国宝展、終わってしまいましたが、わざわざ行ったので、感じてきたことを記録。雪舟の国宝、6点がそろい踏みが最大の売り。行った時は、展示替えで4点だったかな? 予習は特にせず鑑賞ですが《慧可断碑図》は4回目。何か新たなことを見つけられるでしょうか?
■雪舟
〇《天橋立図》
出典:天橋立図(あまのはしだてず) | 京都国立博物館 | Kyoto National Museum
以前、山下先生の解説聞いたことがあるのですが、すっかり忘却の彼方。でも見たら思い出すだろう…と思ったのですが、さにあらず。あっ、色がつけられてる! 狩野元信が墨絵に色をつけたけど、雪舟もそれをしていたんだ‥‥ この絵は中国っぽいけど、雪舟は中国で学んだからこういう景色になったんだよね。天橋立ってどこだったけ? 確か京都なんだよね。松島(宮城)のことと混同して、ずっと宮城だと思ってたんだけ…
帰ってきて山下先生の講演会の解説を読み直してみて、そうか、この景色、あり得ない景色なのか。手前の山とか。全然、気づかなかった。別冊「太陽」の水墨画も借りていたのですが、読まずに帰しちゃったし… 図録で解説を確認すると(p356)やはりあり得ない構図と書かれています。より効果的に見せるために、大胆な変更を試みているとのこと。
さて、先入観なくこの絵を見て、それはわかるものなのでしょうか? まず、ここに行ったことがないとその位置関係はわりません。またちょっと上空から見た図というのは、そういうロケーションから見ていないとわからないわけだし。これが実際とは違う。ということは、その場所を知らずに見ていたら、わかるわけないよね。
この話を聞いた時も、同じようなこと思った記憶がよみがえってきました。一度、「実景とは違う」という話を聞いていたら、何かがおかしい‥‥ って思えるのだろうか。そんなことを試してみようと思ったこと。それまでこの絵の解説は読まないようにしようって思っていたことなども。
一度、聞いて知っていたとしても、そのうち忘れてしまうし、なんとなく記憶の隅にあってそれに気づくかなということもあるかと思ったけど、それもありませんでした。
◆ブルータスの解説から(p52)
室町時代で唯一、実景を描いた作品。天橋立を俯瞰した構図だが、実際にこのように見える場所はない。各所を写生した風景を脳内合成したものらしい。下絵の可能性も。
〇《秋冬山水図》
出典:東京国立博物館 - コレクション 名品ギャラリー 館蔵品一覧 秋冬山水図(しゅうとうさんすいず)
雪舟と言えばこれ。この代表的な雪舟の水墨画によって、ずっと雪舟は中国人かと思っていました。この尖がった岩、山の描き方は中国の描き方の特徴で、日本人は、最初、中国をお手本にして絵を描いていたことを最近になって知りました。雪舟は初めて日本から中国に渡って水墨画を学んだ人だったということも。中国に渡ったあとの作品?
図録より
夏珪の筆法を得意とする。周文(相国寺の画僧)につく。48歳(1468年)で中国に渡り2年修行。
〇《慧可碑臂図》
出典:慧可断臂図(えかだんぴず) | 京都国立博物館 | Kyoto National Museum
この絵は今回で4回目。これついては、ああでもない、こうでもない…とあれこれほじくってきました。
⇒京都国立博物館:禅 ー心をかたちにー 《慧可断臂図》 (2016/05/20)
⇒チームラボ新作発表@禅展・夜間特別内覧:龍雲寺のご住職 細川晋輔氏の話
(改めて当時の鑑賞を見ると、最初の頃の方があれこれ考えていろいろ広がりを持ちながら見てます。この回りの岩は宇宙だって思ったんだよな‥‥ 今はそんな記憶しか残っていません)
