コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■マルセル・デュシャンと日本美術:「見るんじゃない 考えるんだ」の足跡

マルセル・デュシャンと日本美術は、折り返し地点をすぎ、残すところ約半月。便器がアートと言った人。その心は・・・? この展覧会のコンセプトは、美術を通して考えるということ。「なぜ便器がアート?」考えたことを記録しておきます。

 【追記】(2018.11.17)《泉》の見え方や、展示のデザインや構成について追記

 

*写真撮影可の展示です

 

 

■なぜ便器がアートなのか?

美術鑑賞を続けていると、見るではなしに目に入ってくるこの写真。

 

引用:wikipedhiaより

どうやら便器を美術作品だと言ったアーティストがいるらしい。それはどういう意味なんだろうか・・・・と思ったのはいつのことだったでしょうか? 名前を認識をすることもなく月日が流れていきました。気にはなるけども、それを理解するにはまだ、時期尚早。そのうちわかる時がくるでしょ・・・・ という感じでやりすごしていました。

 

 

■聖地からデュシャンがやってくる!

 そこに、こんなフライヤーを目にするようになりました。

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あの便器の人は、デュシャンっていう名前だったのか・・・・ これまで避けてきたけれど、これは丁度良い機会。なぜ便器がアートなのか考えるきっかけにこの展覧会をすることにしました。

そしてフライヤーにも、こんなキャッチがあります。

 

■「見るんじゃない 考えるんだ」

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会期は2018.10.2~12.9までです。始まるまでに、なぜ便器がアートなのか自分なりに考えてみることにしました。デュシャンのことについて、何にも知りません。

デュシャンの生い立ちや背景を「知ってから考える」のと「何も知らずに考える」。知らないことによって生まれる想像力の面白さというのをこれまで感じてきたので、そのギャップを楽しもうと思います。

まずは、予備知識を入れずに考えてみることにします。どれだけのことを考えることができるのか。今の自分の美術に対する知識や理解が反映されます。そしてどんな答えが導き出せるのか・・・・ 自分で答えが出せるまでは、デュシャンに関する情報は一切、見ないことにしました。

そしてもう一つのお題も出されています。

 

■花入れと便器の共通点は?

展覧会は2部構成で、第2章はデュシャンの向こうに日本が見える」。東博の国宝や重文などの日本美術と、西洋の美術を比較しながら、日本美術の価値を浮かび上がらせるという趣向のようです。

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便器と花入の共通点をさぐりつつ、日本美術の楽しみ方を提案するという企画らしいです。他にもお題が出されていました。

  • Q . 日用品がアート?
  • Q . 「時間」の表現方法は?

 

とりあえず、展覧会が始まるまで、下記の問いについて考えてみることにしました。

  • 「なぜ、便器がアートなのか」
  • 「花入と便器の共通点は?」

知る前に考えるのは、ワンチャンスです。知ってしまうと、知らなかった時の感覚には戻れなくなります。一度乗れるようになってしまった自転車は、乗れなかった状態にはもどれないのと同じ。その記録を残しておきます。

 

 

■ なぜ便器がアートなの?

〇デザインと美術品との関係? 

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マルセル・デュシャン 《泉》(1950年(レプリカ/オリジナル1917年)) フィラデルフィア美術館

この便器、おにぎりみたいな形しています。その当時の便器は、こんな三角の形をしていたのでしょうか? デュシャンっていつの人? 当時の一般的な便器の形を知りたくなりました。この形は特別な形だったのでしょうか?

こんなおにぎり型の便器を私は見たことがありません。こんな形の男性便器があることを知りませんでした。ということは、これはもしかして、デザイン的に形を新しく起こしているということでしょうか? それをアートと捉えたってことかしら?

