連日の行列待ち時間が伝えられている顔真卿展の《祭姪文稿》。それはいかなるものなのか。その前に、顔真卿とは? そして顔真卿に至る中国の書の歴史とは? をざっくりと頭に入れつつ、何が理解できていなかったかのかを覚書。
■顔真卿について
〇生没年:709~785 77歳没
〇生まれ:山東省の琅邪臨沂(ろうやりんぎ)の人。
〇家系:代々、訓詁(くんこ)と書法を家学とする名家に生まれる。
孔子の弟子を祖先に持つ
〇字:清臣
〇性格:剛直 上司に疎まれ左遷繰り返す 中国史でも屈指の忠臣
〇書の特徴:伝統を継承しつつ伝統を超える
●734年(開元22年)26歳
吏登用試験 進士(科挙の中でも最も難しく地位も高い)に及第。
(唐の玄宗皇帝の治世)
その後、4人の皇帝に仕える。
●755年(天宝14年)47歳
安史の乱に遭う
顔真卿とその一族は敢然と義兵を挙げ、唐王朝の危機を救う。
●758年(乾元元年)
《祭姪文稿》が書かれる
●783年(建中4年)77歳
再び李希烈(りきれつ)によって反乱。
顔真卿は宰相の盧杞(ろき)の計略と知りながらも敵地に赴く。
捕らえられて蔡州(河南省)の龍興寺で殺害。
・顔真卿はのち忠臣烈士として尊ばれる。
・初唐の三大家とは異なる美意識のもとに培われた書。
・後世の多くの人々に影響を与える。
★願書の多才な字姿
参考:東京国立博物館 - 展示 日本の考古・特別展(平成館) 特別展「顔真卿 王羲之を超えた名筆」
顔真卿の生涯が、第3章「唐時代の書、顔真卿の活躍」のところで存分に紹介されています。それぞれの書家がキャラクターアイコンになっていました。なぜか、顔真卿だけが、正体の姿と、右手をあげたり、左手をあげている3種類のポーズをとっています。
これはきっと何かの目印に違いない!グループ分けのマーキングだと思いました。しかし、そこにどんな意味が隠されているのかを見抜ける基礎知識がないため、スタッフの方に伺いました。すると、特に意味はなく、動きをつけているだけだそう。深読みしすぎでした。
■歴史の背景
〇南北朝時代・・・・(439~589)
〇隋時代・・・・・・ (581~618)
・南北統一するも短命王朝。
・書風は次第に融合、洗練されていく
・墓誌や典籍などの制作が盛行。
・楷書の名品が数多く残される。
・刻石資料の拓本や法帖中の能書・智永の書を中心に、初唐へ繋がる隋様式
★隋時代の書がどのような字姿だったか
中国の歴史上、書法が最高潮に到達したのが「東晋時代」と「唐時代」
〇東晋時代・・・・・(317~420)
@(303–361)王羲之(おうぎし)《黄絹本蘭亭序》
一斉を風靡 歴史上最も高い水準
〇唐時代・・・・・・・(618~907)
・初唐の三大家が楷書の典型を完成 楷書表現の極致まで昇華
@(557~641)欧陽詢(おうようじゅん)《九成宮醴泉銘》北派
・北朝の書に基盤。険しさをたたえた書風。
・文字の組み立てがきわめて緻密な「九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんめい)」
・細部にまで神経の行き届いた傑作「楷書の極則」と賞賛。
・楷書は隷書の束縛から完全に解放。楷書独自の表現を確立。
@(558~638)虞世南(ぐせいなん)《孔子子廟堂碑 -拓孤本》
・第2代皇帝太宗に仕える
・王羲之の7世の孫、智永に教えを受ける。王羲之・王献之の正当に根ざす。
・「南朝」の書法を継承。行書にその特色が表れる。
・楷書 温和で落ち着いた用筆「孔子廟堂碑(こうしびょうどうひ)」
@(596~658)褚遂良(ちょすいりょう)《雁塔聖教序》新風の楷書確立
・晩年の作「雁塔聖教序(がんとうしょうぎょうじょ)」
・細身の線質に華やかさを盛り込んだ、初唐の楷書を代表する名品。
・世に出ると、この書風は一世を風靡。
・多くの追随者を輩出。
(618~712) 初唐 書風が融合し洗練
【唐時代の皇帝】
@(在位626~649)二代皇帝の太宗:
L初唐の三大家をはじめとする臣下を登用
L書を重視した政策制度を施行
