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コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■エミールガレ:ヒトヨダケ文花瓶・・・自然の摂理と輪廻

エミール・ガレが好きな友人が惚れ込んだという作品、ヒトヨダケの花瓶

何故かこの花瓶に心引かれるものがあったといいます。

花瓶に広がる苔むした森は、以前過ごしたことのある森を思い出させ、ガラスの奥に広大な森が広がって迷い込むような錯覚になるそう。実際に見たことのある、ヒトヨダケまで花瓶の中に・・・

そんな話を聞いた時に、なんとなくその光景が想像できました。どんな作品なのか、見てはいないのですが、自分なりのイメージするものがありました。

その話から、
ガレは、その作品の中に、森の生態系を表現しようとしたんだろうな・・・作品を見てはいませんが、漠然と感じさせられていました。この作品は、北澤美術館にあるのだそうです。いつか、その作品を見てみたい・・・・と思っていました。

 

 ■「自然の摂理」と「輪廻」

ある時、ガレのこのヒトヨダケの作品には、『「自然の摂理」と「輪廻」が表現されている』という話を聞きました。「それってどういうことだと思う?」と聞かれ、あれこれ考えながら、メールでやりとりしたことを、振り返ってみました。


自然の摂理」「輪廻」から想像したこと・・・
森の光景、下草、枯葉、枯れ枝・・・・
そんな作品の情景を聞いてイメージしたことは・・・・

 

   ○森の生態系
   ○食物連鎖・・・・・・循環
   ○生と死・・・・・・・命の連鎖
   ○生 殖・・・・・・・子孫繁栄


そんな言葉が、浮かびました。


そこでヒトヨダケについて調べてみました。

〇ヒトヨダケは腐生菌

◆ヒトヨダケ (wiki pedhiaより)

ヒトヨダケは腐生菌とあります。腐生菌とは、生物遺体や老廃物など、生きていない有機物素材を栄養源として生活する菌類。

 

つまり、ヒトヨダケは、森の中の枯れた草や木、葉などを分解しているということなのです。私は、自分が死んで、他の栄養源となるという意味の生態系、「自然の摂理」を表しているのかと思っていました。ところが、ヒトヨダケが動植物を土に戻しているということだったのです。

森にはお掃除屋さんと言われる、たくさんの分解者がいます。それは、「微生物」なのだと思っていたのですが、キノコにも、その役割を果たす仲間があり、ヒトヨダケにもその役割があることを知りました。

これこそが「輪廻」という世界観、そのものです。

 

 

森の分解者(=微生物)と「キノコ」との関係について整理 

  ⇒【参考】キノコは3つのタイプに分けられる
    *腐生菌  *木材不朽菌  *菌根菌

  ⇒【参考】「微生物」「ウイルス」「細菌」「菌類」「バクテリア」の違い
     「微生物」>「ウイルス」
          >「細菌」=「バクテリア」(ラテン語
                  →ミトコンドリア
                  →葉緑体

          >「菌類」>真菌類⇒カビやキノコ、酵母など真菌類 
               >粘菌  
 
       *菌類も微生物の一つ
         (微生物=細菌、菌類、ウイルス、微細藻類、原生動物など)

   ⇒参考:菌類と細菌との違い

  『菌』という言葉を、「細菌」と「菌類=キノコ・カビ」と
  分けて考えるのは、生物学の心得のある人。
  「菌類」と聞いてカビ、キノコをイメージするのは、生物学を知っている人。

 

   では、キノコの位置づけって? って考えてしまうのは・・・・?
   キノコも微生物に含まれるの? 

   何でも分けて分類して、定義で考えたがる人の思考(笑)



   ⇒森の掃除屋 = 森の分解者 ⇒土壌動物・微生物
     1gの土の中に数百万の微生物
     微生物=細菌・菌類     

 *「キノコ」という枠組みは、
   「微生物」とは別のカテゴリーかと思っていました。・・・

   「微生物」には、カビなどの真菌は含まれていると認識していますが、
    キノコは(菌類だけど)「カビ」と違うカテゴリだと思っていました。
    同じ「菌類」でも、「キノコは目に見える」「カビは目に見えない」
    だから、グループは別。キノコは微生物とは別の範疇だと・・・

  土1gの中に含まれる「微生物」の主なものは、細菌と菌類。
    この「菌類」にキノコは含まれておらず、
    土壌動物と同じような位置づけで考えていました。

    キノコは微生物とは違う別カテゴリに属した森の分解者。
    これが「腐生菌」という菌類の分類を知る前の認識。
    つまり、キノコは、微生物だと思っていなかったという話でした。
    やっと「森の分解者」の意味がわかった気分・・・(2016.2.14記)

【参考】⇒○きのこのチカラ: きのこ的生き方のすすめ
   きのこのことを肩肘はらずに、理解できるように解説。
   人によって理解へののアプローチが違う。
   私もこの言葉によってなるほどとやっと理解できました。
    「生産者」としての植物 
    「消費者」としての動物 
    「分解者」としての菌類・・・・「還元者」

