平成から令和へ。天皇陛下が国内外に即位を宣言される即位の礼で使用された「高御座」が東京国立博物館で公開というまたとない機会に遭遇できました。その記録を留めておきたいと思います。
- ■高御座公開
- ■長い待ち時間に
- ■予備知識・情報
- ■セキュリティーチェック
- ■高御座と御帳台
- ■高御座と御帳台の違い
- ■部分詳細
- ■菊の御紋
- ■高御座について
- ■参考情報
- ■即位の礼に関する疑問がわかってきました
- ■京都御所の見学について
- ■感想
- ■【付記】高御座の公開はなぜ?
- ■【追記】2020.01.29 歴史の連続性
- ■補足
■高御座公開
令和元年10月22日、即位の礼が行われました
正殿松の間に高御座と御帳台が置かれ、天皇即位の宣言が内外に行われる儀式です。その「即位の礼」で使われた高御座など、調度品や伝統装束が東京国立博物館で1月19日まで公開されていました。
即位礼では儀式のカメラには映らなかった裏側も見ることができる貴重な機会というニュースが流れていました。実際に侍従や女官の装束も展示されるという特別展示。そして、個人利用であれば撮影が可能というまたとない機会なので、最終日の前日、1月18日(土)に訪れました。
■長い待ち時間に
行ける時に行こうと思いながら、終わりに近づくにつれ、並び時間も伸びていました。twitterで待ち時間のお知らせがされていたので、ちらちら見ていましたが、60分、90分、120分とかなりの待ち時間です。しかし、閉館前に混雑解消するようでした。
閉館前がねらい目。やはり、夜間開館の金・土曜日なら、混雑回避できそうと思い、最終日の2日前の土曜日にでかけました。
その日は、生憎のみぞれ交じりの雨もよう。最近、美術展は、雨でも混雑緩和には、影響しない状況なのですが、幸い30分ほどの待ち時間でした。そのうち短くなると思い様子を見ていたら、10分となり列も短くなったので見学。16時過ぎには、待ち時間0でした。おかげで3回ほど見学することができました。
■予備知識・情報
即位の礼に遭遇するのは2度目。平成の時は、宮中儀式など興味もない状態。時を経て、2015年、京都の旅で、京都御所の特別公開が見学ルートにあり、高御座を実際にたことがあります。せっかく見ることができたのですが、即位の礼のことなど、すっかり忘れています。ただ見たというだけで終わりました。そのあと調べたとしもて、過去の出来事なので、リアル感もなく、記憶もないので興味をいただくことはありませんでした。その他に見たものの方に重きが置かれました。
その後、伊勢神宮、出雲大社の遷宮があり、宮中行事についてニュースで目にするようになりますが、よくわからないままにおわりました。その後、国学院大学博物館で神事などの展示を見る機会があり、少し身近になってきたので、新嘗祭など、宮中行事のニュース合わせて、少しずつ理解していきたいと思うようになりました。しかし思うだけで終わってました。
そして、旅行先でも神社に行く機会があったり、神道と仏教の違いなど、少しずつ情報が入ってくるようになります。昨年の夏は出雲大社に行きました。主たる目的は、美術館めぐりでしたが、これを契機に、神道や行事についても、関心を持てたらと思っていました。
昨年は、即位の礼が行われた年、それにまつわるさまざまな行事が行われました。このような機会を通して、宮中の伝統や文化、歴史に触れる絶好のチャンスです。さらに神道、神話などの理解にもつながりやすいはず。この時を逃してはいけない。と駆り立てられるように感じていました。
ところが、2回目の出雲大社への旅行の前日が即位の礼でした。その日は旅行の準備などであわただしく、全く即位の礼を見ることができませんでした。
せっかくの機会を逃してしまいましたが、この年を逃してしまうと、きっとこのままになることは見えています。東博で高御座が公開されるというので、これをきっかけに神道、宮中行事について少しでも理解ができれば・・・と思いギリギリセーフででかけることができました。
■セキュリティーチェック
今回は、金属探知機のセキュリティーチェックが行われていました。岡田美術館依頼です。
■高御座と御帳台