すでに、自分のこの絵に対する見方は固まってしまっていて、新たな視点はもうみつからないなだろうな‥‥ ある意味先入観、バシバシで見ている絵であるとも言えます。その先入観というのも、一般的な解釈と相反する捉え方。
東博、京博で見た、学芸員さんの解説や文化庁の解説には「緊張感がある」と。私にはどう見たって、そんな風に見えません! 山下先生のどこかの対談でも、トホホな絵。みたいに言われていていました。全く持ってそう思います。
友人にも、先入観を持つ前に見せて、どう思うか聞きました。「なんだか、トホホな感じねぇ‥‥」「ですよねぇ~」「文化庁や学芸員さん、緊張ある絵だって解説してるんですよ~」「そんなわけないじゃない!」「やっぱり・・・・ 山下先生は、同じ感想、もたれてるみたいなんですけど」
こんな感じで、この絵に対する私の見方は、すでに固定されてしまっているので新たな見え方というのは、まずないと思っていました。
今回、《慧可断臂図》で確認することは、国宝展の学芸員さんは、どんな解説をされるのかな? ということでした。そこだけに注目。やっぱり同じ内容でした。と思ったら、同じ方が書かれた解説でした。
雪舟に対して、次のようなことが書かれていました。
狩野正信の作品も展示されていました。「雪舟」と、狩野派の創始者「正信」は同世代なのでした。
■狩野一族
〇狩野正信 《周茂叔愛連図》
狩野正信! 知ってる、知ってる! そしてこの絵、見たことある気がするけど。正信の絵はあまりのこってないはず。サントリー美術館に出ていたんだっけ? 正信の代表作。展示期間との関係は? と心配したけども‥‥
wikipeshigaより
\この作品は真?行?草?/
— サントリー美術館 (@sun_SMA) 2017年10月25日
元信が生み出した3種の画体の中で「行」は、「真」と「草」の中間にあたるもの。比較しながらじっくり鑑賞すると、見分けがつくかも⁉️https://t.co/j4cKFw4ZpZ pic.twitter.com/n4TF1ucedL
展示されていたものとは違ったみたいでした。
〇狩野永徳 《花鳥図襖》(聚光院)
出典:「狩野永徳」展
狩野派の代表的存在、永徳の襖。元信が才能に期待し、直々に育てたという永徳。さすが・・・ しかもこれ29歳の作と言われています。
しかし・・・・
元信の絵を見てしまったら、なぁんだ‥‥ 永徳ってこの程度だったんだと思ってしまいました。元信には、及ばない。永徳がなんぼのもんじゃい! って・・・ 永徳の線が弱いって感じてしまいます。元信じいちゃん、やっぱりすごいわ・・・・・(笑)
出典:狩野元信展 - the Salon of Vertigo
元信、37歳。と比べたら酷ではありますが、永徳37歳。この域に行っていたのでしょうか?
また、永徳の《花鳥図襖》は聚光院にありました。こちらも大徳寺です。聚光院にはレプリカが入っています。
〇大徳寺聚光院 特別公開が決定 | 京都春秋 (2016年 公開されました)
〇狩野松栄 《瀟湘八景図襖》(寂光院)
永徳の父の襖も。これも大徳寺に・・・・ どれだけの作品を持ってるんだ‥‥ そんなにすごいお寺だったのか? そして爺ちゃんと子供の才能にはさまれてしまったとうちゃん「松栄」。狩野3代の襖がここにあったんだ。松栄の襖も国宝指定されています。周囲がすごすぎたから、埋もれちゃった感じがしていたけど、腐っても「狩野家」(は失礼か‥‥) でも、やっぱりおやじと子供に押されてる?
