尾形光琳の《風神雷神図屏風》が東京国立博物館の常設展で7月2日(2017)まで展示されていました。京都にまでわざわざ行って大混雑の中、見てきたあの《風神雷神図屏風》が、常設展で展示とはこれいかに! 2年の月日の経過は、何を感じさせてくれるのでしょうか?
- ■常設展で見る重文《風神雷神図屏風》尾形光琳
- ■ 2年ぶりに見た光琳の《風神雷神図屏風》
- ■発色の違いについて
- ■注目のポイント
- ■屏風の金箔のディティール確認
- ■作品を理解するためのキーワード
- ■風神雷神の乳首が片側だけなのは?
- ■光琳の裏に描かれた抱一の《夏秋草図屏風》について
- ■参考
■常設展で見る重文《風神雷神図屏風》尾形光琳
まず驚いてしまったのは、あの尾形光琳の《風神雷神図屏風》が常設展に展示されてしまうの? ということでした。
長谷川等伯の《松林図屏風》の時と同様、国宝、重要文化財級の作品が、入館料620円という料金で見ることができてしまうというのは、なんとも複雑な気分でした。
2年前、わざわざ京都へはせ参じて、1時間ほど並び、大混雑の中、大変な思いをして見たのは、いったいなんだったのか・・・と(笑) 企画内容は違うにしても、同じ作品を見るための入館料の価格差。それによって、同じ作品なのに受けとめる印象が変わってしまうという複雑な感覚です。
しかも、琳派400年の時はあんなに大騒ぎしていたのに、今回の展示のリリースはこんな状況です・・・・
〇HPの紹介は・・・・
重文 | 風神雷神図屏風 | 尾形光琳筆 | 江戸時代・18世紀 | 本館7室 | 2017/5/30~ 2017/7/2 |
---|
こんなの気づかないよ~
と思っていたのですが、チェックされている方は、チェックされています。
〇ギャラリートークに参加
上記の記事がきっかけで ↓ も知って参加することができました。
平日の火曜日だというのに、会場の本館地下、「みどりのライオン」は、あふれんばかりの人。100人は超えていたでしょうか? これだけの人たちが、常設展では何が展示されているかいつもチェックしていて、それに付随するセミナーも把握して、しかも平日なのにこんなにいっぱいの人が集まってる・・・・ ということに、ちょっとしたカルチャーショック状態でした。そしてギャラリートークがはじまり、学芸員さんが投げかけるちょっとした問に、そんなこと知ってて当然・・・といった感じでみなさん挙手されていました。
ギャラリートークに参加する前に、すでに鑑賞していたのでその時の印象を記録。
■ 2年ぶりに見た光琳の《風神雷神図屏風》
展示ブースに行くと、あまりに近い! 近すぎます… そして色が濃い! 京博の展示の時よりも、色が濃いのです。修復したの? って思ってしまうくらい。スタッフさんに伺うとクリーニングなどはしてると思いますが、修復は聞いていないとのこと。
2年前、見た瞬間の第一声、色が薄い! でした。この正反対の印象の違いはどういうことなんでしょう。そしてあの時は、崇め奉るように見上げて、高い位置に展示されていました。作品までの距離も遠かったし・・・・ それを考えるとあまりに近すぎて、今にも手が届きそうなくらい。
なんだか、ありがたみが全く違うのです。これってもしかして、入館料の差なのでしょうか? 高いとありがたいものになって、安いとその価値が弱まってしまった? まさに現金なもの・・・(笑)
〇京博では見あげるような展示だったと思ったら
実際にどんな展示だったのか、画像を探してみました。するとびっくり。記憶に残っている展示状態と全く違うのです。
出典:風神雷神図屏風がそろい踏み 京都国立博物館で展覧会 - 産経WEST
出典:風神雷神 3派並ぶ
見上げて見たという記憶。このようなシチュエーションを、なぜか見上げながら見たという記憶に置き換わってしまっていたのです。なぜそのようなことが起きてしまったのでしょうか? 私だけの感覚的なものだったのか…
京都に一緒に行った友人も、東博の《風神雷神図屏風》を見ていました。印象を聞くと、やはり京都では見上げて見た記憶があると言っていました。私だけの感覚ではなかったのです。記憶というのは、いかに曖昧で、あてにならないものなのか、しかし同じ状況で見た友人とは同じ印象を持っていたのでした。
〇なぜ見上げたように見えた?
