コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■思考:学ぶとは? 自分の力で体系づけることを知る

中学、高校時代の学びは、ただひたすら定期試験や受験のために「覚える」ことが学びでした。覚えるための工夫は考えていたような気はしますが、何のために学んでいるかといったら、それは、とりもなおさず「受験」のためでした。本当の「学び」とは何か・・・ 「自分の力で体系づける」ということを知った時、初めて「学ぶ」ことの意味がわかった気がしました。

 

 

 

■「学び」とは「覚える」ことだった時代

大学に入ってからの学びもまた、ただ、ただ覚えること。そして、次々に押し寄せる実験・実習のレポートの作成をこなすこと。試験に出ると言われたところをただひたすら暗記。試験、10分前の記憶力は最高潮に達していました。それは、記憶というよりも、直前に見たノートの残像を頭の中に焼き付け、試験が始まると、その残像が消えないうちに、答案用紙に放出する。そんな感じで乗り切っていました。当然、試験が終わればすっきりきれいに忘れる(笑)

 

集中力は、試験の始まる3時間前ぐらいから徐々に上昇カーブを描き、始まる直前にピークに達して信じられない記憶力を発揮します。全体の80%ぐらいは、この時間に頭の中に入れていた感じ。瞬間湯沸かし器的な集中力は、運動系の部活をしていたことで鍛えられたのではないかと思っていました。

 

 

■試験前の逃避行動

よく試験直前になると机周りを片付けたくなったり、他のことをしたくなるという経験、誰にでもあると思います。これは、試験から逃れたい、忘れたいという逃避行動だと思うのですが、この行動は、どこまで逃避しても大丈夫なのか、潜在的に自分自身がわかっていたような気がするのです。

 

ここまでなら、なんとかなる。でも、これ以上、逃避行動を続けると危険。というぎりぎりのところを察知して判断し、よきところで切り替えていたように思います。つまり、自分を追い込んで、火事場のバカ力のように、意識を集中させ本来の記憶力以上のものを引き出させていたのでは? ある時から、そんなふうに思うようになりました。寄り道をしたとしても、軌道修正は本能的に、危機的状態になる前に回避できる。そう思って開き直り、好きなだけ寄り道をすることにしました。

 

 

■国試から学んだ本当の学び

〇国試対策は、過去問を解く?

ちょっと話題が横道にそれましたが、本当の意味の「学び」というものを知ったのは、国家試験の勉強をしているときのことでした。資格試験の対策と言えば、過去問を解くことが基本です。しかし、基礎知識、総論的な把握がされていないと、過去問を解いているだけでは、身になりません。真の理解がなくても、消去法や直感的に、あるいはまぐれ当たりで問題は解けてしまいます。

 

主人が資格試験の勉強で、過去問を何度も解いていました。その時に、こんなことを言っていました。「何度も問題解いてると、答えを覚えちゃってるから、意味ないんだよな・・・」って(笑) 時間がないから、基本の勉強もせず、問題だけを解く。そんなことをしていると、こういう事態い陥ってしまう。でも、社会人の勉強は、時間のない中で勉強をするからとどうしても、そうならざる得ません。(心の中で、そんな勉強のしかたじゃ、ダメなのよねぇ・・・・こりゃ、絶対、落ちるわ・・・って内心思っていました。しかし、受かったみたいでしたが・・・・(笑))

 

 

〇基本を学ぶことを選択

やはり「基本のき」が大事。総論を把握していないと、部分の問題が解けても意味がないということで、基本の理解に徹することにしました。入学して初めて学んだ「検査総論」その中の「尿検査」の検査項目に、肝機能が低下した時に排出されるビリルビンという項目があります。これまで何度も、何度も、繰り返し試験に出てきて理解をしたつもりになっている項目です。

 

しかしビリルビン」とは何か・・・・改めて説明しようとするとわかっていません。ビリルビン代謝も含めて一からちゃんと理解しようと思いました。教科書の内容だけでなく「医学大辞典」で「用語」を調べ直すところからスタートしました。そこに出てくる言葉で、わからない用語は、さらに調べます。また「理化学辞典」「生物学辞典」も使って調べました。そこで、わからない言葉がでていたら、教科書も開いて、その章の全体を勉強しなおしたりしながら進めていました。そして最後は「臨床検査提要」という検査のバイブルのような辞書にも目を通して、一つの項目をいろいろな角度から学び直すことにしました。

 

 

〇独立していた教科がつながっていた!