高御座:天皇陛下が即位の際にお昇りになられる御台
御帳台:皇后陛下がお昇りになられる御台
高御座側から見たところ
高御座(左)と御帳台(右)
御帳台から見ると
高御座と御帳台 御帳台の方が若干小さいです。1割ほどという解説があります。
朱塗りの高欄の高さが違うのがわかります。
台座の高さの違いを知りたかったのですが、そこはわかりませんでした。
ちなみに、それぞれのサイズは・・・・
高御座 | 御帳台 | 差 | 割合 | |
高さ | 6.48 | 5.67 | 0.81 | 0.875 |
幅 | 6.06 | 5.30 | 0.76 | 0.875 |
奥行 | 5.45 | 4.77 | 0.68 | 0.875 |
サイズは、1m弱ほど、サイズダウンしています。縮小の比率が同じかもと思って計算したら、ぴったり同じでした。(小数点3桁で四捨五入)87.5%に縮小されているようです。
■高御座と御帳台の違い
〇正面から
高御座の内部に置かれた椅子のまわりには何か置かれています。
(左)高御座 椅子の回りに何かあります (右)御帳台
〇屋根の上の鳥 高御座は鳳凰、御帳台は鸞(らん)
頂上に、金色の鳥が載っています。両方、同じ鳥に見えますが、高御座と御帳台の鳥が違うことがわかりました。
前から見たら見たら・・・ ほとんど変わらないような感じです。
(左)高御座は鳳凰 (右)御帳台は鸞(らん)
後ろから見ると・・・・
(左)高御座:鳳凰は、尾羽がまっすぐ (右)御帳台:鸞(らん) くるくるカール
高御座は鳳凰。御帳台の鳥は鸞(らん)です。
◇鸞とは
鸞は、鳳凰の亜種で、羽毛は赤色に五彩を交え、声は五音にかなう、と言います。神霊の精で、天子にもたとえられ、鸞殿と言えば天子の御殿、鸞輿【らんよ】は天子の乗り物。この鳥が現れると天下安寧となり、極めて吉祥な瑞鳥とされています。
引用:http://www.mct.gr.jp/world_h/toushogu/ishinoma_ran.shtml
御帳台の鸞
〇御椅子(ごいし)
高御座の内側には玉座が据えられています。
(左)高御座 椅子の回りに台があります (右)御帳台
〇装飾
高御座と御帳台の飾りの違い
高御座には豪華な飾りがありますが、御帳台はシンプルです。
蕨手の上の鳳凰
高御座の蕨手には、鳳凰。御長台にはありません。蕨手の模様も違います。
八角形の屋根の先端に蕨のように丸まった部分が蕨手。早蕨のような先端が巻き込んだ形の意匠。刀の柄 (つか) や高欄、神輿 (みこし) の屋根などにみられます。
これは紋になっていて、過去に蕨手紋と波の表現について考察したことが⇒■「蕨手文」の存在
■高御座・御帳台の裏
テレビ中継や、京都御所の一般公開でも見ることができない、高御座の後ろ側の階段を見ることができます。
〇御帳台側から
〇高御座側から
〇階段
(左)高御座(右)御帳台
〇とばり
高御座と御帳台のとばり(紫の布)の襞の入れ方が違っていました。御帳台の方が細かいです。
(左)御帳台 (右)高御座
御帳台の背面
台座の床面と階段の柄はつながっています。
■部分詳細
〇高御座
紫の帳(とばり)、裏の緋色の対比が鮮やかです。補色に近いような強いコントラストですが、厳かな空気が漂っていました。
(表:深紫色小葵形綾(ふかむらさきいろこあおいがたあや)裏:緋色帛(ひいろのはく))
柱間には帽額(もこう)=[帳の掛け際の装飾]を掛けます。玉旛と帽額には、金色の文様飾りの間に、五色(白(透明)・黄・赤・緑・青)の小さな玉が配されています。
〇御椅子(ごいし)
椅子には、螺鈿が施され、遠くからも輝いています。
鳥井式直方形杢目蠟色塗り(とりいしきちょくほうけいも くめろ ういろぬり)螺鈿入り
椅子の回りには・・・・
玉座の脇には「案(あん)」という台があります。ここには、皇位の印「三種の神器」のうちの剣と璽(じ)、国璽(こくじ)と御璽(ぎょじ)が置かれます。
天蓋裏の中央(御倚子の真上)にも、大円鏡(だいえんきょう)といわれる鏡があるとのことですが、見学の時には確認できませんでした。
高御座の上部には、太陽を形どったような鏡が載っています。天照大御神を表しているのでしょうか?