何で見上げるようなポジションで見たと記憶されてしまったのかを考えてみました。
この見え方、どこかで体験した記憶があります。皇居の一般参賀の映像です。現地に行ってみたことがある方は、わかると思いますが、テレビで見る映像と、あの場所に行ってみる実際の映像の違いに戸惑います。映像で見るあのシーンはまさに京博で見た風神雷神状態です。映像のマジック? 各社とも、なぜあのような撮影をするのか・・・・という疑問を持ちました。
京博では人がいっぱいで、近寄ることができませんでした。そのため、遠くからしか見ることができず、必然的に見上げるような状態になってしまったと考えられます。しかし、辛抱強く粘って前まで行って、見てきてます。それなのに・・・
もう一つの理由は、たくさんの人の頭を目の前にして、頭越しに鑑賞をするという環境。つまり人の頭よりも上にある。ということが強調されて印象として残った?
あるいは、東博と京博の展示環境の違いもあるかもしれません。吹き抜けの高さのある空間、そしてブースにもヌケがあって解放感のある京博の展示環境は、より大きさを感じさせたのかもしれません。あるいは照明の当て方で見え方も変わったのかも… などなど、あれこれ理由を考えていました。
〇初めて見た印象を振り返ると
初めて見た時に何を思っていたのか、その記録を見直しながら先日、リライトしました。
■《風神雷神図屏風》(琳派 京を彩る) えっ?これ? 屏風の大きさ・配置の謎
ここでまたまた愕然とさせられたのです。今、ここで光琳の《風神雷神図屏風》を見た感想は、京博の方が威厳があった・・・ 崇め奉って見た・・・という記憶なのです。
ところが、初めて見た時の印象は「な~んだこれかぁ・・・・」とがっかり倒れ込んでいたのです。そんな落胆させられた風神雷神が、いつの間に崇められ奉られているという印象に代わっているのです。
本当に記憶というのは、いい加減だし、書き換えられてしまうということもよくわかりました。
■発色の違いについて
〇京博では、なぜくすんで見えたのか
そして一番の違いは、発色でした。こんなに鮮やかじゃなかったはず。何でくすんで見えてしまったのでしょうか?
京博の時は、宗達の色の退色や傷みに愕然として、その横の光琳の色までくすんで見えてしまったのでしょうか? そして当時、宗達と光琳の違いが今一つ、把握できていなくて、「構図がはみ出している」のが宗達。判断できるのは、そこの部分だけでした。
そのため、古い順に展示されていなかったこともあり、宗達と光琳が、ごちゃごちゃになっていたような気がします。その影響で、色彩が同じような古さに感じてしまい、発色が鈍いと思ってしまったとか?
〇照明の影響?
発色が違うのは光の当て方によることも考えられるかもしれません。京博での照明は記憶の彼方というか、そこまで見る余裕はありませんでした。
東博の照明をチェックしてみることに。いろんな角度から撮影しました。結構ライトがあたっているようです。
▼上部と下部の照明
▼下部の照明 ▼サイドから
▼天井部分の間接照明
今回、新たに気づいたこと。この展示空間、天井が間接照明になっていました。この照明による作品への影響というのは、どんなことが考えられるのでしょうか・・・・ これまでここで見てきた《松林図屏風》も、間接照明がなにがしか影響していたのでしょうか?