 

〇「美術」と「デザイン」は違うらしい・・・・

美術デザインは違う。ということをデザイナーの友人を通して知りました。では、どう違うのか。いまだによくわかってはいないのですが、なんとなくこういうことかな? と感覚的につかんでいます。

これまでの男性便器の形が変わった。それは工業製品にデザインという考え方を持ち込んだから。だからこの便器はアート? う~ん・・・・違う。

 

 

〇工業製品の中にみるわずかな違いをアート

技術の進歩により画一化された製品が量産されていきます。そこに他の製品とは違うオリジナルな特徴的を持つ形を取り込んだことがアートということでしょうか? しかしそれはデザインということだと思うし…

一見、画一化され同じものに見える製品でも、ロット差がでます。あるいは、初期の製品であれば、同じロットでもバラツキが見られるはず。そのバラツキの中に、デュシャンはアート的な部分を見ていたのではないか。

マニアというのは、わずかな違いに価値を見い出すと言われています。コンプリート欲、コレクション欲は、はたから見たら全く同じに見えても、そこに存在する「わずかな違い」に着目し、それが大きな価値になります。デュシャンの美意識は、その違いに注目したのではないかと考えました。

 

〇サインをすることで、これを選んだという印付け

大量に生産される工業製品の便器。その中からわずかな違いに着目して選びぬいた私の目。それが私のアートだとデュシャンは言いたいのではないでしょうか。

多くの中から選んだ一品。凡人には画一化された同じに見える便器。しかしそれは見る人の目によって、違いが存在する。そこに価値を見出せる人にとってはアートとなりうる。

「私の目で選んだもの」そのスタンプがサイン。ブランドの由来は、家畜の所有を表すために焼印をつけたところから始まっています。サインは焼印の役割。他の便器とは違うという差別化を見出した印。「デュシャンの目、デュシャンの価値観で選んだ」という証のサイン。

 

〇どうやってデュシャと読む?

ところでこのサイン。どう読めばデュシャンと読めるのか・・・・

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マルセル・デュシャン 《泉》(1950年(レプリカ/オリジナル1917年)) フィラデルフィア美術館

どう見ても、R.MUTT    としか読めません。デュシャンってどこの国の人? フランスっぽいけど、フランス語ってこんな表記をするのでしょうか? あるいはニックネームだったのかな? それとも、日本では幼少名があったり、途中、何度も名前が変わったりするように、別名ってことなんだろうか・・・・

 

〇便器の構造が変・・・・

この時代の男性便器の排水管は手前側にあったのでしょうか?

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マルセル・デュシャン 《泉》(1950年(レプリカ/オリジナル1917年)) フィラデルフィア美術館

それってデザイン的に絶対、美しくないし機能的にもいかがなものでしょう。出したものが自分に向かって流れてくるわけです。おそらく、そうせざる得なかった事情でもあったのでしょうか? 下水管の位置の関係とか、なんらかの理由でドレインを手前につけなくてはいけなかったのかもしれません。

その理由は、考えてみてもわかりませんでしたが、その時代には、今の生活からは想像しえない事情というものがあるというもの。

でも、十字の穴は何の役目なんでしょうか・・・・ ここに穴をあける意味は? もしかしてこれもデザイン? でもその穴から背後の壁に漏れない? そしていくらデザインとしてこの三角形、なんだか小さくて外に跳ねて漏れそうな気がするんですけど・・・・ 

それでも、機能重視でなく、便器に美しい形状を与えたことを、アートとして評価したのかも・・・ そんな理由をつけて納得していました。

 

〇配管の色は汚れ? 金メッキ?

友人がこの便器の手前の汚れが、不潔でいや・・・・ と言ってました。私は写真やフライヤーをじっくりみてなかったので、これはあえて金メッキをした金具でジョイントしたのだと思っていました。パイプとのジョイントに金の金具を使う。これもまたデュシャンが認めた美的感覚の一部(笑)

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よく見たら汚れ(?)ですが、これがアートなんだと思って見ていると「金」に見えてしまう(笑)

 

〇アートであるかどうかは自分で決める

デュシャンは、大量生産される工業製品の中に、わずかな違いを見出して選び、それをアートであるという刻印をしたのだと理解しました。自分のアートの価値観を世に問いかけたのです。

 

問われた私たちが、それをアートと認めるか否か。それはそれぞれの感性、価値眼で決めればいいこと。デュシャンはこれをアートだと言った。しかし「私は、これをアートだとは思わない」「いや、立派なアートだ」その判断は、見る人が決めればいい。

 