 

【参考】【生物基礎】第5章 生態系とその保全(炭素の循環・窒素の循環)

       1.生態系  □生態系内での生物の役割 

               (高校生物をまとめてみる)

 

ヒトヨダケは、その輪廻を最短で回転する植物。

一日で腐るという、早いサイクルで自らが栄養源になるだけでなく、他者(動物や植物)を分解させることで、自然の世界を輪廻させていると理解できます。



〇ガレにトンボのモチーフが多いのは

これまで、個人的に疑問に思っていたこと。それは、ガレやラリックの作品に、トンボのモチーフが多いのです。この時代のトンボは何か意味しているのかなと思っていました。


ざっと調べたところ、はかない命、生命の短さの象徴としてモチーフに使われたらしいです。「生」と表裏一体の「死」を、短い命のトンボで表現したとのこと。そしてトンボだけでなく、昆虫全般が多く登場しているのは、昆虫の命の短さが象徴的なモチーフになっているとのこと・・・・


〇究極のはかなさ ヒトヨダケ

 つまり、ヒトヨダケというモチーフにたどり着くまでに、昆虫類のはかない命を題材とした自然の摂理を、作品を通して少しずつ積み上げてきた。そして最後に、短命の究極でもあるヒトヨダケで、命のはかなさの象徴として表現しようとしたのでは?


そしてそのはかなさの中に潜んでいる、命をつなぐという生命力死ぬ時に、胞子を飛ばして子孫をふやすという自然の摂理を作品にこめていた。自らが土に還りながら、他者も土に返し、新たな命を蘇らせる、生命の循環・・・・生まれ変わりという輪廻転生を表している・・・・



 

■生と死は表裏一体

自然の摂理には「生と死が隣り合わせ」という側面があります。「生命の危機を感じた時に、信じられない生殖能力を発揮する」能力がある。

 

〇山火事ではじける実

山火事の時にはじける木の実。種が絶えてしまう危機的状態で、火事の空気がおこす対流で遠くに飛び、そこではじけて新たな命を紡ぐという特徴が備わっています。

 

〇枯れる前に花を咲かせるリュウゼツラン

100年に1回、花を咲かせるというリュウゼツラン。寿命を感じた時に、命の終わりを察知して、最後の花を咲かせ実を結んで次世代につなぎ、枯れていきます。
草木も枯れる前に花を咲かせ、実を結び子孫を残します。

 

〇極寒の中の生殖 生命の連鎖

以前、旭山動物園の園長さんが、カバの生殖の話をしていたこと。動物舎の改築のため、オスメスのカバを離して飼育していたそう。老体で寒さに耐えることができない状況だったのですが、どうしても、動物舎から出さなくてはならず、厳しい寒さの中、
1日だけ外に出したそうです。そんな環境の中で、生殖行動など絶対に考えられないはずなのに、そのあと、カバの出産をしたそうです。

カバさん、あんな寒さの中でよく頑張った。動物の生命をつなぐという本能には、本当に驚いた。地球誕生の38億年の歴史は、こうした生命が危機に瀕した時、最後の力を振り絞って命のバトンをつないだことによって今につながっていると言われていました。

 

〇死を前に子孫を残す

人間でも同じような話があります。『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』という本で語られていますが、ガンを患った医師が、最期の時を前に、母を支えるには、残された子供の飛鳥ちゃんだけでなくもうひとりの姉妹が必要。放射線治療をしながらでは、無理と言われていましたが、授かったという話もあります。

 

■ガレのDNAをこめた?

ガレも生命の危機を感じた時に、自分のDNAを後世に残す。その生殖活動の象徴として、男性シンボルでもあるキノコを作品の題材として選んだと考えられるかも・・・・


生命誕生から存続してきた壮大な歴史・・・・それは、こんな小さなキノコの中にも、一部として組み込まれています。そのキノコにスポットを当て、巨大化し作品にしたヒトヨダケのランプ。生命が宇宙の中に抱かれてつながってきた壮大な宇宙感までも表現しようとしているのかもしれません。


 

■進化論

そして自然の摂理にはもう一つの着眼点として、ダーウィンの進化論」も、ガレはメッセージとして込めているのではと思います。

 

「生物は環境に合わせて変化をしていく」ここには「突然変異」自然淘汰「弱肉強食」「変態」ということも含まれるかもしれません。きっと、ガレは、そのような視点を作品に盛り込んだのではと想像されます。 まだ、北澤美術館の作品を見ていないのですが、きっと、こういう視点で作られている作品があると思いながら、作品を見ると新たな発見ができるかも・・・・



 

■すべては土に還り、命をつなぐ

さらに、輪廻の話で思い出したこと。土葬の習慣のある地域の話。埋めたときに人の型に土が盛り上がるそうです。それが1年ぐらいすると沈んで、そこに人型の花が咲くのだそうです。じいちゃんがお花になって生まれ変わったね・・・・と子供たちに、受け継がれていくそうです。


