コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■マルセル・デュシャンと日本美術:彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえもの第一印象

「美術は考えるんだ」というメッセージを残して終わったマルセル・デュシャンと日本美術」。この展覧会で見た難解な作品、通称「大ガラス」。最初に見た印象は、時間とともに薄れてしまいます。それを忘れないように今年のうちにメモ。見たあとに周辺の情報が加わり記憶が塗り替えられないうちに。

 

■出会いは書籍の中

 「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」。この長ったらしい名前の作品を知ったのは、『いちばんやさしい美術鑑賞』ちくま新書う 青い日記帳)の書籍からでした。

この展覧会の鑑賞をするにあたってデュシャンに関する情報は入れずに、まずは、作品を見てみよう。と思っていたのですが、展覧会に行く道すがら、電車内で、デュシャンに関して書かれた章を、読んでいました。

 

「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」
     通称:大ガラス(The Large Glass)

 

この作品名、いったいなんなんでしょう? そして本の解説には写真がなく(実際には口絵に掲載されていたのですが、移動中だったこともあり気づきませんでした)どんな作品かもわからないまま、文字を追って、そこから作品をイメージしていました。こんな難解な作品を画像なしで説明されても無理!と思いながら、「考える」がテーマの展覧会なので、作品の画像がなくても、可能な限り考えてみようと思いました。

 

解説にはこんな感じのことが書かれていました。

〇高さ 272.5cm 幅 175.8㎝ 
鉄の枠で固定された2枚のガラス
〇ガラス内に油彩、ワニス、鉛、針金などで機械的なものや謎のものが表現
〇移動中に入った無数のひびが確認
〇タイトルの花嫁tと独身者が表現されていると考えられるが、それがどこかわからない

 

デュシャンが残した作品を解釈するボックスから次のことがわかる

半分から上が花嫁 半分から下が独身者
中央にある水平線は花嫁衣裳と名付けられ、永遠に一人寂しい状態
〇独身者たちは悶々と自分たちの世界から出られずに、お互い合えない

 

東京大学に東京バージョンがある

〇これを含め世界に3点、デュシャンが認めたのレプリカが存在

 

太字の部分が印象に残っていた部分です。

 

そして、作品の下の部分は、遠近法を感じさせる図が・・・・ と書かれていた記憶があるのですが、それが何によるものかわからなくなってしまいました。「遠近法」の表現の変遷については、個人的に興味を持っていました。時代も下って、デュシャンはどういう遠近表現をしたのか気になっていました。 

 

 

■文字だけで想像してみた

文章だけでどんな作品かイメージすることは不可能ですが、文字で解説された言葉だけで、デュシャンが何を表現しようとしたのかを考えてみました。参考になったのが次のことでした。

 

半分から上が花嫁で、半分から下が独身者、それらは、中央の水平線で分断されていて、花や嫁は一人寂しい状態

 

この文言から、若い女性たちの、結婚に対するジレンマのようなものを表現しようとしたのでは?と想像しました。女性の何人かの仲良しグループがいて、その中で最初に結婚が決まった時におきるそれぞれの感情。

結婚する側は一抜け感があります。しかし、もうかつて仲よく遊んだ状態には戻れないという疎外感もあります。が、最初に結婚するという優越感も心の奥に・・・・

一方、残された女友達は、オメデトウと表向き取り繕うけども、そこには羨望や、先を越された感(笑) 次は私が、ここから抜ける…という気持ちが渦巻きます。こうして一人抜け、二人抜けして、次第に孤独になっていく複雑な感情。

 

結婚して違う世界に旅立つ花嫁と、残された友人たち。その間に立ちはだかる言いえぬ感情と壁。それが中央の分断された水平線で、お互いの行き来はできなくなる。結婚という社会制度がもたらす、それまでの関係性の分断みたいなことを表現したのかなぁ‥‥(笑) 作品を見てもいないのに、そう思ったら、こういう作品にしか思えなくなっていました。

 

 

■思いがけず展覧会で遭遇 

デュシャン展」(2018)は、全く予備知識を入れていないので、どんな作品が展示されているかも知りません。会場に入って最初に印象派のような絵を目にしました。デュシャン印象派みたいな絵を描いていたんだ!