青い雲は、雲間から太陽が顔を出している様子で、天岩戸の神話をイメージされているのかと思いました。
大小28の鏡が飾りつけられています。鏡の周囲には、15本の光芒(こうぼう=[光のすじ])があります。鏡の間には、白玉(はくぎょく=[白色の翡翠で透明なものから乳白色なものまであり様々な装飾品や置物に加工])を入れた八花型(やつはながた)=[円形の周囲に花弁のような角の八つある形]が並びます。
天蓋のまわりの青い雲は、瑞雲というそうで、仏教などで、めでたい兆しとして出現する、紫色や五色の珍しい雲とのことでした。
〇装飾
高御座の八角形の天蓋の頂点には、金色の蕨手の上に小さな鳳凰が何かをくわえています。これを瓔珞(ようらく=[装身具または仏堂・仏壇の荘厳具のひとつ])と言います。⇒*1)
蕨手には16枚の花弁の菊家紋があり、小鳳が載っていて、瓔珞をくわえています。
一方、御帳台の蕨手には、瑞鳥はのっていませんが、蓋の上の鸞は瓔珞をくわえています。
高御座には豪華な飾り
帳の掛け際の装飾を帽額(もこう)と言います。
蕨手からさがっている玉旗(ぎょくばん)=[金物製の旗]をつり下げています。玉旗は高御座、御帳台、ともについています。
菊の紋が随所に見えます
金の細かな細工がされている玉旛と帽額には、金色の文様飾りの間に、五色(白(透明)・黄・赤・緑・青)の小さな玉が配されています。
〇台座側面
長方形の台座は縦横、6mほどで「浜床」と呼ばれ、朱塗りの低い高欄が巡らされています。その側面には麒麟や鳳凰などが描かれています。
正面から見るとわかりませんでしたが、描かれている部分は、彫り込みがほどこされていました。
高御座と御帳台描かれるものが違うのか確認をしようと思ったのですがよくわかりませんでした。
参考:宮内庁ホームページ 京都御所と離宮の栞 其の二十一京都御所
→P3 鳳凰 麒麟の図 明治天皇即位の礼で使われた御帳台の鳳凰・キリンの解説あり
朱の高欄の内側の床面
背面の階段ともつながっています
〇紫の帳(とばり)
光の当たり具合で、見え方が七変化し美しいです。
光によって文様が違うように見えたのですが、同じようです。
表は深紫色小葵形綾、裏は緋色帛(ひいろのはく)
■菊の御紋
高御座、御帳台のさまざまなところに菊の御紋を目にしました。
こんな細かいところにも菊が・・・・
■高御座について
奈良時代以来、即位式や朝賀などの重要な儀式に用いられてきた天皇の御座。
高御座は古代から現代に至るまで、大切に使い継がれてきた調度。
〇構造
黒漆塗りの四角形の台座「浜床」(はまゆか= 寝殿の母屋(もや)に設けた貴人の座臥(ざが)のための方形の台。上に畳を敷き、四隅に柱を立て帳(とばり)をかけて帳台とする。)の上に、八角形の檀(2段)を重ね、檀上に八本の柱を立て、八角形の天蓋付きの屋形「蓋」(きぬがさ)を載せた形が基本構造です。
「浜床」の側面には、霊獣「麒麟」などが描かれています。そして浜床には、朱色の欄干が巡らされています。
天蓋に神話の「鳳凰」をかたどった金色の飾り物を置き、豪華絢爛な趣を見せています。八角形の形が特徴で、「大八嶋国」「八隅」 と呼ばれた日本の国土をあらわしているという指摘もあるとのこと。
〇現存の高御座
大正4年(1915年)11月10日、大正天皇御即位式のために新造されました。
制作は大正2年(1913年)伝統技術の粋を集めて豪華絢爛な高御座が作られます。
京都御所の紫宸殿に常設されています。
大正期前の高御座は、江戸時代の天明の大火(天明8年 1788年)の際に消失。明治維新ののち、大正天皇の御即位に際して高御座が新調されました。
御帳台は、大正期になって作られたものでそれ以前は、ありませんでした。西洋の文化が入ってきて、天皇と皇后にそろって登場してもらおうと、従来の伝統にない皇后用の御座として新造されました。昭和天皇と平成天皇の即位式にご登壇。大正の貞明皇后は御懐妊のために即位礼を欠席され、実際には、御帳台には昇られていませんでした。
〇即位の礼を行う場所
明治天皇、大正天皇、昭和天皇の即位の礼は、京都御所で行われましたが、平成天皇は東京で行われました。平成の即位式では、京都御所から皇居宮殿に移送しています。
開催の場所が、時代背景で変わったり、世界の情勢なども鑑みながら、皇后陛下の御帳台が制作されたり、変化する部分もあります。高御座は京都御所の紫宸殿で保管されてていました。儀式も京都で行われていました。
