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コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■ポーラ美術館:ガラス工芸 ガラスとことば(メモ)

 >エミールガレ ◇生命・連鎖・輪廻

ポーラ美術館のコレクション企画  

  会期:2015年9月30日(水)-2016年9月4日(日)
  会場:ポーラ美術館 展示室4


上記の展示解説の中で気になった言葉

西洋では、自然とは生まれたままの野生の状態を意味する。それはしつけられていないもの つまり、人間が制御する必要のあるものという意味を持つ。そして、自然は、ながらく人間の下位に位置付けられていましたが、ジャポニズムの流行とともに自然との親和的な関係に、基礎を置く日本の文化の魅力が驚きを持って受け入れられるようになると、自然に対する姿勢に変化が生じる

その潮流の中から生まれたのがアールヌーボー自然から直接学習して未知の世界を切り開く革新的芸術活動。

ガレは植物の存在自体を認め植物に本来備わった形態や構造に潜む英知を
明らかにしようとする姿勢。それは、植物学者が植物に向かう姿を思わせる真摯なもの

 

これまで、いろいろな表現で、自然と人間の優位性について語られたものを見てきたのですが、自然を「しつける」という表現をされているのを見たのは、初めてでちょっと衝撃的でした。


それについて、次のように語られていました。

「西洋では、神が絶対。虫や花は、下等と考えられた」は、以前「イギリスと日本」という岩波新書だったかで読んだことがあります。 日本ではペットを友達に近い並列関係で接するのに対し、イギリスではペットは「神>人間>ペット」という序列の中で下に位置づけられている存在。だからこそ、ペットを飼う際にはきちんと躾けて飼わなければなりません。

 

犬が鳴きやまない場合、日本では「仕方の無い犬」「あまり賢くない犬」と原因を犬に帰してしまいます。これに対しイギリスでは、犬が鳴きやまない場合、「飼い主のしつけが悪い」ともっぱら飼い主の責任になるようです。そのため、イギリスでは、飼い主の責任として、ペットを従属させなければなりません。ペットと虫の関係は不明ですが、おそらくは「神>人間>ペット>虫」でしょう。それは理解できます。 

 


そして、ペットと人間の関係について、次のような参考情報を紹介していただきました。下記は、日本の訓練士さんが、海外のペットのしつけについて、言及したもの(『訓練犬がくれた小さな奇跡』藤井聡 著)をブログで取り上げて紹介されたものです。

   ○ノーリードが当たり前


    自然=しつけられていない


と言われると、日本人的な発想からすると、えっ? っとギョッとしてしまいますが、
西洋と日本では、ペットのしつけ方の根本的な考え方が違う。それは、西洋の自然観からきているのかもしれない・・・・と思われました。

 

■ガレの新たな側面

ガレ作品、前回、庭園美術館で見た作品よりも、いいかも! それは、企画展の中で展示されていたガレ作品からも感じていたことでした。

人の流れを読んで、それとは逆の行動を・・・・みんな最後にガレを見るだろうから、
今なら、ガレを見てる人は少ないはず!

予想的中・・・・
そこには、友人が一人じっくり、作品と向き合ってました。

「すごいわよ、ポーラーのガレ」
「ですよねぇ・・・ 私、北澤よりいいんじゃないかと思ったんですよ」
「ちょっと、悔しいけど、そうよね。 ガレの新たな面を発見した感じ・・・」

 

 

■ガレとの出会い

私のガレとの出会いは、ポーラ美術館でした。メインの企画展示とは別に、ガレとドームの展示があってこれは、すごい! と思ったのでした。


しかし、今、思えば、作品がスゴイと思ったわけではなく、「技法」の凄さに魅了されてしまったといった方がいいかもしれません。あの時代に、このような工法を考えてしまうって、ガレは化学者の側面を持っているってことじゃない? ウェッジウッドもそうでしたが、工芸というのは、化学の産物。そして、植物についても、論文を書いていたと言います。

上記の解説に「植物学者が植物に向かう姿を思わせる真摯なもの」とありますが、植物学者の姿を思わせるのではなく、植物学者そのものだったはず。

そういうことが、興味の入り口となって、引き込まれていきました。

昨年、ポーラで2度目のガレの展示を見学。あの感動を再び・・・・と思ったのですが、あれれ・・・・  なんかイマイチ。あの感動が、全くありませんでした。


展示「作品」が、違う気がする。展示「方法」も違う・・・・工法の説明が全くなかった・・・今回、工法の説明がないけども、魅了されいる。それは、自分の見方が、変わったからなのか。

前回のガレの展示は、どんな作品を展示していたのだろう・・・・今回と同じものも展示されているかも。なのに受け止める感覚が違うというのは面白い・・・すごく、気になりだしました。

これを見る前に、北澤の作品を庭園美術館で2度見ました。それによって、ガラス作品の見方がこなれてきたということ? 友人も、あのあと、デッサンの表現がうまくできたと言ってたし・・・

ただ、どうも、作品、そのものが、違う気もするのです・・・・・


■ガレを見ていたつもりが・・・・

昨年の展示が、どんな作品だったのか調べてみました。


ショック!

てっきり私は、ガレを見たと思っていました。ところが、「ラリック」だったのです。

  ○ルネ・ラリックと香水瓶

作品、そのものが違う気がする・・・・と感じていたのは、当たり前。ラリックを見ていたわけですから(苦笑)

記憶が、どこかですり替えられてしまったのでしょう。実に、記憶なんていい加減なもの。これまでも、見たと思っていた作品が、違うものだったり、見てないと思っていたものを見ていたり・・・

残念ながら、ポーラ美術館のこと、日記には書いていなかったので、どこで、どういう取り違えがおきたのか、今となってはわかりません。

しかし、今回見た「ガレの作品とは、違ってた!」という印象は、正しかったわけです・・・(笑)

 

 

 

■世紀末の象徴主義的・・・・

ガレの作品で、上記のような解説がありました。今一つわからず。


◆「象徴主義」を引いてみたけど、wiki pedhiaでも、

出典を求められていたりして、よくわからない状態でした。
象徴主義自然主義への反動であった。「観念に感受可能な形を着せる」ことが重要であった[要出典]。自然主義者とは対照的に、象徴派は事物を忠実には描かず、理想世界を喚起し、魂の状態の表現を特別扱いする印象や感覚を探求した。 

 

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