かつて人は、土に還るものだった

人間は食物連鎖の頂点と言われています。果たしてそうなのか・・・ それでいいのか・・・ずっと考えていました。人が頂点に立って「連鎖」を断ち切ってしまっていいのか。人だって何かの役にたって、循環しなければいけないのではないか・・・・

その答えが、「土に還る」だったのでした。

昔は人も土葬にされて、土に還っていた。分解され養分となり、花を咲かせていた。文明社会の発達によって、その循環が狂ってしまった・・・・

戦争で兵士が多く亡くなり埋められた土地は、花畑になる。そんな話も聞いたことがあります。人間は、食物連鎖のトップなのではない。循環の一部として、輪廻に組み込まれている。自然の中に組み込まれていて、他者への養分にもなっていた。

ということは、菌類、森の掃除屋さんと言われる微生物が食物連鎖の頂点ということになるのでしょうか?


 地球環境の循環サイクルシステム

【追記】(2016.2.26)無機物→有機物→無機物  地球環境の循環サイクルシステム

   (鉄を分解する菌もいる
    約100年前、タイタニック号が海の底に沈む
    その船体=鉄は、ゆっくり緩やかな時間の経過とともに、
    鉄が水中の微生物によって分解されているのが確かめられる。
    鉄の塊は、分解されて海の中に消える・・・
    そんなドキュメンタリーを思い出します。

   ⇒○タイタニック号が30年以内に分解?バクテリアが原因と科学者が警告
       海の底に沈んだ船や石油掘削機、そして貨物などが
       単にごみの山として残るのではなく
       時間の経過と共にバクテリア(細菌)が全てを分解してくれる



   偉大なる微生物は、食物連鎖の頂点?

      森の掃除屋 分解者 微生物 菌類



 

テーマ「自然の摂理」から考えられること

その他にも自然の摂理という視点から想像されることは、「ミクロとマクロ」の世界。ミクロの世界から広がる小宇宙という捉え方。そこから、作品には壮大な宇宙観まで込められていて、哲学的な解釈へとつながっていきそう。




それに対して友人から、
「ガレの本の一部にガレは死の時まで科学者の厳密さを持って
 生命を分析し秘密を突き止めようと試みた」


やっぱり・・・・
作品の中に、自然界の科学を緻密に観察して、リアルにこっそりと作品に込めていると感じていました。それを受け止められるかどうは、見る側の受け止め方・・・


        以上 2015.2.26  のことでした。


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【追記】(2016.2.10)深すぎる作品

ガレの作品というのは、あまりに奥深すぎる世界観が込められています。それは芸術の世界でありながら、植物学者という科学の視点埋め込んでいる作品ということが、他者の作品ではあまりない部分だと思います。

 

しかしそのバックには、あらゆる学問を網羅していて、学生時代は文系で、フランス語の小論文、ラテン語翻訳、ドイツ語歴史地理学で、優秀な成績を収めていたと言います。さらに「修辞学」「哲学」を学び、「音楽」も好きでリストの弟子に師事してピアノを学ぶほど

(もっと知りたい エミールガレ p13より)

 

このような多岐にわたる「知」をそなえたガレが作り出す作品に、込められているメッセージは、計り知れません。そんな「知」をどれだけ、見る側の元に引き寄せることができるか。それは、見る側に、鍛錬を要する作品であるとも言えます。


作品を通して、作り手が埋め込んだ「知」を発見する。その世界をさらに知りたいと思う興味を持てるかどうか・・・そういうことに、おもしろさを感じることができるかどうかで、ガレの作品の捉え方も変わるのではないか・・・・

 

□自分で解釈することのおもしろさ

 最近、自分の感覚で、「作品を解釈する」ことのおもしろさを感じ初めているところです。というか、「解釈できるようになってきた」のだと思います。


庭園美術館のガレ展に行くにあたり、少し予習をしていました。ガレは、これまで何度か見てきたので、ここを少し理解しておきたいと思うことが出てきています。

 

□ものいうガラスに対する批判

ガレの作品の中に「ものいうガラス」というシリーズがあることを知りました。これは、表面に詩の一節や警句などが記されているものだそうです。


ところが、批評家には不評で、作品そのものが、いろいろなことを物語っているのに、それをわざわざ刻印して見せるのは、作品を陳腐化させていると言われたそうです。

その、批評家の気持ちが、今はすごくわかるようになっています。ガレが込めたものを、自分で見つけ理解し、解釈することに意味がある。それは、ヒトヨダケの花瓶であれこれ想像して、作品の意図を自分なりに解釈したという経験がそう思わせているのだと思いました。

ところが・・・・
 

 

わかりやすい芸術があってもいいのでは?

