのほか愛好したことで知られます。  

 

ここに琳派の流れの現代版、神坂雪佳も登場し、神坂雪佳も大津絵を参考にしていたようです。が、浅井忠の傾倒は、群を抜いていたよです。

 

 

加山又造展にて (日本の美はデザイン)

■生誕90年 加山又造展 ~生命の煌き 日本の美はデザインだった!

昭和を生きた日本画加山又造を見ていると、絵は抽象化されていてデザイン化されていると感じさせられました。日本人の美意識の中に、デザインというものが根付いていると・・・・

 

加山又造の水表現を追っていると、宗達の表現へと遡りました。

    (⇒■宗達の水流表現と《風神雷神図》)

そして雪村という源流にたどりつきそれはデザインであることがわかります。

 

デザインとは西洋のものかと思っていましたが、

「日本のデザインは世界に遅れているが、日本の美は世界に勝る」
日本画はアートというより、むしろデザインに近い」
ということであり、日本の美の源流を支えているのは茶道の「わびさび」と、一見それとは全く反対に艶やかな装飾性をもつ「琳派」ではなかろうかということである。
この相反する美の概念こそが日本の美を奥深いものとし、「陰・陽」の精神性をほうふつさせる重要なファクターではなかろうかと思う。

 出典日本の美「わびさびと琳派」より

 

加山又造展で、雪村という源流から流れてきたデザインに基づく波。日本の美の表現が、昭和の時代にまで受け継がれている系譜として見えてきました。日本の美とははデザインだったということを、実際に体感させられた展示でした。

 

その根底にあるのは郷土愛の覚醒

このディスカバージャパンはその後長く「日本の美再発見旅行」のブームを巻き起こし、地方の原風景や町並み、食文化などの中から日本の美を掘り起こし、地方の人々の郷土愛をも覚醒していった。
「おらが村の鎮守様がポスターになり、東京でデカデカと貼られている」・・・これを見た地方出身の学生が、驚きと郷愁の中から郷土愛に目覚め、やがてそれはUターンブームの一因となっていった。
「Discover Japan・美しい日本」は、今も私の青春のベンチマークとして鮮やかである。

出典日本の美「わびさびと琳派」より

 

琳派がデザインとして現代にいたるその過程には、茶の湯のわびさびが日本の美のDNAとして流れているというのも興味深かったです。

 

琳派と茶道との関係について。日本の美はデザインであり、その裏に琳派と茶道のわびさびがあるという話。軍国主義によってデザインというものが抑えこまれていました。しかしながら、茶道は禅に通ずる武将のたしなみとして位置づけられて来たことが軍部からの攻撃を免れたようです。茶道が日本の美のDNAを守ってくれたと言えます。

日本の美の源流は、茶道の「わびさび」と、全く反対の艶やかな装飾性をもつ「琳派」。茶道は東山文化の唐物からわびさびの茶道へ。わびさびの前のきらびやかさと琳派との共通性と考えると、東山文化もわびさびとつながりが見いだせます。

琳派の水の表現の源流が室町時代の雪村にあり、その派生で、東山と琳派もなんとなくつながってきました。茶道の世界に対してはいろいろ思うところもありますが、日本の美のDNAが茶道のわびさびにあるというのは、やっぱりすごい!

 

 

民芸運動へ(日常の道具の中の美 デザイン)

加山又造展のあと、高島屋の展示は「民藝の日本」です。日常の道具を作る名もなき職人から生まれる生活道具の中に美を見出す民藝運動。生活の中かから美をデザインとしてとらえる。それは、まさに大津絵という成り立ちもそれに値するのではないでしょうか? 日本の美を考える上でのデザイン性。それをどこに求めるか・・・・

大津で見てきた「大津絵」も、そうしたデザインとしての美の在り方。民芸活動と同じ、生活の中にある「美」であったのではと・・・・(2017.09,09)

   ⇒〇大津絵もデザイン

 

日本橋高島屋の民芸展

www.fashion-press.net

 

大津絵も、民藝運動の対象のアイテムとしてとらえられており蒐集されていたことがわかりました。

ところが、こうした民藝運動には軋轢もあったようで、大津絵を民藝の対象とすることに反発もあったようです。

 

  

■大津絵を中心に糸がのびてつながる

今回のびわ湖周辺めぐりは、これまで鑑賞してきたものが、いろいろな形でつながりを持ち、それが流れとなって今に至っていることを感じさせられた旅となりました。流れを遡ったら、源泉らしきところにたどりつけたことが、今夏の一番の思い出になったと思っていました。

ところが、戻ってみると、今度はその流れの下流方向、現代から「大津絵」を捕らえる視点が、あちこちから延びてきました

 現地でスルーしてしまった「大津絵」が、無視しないでちゃんと気にかけて..…と言いにきてるみたいです(笑)  興味を持ったことに対しては、貪欲にいろいろ調べたり聞いたりするのですが、関心が弱いといかにその力がなくなるかもわかりました。

 