■注目のポイント
今回、一番、最初に目が止まったのは雲の表現でした。雷神の雲が、ジェット噴射していたのです。
〇雷神の雲
こんな表現をしていたんだ・・・・ なにやら噴射しています!
京博で見た時は、こんなことまで気づきませんでした。もっと近くによってみましょう。
ジェット噴射して、浮力が働いているように見えます。
さらに拡大してみると・・・・
たらし込みで表現されていました。
ギャラリートークの際、この表現についての解説がありました。「たらし込み」で描かれていて、墨を水にたらすと滲むよというテクニックが基本なのだけども、「たらし込み」という技法には定義ないといお話なのですが、この雲は「たらし込み」が使われていると・拡大図を提示されました。よしよし、私、それ気づいてたぞ~ しっかり撮影もしてある・・・ヽ(^o^)丿って(笑)
光琳の雲は墨をいっぱい使い黒々と塊として描き、雲の流れを作ろうとしている。風神雷神は眷属としてよりも、土着の自然信仰を描いたと考えられ、雲は乗り物としてひきつれているように描かれていると・・・・
まさにジェット噴射する乗り物に乗って天を縦横無尽に飛び回っている感じがします。
一方、宗達の雲はいきおいがあり、体からまとって発する、別の空気のようだとのこと。
〇風神の雲
トークが終わったあと、《風神雷神図屏風》を、また見たのですが、風神の下も逆噴射状態になっていたことに気づきました。
風神の雲も黒々としています。
寄ってみると同じように噴射しています!
こちらも「たらし込み」で描かれています
〇宗達の雲との比較
光琳の雲の表現は、宗達と比べると黒々していて、一見、立ち込めた塊のように見えます。 ところがよ~く見ると、微妙な表現を駆使した黒さだったことがわかりました。
▼宗達 もやもやとした雲
▼光琳 黒く立ち込めた雲 取り囲む ひろがっている
京博では、雲の違いにまで見てませんでした。まだ鑑賞が未熟で、どっちが宗達か、光琳かをやっと見分けられていた状態。たらし込みで描かれているという解説がありましたが、「たらし込み」に定義はないと説明がされたのは、とてもすっきりしました。光琳の屏風でたらし込みを使って、雲の塊と雲の流れを作っている。と言われましたが、宗達の雲もたらし込みです。しかしたらし込みの描き方は違います。
宗達の風神雷神は眷属として描かれたましたが、光琳は土着の自然信仰を表しているとのこと。
雲を細かく撮影したあと、「目」「髪の毛」を撮影しそのあと「金箔」の拡大写真も納めました。
■屏風の金箔のディティール確認
金箔を撮影してたら、屏風の折の影が出ていることに気づきました。
↑ 影
〇光琳の《紅白梅図屏風》の金箔は描かれたもの?!
光琳の屏風で、宗達に対するリスペクトの到達点と言われている《紅白梅図屏風》 この屏風は、過去に金箔ではなく、描かれたものではないか。と言われたことがりました。(⇒紅白梅図屏風 制作技法の解明 )
以前、MOA美術館を訪れた時に、《紅白梅図屏風》の金箔部分を、拡大撮影してきました。「金箔が描かれたものである」と私が聞いたとしたら、自分はその情報をどうとらえるかな? と思って・・・
この金箔の重なり… これを描いたものと判断するかなぁ・・・
が私の感想でした。この箔足は描いたものといいます。しかし、この盛り上がりは、どうやって描くのでしょうか? 胡粉で盛り上げたにしても、このきれな直線。箔を重ねたような状態を筆で再現ができるものなのか・・・ そして屏風全体に、このような箔足を施していけるのか… 私は「X線分析によって描いたものだ」という科学的な証明がされたとしても、本当? って思っちゃうだろうなと(笑) この屏風の状態を見たら、果たして、これを描いたものと言えるのか・・・
〇光琳の《風神雷神図屏風》の金箔は描かれたもの と仮定して鑑賞
そこで、同じ光琳の作品、《風神雷神図屏風》の金箔も、「描かれたものだと分析された」と仮定して、そういう分析結果に対して、自分ではどう判断するかということを考えながらみるというお遊びをしてみました。
↑ 箔足だけでなくこの質感も描いたということになります
↑ 拡大していくと・・・・ ↑ これを描いたって言える?