時代と共に日本の中心が東京に移っていきます。警備上の理由などを考慮し、東京で儀式を行う事になりました。
伝統を重んじるからこそ移送してまで、儀式に利用しているということのようです。紫宸殿の文化的な価値を鑑みて、儀式の終了後は紫宸殿に戻されます。高御座は、古代から現代まで大切に使い継がれてきた調度です。
【追記】即位の礼の開催場所についての規定
旧皇室典範では、「即位の礼」と「大嘗祭」は東京で行うという規定がありました。戦後、皇室典範の改正では、場所の指定はなくなったようです。
〇解体
宮大工の技術で製作されているため、釘が打たれていないので、解体し組み立て直す事が可能な構造になっていました。一番上の、鳳凰の部分を取り外すと、かんぬきがあり、それをはずすと全てが解体できることが、平成の即位礼の調査で分かりました。3000パーツに分解され運ばれます。
〇移動
令和の即位礼は、民間業者に委託しました。業者名を隠してトラック8台で移送。費用は修繕含めて約5億円かかっています。。
5億かかるなら、作った方がいいのではという議論もありましたが、5億円かけても作れないことが判明。
〇修復
↑ 令和の即位の礼のために補修。補修前の高御座の状態が、こちらから確認できます。
〇高御座の歴史
・天平16年(744):大極殿での儀式の際に、高御座は置かれていました。
・12世紀後半:大極殿の焼失後 大極殿の儀式は紫宸殿等で行われます。
高御座も建物の大きさに合わせて浜床を小さくし、紫宸殿等に置かれるようになります。
・明治時代:孝明天皇即位に使用された高御座は安政元年(1854年)の内裏焼失によって失われていたので、例年の節会などに使う帳台をもって高御座と称しました。
・大正時代:高御座は江戸期の様式が復活、総じて江戸時代以前の様式と明治の即位を折衷したような形式です。
装飾の数や浜床の大きさなどに変動がありますが、基本的なかたちに大きな変更が加えられることなく現在に至り、古来からの形式が継承されています。
【座具の変化】
即位式等の儀式における高御座の御座は、平敷(床座)であったと解されます。
・平安時代中期:上敷両面二條、下敷布帳一條と記される『延喜式』
・平安時代:繧繝端大帖一帖、唐錦端龍鬢、唐軟錦端茵、東京錦茵を敷き重ねると記す
・江戸時代:畳二帖と茵三枚を敷くこと
平敷高御座にご登壇になる際の所作について記される
・大正時代以降:即位式において高御座に御倚子が立てられる。
唐風とみなされた装束や装飾は全廃されたため、礼服[16]は廃止。平安時代以来礼服に次ぐ正装であった束帯が使用された。庭に立てる儀仗用の旗の類も廃止され、幣旗という榊がたてられた。
高御座は、一代一度の即位式に用いられる御座として、古来からの伝統を継承しつつ,時勢に応じた変化が加えられた特別な調度。
〇即位の礼の歴史
*明治の即位:近代国家 日本の登場 - 2.即位の礼 : 国立公文書館
慶応4年8月:京都御所、紫宸殿にて行われる。
岩倉具視は、古典を考証し、唐の模倣ではない庶政一新の時にふさわしい皇位継承の典儀を策定するよう命じ、調度品からは唐風のものが排除、儀式に地球儀が用いられるなど新しい要素も加えられる。
明治6年:皇居炎上。即位の礼に関する太政官・宮内省文書の大半が焼失。
亀井家に伝来した「戊辰御即位雑記」2冊の附図8帖をのちに、政府が復元。
また、「明治天皇御紀附図稿本」の即位の礼の場面は、綿密な時代考証に基づいて作成。
大嘗祭は東京で行われた。
*大正の即位:100年前に行われた大正天皇の大礼
大正4年(1915)に京都御所などで大正天皇御大礼の諸儀式が行われた。
貞明皇后(大正天皇の皇后)は,第四子を御懐妊中のため、一連の儀式には御出席されませんでした。
世界からは、米、英、仏、露、伊などの大使、公使ら外国代表を含め、計2000人余が参列しました。
そして、通常御大礼行事には、成年皇族のみの参加となっていますが、当時皇太子殿下(後の昭和天皇)は14歳で大正天皇の御沙汰により、即位礼当日の儀式のみ御参列。
関連:14歳の少年昭和天皇も参列した大正の即位礼 | nippon.com
*昭和の即位
■参考情報
即位礼正殿の儀のノーカット版