便器をアートだと思ってもいいし、思わなくてもいい。アーティストが我々に対して、問いかけたことに対して、あれこれ考えてみること。その行為こそがアートすることだとデュシャンが言いたかったのではないか。デュシャンが価値判断を加えたように、見る側も、作品に対して価値判断を加える。それが私が出した答えでした。⇒*1

 

 

 

そして 「花入と便器の共通点は?」・・・・ それぞれに水が入る。そんなことぐらいしか思いつきませんでした。

 

 

 ■デュシャンについて少し調べてみた

以上が、予備知識なしに考えたこと。そこで感じた違和感・・・・ 背景を調べてみるとその理由がわかってきました。

 

〇サインが読めなかったのは…

 R.MUTT  どう見てもデュシャンとは読めません。

それはデュシャンが身分は明かさず、男子用小便器に「リチャード・マット (R. Mutt)」という署名をし『泉』というタイトルを付けて、1917年出品したのでした

 

wikiphedhiaより

この作品は、デュシャン自身が展示委員をしていたニューヨーク・アンデパンダン[8]に匿名で出品されたものの、委員会の議論の末、展示されることはなかった。後年、デュシャンは「展示が拒否されたのではなく、作品は展覧会の間じゅう仕切り壁の背後に置かれていて、自分も作品がどこにあるか知らなかった」とインタビューに応えている[9]デュシャンは自分が出品者であることを伏せたまま、展示委員の立場から抗議の評論文を新聞に発表し、委員を辞任した。最終的にはこの作品は紛失した(展示に反対した委員が意図的に破棄したのではないかと考えられている)。

 

 

〇ドレインの方向が変 構造、機能の辻褄があわない

この便器に水を流すと、上に噴水のように噴出すると解説されています。だから「噴水と」名付けられていた。しかし、どうして噴水のように噴出するのか私には理解ができません。手前に流れ出すと思うのですが…

 デュシャンの「泉」に使われた便器は配管して水を流した場合、水が噴水のように上に噴出する[10]。そこからこの作品の題名がFountain=噴水、と名づけられたという説である。

 

注釈がありました。

実際は手前から奥に向かって流れるだけだが、ペンシルベニア大学のAl Filreis教授の授業「近現代のアメリカ詩」の中の『イマジスム&ウィリアムス』の授業で、デュシャンの作品 "Fountain" は便器が上下逆さまになっており、そのまま水を流せば上に噴出するという発言があった。コーセラの科目の一つで、現在ネットで進行中/

 便器の設置を上下、逆さまにしていたのでした。

 

■便器は逆さま(⇒横置き)だった!

この状態で水が流れたら、手前に流れてきます。そんな仕組みあり? でも、この時代なんらかの事情があったのだと理解しました。ところが、便器が上下逆さまだった!(⇒修正:横に倒していた)ことがわかりました。また当時は、こんなおにぎり型の便器が定番だったのか。それこそがデザイン的、アート的だったのかも・・・・という憶測も違うことがわかりました。

 

ということで、上から撮影してみました。

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手前の汚れた配管は、実は上部から水が流れるための配管だったのでした。

 

 

 

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左右の裏側は、下方向へ流れるドレインとなります。

 

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便器の裏 というより下側

 

下水管の位置の関係で真下に流すことができなかったのかも・・・ と思いました。しかし1917年なら、そのような理由もなさそうなんだけど・・・・ とよぎっていました。その推察は当たり~

そして、あまり意味のない十字の穴こそが、出したものが流れ、排水口につながる入口だったのでした。しかし十字は便器の上部にあり、配管位置は下です。繋がっていません。(これは写真の撮影角度による見える位置の錯覚だとわかりました。⇒〇【追記】(2018.11.17)十字の穴はどこに? ああ勘違い陶器が二重構造になっており内部が傾斜していて排水管に流れている構造であることがわかりました。またいくらなんでもこの三角形の大きさは、小さいし周りに飛び散りそうです。お掃除が大変だろうなとも感じていました。それは老婆心でした。

 

ジョイント部分が汚れているように見えます。これは、実際に使っていた便器をアート作品にしたのでしょうか? もともと製品の黒ずみ? オリジナルは破棄されてしまったらしいので、これは模造品。ということは・・・・

 

「便器逆を逆さ(横)にしてサイン」

これこそがアートたる真髄ではないかと思いました。見る方向を変える。それによって違うものに見えてくる。普通の便器を、逆さま(横)に置くことによって、おにぎり型の小さめの便器に変身! それは機能を無視したアーティスティックな便器に?