金箔を描いたとしたら、このようなところまで、全面的に描ききることができるものなのか。筆を使ってどうやって描くのか。このこまかな状態まで、いちいち描いたとは考えにくいと思われます。「金箔を描いた」というのは、ちょっと違うわよね。と考えるだろうな・・・(笑) ただ、光琳が若冲のように顕微鏡的な目線で描く絵師だとしたら、この状態を描いたということはありうるかもしれません。.
〇《紅白梅図屏風》と《風神雷神図屏風》の金箔
光琳の《紅白梅図屏風》と《風神雷神図屏風》の制作年にどれくらいの隔たりがあるのでしょうか。 光琳は59歳で没しました。画業は44歳ごろからと言います。わずか十数年の間の画業です。《風神雷神図屏風》は半ばごろの作品でしょうか? 《紅白梅図屏風》が箔足を描いたと判断されたとしたら、《風神雷神図屏風》の金箔はどのように作成されたと理解されていたのでしょうか?
参考:《紅白梅図屏風》の結果に対して最初から意義をもう立てている人たちもいました
〇にわか学芸員の鑑賞日記。: 速報!紅白梅図屏風の金地について。
〇にわか学芸員の鑑賞日記。: 続・深まる紅白梅図屏風の金地。
この時の分析レポートなどもネットで公開されていますが、まだそこまで確認できていない状態。(関係ない話題ですが、曜変天目茶碗の分析をした奈良大もネットに公開すればいいのになと思います)
〇洋画における金箔表現
東博に来る前に、西洋美術館で、藤田嗣治の《坐る女》(1929年)を見ていました。その作品の背景が金箔の屏風のように描かれたものがありました。その表現が、金箔を本当に張ったかのような描写でした。
出典:芸術の冬!(5) - 国立西洋美術館 -|Galaxy Tour with Spacecowboy
出典:藤田嗣治展 ―東と西を結ぶ絵画― ( 絵画 ) - La dolce vita - Yahoo!ブログ
嗣治はひょっとしたら金箔を張ってこの絵を仕上げたのではないかも・・・・・と思ってしまうくらいの緻密な描写です。
「描いたのか」「張ったのか」 端から細かく見ていきました。双眼鏡で見ていたらぼってとしたあきらかな筆跡が認められ、描かれたものだとやっとわかりました。もしこの解説に、「背景は、実際に金箔が張られています」とあったら、信じてしまいそうな描写だと思いました。
油絵(?)でこれだけの金箔表現ができる。ということは、光琳の屏風が金箔を描いたものではないか・・・という分析がされ否定はされてしまったけど、すぐれた絵師ならそういうことも可能なのかもしれない。と思ったのでした。
〇光琳の下地はすべて金地
宗達の絵の下は金箔は貼っておらず、背景だけ。一方、光琳は、すべて金箔が張られているそうです。光琳の《風神雷神図屏風》の金の下地がどのように影響しているのかを観察してみました。風神、雷神の体の部分のように、しっかり着色された部分を見ると、その下が金であることがよくわかりませんでした。写真にも納めてみましたが、金がすけが見えるようには見えませんでした。
↑ 体の下地に金があると言われても・・・・
下地の金が生かされていそうな場所 ↓ ↓
画面全体を金地にした光琳、背景だけを金地とした宗達。その違いについては、これから解釈がされていくとのことでした。
■作品を理解するためのキーワード
最初は基本的なことから、作品を理解するために必要な視点、キーワードが示され、次第に、自分がかつて、ここはどうなんだろう? と調べてきたことの総集編、復習のような内容になってきました。すでに忘れてしまったことを思いおこさせられ、さらに新たな視点が次々に示されました。
〇モチーフの風神、雷神は何なのか?