すると、最初は「検査総論」の勉強をしていたはずなのに、次々に違う教科に飛んいくのです。「ビリルビン」という項目は「検査総論」の中の項目だったのに、いろいろな教科とかかわりがあることが見えてきました。その時に、体の中に存在している大きなサイクルに気づかされたのです。これまで、各教科で独立して学んでいたこが、実は連動しあっていた。それまでの学習は教科ごとの縦割りだったということが見えたのです。すべてはどこかでつながっている! ということが、その時の私にとって、大発見であり、大きな感動であり、衝撃的なことだったのでした。

 

 

■思考の記録

今は、ブログというものがあって、いろいろな記録ができます。大学生の方が、ブログを書いて今を記録しているのを目にすると、自分の学生時代が重なります。当時は、ブログやメールというものがありませんから、記録するのは日記だったり、手紙だったり・・・  自分が今、何を考え、何を感じているのかを記録することが昔から好きだったので、いろいろな形で、学生時代の「思考」が残っています。

 

今、それを振り返ってみると、自分の基本的なアイデンティティーが形成されたのは、この時代の「学び」や「思考」によるものが大ききと感じさせられます。そして変遷も見え、こういうことがきっかけになって、こういう考え方が培われていたのだな・・・ということが見えてきて面白いです。

 

1年の時に、オリエンテーション的な実習が泊まりでありました。大学が所有する施設で、顕微鏡を使いこなすためのカリキュラムだったようです。一日中、顕微鏡を覗いて、スケッチをします。その時の実習補助をしてくれた大学院生がいました。実習後、手紙のやり取りをするようになりました。その手紙の内容は、日々の気づきや学びについて。いかに学ぶか。ある時は、学ぶことへの疑問やとまどいがしたためられています。

 

今のメールとは違って、書き直しができないため、手紙を書くための下書き書く時間が必要です。それから清書をして投函。そのため、すぐに返事ができません。返事もすぐに戻ってきません。手紙のスパンは、試験が間に入ったりすると、数か月に及ぶことも・・・・ 返事が戻ってきた時には、前に何を書いたかすっかり忘れています。そこで、カーボン紙(知っているでしょうか?)を使って転写して、書いたものを残すようになりました。そのため、自分が出した手紙の記録が残っています。

 

当時、何を考えていたのか・・・なに迷っていたのかなどを知る手がかりになっています。

 

 

〇学び方への迷い

病院実習などもあって、国試の勉強をスタートするのが遅くなりました。この時期からは、もう過去問を解く方が手っ取り早いことはわかっています。しかし、基礎を学ぶことから始めないと問題を解くだけでは、本当の知識にはならない。基礎をちゃんと学んでから・・・・ ところが、わからないことを調べていくと、次々にわからないことが出てきてしまって、全く勉強が進まないのです。それどころか、自分は、何を調べていたのかさえも見失ってスタートの部分が何だったのかまでわからなくなる。こんなことをしていては、理解ができたとしても、試験には到底、間に合わない状況。

 

そんなジレンマをぶつけていました。ところが、ある時に気づいたこと。これまでの「学び」は「個々に独立」したものだと思っていたけども、それぞれが連動していて、体内には壮大なサイクルが存在していることに気づきはじめました。その感動を伝えたいという一心で、書いた手紙があります。

 

 

■自分で体系づけていく 

〇つながりの発見

******略**********

勉強の仕方もよくわかりました。「‘正しい理解のもとに確実に安定した知識が身に付く’」と言われたことを、少しずつ感じるようになてきました。そして最近、おもしろいことに気付きました。と言ってもよく考えれば当たり前のことなのですが・・・・


ビリルビン代謝について調べていました。今まで何回も耳にタコができるほど、繰り返してきたことです。赤血球が溶血してそのHb(ヘモグロビン)が・・・・・と。じゃあその先のHbはどのようにしてできるのか。それはヘムとグロビンが結合したもの。それではヘムって何? それは、ポルフィリンとFeの錯化合物。じゃあポルフィリンって?・・・・・と、その先へ先へとつきつめていきました。するとなんと、TCAサイクルのサクシニルCoA とグリシンにたどりついたのです。 

それは私にとって大発見でした。これまでTCAサイクルというのは、「生化学」というジャンルの中の項目でした。今まで「TCAサイクル」と「ビリルビンとはつながりようのないものだったのです。それが生体の中では、つながっていたのです。今まで独立して頭のにあった知識に接点を見いだしました。となるとポルフィリンからは、チトクローム、カタラーゼ、PODなどが構成されていく・・・・ 

