東京国立博物館にて「顔真卿 王羲之を超えた名筆」が開催され、予想を上回る来場者が押し寄せています。書はよくわからない… 「わからない」超初心者が書を見て、なるほどと思ったことや、感じたことなどをとりとめなく覚え書き。
■書体の変遷
〇書体の歴史
篆書 ⇒ 隷書 ⇒ 草書
⇒ 行書
⇒ 楷書
甲骨文字-金文-小篆
甲骨文字:亀の甲羅や骨に刻む文字
金分:青銅器に刻む文字
篆書:公式書体 左右対称 荘厳で美しい 秦の始皇帝が文字統一
隷書:画数を減らし時間のかからない実用に即したかたちに 象形文字からの解放
草書:さらに崩して簡略化
行書:いろんな人がいろいろに模索
楷書:現在の明朝体の元になった美しい楷書
以上のような書体の大きな流れがパネルの図解と、作品で示されていました。
こちらのツイートの中で紹介されています。
顔真卿展の嬉しいところは、徹底して初心者に優しい展示になっていること。巨匠の主要作品にはほぼ全て解説パネル+拡大写真付きで鑑賞ポイントが示され、見どころが整理されています。音声ガイドも完備。導入部分では、漢字の始まりの歴史や書体の特徴などが展示を見ながら自然に学べるのも有難い! pic.twitter.com/RjR46zbyz7
— かるび@アート&映画 (@karub_imalive) January 15, 2019
こういう図解にアンテナが反応します。でも初見の時は、見るのを我慢。一巡して、下記の1章の解説を読みました。
―― 書体進化の秘密 ――
中国の漢字は、読みやすさ・書きやすさ・美しさ等の要素を満たしながら形成されました。各要素の均衡は、社会の発展とともに変化します。そのため公式の書体は、篆書(てんしょ)から隷書(れいしょ)へ、隷書から楷書へと進化を遂げてきたのです。
引用:東京国立博物館 - 展示 日本の考古・特別展(平成館) 特別展「顔真卿 王羲之を超えた名筆」
なるほど~ そういう意味だったのか・・・・ と思いながら、パネルを確認しに会場へいくと、納得、納得。そして、展示されている作品が何を意味していたかも理解できました。作品の中の文字がどの文字なのか照合したのですが、「小篆」が、どれなのかイマイチわかりませんでした。スタッフさんに聞いてみても、わかりません。解説を細かく読んでいくと、ああ、これのことだったのか…とわかりました。
〇隷書って何?
ここで、長年の謎が解決したことがあります。
年賀状を作成する際に、フォント設定する中に出てきていた「隷書体」の文字。隷書ってどういう書体のことなんだろう。「奴隷」の「隷」って変な名前・・・・ イメージよくないなぁと思っていました。が、それ以上の関心もなく、調べることもなく今に至りました。
「隷書」は、業務効率を上げるために、画数を減らして書きやすくした文字。
ちなみに「隷」という文字の意味は ⇒隷(レイ)とは - コトバンク
やはり、あまりいい意味ではないような気がします。
〇楷書は、明朝体の元
一方「楷書」は、今の明朝体のもとになったのだそう。確かに、いつも見慣れている文字です。見慣れすぎて、美しい書体とか、読みやすいとか、思ったことがありませんでしたが、文字の変遷をこうして見ていくと、黄金比のようなバランスなども感じられます。
〇「蚕頭燕尾」という書き方
顔真卿は「蚕頭燕尾(さんとうえんび)」と呼ばれる筆使いを駆使した幅広い表現の楷書を確立しました。その文字は、見てのごとく「起筆を蚕の頭のように、右の払いを燕の尾のように」書く手法です。
蚕の頭はすぐにわかりましたが、「燕の尻尾」が何を意味しているのかがわらず、考えていました。はたと、払いのことを言ってるんだ!と気づいた時、言いえて妙だと思いました。
小学校の時に、習字を習ったことがありますが、それ教わったわ… 顔真卿の書き方を教わっていたんだ…と。この書き方も、当たり前のように思っていましたが、いろいろな試行錯誤の末に編み出されていたことが理解できます。
そして、情感を盛り込んだ行草書を編み出した人物。情感・・・・確かに伝わってくる感じがします。
〇草書のあとに楷書
そして意外だったのが、楷書が、草書や行書のあとに考えられた文字ということでした。楷書を崩したのが、草書や行書だとばかり思っていました。楷書の進化形が草書や行書・・・・みたないイメージで捉えていました。効率を上げるために崩しすぎて読みにくくなってしまった?そのための先祖返り現象でしょうか?誰が見てもわかるような字が楷書だったということでしょうか?