インドにまでさかのぼり、インド最古の聖典の自然現象、風や雨、雷を神格化した神。クシャーナ朝時代のレリーフに風袋を掲げる風神がみられる。カニシカ王によるクシャーナ朝が支配したガンダーラ地方は、王が仏教に帰依し仏教美術が黄金期となり日本へ・・・
カニシカ王の銅貨
右が風神。 ギリシャ神話の北風の神が、クシャーナ朝の風神となり、 シルクロードを経て俵屋宗達の風神雷神図屏風に収まったそう
日本では千手観音の眷属である二十八部衆と共に表現されることが多い。それらが日本古来の自然信仰や御霊信仰と結びつく。
宗達の時代は雷や台風などの自然現象が神や怨霊の仕業と思って描かれた。自然の仕組みのわからない時代の思考。宗達の風神雷神は眷属として描かれたました。北野天満宮の菅原道真とも言われ、作者が何を見ているかは、入り乱れてきたもよう。光琳は土着の自然信仰として描かれる。
当初は、風神雷神のモチーフとなるものがあったけども、次第に風神雷神は、信仰の対象に変わり、いろいろな要素を含みながら、ひとつのキャラ?のように描かれるようになっていった。(うろ覚え)
以前、調べたことをこれを機会にまとめ直して転載しました。
〇目線の比較
宗達の風神雷神と目線の比較。とてもよくわかりました。私の中では、目の位置関係をあれこれ語るのはナンセンス。そんなの見る人の見方だし、見る位置によっても違う。という自分の中の結論が出ていました。
関連: ⇒■風神雷神図屏風:風神雷神の目線は、自分のみつめている目線?
解説は、目線について補助線で示され、その違いがよくわかりました。ほんのわずかな違いを論じていたのでした。
また宗達の構図は、はみだしと言われているけども、もしかしたら全体を描いてカットしている可能性もあるとのこと。配置には歌舞伎物を見ているような、動きあり・・・
〇筆致の違い
宗達の筆致はサインペンみいたいに同じ太さで一定。一方、光琳は筆の強弱があってリズミカル。そのため光琳の方が筆致としては上か? と思いきや、同じ太さ、同じ墨色で線を書くのは至難の業だそう。それゆえに、宗達印がなくても、この屏風が宗達だと90%の研究者が認める一番の理由なのだそうです。宗達の独特の筆致は、唯一無二。
▼光琳 顔周りの墨線に強弱
筋肉の盛り上がり線 強弱 ↑
残り10%の研究者は、他の絵師によるものと言われているのかと思ったら、他の絵師だと言っているわけではなく、「本当に宗達なのかな?」という見解なのだそうです。
〇光琳は宗達をトレース
光琳の風神雷神の下絵が出光美術館にあり、それを重ねて比較するとぴったり重なり合うという解説が図解でありました。輪郭がぴったりと合います。これまでよくトレースしたという表現を見てきましたが、その意味がやっと理解できました。ホントに和紙のようなものを重ねてトレースして描いたという意味だったのでした。抱一はそれができなかったため、あのような風神雷神になったとどこかで聞いた記憶がよみがえりました。
このあたりは、いろいろな説があるようです。光琳の屏風が一ツ橋家にあったとされるのが一般的なようですが、細かく調べていくと、所有権が時代によって変わっているという記録が出てくるらしいです。調べてみたら面白いのかもしれません。
〇雷神が白で描かれたのは?
本来は、赤で表現されるのですが、なぜ白なのか? これからの検討課題。
日曜美術館で、雷神は宗達がリスペクトしていたライ病を患った人を描いたという話があったが・・・・
いろいろな見解はあるけども、そこまでいくと飛躍しているかも・・・・
以下は個人的な疑問
■風神雷神の乳首が片側だけなのは?