実際に行われた儀式の状況から、展示された高御座、御帳帳と比較できます。
〇京都御所と離宮の栞 ー京都御所ー 其の十四
⇒ 高御座 -古代より継承されてきた特別な御座-
■即位の礼に関する疑問がわかってきました
〇高御座はいつから使われているの?
天平16年(744年)までさかのぼるそう。大きさの変化はありましたが、基本的な形は変わらないそう。
関連:高御座(たかみくら)とは?即位礼正殿の儀で壇上から即位を宣言!天皇の御座「高御座」の全貌を徹底解説!
始原・原形・確立の時代に分けて、高御座の形式がどのように変化してきたか解説されています。現在のような、高御座から即位を宣言する形となったのは、清和天皇9世紀半ばぐらいからのことだと、上記からわかりました。
〇平成の即位の礼はなぜ東京で?
大正、昭和の即位の礼は京都で行われたのに、平成は東京で行われたのか。即位の礼を京都で行うのは、京都を納得させるためといった話を耳にしていたのですが・・・・
警備のコストがかかるという時代背景によって、ルールは変わるものなのだなぁ……と
明治、大正、昭和の天皇即位は東京で行われました。平成の即位式では、京都御所から皇居宮殿に移送。
↑令和の即位の礼のために補修。補修前の高御座の状態が確認できます。
〇天皇陛下はどのような経路で高御座の中へ?
→高御座へのおでまし経路は?
■京都御所の見学について
京都御所の見学は、以前、予約が必要でした。春と秋には、特別公開が行われ、予約をしなくても見学ができる期間がありました。この時は、一般公開では見ることができなかった紫宸殿内の高御座を外から見ることができたり、障子の開放がされ、内部を見ることができる特典がありました。
2015年、秋の特別公開で紫宸殿を見学しました。高御座を見た記憶があるのですが、その映像の記憶があまりありません。どちらかというと、添乗員が解説されていた左近の桜、右近の橘の記憶の方が鮮明です。写真を探してみたのですが、2015年あたりのものがみつからず・・・・
こちらで、2015年秋の公開の様子が紹介されていました。
京都御所、秋の一般公開に行ってきました!|その他ブログ|スタッフブログ|京都の風呂敷(ふろしき)製造・卸 山田繊維株式会社
その後、2016年夏には、予約なしで京都御所の見学が可能になりました。そして、2020年3月1日~22日、京都御所で、それぞれ高御座が公開されます。
通常、紫宸殿の前を通ることができないようなので、内部の見学はできません。
紫宸殿
出典:宮内庁ホームページ 京都御所の写真 - 宮内庁
特別公開の時には、下記のようなルートとなり、紫宸殿の前の階段の下から見ることができますが、遠目にしか見ることができませんでした。おそらく、3月からの公開も同様と思われます。東博で見ることができた裏側というのは、貴重な機会だったことがわかります。
神であった天皇が人間宣言され、それでも、ベールに包まれている部分が多かった世界です。それを間近で見ることができるまたとないチャンスです。
京都御所で即位礼の前に、高御座の公開がされていました。近くで見ることができると言ってもこの距離感です。裏側からは見ることはできません。3月1日からの公開も、おそらくこの状況だと考えられます。
■感想
〇新しさの中に垣間見せる歴史の積み重ね
見学前、ラウンジで「東京国立博物館ニュース」の、高御座の写真を見ていました。
「こんなに新しいの?!」「古くから伝わっているものではなかったんだ・・・」「もっと長い歴史を感じさせる渋さがのあるものだと思ってた」 この写真を見た時の正直な感想です。イメージしていたものとは違っていました。
126代、連綿と続く歴史の重みの片鱗を、見た目の古めかしさに求めていたのかもしれません。
ラウンジで同席されていた方が、「新調したらしいですよ。その費用が問題になっているわで・・・」と語られていました。(実際には、新調ではなく、大正時代から使われているものを修復していたことをあとで知りました。)
それもあって、これから見る高御座は「令和になって新調された真新しいもの」という、先入観で見ることになりました。
会場に入った瞬間、息を飲みます。その姿を目にしたら釘付けになりました。まばゆい輝きに、時を超越した威光を感じられました。古さ、新しさという物差しとは全く違う次元の存在感に圧倒されました。