L王羲之を溺愛。書跡を国家的な規模で収集・鑑定・摸写させる。
L楷書表現の発展と王羲之書法の尊尚を強く促す。
@ (在位649~683) 第三代 高宗
@ (在位690~705)高宋の皇后、則天武后が実権にぎる
@ (在位712~756)第六代 玄宗
書を善くした皇帝たちが自ら文字を石碑に留める。
参考:東京国立博物館 - 展示 日本の考古・特別展(平成館) 特別展「顔真卿 王羲之を超えた名筆」から「初唐の三大家」
★字姿から書の歴史に残された皇帝の壮大な事跡を窺う。
@(709–785)顔真卿:顔法と称される特異な筆法を創出・・・三大家の伝統を継承
(755)安史の乱:ここを境として次第に王羲之形骸化。
伝統に束縛されず、自らの情感を率直に発露する機運が高まる。
顔真卿はこのような意識の変化を、書の表現に見事に反映。
書の普遍的な美しさを法則化 唐時代の書の果たした役割
(766~835)
★中唐以降の楷書の優品
★初唐以来の書の潮流が変容を遂げていく様子紹介
★ 唐時代に、楷書の美しさが法則化
〇宋時代以降
顔真卿:人格が加味されて評価が高まる。
王羲之と双璧をなすまでに至る。
以上のような中国の歴史と書の流れがあっての顔真卿であること。また顔真卿は実直で思ったことは、直言してしまう性格。それによって上司からにらまれ、左遷を繰り返えした政治家としての一面も持ちます。また、孔子の弟子の血を引く家柄から、学者としての側面を持ちながら、芸術家、書家でもありました。(左遷を繰り返したことが功を奏し、忙しくなく書に打ち込めたという話もあるようです)そんな顔真卿が内なる叫びを、文字として残した《祭姪文稿》は、中華史上屈指の名書とされています。
■祭姪文稿
顔真卿の高ぶる感情を、文字の勢いに乗せて表現するスタイルは、これによって確立したともいえます。あふれる感情は、乱れた文字から見る者の心を打ちます。今回の展示の最大の見せ場であり見どころです。「文字の乱れ」・・・これが一番の肝であるらしいことは理解できました。
具体的には
《祭姪文稿》の総文字数・・・・234文字。(思ったより少ないです)
誤字、訂正、脱字・・・・16か所(全体の約7%)
書き出し・・・・静か
中盤(顔季明が殺害されるところ)・・・・誤り多くなる
顔真卿の憤怒、嘆きが、後半に集中し、字形を超えた力を放ち、見る者の心を顔真卿の気持ちに重ねさせる。
しかし、この文章、そもそもどういう内容なのか、いろいろ紹介されているのですが、歴史の基礎が全くわかっていないため、何度、読んでも理解に至ることができませんでした。
〇安史の乱について
たとえば・・・・
東京国立博物館 - 展示 日本の考古・特別展(平成館) 特別展「顔真卿 王羲之を超えた名筆」の《祭姪文稿》の解説から抜粋
安禄山って何かがわかりません。(どこかの山、地名だと思っていました)史思明というのは歴史上、どういう人で、「安史の乱」というのは、何が原因で、誰と誰のどういう戦いなのかが全くみえません。勝手に安禄山という山を、誰が占拠するのかという戦いだと理解していました。
玄宗皇帝って、あの大きな拓本の文字書いた人です。しかしどんな皇帝なのかわかりません。(⇒*1)
安禄山「らに」ってことは、安禄山は山ではなく人名のようです。平成館の入口で上映されているガイダンスビデオでは、安禄山のことを節度使(⇒*2)と解説しています。またまたこの意味がわかりません。
内乱は8年の長きに及び、 763年にようやく収束します。
結局この内乱、いろいろな解説を見ても、肝心の「何が原因で、誰と誰のどういう戦いなのか?」という基本的な歴史背景までは説明されていないので、つかみどころがないのです。(⇒*3 )
顔真卿は義兵をあげて乱の平定に大きく貢献しましたが、従兄の顔杲卿とその末子の顔季明は乱の犠牲となってしまいました。
義兵というのは援軍のことでしょうか?(⇒正義のために起こす兵のこと) 顔杲卿はなんて読むかわかりません。(⇒がんこうけい)従兄(いとこ)と兄の字をあてているのに「姪」?