聚光院には狩野永徳とその父「松栄」の襖。
・《瀟湘八景図襖》 狩野松栄 聚光院
・《花鳥図襖》 狩野永徳 聚光院
その他の作品を含まれています。
出典:千利休 三千家の菩提寺 聚 光 院|神仏霊場 巡拝の旅
その他にも今回、国宝展で展示されていたものが大徳寺にいくつもあることがわかりました。
■円山応挙 《雪松図屏風》
いろいろな作品を見るうちに、名前を耳にするようになってきた応挙。応挙にスポットをあてて観たことがまだありません。この襖の対面にある《松林図屏風》ばかりにみんな注目されて、ちょっと蔑ろにされている感がなきにしもあらずでしたが、これ、しげしげ見るとなんかすごい襖。
〇サブリミナル効果のある絵
なんとなくなしに幾度となく目にしている襖。三井記念美術館所蔵で、よくチラシなどでも目にしてしていたこと。ブルータスの国宝展の表紙になっていたことなどが、きっとサブリミナル効果になっていたのだと思います。この表紙が応挙だという認識はありませんでした。
写実派の応挙というフレーズはよく耳にしましたが、抱一や其一だって、若冲だって、写実派なんじゃない? その時代との美術史の関係や、画風がよくわからずにいたのですが、少しずつ違いが見えてきたような気がしています。
〇右隻と左隻から見ると全く違う
【右隻】右から見ると・・・
こちら方向へ延びる力を感じた ↑
出典:美の巨人たち 円山応挙『雪松図屏風』 : こんなテレビを見た。
天空に向かう枝が、上方に(↑)伸びて、屏風の大きさをより感じさせられました。ところが、同じ屏風も左手に回ると、枝が下に向かって(↓)飛び出してきます。
【右隻】
出典:美の巨人たち 円山応挙『雪松図屏風』 : こんなテレビを見た。
今度は、左隻の中央から延びる幹と枝が、屏風の折れの効果とあいまって、無限の中に吸い込まれていくような感じでした。枝は途中で、上方と下方に分かれて、それぞれの方向にに伸びて画面がより広がっていきます。金(?)の背景と、白い空白部分のコントラストにさらなる無限の空間 宇宙感を感じさせられるなぁ‥‥(菱田春草の《落葉》を思い浮かべていました)
屏風という構造を、最大限に生かした構図で、この目の前や左右に立った時に繰り広げられる世界観に平面では感じることのできない奥深さを感じられたのでした。
閉館も間近になると、ここにいる人たち全員が、《松林図屏風》ばかりに目を奪われていましたが、こっちも見てあげようよって言いたくなってしまいました。
◆図録より(p362)
図録を見ると、右隻は松が鑑賞者に迫るとありありあれ? 私は逆感じたけど‥‥と思ったのですが、見る場所によって変化するようです。
・雪の部分は絵具を塗っていない。墨を塗り残した紙の素地
・紙はごく薄いもので、裏打に米粉を混ぜたものを用いているらしい
・まぶしい光の反射を感じさせ、雪の白さを際立たせている
〇応挙スタイル?
その後、東博を見ていたら、こんな屏風が‥‥ この全体を包み込むカラーと、白っぽい抜け感。なんだか、応挙っぽい‥‥
と思ったら円山応挙。応挙の特徴をとらえられるようになっていてちょっとうれしい‥‥
雪舟が中国の模倣から日本の墨画の足掛かりをつけ、等伯によって日本ならではの墨絵に昇華。その後、応挙らが、中国の人を描きながらも、日本の風景にしか見えないスタイルへと発展させていった?
■中国絵画
中国絵画、ちょっとはわかってきたぞ~ 少しは、知ってる人いるかな? と思いながら、「牧谿」「馬遠」は知っていたけど、あとは‥‥
〇牧 谿 《観音猿鶴図》 大徳寺
・《観音猿鶴図》牧谿 大徳寺 ⇒「国宝展」(p181・365)
牧谿、知ってる! 猿を描いた人。これ「禅とこころ」でも見たかも…(と思ったら違いました。等伯が描いた猿の絵と勘違いしたみたいです。あるいはブルータスに大きく載っているのを何度も見ていて見たと勘違いしているのか)
「禅とこころ」(p418)より 牧谿は親子の猿の深い情愛とともに凍てつく寒さに耐える姿を通じて自然の厳しさを象徴
猿の下の幹から出ている「木の枝」の表現を見たら、これ、等伯と同じ描き方だ! って思いました。しかしそれは逆なのでした。
等伯が描いた《松林図屏風》の松、この絵の木の部分を参考にしているんじゃない? この枝の曲がり方とか… そういえば、等伯も猿を描いていて確か、牧谿を参考にしたんじゃなかったっけ?