〇篆書は象形文字
篆刻などで、馴染みはある篆書。これは、甲骨文字が元になっています。漢字がいわゆる象形文字と言われる所以であることが理解できます。
〇漢字とアルファベットの成り立ちの違い
美容室にあった雑誌の記事を思い出しました。坂本龍一さんが、お気に入りの書籍を紹介するというコーナーです。フェノロサが「漢字」について書いた論考です。
婦人画報 2019 2月号
紹介されていた書籍は『詩の媒体としての漢字考』という フェノロサの小論文で、漢字というシステムの本質についての考察でした。
ヨーロッパの文字、アルファベットには、本来はあったと考えられるが、自然との生き生きとした関係が失われている。一方、中国古代に生み出された漢字には、動的で私的が絵画性が内包されている。
何もわからず、中国の漢字で書かれている文字を見た時に、絵を見ているようだと思ったのは、そういうところから来ていたのかもしれないと納得。(⇒■書とのかかわり)
そして、今回の展覧会で漢字の成り立ちを知って、そのことをより一層、理解できたように感じました。漢字は象形文字から始まっている。つまり「絵」そのものなのです。
それにしても、フェノロサが美術だけでなく、漢字に関する考察までしていたことには驚きです。(しかし、漢字を使っていないからこそ見えることなのかもしれません。また専門が確か、進化経済学。いろいろな事象を進化の目線でとらえる思考があるのかも・・・)そこから思考法の違い、そして坂本氏は自分の音楽の言葉との関係に発展させて論じていて圧倒される記事でした。
■《紀泰山銘》
今回の展示の一つの山場。
泰山山頂付近に彫られた隷書を写し取ったもの。高さは13mあります。ここから拓本にしている様子を撮影した写真。上から墨を含ませたタンポで叩いて写しとります。写し取るのは紙。日本の和紙は丈夫といわれますが、中国の紙の品質もすごい‼️
下記のような解説がされています。
〇どんな場所にあるのか
泰山の山頂付近。紀泰山銘の周りには、いくつかの銘文が刻まれていますが、圧倒的な大きさで、他をよせつけません。
〇今は、文字が金に その理由
文字だけでなく、細やかな絵も彫られています。文字は金色に。
これは、経年変化による石の劣化を防ぐための対策です。ところが金を入れてしまうと、今後は、拓本をとることができなくなるそう。つまり、現状、残っているものだけになってしまいます。
〇大観って、あの大観?
「天下大観」の文字が見えます。横山大観の名前の由来に何か関係があるのでしょうか?この地の名前が、大観峰というそうです。(⇒*1)
〇どうやって拓本をとった?
これは、拓本をとった時の様子らしいです。
この様子から見ると、紙は13mの1本ロールにはなっていないようです。おそらく部分、部分を写して、あとで張り合わせたのだろうと想像されます。
当初、岩に墨を塗って写し取るのだと思いました。しかしそれでは、墨が乾いてしまうはず。きっと乾かないようにする技術があるのだろうと思っていました。
版画のように墨を岩肌に塗って写し取るのではなく、タンポと言われるものに墨を吸わせて上からたたくのだそうです。版画のように写し取ると、文字は反転しまうとスタッフの方に言われ、確かに…
〇どうやって彫るの?