この「逆さ」であるということが、意外にもあまり言及されていません。

 

 

■便器の形の変遷は?

便器の形というのは、どんな形を辿ってきたでしょうか・・・・ それをまとめている方がいらっしゃいました。

男子小便器コレクション

 

デュシャンの便器は、朝顔型と言われるもので、子供の頃、田舎でよく見かけました。そしてこの朝顔型。おばあちゃんもこれを使ったのです! 確かにおにぎり型のような造形的なものは見たことがありません。

便器の形状は、世界共通なのでしょうか?

 

この時代の便器の完成度はどの程度だったのでしょうか? 

窓ガラスは、フラットで平らなのが当たり前になっていますが、明治時代、大正時代のガラスというのは、歪みがありました。逆に今は、この波打ったガラスを作ることができません。

それと同じようにこの便器の表面の滑らかさが、どうだったのか気になりだしました。一見、なめらかに見えましたが、よく見たらなめらかでなかったような気がします。確か表面に小さなへこみのようなものがあってやっぱり・・・・と思った記憶が。もう一度見て確かめたくなりました。

 

 

〇参考:日本のトイレの歴史

 ⇒ *2 トイレの年表

 ⇒ *3 水回りの変遷

 ⇒ *4 トイレの年表 

 ⇒  *5 トイレは「焼き物」 手作りの秘密

 

 

■1917年 東洋陶器株式会社設立

デュシャンが《泉》を発表した時、日本では現在のTOTOが設立していました。

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TOTOの前進は、なんとあのノリタケカンパニーだったことに驚きました。大倉陶苑とノリタケ香蘭社深川製磁など、磁器の会社は血縁関係で結ばれているようです。

 

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こちらはラウンジに展示されているので、デュシャン展に入館しなくても見ることができます。

デュシャンが制作されたのは1917年、日本は大正6年。丁度、第一次世界大戦のさなかです。フランスにおけるこの時代の工業製品というのはどんな作り方だったのでしょう? 大量生産された中から選びぬいた一品と考えたのですが、当時、ロット生産がされるような管理や量産はされていたのでしょうか? もしかしたら手作業の部分もあったかもしれません。そうなると余計に、微妙な差に注目した可能性も考えられるのですが、そうではなかったことが展示から伝わってきました。

 

 

 *日本のTOTOの復刻版の便器は滑らかに見えますが、表面の状態はどうなっているのでしょうか? 

 

■お預け本『いちばんやさしい美術鑑賞』を読む

美術ブロガーの青い日記帳さんの著書『いちばんやさしい美術鑑賞』の中にデュシャンを取り上げたページがあります。自分で答えを出せるまでは読まないことにしていました。展覧会に行く道すがら、やっと電車内で読んでみました。

 

そこには、デュシャは何を表現したかったのか。何を考えていたのかを探ることがこの作品の鑑賞スタイルのひとつで、20世紀の美術はアイデア勝負の世界に突入したことを意味するとあります。作品が発する何かを受け止める。作者の気持ちになる。作家情報を調べる。作家の論考を知る。そうして解釈を重ねるという現代美術の鑑賞法を提示した。鑑賞は「見る」から「考える」「解釈する」に変化したと・・・・

 

予備知識がないため、違う方向で想像したこともあります。そこが「考える」ことの面白さなんだと思います。それらを含めて、デュシャンが提示した「考える」ということについて、情報がない中で実践していたのだと思いました。 

 

デュシャンの伝えたかったことは?