 半年ほど前に、大一美術館で見た時の感覚は、また違ったのです。教養がないとわからないような作品というのはそれがわかる人たちの自己満足を満たしているだけ。

 

「わかる人にしかわからない・・・・」

「それには、いろんな知識が必要なの・・・」

「あなたたちには、わからないでしょ・・・」

あまりに広すぎるガレの背景を目の当たりにし、作品の理解は、到底、無理であることを悟りました。

その時のメモに次のようなことが書かれています。

 文学や詩などから、切り抜かれて書かれている言葉の意味だけがわかっても、
作品の真の理解にはならないはず。文学作品を読み込み、そこにはさらにいろいろな解釈もあるでしょう。


そうしたことまで網羅した上での引用だと考えられるので、どんなに逆立ちしても、理解することはできない。途方もない奥深さがわかってしまい、近づけば近づくほど、遠のいていく感覚・・・・諦めというか、お手上げ状態となり、もう、いい・・・・ どうせ、どうせ・・・・と逆にこちらから突き放してしまうような・・・・ 

 


しかし、そんな作品を理解できる人たちもいるわけです。その裏には。「ガレの奥深さを理解できる私」という自尊心で満たされ、高みから理解できない人たちを見て、優越感に浸る。そんなツールとして、作品を捉えて悦に入っているのだろう・・・

芸術が理解できる者とできないものの間に壁を作られて小馬鹿にされているような気分にさせられるよなぁ・・・・そんな風に、穿って見てしまうのでした。


作品にそのヒントの一言が掲げられていようと、わからない人にはわからないのです。それは、手の届かない世界への憧憬もありますし、理解できない一種の僻みのようなものもあったり・・・・(笑)

大抵、多くの人が、理解できないと思われますので、そのヒントを示してくれるのはありがたいことです。しかし、示されてもわからない人が多いと思うのです。

だから、ガレってすごいんだな、深いんだな・・・・というガレの偉大さをただただ、感じながら帰ってきたのでした。


そんなこともあって、最晩年の作品と言われる蜻蛉の盃は見たものそのままズバリの作品だと感じたので、その方が、わかりやすくていいんじゃない?・・・と思った記録がここにあります。

  ⇒○大一美術館メモ (2015/08/21)

 

□作品の受け止め方は変化する

 ところが、今は、ガレが詩を作品に刻印した時に、苦言を呈した批評家側の考えに寄ってしまっている自分にびっくり。


解釈は自分でしていくもの。そういう発見をしていくことが面白いと思えるようになっています。だから、「詩まで作品に書いちゃたらダメでしょ・・・」って思っているのです(笑)それは余計なおせっかいだし、作品を陳腐化させるという考えに、同意しちゃうわ・・・・と。

しかし、半年前、大一美術館で、この詩を書かれた作品を見て感じていたのは、ガレってすごい! 哲学、修辞学、文学、地質学、海洋生物学・・・ありとあらゆる世界を網羅して作品に盛り込んでいる。

作品に刻まれた詩は、文学的な素養の表れ。科学者でありながら、そんなことまで作品に込めている。という奥深さとしてとらえていました。直接、それを作品に刻んでしまうことが、陳腐化させるなんてことは、思いもしなかったのです。
 

 

□見方を変化させるものは

 半年で、捉え方が、こんなふうに変化してしまったのは面白いと思いました。

ガレのヒトヨダケの花瓶を自分なり解釈することができたけどそれはたまたま、自分が興味を持っていた世界と重なったから。いろんなことを繋がり、理解に至ったけど、(まだ、まだ、込められているものはあると思うのですが)

そういう世界を全く知らなかったら、むずかしいだろうな・・・そんなことを思っていたのだと思います。

あれから、琳派を見て、モネを見て、日本画を見て・・・自分なりに解釈ができるようになってくると、美術作品というのは、自らの興味で、込められているものを
ひっぱり上げていくもの・・・・そんなことを感じるようになってきたのだと思うのです。

だから「饒舌なガレの作品に、自分の考えを押し付けたり、理解するために、銘文を刻むというのは、ガレの芸術を低俗化させる」という批評家の危惧に同調できるようになっていたのです。

横山大観が自分の描く富士に対して、

「富士を描くということは富士に写る自分の心を描くことだ。心とは人格にほかならない。 それは気品であり、気迫


そんなことを、口にすることに対して私は、いいようのない嫌悪感を抱いてしまったのです。自らの口からそれを言っちゃうわけ? そんなことは、作品にひっそり、埋め込んでおけばいいこと。見る側が感じて引き出すものじゃないの?

そんな話を「新聞」という多くの人が読む大衆向けの媒体を使って書いたということに、大観の俗的な部分を見たように感じられたのでした。(美術のよくわからない大衆を取り込み支持を得ようとした? 自分への世論、評価を築き上げようとした?)