旅行後というのは、これまで耳にしなかったことが、急に耳に届き始めるということがよく起こります。20年ほど前、長崎に行ったあと、なぜかシーボルトのことが、よきにつけ悪きにつけいろいろな形で耳に入ってくるようになりました。それから、シーボルト展など関連の催しがあるとでかけるようになりました。

今回の旅行のキーワードは「大津絵」のようです。あれこれといろんなことをなげかけてくれます。

 

■大津絵と浅井忠について

旅行からもどり、泉屋博古館分館で行われている「浅井忠の京都の遺産」で「大津絵」が展示されており、浅井が大津絵にデザイン的な魅力を感じていたことを知ったのでした。 

〇浅井忠 紹介ページができました&木版画も新登場! | Winds!芸艸堂 店長ブログ

〇大津絵今昔――世界の目からみた庶民信仰の再評価

〇大津絵風藤娘:Hearts and Numbers:So-netブログ

〇グッズ|刊行物・グッズ|大津市歴史博物館 

 

 

■浅井忠と大津絵 弟子梅原三郎と大津絵

浅井忠は大津絵をデザインの図案に用いました。そして浅井忠の弟子には梅原龍三郎安井曽太郎がいたという解説がありました。梅原三郎と言ったら三菱一号館美術館

「拝啓ルノワール先生ー梅原龍三郎に息づく教え」(2017.1-3)の展示が行わていたことを思い出します。(そんなところでつながっていたのか・・・・その日、行けなくなってしまったんだけ…)

 

すると、浅井の弟子である梅原がコレクションしていたいろいろなものが展示されており、その中に「大津絵」も展示がされていたことがあとになってわかりました。梅原は浅井の「大津絵」コレクションを見ていたのでは? また、フランスにも大津絵が渡っていたという解説がその時の内覧会で解説されていた模様。そんな記事を目にしていて、「大津絵」が頭の隅に残っていたのだとやっと判明しました。この展示では、浅井忠の作品展示もあったようです。(こういう関連展示を見ていれば、浅井忠って誰? とは思わなかったわけです。)

 

〇「拝啓ルノワール先生 ー梅原龍三郎に息づく師の教え」展レポート | 糖類の上 | note

〇拝啓 ルノワール先生 — 梅原龍三郎に息づく師の教え - この世はレースのようにやわらかい

〇「拝啓ルノワール先生 ―梅原龍三郎に息づく師の教え― 展行ってきた – 雨がくる 虹が立つ

 

 

■江戸の庶民絵画、大津絵を読み解く ー街道絵師からミロまで

また、その後、「大津絵」のシンポジウムが行われたことなども、なんとなく目にした記憶があります。

  (⇒日仏会館フランス事務所 | イベント・カレンダー

    | 江戸の庶民絵画、大津絵を読み解く街道絵師からミロまで) (2017.7 )

 

 

それに関する記事も目にしていて、記憶の片隅に残っていたようです。

 〇大津絵のシンポジウム <レポート>|MC's Art Diary

 〇日仏会館・国際シンポジウム「大津絵を読み解く」に参加した!|とんとん・にっき2  

 〇「大津絵」の魅力海外に発信 仏人日本美術史研究者、解説書を母国で出版(1/2ページ) - 産経WEST

 〇大津絵にみる庶民信仰の造形アンドレ・ルロワ=グーランの研究をふりかえって

 

 

〇大津絵 民衆的諷刺の世界 (角川ソフィア文庫) より

江戸時代、東海道の土産物として流行した庶民の絵画、大津絵。
鬼が念仏を唱え、神々が相撲をとり、天狗と象が鼻を競う――。
奇想天外な世界をいきいきと描くその伝統は、
いかに人気を博し、そして消えてしまったのか。
多彩な78種の画題をオールカラーで掲載し、
愛すべきヘタウマに込められた諷刺と諧謔の精神を解き明かす。
柳宗悦梅原龍三郎河鍋暁斎ピカソさえも魅了された
大津絵の全貌が文庫オリジナルで今よみがえる。

初期は神仏画として、のちには護符的な役割を持つ世俗的な絵として庶民の日常に浸透した。無名の絵師たちは絵を手早く量産するため、線や色を大胆に省略していく。その結果、絵に登場する神々や鬼たちは、今日の「ゆるキャラ」のように親しみやすくてユーモラスな雰囲気を放っている。

念仏を唱える鬼、鬼に豆を撒かれて逃げ惑う神、酒に飲まれた鼠に嬉しそうに肴を差し出している猫。面白可笑しい図像から伝わってくる大津絵特有の諧謔と諷刺の精神は、今でも色褪せていない。 

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■風刺画家 河鍋暁斎と大津絵

特別講演会「フランスで賞賛された明治の諷刺画家 河鍋暁斎」

 

日仏会館・日本研究センター所長のクリストフ・マルケ氏による、河鍋暁斎の講演会があったようです。河鍋暁斎柳宗悦梅原龍三郎同様大津絵をコレクションしていました。

 