そこでまた思ったのです。今まで得た知識はどこかできっとつながっているのだと。今まで「血清学」として独立していると思っていた「補体」も、ビリルビンを生成する、赤血球の溶血に関するものというようにとらえることができます。考えてみれば当たり前のことなんですよね。生体内でおきる反応のそれぞれが独立して営まれていたのではおかしなことになってしまいますから・・・

今、いろいろな方向から、この結びつきをつけようと頑張ってます。そんなこと、○○さんからみればあたりまえと思われてしまうかもしれません。しかし今の私にとっては大きな発見だったのです。これから先、私はこんなことに、感激してたのか あのころは・・・・と思う時が来るのだと思います。(実際のところ、それが分かった今、些細なことと受け取り始めているというのも確かです)でも、この感激は、いつまでも忘れたくないと思っています。 

************<後略>************

 

 

〇自分の模索で体系づける

そして、次のようなお返事がきました。


僕が予想していたとおり、いやもしかすると、それ以上のものを、つかみつつあるようですね。今まで関連のなかった事柄が、自分の模索によって、1つの体系につながったことの喜び。これは何物にもかえられない発見です。

多分、今後もこういった発見を何度か味わうことができるでしょう。
そのたびに、貴方は大きくなっていくののです。確かに知識それ自体は些細なことかもしれませんが、それを体系づけることを自分で発見したこと、これは誇っていい、充分それだけの価値があります。まあ、あまり入れ込みすぎるとバテますから気長にやっていって下さい。

 

 

■わかってもらえるということ

自分がとっても感動したこと。それを伝えたい気持ちはやまやまなのですが、私のこの感動は、果たして理解されるのか。よくよく考えれば生体において、当たり前のことなんです。それを生物学を専攻している院生に話してみたところで、何を当たり前のことを言ってるんだ・・・って思われやしないか。わざわざ語るほどのことではないのでは? いや、生物学専攻、しかも海洋生物専攻だったら、人体のことは知らないかも・・・と思いながら恐る恐る(笑)言葉にしてみたのでした。

 

当時、私にとって、院生というのは雲の上の存在でした。研究という分野では、先の先を歩いている人でした。しかし、今になってみれば、25~26のまだまだ、駆け出しの研究者です。しかしその時は神のような存在(笑)  風の噂で、ある大学の看護学科の生物学の先生になられ、解剖学を教えているらしいと聞きました。

 

学生の学びの芽をつぶさない。適切な指導、言葉かけをされているのだろうということが垣間見えるような気がします。将来的に学生を指導する立場につく方というのは、この年代にすでに、そういう芽を持たれているのだと思いました。学びに対して然るべきサジェッションができる。もしあの時、「そんなこと、当たり前でしょ・・・」と言われていたら、私はポシャっていたかも(笑) 

 

「自分で体系づけた喜びは何ものにものにも変えがたい」 

 

そんな言葉で勇気づけられて、学びの意欲の火が消えることはなかったのでした。しかしこんなことがあったことなどもすっかり忘れ去られていました。ある時、昔の手紙などは、残しておかない方がいいだろう・・・(笑)と思い、整理しようと思いながら、読み返したのです。そこには、学生時代に悩む自分の姿が、いっぱい書かれていたのでした。 

 

 

 

 ■初めて感じた知りたいという欲求

当時、学んでいた生体内の代謝システム。それは、「生化学」というジャンルの中で「章」で分かれており、私の頭の中ではそれらも、それぞれに独立していたわけです。しかしこれらのサイクルは、「物質名」という共通したワードがきっかけとなって、サイクルどうしが接点となってつながっていたことを理解しました。

 

その物質を受け渡しながら、壮大な歯車のようなサイクルになって回っている。その人体の代謝マップを自分の力で作り上げたいと思いました。ルーズリーフのノートをつなげ合わせながら、次第にそのマップが大きくなっていく面白さ。これが本当の「学ぶ」ということなんだな・・・・とかみしめながら。試験や受験のためではなく自分が知りたいと思ったこと、興味を持ったことを、自分で調べて、つぎはぎしながら、全体像を浮かび上がらせていく・・・・ そんなことに夢中になっていました。

 

 

■本当の学びに気づく 

〇思うように学べない矛盾

しかし、このマップは、完成をみませんでした。11月頃になると、就職試験が始まります。そのための勉強をしなくてはならなくなりました。それが終わると、12月、1月・・・ その時期になって、こんな勉強をしていていいのか。このままでは国試には間に合わない。国試には、そのための試験対策、勉強のしかたがある。本当の意味の勉強をしたいという気持ちと、試験に受かることは別。受かるための勉強に切り替えるという時期の判断も重要。同級生の中には、過去問をすでに、もう何度も解いている人もいてあせりました。ここは、割り切が大事。よきところで切り上げました。