「祭姪文稿」とは、顔真卿が亡き顔季明(がんきめい)を供養した文章の草稿・・・
そもそも「姪」という字を「てつ」と読むなんて初めて知りました。これは、中国読みなのでしょうか? そして従兄なのに「姪」というのも謎…(⇒*4)
こんな感じで一つ一つ、言葉の理解をしていかないと全体がつかめないのが現状。
〇どう表現をしたのか
悲痛と義憤に満ちた情感が紙面にあふれています。最初は平静に書かれていますが、感情が昂ぶるにつれ筆は縦横に走り、思いの揺れを示す生々しい推敲の跡が随所に見られます。
悲痛と義憤に満ちた情感、具体的にどういう言葉で表現をしたのでしょうか?
推敲のあと、消されている下に書かれている文字はどんな言葉で、それをどんな言葉に置き替えたのでしょうか?
〇情報収集
鑑賞のため行列に並ぶ前に、できる限り、収集できる情報を見て回りました。第2会場の《祭姪文稿》のその後の展示を見たり、会場内の年譜を見たり、図録を見たり・・・・ 「祭姪文稿の構成と注目のコメント四選」のパネルも、先に見ていました。
でも、いろいろ、見たところで、本物に触れてみないことには、結局、何もわからないと思い、並ぶことにしました。
〇いざ、鑑賞
あっという間でした。
待っている間、現代語訳をずっと見ていましたが、全くその内容を文字と対応させることができませんでした。どの部分が、一番のクライマックスなのか・・・・ それがどういう訳なのか。
〇思ったよりきれい
ただ、一番、印象に残ったのは、とってもきれいだったということです。
これが書かれたのは758年。日本は天平時代で、東大寺の大仏殿が竣工された年です。遣唐使が派遣されたのが630年。それから100年ほどたった時代です。
これまで、室町時代などの古い作品を見てきました。紙はほとんど変色し真っ黒になっています。そのため、墨で書かれたものは、何が書かれているかよくわからない状態でした。
また、江戸時代のものでも虫食いがあったり、巻物は巻いたあとにひび割れが見られることも。700年代の中国の書ともなれば、どんなにか傷んでいることを想像していました。
下記のようにも言われおり、貸出を懸念されていました。
「1400年前の紙、1回の展示につき1回の劣化を被る」という破損が懸念されるため、これまでめったに展示は行われず、台湾でも最後に展示されたのは10年以上前である。国外では1997年に米ワシントン・ナショナル・ギャラリーで展示されたのが最後だったそうだ。
引用:中国の著名書家「顔真卿」の日本展が中国で炎上している理由 | News&Analysis | ダイヤモンド・オンライン
しかし、見た瞬間に感じたのは「きれいすぎる!」こんなに状態がよいものだったの?これが、700年代の紙とは到底思えません。知らずに見たら、本物なんだろうか?と疑ってしまったかもしれません。それくらい状態がよいのです。(⇒*5)
こんな声もありました。
中国のある専門家が「『祭姪文稿』が書かれた紙はすでに寿命を迎えている。運搬や、環境の変化一つ一つがダメージになる」と懸念していることを紹介。
引用: 日本への文化財貸し出し、中国・台湾から不満の声が出たのはなぜか―英メディア|BIGLOBEニュース
すでに寿命を迎えている紙。この言葉から想像される状況は、広げた時に、ボロボロと、紙の破片が欠落するような状態。しかし、それを防ぐためになんらかの保護がきっとされているはず。(⇒*6)
台湾では、どのような技術を駆使しているのか。個人的にはそちらの方に興味がありました。しかし、そんなことは全くの杞憂だったのです。
