神奈川県立歴史博物館で「錦絵にみる明治時代」が前期、後期に分けて開催中です。明治時代の様々な世相が描かれていますが、「内国勧業博覧会」に着目し、錦絵の中ではどのように描かれたかを探ってみました。
今回の展覧会は、撮影可能です。最近は撮影可能な美術館・博物館が増えています。次第に自分の中に、いくつか撮影テーマが出てきました。その一つが「内国勧業博覧会」です。
東博、科博の常設展は、以前から撮影が可能でした。これまで「内国勧業博覧会」に関する展示資料の写真を集め、時折まとめていました。また折々で開催される展覧会の中で「内国勧業博覧会」が取り上げられていると、すり合わせをしました。今回、神奈川県立歴史博物館の「錦絵に見る明治時代」でも、第1回~第3回の「内国勧業博覧会」の錦絵が展示されています。内国勧業博覧会に焦点を絞り、過去に撮影した写真と合わせて並べてみます。
下のパネルは、第1回内国勧業博覧会が開催された現上野公園一帯のパネルです。上野駅がリニューアルされる前、公園口あたりの一画に設置されていました。
*上野公園にて撮影(17.09.12)
さまざまな形で切り取られ描かれた「内国勧業博覧会」。そこに描かれていた場所は、今につながっています。それらを集めて眺めてみたら、何か新な側面が見えてくるのではないかと期待して・・・
*見出しのタイトル「作品名」の数字は作品番号。(後)は後期展示
- ■ 昌平坂聖堂での博覧会 明治5 (1872) 年
- ■第一回内国勧業博覧会 明治 10 (1877) 年
- ■第二回内国勧業博覧会 明治14(1881)年
- ■第三回内国勧業博覧会 明治23 (1890) 年
- ■錦絵に描かれた内国勧業博覧会を通して
- ■関連
■ 昌平坂聖堂での博覧会 明治5 (1872) 年
31 元昌平阪聖堂ニ於テ博覧会図
明治5 (1872) 年、湯島聖堂(文京区)(昌平坂学問所の後身)にて、 文部省博物局 による、古器旧物を中心とする 博覧会が開催されました。この博覧会は、政府よる初の博覧会で、東京国立博物館の始まりと位置づけられています。
翌年のウィーン万国博覧会の ために全国から集められた品々。 会期が 20 日間の 予定でしたが、人気のために 延長されました。
ガラスケースに入れられ 「貢納名古屋藩」 と記されています。
東博本館「15 歴史の記録」のコーナーで写真展示されていました。
*博覧会や風景、人物や文化財など、当時の様子を伝える写真を展示が開催
2018年10月30日(火) ~ 2018年12月25日(火) (以下同様)
ガラスケースに入っており 「貢納名古屋藩」の文字も確認できます。
展示関係者でしょうか?記念撮影?
*東博本館の「歴史の記録」コーナーにて 20170929
翌年、1873年、シャチホコはウィーン万博で展示され、ここでも日本館の目玉に。
Illustrirte Zeitung - Illustrirte Zeitung: Leipzig, Berlin, Wien, Budapest, New York, Band 61, 1873 パブリック・ドメイン, リンクによる
外には、全国から集められた様々なものが展示されています。
ガラスの奥には、人・人・人・人・・・・
画面の手前には、 鉢に生きた亀?も展示されています。
シャチホコの奥に見える湯島聖堂大成殿内部の様子が、次の錦絵につながります。
湯島聖堂大成殿の内部にも、人が密集しています。
32 博覽会諸人群集之國 元昌平坂ニ於テ (後)
前出の湯島聖堂博覧会会場の、 湯島聖堂大成殿の内部からの様子です。窓の外にシャチホコが見え、会場の外では、両側に展示されている様子が窓越しに見えます。
窓ガラスの数、カーテンが No31と一致しています。
窓の外に展示されているシャチホコ。
その横にはオットセイ が展示されています。
中央のケースには動物の剥製が並んでいます。
(動物標本など、自然科学系部門、動物・植物・鉱物は、のちに国立科学博物館へと引き継がれていきます。)
左手には植物標本もあります。
大勢の見物客の頭が連なり、押し合い、へし合いしている様子が伺えます。コロナ前の人気美術館、博物館を見るようです。この時の入場者総数は15万人でした。
軸装の文章や絵の展示も…
上図の左側の枡目に描かれた掛図は、小学校の授業で生物や博物学を教えるために使われたものと思われます。
小学生に生物、博物学の基礎
「小学用博物図」1876(明治9)年、国立科学博物館所蔵 科博 千の技術展にて
そういえば、小学校の時、黒板に巻物をかけて解説していた記憶がよみがえりました。明治教育のなごり?