おそらく、半年前に、ガレに物申した評論家の言葉を見たとしたら、「知るものの奢り」と感じていたと思います。でも、今は受け止め方が変化しています。

自分にはわからない世界の話というのは、インテリジェンスをひけらかされているように、感じてしまうものなのだと思ったのです。

 

 

□わけわからない技法

それと同じようなことが、ガレの作品の技法でも感じていました。横文字のなんだかわからない技法がずらり。「マルケットリー」「グラヴュール」「アンテカレール」

何なのよそれは・・・・そもそもの技法の総論的な基礎知識がないところに、そんなこと言われてもわかりません。

まずは、それを説明することが大事でしょ! 技法を簡単に一覧にしてパンフレットを作って置いておいて欲しい。それを手元で確認しながら、見ることができる状況を整えてよ・・・って。

理解してしまった人はいいかもしれません。でも、そんな話されても、全くわからないのです。美術館で、この作品は、「マルケットリーにグラビュールがほどこされ・・」なんて話している人たちを見かけることがありました。あなたたちは、理解しているからいいわよね・・って思いながら、遠目で見ていたのです。

逆に自分が知ってしまった世界は、他からは、そのように見えてしまうということでもあります。


下記の植物の学名にしても、私が植物の興味を持った頃に、「学名」「学名」 学名でとらえなきゃダメと声高に言う人たちがいました。そりゃあ、知ってる人はいいけど・・・・知らない、理解してない自分には、知識をひけらかされているように感じてしまうのです。

しかし、自分でもそれを知り、それを頼りに植物を捉えるようになると、そんなことは、すっかり忘れてしまいます。

自分が知ってしまって語っている世界というのは、他からは、いやらしく見えてしまうことでもあるということです。「学名」知ってるますアピール? って(笑)

自分の知らないことを知っている人たちに対して、人はある種の色眼鏡で見てしまうものだということなのだと思います。

ここは、自分の記録、メモの場所なので、勝手に書いておくことに。それによって、あとあと、何かの役立つので残しておきます(笑)



□北澤美術館の作品が東京に


北澤美術館で、ヒトヨダケの作品を見てみたい・・・・いつか行きたいと思っていた北澤美術館です。


その作品が、今、東京都庭園美術館に総出演しています。


   「ガレの庭 花々と声なきものたちの言葉」



1年前に、あれこれ思いをめぐらして想像していたヒトヨダケ文花瓶も出品されています。


□学名が語るメッセ―ジ

この作品を1年前に写真で見て思っていたことがあります。ガレは植物学者。
ということは、きっとヒトヨダケの学名の意味からも、メッセージを込めているはず。


白血病で亡くなったガレ  白血病=leukemia

leuk は白という意味のラテン語。ヒトヨダケは、乳白色のような色をしています。きっと、ヒトヨダケの学名にも、leukが入っているはず・・・と確信に近いものがありました。調べてみたら、あらあら、違っていました。


   ヒトヨダケ = Coprinopsis atramentaria


う~ん・・・・ この意味、わからない・・・・というところで、ストップしていました。

今回の展示を機会に、この学名に込められた意味を、見つけてくるというのが、私のテーマの一つです。


ガレは植物学者だから、学名のラテン語の意味も知っていたはず。ヒトヨダケを最期の作品のモチーフに選んだということは、学名の意味にも、つながりが絶対にある。

と確信していたのですが、ガレは、ラテン語そのものも、学んでいたことがわかりました。ということは、ヒトヨダケだけなく、ガレが作品に選んだ花は、学名のラテン語ギリシャ語)の意味を紐解き、付き合わせていくとまた新たな解釈が生まれるかもしれない・・・・という推察が生まれました。


とりあえず、ヒトヨダケの学名について調べてみると・・・・


  Coprinus   m.<g. ⇒(男性形)(ギリシャ語) 
    copros(糞)。獣糞上に生えるから。マツタケ科
  atratus 黒変した,汚れた

 

なるほど・・・・ 納得、納得



そして、白という意味を持つleuk という名を持つキノコは・・・・

 

Leucoblyum   n.<g. ⇒(中性形)(ギリシャ語) 

leuco(白い)+bryon(コケ)。
    全体が白っぽいため。オキナゴケ科

 

このキノコを、ガレは作品のどこかに描いているのではないか・・・

そんな推察をしながら展示を見てみようと思います。
          

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【追記】(2016.3.10)ガレと春画のエッセンスは同じ

 細見美術館春画展をみました。


春画」は大名の姫が嫁入りする時に、持たされていた一種の嫁入り道具。当時、性教育などされることなく、10代で嫁入り。そこで担わされていたことは、子孫繁栄。
そのための春画

人類が耐えることなく、命を継続していくというガレの壮大なテーマ。春画の中にも、当時、お家断絶などにならないよう、その裏に子孫繁栄の祈りが込められている?!