寿命を迎えているといわれていた紙。しかし、貸出に耐えられると専門家が判断を下したと聞きました。本当に大丈夫なのだろうか・・・・と心配したのですが、素人目に見ても、かなりよい状態で保管がされていることが見てとれます。日本の保存状態よりもすぐれています。
ボストン美術館に渡った北斎の浮世絵もそうですが、色の退色を防ぐために、120年、公開はしていませんでした。その鮮やかさたるや・・・・ 公開を極力さけ、自国ですらも見せずに後世につなぐためにための手厚い保護。
文字を見てもさっぱりわかりませんでした。しかし、1400年前の紙が、今、こうして、このような状態で「ここに存在する」ということに畏敬の念を感じます。わずかな時間、見ただけで、この作品が放つオーラなんて感じられるものだろうかと思っていました。でも、作品保存の技術や姿勢から、文化遺産を守ることの意味。それをどう実践してきたかを受け止めることができたように思いました。
文字と対訳は、これからゆっくり、理解しながら突き合わせることもできます。ただ顔真卿展が終わってしまうと、興味はうつっちゃうだろうなぁ‥‥
〇率直な感想
溢れる怒り、情感の生々しさが書に現れた《祭姪文稿》
書というのは、きれいな文字ばかりではなく、修正があったり、文字が乱れていたり、感情が表れているという作品を過去に目にしていました。
下記が過去に見た、花園天皇筆の花園院宸記です。
絵巻マニア列伝図録より(P48)
これを見た時の衝撃たるや・・・・ 今でも鮮明に覚えています。それまで書はきれいなもので、身分のある人は、子どものころから、訓練されきれいな文字を書くのは当たり前。みだしなみのようなものだと思っていました。それなのに、こんな字を書いていた天皇がいた・・・・ということが、ある種の衝撃でした。
そのため、顔真卿の書が、感情の発露と言われても、それ以上に感情をあらわにした乱れた文字を(この文字が、感情の発露によるものかはわかりませんが)見ていたので、驚きが薄いのです。修正、書き足し、黒く塗りつぶした文字を見ても、既出のため、驚きは半減してしまうというのが、正直なところなのです。
ただ、顔真卿がこの書を書いた時の心情を、もっとリアルに乗り移るくらいに受け止めることができた上で見れば、文字の見え方も違うのだろうとは思いました。(⇒*7)
〇解説ガイダンスの音声の現代語訳と本文を照らして
ガイダンスの映像では、《祭姪文稿》の乱れた文字の映像が流れ、現代語訳が読み上げられます。BGMも加わり情感豊かに語られます。文字に加え、音楽、声の表情も加わって受け取る情報は、より感情移入を促します。文字の横には、崩れた文字がわかりやすいように明朝体のような白い文字が、ルビのように示されていました。
音声による現代語訳沿って、文字を見ていると、内容が理解できてきた気になっていました。ところが、3度目に見た時に気づきました。顔真卿の生の文字を、目は追っていなかったのです。文字の横に振られたルビのような認識しやすい活字を見て、この書の内容を理解できたような気にさせられていたのでした。
本物を見る前に、ビデオを見ており、事前情報もあるので、現物を見えれば、なんとなくわかるだろう。ぐらいに思っていました。しかし、実際に書を前にして、止まることを許されない中での鑑賞は、特徴的な見覚えのある文字は目に入ってくるのですが、それが何を意味しているかというのは全くわかりませんでした。
■ハンコがいっぱい いろんな字が混在している謎
〇ペタペタハンコがいっぱいの書の謎
《祭姪文稿》を見る前に、第2会場まで一通り見ていました。どのあたりの展示だったかは、わからなくなってしまいましたが、巻物のようなものに、ハンコがいっぱい、ペタペタ押されているものがありました。
〇押す位置に決まりはある?