 

するとキュビズム風の絵が登場。作風、ずいぶん変わるんだな…

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その壁を超えゲートをくぐると・・・・ 

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目の前に現れたのがこちらの作品。

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見た瞬間、これがあの、長たらしい作品だったりとか!?

そう感じたのは、まずはガラス作品であること。上下半分に分かれていること。中央に上下を分離する水平があること。ガラスの下部には、遠近法で描かれ図形があったことです。

でも、上部は「花嫁」だと言われているけども、どう見ても、花嫁には見えません。下も「独身者」には見えません。そうそう、この作品にはヒビが入っているって言ってたんだっけ。これには、ヒビはないから違うのかも・・・・ と思ってタイトルを見たら

 

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「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」

東京版とあります。そういえば、東大にレプリカがあると書かれていたことを思いだしました。東京バージョン、レプリカが展示されているのだと理解しました。ヒビがないわけです。

 

 

■現物をじっくり鑑賞

何をどうとらえたら上部が花嫁になるのか、全く理解ができません。白という色が花嫁をイメージさせるくらいでしょうか? 白いもやもやとしたものは、雲のように見えます。花嫁は天の上にいるような存在に、独身者からは見えるということでしょうか?その雲らしきものに3つの四角い窓があります。雲にある窓。花嫁はそこから、分断された下部を覗き込むのでしょうか? そして雲らしきものから垂れている左側の形。これが何であるのかは、想像が全く及びません。

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下部は機械的で、動力的なエネルギーが伝わっていくのを感じさせます。遠近感のある図形の中には水車のようなものがあります。この回転運動が、その上のバーに伝わり、三角のコマのようなものに、エネルギーを伝えているようです。

エネルギーは少しずつ増幅されているようで色が濃くなっています。三角のコマは独身者を表していて、お互い歯車のように連結し、負の(?)エネルギーを増幅させているようです。その力は、その下にあるものを動かしているようです。

独身者はここのゾーンを抜け出さないと、社会のコマとして、動き続けなければならない宿命みたいなることを意味しているとか?

 

「先に結婚する人 vs 残された人」の機微

  

最初にそういうテーマだと感じてしまったので、実物を見ても解釈はその方向でしか進んでいきません(笑)

この作品には、見る前、遠近を表現した部分があると聞いており、デュシャンはどんな表現をしたのか? と期待していました。ところが、なんのことはない。図形だったので、ちょっと拍子抜け。

しかしそのパースがかった図形の中に、水車のようなものがあったので、このボックスが動力を生み出すものととらえることができ、機械の設計図がイメージされました。図形から立ち上がった棒が、回転運動に変化させるのか・・・・ と思ったら、この状態では回転はおきません。振動でも伝えているのでしょうか?

 

そう考えると、奥に並んだ茶色の物体は、人と考えることができるかも。よくわからず、埴輪みたいと思っていました。⇒*1  これは、女友達グループ以外の、世の女性たちを表しているとか? ざわざわと世の中を振動で動かし、モーターのような四角い物体にエネルギーを与えて、動力に変えようとしているとか・・・・

 

ガラス上部が観念的でよくわからないのに対し、下部はデュシャン科学の目を感じさせられました。ちょうど、産業革命後の機械化の進んだ社会なのかな?。機械によって動かされる社会を風刺していたり!

 

裏から見たり、角度を変えてみたり・・・・ 

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周辺にある文字情報は見ずに、想像できる限り、想像してみました。パースがかった図形によって、下のガラスには奥行きが感じられます。そしてクロスしている棒、チョコレート磨砕器の形も奥行きを感じさせるのに一役買っています。それは斜めから見ることで、ガラスの中に広がる奥行きをより強く感じました。一方、上部は平面的… そして、自分なりの解釈を加えることができませんでした。


展示で妙に気になったのが、「さわってはいけない」マークの周りの板目が違っているのです。これは、シートが貼られているのか、繰りぬかれているのか・・・・ なぜここだけ板目が違うのか・・・・ 注意のサインが埋もれてしまわないよう気づきやすくするためでしょうか?