デュシャンの語っていること、それをどう評価されてきたかなどは、これから調べていきます。まずは、予備知識を持たずに感じたこと。デュシャンは、量産品の中から、この一品を選びサインをしたのだと当初は思っていました。しかし展示を見たら、そのような視点を持ってこの便器を選んだわけではなかったと思いました。

どれでもよかった・・・・ 単に問題提起をしたかったのだと思いました。アンデパンダンテ展は出品料5ドルを支払えば、誰でも出品できる無審査の展覧会です。しかしそれが運用されてはいないことを肌で感じていたのだと思います。「建て前と本音」の齟齬。それを問いただそうとした。そのためサインをする便器は何でもよかったのだと・・・・

 

また、これまで美術鑑賞を通して私が得たことは、多様性を認め合おう。ということでした。いろいろな物事の捉え方があって、それぞれの考え方、価値観がある。それらを尊重し受け入れる。「便器もアート」といういう特殊な(?)価値観を認めることができるのかという問いかけ。その問いに対して、それぞれに考えてみることを提示したのだと思ました。

 

さらに美術館という箱に展示するということの意味。ここに展示するということは、どんな作品であっても一種の権威付けがなされ、ステータスが与えられる箱として機能してしまうのではないか。じゃあ、便器を置いたらどうよ・・・・って。

そしてのちの「ホワイトキューブ」という捉え方のベースになっていったのではないでしょうか。

 

デュシャンの問いかけを通して、「考える」ということを投げかけていたのだと思いました。(落としどころは最初に、フライヤーで示されているため、そこに誘導されてしまうわけでですが・・・・)

 

■展示を見て思ったこと

〇反射によるコピーについては?

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「オリジナルとコピー」についても問いかけがされていました。この写真のように、映り込みによる複製(?)状態になっていました。反射によって目に届くコピーをデュシャンはどうとらえるのでしょうか?気になります。

 

合わせ鏡で作品を作った作家もいるようです。 ⇒ REALKYOTO

 

 

〇見る角度によって見え方が違う 

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《自転車の車輪》

スツールに車輪をとりつけました。でも、見る角度を変えて真横から見たら、車輪には見えなくなるんだけどな・・・・ ⇒*6

 

 

〇便器の見る方向を変えた展示があった 

便器も見る方向を変えて展示されたこともあったようです。 

ガラスに映った便器を、鏡に映した便器の作品にしたり、便器を本当に逆さにして宙づりにしたり。味方を変える。コピーとはなんぞや・・・・ とは言っても基本的な考え方は、デュシャンが提唱しているということ。「考えた先に行きつくところも、似たようなものになる」というのも美術鑑賞をしていて悟ったことの一つ。

 

 

〇【追記】(2018.11.17)十字の穴はどこに? ああ勘違い

今回展示された作品、撮影するアングルによって十字の穴の位置が変化していることがわかりました。 

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左の写真を見て、排出したものが流れる穴が、上部にあると勘違いしてしまいました。配管と位置がずれてた! これは発見! と思ったのですが、改めて《泉》の作品を散策してみると、排水穴は下部にあることがわかりました。

なぜこのように見えてしまったのかを考えていたのですが、やっとわかりました。立体を平面の写真で撮影することによっておきる齟齬だったのでした。

 

〇【追記】(2018.11.17)複製品とオリジナルは明らかに違う形状

複製品というので、形状はてっきりオリジナルと全く同じものと思っていました。これまで写真で目にした作品の形と若干、違っていたのです。なんとなく私の記憶の三角と違うような気はしていました。左の写真を見ていた時は、形が造形的と思っていました。それを持ってデュシャンは美術品と思ったのかな? と思っていました。展示品を見た時、あれ?こんな三角だったけ?とやはり違和感を感じていたのです。

そして排水となる穴の数、形状も違っていました。展示作品は十字に配置され5つ。オリジナルは三角形に6つ。

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これまデュシャンの《泉》は、写真でしか見ていません。それは一方向からのアングルでしか見ていなかったことになります。左の写真を見て、便器の穴に対して、疑問を抱いたかどうかの記憶にはありません。手前に流れることについては、あれ?と思ったような気もするし、気付かなかったような気も・・・・ 

そしてコピーですが作品を全方向から見ます。それによって、便器としての構造、機能が明らかになってきます。これはトイレとしての機能するのか? ということに気づけるのは、実物をみないとわからなかったことだと思います。

と思っていましたが、フライヤーをじっくり見て考えるようになった時には気づいていたかも。なにげなく見てるだけは見えてはきません。でも、なぜこれがアート? と向き合うようになると、構造としておかしい部分が見えていました。2018.12.06)

