コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■風神雷神図屏風:風神雷神の乳首は一つ!・・・の大発見?

3組の《風神雷神図屏風》がそろった琳派展を見て、自分なりの自由な見方をしていて気づいたこと。それは、風神雷神の乳首は、どれも一つしか描かれていない! ということでした。その理由を考えたり調べたりしたことをここにまとめました。

 

 出典:風神雷神:③「風神雷神」の乳首は一つ・・・・の大発見? (2015/11/11)

       ↑ 上記よりリライトしました。

 

 

 ■琳派の「風神」「雷神」の乳首は一つ!

www.47news.jp

 

2015年の「琳派 京を彩る」で琳派の源流ともいえる《風神雷神図屏風》が、勢ぞろい。3組の風神、雷神を見て気づいたこと。それは・・・・


風神雷神の乳首は、片方しか描かれていない」ということでした。  

 

 

〇きっかけはプーシキン

「片方しか描かれていない」ということに気づいたのは、ちょっとしたきっかけがありました。担当してもらっている美容師さんのご主人が、横浜美術館プーシキン展に行った時に次のような感想を口にしていたという話を聞いていました。

「この時代は、カタチチが流行っていたんだね」

とご主人が言われたのだそうです。「カタチチ」ってなんだろうと思ったら、「片乳」のこと(笑) そこに展示されていた絵は、片方のおっぱいを出した姿で描かれている絵が多かったのだそうです。

 

風神雷神のカタチチで大盛り上り

美容室に、「婦人画報」があって、京都の琳派展が特集されていました。

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出典:婦人画報2015年12月号 ~2015年、おかげ様で110周年~ |ハースト婦人画報社

 

 

その中に3つの《風神雷神屏風図》が掲載されていたので、それを見ながら、「プーシキンも片乳ですが、風神、雷神も 片乳だったてこと発見しちゃったんですよ~」と話したところ、「あ~ら、ほんとだ・・・・どれも、ひらひらで隠してる・・・・」

 

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東博 常設展にて撮影

光琳:  「雷神」           「風神」

 

「この胸はもともとないのか、あるけども片方は、ひらひらで隠しているのか、よくわからないんですよ」
「見えている方のオッパイは、垂れてますね」
 

「そうなんですよね、おばあちゃんのおっぱいみたい・・・」
「あれ? 風神、雷神って、男かと思ってけど、もしかして女ってこと?」

「確かに・・・・」
「神様って性別あるのかしら?」

などと、ひと盛り上がりしました。   

 

以下は、3種の《風神雷神図屏風》です。

宗達

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     ↑                ↑         

光琳

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    ↑                 ↑

▼抱一

http://pds.exblog.jp/pds/1/201405/27/50/f0190950_11244411.jpg 

    ↑                 ↑

画像 感性の時代屋より  

 

〇ネットでは

ネット内で、「風神雷神」の「乳首」について、どのように語られているのでしょうか? 調べてみたのですが、全く、この件について、言及されていません。もしかして、誰も気づいてないとか?!(2015年当時 そして今も・・・) と思ったら、数人、それに触れている方を見かけました。   

 

   ⇒風神の⦿  より

 どちらの神も何故か左の乳首が隠れている。
雷神の左乳首はヒラヒラで隠れていると見る事が出来るけど、
風神の方は、左乳首が描かれていないのはちょっと不自然では。
左胸自体が無い?

 

 

〇乳首がないことは、気づかれていない?

風神、雷神の3つの絵の違いなどは、いろいろな着眼点があるようです。しかし片胸、片乳首については、話題にはなっていない模様。

あの中学生の発想豊かな対話式鑑賞会でも、乳首について言及されていませんでした。(⇒〇中学生の自由な発想)世紀の大発見とは言わないまでも、ちょっとした発見かも・・・・と思っていたら・・・・・

 

風神雷神は性の隠喩説 

片乳首問題の新たな展開、もしかしたら、次の新たな視点に、この問題はつながっているかもしれないと思われたのでした。


俵屋宗達《風神雷神図屏風》 鉢巻をした雷神に見る聖と俗の美──「佐藤康宏」
                          by 影山幸一 

 
驚いたことに風神雷神を性の隠喩ととらえた美術史家がいた。自然現象を神格化した二神から農作物の豊穣を連想し、性をとらえた。(中略)聖なる神を性と結び付けた佐藤氏とはどのような人なのだろう。東京大学の赤門に近い研究室を訪ねてみた。
  
 

風神雷神は農作物の豊穣祈願=子孫繁栄

風神雷神は、農作物の豊穣を祈願するための天候の神農作物の豊穣は、子孫の繁栄であり、生命の存続を表しているといっていいでしょう。つまりは雌しべと雄しべの受粉を意味すると考れれば、広い意味で、性ととらえることができるかもしれません。

(豊穣を意味する稲作は自家受粉のため、他のものが混ざらない。交雑しないと聞きました。それが天皇制と稲作儀礼がつながっている。という話を聞きたことがあるのですが、ここでいう、性の隠喩とは、関係があるのでしょうか?)