大津絵も風刺画、そして暁斎も明治時代の諷刺画家。幕末から明治にかけて反骨精神をもって描いた異端の画家。多くの戯画や風刺画を残していましたが、日本の美術史では忘れられた存在でした。ところが、欧州では19世紀末に日本の代表的な画家として北斎に次いで賞賛されており、1880年にはフランスで諷刺画家として高く評価されていました。 

暁斎の遺作を仏訳復刻し、フランスで暁斎の作品を発見したクリストフ・マルケ氏(日仏会館・日本研究センター所長)による、暁斎の世界の魅力を国際的な視点から読み解いた講演会が行われていました。

  

 〇マルケ「フランスで賞賛られた明治の風刺画家 河鍋暁斎」!|とんとん・にっき2

 〇学校法人城西大学創立50周年記念特別講演会・「フランスで賞賛された明治の風刺画家 河鍋暁斎」を開催しました

 

 

河鍋暁斎ジョサイア・コンドル

コンドルが設計した三菱一号館美術館。そのコンドルが日本の絵画に興味を持ち弟子入りしたのが暁斎。日本で忘れられた暁斎の「画鬼暁斎―幕末明治のスター絵師と弟子コンドル」の展示が、コンドル設計の三菱一号館美術館でおこなれました。それに関連して下記の講演会が行われたようです。

  ⇒河鍋暁斎とジョサイア・コンドル―海外における評価と受容

 

司会は、クリストフ・マルケ(日仏会館フランス事務所/日本研究センター 所長)

ジョサイア・コンドルは、日本政府に招かれ、工部大学校で教師をつとめ日本の近代建築に多大な功績を残した人物。 

そして日本美術愛好家で、暁斎にも弟子入りして英国の暁斎という意味を持つ雅号「暁英」をもらい、暁斎の作品を海外に紹介しました。


暁斎展を記念し、暁斎が海外でどのように評価され、紹介されてきたかに焦点を当て、暁斎とコンドルへの理解を深めるシンポジウム。

 〇シンポジウム「河鍋暁斎とジョサイア・コンドル―海外における評価と受容」!|とんとん・にっき2

 〇日仏会館フランス事務所 | イベント・カレンダー | 河鍋暁斎とジョサイア・コンドル―海外における評価と受容

 

 

〇コンドルからのつながり

コンドルは、静嘉堂文庫美術館岩崎家玉川廟(びょう)を設計しています。この時、三菱一号館美術館も設計したということから、(⇒〇岩崎家霊堂(岩崎家玉川廟)「ジョサイアコンドル」「工部大学校」というKWへ伸び始めていました。

 

時同じくして、科博の展示でジョサイアコンドルの名をみつけました。

そのきっかけは「YS-11」のディスカバリートークに参加したことだったのですが、日本の工学というのは、当初は学問ではなかった。というお話が目からうろこでした。そんな中で唯一、「航空学」だけは学問としてスタートしていたそうで、メートル法を最初に取り入れたのも航空学だったといった解説がありました。

 

その延長に、工学を学問としてとらえるために系設立されたのが工部大学校(現在の東京大学工学部の前身の一つ)。大学初の工学部が設立されたのでした。日本には技術があったけども理論的な体系化が行われていませんでした。海外のお雇い外国人の力を借りて教育がおこなれました。

 

▼日本の近代化は日本人の手で その礎は「人づくり」

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▼お雇い外国人          ジョサイア・コンドルf:id:korokoroblog:20170917161619p:plain

 

▼工部大学校の教育

▼工部大学校校舎        ▼建築科授業風景
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▼工部大学校の設立f:id:korokoroblog:20170918162727p:plain

 

コンドルが手掛けた建物に、東京国立博物館の前身にあたる、上野博物館があることもわかりました。「コンドル」を通して、当時の耳にしたことのある建築家についてつながって少しずつ広がってきたところです。

 

三菱一号館」「河鍋暁斎」「コンドル」そして「工部大学校」「東京都国立博物館」・・・・ とすそ野は広がります。

同じ「コンドル」を通して歴史好きの方は、また別の形のひろがり方を見せています。部分、部分に、あっ、それ知ってるとつながっていきます。

 

〇コンドル・三菱一号館河鍋暁斎関連
 ⇒デジタリアン Kei Y ブログ コンドル
 ⇒デジタリアン Kei Y ブログ 三菱一号館
 ⇒デジタリアン Kei Y ブログ 河鍋暁斎

 

〇コンドル・工部大学校・東京国立博物館
 ⇒デジタリアンKei Y ブログ 工部大学校
 ⇒デジタリアン Kei Y ブログ 東京国立博物館

 

 

〇上野博物館(コンドル設計)

河鍋暁斎が描いた「東京名所之内 上野山内一覧之図」明治14年1881年

この絵の一番奥に、コンドルが設計した「上野博物館」が描かれているそう。

  