  

 

■壁のヒントから読み解く

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最初に見た時は、この《大ガラス》の周りの壁に展示されている作品は、「大ガラス」とは関係のないものだと思っていました。2回目、解説を読みながら見ていたら、「大ガラス」のモチーフであることが判明。

 

〇チョコレート磨砕器

2回目に見た時に、これがチョコレート磨砕器であることがわかりました。 

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(左)25《チョコレート磨砕器No.1》 光と影の明確な対比
(右)26《チョコレート磨砕器No.2》 無味乾燥なスタイルに

 

楽器のドラムだとばかり思っていたのは、チョコレート磨砕機だとわかりました。

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水車の回転でおきる動力を伝える対象が、機械だったということで、私の中では辻褄が合いました。

 

 

〇裁縫糸で表現されたローラー《チョコレート磨砕器No2》

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裁縫用の糸を縫い付けるという新たな手法で磨砕器のローラーが表現されています。解説を見たあとは、その糸の部分が妙に目についてきます。

水車のようなものが回転するエネルギーを、楽器だと思っていたドラムに伝えて、音を鳴らすのかな?と思っていました。(それでもいいんだけど(笑)、どうも自分の中では、しっくりしていません)ところがドラムだと思っていたのは、磨砕器だったとわかると、水車の回転から得られたエネルギーが機械に伝わって、磨砕作業をする。動力が作業に変換されているということで、腑に落ちた感じがしました。(なんだかグダグダと頭の中で考えているようですが、瞬間的によぎりました。)

ところで、この機械、チョコレートの磨砕機であることを見ただけで理解できる人はどれくらいいるのでしょうか? その機械を知らなければ、この作品の意味は理解できないはず。

やはり情報がないと、作品を理解するのは無理のようです。そして、この機械をチョコレート磨砕器だと知ってしまうと、それ以外のものには見えなくなってしまいます。

この状態とうのは、一度、自転車に乗れるようになってしまうと、乗れない状態には戻れない。それと同じなのだと思っています。ドラムだと思ったことなど、そのうち忘れてしまうでしょう。わからなかった時の状態には戻れないのです。

ちなみにチョコレート磨砕器とは、どんなものなのでしょうか?

 

〇チョコレート磨砕器を調べてみた

「チョコレート磨砕器」を画像検索してみたのですが、なぜか出てくるのは、ほとんどがデュシャンの「チョコレート磨砕機」ばかり。現物はどんな形をしているのでしょう? 下記のような形の写真が、わずかに確認できました。

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引用:チョコレートの博物館 | Stundenbirne

 

 

デュシャンの磨砕機は砕くことができる?

デェシャン磨砕機は、3つのドラムが横向きです。

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ところで、この機械で、カカオはどうやって粉砕するのでしょうか? ドラムのようなものにカカオを入れ、回転することによって砕いているのだと想像しました。回転ドラムの中には、コーヒーメーカのミルのような刃物が中に入ってるのかな? それだとかなり高速回転しないと砕けなさそう… そんなことを考えていまいた。でも、これは古い機械のようだし、この時代の仕組みなんだろうと思いました。便器のドレインの方向が手前に流れるのは、時代の背景だから・・・・と思ったのですが、しかけがあったように、この磨砕器にも、何かあるかも・・・・と気にかかっていました。

 

デュシャンはイメージを形していた?

どうやら、このチョコレート磨砕器、イメージを形にしたものらしく、機能的な部分は取り除いて表現しているらしいのです。

 参考:デュシャン『チョコレート粉砕機』② - 続・浜田節子の記録

 

機能的な部分は取り除いていた。《泉》の時と同じです。

あの形状、あの大きさは、便器として機能しないのではないか? 
チョコレート磨砕機。この形、構造でカカオが砕けるのだろうか・・・・

デュシャンの芸術は、機能のエッセンスの部分を取り入れ表現している。だから実用にそぐわないこともある。(デュシャンだけではないと思うけど)一方、私が物事を最初にとらえる時は、まず、自分の中にある原理や原則に齟齬がないか、それによってすんなり入ってくるのか、何かひっかかりを感じるのか… そんなことから始まるようです。

他の磨砕器を見ると、石臼のようなものでこすり合わせて回転させて、粉砕する構造になっていました。

 

〇カカオ豆粉砕の歴史

かつては人力。世の中が動力を得たことで、回転運動を利用して磨砕しています。

ããã§ã³ã¬ã¼ã磨ç æ©ãã®ç»åæ¤ç´¢çµæ引用: 製品&販売情報|ショコラミル~チョコレート作り専用石臼 - Chocolat Mill -

19世紀、風力、水力、蒸気機関の動力を使って横になった石を回転させてカカオを砕いています。ここで、カカオを砕くことに、大きな認識違いがあったことに気づきました。

 