 

 

〇理解を伴う学びは血や肉になっていた

ところが、問題を解きはじめたらすらすら解けてしまうのです。一つ一つの言葉を理解し、その関連する科目の章全体も同時に理解をしていく。という方法をとっていたので、いつの間にか、国試の受験科目全体が網羅されていったのでした。教科ごとの勉強はしていなかったのですが、物質を通して、化学構造、生化学、代謝、病態、検査データの変化、その背景、検査方法、異常をきたす病気の種類、その動態なども合わせて理解しながら進めていました。驚いたのは「臨床病理」の問題が、全く勉強をしていないのに、解けてしまったこと。これから、教科書の見直しや、まとめもしないと・・・と。時間がない! と思っていたのですが、基本がわかっているから、そこから想定していくと答えがみつかるのです。おもしろいくらいに、問題が解けてしまったことにびっくり!

 

こうして、寄り道と思っていたことが、実は全体を把握しながら進んでいて、それぞれに関連づいていたため、相互作用から推定できる力がついていたのでした。

 

 

〇いろいろな受験テクニック

今、中学や高校受験、大学受験のいろいろなテクニックが紹介されます。問題を解かずに記憶すればいいとか。中学受験は、掛け算は九九でなく、99×99を暗記しておくと計算の時間を短縮できるとか・・・・  それは、受験には受かるかもしれませんが、長い目で見た時に、真の意味の理解となっているのか。その先の応用がきくのかどうか・・・・ 記憶だけでなく、記憶したものを使って「考える」ということが重要なのだと思うのでした。

 

よく日本語もままならない幼児に、英語教育をしても無駄という話があります。日本語の基本、日本語で考えることがしっかりできた上でないと、英語を学ばせても意味がないというと同じような・・・・

 

 

代謝マップは存在していた

完成を見なかった人体の代謝機能マップ。当時、そのような図解が教科書に示されたりもしません。ところが就職した先の検査室に、大きなマップとなって張り出されていました。あんな努力をしていたのに、すでにマップになって存在していたんだ・・・・(それは製薬メーカーが作成したものだったようです)

 

そして、数十年の月日がたち、代謝マップを作りたかったことを思い出し・・・・ そういうものがネット内に存在しないのだろうか・・・・と思い出して、調べてみたら、私が作ろうと思っていたマップの原案が、簡単に手に入る世界になっていました。

 

↓ これは、その一部なです。こんな表を自分の力で作り上げようとしていました。

 

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(出典:栄養素の代謝と相互後変換) 

 

学生時代は、上記の表のTCA回路からスタートして、それが、いろいろな回路とつながっているたことにびっくり。ここの反応経路は、あそこにつながっていくんだ! こっちは、こんな反応に流れていくのか・・・ ノートのスペースが足りなくなり、張り合わせながら、このような壮大なマップを作っていました。今は一発で、こんな表が手に入ってしまう時代・・・・と遠い目(笑)

 

 

■自分で気づいて作ることで見えること

しかし、こういう回路が体内に存在するということに自分で気づけたこと。この回路を自分でつなげていったことで、見えたこともありました。体内では、それぞれの回路で必要なものを自分でもつくっちゃうんだ・・・・ それを受け渡しながら、また別のサイクルの素材にもしている。

 

ところが、こうした仕組みの中で、作ることができない栄養素、それが必須アミノ酸といわれていたということ。「必須」の意味が、この壮大な代謝の全貌が見えてきたところで、真の意味をやっと知ったように思いました。

 

そして、このサイクルの先へ、先へと追いかけていくと、その先にあるのは、「経口摂取」によって口に入る「食事」にいきつくのでした。これらの壮大なサイクルを回すための大元の素材は「食事」だった・・・  だから「食べること」「食べる物」が大事ということなんだ・・・・・と。

 

まあ、考えてみたら、そんなことは当たり前なのですが・・・・(笑) 体の中で歯車のように回っている仕組みと連動させて、自分が理解した人の体。この機能って、ほんと、すごいよなぁ・・・・と、その神秘を思ったのでした。

 

朝、起きてからの行動を、体の中の反応として理解するようにしてみました。顔を洗う時に「あら、目ヤニが・・・」 この目ヤニは、かくかくしかじかの結果、できているわけで・・・  くしゃみをすればこのくしゃみは・・・・と、今、自分の体の反応を、体内ではどのような機能が働いているのか、何が起きているのか、今の自分の知識でどれだけ説明ができるようになっているのか・・・・