鶴の左の竹も、だれかの竹の表現と似てるなぁ…
〇伝馬遠 《風雨山水図》 静嘉堂文庫美術館
馬遠も知ってる。これ、はるばる、静嘉堂がから来たんだ。ここに来る前、私も静嘉堂にいたわ・・・
〇李 迪 《紅白芙蓉図》(東京国立博物館)
http://souda-kyoto.jp/blog/171011_1.html
図録やブルータス見て、これも見たと思っているのですが、私が行った会期中に展示されていません。なぜ、記憶にあるのかと言えば、東洋館に行くようになって、ショップにディスプレーされているからなのでした。
確かにこれと似たような芙蓉、いろんな人、描いている気がするから、見たことがあるようなデジャブ感もあるのかも。
〇周 文 《竹斎読書図》(東京国立博物館)(No45)
こちらは、中国絵画のブースでなく中世画のコーナーに展示 でも周文は中国人。
解説に「相国寺の画僧」「雪舟を育てる」「幕末御用絵」「遺作ない」と書かれていました。周文ってやっぱり日本人だったのか? って思っちゃったかも…
〇周 文 《水色鸞光図》(No46)
周文は中世画のブースに展示
周文は中国人? と思い始めていて、この中で日本人は? 中国人は? と思っていたから、日本側に展示されていると、混乱をしていたかも。相国寺との関係、如拙との関係が次第に見えてきました。
中国の仏画はお手上げ状態だったけど、中国画は、作者名がわからないけども、なにがしかの共通性を見ることができ、こういうテイストが日本人に影響を与えて、あんな絵を描いていたんだってことがわかりました。
日本人がなんで中国みたいな景色や人を描くのか、ずっと謎に思っていました。そうした影響を受けていたんだということがやっとわかってきました。
〇李 迪 《帰牧図》
これ、片方が国宝で、片方がコピー。さぁ~て、どっちだ? そんな解説があって、私は「左」が本物と思ったけど、「右」が本物なんだそう。「左」の時代が下がるそうで、模写(コピー)ということらしいです。
それがわかっても、私は左の方が本物っぽいなって思いました。見ているいる人も、「左」の方が本物に見える・・・って言ってた人がいました。なんだか「右」はぼんやりしてて、はっきりしてない感じがしてしまったのですが…
改めてみると、右のほうが空間の広がり方に工夫があって面白みを感じられます。ただ「左」の空間が平面的だったとしても、そのような絵を模写したのだとしたら、それはそれなわけですし‥‥
その他の中国画は知らない人だし、何を描いているのかもよくわかりません。
http://souda-kyoto.jp/blog/171011_1.html
でも、中国画っぽい‥‥ 中国ってこういう絵を描いていたんだよね。それを日本は持ってきてマネしてきたんだなぁ‥‥ ってことを国宝展に来る前に、静嘉堂の明清絵画を見て理解できるようになりました。なんとなく似てる‥‥ そして描かれた紙の色の具合もなんだか同じ。(同じような時代を経ているということ?)
東京国立博物館 - コレクション 名品ギャラリー 館蔵品一覧 出山釈迦図(しゅっさんしゃかず)
秋景冬景山水図(しゅうけいとうけいさんすいず) | 京都国立博物館 | Kyoto National Museum
梁楷 馬遠 如拙 といったかじり聞きの画家が一人増え、二人増えしていて、「禅とこころ」の図録を見るとこの時にもいたのかぁ‥‥と思いながら見直しています。この頃は、まだ中国人が描いたのか日本人が描いたのかもわからず、名前も聞いたことのない画家ばかり。なんで中国っぽい絵ばかりなんだ・・・と思っていたのですが、「禅のこころ」の構成や流れ、当時の背景が次第に理解できるようになってきています。
そして禅宗のお寺の名前も、それぞれが独立して見ていたのですが、塔頭名から理解できるようになると、展示物の由来も見えてきて相互関係がわかるようになってきました。曜変天目を見て大徳寺に行ったことが、こんないろいろなことをもたらすというのはちょっとびっくり。
「禅とこころ」の時、今一つ理解しきれなかった等伯と牧谿の猿の表現。当時は、まだ等伯のことも、認識の中になく、よく耳にする絵師なので、これを機会に理解しようと思って作品を見ていました。図録の解説には等伯の《竹林猿猴図屏風》について「牧谿」の猿の絵を比較した部分がありました。「牧谿?」「猿?」 そこでペンディングになっていました。今回の国宝展でその牧谿の実物を見ることができていたことにちょっと感慨・・・
・《竹林猿猴図屏風》等伯 相国寺 「禅とこころ」p284・418
・《観音猿鶴図》 牧谿 大徳寺 「国宝展」(p181・365)
■中国から日本独自のスタイルへ
ブルータスより(p46)
日本美術は何もない場所からひとりでに生まれた育てきたわけではない。文字から政治のしくみまで、すべての手本となった中国から、美術についても多くを吸収している。
そして中国の模倣から解き放たれたニッポンの墨絵が生まれました。
・水墨画⇒中国の模倣が当たり前。
・日本人絵師⇒実際に見たことない中国の風景の山水画を描く(雪舟は例外)
・等伯=湿潤な大気とそこに差し込む光、その向こうの風景を墨の濃淡で表す
中国ではなく日本の風景に描く。日本の墨絵としての幕開け。
〇なぜ《松林図屏風》が日本画の最高峰なのか
等伯の《松林図屏風》が「水墨画の最高峰」あるいは「日本画の最高峰」と語られます。それを聞いて感じたことがここにあるのですが・・・
⇒ ■最高峰って?