カカオの粉砕は、摩擦熱で溶けて液体になるそう。コーヒー豆のように粉状になるのかと思っていたのですが違うようです。

 

こちらが現代版の粉砕器

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〇現代の石臼タイプのショコラミルの中に発見

この石臼にはグラインダーで溝がつけられています。(写真上から3枚目)

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引用:製品&販売情報|ショコラミル~チョコレート作り専用石臼 - Chocolat Mill -

 

この溝こそが、作品No25のドラム部分に糸で施された造作とつながります。

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デュシャン裁縫用の糸で丹念に縫い付けて表現しました。それは、磨砕機の心臓部とも言える場所だったことがわかります。それがこの磨砕器の肝の部分であることを、新たな技法を使ってより強調したかったということにならないかな? その部分を見せるためにドラムを横にしてイメージを伝わりやすくしたとか? 現代のチョコレート磨砕器とデュシャンがつながりました。

 

 

〇のちに撮影された「大ガラス」

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(右)1926年

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(左)1949年
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《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》を、最初に見た時の印象を、忘れないように記録。しかしながら、見てから、かなり時間がたっているため、その後に得た情報が、なんらかの形で影響されている部分もあると思います。

この作品を「女性同志の関係が、生活の変化によってもたらされる心の機微(分断)」を表現した作品ととらえました。

学生、社会人、結婚、出産・・・・ そこには、これまでと全く違う生活領域に入っていきます。最初は「結婚組、してない組」そのあとには、「出産組、してない組」と関係性は、いろいろな形で分離していくことを、多くの人は感じてきたのではないでしょうか?

そうした社会的な環境の変化と、それが人に及ぼす影響をデュシャンは、表現したのではないか?しかし、デュシャンの時代の女性の結婚観はどうだったのか。そもそも、デュシャンは、そんなめんどくさそうな女性の人間関係に興味があるだろうか。あるわけがない(笑)(これは、すでにデュシャンの生きた時代を知り、デュシャンを少しずつ知ってしまっているからこのように思うわけで・・・・ またこの作品がどういう作品かも、少しわかってきたので、こんなことテーマにはしないって思っているわけです)

 

作品を見るという行為は、自分の体験や知識にをよりどころとして、それに重ね合わせて考えるということだと思っています。従って体験していないことや、知らないことを読み取ることはできません。

知識0の状態では、考えるための素材がないので、読み解くことはできません。今回は、たまたま、見る前に書籍から、どんな作品なのかわずかな情報を得ることができたので、それをヒントに想像することができました。もし本当に何も知らずにこの作品を見たら、どのように解釈していたのでしょうか?

 

ただ、何も知らなくても、想像することができる部分もあったように思います。作品下部で表現されていることは、おそらく、何も知らなくても、機械的なエネルギ―の力を感じたと思います。そしてエネルギーの循環のようなことも理解できたのではないかと思うのです。デュシャンに科学の目を感じたのではないかと思います。

デュシャンに対する知識が0だったとしも、自分の体験や知識をもとに考えることは可能だと思いました。そして、美術の解釈に正しい、間違っているはないと思ってきました。

ところがデュシャンの場合は、理解をするための道具や、資料を提供していたのです。そこに作者の意思が存在しています。花嫁と独身者。独身者は男性であることが、タイトルの原文からわかりました。最初に女性だと理解したことは、間違っていたこになります。(⇒*2

 

そして、今後、デュシャン作品を見た時に、どうも辻褄が合わない。と感じることがありそうです。それは、デュシャンのイメージとして落とし込まれた形なのかも。必ずしも理にかなっているわけではないのです。しかし、肝の部分はきっと強調表現されているかも。それが何なのか? と探るようになっているのでは?と思います。

 

 

■タイトルの意味

〇独身者は男性? 女性?

タイトルの「花嫁」「独身者」

 

ここで私は、「独身者」を迷うことなく「女性」と想定しました。ところがこの作品の解説を見ると「男性」なのです。どちらに想定して考えるのか。あるいは、性別を関係なく考えるのか。それによって捉え方も変わるはず。

 

〇英文タイトルは?