しかし、おかしいと思いながらも、逆さにしたというエピソードを知らないと、この形が便器の造形だったのだと理解してしまうのでした。

 

 

〇【追記】(2018.11.17)写真だけでは判断ができない

また、今回同じ方向から角度を変えて写真を撮影して、見え方が全く違った。という経験をしました。図録などで見る写真は、一方向だけで、それによって作品の固定観念が生まれていることに気づきました。

さらに言えば、恣意的に誘導するための撮影も可能ということになります。なんでも疑ってみることが習慣になっていますが、これからは、撮影された写真に対しても、そこになにがしかの意図があり、誘導されているかも。そんな経験値が積まれました。

 

 

〇【追記】(2018.11.17)各章の解説パネルの数字に注目

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1章:数字の1は、《階段を降りる裸体No.2》をイメージ
2章:よ~く見ると数字になにか書かれてます

 

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3章:格子模様は何を意味してる? そうか…チェス盤だ
4章:穴からのぞいているイメージを表現しているわけね

 

 

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2章の数字にサイン発見!(このサインに気づいている人、あまりいないはず)

 

第2部もそうなのかな?と思ったら、こちらも・・・・

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1章:竹を割ったような亀裂
2章:歌舞伎の隈
3章:時間の経過を表現
4章:鏡像反転に

 

そして5章・・・・ よくわからないと思ったら

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数字の5の跳ねが筆跡になっていました

 

 

〇【追記】(2018.11.17)展示のデザイン構成

最初に見た時、1章のドーム型に切り抜かれた開口部。その先に見える展示物とその空間の展示にきっと何か意味が込められていると感じました。でもその関係性はよくわかりませんでした。とりあえず撮影しておけ! とシャッターを切ったのがこれ。 

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ドームの先から垣間見えてるデュシャンの姿。これきっと何か意味がありそう…

 

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ドーム型の開口部に貼られた写真も、きっと何か意味があるはず・・・・

 

2回目の鑑賞でその意味が解けました。それは・・・・ 
この写真を撮影した時のことです。f:id:korokoroblog:20181117133221j:plain

《階段を降りる裸体No.2》の位置から、逆方向に向けて撮影した一枚。1章の数字が、この作品をイメージさせていることに気づきました。この方向からの視界は、デュシャンがこれまでにどんな歩みを通してこの作品に至ったかを示していたのです。ブースはそれぞれの変化・・・・

デュシャンがここに至るまで、ここから一望できるんだ! ということは、何か意味がありそうと…と思って最初に撮影した、垣間見えるデュシャンの姿は、今後の(=未来の)姿を暗示していたわけだ!

その後、どう変化するか・・・・デュシャンの姿チラ見せさせていたのでした。

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このポジションは、「これまで」と「これから」を俯瞰できる位置。デュシャンにとって大きなターニングポイントにもなる場所だったのでした。

 

ということでその背後の展示は・・・・

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《彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも》(通称:大ガラス)がパネルの裏に隠れており、突如現れるというしかけだったのです。

 

《階段を降りる裸体No.2》の裏の展示は、次の作品《彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも》との連続性を持たせているようです。

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直観的にここには何かがある!とか、おかしい・・・・と感じたことというのは「必ずと言っていいくらい何か理由がある」とうのが、これまで鑑賞を通して経験してきたことでした。作品を何度か見ることによって、その引っ掛かりが解明されていく面白さがあります。

 

直観はインスピレーションと言われます。しかし私は、直観は体験の積み重ねで導かれるものというように捉えるようになりました。展示には必ず、「展示する人の意図が込められている」ことがわかってきます。それは何か・・・・と考えているうちに、何かあると感じさせるようなフックをチラ見せしています。最初はすぐにわからなくても、鑑賞を重ねたり、考えたりしていくうちに、それが見える瞬間や、つながる瞬間があります。これが美術鑑賞の面白さで、デュシャンの唱える「美術は考えること」の一画なのだと感じています。

 

〇【追記】(2018.11.17)この窓は何? 