写真にみる自然科学系の展示
*博覧会や風景、人物や文化財など、当時の様子を伝える写真を展示が開催
2018年10月30日(火) ~ 2018年12月25日(火)
湯島聖堂博覧会の様子
*東博の常設展 スクリーン
*科博にて撮影(2018.12.18)
■第一回内国勧業博覧会 明治 10 (1877) 年
内国勧業博覧会は殖産興業を奨励 する政府の博覧会で計5回行 われました。
第一回は明治10年 8月21日から11月30日まで約 100 日間 45万人を超える来場者がありました。(ちなみに2019年 上野の森美術館「ゴッホ展入館者数は、45万人/91日)第一回から三回までは上野公園が会場。
48 内国勧業博覧会之図 (後)
内国勧業博覧会が開催された上野公園一帯を俯瞰した図です。
冒頭で紹介した上野駅のパネルの原図です。現在も、形を変えながら上野公園に残っている建物がいくつもあります。
左の山上にある洋風建築物 が博覧会場 (現在の東京国立博物館 の場所)
上野東照宮 ここから公園にかけての数千個の提灯が掲げられました。
(左)頭だけになった大仏・稲荷 (右)清水
画面右端に風車が見えます。
公園入り口に造られたアメリカ式の地下水汲み上げ用風車で、高さ約10メートル。その巨大さに人々は驚かされました。
河鍋暁斎も、この風車を大きく描いています(右下)
No7
— 浮世絵師 (@Ukiyoeshii) 2018年2月4日
東京名所之内 上野山内一覧之図
河鍋暁斎#河鍋暁斎 #浮世絵 #絵師 #上野山内一覧之図 pic.twitter.com/UBtpBRJUgZ
第2回会場入り口の写真
*東博本館の「歴史の記録」コーナーにて 20170929
50 内国勧業博覧会 開場御式の図
第一回内国勧業博 覧会の開場式の様子(明治10年8月21日)
煉瓦造り建物には 「美術館」の文字。
「美術館」と いう名を冠した初めての建物で、現東京国立博物館。
天皇・皇后臨席と外国 公使、 華族らが出席。 内務卿大久保 利通が天皇・皇后に向かって祝辞を述べ ていることが記されています。
内務卿大久保利通が天皇・皇后に向かって祝辞を述べ ている様子
◆周延
越後高田藩の藩士。 戊辰戦争の折には脱藩した高田藩士に よって結成された神木隊に参加して上野戦争、箱館戦争を戦った。 戊辰戦争以前 に国芳門下で芳鶴 (二代) を名乗って錦絵界に登場、 国芳没後に国周門下となっ て周延と名前を変えた。 本格的な画業は 明治以後で、 美人画の評価が高いが、 本展では天皇を描いた作品を多く紹介する。
49 勸業博覧会之內 器械場乃略図 (後)
工部省 工作局は東京赤羽分局製のフランス 式繰糸機を出品。 動力は蒸気。
手前で繭を煮(写真左)奥で糸を繰る(写真右)
会場 では女性たちが繭から糸を繰る作業を毎日披露していました。
■第二回内国勧業博覧会 明治14(1881)年
第二回内国勧業博覧会は 明治14年3月1 日~6月30日まで122 日間、 上野 公園で開催されました。 出品数は第一回の約4倍で、 およそ82万人の来場者がありました。
下記、コロナ前、2019年の展覧会入館者数です。それらと比較しても、多くの来場者があったことがわかります。当時の人口を考えても、非常に関心の高い催しだったことが伺えます。