漆の柱のつややかさ。黒光りした柱から、匂い立つ妖気が漂っている気がしました。それでいて、全体を引き締める役割も担っているようでした。高御座の配色は、目も覚めるような強いコントラストで構成されています。しかしこれらが見事に調和しているのは、漆の黒の効果だと思われました。
漆はJAPANと呼ばれ、日本を代表する工芸品として古くから珍重されてきました。天皇陛下が即位を内外に宣言される場所を彩るにふさわしい工芸であることを、改めて確認させられた気がします。
「なんだ・・・・新しいのかぁ・・・・」といった印象を、目にした瞬間に払拭させてしまう力は偉大です。それは、今の技術力によってもたらされているのだと感じていました。しかしその技術も、古くから引き継がれて、今に至っている歴史があることも感じさせます。
修復前の高御座の映像を目にしました。その変容ぶり、再生に驚きます。単なる春蘭豪華の一言では表せません。新しくきれいなだけない、伝統の上に宿っている見えない神聖もの、それが何かはわかりませんが、瞬時に歴史の重さを伝えてくる高御座だったのでした。
〇日常の瞬間性に永遠や普遍性や宇宙を感じる
目の前にある瞬間や機会を自分の手元に引き寄せられるかどうか。この公開に訪れたことで、高御座の構造や歴史を知る機会を得ました。実物を目にしながら理解できる好機となりました。また、令和の即位礼を迎えるに至る、ここ何代かの経緯についても知る機会になりました。
歴史を取り囲むいろいろな状況というのは、遠い過去、そして近い過去からの連続性によって連なっていることがわかります。丁度、こちらの記事(⇒復活した小沢健二の新曲「彗星」とタモリ「笑いの思想」)でも似たようなことが語られており、重なりを感じさせられました。
今現在において私たちが享受できているという出会いについて。生々流転。生成と消滅。流れる時の中で、常に私達は偶然的な出会いの中にある。
あらゆるものがギリギリで偶然的に存在し出会っている。その奇跡的な出会いをもって、現実は無条件に肯定され、その偶然的な出会いは宇宙的規模に開かれた奇跡である。
確かに日常性が続くわけだが、日常性を瞬間瞬間と捉え、かつそれがいつまでも続くということは、その日常の瞬間性に永遠や普遍性や宇宙を感じるということである。日常性のかけがえのなさとその普遍性を捉えている。これをもってタモリは「生命の最大の肯定」であると応える。
世界中で、ここまで長く王室が続く国はないと言われています。
引用:日本人のルーツが隠された二大神社「伊勢神宮」と「出雲大社」の秘密 | 神社チャンネル
年表の一番下が日本です。
私たちにとっては日常、あまり意識することがありませんが、ささいな日常の繰り返しによって奇跡的に成り立っていると理解できます。この特別公開を知ったこと、そこに出かけたことも、日常の偶然の一コマです。
たまたま、遭遇した人もいるかもしれないし、ここまで来て、混雑を目の当たりにして諦めて帰った人もいるはず。ちょっとした偶然の選択によって出会いがもたらさせらます。そしてその先にも続く歴史があることを感じさせられました。
〇歴史の一幕に関わる瞬間も奇跡
歴史の側面にも、目が向くようになりました。
今後も続いていく皇室の伝統の一幕を、今、この瞬間も担っていて、そのめぐり合わせに遭遇している幸運を思いました。「幸運を感じられるというのは、好奇心によってもたらされる」という研究があるらしいです。
行こうかな、どうしようかな?長時間、並ぶのはいやだし・・・・と迷った末、行くことを選択する。こうした興味と行動が、奇跡的なめぐり合わせをもたらしてくれるのだと思いました。
今、私たちが生きるこの時代が選択した即位礼の形。それは、私たちにとっては今というリアルの現実で、日常の中に紛れています。しかし、これが皇室の歴史の一幕として、後世に長く語り継がれていく瞬間の出来事でもあります。
あの時代の即位礼は、空輸したり陸路で移動させていたのね・・・・ あるいは京都に戻ることになって、やはり京都でないと・・・・となるかもしれません。この時代の選択が後世にどのように受け止められるのか。令和の即位の礼という節目に、皇室や日本の歴史を学ぶ機会となりました。同時に開催されている「出雲と大和」の展示も、奇跡的なめぐり合わせなのかもしれません。
■【付記】高御座の公開はなぜ?