 

 

風神雷神 より

日本でも仏教伝来以前より強力な自然神として畏敬され、特に稲作を中心とする農耕文化社会においては豊穣をつかさどるものと見なされた。

ちなみに全国的規模の風神祭(かぜのかみまつり)は、風神の神意を鎮め、農作物を風水害から守るための祭祀であった。

 

性の隠喩という捉え方を聞き、風神雷神は、男なのか 女なのか・・・・はては、神に性別はあるのか・・・・いや、風神雷神は、性をとらえつつも、男・女を超越する「性」を表現したのかも?

いや、その両者を兼ね備える存在として表現したとか・・・あるいは、神でありながら、身近な存在として人もイメージさせるために、俗っぽい女性のような胸をあえて描いたとか? などなど想像をめぐらせていました。

 

 

〇ひらひらの鉢巻の意味するもの

この片胸を隠しているひらひらは、鉢巻なのだそう。

この鉢巻について、次のように言われています。

 宗達の《風神雷神図屏風》は本来天上にいるべき神が間の抜けた顔で地上の神として描かれている。特に風変りに思えるのは、雷神が鉢巻をしめているところだと佐藤氏は強調する。当時、〈かぶき者〉と呼ばれた不良武士たちなどが通うセクシャルな遊び場として風呂屋が流行しており、そこで働く湯女や客のかぶき者が鉢巻をしていたらしい。宗達が歌舞伎踊の図柄から鉢巻を剽窃(ひょうせつ)し、雷神にかぶき者の格好をさせていると指摘したのも山根だそうだ。仏教図像として寺の装飾のために作られた《風神雷神図屏風》には俗な要素が取り込まれている、と佐藤氏は言う。 

 

セクシャルな遊び場に集う人たちが、身につけていた鉢巻。その鉢巻で、片方の胸を隠し、反対はあらわにしてダラリと垂れ下がった乳を描く・・・

左右対称に、この状態の胸が存在していたとしたら、このダラリ加減から想像するに、この鉢巻では隠すことができません。

この鉢巻を使って片方の胸を隠した、あるいは片方しか乳が存在しない、とも考えられ
きっと何か意味があるのではないかと思いました。

 

風神雷神 性の隠喩の背景

以下、続きます。 

 さっそく風神雷神を性の隠喩と見立てた背景を伺ってみた。

映画「ラブホテル」に出てくる部屋の壁に描かれた風神雷神の絵のコピーがもとだった。「風神と雷神のように嬉戯する男と女」の場面にカメラが不意にその風神雷神を映し出したという。性表現に風神雷神を起用した相米監督の感性を、佐藤氏のセンサーが素早く感知した。

 俵屋宗達の《風神雷神図屏風》は建仁寺が所蔵し、ここは祇園町の中央にある花見小路の突き当りにある京都最古の禅寺。花見小路の角にはお茶屋の一力があり、夜の顔を持った通りに沿って都をどりの舞台になる祇園甲部歌舞練場、場外馬券売り場などが、違和感なく秩序を保った参道のように軒を連ねる。《風神雷神図屏風》の安息の適地に思える。

建仁寺鎌倉時代の建仁2(1202)年に栄西禅師によって開創した臨済宗の寺で。宇宙の根源的形態を示す、水火地を象徴した「○△□乃庭」という庭など見所も多い。

 

(どこで見たかわからなくなってしまったのですが、「水」「火」というものが、性的な象徴であるようなことが書かれていたように思いました) 

 

〇端っこ故の面白さ

日本の美術は中心的な力強いものは少ないが、端っこ故の面白さがある。《風神雷神図屏風》のセクシャルな見方の元は、日本神話で国土や神を生んだ男神と女神の“いざなぎのみこと・いざなみのみこと”に通じており、性に対しておおらかなこの国の文化の特異なところ。

二曲一双の屏風は私的な空間を演出する屏風と考えるとそのリアリティも増す。

人間が自然を畏れ敬い、豊な恵みを願い、共存していくシンボルとした表向きの存在である風神雷神。しかし、書家や茶人、宮廷歌人天皇など、一流の文化人と交流していた宗達が、それだけにとどまるとは思えない。妙光寺はサロン的な役割を果たしていたのかもしれない。

そのような、世俗を知らない高貴な人々との交流から生まれた絵は聖と俗の融合である。力強さを強調させながらアンバランスに躍動する肢体は滑稽。俗に神を見ていたのか。

 

そこには上流階級に存在していたであろう、バイセクシャルな性も表現しようとしたのでしょうか?