参考 2019年 展覧会入館者数
1位 恐竜博2019 国立科学博物館 約68万/87日
2位 塩田千春典 森美術館 約68万/120日
76 第二回勧業博覧会図 (後)
天皇・皇后が 博覧会場に行幸啓する様子が描かれ、桜が咲き誇っています。(3月1 日から開催)太政大臣三条実美以下、供奉の人々の名前が記されています。
背後の煉瓦造りの二階建ての建物は、東京国立博物館の旧本館。英国人 J. コンドルが (1852 ~ 1920) 設計し明治14年に竣工。建物上部の中央に「美術館」の看板が掲げられ、博覧会会場となりました。
コンドル設計 旧帝室博物館の写真 中央の噴水も確認ができます。
*東博本館の「歴史の記録」コーナーにて 20170929
不明 - 角川書店「よみがえる明治の東京」より。, パブリック・ドメイン, リンクによる
錦絵に描かれているアーチ型の窓やドーム屋根がリアルに表現されています。
錦絵の上部には 「観覧人心得」 には観覧者への諸注意が記されています。
77 第二回内国勧業博覧会図
こちらは、美術館の前を歩く天皇・皇后らしい一行を描いています。
美術館の前を歩く皇后と御付きの女性
空は赤く染められた開化絵(文明開化で移り変わる町の様子をテーマとした明治の絵)。当時、洋風建築物などを描いた錦絵に赤が多用され、「赤絵」と呼ばれました。
◆赤絵
明治の錦絵は赤が目立ちます。赤の染料は、外国から安価に輸入されるようになったアニリンが使われています。 毒々しい赤や紫など、色合いが鮮やかになり、好みが分かれそうですが、熱気に満ちた明治時代の機運が伝わってくるよう。
中央には、壺を抱える猩々の噴水が描かれています。 猩々をかたどった「噴水陶器人物錦手」は宮川香山によるもの。
第2回内国勧業博覧会の象徴的な作品となり、第2回の錦絵にはよく登場します。 能の演目「猩々」が題材。壺から吹きあがる噴水は、尽きることないお酒の恵みを表しているのでしょうか?
◆猩々(しょうじょう)
古典書物に記された架空の動物。中国の揚子江に住む赤毛の霊獣。能の演目の中に(五番目)真っ赤な能装束の猩々が、親孝行の高風と、酒に浮かれて舞い謡う下りと、猩々が高風に酒が尽きることのない壺を与えたという能の場面を元に作られた作品。
78 東京名所上野博覧会縦覧之図 (後)
皇后の一行が博覧会に行啓する光景を描いた錦絵。
皇后を始め、女性の着物の襟元には、空刷りがほどこされています。
着物には細やかな摺り。
中央に大きく、猩々の噴水が配されています。壺からあふれる噴水。
宮川香山 (1842~1916) 制作。香山は、眞葛焼で知られる陶磁器を 制作し、横浜太田村 (現在の横浜市南区) に窯を開きました。
愛知県から出品された植物も…
◆宮川香山《噴水器唐人物錦手》
参考写真:
宮川香山が出品した《噴水器唐人物錦手》高さは3mにおよぶ。
《第二回内国勧業博覧会写真帖》(東京国立博物館 Image:TMN Image Archive)
この噴水が、よく描かれたというとおり、今回の展示作品の他にも、三代歌川広重が《上野公園内国勧業第二博覧会美術館并猩々噴水器之図》で描いています。
広重Ⅲ, Public domain, via Wikimedia Commons
宮川香山が、「能」の猩々をモチーフにした作品を出品したのはなぜ?