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【追記】(2016.3.14)ガレのテーマ 顕微鏡的「ミクロとマクロ」の視点

 ガレのテーマには、「ミクロとマクロ」の世界観がきっとあるはず。その「ミクロ」の世界というのは、顕微鏡などによるミクロな世界観を、持っていたのだろうか。

当時、顕微鏡は存在していたのか・・・・・

なんてことを考えていたのですが、ガレは、顕微鏡をのぞいていたと友人から聞きました。


世阿弥と宇宙飛行士の野口さん。自分自身を俯瞰して見るということの共通性。

〇アートと科学。
医者に必要な能力は、数学や物理ではなく、アート的な鑑賞能力が要求される。
立体空間としてとらえることが必要。顕微鏡下に見えるものは、スライドに乗せられた標本のほんの一部にすぎない。そのスライドは、臓器から切り出された切片がのせられている。

この切片は、臓器のどの部分を切り取ったのか。どのような方向に切り取られたものかということを判断する空間認識能力が必要。2次元の切片は、臓器という立体の中のどこの部分かということを把握できる力。ということで、医者にはアート感覚、空間認識力が必要。物理、化学、数学ができても、それでは役立たない。

というようなことが、手にした本に書かれていました。⇒*1



自分が見ている視野、自分が立っている位置。それを、俯瞰して客観的に見て判断するという視点。美術鑑賞をするということは、そういう力が養われると言います。解剖学、組織学の見方から学んだことと同様なことが、美術鑑賞の中にあった! ただ、学生時代にそんなこと言われたところで、すぐに直結はしなかったはず。それはいろいろなものを見てきた今だからこそ、理解できるのであって・・・(2016.12.12)

ガレは、顕微鏡をのぞいていた。ということは、当然、顕微鏡という視野で見る世界が、広い世界の中のどういう位置関係にあるのかという視点を持って、あらゆる物事を観察し、見ていたのだろう・・・と想像されます。


ということで、思い浮かんだのがプラトンの饗宴 イデア論。⇒○洞窟の比喩


ガレ、世阿弥、野口さんたちが持つ共通の視線。

私たちが見ているのは、影にすぎない。自分たちの立ち位置を、客観的に俯瞰してみていて、そこに真の姿をとらえようとしているということ?

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【追記】(2016.8.28)オルセー美術館協力 誕生170周年

                    エミール・ガレ

オルセー美術館特別協力 生誕170周年 エミール・ガレ展(サントリー美術館
Ⅳ章「ガレと生物学」のコーナーにて、顕微鏡で観察し、論文発表もしていたことを確認。 

 

【追記】(2016.11.18)顕微鏡の歴史

「顕微鏡」「写真」「電球」の発明と美術への影響(覚書)

 

【生物基礎】第1章 生物の特徴(細胞) - 高校生物をまとめてみる

     →2.細胞の発見と顕微鏡の発達

 

ガレが顕微鏡を使っていたかどうか。その当時、顕微鏡があったのか・・・と思っていたら、ガレの時代、顕微鏡はかなり普及していました。顕微鏡はかなり古くから発明されており、1665年 フックによる図譜がセンセーショナルに。

1901年  エミールガレ ランなどの研究 顕微鏡を使用

当時はすでに顕微鏡は一般的で普及

 

日本でもシ―ボルトが顕微鏡を持ち込み(1823年)その後、様々な菌の発見。

1887 (明治20) 日本への顕微鏡の輸入盛んになる(細菌学発達に伴い)
1894 (明治27) 日本 北里柴三郎 ペスト菌の発見
1897 (明治30) 日本 志賀潔 赤痢菌の発見
1919 (大正 8) 日本 野口英世 黄熱病原体発見

 

 

【追記】(2016.12.07)思考のベースとなっているものがはっきり見えた!

美術を理解するとき、「生命」というものがベースとなって、そこから派生する 「生と死」「自然の摂理」「生命の連鎖」「輪廻 生まれ変わり」「遺伝」「子孫繁栄」・・・etc というキーワードを見出し思考をつなげてきたということについては、すでに意識的ではありました。それは、自分が学んできたことがベースとなっていることも、薄々感じていたところではありました。そして、美術作品というのは、最終的には「いかに生きるか」を問うものなのではないかと・・・・

 


たまたま、過去の展示を思い出しながら、新たに移動した「はてなブログ」のカスタマイズの方法を調べている先に、上記のようなブログを書かれている方がいらして、何気なくクリックしてみました。

 

そこに生物を学ぶ上で欠かせないことが連ねられていました。そのキーワードを見て、びっくり。これらは常々、自分が物事を考える時のベースとなる言葉が並んでいました。

 

  「階層性」 「多様性」 「共通性」

 

これらのことは、生物学だけでなく日常生活に応用できる思考法なんです。

たとえば・・・

 

□「階層性」・・・ミクロ的な視点、マクロ的な視点

物事を見る時、部分だけを見ていてはダメで、大局的に見ることが重要。しかし、マクロ的な視点を中心に語ると一見、視野の広さを感じさせられ、壮大に見えるけども、取りこぼしが多くなります。両方の視点を行ききしながら、バランスよく見ることが大事。

 

□「多様性」・・・生物は多種多様な生き方をする 

はてな」でよく話題にあがるブログ論。ブログと人とどうかかわるか・・・ 最終的には人にはいろんな価値観があっていろんな楽しみ方があるわけです。それをお互いが認め合うことが大事。自分と違う考え方も、そういう人もいるんだな・・・と共存して認めていくことが肝要。これは昨今、言われる生物多様性という言及から得られた考え方なのだと思っていたのですが、「生物学」そのものの姿だったことに気づきました。

 

人間関係のトラブルも、この考え方がベースにあれば、いろんな人がいるよね・・・・と捉えることができて、生きやすくなると思うのでした。

 

□「共通性」・・・多様性の中に共通性がある

これまで、美術関連の記録をしてきたのですが、そのバラバラな状態の中に、いろいろな共通性を見出すことができます。それが本質であったり、普遍的な概念になったりすることも。たくさんの情報を集め、そこから共通性を見出していくことで新たな創造が生まれます。

 

□「進化」・・・・

そんなことを繰り返していくことで、表向きは見えないかもしれませんが、進歩していくのではないか。

 

 

□生物学には社会に出て生きていく世渡り術がいっぱい!