今回、高御座の公開にでかけた理由は、もう一つ、自分自身が疑問に感じたことがありました。
今回の公開は、異例づくしだと感じました。無料公開、写真撮影OK、パンフレット無料配布、休館日の公開、映像では映らなかった背後を見ることができる。
このような英断は、どこが、どんな意図で決定しているのだろうか? 主催者は? 開催に関する諸経費はどこが持ってるの? 特別入館で入館した分の費用は、どこが持つのか。入館者をカウントして、その分の入館料が東博に入るのか?などなど・・・・(笑)
これだけの至れり尽くせりの公開の目的は、どこにあるのか・・・・ そんなことも考えながら、それぞれの主催者のメリットなどを想像していました。
同時に、即位の礼に関する、周辺の状況や、さまざまな意見や考え方などを見ていると、だんだん見えてくることも出てきました。高御座の公開が私たちに伝えてくれること‥‥
いろいろなことがあると思います。その中で、自分にとって一番のポイントは、日本の国に生まれた自身のことを考えさせられるきかっけになったことでした。そして、これまでずっと、気にはなるけども、一歩、踏み込めなかった皇室や神事、神道などに興味が持てるようになったことです。
あの高御座や御長台を見て、あの中に入った時に、何を思うのだろうと想像していました。それは、理屈ではなく、今、ここにいるという奇跡、生きているという生命の肯定を感じるのではないかと思われました。
■【追記】2020.01.29 歴史の連続性
日本の皇室は、血脈によって今につながっていると考えられています。そのため古くから伝えられているものは、連続性によって成り立っていると思っていました。
ところが、仏像や寺院などの古くから伝わるものの歴史に触れると、それらは、長い時間、連続性を持って今に至っているわけではないことに気づかされます。
それらに使われることの多い「木」は、自然が豊かな日本ならでは素材ともいえます。しかしその特性上、耐久性に乏しいため、朽ちたり途中で消失しており、決して長い歴史を横断しているわけでないことを理解しました。
長い歴史を持っているけども、そこに存在するものは、消失後、再建されたものが非常に多いのです。
また伊勢神宮などは、20年ごとの遷宮によって、一旦、リセットしながらつながってきたという側面があります。出雲大社も、巨大建造物故に、幾度かの倒壊を繰り返し、新たな再建をしながら今に至っています。
歴史が今につながるということは、創建当時のまま残っているという幻想を抱いていました。なそういうことではないと、なんとなく理解しだしたところでしたが、現在の高御座が、大正時代に作られたものであることを知ったことで、はっきりと認識させられました。
歴史があるという構造物や品は、当時から今の時代まで、直接的につながっているわけではないのです。
皇室の、見えない血のつながりを背景に、消失、崩壊などのリセットがおきていても、連続性を感じるのではと思いました。血の連続は、生物学的な遺伝や進化にもつながっています。そんな背景も、日本という国全体が、過去からつながりを持って今に至ったという奇跡的な歴史を、当たり前のことのように無意識の中に組み込まれていたのではと思いました。