コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■ジョルジュブラック展:ジョルジュブラックとピカソの年譜

汐留ミュージアムで行われているジョルジュ・ブラック展」で、山田五郎さんの[「アートトーク」が行われました。「ジョルジュ・ブラックとは?」というお話をしていただき、ピカソと共に語られるキュビズムについて解説がありました。伺ったことを元に年譜にしながら、アートトークのお話をご紹介。

*写真の撮影は許可をいただいております。

 

 

今回、ジョルジュ・ブラック展に興味を持ったのは、キュビズムの理解を深めたいという目的でした。ところが、展示作品は晩年の3年間の作品が主でした。

 

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晩年までの、ジョルジュ・ブラックの歩みが謎。ピカソキュビズムを通して強い関係があるらしい。セザンヌの影響を受けていた。という断片的な情報が、展示を見たり、アート鑑賞会で耳にしましたが、そのあたりは、また追々・・・とペンディング状態。

そこに、山田五郎さんの「アートトーク」があり、詳しく紹介されました。それらのお話と、展示で見たもの、ピカソとの関係なども合わせながら、年表にしました。 

アート鑑賞会で、キュビズムの概略を解説していただいていたことが、理解の大きな助けになりました。

 

 

■生まれてからパリへ

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ジョルジュブラックの生まれた時期は、印象派の全盛。また新印象派も台頭した時期。ブラックの生まれはアルジャントゥイユで、モネの住居があった場所です。そしてモネの故郷ルアーブルにも住み、印象派の空気を吸っています。

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初の油絵は18歳。モネも描いた《モンソー公園》を印象派のタッチで描いています。(写真右)

 

1900年(18歳) パリモンマルトルにブラックは、修行に出ます。この時期、パリ、モンマルトルは、マリーローラさんやピカソなどさまざまな才能にあふれていました。(この現象は、あちこちで見られる現象です。漫画の世界でいうとトキワ荘、音楽では博多の昭和。幕末は、日本でも世界でも様々な才能がひしめいています)

 

ブラックは父が塗装業祖父がゴッポのような絵を描く画家だったことが、のちのちの作品に大きな影響を与えます。父の友人の装飾家に弟子入りし、塗る技術に磨きをかけます。(大理石、木目のように塗ったり、ザラザラにしたり、厚く塗ったり)

 

 

■兵役からキュビズム時代

日本におけるジョルジュブラックは、キュビズムピカソと共に語られることが多く、混同されやすいといいます。ピカソの影響を受けたジョルジュブラックと認識されていますが、影響を受けたのではなく共同制作者という位置づけでした。

「ザイルで結ばれた登山パーティー」ピカソは語っています。2人一組で様々な実験をしていました。実はピカソよりもキュビズムにおいては重要ともいわれ、ブラックなくして現代美術はないともいえるとのこと。 

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●1904年(22)ピカソと意気投合したブラックは「洗濯舟」と呼ばれるはしけ洗濯舟のように床がべこべこのアパートでともに暮らし、文科系サークルのノリで、ボクサーなどのコスプレ写真を撮影していたといいます。楽しい時間を過ごしている様子が伝わってきました。 

●1905年(23):サロンドートンヌに出品されたマティスの作品、野獣派といわれるフォービズムに影響を受けます。 

●1907年(25)セザンヌの大回顧展に触発。すべて〇△̻̻□で表現する複数の視点、斜めストロークの構築的タッチに、ピカソとともに魅了されます。ピカソはアビニオンの娘たちを制作。一般的にはこれをキュビズムの始まりといわれますが、実際には、ブラックが描いた作品をキュビズムの始まり。『ジル・ブラス』紙上で批評家が「ブラックは一切を立方体(キューブ)に還元する」と書いたことが発端。

●1908年(26) キュビズム絵画の制作 マティスのフォービズム、セザンヌの大回顧展を見た2年の間に、キュビズムに到達。 

セザンヌゆかりのエスタック地方に旅し、セザンヌキュビスム」の風景画を描く。《エスタックの家》をはじめとする7点のを描きサロンドートンヌに持ち込むが5点拒否。

 