なんだろうこれは・・・・と思って、押されている位置に法則性がないかと思って見ていると、どうも、紙が継がれた当たりに押されているようです。
継いだことを証明する「割り印」みたいなものと理解しました。
〇筆跡がいろいろ
ところが継いである文字は、いろんな人の文字が登場します。これは、共作なのだと理解するのですが、解説のパネルの作者名は一人だけです。どこが、その本人なのかよくわからない状態に。何人かの継ぎはぎされた文字を書いた人の署名を探してみるのですが、どうもみあたりません。
いったいどうなってるんだ?と思いながら見ていました。
〇所有者の寄せ書き
それを解決してくれたのが、「祭姪文稿の構成と、注目のコメント四選」のパネルでした。私は、こちらの衝撃の方が、大きかったです。
顔真卿の書に、これを所有した人が、コメントを書きたして、つなげていたのです。所有の証のハンコだったようです。
顔真卿の《祭姪文稿》はほんのちょっとだけ! この事実、みんな知ってるのでしょうか?これを見るために、こうしてみんな並んでるわけ?
この解説の場所は、鑑賞後に見るルートに位置しています。見たあとに、そんなこと知らされても、コメントの方をじっくり見てしまったら・・・・
そう思って、鑑賞している人たちの様子を伺うと、みなさん、それは承知のようです。顔真卿の部分を見たら、さっさとガラスケースから離れていました。
〇跋文(ばつぶん)という中国の文化
この解説を見て、やっと、それまで感じた疑問が、すっかり解けました。文化の違いを感じます。日本では、箱書きや折り紙がつけられて、作品の由来が引き継がれていきます。中国では、所有した人も、作品とつながって、後世に残っていくわけです。
全長約6m そのうち、本文は80cm
歴代の所有者による跋文(ばつぶん)(⇒書物・文書などの終わりに書く文。あとがき。)によって、長さが7倍に膨れ上がっているのです。
ところで、これまで、中国絵画を見てきましたが、所有者が何かコメントをしてそこに張り付けたものを見たことはありませんでした。これは「書」の世界、独特の世界観なのでしょうか?
〇乾隆帝のハンコ
そして、このことが、漫画にされていて、とてもよくわかりました。
「顔真卿 王羲之を超えた名筆」展に行ってきたので感想を漫画にしました pic.twitter.com/eanWvFT6Ab
— おまんじゅう (@lifelog_a) February 10, 2019
《祭姪文稿》の最初にハンコを押した乾隆帝。昨年、サントリー美術館で行われた「ガレも愛した-清朝皇帝のガラス」のメインになっていた皇帝として繋がります。時代はかなり下り、生没は1736-95年です。美に対してストイックだったと聞いていました。絵画や諸工芸の発展に果たした役割は絶大だったと。そのストイックさの一面として、何でも所有し、ペタペタ印を押していたのかと思うと、別の側面が見えてきました。
〇玄宗皇帝と楊貴妃
玄宗と楊貴妃の関係を最初に知ったのはこちらの漫画でした。会場の解説では、関係をぼんやりとしか書かれていません。
さらに、玄宗皇帝の時代背景を、誰もが知る「楊貴妃」と「杜甫」とともにわかりやすく紹介され、時代の厚みが出てきました。
東博の顔真卿展に行く前に予備知識。人物としての顔真卿を知れば「祭姪文稿」の良さがわかる! - 江戸東京発今昔物語
楊貴妃は、絶世の美女。としか知りませんでした。玄宗皇帝の寵愛を受けており、その裏にはいろいろな画策のようなものがありつつ、それが原因で、安史の乱につながった。そして楊貴妃と逃げ、陥落。それがあの「国破れて山河あり」だったとは・・・・