そして《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》という妙なタイトル。文法的にも変・・・・ しかし、タイトルは、日本語でつけているわけではないですから、誰かが訳したわけです。訳者の意図や、意訳が入ってるのでしょうか?

 

このタイトルの原文は・・・・

 The Bride Stripped Bare by Her Bachelors, Even
   Bachelors ⇒未婚男性
   Even   ⇒さえ(も)

英文のタイトルでは、独身者は男性と限定されていたことがわかりました。

 

デュシャンってそういえばフランス人

谷川渥は、" La Mariee mise a nu par ses celibataires , meme "を、「花嫁はその独身者達によって裸にされてさえも」と訳している。これは日本語になっている。

引用:花嫁はその独身者達によって裸にされてさえも/マルセル・デュシャン - 浮動点から世界を見つめる (旧:気の向くままに)

 

そういえば《泉》のタイトルは、デュシャンがつけたものではないという話もあるらしい。

《泉》は1917年にマルセル・デュシャンによって制作されたレディ・メイド作品。セラミック製の男性用小便器に“R.Mutt"という署名と年号が書かれ、「Fountain」というタイトルが付けられている。このタイトルは、ジョゼフ・ステラとウォルター・アレンズバーグが決めたともいわれる

引用:【作品解説】マルセル・デュシャン「泉」 - Artpedia / わかる、近代美術と現代美術 (出典を知りたいところ・・・・)

 

参考:デュシャン『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』① - 続・浜田節子の記録

彼女は独身者たちを所有するだろうか。

 

 

■残されたさまざまな資料

 難解な《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》には、《グリーンボックス》と言われる資料が残されました。作品理解すつためのツールとなります。 

 

〇1932年のボックス 

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〇トランクの中の箱

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〇グリーン・ボックス 

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作品に関する様々なメッセージが残されています。まずは、この作品を見た最初の印象をとどめておいて、これから追々、調べて行こうと思います。 

 

 

■関連

【作品解説】マルセル・デュシャン「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」(大ガラス) - Artpedia / わかる、近代美術と現代美術
誰も デュシャン から逃れられない~《大ガラス》東京ヴァージョンを前にして~ - zeitgeist
見ること、聞くこと、感じること、考えること、そして想像すること ----三つの『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』 - molecular theatre <provisional>
真贋のはざま 28 芸術における「オリジナリティ」とは何か?

解読された「大ガラス」 展
花嫁はその独身者達によって裸にされてさえも/マルセル・デュシャン - 浮動点から世界を見つめる (旧:気の向くままに)
マルセル・デュシャン、大ガラス
徳島県立美術館 グリーンボックス 解説

 

■追記 

〇(2019.01.02) 《大ガラス》展示の解説より

参考:展示解説 No28より

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・現代数学や科学技術の難解な考察によって、性的な欲望の寓話を表現したもの。
・抑え込まれた欲望の物語。
デュシャンの興味の対象はエロティシズム、偶然性、ふざけたユーモア。
・それらを統合した作品。
・鑑賞者に思考と想像力に関与することを望む。
・素材の選択も革新的

 

 

【モチーフ】

上部⇒花嫁・・・機械と昆虫の混成物 衣服を脱ぎエロティックな香りを漂わせる

下部⇒独身者・・・9つの空洞の雄の鋳型
    複雑な機械を通して処理される性的な放射物を送り出すことにより応える

 

【空間表現】

下部⇒三次元 西洋絵画の表現の基礎、3次元の視点で描く。
上部⇒四次元 通常の視覚を超えた霊妙な4次元の空間を描く

 

【素材】 

・ガラスの表面に鉛線の輪郭線を使用。
・円錐形の部分はろ過機と言われ、埃を降らせて色調を調整
・鏡のような銀メッキを円形の「眼科医の証人」に使用

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〇(2019.01.02) 《大ガラス》作品タイトルについて(図録)

タイトルの最後にある、わざと非文法的に使われている副詞のさえもは、ナンセンスな驚きを導入するのに一役買っている。これは《大ガラス》に表されている性的場面が得意であるだけでなく、逆説的でもあることを示す。

     ⇒ 引用:(図録p47)

 