なぜ、これが最高峰と言われるのかが理解できませんでした。しかし、それまで中国の模倣、あるいはアレンジだった水墨画を、日本の風土のものとして初めて描いたのが長谷川等伯の《松林図屏風》だった。それがわかると、やっとその評価の理由も納得ができたのでした。
そして《松林図屏風》について、「それは応仁の乱」から始まったとの見出し。同じフレーズを、「香りの文化史」畑氏のお話の中にもありました。応仁の乱によって日本の文化はリセットされたという話。
唐様から和様へと「オペレーティングシステム」が変わった。その中から日本の墨絵として生まれたのが《松林図屏風》だった。
これまで、直接的には関係のないことでしたが、「香りの文化」で聞いた話などがつながって、これまでの疑問を解決してくれたのでした。
■長谷川等伯 長谷川久蔵
長谷川等伯の《松林図屏風》 長谷川久蔵の《桜図》を国宝展にて
長谷川等伯の 《楓 図》を 知積院にて見たレポートは下記にて
■国宝展:《松林図屏風》
「湿潤さ」「光」「風」を感じるということについて
■参考:大徳寺所有の作品
国宝展を見ていると大徳寺所有という作品がいろいろあります。以前見た「禅とこころ」の図録と重なるものあり、「禅とこころ」の時にも大徳寺の所有物がいっぱい展示されていました。どんなものがあるかリストアップしてみました。
塔頭名を見て、これ大徳寺だとわかるようになりました。実際に大徳寺を訪れたおかげ… 図録に大徳寺の文字がなくてもわかるのは、お寺名と塔頭名の違いがわかるようになったからです。20以上あるのでまだ見ていない塔頭所有があるかも。
(今度、行ったらそれぞれのお寺に何があるのか認識して、ちゃんと見てこよう・・・と思ったのですが、あまりに所有しているものが多すぎにお手上げ‥‥)
〇中国画
・《観音猿鶴図》牧谿 大徳寺 ⇒「国宝展」(p181)
・《山水図》 李唐櫃 高桐院 ⇒「禅とこころ」でも展示(p230)
・《龍虎図》 伝牧谿 大徳寺 ⇒「禅とこころ」(p232)
・《龍虎図》 伝牧谿 大徳寺 ⇒「禅とこころ」(p234)
・《芙蓉図》 伝牧谿 大徳寺 ⇒「禅とこころ」(p236)
〇聚光院
・《瀟湘八景図襖》 狩野松栄 聚光院 ⇒「国宝展」(p130)
・《花鳥図襖》 狩野永徳 聚光院 ⇒「国宝展」(p132)
(《竹虎雄猿図》 狩野松栄 聚光院)
(《琴棋書画図》 狩野永徳 聚光院)
出典:千利休 三千家の菩提寺 聚 光 院|神仏霊場 巡拝の旅
〇大仙院
《瀟湘八景図》 相阿弥 大仙院 ⇒「禅とこころ」(p278)
(室中に描く方が格上 当時は相阿弥が主、元信は従だった)
《四季花鳥図》 元信 大仙院 ⇒「禅とこころ」(p280)
《四季耕作図》 之信 大仙院
《禅宗祖師図》 元信 大仙院 ⇒「禅とこころ」(p38)
⇒「狩野元信展」で見ていたこと判明
〇龍光院
・曜変天目茶碗
・江月宗玩像 ⇒「禅とこころ」(p38)
・金剛般若経 ⇒「禅とこころ」(p76)
・臨済宗 美濃正法寺 ⇒「禅とこころ」(p48)
〇真珠庵
・一休宗純墨 ⇒「禅とこころ」(p135)
〇高桐院
・《山水図》李唐櫃 ⇒「禅とこころ」でも展示(p230)
⇒「国宝展」(p165)
(なんだか見たことあるように感じたのは、「禅とこころ」で見ていたから?)
