杉本博司氏の代表作「海景」シリーズ。 世界の海や湖の水平線を撮影してきた杉本氏がMOA美術館のあるATAMIの海を撮り下ろしました。
■海景 熱海 解説
このコーナーの冒頭に掲げられたパネルです。
こちらのコーナーの展示については、レストランで食事をしてから1階を見学したので、巡回ルートからは逆周りの見学になりました。そのため、この解説を見たのは、全体を見たあとになりました。
見学をしながら、これらの写真は、MOA美術館のリニューアルにかかわったことががご縁で、熱海の海を撮影されたのだろう・・・と思っていました。また、MOA美術館から今回のリニューアルの依頼をされたのはどんな経緯があったのだろう・・・などと考えながら見ていたのですが・・・
この解説を見ると、1997年に撮影したATAMIの海だった・・・・らしいということがわかりました。(この解説を見ていない人は、きっと、そんな前に撮影した写真だとは思ってないような・・・・と思いながら)改めてとらえ直して作品を見直しました。
■光が注ぐ海
これまで、私が見た「海景」には光がなく、水平線だけの海の景色でした。そこに、光が注がれているというのは、とても斬新に映りました。また大きな写真は、世界観も変わり、同じ海景シリーズとは全く異にする世界が、ここに広がっていると思いながら見ていました。今回、熱海での撮り下ろしということで、「光」と水平線という新たな境地が開かれたのかと思いながら見ていたのです。
ところが、1997年に撮影された熱海?
ということは、そのころから熱海に縁があって(もしかして住まい?)、この時から、すでに光と水平線という写真も撮影していたことになります。杉本氏の「海景」は光を直接的には写されていないと思っていたのですが、私が目にしていなかっただけだったんだ・・・と認識を改め直して、もう一度、見直していました。
(もしかすると撮影をしていたけども、発表はされていなかったのかもしれません。)
■常設ではありません
この作品は、リニューアルにかかわったご縁で、こちらに常設する作品だと勝手に理解し、いつでもここに来れば出会える作品と思っていました。念のため、常設展示か確認したところ、今回のみの展示だそうです。
常設なら、また次の機会にじっくり見ることができるので、今しか見れない作品を中心に見ていこうと思っていたのですが、またいつ、お目にかかれるかわからないので、この写真のコーナーにじっくり時間をかけてここに費やすことにしました。
■光がいろいろな形で水平線を照らす
大気を通る光は、何か敬虔はものを感じさせられます。
天空の雲間から注ぐ天使の梯子。無宗教でも何か宗教性を感じさせられる 光景です。
■モヤの中にあるものは?
「天使の梯子」の光景に、これまでの水平線とは違うものを感じさせられました。天から注がれる光。に対して、反対側は、海に映る月の光。ムーンロードと言われるものです。「太陽と月」「『大気を通る光』と『海に映し出される光』」が対比されているようです。
その中で、気になったのは真ん中の、何も映っていないような写真でした。
一見するとモヤの中に埋もれた水平線です。何もないかに見えるのだけど、その光景に作者は何をとらえようとしたのか。何を見ているのか。そして何を写し込もうとしたのか。そんなことを考えながら、「私は」この写真の中に何を見つけることができるのか。
その前でじっと立ち止ってしばし、みつめ続けていました。
私は、こういう、はっきりとしないぼんやりとしたものが好きなんだ・・・・ そしてそこに何か意味をみつけたり、あれこれ考えたりすることが・・・・
じっと見ていたら、長谷川等伯の《松林図屏風》が思い浮かび上がりました。あのモヤの中には、何が描かれているのか・・・・と考えていた時と同じような感覚に包まれます。松林図のモヤとこれは違いますが、なんだかよくわからない霧のような空気。そこに何が存在しているのか、何が自分には見えるのか・・・という命題のようなものと向き合っている感覚・・・・
と思った時、そういえば、杉本博司氏が、ベネッセハウスのパーク棟に展示した松の写真が、《松林図屏風》屏風をイメージされていたことを思い出しました。目の前の写真が《松林図屏風》という作品を介して、つながったような気がしました。
時代と超えて、つながっている大気。そんなことを表現されているのかも・・・・と思ったらまた「海景」は、原始の海を表現している。と語られていたようなかすかな記憶にもつながっていきまいした。
◆wiki pedhiaより
人間の見ることのできる共通・普遍の風景を模索した結果、海の水平線へと至り、世界各地の海や湖で同じ風景を撮影してくるというシリーズが始まった。
『海景』のシリーズは
「人類が最初に見た風景は海ではなかっただろうか」
「海を最初に見た人間はどのように感じたか」
「古代人の見た風景を現代人が同じように見ることは可能か」
という問題提起を立てている。大判カメラですべて水平線が中央にくるように(空か海を大きめに取って余計な意味を付加させないよう)撮影された白黒写真のシリーズは、同じ構図を延々と繰り返し制作することにより、個別の海という同一性を奪われる
海と同様、大気も、古代人が見た大気、今の私たちが見る大気はつながっている。そして光をそこに加えることで、どこか「ATAMI」ということを意識させようとしたのでしょうか・・・・
海というのは、場所が違ったとしても、共通なんだよ・・・という意味かと思ってのですが、その逆? 同じように見える海だけど、それぞれに違うということなのか・・・
今回の「海景」は、これまで見てきた海と明らかに違う「海」 ここ「熱海の海」というメッセージを私は、強く感じさせられました。
■関連
■MOA美術館:見どころ(個人的なおすすめなのであしからず)
■MOA美術館:杉本博司 《海景-ATAMI》 ←ここ
■MOA美術館:《月下紅白梅図》 杉本博司 ←前
■MOA美術館:国宝 色絵藤文茶壺(常設)の新発見!?
■自分用メモ
>同じ構図を延々と繰り返し制作することにより、個別の海という同一性を奪われる
この意味が不明。
『個別の海』→それぞれの地域にはそれぞれの海がある。
「個別の海という同一性」→「それぞれの海は違う」ということは「共通している
(ここの「同一性」は何を示しているのか?)
「個別の海という同一性」を「奪う」 →海はそれぞれに違うという
「個別の海」という(← 修飾語?)
「同一性」を「奪う」 主語? 述語?
「同一性」を「奪う」 なら・・・・海は同じということではない。