力強い肉体、その一方で女性的な胸を片方だけ描く・・・・そこに両性的な性の隠喩もあったのかもしれません。

宗達風神雷神の原点は、6世紀中国の敦煌莫高窟壁画第249窟に描かれている風神雷神であるともいわれるらしいです。しかし、三十三間堂風神雷神が元になっている説は有力。さらに、菅原道真の雷神説も・・・

 

三十三間堂風神雷神の乳首は?

今度三十三間堂に行く機会があったら、「風神雷神の胸、乳首は、どう表現されているのか・・・・・」を楽しみにとっておこうと思いました。

ところが・・・・・インターネットはその楽しみを、早速、奪ってしまいました。三十三間堂風神雷神を調べていると、その像は出てきてしまうのです。答え一発! なのでした。三十三間堂風神雷神に、乳首や胸が表現されているのでしょうか? 興味があったら調べてみて下さい(笑)
 
 

■知ってしまうと感動でなく確認

では、もうひとつのモチーフと考えられる中国の敦煌莫高窟壁画第249窟 ここの風神雷神は・・・・?
 佐藤氏は学生の頃初めて《風神雷神図屏風》を京都国立博物館で見たと言う。その時は画集などで事前に絵を見て知っていたこともあり、感動というよりも確認した感じだったそうだ。
 
今回、予習が全くできなかった・・・・と、行く時、嘆いていましたが、それがよかったかなと思いました。


事前に画集などで見てしまっていると、こうした発見の楽しみがなくなります。そして、いろいろなウンチク話を、あと追いするだけで、自分で見つけるおもしろさが削がれてしまったかも・・・・と。



 

宗達の出自の謎

そして、宗達の出自は、謎とされています。その謎についての友人の推察。

「必要以上に、出生などを隠した。 そこには、知られたくない何かがある。 それは・・・・・ 一流の文化人と交流していたと言われる宗達 ということは、そういう筋の生まれである」ということでは?

高貴な身分を隠さねばならない理由があった。それは、私生児だったのでは・・・・」という推察でした。

(当時、そういう出生があったのかどうかも不明ですが)


そのように仮定すると今回、一連のことがつながっていくような気がするのです。

あまり注目されていない、日陰の存在のような風神雷神をテーマにしたこと。男女の営みによって生を受けることへの背信のような・・・・それが、風神雷神という強健な肉体を描きながら、片方の乳だけを、だらりんとだらしなく描くことで、男女という性を紛らせてしまいたかったとか・・・・?

豊穣の祭、儀式の裏には、天皇制の根底に流れる「純血」という血筋を、自家受粉する稲を象徴にしていると聞いたことがあります。

そこに、出生の秘密などがからみ、様々な想像が、風のように舞い、雷のように轟きました。そんな人間の邪推を、吹き飛ばすがごとく、風神が、天から見下ろしているのかもしれません。 

 

 

〇構図

俵屋宗達《風神雷神図屏風》 鉢巻をした雷神に見る聖と俗の美──「佐藤康宏」:アート・アーカイブ探求|美術館・アート情報 artscape より

目と目、へそとへそは、右隻と左隻ともに同じ高さの位置。モチーフと空間とを対角線上に配置した構図は、中国南宋の絵画に似た構図があることから、そこに宗達はヒントを得たのではと発言している研究者もいる。結果的に何も描いていないが、中央を広く開けて空間が生まれている。


構図についても、いろいろな解説があります。しかし、このあたりは、あまり確認をせず、自分で感じたままに捉えようと思いました。

よく言われる、目の方向。これって、そう言われれば、そう見えてきてしまうもの・・・・しっかり把握していない状態で見たら、どう見えるのか・・・・・

先入感を取り払ってみたら、いかようにも見えてしまうなぁ・・・・って思いました。

  ⇒■風神雷神図屏風:風神雷神の目線は、自分のみつめている目線?

 

ただ、対話式鑑賞の中学生たちが、達の風神雷神を見て、下界を見ていると言ったのには驚きました。そして、屏風を左右に入れ替えてみると、かに、下界の遠くを見ていることが、はっきりわかるのでした。

 

 ■(おまけ)6年ぶりの阿修羅は・・・・

次なる見学地は、興福寺阿修羅の3つの顔。こちらも先入感なく、感じることができるでしょうか。

   2009年 6年前・・・・

3つの顔の表情、解説を見ずに自分で考えてあてに行ったら、見事に外しました。今回は、ちゃんと当てることができるでしょうか?

 

(この頃から、「先入観、定説を一度、はずして見る」という鑑賞習慣は持っていたことがわかりました)

 

 

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