では、どうやってこんな岩に、玄宗皇帝の隷書体の書を彫ったでしょうか? その技術はわかっていないらしく、下書きもせずいきなり彫ったとも言われているそう。
内心、そんなことできるのだろうか…と懐疑的でした。玄宗皇帝の筆跡を下書きもせず、いきなり彫ることができるものなのでしょうか? 写真を見ただけでも、高い岩ですが、これがどんな場所にあるかというと・・・・
20世紀初頭の泰山の様子。このような山の奥深い場所です。9kmの行程があり、7,412段の石段があるといいます。(制作された当時は、また違ったはず)
〇どんな紙?
これを写し取ったものは紙だそうです。そうとうな強度のある紙でないと耐えられないはず。紙の厚さはどれくらいあるのでしょうか?また、重さは?
繊維はどんな状態?
途中、継ぎ合わせいるのでしょうか? 継ぎ目は?
この写しは、タンポに墨を染み込ませて写し取ったということは、紙の厚さもあるでしょうから、大変な作業です。日本の浮世絵の摺師の技は大変、高度な技術を持っています。しかし中国の摺師?の技も負けず劣らずといった感じです。
浮世絵の細く繊細で流れるような文字をどのように彫っったのかもずっと謎でした。そこにはなるほど納得のテクニックがありました。それと同様に、こんな場所の岩に彫るには、きっとなにがしかのテクニックがあると思うのです。どんなに技術があるとは言っても、下書きなしでこれだけの高さに、フリーハンドで彫ることができるとは思えません。きっと、玄宗皇帝が書いた文字を写し取ったものがあって、浮世絵のように、それを張り付けて、彫ったのではないかと思っていました。調べてみると、次のような資料がありました。
参考:玄宗「紀泰山銘」と唐代隷書 九州大学学術情報リポジトリ(p11)
〇あとどれくらい残ってる?
全て広げられていません。あとどれくらい残っているのでしょうか?
天井高を確認して、見当をつけようと思いましたが、天井高はわかりませんでした。わかっても、どれだけ床に広げているかもわからないと・・・・
ロールの状態のを撮影しておけばよかった・・・・と思っていたら、こちらの動画に一瞬、映っていますが、あと、ちょっとという感じでしょうか?
天皇、皇后両陛下は20日、東京都台東区の東京国立博物館で開催されている特別展「顔真卿(がんしんけい) 王羲之(おうぎし)を超えた名筆」を鑑賞されました。(丹)オリジナル版は→https://t.co/wzopNBBTl8 pic.twitter.com/I85eV5fke7
— 毎日新聞映像グループ (@eizo_desk) February 20, 2019
(追記:2019.02.23 逆アングルからロールを見ると拓本部分は全て広げられているようです。となると、残りのロールは余白? それにしては多いような・・・・)
全て広げた状態。成田山にも拓本があります。
この文字から、展示の拓本がどこまでが広げられているのかを特定しようとしたのですが、巻き取り間際の文字が確認できず断念・・・・
(続く)
*1: ■大観という名前について (追記:2019.02.29)
(別冊太陽 p8 30 34)より
1893年(明治26年)美術学校を卒業。一時、京都に移ったが、母校の助教授として東京に舞い戻る。
京都では、美術学校の同級生の友人、江中無牛(えなかむぎゅう)は、甲乙組み分け試験に癇癪をおこし退学。京都で絵画の修行をしていた。秀麿(大観)に雅号をつけることをすすめる。
幼名: 秀蔵 ⇒ 秀松
小学校卒業から終生 ⇒ 秀麿
禅寺に江中無牛と訪れ、僧侶と酒を飲み、よっぱらいながら、「お経の中からいいのがあったら号をつけよう」と教本をめくる。その中にあった「大観」という名をつけたと言います。
引用:『横山大観について①』コロコロさんの日記 [食べログ]