まともに「生物学」を学んだわけではありませんでした。⇒*2

しかし、知らぬうちに、総体的な基本思考を身につけていたようです。そのことに驚くとともに自画自賛(笑)

 

生物学には階層があった。(←こんな意識を持ったことがありませんでした)マクロからミクロへの階層を広く浅く学ぶために、それぞれの「階層」を順に「章」立てをしつつ、ミクロの世界へて導かれています。その「章」の一つ一つが、これまで各論として学んできた学問の体系だっただという位置関係を今、知った気分です。

   ⇒*3 ●「生理学」「生化学」って何? 

  ⇒*4 ●専門科目は時代とともに複合しながら進化しミクロの世界へ・・・

 

 

生物学のとらえ方というのは、日常でも応用できます。ここはてなブログを作成するうえでも応用されていました。目次で見出しをつけて「階層化」していることにも共通します。カテゴリーを分けてまとめているのは「共通性」を見出しグループ化しています。さらにそのカテゴリーも同じジャンルをまとめて「階層化」させようとしていることにも通じています。こうして記事を蓄積しながら、共通点をまとめてグループ化し、階層化、構造化して更新していくことで「進化」していく・・・・  

このような思考の共通点は、あらゆる場面において見えかくれしています。というように、思考の基本、ベースになっている考え方、アプローチ法は、生物学の基礎構造と全く同じだったということに、今、気づかされたのでした。

 

これまで学んできた独立していた学問は、「生物学」をマクロ的に俯瞰してみた時のミクロの各論だった・・・・ そんな学問体系の中で過ごしたことが、今の自分の基礎を作っていったことに気づきました。 

 

【参考】

【プリント】生物基礎 センター試験対策 - 高校生物をまとめてみる

センター試験の生物の基礎は知識問題」と題してまとめられたプリントが秀逸。

自分が学んできたことが、マクロ的に見て、どういう学問体系の中に存在していたことがよくわかりました。

 

 

■【追記】(2016.12.10)アール・ヌーヴォーのガラスと19世紀マイセン展

                            (そごう美術画廊)

画廊で扱うエミールガレ作品は、工房作品が主。ところが、今回の展示は、エナメル時代のものが多数。中には博物館クラスと思われる作品も・・・ これはすごい!

 

そして、会場に置かれていたポーラ美術館のガレ展の図録。

2007 「エミール・ガレアール・ヌーヴォーのガラス工芸」

 

中を見ていたら、ほとんどの作品が北澤美術館の作品だったことが判明。これで、ずっと抱いていた違和感も解明できました。

 

初めてポーラで見たガレ作品。当時はガレも知らないし、ガラス作品もイマイチ興味がない状況。ところが、えらい感動していました。それがきっかけでラリック美術館にも行くようになったのですが・・・・  しかし、ポーラで開催された2度目のガレ作品は、それほどゆさぶられることもなく、あの衝撃は何だったのだろう・・・  

あの時に展示された作品は、どんな作品だったのか・・・ 私は何に感動させられていたのか、ずっと気になって考えていました。その後も何度か、ガレ作品をポーラで見ているのですが、最初に見た作品を、目にできているのか・・・・ どうも最初に見たものとは違うような気がしていてあの感動を再び!と思っていました。

 

きっと、作品に感動したのではなく、展示法がよかったのだと理解していました。ガレは、植物学者だった! 化学者だった! 芸術の中に科学が存在している! ということを知った頃で、それがきっかけで絵画に興味を持ち始めた時期でした。

 

ガラス作品って化学反応の応用・・・ まるで化学実験の集大成。それと同じことを磁器でも感じさせられていたわけですが・・・・ そういうことがわかると俄然、芸術領域も興味の対象になります。製法が詳細に記載されたガイドが設置されていました。化学反応はこんな形で応用すれば、芸術作品に昇華させることができる。化学技術というのは、芸術領域にも大きな貢献をしていたんだ・・・・ しかもそれらの反応を組み合わせることで、こんな造形を作り上げてしまうなんて・・・ 化学反応をこういう世界に取り込んでしまうこういう発想ってどうして浮かぶのだろう・・・と引き込まれていったのでした。

 