●1909年(27) 分析的キュビズム 絵に文字を描く際にステンシルを使用。(稼業の塗装業の影響)砂や埃などまぜて手触りのある作品 ピカソと共同でキュビズム制作。この時期の作品はどちらがどちらの絵か判別が不能。サインも入れていない。

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《楽器のある生物》(1927年)(45) 手に取れる楽器をモチーフ 砂などを混ぜてザラザラに(こちらは分析的キュビズムの時代より下がります)

 

●1912年(30) 総合的キュビズム コラージュ作品を制作。これもまた、ピカソのが西洋絵画史上、初のコラージュを制作といわれてしまいますが、ブラックとの共同作業によるもの。ブラックの家業、塗装業で培った技術がここでも大きく影響を及ぼしています。描くのではなく貼る。木目プリントを張るなどの手法に現れます。

 

絵画の力強い物質的な表現手触りのある芸術触れる絵物質としての絵。絵を物質にしたいという欲求が強く現れました。質量のある絵、ブラックのモノとしての物質感の追求は、ピカソにはないものでした。ピカソは人物を多く描いたのに対し、ブラックは手が届く触覚で認識するしか描かない。絵に物質的なものを持たせたいと考えていました。

 

1914年(32) 出兵 ピカソとのキュビズム終了 

 

 

■舞台美術 ギリシア神話のモチーフ 新古典主義

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ギリシア神話などのモチーフが登場します。

 

1920~30年代:古典主義、古代のブームとともに、アールデコの影響も受けます。

 

 

 

■晩年のメタモルフォーシス

ジュエリー制作、アトリエの大作、ルーブル美術館の天井画などを作成しながら晩年のメタモルフォーシスへ。

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●1955~57年 (73 -75)   ステンドグラス制作   

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ステンドグラス作品 ジュマイユ   

 

●1961~63年(79~81)メタモルフォーシス

 亡くなるまでの3年の間に、平面から指輪、ジュエリー、彫刻、タペストリーなどの室内装飾作品など多数、つくりだしました。

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タピストリー      ガラス

 

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 【平面】

 

 

【付記】セザンヌの影響

印象派が色彩の原理を再構成したのと同様、セザンヌ色形をどう写すかを考え、自由に構成すればよいという考え方を打ち立てました。自然をそのまま描くのではなく形を作って、自然を〇△□の形で再構築する。

その裏に、セザンヌの絵の下手さがあったといいます。うまく形をとらえることができないため、単純な形の組み合わせで描くしかなかった。最初は注目されていませんでしたが、セザンヌ回顧展で注目され、ブラックやピカソに影響を与えます。

 

印象派と袖を分けた、スーラやシニャックによる新しい点描の「新印象派」も台頭します。

自然の色彩を三原色に分解し再構成します。これによって印象派を終わらせたといわれています。自然の色を自然のまま表現する印象派とは分裂。印象派の筆触分割と点描は異なり、点描はより科学的でマンセルの色相環などを用いました。

 

色彩を三原色に分解したのが、スーラ。セザンヌは形を〇△□に分解したのでした。 

 

 

■ブラックがもたらした影響

ブラックとピカソがともに作り上げた「パピエコエ」 コラージュ作品に使われたものは、新聞などレディメードのもの。木の木目ならわざわざ描く必要はなく、シートを張ってしまえばいいという考え方。文字はステンシルを利用。これらは、家業が塗装業であったことが強く影響しています。

 

これはのちの、デュシャンの便器作品や、ウォホールのキャンベル缶など、工業製品をそのまま使って作品にするという流れにつながります。そして偶然に出来上がるものが、深層心理を表しているというシュルレアリズムへとつながっていきました。

 

これまではピカソの影武者のような存在だったらしいジョルジュブラックですが、冒頭で語られた「ブラックなくして現代美術なし」という意味が、その後の美術の流れを追うと見えてきました。

 

 