歴史は、点だけではわからない。戦いの裏にある時代の背景も理解しないと全貌は見えない。と思えるようになったことが、中学の時に学んだ歴史とは、違うところです。美術作品を通して、歴史にも興味が持てるようになったようです。
■感想 雑感
〇本物を見て何が残ったのか
たったわずかの時間だけしか見ることができず、この下書きから、何かを感じたりすることができるものなんだろうか…と思っていました。《祭姪文稿》にはオーラがあると言われても、きっと、この書が持っている、歴史的背景に感じ入って、素晴らしいと思っているだけのようにも感じていました。
自分に何か、残ったのでしょうか・・・・
それは、今はまだ、わからなくても、そのうち、見えてくることがあるだろうと、今後に期待することにしました。
〇人の感想からよびおこされる
ところが、《祭姪文稿》がもたらしてくれたものは、意外にも早くやってきました。無意識のうちに「紙質」を見ていたことがわかりました。
それは、こちらのブログを見て、気づかされました。⇒【顔真卿-王羲之を超えた名筆-に行ってきた】鑑賞レポート | KOSUGI TAKU
この中で、印象に残ったことを挙げられており、その一つが、《祭姪文稿》の保存状態のよさに言及されていました。そして、実物を見ることで受け止めることができる情報量の違いとして、紙質や質感などに触れられていました。
それ、私も感じてた・・・・
〇意識せずに見ていることがある
思えば、ボタニカルアートの講座を受けた時に、紙質に意識的になることを学んでいたのでした。もし、購入しようと思った時、新しいものをつかまされないためにということで、古い作品の本物の紙を触らせていただく機会がありました。この時の感覚をしっかり体に覚えさせておくこと。その感覚は、手が覚えているはずですから蘇って、新しいものと見分けがつくはず・・・・と。
それがどこかに残っていて、日本画の作品を見る時、和紙など紙質を無意識に見るようになっていることに気づかされました。次第に、時代における紙質の違いがなんとなくわかるようになってきていたようです。
〇時代に合わない違和感は?
ある時は、妙にきれいすぎて、本当にその時代の作品? 本物なの?と思ったことがありましたが、それは、修復で色がきれいになっていました。
今回も、妙なきれいさを感じていて、ある意味、不自然さも感じていて、もしかしたらなんらかの処理がされた上で維持されているのかも・・・・と考えたりしていたことも思い出されました。
〇わからないと思っていても何かを感じてはいる
何も、わからない。感じることができないと思っていましたが、何がしか、感覚的なものは残っているようです。それを自覚的に受け止められるか、あるいは、人が見た感想などから誘発されるものもあるのだと思いました。
〇本物を見ることについて
最近、本物を見ることについて、いろいろ思うところがありました。
本物は違う。それを見続けていれば、違いがわかるようになってくると思っていました。しかし、長時間並んで、1分も見れない状況は、果たして鑑賞と言えるのか? そこから受け止められるものがあるのか? と疑問を抱いていました。
それなら、図録で見たり、高画質の画像をじっくり見た方がいいのでは?と思っていたのも、正直なところでした。(⇒*8)それでも、やはり本物にふれておくことに、価値はあると、改めて感じているところです。
■祭姪文稿関連
〇祭姪文稿 訓読 (真筆 原文 現代語訳 対照): 湯島聖堂の李白講座 ブログ
〇顔真卿「祭姪文稿」の書き下し文を教えてください! - ネット検索しても... - Yahoo!知恵袋
〇「祭姪文稿」だけじゃない!!見どころだらけの顔真卿展!|ココロまで届け!
