コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■エミール・ガレ 自然の蒐集:詩が刻まれた作品を理解するのは・・・

ガレの作品の中に、「ものいうガラス」というシリーズがあります。文学や詩から一節をとり、表面に記された作品です。これらを理解するのは大変! かと思ったのですが‥‥ 詩が書かれた作品について、学芸員さんから伺ったお話を紹介します。

*写真の撮影、掲載は、主催者の許可を得て掲載しております。

 

 

■詩が刻まれた作品

ガレの作品の中に、詩文の入った「ものいうガラス」というシリーズがあって、文学や詩から一節をとり表面にを削るようにして記されています。これは、造形を文学的に読ませるという趣向の作品です。

 

 

今回、展示された作品の中にも、上部には、詩が刻み込まれているものがあります。 

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《海藻と海馬文花器》1905年頃 ポーラ美術館

 

この詩を訳すと 

人間よ、何人もお前の心の深さを測り得なかった。

おお海よ、何人もお前の奥底の富みの豊かさを知ることはできない。

 

 

■シャルル・ポードレールの「悪の華」『人間と海』

作品の背後のパネルに、この詩の原文が掲げられています。刻まれているのは、『人間と海』から引用された一文です。 

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 上記の太字の部分にあたります。

 

この意味は・・・

人間が深海の奥底に秘められた深い意味を伺い知れないのと同様、人間の心の深層も容易には理解ができない。

という意味なのだそうです。

 

*「悪の華」は、ルドンも影響を受けたと言います。

 

 

■詩の意味を理解するには‥‥

この詩がどういう詩なのか。そのためには、シャルル・ポードレールがどんな人で、どんな作品を書き、「悪の華」はどのような作品で、『人間と海』では何を伝えようとしているのか。それらを理解した上で、引用した部分を初めて理解できるのだと思っていました。

 

これを理解するには、壮大なパズルのような解析(?)を必要とすると思っていました。それがガレの「もの言うシリーズ」なのだと。もしかしたら、その引用されたものだけでなく、対立する作品などもからめた、深い深い思想のようなものもあるのかもしれない‥‥

 

今回、その原著が示されていて、こういう形で引用されていたのか‥‥となんとなくはわかったのですが、まだまだ雲の上状態に思っていました。

 

 

■一文は、原文と関連性はない!

学芸員さんから、引用された詩と、原著についての解説がありました。この引用は、詩の一部を抜いているけども、それは独立したものなので、元の詩とは、関係がないというのです。

 

それまでは、ガレの作品は深すぎて、その裏にある思考や思想など、理解するのは並大抵のことではないと思ってきました。その、一節は、引用された原著とは関係なく、その言葉を捉えればよいということを知り、ちょっと拍子抜けというか、それなら、自分にも理解できかもしれない光が見えたと思いました。

 

タツノオトシゴをモチーフに、その生態を表す。そこに添えられた言葉は、そのまま、深海って深いんだよね。それと同じように、人の心も深いよね。と理解すればいい。といいうのは、ちょっと意外でした。

(そりゃぁ、ガレの言う深いの意味は、いろいろな意味の深さを言ってるのだろうし、私たちがイメージする以上のことを考えていると思うのですが、思っていたほど、手の届かないところにあるものではないと思ったのでした。)

 

 

■文学アレルギー

文学が絡む作品について、自分には理解できる日は訪れない。とまで思っていました。ところが、単に一節、抜いただけという「ものいうガラス」の作品もあるんだというのは、ハードルを下げてくれました。

 

それと同時に、日本美術でも、文学が絡むともういいや…と目を背けていたのですが、一つを知ると、他とつながって、その作品が少しずつ理解が深まっていくのを感じていたところなので、そんなに大げさに考えなくてもいいのかと思えるようになりました。

 

 

■ガレの「ものいうガラス」の歩み

1860年頃(14)から、イソップの教訓やことわざ。

1880年代(34)は、象徴主義の理念にも敵ったもの

1890年代(44)賛否量論 銘文は不必要で煩わしいもの

1898年 (52)私は私の方法でいく

 

 

【参考】「ものいうガラス」について過去の記録 

□ものいうガラスに対する批判より

ガレの作品の中に「ものいうガラス」というシリーズがあることを知りました。これは、表面に詩の一節や警句などが記されているものだそうです。


ところが、批評家には不評で、作品そのものが、いろいろなことを物語っているのに、それをわざわざ刻印して見せるのは、作品を陳腐化させていると言われたそうです。

その、批評家の気持ちが、今はすごくわかるようになっています。ガレが込めたものを、自分で見つけ理解し、解釈することに意味がある。それは、ヒトヨダケの花瓶であれこれ想像して、作品の意図を自分なりに解釈したという経験がそう思わせているのだと思いました。

ところが・・・・

 

あまりに広すぎるガレの背景を目の当たりにし、作品の理解は、到底、無理であることを悟りました。その時のメモに次のようなことが書かれています。

 文学や詩などから、切り抜かれて書かれている言葉の意味だけがわかっても、作品の真の理解にはならないはず。文学作品を読み込み、そこにはさらにいろいろな解釈もあるでしょう。


そうしたことまで網羅した上での引用だと考えられるので、どんなに逆立ちしても、理解することはできない。途方もない奥深さがわかってしまい、近づけば近づくほど、遠のいていく感覚・・・・諦めというか、お手上げ状態となり、もう、いい・・・・ どうせ、どうせ・・・・と逆にこちらから突き放してしまうような・・・・