東京国立博物館 - 東博について 館の歴史 7.上野博物館 コンドル設計の旧本館開館

博物館の上野移転が本格化するが、それに拍車をかけたのが内国勧業博覧会の開催である。明治10年の第1回には閉会後の利用を目的として煉瓦造の美術館が建てられているし、 14年の第2回にはコンドル設計の本館が完成し、一階が美術館として利用されている。コンドルの本館は明治11年3月着工、14年1月竣工。現在の本館とほぼ同位置に建てられた。煉瓦造、2階建、正面左右に小ドームの屋根飾りをつけている。付属館として第1回内国勧業博覧会の美術館がそのまま利用された。

 (このあたりの写真も撮影していたはずなのですが、みつかりませんでした。東博の常設展に展示されていました)

 

 

■コンドルと暁斎

暁斎狩野派を学びつつも、独自の画風を確立。時の権力者に支持された狩野派のアカデミズムが廃れた理由として、伝統を守ることが死守され、新しい発想が取り入れられることがなかったこととに加え、明治という新たな時代訪れ、変化があげられています。

 

〇なぜ日本で話題にならず海外で評判なのか?

最近まで、暁斎はあまり知られていませんでした。その一方、海外の方が知っているという・・・・ なぜ、そのようなことがおきるのか?

 

最近も、日本ではあまり知られていない吉田博が海外の評価が高く、ダイアナ妃やフロイトマッカーサーがコレクションしているという話がありました。そんな吉田は、黒田と反目していたという話が・・・・ そして浅井忠も、黒田清輝に対して思うところがあったようです。

 

結局、主流派からはずれると日本では評価の対象にならないというこということではないかと思うようになりました。実力があるのに、日本では活躍の場がない。与えられない。しかし海外は実力を認めコレクターが存在する。それが今、逆輸入されているのかも・・・・・ 

  ⇒〇主流派とその周辺の画家

 

日本人には知られていないということも、主流派でなかったため(反発したため)私たち(一般人)の耳に、その業績が届けられていないということなのでは? と感じ始めていました。主流派の波に乗らなければ、日本では評価されない・・・・ 

 

このシンポジウムでは次のような質疑応答があったことを目にしました。

 

・なぜ、美術史の中から消えたのか?

明治以降の東京美術学校は、狩野芳崖や橋本雅邦ら主導権を。

芸大が始まる4月には、暁斎は病気になっていた。

昭和49年のブリタニカに載っていたのが、日本語になると消えていた。

教科書からも消えた。日本と外国のギャップがあった。

日本の悪いところ、流派で考える。

日本では一つだけ秀でていればよい。暁斎はあれもこれもできちゃった。

26年前、外国では認められていたので、イギリスでは向こうからやってくれと。

出典:シンポジウム「河鍋暁斎とジョサイア・コンドル―海外における評価と受容」!|とんとん・にっき2

  

これで、最初に日本画に触れた時に感じた違和感が解けました。

 

日本画なんてろくすっぽ知らないのになぜか、横山大観の名前を私は知っていました。それは私だけでなく、だれもが横山大観だけは知っています。それがなぜなのか不思議に思っていました。そして、それは教育によるものだったのだと気づきました。王道を歩けば、人の知るところとなる・・・・  

教科書にとりあげられるかどうか。それが世間一般の人に認知されるかどうかを大きく左右するということだったのです。そして教科書にとりあげるかどうかを決めるのは・・・・ そんなことが、なんとなくは見えていたのですが、(⇒横山大観について① (2016/02/09))この質疑応答ではっきりわかりました。 そして、大津絵が量産されるその背景の技法。富士山画を大量生産した大観の技法と重なるのでした。

 

 

■「民藝の日本 -柳宗悦と『手仕事の日本』を旅する-」

高島屋で行われている「民藝の日本」にでかけました。

 ここでも「美」とは何かというテーマが掲げられていました。蒐集の流儀は、まずは「直感」その後「知」で整理づける。「美の問題」の考究。思想的一貫性 宗教真理の探究」 仏教-浄土思想。 

 

大津絵の展示は一点《女虚無僧》だけ。次のような解説がありました。

 東海道大津宿の西端(追分から大谷の界隈)で軒を並べ街道を行きかう旅糸に神仏画を描き売ったのが大津絵の始まり。その後が台は当時の世相風俗を反映しながら風俗画から戯画、諷刺画まで盛んに描かれていった。繰り返し描かれたため、図像は略筆されかえって生き生きとした鬼味を生み出した。

 

これらの絵を描くのは生活の糧でもあった。そのため量産しなければならない。 繰り返し何度も描くうちに、図像は略筆される。それがかえって生き生きとしていったというのは、単に労力を抑えたというだけではない、熟練の技があってのことと理解されます。

ビデオの中にあった言葉。「多く作るものは早く 速さは熟達の美 走る筆」

 

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大津絵の店 大津絵十種

 

泥絵(解説より)

泥絵の具という顔料に胡粉を混ぜて安価な絵具を用いて描かれた絵の総称。長崎で始まった泥絵は上方ー江戸へ伝わり遠近を強調する西洋伝来の遠近法を真似て各地の各所図が描かれた。柳宗理は、この絵と「大津絵」を日本の民画とした。

