以前、読んだ『「理科系の頭」で考える技術 -“核心”をズバリとらえる「ものの見方・考え方」』志村史文夫著(物理学者)の一節より。
この本によって、「感性を磨くためにはどうしたらいいのか」を知るきっかけになったのですが、もう一つ、「学ぶとは」「考えるとは」そして「ものの見方」や「広げ方」についても、この本から教えられました。過去の書いたものがみつかったので拾い上げ。
■知識の融合 考える大切さ
以下、『「理科系の頭」で考える技術』より引用要約
なんでも疑問に思う著者。物理学者の志村史夫氏。 学生時代、雪国ではない茨城のある地域の学校。校章のデザインになぜか、雪の結晶が多かったことに気づき、それはなぜなのだろう? と学生時代から疑問に思っていたそう。 それが、20年以上の月日を経て、半導体結晶の本を書いた時に氷解したそうです。
結晶の説明をするため、雪の結晶を引き合いに出した。 その際に、茨城の藩主が出した図説に出会い、それを見たとき、雪が校章のモチーフになったのは、これだ!と察したのだそう。
しかし、寒冷地でないこの地で、図説にするほど、雪の観察ができたのか? すぐに解けてしまうのではないか。またあらたな疑問が沸き起こりました。
そこで年表をあたってみたところ、またもや氷解したそう。 1700年頃、国内は異常気象が続き、天保の大飢饉、天明の大飢饉につながっていたのです。 つまり、この地が当時、異常に寒かったからこそ、あの図説ができたのだということが年表からわかったと言います。
著者はそれだけではありませんでした。
この異常気象は、日本のみならず世界でもおきているはず・・・ と思い調べてみると、やはり18~19世紀、世界が異常気象に見舞われていた。 これが原因による、農作物の不作がフランス革命へ(いろいろ意見はあると思うが・・・)そして、チャイコフスキー 序曲1812年 は、ナポレオンがモスクワを攻め、寒さと大雪のため、退散させられたことが題材になったと考えられます。トルストイ 戦争と平和も 異常気象と関連づければ、新たな興味につながるかも・・・・
というように、
歴史年表は表層にすぎませんが、その奧に隠されたものを見ることで、意外な関連が見いだせると語ります。知識が増えても脳は活性化されない。個々の知識に関連を求め、融合に努める。 記憶するのでなく、「考えること」 その大切さを語っていました。
学生時代の疑問。冬、寒くない土地の校章が雪の結晶なのなのはなぜか。その疑問を、頭の片隅に残し20年という歳月、持ち続けていたこと。そして自分の研究の説明(半導体の結晶)をするために、調べていた雪の結晶の調査から、茨城県の藩主の図説と校章に共通点をみつける。そして、その当時、異常気象で寒波に見舞われ、それが全世界的におきていたことが判明。その気象状況が、「歴史」に「音楽」に「文学」に・・・と影響を与えていたのかもしれないという考察に結びついていくという壮大さ。
一つの知見を得たことによって、その先の学びをいかに関連づけて広げていけるか。思考することが、いかに連鎖を生み、相乗的、重層的な世界をもたらすか・・そんな壮大さを知ったのでした。
(2002/08/24 記)
それまで、「知」を体系づけていくという感覚は、わかっていたつもりでしたが、しかしそれはごく限られた狭い範囲でのことでした。理系のジャンルでもある「結晶の形を調べる」というところから、「歴史」「気象」「音楽」「文学」という全く関連性のないと思われるジャンルにまで飛び越えた「知」につながっていくということ。自分の苦手な世界も、もしかしたら、つながって、今後、興味を持てる可能性のようなものを感じさせてられていたのでした。2002年の頃は、美術館などへは、ほとんどでかけていない時期でした。
ずっとこの件の記載が気になっていました。ところがこの本がみつからず、確認することができませんでした。
■東海道五十三次 「蒲原」謎の豪雪
昨年(2016年)山種美術館の浮世絵展で、東海道五十三次の蒲原の解説で、「本来、雪が降らない土地なのだけども、こんなに雪が降っていることが謎となっている・・・」という解説がありました。
(出典:広重東海道五十三次・蒲原)
その時、私はすぐに、上記の話を頭に思い浮かべていました。本来は大雪にならない地域かもしれないけども大雪は降ることはあるということを知っていました。そしてその異常気象は、以前、見た異常気象と関連しているかも・・・・と頭をよぎっていたのです。(地域を失念していたので、蒲原の話だったり?)しかし、その本がみつからず、確認できぬまま、そのままになってしまいました。
「蒲原の謎」についても、調べてみました。「新潟の蒲原ではないか」と言われていたり、憶測によるものだったりで、シリーズ全体の多彩さを演出させるためというのが有力らしいとか(日曜美術館より)しかし、どうもピンとこなくて、そのうち、うやむやとなり放置状態になっていました。先日、パソコンのファイルを整理していたら、それについて記載したものがみつかりました! 年代を合わせてみると・・・・
〇五十三次がの初版と飢饉の関係