人とは違うということを表現したのでは? しかし、おへそを描くのは矛盾している。へその尾があることを意味するということは・・・
乳首を中心に撮影していましたが、おへそも撮ってみよう!
〇雷神
〇風神
お臍は、あまり描き込んではいないもよう・・・・
■光琳の裏に描かれた抱一の《夏秋草図屏風》について
光琳の《風神雷神図屏風》の裏に描かれた抱一の《夏秋草図屏風》について。兼ねてから疑問に思っていた、《夏秋草図屏風》はどのように飾ることが想定されていたのか。
このように飾ることが想定されて描かれていたのでしょうか?
これについては、抱一が描くことになった経緯が関係する。一ツ橋家と酒井家との関係。一ツ橋家は、11代将軍・徳川家斉の父として当時権勢を誇った。位は従一位で、将軍本人よりも高い位。そこに酒井家から嫁入りをすることができたら、お家安泰。
屏風の所有権は、いろいろ移転していたと考えられていて、(いろいろな説あり)当時は酒井家が所有していたと考えられている。そのため、酒井家から一つ橋家へ献上されたと考えられる。(以前、一ツ橋家から依頼があったと聞いた記憶があるのですが)
嫁入りが決まっていたわけではありませんでしたが、ゆくゆくはよろしく・・・という意味をこめつつ、当時人気だった光琳の屏風献上する。その裏に抱一が描くのはおまけのようなもの。当時、抱一は有名ではあったけども、光琳には及ばず。ゆくは将軍と言われた一ツ橋家に、光琳の絵を献上することで、お家の安泰を第一の目的としていた。
以上のような経緯を考えると、抱一の《夏秋草図屏風》は、サブ的な位置づけではないか・・・ とのこと。長年の疑問がすっきり納得。
以前、調べた時のことはこちらに・・・
参考:「屏風の数え方」と「屏風に関する疑問」 (2016/11/17)
尾形光琳「風神雷神図」コロタイプ復元複製 里帰りプロジェクトより
裏面へ画を描かせた一橋治済(ひとつばしはるさだ、1751-1827)は11代将軍・徳川家斉の父として当時権勢を誇ったそう。位は従一位で、将軍本人よりも高い位を戴いていたそうです。
姫路藩主酒井家の次男坊・酒井抱一は、それはそれで大変な身分の貴人ですが、それでも一橋治済との身分の差は大きく、抱一が描いた「風神雷神図」(現在は出光美術館所蔵)は、光琳筆のそれが宗達筆のオリジナルとほぼ輪郭を同じにするのに対し、臨写するしかなかったのか随分バランスが異なっているとのこと。
抱一にとっては、私淑する光琳作品の裏面に、当時一の権力者である一橋治済から依頼を受けて画を描くのは、大変な名誉だった事でしょう。画には自らの嗜好である俳諧の要素も加え、自分らしさも表現した作品は見事!のひとことです。
このあたりは、いろいろな説があるようです。光琳の屏風が一ツ橋家にあったとされるのが一般的なようですが、細かく調べていくと、所有が、酒井家⇒一ツ橋家⇒酒井家 と変わっているという記録が出てくるらしいです。酒井家にあったものを、一つ橋家に戻した。その裏には、輿入れ前に献上するという政治的な意味を持っていたというお話を伺いました。このあたり調べてみたら面白いのかもしれません。
絵画に興味を持つようになって、わざわざ京都まで出向いて見てきた風神雷神。その時に感じたこと、調べたこと。考えたことを忘れないように記録しておこうと食べログ日記に記録をし始めて、今に至りました。
この時にいろいろ疑問に思ったことの答えが、網羅的に理解できたギャラリートークでした。
■参考
〇Tag : #尾形光琳 Instagram Pictures | Instagom