〇総見院
・《織田信長像》 狩野永徳 総見院 ⇒「禅とこころ」(p157・381)
・《織田信長像》伝狩野永徳(総見院→)大徳寺本坊 ⇒「禅とこころ」(p157・381)
「禅とこころ」が開催されていた時、もう一つの信長像‥‥となんか騒いでいて目玉のようでしたが、なんのことやら‥‥ 総見院が信長の位牌所として秀吉が建てたことなど、今回見学をして知ったので、その意味がわかってきました。「伝」永徳が、いろいろな裏付けによって「永徳」らしい・・・といった解説を見ていましたが、当時は永徳も知らない、信長もよくわからない状態‥‥
そして騒ぎは、派手な装いだった信長の意匠が、地味なものへ・・・ 法要の際、秀吉が書き換えさせたらしいことがわかったこと。その理由は、今後の解明が待たれる。大徳寺の「総見院」の見学をすると一連の話に対する理解も変化します。
〇牧谿作品
・《観音猿鶴図》牧谿 大徳寺 ⇒「国宝展」 (p181・365)
・《芙蓉図》 牧谿 大徳寺 ⇒「禅とこころ」(p236・404)
・《龍子図》 伝牧谿 大徳寺 ⇒「禅とこころ」(p232・403)
・《龍子図》 伝牧谿 大徳寺 ⇒「禅とこころ」(p234・403)
(この時は龍図として見てました)
「牧谿」の名は、のちにいろいろなところで見るようになりました。南宋末~元初の禅僧画で、日本で最も尊重された外国人画家。狩野元信、長谷川等伯、俵屋宗達、横山大観など室町以降の日本画家に影響を与える。4件の猿・図の記載あり。鎌倉時代には牧谿の作品が日本にもたらされた。繊細にして大胆な画風は、本国では批判され忘れられていた存在。牧谿の猿と対比にされる等伯の猿は、3件。
〇なぜこんなにも重要作品が?
日本の文化は最初全て中国がお手本でした。仏教、禅宗、美術・・・ 禅宗が伝わり、早い開山をしたお寺には、必然的に参考にするための中国作品や描かれた作品。そして時の権力との結びつきにより御用絵師との関係などが築かれていき、文化財が伝承されていくということだったのでした。
力を持つことによってそれまでの秘宝などをもらい受けるというか、争奪しているようなイメージをもっていたのですが、そこで創生されていたということなのでした。
ちなみに「禅とこころ」の図録で大徳寺の作品にインデックスをつけていったらこんな状態に‥‥ 一番右が「大徳寺」おそらく「本坊」所蔵。書関係が多いみたい。その他のタグは塔頭ごとに・・・ 絶対に公開しない龍光院からも書関連が出ていました。
こんなにたくさんの秘宝が一杯。それらは年一回、公開されているもよう。
〇方丈
〇屹立する山々、細部に宿る物語 狩野探幽のふすま絵:朝日新聞デジタル
◆大徳寺とは
臨済宗大徳寺派の大本山で龍. 寶山と号する。 鎌倉時代末期の正和4年(1315)に大燈国師宗峰妙超禅師が開創。室町時代には応仁の乱で荒廃したが、一休和尚が復興。
桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、信長の菩提を弔うために総見院を建立、併せて寺領を寄進、それを契機に戦国武将の塔頭建立が相次ぎ隆盛を極めた。
禅宗大徳寺派大本山。開創が鎌倉時代。秀吉、信長の菩提寺。政治とも絡んだ歴史。主要人物とのからみ。そうしたことが、これだけの作品を所有することになったのだと納得。
■参考
〇感想:国宝展 at 京都国立博物館〜等伯×永徳・牧谿×梁楷 水墨画オールスター祭りだよ!: 月与志 blog
〇感想:国宝展 at 京都国立博物館〜雪舟にツッコミを入れてみる: 月与志 blog
『京博「国宝」展セミナー1(第1部講演前半)』はこちら
『京博「国宝」展セミナー2(第1部講演後半)』はこちら
『京博「国宝」展セミナー3(第2部トークセッション前半)』
『京博「国宝」展セミナー 4』はこちらから