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 日本民芸館で「日本の民画 大津絵と泥絵」展を観た!|とんとん・にっき

 

この構図にびっくり・・・・

日本人は、いつ頃から遠近法を獲得しいて、それをいかに取り入れて、取り込んできたのか・・・・ ということに興味を持っていたのですが、遠近法を名もなき画家がこんなふうにアレンジして取り入れていたとは! 複雑に組み合わされた消失点…という意識すら持たずに創意工夫で書かれたものだろうと思います。描くということを下支えしている厚さのようなものを感じさせられました。

他にも「泥絵」を見るとこんな感じで、西洋の遠近法とは違う世界を作り上げています。

 

 

⑮ 泥絵 | 山星書店 浮世絵 在庫目録 名古屋

 

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泥絵「霞ヶ関」 - えびな書店オンラインギャラリー

 

 

〇地方への波及

こうした名もなき画家が描いた「泥絵」が、全国に伝播していったのだということを伺い知れました。

 

また、江戸時代、どうやっていろいろなものが広がっていくのか・・・・ その一旦がわかった気がしました。参勤交代なども全国へのひろがりの一つのルーツと言われますが、五十三次の旅もその役割を担っているようです。

今のこの時代も今も、「〇〇に行ってきました~」「そこにはこんなものがあったよ~」 とめずらしいものをみつけ、「こんなもの食べました・・・・」と周囲に言いたくなるのは変わらないってことですね(笑)

 

「民画」と言われる「大津絵」と「泥絵」のひろがりとともに、名もない画家が描いた絵の力を感じさせられました。 

 

〇付記 自分にとっての価値とは?

日本民藝館 館長

初代:柳宗悦
2代:濱田庄司
3代:柳宗理 (長男)
4代:小林陽太郎
5代:深澤直人 ・・・・汐留ミュージアムの展示をやっている人だ!

 

柳宗理デザインの道具 洗練されていて素敵・・・
ところが地道なモノづくりをしている素材屋さん曰く デザインはいいんですけどね‥‥ 材質がね‥‥  そんな話を耳にしました。

 

ここに道具を選ぶ時の個人の価値観が見えると思いました。何を重視するのか。デザインなのか素材なのか・・・・ 個々の物の本質をどこに置いているかが見えかくれするような・・・・ 私は、デザインよりも素材だし機能だな・・・・ と思って柳宗理の鍋やボールは選択肢からはずれたんだっけ… 個々のモノに対する考え方が、ここに表われると感じた出来事でした。

 

初めて民藝運動に触れたのは、高松の栗林公園の横にあった民芸館。2005年頃

【讃岐民芸館(栗林公園併設)】磁器や漆器を中心に、民芸民具が3900点所蔵!(展示は990点) | walking四国

 

生活の道具の中に美を見出すという視点はここの展示で知りました。

 

» 全国の民藝館 のリストに出てるかな? と思ったら掲載されておらず、あれ? と思ったら讃岐民芸館は、香川県の運営だからのようでした。

 

 

 

内国勧業博覧会

明治に入って近代工業の確立のため、工部大学校が設立。そこで学んだものたちが、近代工業の発展に寄与していきます。さらに近代化促進のため内国勧業博覧会を開催し産業の増進をはかります。

 

〇そごう美術館「明治有田 超絶の美 万国博覧会の時代」の中の内国勧業博覧会

2015年 そごう美術館で行われた「明治有田 超絶の美 万国博覧会の時代」で、「万博」と「内国勧業博覧会に出品し、技術を磨きながらも時代の波に翻弄した香蘭社、精磁会社、深川製磁の作品展で内国勧業博覧会を知りました。

この展示では、磁器から見た「内国勧業博覧会」としてとらえていたのですが、その後、様々な産業が、国の殖産興業政策の旗振りのもとに、内国勧業博覧会」に出品し技術を競い合っていたことを、いろいろな形で知ることになりました。

 

殖産興業政策なのに、絵画も含まれていることが意外だったり・・・・

内国勧業博覧会美術館之図 歌川広重筆 明治時代

出典:東京国立博物館 - 東博について 館の歴史 6.内国勧業博覧会 殖産興業と博物館

陶磁器だけでない工芸品や様々な工業製品に及んでいました。

 

 

〇科博でみた内国勧業博覧会

工部大学校設立、内国勧業博覧会の実施。国を挙げて産業の復興をあと押ししていることが、技術という側面から科博でも展示されていました。

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ところがこれらの博覧会で磨かれた超絶技巧も、内外ともに次第に陰りを見せていきます。内国勧業博覧会は、第5回を持って終了します。その第5回が京都で行われ、住友春翠が協賛会長として尽力していました。この内勧博の審査部長が、中澤岩太、そして浅井は審査監だったのでした。今後の日本の産業の方向性の模索、超絶技巧からの脱却(?)あらたなデザインの構築、浅井らは工芸をデザインという視点からとらえる方向を模索して日本の産業を切り開こうとしていたのかもしれません。

 

〇「浅井忠の京都遺産」の内国勧業博覧会 

第5回内国勧業博覧会 

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写真は内覧会で撮影したものです 

 