■顔真卿展関連
〇『顔真卿 王羲之を超えた名筆』報道発表会レポート 悠久の時代を超えて輝き続ける書の魅力、「かたちを超えたオーラ」に出会う | SPICE - エンタメ特化型情報メディア スパイス
〇特別展『顔真卿 王羲之を超えた名筆』レポート 奇跡の来日を果たした《祭姪文稿》を拝見 | SPICE - エンタメ特化型情報メディア スパイス
〇イベントレポート: 「顔真卿 王羲之を超えた名筆」内覧会レポート ● type.center
〇to-co-to | トコト | Blog | 特別展 「顔真卿 王羲之を超えた名筆」
〇顔真卿 王羲之を超えた名筆 東京国立博物館 : 川沿いのラプソディ
〇東博の顔真卿展に行く前に予備知識。人物としての顔真卿を知れば「祭姪文稿」の良さがわかる! - 江戸東京発今昔物語
〇顔真卿展 2回目 からの東洋館 - Pass Hunter
■書家の方のレポート
〇【顔真卿-王羲之を超えた名筆-に行ってきた】鑑賞レポート | KOSUGI TAKU
〇書を観るうえで、大切なポイント。 | KOSUGI TAKU
〇「草書や行書が楷書よりも上手い」という誤解について。 | KOSUGI TAKU
〇顔真卿の書 王羲之を超えた名筆 | 藤井碧峰|正統派書道家
〇顔真卿 -王義之を超えた名筆- を鑑賞しました | 卿雲-Keiun-のブログ
〇特別展「顔真卿」の観覧する時に考慮すること: 書道家の日々つれづれ
〇顔真卿展に行ってきました | 吉祥寺・久我山の書道教室『アトリエ香龍』
〇東博特別展「顔真卿 王羲之を超えた名筆」鑑賞会 開催|小室 信男|教員紹介|聖徳の特色|聖徳大学附属女子中学校・高等学校スマートフォンサイト
〇顔真卿を見たか | 伊野孝行のブログ | 伊野孝行のイラスト芸術
〇プレスリリース|内田洋行、東京国立博物館 特別展「顔真卿(がんしんけい) ―王羲之(おうぎし)を超えた名筆―」に技術協力|内田洋行
■話題
話題の東博「顔真卿展」でメディアが報じない名画・五馬図巻の「奇跡の発見」 WEDGE Infinity(ウェッジ)
■脚注・補足・メモ
玄宗が、どちら側の人なのかがわかりません。そもそも誰と誰のどういう戦いかがわかっていないので… 亡命したとあるので、責められた側らしいことは理解ができるのですが。そういえば、楊貴妃といちゃいちゃしていた人らしいということを、漫画で見かけたような・・・・
簡単に解説してしまえば、唐代の玄宗の唐代の玄宗ときに置かれた各地方の防衛をするために置かれた役職ということなのですが‥‥ それに至る背景があります。
節度使(せつどし)とは?
こちらには、節度使が設置された歴史的な背景が解説されています。
農業技術の発達により、農民格差ができ税を払わず逃げだしてしまう農民が出てきました。そのため、辺境の警備を担った軍人を置きます。ところが地方の節度使は、中央から目が届かないため、好き勝手をする者たちが出てきて、安史の乱がおきたという流れだということがやっとわかりました。
安史の乱の時に書かれた書。と言われても、なぜその乱がおきたのか。そこにまつわる歴史的な背景がわからないと、全貌がよくわかりません。
*3:「部分」をつなげていくと見えてくる
わからない言葉の意味を、一つ一つ調べていくと、次第に背景どおしがつながって全容が見え始めます。(wikipedhiaより)
玄宗(げんそう)は、唐の第6代皇帝。諱は隆基。唐明皇[1]とも呼ばれる。
治世の前半は、太宗の貞観の治を手本とした、開元の治と称えられた善政で唐の絶頂期を迎えたが、後半は楊貴妃を寵愛したことで安史の乱の原因を作った。
そもそもの原因は、玄宗と楊貴妃の関係にあったようです。(⇒玄宗の楊貴妃の寵愛により宮廷が腐敗,均田制などの諸制度の崩れ、農民の流民化が著しくなる)また楊貴妃のおいの楊国忠一族と節度使安禄山の対立が、反乱の原因。
*4:「姪」の意味は?