■感想 まとめ

アーティストの作品は、必ずと言っていいほど、育った環境が大きく影響していることを感じさせられます。それが原点といわれるもので、ジョルジュブラックは父の家業が大きな影響を与えていました。後々の作品作りにも、いろいろな形で変換されていきます。

また幼き頃は、印象派の空気も吸いながらも、その時代が移り変わっていく流れも感じながら、フォービズム、そしてセザンヌキュビズム的な考え方を短期間のうちに体験し、新たな世界感をピカソと共に打ち出します。

その時、ともに模索したピカソの存在もブラックの原点の一つだったのだと思われます。そして、いろいろな作風を試し、新たなものにチャレンジしながらも、その奥には原点となる潮流は流れており、いつかまた原点に戻ってくる。それがアーティスト活動のように感じさせられています。

 

いつの時代も才能が、ふきだまるように集結しています。制作活動は、プロデューサー的であったり、自身の制作に徹したり。日本の本阿弥光悦を頭に思い描いていました。

自身の才能もさることながら、プロデューサー的役割を担い、多くの作品を送りだしています。その背景には、家業が刀剣の鑑定を行っていたことが、あらゆる工芸の理解と職人との交流があり、目利きへとつながっていきました。

ブラックの作品も、家業の「塗装業」で得た様々な技術や、それを持っている人たちのとの出会い。その力をプロデュースする自らの力と、それを託せる人との出会いによって、晩年の3年間、疾走するように作品を残していったのだと思いました。

 

ブラックにあってピカソにないもの。

 

山田五郎さんは、2人を次のように語りました。

ピカソは、スペイン人 ガツガツして攻めるタイプ
ブラックは、フランス人 洒落気があり、職人気質もあり調和の人。さりげない

国民性と、個々の個性。マクドナルドを立ち上げた創始者とそれを広げた人。ソニーも技術者と経営者は違いました。

それぞれに、得て不得手があって、なぜブラックはピカソに比べて有名ではないのか・・・・ということを、ずっと考えていました。

多くの鑑賞者は結局、ある一定の評価をされたものにしか価値を見出すことができないということではないのか。有名、メジャーになるためには、権威のお墨付きが必要。大勢にのっかること。日本で無名だけども、海外で有名とう画家は、多くがこれだということが見えてきました。我々は、自分で価値で評価する目がまだ育っていない・・・

そしてアート鑑賞会では、芸術のヒエラルキーもあったのでは? という指摘がありました。芸術のジャンルにおけるヒエラルキー。当時、工芸は下に見られていました。所詮は工芸品。そんな工芸の世界に、最後飛び込んだ変わり者。そんな見方もあったのではと・・・・? ガレは工芸のポジションを上げようと頑張っていましたが、まだまだ工芸品の位置づけは低かったようです。

 

それに加えて、性格的なものもあったのかもと思われました。ピカソのようにガツガツしていなかったから(笑)

 

制作に没頭することに価値を見る人。それを広げて世間に認められたい人。科学の研究者は前者のタイプが多いと言われてきました。世間に認められ、それを広めて使われることよりも、自分の興味に没頭していることに価値を見ている人が多いと。最近は時代の流れもありかわりつつあるようですが。

 

ブラックは名プロデューサーだった。しかし、フランス人気質で、それを押し売りするようなガツガツした押しが弱かったから、ピカソの影に隠れてしまったのかな?(笑)

 

 

■参考

5/25 ジョルジュ・ブラック展&山田五郎氏アートトーク@パナソニック汐留ミュージアム | mixiユーザー(id:2083345)の日記

ジョルジュ・ブラックとR.シュトラウス、2人のメタモルフォーシス | 大人の自由時間〜優美に心地よく

ジョルジュ・ブラック展@パナソニック 汐留ミュージアム 感想 | MCs Art Diary

ジョルジュ・ブラック展 | 大松彰 宝石王子® official blog

 

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■ジョルジュブラック展:ジョルジュブラックとピカソの年譜

■ジョルジュ・ブラック展:メタモルフォーシスとは?