▼第5回内閣勧業博覧会会場略図

f:id:korokoroblog:20170918173532p:plain科博にて撮影  

 

第5回 内国勧業博覧会というのは、最後の灯のように思っていました。が、京都では陶磁器の不振から脱却をはかろうと陶磁器試験場などを設置して、回復策を試みていました。またそれぞれの窯元でも模索を行っていたと言います。そして、陶芸界を支えたのが住友春翠だったのでした。

住友春翠の文化遺産―第五回内国勧業博覧会と近代陶芸作家たち

 

第5回の内国勧業博覧会は、1903年明治36年)大阪で行われました。春翠の別邸を社交の場として提供、作品を購入するなどして多大な尽力をつくしています。

 

超絶技巧の衰退・・・・かに思っていたところがありましたが、陶磁器の世界を発展させるべく尽力されており、大正期へと引き継がれていたことがわかりました。

 

 

その他

三井記念美術館 「驚異の超絶技巧」展

浅井忠のデザイン化された方向とは対極の「超絶技巧」の展示が始まっています。方向性の違う展示を見るのも面白そうだと思いブロガーナイトに申し込んでいたのですが、都合が悪くなってしまい訪れることができませんでした。

 

  ⇒#超絶技巧 hashtag on Twitter

  ⇒Images about #驚異の超絶技巧 on Instagram

 

山下先生のお話もあり、楽しみにしていたのに残念です。ここにも美術への価値の与え方の変化が見られるようです。

 

受け継がれる超絶技巧のDNA(公式サイト)より(参考)

明治時代の工芸は、アカデミックな世界ではこれまで注目されていませんでした。が、外貨獲得のため、諸外国の好みに合わせて作られていた超絶技巧の工芸品が、輸出を目的に作られていたため、日本ではあまり目に触れる機会がありませんでした。そごう美術館で「明治有田の超絶の美」(2015)が行われた時、明治の陶器の研究は、エアポケット状態で、まだ、研究がされていないため、価値も定まっておらず、今ならまだ間に合う。現地でも需要がないので安く手に入るけど、これからは・・・・

そのきっかけが、そのきっかけが2014年から三井記念美術館で行われた「超絶技巧明治工芸の粋」で、それらが里帰りして注目を浴びるようになりました。明治の工芸が再評価される気運が高まりました。その第二弾では、現代の超絶技巧に機知をプラスした現代作家の展示があるとのこと。アカデミックな美術史評価や、伝統工芸のヒエラルキーと無縁の現代作家にスポットをあてた展示だそうです。

 

 

 

〇美とは何か

日本であまり知られていない画家が海外では有名だったり、同じ国内でも、これまで見向きもされていなかった若冲が急にスポット浴びたり・・・・ そんな状況を目の当たりにして、美術の価値ってなんなんだろう…と思っていました。

 

なぜ、急にスポットを浴びだすのか。誰も目もくれなかったものが注目されるというのはどういうことなのか。逆に、それまで否定的だった人は、その現象をどう思っているのか。そんなことに興味を持っていました。

 

茶の湯の世界で、茶碗の価値が、時の権力者によって変わった若冲がこんなにブームなのになぜ、それまで誰も注目しなかったのか? 明治の始めは文人墨客趣味が強かったため、若冲はコレクションする人の目には、キワモノに映っていたらしいです。しかし若者中心にブレイクがおきました。

 

民藝運動も「美」とは何か… について考える時、それを率いる人がその価値を決めています。「美」とは人が決めるもの。そしてその人の「力」「影響力」によって決まる・・・・ 

 

 

「美」とは何か・・・・ あるいは「美術史」を考えた時。

 

山下裕二先生の次の言葉を思い浮かべました。

日本画壇が御舟に冠をいだくことでつまらない美術史作った。大観、天心の評価とともに見直すことが必要。 

     ■新美術館開館記念特別展 速水御舟  日本画への挑戦

 

私は美の評価とは結局のところ「力」なのではないか‥‥と思い始めています。権力を持った人に認められる。あるいは、力のある主流派に属して認められること。

 

しかし、今、こうした価値の見直しが始まっていて、新たな「美」を見つけるという機運が高まっているのではないか。だから聞いたこともないようなアーティストにスポットがあたり始めているのかなぁ‥‥ と感じてきました。

  

    ⇒#超絶技巧 hashtag on Twitter

 

 

三井記念美術館 「驚異の超絶技巧」にみる「美」

今回の三井記念美術館「驚異の超絶技巧」展でも現代の「超絶技巧」作家今はまだ一般的には知名度のない 作家にスポットが当てられています。100年後、200年後に評価されることを視野に入れつつ・・・・

 

「日本の美術ってデザインだった」 でも、それを支える工芸を初めとする技術がありました。明治の工人たちが切磋琢磨で磨いた超人的な技巧。これは途切れてしまったものだと思っていました。現代の趣味趣向からも、技術は大いに認めるけども、あまりごてごてしたものは好まれなくなっている。そんなことを思っていました。