デュシャンは、言葉によって作品を誘導するためにタイトルや銘文を利用したり、通常の使い方と違う言葉の使い方をして、異なる意味を見出したりしました。

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作品は見るという「視覚」によるものなのです。が、タイトルなど言葉によって作品のとらえ方が大きく左右されることもわかります。

何も情報がなく見ているとき。何かわからない物体があっても、それが何を表現したものなのか「言葉」として理解した時。その物体が何かわかることによって(言葉によって)その物体が持つ様々な属性(?)のようなものを人は、言葉から想像しています。

私は、構造や機能を思い浮かべることが多いようです。想像したものを、自分の経験や知識と照らし合わせながら、周辺に描かれたものが放つイメージの相乗効果によって、その人が受け止める美術感というものが出来上がっていくのを感じました。

 

「独身者」と聞いて、男性、女性どちらを想像するのか? それによって全く違う作品のとらえ方が広がりました。あるいは、タイトルの言葉をどう訳すか、そこに媒介する人による影響も感じました。独身者に男性のニュアンスを含めるかどうか・・・・ さらに描かれたものが何であるかを、解説する「言葉」によって、そこからまた新しいイメージが広がります。

 

三角のコマは、歯車のようなものをイメージしていました。が「ろ過器」だったことがわかりました。すると次第に、濃縮されて濃くなっていくというビジュアル的な表現と一致します。

しかし濾過されるのは液体? 個体? 漏斗の形状からしたら液体が考えられます。しかし、チョコレート磨砕器は、粉状に磨砕するのだろうし・・・・ ところが、磨砕器は、液状にすることもできることがわかりました。すると、この作品の絵とつながるかもとか・・・・

 

私たちは、目で見ていますが、それは、網膜の映像を脳に送って自分なりの意味付けをしているわけです。

最初に見ていた時、銀の輪のようなものが何かわかりませんでした。何かの機械の部品ではと思っていました。色合いが他とは違うので、未来の機械部品をイメージしているのかも?

 

円形の銀メッキは「眼科医の証人」だとわかりました。

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こじつけになりますが、あなたの見たもの(=考えたこと)は、眼科医の立ち合いのもと、確かにあなたが見たものであると証人になってくれます。と言っているのではないかと思いました。

目で見て脳で処理されると様々な処理が加わるので、確かなものではないのかもしれません。それを「あなたの目で見たものである」ということを立会証人のように眼科医がかたわらにいるということ?

 

あまり鑑賞経験の少ない現代美術ですが、直島で現代美術を見て思ったことがあります。科学と融合した現代美術は視覚をいかにコントロールして作品を生み出すかという部分があると感じるようになっていました。人の網膜に映し出され見るという人体の機能を、脳にいかに伝えて作品として成立させるか。人の目はどうやって騙されるのかという目の仕組みに興味を持ちました。

 

デュシャンも回転を映像にした作品《ロトトレリーフ》なども、錯視という目の機能をいかした作品です。

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《大ガラス》の下部を見て思ったのは、回転の運動の伝達でした。デュシャンの中に、今後の作品につながるテーマ「回転」が作品に見えているのではないでしょうか?

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そして、作品に関する情報をわずかに得て見た時に、一番、印象に残っていたのは、回転のエネルギーを何等かの形に変換しようとしていることでした。

 

 

■脚注

*1:【追記】2018.01.02 燈篭が埴輪に

最初に鑑賞した時のメモの中に「燈篭」と書かれていたのがみつかった。あとになってこれが「婚約者」を表していることを知り、人であることが刷り込まれて、埴輪に見えたと感じたことになってしまう。最初に感じたことは、記録をしておかないとこうして、書き換えられてしまうという例。

 

  

*2:【2016.01.06】考える上での設定について

デュシャンは、独身者を男と設定していました(タイトルの原文より)。しかし、独身者を男でなく、男女の性を取り払って考えてみたら・・・・ という仮定でとらえて見るというのもありだと思うのです。

デュシャンはこのように言ってますが、ここは、あえてこういう仮定でとらえて考えてみたらどうなるか・・・・・ 美術の世界はそういうアプロ―チ、ダメなのでしょうか?

日本美術とデュシャンの関連について賛否がありました。デュシャンと日本美術は、もともと関係はありません。しかし、そこに関係性があると仮定して考えたら、どのような世界が広がるか・・・・ そんなアプローチがあっていいと思うのです。