 

 

■自分で体系づける発見はこれからも・・・

 「今後も、こうした発見を何度も味わうことができる」といわれた言葉。それを、今、また感じているところです。美術の世界でもまた、いろいろつながっていることが見えてきました。これまでは、美術の中に見つけた「科学」の部分に反応してきました。

 

最近になって科学の世界に留まっていた自分の「知」が、すこしずつ「歴史」や「社会構造」「文学」にも少しだけ向けられてきているように感じているところです。

 

折々で、つながりを感じながら、今まで歩いてきたのですが、また新しい美術の世界の扉の先が見えてきそうな予感があります。

 

 

■教育の変化 

 教育制度がいろいろと変わり、共通一次の詰め込みから、センター試験、そしてゆとり教育へと変遷してきました。今度は「考える」ための教育改革なのだそう。そこでは、「覚える」ことはあまり重視されていないのだと言います。インターネット時代。知識はキーを叩けば出てくるので、覚える必要はなく、それを使いこなせることが大事なんだそう。「自分で考える」ことにウェイトを置かれるそうです。そのための手法の一つとして「美術鑑賞」も注目を浴びていると言います。

 

 

〇「覚える」ことは意味がないのか?

自分自身を振り返って、「覚える」ことばかりだった受験時代。誰か「考える」ことを教えてくれる人がいたら、私の人生は大きく変わっていたかも・・・・(笑) なんて思うこともありました。

 

インターネットの時代は、知識は探せばあるのでそんなに需要ではないと言われています。

 

しかし、ある時期から、「やみくもにただ覚えるだけ」 そんな時期も絶対に必要という考えに代わりました。考えるためには、考えるための素材が必要なんです。その素材がないと、思考を構築することができないということなのです。

 

体の中では、いろいろな素材を加工して新たなものを作る機能が備わっています。しかし、どうしても必要な栄養素というのがあって、それは、体外から取り入れないと代謝システムは動いてくれません。

 

この食事にあたる部分が、「基礎知識」「考えて加工する」ための素材なのだと思います。詰め込みと批判された共通一次試験。私は受けていませんが、文系、理系問わず、5教科の試験を受けた人たちがいます。その人たちは、自分の進む道が、理系でも、文系でも、両方の基礎知識も素材として持っています。そのため応用力が聞くという話を聞きました。

 

 

〇詰め込みの効用

文系のライターさんが、理系の教授のところに取材に行きます。理系の人たちというのは、自分の技術や世界というのは、基礎を知らない人に話しても無駄、どうせ理解されないと思っている人が多く、まともに相手にしない人が多いと言われます。

 

ところが、共通一次を受けてている文系ライターさんは、理系の知識もある程度ありますから、予習をして、話を理解できるくらいの予備知識を入れていったそうです。すると、「君は、そこまでわかっているんだ・・・・」と説明をしてくれたという話を聞きました。テレビディレクターさんも、理系の教授は取材に行っても相手にされない。こっちも、真剣に調べて、ある程度のことを理解していかないと、まともな話は聞けない・・・・という取材裏話を聞いたことがあります。この時も、その人は、理系ではなかったそうですが、共通一次の基礎知識が理解に役だって、なんとか乗り切れたと聞きました。

 

 

■基礎をあなどるべからず

何かを理解したり、考えたりするには、それに関する基礎知識が絶対に必要となるわけです。新しいものを創造するためには、いちいち基礎を調べてからでは、構築ができないはず。素材となる基礎知識を、ただ暗記するだけだったとしても、一度、それを頭の中に通していることは、意味のないことではないはず。のちのちになって、考えるための「栄養素」として引き出すことができて力を発揮できます。基礎知識を学ばなければ、その存在すら知らないことになりますから、考えることも応用もできないことになります。力を発揮するのだと思いました。

 

学生時代、本を一切、読むことがなかったため、文学、歴史、社会などの基礎知識が全くありません。そのため、絵を解釈するための素材(知識)がないから、考えることすらできないのです。スタートの土俵が違いすぎるということを感じさせられてきました。

 

それでも何か、自分のささやかな知識とのつながりが発見できると面白さを感じることができます。もっと早くから、多方面への興味を持っていたら・・・・と悔やまれますが、今からでも遅くはないはず。自分の興味をつなげていることは、学ばされているのではなく、自らの「学び」です。きっと、血や肉になってくれて、また別の回路を回すための素材となってくれると思いながら・・・・

  

 

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