展示の途中で、ところどころ壁が繰りぬかれている部分があります。それも気にかかっていました。そこから見える視界に何か、意味を持たせているのだろうと想像がつきます。

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(左)こんな開口部があり、ここからさらに未来を見せているのかな?枠にはなにか写真がありますが、よくわかりません。
(右)裏側に回ると、どんな写真かが見えます。そこから過去の制作活動をしていたデュシャンが見えます。この位置は、チェス競技に没頭したり、ローズ・セラヴィとして制作活動をしていたコーナーです。

 

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こんな窓もあり、この裏の展示ときっと連動しているのだろうと想像されます。

 

こんな展示の仕掛けを発見ができたことを、自分だけの宝物のように温めつつ…(笑)

すると、デザイン室長さんがブログで種明かしをされていました。

 

■付記

美術館に作品が置かれたらそれは、折り紙付の作品となることへの疑問は、私も感じていたことでした。 

■設置場所によって作品の価値が変わる

 

有名作家の作品が、こんなところにあるはずがない・・・・ 逆に、美術館という場所に展示されていれば、何でもアート作品になってしまうとも感じていました。

(幼稚園児の作品を美術館で展示したらそれは、立派な現代アートになってしまうのが美術館という箱が持つマジック。しかし、最近、4歳児が何かの賞を受賞したという話がありました。作者情報をブランクにして選考されたそう⇒

鳥取県の第62回美術展覧会で入選した4歳児の作品に騒然!天才児が将来の夢を語る。【画像あり】 | 目撃者はあなたです!!

 

本物の価値のあるアートなら、どこにあったとしても、年齢も関係なく、何かを感じさせてくれる力があるはず。だから、美術館にあるからといって、優れたものだという先入観を持たずに鑑賞する。あえて、この作品がそのへんにぽつんと置かれていたら、そこから何かを語りかけてくるのか・・・・ と思いながら見たり。

逆に美術館に展示されている作品を、偽物だと仮定して鑑賞してみる。偽物だという先入観を植え付けて見ても、何かを感じさせられる力を持っているか。そんなシチュエーションを変えながら見たりすることもありました。

 

デュシャンが伝えようとしたこと、実践してたかも\(^o^)/

権威を信じない。人の言うことを鵜呑みにしない。たとえ本人の言葉だとしても、ポーズで言ってるのかもしれないし、状況に応じた発言かもしれません。本心ではないことだってあります。あれ?何か変・・・・と思わされるところに、ヒントが潜んでいたり。

まずは自分がどう感じるかを大切にする。何も知らない時の、ファーストインプレッションは意外にツボをおさえていたりします。知らないからこそ想像できる面白さもあります。

 

ただ、これは、ある程度、鑑賞体験も必要だと感じています。

このような見方をするようになったのは、いつ頃からなのでしょう? 鑑賞体験が未熟な初期の頃というのは、何も予備知識がないと、全く何も感じることができませんでした。おそらく、いくつかの美術館のパスポートを作って、好き嫌いにかかわらず、手あたり次第、鑑賞するようになってから、知らないアーティストでも考えたり、感じたりできるようになってきました。

 

デュシャンについて知らなくても、美術の歴史に触れていたり、他の作品の鑑賞体験が、考えることのベースを作ってくれていたようです。作品を見て「考える」「調べる」ということは、比較的、実践してきた気がします。

これまで、デュシャンについて予備知識なしで考えてきましたが、デュシャンのことを調べたらどう変化していくのか楽しみです。「知る前」「知ったあと」この変化のギャップが面白いです。デュシャンが偽名でサインをしたことを最初から知っていたら、名前と違うという齟齬は気にならなくなってしまいます。そのため最近は、予備知識を入れずに美術館に訪れることが多くなりました。

まずは、何も読まずに展覧会を一周する。じぶんなりに、これはどんな展覧会なのか想像して、どういう章構成なのかも考えられる限り、創造してみます。多くの場合は、アーティストそのものを知らないので全く、想像できないわけですが‥‥

そのあと、挨拶や章構成、概要を把握して展覧会の全体像をつかみます。(ここでもギャップがみつかります。私はこのアーティストをこういうふうに理解していたのか…と)