東海道五十三次の保永堂版の初版が刷られたのは、1833年~1834年に発行されています。以前、読んだ雪の降らない茨城に雪が降り、寒冷は飢饉をもたらし、1700年代の有名な飢饉が、天保の大飢饉、天明の大飢饉とのことこと。その年代を調べてみました。
wikipedhiaより
名称 | 時期 | 被害の中心地 | 当時の将軍 | 原因 |
---|---|---|---|---|
寛永の大飢饉 | 寛永19年(1642年) -寛永20年(1643年) |
全国(特に東日本日本海側の被害が大) | 徳川家光 | 全国的な異常気象(大雨、洪水、旱魃、霜、虫害) |
享保の大飢饉 | 享保17年(1732年) | 中国・四国・九州地方の西日本各地、特に瀬戸内海沿岸一帯 | 徳川吉宗 | 冷夏と虫害 |
天明の大飢饉 | 天明2年(1782年) -天明7年(1787年) |
全国(特に東北地方) | 徳川家治 | 浅間山、アイスランドのラキ火山等の噴火とエルニーニョ現象による冷害 |
天保の大飢饉 | 天保4年(1833年) -天保10年(1839年) |
全国(特に東北、陸奥国・出羽国) | 徳川家斉 徳川家慶 |
大雨、洪水と、それに伴う冷夏(稲刈りの時期に雪が降ったという記録がある) |
天明の大飢饉 1782年~1787年
天保の大飢饉 1833年~1839年
保永堂版の初版が刷られた時期と天保の大飢饉が重なります。ただ、初版の時に全ての五十三の宿が描かれていたのか。何回かに分けて、五十三次が発行されているのかなど、そのあたりのことは、調べてみないと・・・・
蒲原の下絵がいつ頃、描かれて、いつ頃、出版されたのかを知る必要があります。
〇蒲原が描かれた年代は?
蒲原は、1857年に描かれたと記載されているものがありました。
飢饉の年は1833年で、その近辺で大雪があり、それを描いた可能性はあります。
また、1856年に、夏に雪が降ったという記録もあるようです。
飢饉と関連だけでなく、大雪が単発的に降るということは考えられます。
飢饉前後の異常気象は、長期的な寒冷状態が続いていることも考えられ、蒲原の雪は、実際に降っていたという可能性は高いのではないかと思われます。
〇仮定の違い
史実としては、雪の降らない場所と伝えられているかもしれません。しかしイレギュラーで雪は降る可能性があるわけです。物理学者の志村史文夫氏は、そこから、世界へも目を向け、世界的な寒冷状態であったことを確かめています。
天保の飢饉は、東北地方とwikipedhiaにありますが、世界的な寒冷状態であれば、日本も全国的に寒さで雪が降ったということが考えられます。現に、東北の飢饉だった天明、天保の大飢饉の時、茨城でも雪が解けずに観察してスケッチができるくらいの寒さだったことがわかります。
文献などを調べることで、雪が降ったという記載が出てくれれば、謎ではなくなり事実を描いたということになります。その文献は、美術界だけでなく、思いもかけない科学領域の研究や文献から、確認できるありうるということなのでした。
〇思考のアプローチの違い
私は、この「蒲原」の雪の謎ときを考える時も、想像であれこれ憶測するよりも、こうした事実やデータに基づいて考えていく方が好きなんだと思いました。
「これまで雪が降らないと言われているから、降らないのだろう」という仮定。一方「降らないと言われていたとしても、降った可能性はあるかも・・・・ 絶対に降らないわけではない・・・・ そのデータを探す。そのデータ(事実)の積み重ねから推察する」 さらには、本当にきちんと知りたいと思うのことについては、そのデータは信頼のおけるものなのか。という検証も必要になります。(古いものは、それは難しくなりますが・・)思考するための大元となるデータが間違っていたら、すべての仮説は、砂上の楼閣になってしまいます。そんな自分の思考癖と、興味を持った世界のアプローチの違いを感じたのでした。
そして、私の記録には最後にこんなことが書かれていました。
■ネット社会の中での学び
関連づけること、融合させることというのは、現象の中に潜むキーワードを探すことであり、ネットのつながりはこれらがリンクで つながっていくこと。
頭の中だけで、キーワードをもとにネット―ワークでつながるのではなく、目の前に視覚として形となって現れ、 それが、個の思考に留まらず、第三者の目にも触れる状態となり、 さらに、関連が深まる。
このネット空間に、身を置くことは、 この著者が提案する思考法のまっただ中にいるといことではないか・・・ そんなことを思っていました。
過去に自分で何気なくつけてきた、趣味の記録。 表の縦に年をとり、横に12か月の月のスケール。ワンシート毎にテーマ決めて、いつ何をしたかの変遷を記入していました。これは、歴史年表と同じ表層的な出来事にすぎません。しかし その点、点で書き残した記録を、つき合わせて流れをみることによって、 今に至る過程が見えてくることに気づきました。(それぞれが、連動していて影響しあいつながりあっている)(2002/08/24)
その後、趣味の延長で、関連する美術館にでかけて、そこから得られる「知」がこれまでの「知」とは違っていて、自分にいろいろな影響をあえてくれたのでした。その世界を知ることによって、自分の思考というものが、どういうものなのかが次第に見えてきたのでした。