しかし細い糸ながらもその技術は確実に今に受け継がれていていることが写真からも見てとれます。さらにそこには技術だけではなくユーモアセンスも加えられていて、見る人の顔をほころばせる新たな世界を作り上げています。機知にとんだ作品。それは今注目を浴びている、「奇想」というキーワードにもつながっているように思われました。技術で驚かせ、アイデアでも驚かせる・・・・

 

光のあたっていないところにも光をあてる。あらたな自分の美をみつけるための展示…そんなしかけのある展示だったことが伺い知れます。

 

(今回の展示、清水三年坂美術館 から多くの出品があったとのこと。京博の国宝展に行ったら、足を延ばそうかなと思っていた美術館でした。いろいろなところでつながり合っています。いけなかった展示ほど、あとからまたいろいろなつながりが出てくるようで…)

 

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【追記】2017.09.17 「origin as a human」高橋賢悟

 

ブロガー内覧会の報告でアップされる写真を見ていて、まずこの作品を見た時に頭に思い浮かんだこと。死者にたむける花のことを思いました。人は類人猿からいつ人に変わったのか。それは仲間の死を悼むという感情を持った時。その感情の現れとして埋葬時に、花が添えられていた。それは死者を悼むという感情の現れと行動が結びついたもの。土に埋める時に花がたむけられ弔われた。その時から、人としての道が始まった…そんな話をこの頭蓋骨に添えられた花から思いうかべました。

墓地に花を飾った最古の例、イスラエル | ナショナルジオグラフィック日本版サイト

 

また、昔は、土葬されていました。埋められると人型に土がこんもりと形が残ります。しかし時間とともに土は沈み平坦に。やがてそこから花が咲きます。その花は人の形になって咲いたと言います。おじいちゃんがお花になって生まれ変わったね。人は土に返り、花の養分となってまた新たな命をはぐくむ。そんな循環があった頃の話・・・・ または、戦争で死者が埋められたその平原の上に咲き乱れる花の意味は・・・・

 

生命、連鎖、輪廻・・・・(⇒◇生命・連鎖・輪廻 カテゴリーの記事一) 作品からそれを感じた時、強力に惹かれていきます。その作品が好きかどうかは別として・・・・  美とは何か。「生」を感じらせるもの。いかに生きるかを問うもの。

 

かつて人の死は、他の生命にバトンを渡していました。私はこの作品の中に、命のバトンを感じさせられました。私が惹かれるポイントになるテーマをみつけました。作者の方がそれを意図されているのかどうかはわかりませんが…

 

「驚異の超絶技巧! -明治工芸から現代アートへ」 | 弐代目・青い日記帳より

真っ白なタカサゴユリは山で射止めた鹿の角を削り作られたものです。単に美しさを求めただけでなく「命の再生、循環」というテーマが底に流れています。

「いかにも儚い草花の造形を見る人が、失われた鹿の命、摘み取られた草花に思いを致すとき、彼の制作コンセプトが理解されるのである。」と監修者の山下裕二先生が解説されている通り、彼の折れてしまいそうな作品には重層的な深い意味が込められていることを感じ取れます。

山下先生は、カサゴユリに命の再生、循環を感じられたようでした。

 

骨だけのサンマ・・・・ 

 

これも骨になるまで食べる。生き物はこんな骨格でできている。何かを食べ、何かに食べられるという連鎖の中で生きている。それが一本の「木」から切り出されて生まれた。

 

 

【追記】2017.09.17 「美」は力関係

資生堂のアートエッグの対話型審査会に参加しました。(⇒■告知:第11回「 shiseido art egg」対話型審査会に参加して)3人の審査員の一押しが、最後に残った3人、それぞれに分かれました。このあと話合いが持たれるそうです。

その時に思っていたこと。このあとどうやって決めるのか・・・・  

審査員の力関係なんだろうなと感じていました。あるいは、審査員がどれだけ強力に自分の押す作家をプッシュするか。この人を推したいという気持ちがあるか。惚れ込んでいるか。そして、そのための言葉をいかに紡いでいくか。「言葉の力」でもあるということも感じさせられていました。その言葉でだれがイニシアティブを握るのか。そんなことを、思っていたことと重なりました。改めて「美は力だ」と感じるようになって思い出されました。(そこから想像して、この方ではないかな… と個人的に思っているのですが、当たるも八卦、当たらぬも八卦・・・・)

 

審査員の様子からして、絶対、この作家を押したいという「熱」は感じられませんでした。「該当者なし」という発言もあり、誰がとってもおかしくない状態。行ってみれば、場の状況に応じて誰であってもいい状態。なびける状態でもある。それが、あの場で、誰を推すかを発表することを拒んだ理由だったのではないかと感じさせられてしまったのです。

 

横並びになりました。さてそのあとどう選ばれるのか・・・・ それも選考者の力なんだろうなと。

 

 そう考えると、今回、この「驚異の超絶技巧」に登場された現代作家の皆さんも、力のある先生に見出されたことによって、お目見えできたということでもあるのかも‥‥

 