宮川香山 「能」がモチーフの噴水 (1):「 眞葛博士 の 宮川香山研究 」:SSブログ
真葛香山 「能」がモチーフの噴水 (2):「 眞葛博士 の 宮川香山研究 」:SSブログ
真葛香山 「能」がモチーフの噴水 (3):「 眞葛博士 の 宮川香山研究 」:SSブログ
79 内国勧業博覧会館内列品ノ図
内国勧業博覧会の陳列会場で陶磁器や 屏風などの展示。
それらを見物する人々は和装。前出の天皇と政府高官は洋装で描かれています。庶民が変化の受け入れていくには、タイムラグがあったことを感じさせます。
展示の様子
■第三回内国勧業博覧会 明治23 (1890) 年
明治23年4月1日から 7月31日までの会期で、上野公園で行われ、来場者約 102 万人を集めました。
113 三回内国勧業博覧会 会場一覧之図 (後)
会場を俯瞰する構図で描かれた第3回内国勧業博覧会。
赤い短冊には各建物の名称を記しています。
(左端) 動物園(15 年3月開園)・・・第二回開催時 (14年) にはありません
(左側上部)東京美術学校(源東京芸術大学美術学部の前身) 22年開校
赤い雲形と 桃色の桜が目を引きます。⇒「赤絵」
上野公園周辺の変化:
第2回(1881年)~3回(1824年)の9年間の間、上野公園内にも様々な文化施設が建設されました。主な施設の設立年。
1872年 教育博物館(現国立科学博物館)
1882年 東京国立博物館 上野に移転 上野動物園開園
1889年 東京美術学校
1890年 東京音楽学校
1926年 東京都美術館
1926年 国立西洋美術館
114 上野公園 内国勧業博覧会之図
上野公園の桜が満開の中、博覧会場を背にし、清水観音堂の前を天皇、皇后と皇太子らしき少年が歩いている様子が描かれています。
第三回の錦絵には天皇・皇后とともに明治22年11月に皇太子となった嘉仁親王が来場する様子が描か れています。
実際は三人そろって来場はされていませんでした。その姿を求めたことが伺われます。皇后の御召し物は、和装から洋装に変化しています。
上野公園 の各名所が赤い短冊で示されています。
左の2階建ての建物は西洋料理の精養軒。その隣には、上野大仏が・・・
中央の建物は博覧会場
115 第三回内国博覧会之図 (後)
天皇、皇后と皇太子が博覧会場へ向 かって歩いている様子が描かれています。
供奉する男性たちは 顔立ちがはっきりと描かれており、博覧 会関係者の似顔絵である可能性も・・・
左側には今は顔だけになってしまっ た上野大仏。
右は、明治の「赤絵」と呼ばれる赤い空の中に、旧寛永寺五重塔が沈んでいます。
116 第三回内国勧業博覧会之図
天皇、皇后と皇太子が美術の会場を見学する様子。左上に総裁以下、博覧会の関係者の名前が記されています。
展示物
117 勧業博覧会 館内一覧之図 (後)
天皇、皇后と皇太子が美術の会場内を見学する光景。
展示物
海外の万博に輸出されていた大型の壺のようなものが展示されています。
工芸品が展示されています。
■錦絵に描かれた内国勧業博覧会を通して
以上、内国勧業博覧会の展示品に注目しながら、錦絵を並べてみました。これらの博覧会において、欠かせない存在だったと考えられるのが、天皇と皇后の行幸啓です。毎回、開場式には行幸され、錦絵に描かれました。
明治政府は西欧の列強に肩をならべるべく「富国強兵・殖産興業」の号令のもと、積極的な近代化政策をすすめました。
その際に天皇の力を借りることで、全国民の士気や機運を高める効果があったと考えられます。実際に、内国博を開くことは、天皇の重要な役割で、5回行われたうちの第4回を除く開場式に臨幸し勅語を発したそうです。
これまで平面で見ていた写真や錦絵でしたが、次第に空間として繋がりだしました。立体に構成されていくのを感じられます。会場や上野公園の空間認識がされ、その中を実際に歩き回っているような気分になっていました。
明治の錦絵というと、色鮮やかで華やかです。別の言い方をすると、どぎつい、ケバケバしいという印象もあります。繊細さに欠けるように感じられるところがありました。しかし着物などの表現は細やかで高度な技術が施され、文様も繊細です。
活気に満ちた明治時代の高揚感が、色合いからも伝わってきます。上野公園、展覧会場を錦絵の中で散策する感覚は、今のVR体験にも重なります。1回~3回の内国勧業博覧会の時間経過による変化を追いながら、それらが今の時代にもつながっている時空の旅を体験できました。
■関連
■明治150:「内国勧業博覧会」を「国立科学博物館」の展示と写真で追ってみる