そこから、作者のプロフィールや部分部分のエピソード、歴史的な位置づけなどを理解しながら、気になるところを中心に見ていきます。気になる作品解説を見ながら回るパターン。さらに気になる部分を図録で確認したり。ライティングに注目したり、展示ブースの構成を見たり・・・・ そして、最後に音声ガイドを聞きながら、展示順に総仕上げのように聞きます。自分が感じたことと答え合わせ(?)をしつつ、ガイドだけに収録されたエピソードを拾いながら。何度も視点を変えて回って見ていると飽きません。そのため、一日、美術館にいることも多くなります。

 

デュシャンの便器を見てまず思ったことは「トイレの構造や機能はこれで大丈夫なんだろうか」でした。その矛盾の裏に、便器がひっくりかえっていたというオチがあったわけです。

美術作品を見てもまず目がいってしまうのは、原理や構造、それが理屈にあっているかどうか。ここの部分に齟齬がないかどうかを確認してから、美術品として鑑賞しているということが、今回の見る前に考えたことでよくわかりました。

自分の物の見方というのは、なかなか変えることができないようです。自由にいろいろな方向から見るという習慣はあるつもりなのですが、自分の中にある固定観念に、知らず知らずのうちに縛られているようです。

 

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■マルセル・デュシャンと日本美術:「見るんじゃない 考えるんだ」の足跡

■マルセル・デュシャンと日本美術:3回目の鑑賞で考えたこと、感じたこと、知りたくなったことなど(備忘録)

■マルセル・デュシャンと日本美術:賛否両論の第2部 日本美術とデュシャン(備忘録)

■マルセル・デュシャンと日本美術:覚書メモ 

 

 

■脚注

*1:【追記】2018.11.21  デュシャンにとってのアート 私にとってのアート

デュシャンにとっては、これがアートだったんだな・・・・という受け止め方でした。じゃあ、私にとってこれはアートととらえられるのかというと、他の便器と形が違うし、あえて三角にしたあたりは、アートのようにも思える。でも私はこの時代の便器が、どんな形をしていたのか全く知りません。まずはそれを確認してからじゃないとなんとも言えない・・・・ 

デュシャンがアートだと思ったからって、私がアートと思うかどうかは別の話。決めるのは私。今思うとそんなことを考えていました。だから、その当時の便器がどんなものなのか、便器の歴史散策が始まり、製品としての仕上がりを確認したくなったのでした。

 

*2:追記】2018.11.19   トイレの年表

・江戸までは汲み取り式で肥料に利用 
・腰かけは明治に入ってから制作
・水洗便器は輸入

 

*3:【追記】2018.11.19   日本のトイレの歴史

水まわりの変遷|展示のご案内|TOTOミュージアム | TOTO

 

*4:【追記】2018.11.19   古便器の変遷

昔は木箱。(大正天皇御用邸、田母沢本館で見た記憶が・・・・)客用に陶器の便器、

*5:【追記】2021.04.27   今も手づくりのやきもの

www.tbsradio.jp

 

*6:【追記】2018.11.19 横から見た写真追加 

横から見たアングル写真を再撮に行った(2018.11.19)

このアングルの写真、絶対に撮影してきたはず。なのに探してもみつかりません。どうしても、このアングル写真は記録しておきたいと思ったので2018.11.18再訪。(他にも目的はあったので)そして追加しようとしたら、またまた、撮影した写真がみつかりません。どういうこと? 

それは、撮影写真をアイコン表示で探していたため、小さくて背景のデュシャンの写真に作品が同化してしまったため、存在が認識できなくなっていたからだとわかりました。写真の画像を読み取る目と、実物を見る視覚は異なります。展示では、作品に焦点がいき背景は目に入っていなかったのです。しかし写真になると、全てが平面となり均一になってしまうため、見えないという錯覚を起こしていたことがわかりました。

 

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2回目の撮影(2018.10.28)ばっちり左右対称に撮影してる! 

 

それがアイコンになるとこうなっちゃう・・・ 完全にデュシャンの一部・・・・ デュシャンの写真を撮ったようにしか見えない。

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《自転車の車輪》作品が消えてしまった!

 

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斜めの角度からは撮影しているのに、真横写真を見つけられない