 新たに提示された「美」の形。それに対して、そのまま受け入れるのではなく、自分で考えて受け入れることも大事。多くの人が、すごい、すごいと受けれてしまうのですが、こんな意見も・・・・

  ⇒三井記念美術館 驚異の超絶技巧!展 - たびのきろく

 

いろんな感じ方があることが大事なんだと思いました。

 

 

【追記】2017.09.20    狩野派も力

サントリー美術館の「天下を納めた絵師 狩野元信」の会員向けの内覧会に行ってきました。狩野派のなんたるかも全くわかっていないのに、マンネリズムによってすたれてしまった流派・・・・  って勝手に思っていました。

 

ところがどっこい、展示室に入るなり迫りくる圧倒的なパワー。これが狩野派狩野派たる所以・・・・ 300年の栄華を誇る幕府の御用絵師を務めることになった底力を見せつけられた感じでした。個人的に熱愛している、海北友松のエッセンスを狩野派は持ってる……なんてことを一瞬、思ったのですが、友松は狩野派を学んでいたのでした。友松のあの空間表現の源流は狩野派にあった! 等伯暁斎もみんな最初は狩野派を学びました。狩野派、比較的すぐに習得できたのも元信による中国の水墨画の分析し整理して体系化した功績があったから。力のある絵師は、そのエッセンスを吸収し、独自路線を走ったということだったのかもしれません。狩野派、見直しました(笑)

 

そして、レクチャーの中の話。今でこそ狩野派は幕府の御用絵師という認識が轟いていますが、元信の時代は、そうした仕組みを作り整えていた時代。幕府、禅宗パトロンから、公家、宮中へと拡大し、当時、力を持ち始めてきた町衆にまで拡大を図った。

幕府という後ろ盾にさらに、世相の中で力を持った町衆を取り込んだという話を聞いて、ここでもやっぱり「力」によって支えられています。

 

そして、筆様を研究整理し「真」「行」「草」3種類の画体を生み出し型として確立。それを習得すれば、均一で安定し絵を供給できる工房のスタイルも確立。 

幕府という強大な権力と、民衆という属の力までも取り込むことによって長きに渡り日本の画壇に君臨してきたわけです。そして、大観同様、日本史、美術史をすっかり忘れてしまっていても、狩野派という言葉もまた誰もが知るところなのでした。

 

結局のところ、「力」によって決まるというのは、美術の世界だけなく、この世の理のとも言えます。芸術、美はそうした真理を教えてくれるものと言えるのかもしれません。 

 

狩野派は古臭い表現・・・・ 勝手にそう思っていました。が、今回の展示の目的として語られていたこと。元信は他の絵と比べると、ちょっと認知度が低いです。しかし、その画力は他の狩野派の絵師に決してひけをとるものではありません。その実力を存分に見せたいという思いがあったと言います。

 

その思いと元信の筆力が、どうだ! とばかりビシバシ覆いかぶさってくるような錯覚を覚えさせられていました。

 

狩野派? マンネリズムなのよね・・・・ そんな勝手な先入観を、言葉なくして、力で押し寄せてくる感じでした。他人の力でなく、自分の力で感じることができるのが真の美なんだなと思ったのでした。

 

参考: 400年の美。なぜ狩野派だけが、天下人の心を捉えたか? - まぐまぐニュース!

 

海北友松関係で年表を作成した時… 元信はスルーされてました(笑)

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■めぐりめぐってフェノロサ

そして、「大津絵」と同様、今回スルーしてしまった三井寺 

よく知らないから今回はパス! と思って、三井寺のお餅だけ買ってお茶を濁してました。

 

 

戻ってみれば、ここにフェノロサのお墓があったことを知りました。

  ⇒デジタリアン Kei Y ブログ アーネスト・F・フェノロサ 法明院

 

日本の美術を見出したフェノロサフェノロサの指導のもと岡倉天心とともに近代日本の美術が始まったとされます。フェノロサは、狩野派を支持していたそう。 

 

山下先生によれば、大観、天心の評価とともに美術史の見直しが必要。ということは天心を指導したフェノロサの目も、絶対視せずに見る必要があるということつながるでしょうか?

 

結局は、既出の美術史観でない、自分の目で見て感じることが大事なのだと思いました。自分は何が好きなのかを知る。そこにはファーストインプレッションが、意外に的を射たりすることもあります。

 

大津絵から巡り巡って、こんなところに着地しました。大津から戻って見る美術展、すべてが何等かの形で結びついていくのを感じているところです。

 

なんでも何等かの形で影響を与えたり与えられていると考えれば、つながり合うのは必然なのかもしれません。

 

 

■付記 佐川美術館 

いつもMIHO MUSEUMを調べる時、抱き合わせでツアーに出てくる美術館で、あまり聞いたことないしとこれまたスルーしていたのですが、結構、よさそう・・・・

 

春に見た楽焼の展示もされているようです。京都もいいけど、滋賀、びわ湖湖畔にもいろいろ見どころスポットがありそうです。