ガレ好きの友人に言わせると、北澤作品は、一線を画すものばかり。と聞いてはいましたが、それはお気に入り美術館への贔屓目ではないかと内心思っていました(笑) ところが、何にもわからず初めて見た時に、それを理解していたらしいことが、今、ここでわかったのでした。2007年と言えば、モネを通して、ちょうど絵画の入り口に立ったころです。⇒(*5

 

 そしてかすかな記憶がよみがえりました。

当館で初めての大規模なガラス工芸の展覧会となった本展では、アール・ヌーヴォーのガラス工芸を代表する作家エミール・ガレの名品をはじめ、ドーム兄弟、ルイス・カムフォート・ティファニーなど、初公開作品を含む約150点をご紹介しました。また、国内随一のガレ・コレクションを誇る財団法人北澤美術館にご協力いただき、ガレ最盛期の名品をあわせて展示しました。

   出典:花の絵画 – モネ、ルノワールから梅原龍三郎、横山大観など

      エミール・ガレ – アール・ヌーヴォーのガラス工芸 | ポーラ美術館

                              (2007)

講座に参加した時に、ガレと言えば北澤美術館と言われる北澤の館長さんをお招きして、セミナーを開催しますので、ぜひご参加下さい・・・と案内がありました。そんなこと言われたって「北澤美術館」なんて当時は聞いたこともなかったし・・・と思いながらスルーしていたのでした。

 

まさか、今になってこんなふうにあの時の作品がつながるとは・・・

 

 

■【関連】エミールガレ

オルセー美術館特別協力 生誕170周年 エミール・ガレ展:ライティングの秘密                  

オルセー美術館特別協力 生誕170周年 エミール・ガレ展  

庭園美術館 :エミールガレ:ヒトヨダケ文花瓶・・・自然の摂理と輪廻  ←ここ

                          (2016/02/10) 

ポーラ美術館:ガラス工芸 ガラスとことば(メモ) (2016/05/17) 

大一美術館 :エミールガレ 《蜻蛉文足付盃》メモ(2015/08/21)

 

 

■脚注

 

*1:■目の前に見えているものは何? (2016.12.10)

初めての組織学の実習の時のとまどい。標本を与えられてスケッチをせよと・・・・ そんなこと言われたって、その標本が臓器のどの部分なのかもわからなければ、一枚のプレパラートのどこを見ているのかさえもわからない。ミクロとマクロの世界を行ききしているのですが、突然、現れたミクロの世界。初めて見る顕微鏡下の世界をどうとらえたらいいのかにしばらく戸惑ったこと。「解剖学」と「組織学」の違い。目に見える世界と、見えない世界。その単純なことに気づくまでの戸惑い。今、目の前に見えているものが何なのか・・・・それがなにを意味しているのか・・・・

MRI画像や超音波診断なども同様。臓器の断面が連続。その一枚を見て臓器のどこの部分なのか。その一枚から立体を想像する力。断面図の連続により立体を構成していく。それがなかなかつかめないジレンマ。まさに空間認識力が問われていたのでした。今は、3Dなどの画像によってそれが比較的、簡単に理解できるような教材があることを、「人体の解剖学展」などで目にし、隔世の感があり。自力で解剖学と組織学の基礎を駆使しながら空間構成していくのと、最初からビジュアルで認識できてしまう違い。

*2:●生物学を学ぶって?

高校1年、必修で学んだ「生物」 受験では生物は選択しなかったので、知識は忘却の彼方。大学1年の教養科目で10コマの生物学。トータルたった150時間。これで、生物学を学んだとは言えません。遺伝学もたった10コマ。最先端の遺伝学の知見に触れられるのかと思っていたら、高校生物Ⅱの内容とほぼ同じ。これで生物学の中の遺伝を学んだとは言えません。結局、「さわり」というより、高校の基礎知識の確認をしただけ。しかし、その後に学んだ各論によって、生物学の全体像がかためられていき、生物学の本質のようなものを、自然に理解していたらしいことがわかりました。

*3:「生理学」「生化学」って何?

入学当時「生理学」「生化学」って言われてもよくわかりませんでした。 

卒業して20年ぐらいしたころ、片付けをしていて当時の教科書やノートが出てきました。生物学のノートに次のようなことが書かれていました。

 

 高校理科 :「生物学」「化学」「物理学」

   生化学=生物学+化学

   生理学=生物学+物理学     

 

これを見て、ハッとしていました。

数十年の時を経て、科学の世界の全体像が見えてやっと、「生化学」と「生理学」ってこういう学問だったのか・・・と知らされた気がしたのです。今、その時と同じような感覚を受けています。

*4: ● 専門科目はミクロの世界が時代とともに進化複合したもの

「生化学」「生理学」は2年で学ぶので、1年の時にこんな解説をされていても、その意味することは想像すらできません。学問体系の各論はミクロの世界の話で、そこで見ていることは、全体の中の位置関係はまだ見えていません。しかし、様々な学問を重ねていくうちに、「科学」という全体像がぼんやりとつかめてくるということに気づいた時に驚きと同じ感覚でした。

*5:モネ展:①これまで参加したモネ展と「マルモッタン・モネ美術館所蔵」