展示会場にも解説がありました。中国では、「姪」に「おい」の意味があるようです。調べてみると・・・・
日本でも、「おい」の意味もあるようです。また「てつ」とも読むことがわかりました。
「祭姪文稿」どう読む? なぜ書の最高峰? | 毎日ことばでは、
主催者でもある毎日新聞の校閲部のブログで詳しく紹介されいました。
「姪」の意味も日本語の「めい」と随分違っています。この文章はいとこの息子、顔季明への追悼ですから「おい」というのも正確といえません。だからこの書を紹介する文章で「顔真卿の姪」に「めい」とルビを振ってはいけません。「めい」という日本語を避けながら関係を説明することが必要になります。
弔意は、顔真卿の従兄(顔杲卿)の子供(顔季明)にあてたもの。「いとこ」ではなかったのでした。
*5:《祭姪文稿》が、台北・故宮博物院で最後に展示されたのはいつ?
上記には10年前という情報も。一方、7年前という情報も。3年おきに展示されているという情報もどこかで見たけど失念。公開後は3年寝かすという話の取り違えでしょうか?
この中国書法の至宝「祭姪文稿」は、所蔵する台北・故宮博物院でも数年に一度しか展示されない秘宝中の秘宝だ。実際、最近の展示は、7年前の2012年である。
引用:顔真卿の魅力【イチローズ・アート・バー】第9回 – 美術展ナビ|アート・エキシビション・ジャパン
*風神雷神の三者そろいぶみは75年ぶり。とうたわれていたけど、数年前には四者そろい踏みの展示が行われていたことを知った時、そういうことなのね…と悟る。現地でも公開しない作品が、日本にやってきた!となると見たくなるのがっ心情。
*6:「裂の保護技術」
法隆寺館の「裂」を見た時に、劣化してボロボロになった状態でした。それと同じ状態をイメージしていました。元布から分離してしまった細かな破片となったものも展示されており、これはどうやって保存しているのか不思議でした。台紙に張り付けられているとのことでした。
《祭姪文稿》もこれと同じような状況を想像していました。裏紙のようなものが当てられ固定されているのだとばかり思っていたのです。
*7:「作品の概要を知ってから見るのと知らずに見る違い」
「初見」と「既出」の受け止め方の違いを、最近の美術鑑賞で似たようなことを感じていました。「新・北斎展」の北斎の画業の幅広さにについてです。2014年「ボストン美術館 浮世絵名品展 北斎」を見ているため、北斎の幅広い画業は既知のことになっていました。
それを知ってしまうと、こんな絵がみつかりました。こんな絵も描いてます。と言われても、北斎なら描くだろうなとしか受け止められなくなってしまうのです。
全く「知らずに見る」た時の衝撃と、「知ってから見る」衝撃。どうしても、半減してしまうと感じているところです。知らずに見れば、純粋に驚愕します。しかしそういうものがあることを知ってしまうと・・・・
都美で行われたモネ展の時も、晩年の画風が、激しい抽象画になっていることを知っているかいないか。それによって、展示の受け止め方の反応が、会場の中でも随分違うのを感じたことがありました。
*8:「本物を見ることについて」
また自身の経験で言うと、美術書でみたり、雑誌で見たり、図録で見たりしているうちに、本物を見たことがないのに、見たような気になっていたことがあります。
一方、本物を見るために、わざわざ遠出をしたのに、そこで同時展示されていた作品。鑑賞記録も残しているのに、所有館で見た時に、初見だと思って見ていたことも。最近は、8Kの映像もあり、上映ビデオや、テレビの映像で見た方が、より鮮明でじっくり見ることができると感じることもありました。
「新・北斎展」がそれで、画業の広さは既知と思っていたのですが、それをアップの画像で見せられたり、解説によっても誘導されたり、監修者ご本人が登場して語ると、まったく受け止め方の印象が変わってしまうことも経験しました。
視覚だけでなく、そこに情報や、聴覚などの五感が加わることで、受け止め方は違ってくることを経験しています。本物を前にし、それにプラスされる要素による影響みたいなものをどう受け止めたらいいのか・・・・
最近、愕然としてしまったこと。
貸出中のパネルを見ているのに、それを本物だと思っていました。
「見る」というのは、いったいどういうことなのか、何を見ているのか考えさせられてしまいます。